あの時と同じように、掌の傷が疼く。
左手の聖痕のように残る傷を起点にして、腕から脊髄まで凍てついた電気が走るような感覚。
それはどんなに離れていても繋がっている欠けた心が知らせるメッセージでありアラームでもある。
そしてそれは光や電波といったどんな媒体よりも早く伝わってくる。
否、もはや空間的な距離など関係ないのかもしれない。
互いの欠けた心はいつも、互いの欠けた心に密着して存在しているのだから。
「……カヲル？」
身体の中を走った感覚に手を止めたアスカがその名前を呟いて数瞬、テーブルに置いていた携帯端末が振動した。
それは夜のコンビニに買い物に出掛けたカヲルを待っている時だった。
夕飯を食べ終わって間もなく、アスカは無性にそのコンビニのスイーツが食べたくなった。
比較的近くにあるコンビニチェーンは独自のブランドスイーツを作っていてなかなか美味しく、最近アスカの中でブームになっている。
家のお菓子の備蓄の中に他に適当なものがなかったわけではない。
けれど、どうしても食べたくなったと言ってカヲルに買いに行ってもらったのだ。
ついでに心許なくなっていた牛乳も一本お願いと付け加えて。
快く了承したカヲルを送り出してから代わりに夕食の後片付けを済ませ、お茶の準備を整えて待っていた。
でも、それなりの時間が過ぎたはずなのにカヲルが戻ってこない。
何やってんのかしら、半ば苛立ち、半ば心配になりかけたところであの感覚が走り、そして携帯が震えたのだった。
携帯を手に取る。
届いたメールはまさに待ち人のものだった。
そして開いた文面を見てアスカは一瞬ですべてを理解し立ち上がった。
『いま行くから、待ってなさい』
すぐに短く返信すると、携帯を片手に玄関へと走る。
サンダルを履き、外へ出る。
扉を開けてすぐに目に入るのは、いつも見るのと同じような夜景。
人類の存亡をかけた戦争の終結、それを世界に知らしめる衝撃が駆け抜けた日から約十年。
急速な復興と発展を続ける眼下の街は夜でも明かりが途絶えることはない。
人が生きている証を、その命を輝かせている証を、街は抱いている。
それは儚くとも力強く、美しいとさえ感じる。
子供だった自分たちが、多くの人の支えのもとに繋ぎ止め、勝ち取ったものでもある。
そして、今では当たり前になった夜景。
それが普通であるという安心感、それがずっと続くだろうという安穏。
でもそれは、アスカとカヲルにとって忘れられないあの日の前日だってそうだったし、あの日の翌日だってそうだった。
同じというものが数瞬先を保証したりはしない。
使徒戦争が終結して激動の事後処理を経て、これでようやく安定に向かうだろう、そう思っていた時も、あっさりと打ち砕かれた。
安穏の影には剣呑が潜んでいるもの。
世界の終焉なんていうものはどこにでも転がっている。
でもそれは―――
「それはあたしとカヲルにとって大切な時でもある」
街が生きる綺麗な光、何もない夜であれば惹き付けられのんびり眺めもするだろう。
でも、今は微かな縫い針程度に過ぎないそれを引き剥がして、アスカはエレベーターへと足を速めた。
そして頭の片隅で、あの日のことを思い出していた。
世界が滅びかけた、アスカとカヲルの思い出の日の出来事を。
幻の侵攻と呼ばれることになるあの日の出来事を。
ワールドエンドはエントランスの片隅で 第一部 aba-m.a-kkv
「まいったな、こんなタイミングで圏外とはね」
携帯端末が耳に伝える無機質な音声を聞きながら、渚カヲルは大して焦るでも無いような声音で呟いた。
それは電車が十分遅れだけれど、約束の時間まで二時間も余裕があるというような口調だった。
携帯を閉じ、それを手に持ったままカヲルは息をつく。
真夏の熱をとりこんだ風が銀色の髪を揺らす。
本来この場所は通信圏外というわけではない。
山岳地帯の谷間であればこの時世でも圏外ということはあるだろうが、ここは世界でも有数の先端都市の只中だ。
実際、カヲルの傍を行き交うNERVの関係者の中には携帯で連絡を取っている人も多い。
そしてカヲルの携帯が何か不具合を起こしているわけでもない。
にもかかわらず、自動音声が圏外を告げるのは異常なことだった。
カヲルはいまNERV本部に向かうための地上駅の改札口に立っていた。
使徒戦争が終結し、サードインパクトや人類補完計画に関する調査が一段落すると、NERVは最優先課題とされた世界復興計画の中心を担う機関として再始動することになった。
最初は第三新東京市などの主要拠点から始まった計画は、どんどん世界に広がっていき、それにともなってNERVの活動も広範囲かつ多忙になっていく。
ゆえに週末のこの日も多くの人間が本部と地上を行き来していた。
カヲルを含めた仕組まれた子供たちは戦後復学し、平日は学業に専念しているが、週末はNERVに関係する事案が入らなければフリーになる。
この週末はカヲルも本当はアスカと出かける予定で、第三新東京駅で待ち合わせて郊外の大型商業施設に遊びに行くつもりだった。
でも、いまカヲルは本部に向かう駅にいる。
「今日のデートは僕も楽しみにしていたんだけど……」
そうため息のように言葉を零しながら、改札のゲートにセキュリティーカードを触れさせた。
今まさに到着して折り返そうとするリニアレールに乗り込む。
いくつかのアナウンスを経て、ベルと共に扉が圧搾音を立てて閉まると、カヲルは扉の傍の手すりに背を預けながら外の景色を眺める。
徐々にスピードを上げていくリニアレールはやがて狭いトンネルを抜け、ジオフロントの広大な空間に飛び出した。
終戦から二年近い時を経てはいるが、いまだ本部は再建の途中で、N2爆雷によってこじ開けられた天蓋部は塞がれて久しいけれど、建設機械が天井に張り巡らされている光景は続いている。
夕焼けや星空さえ映し出した以前の疑似的な空が復活するにはまだ長い時間がかかりそうだった。
終着駅に近づいてくると、本部の独特な四角錐の建物が見えてくる。
メインシャフトを覆い隠し封印するこの建物も、その役割自体を果たすには十分だが、いまだ修繕半ばといったところだった。
それでも確実に再建は進んでいる。
本部の再建が進んでいるということは、世界の復興も同じように進んでいる証左でもあった。
それは新たな世界と命を繋いだ人類が、自らの足で歩きだそうとする意思の表れでもある。
そんな目に見える形をその赤い瞳に映して、カヲルは複雑な表情を浮かべた。
やがてリニアレールは本部の終着駅にたどり着く。
改札を抜け、出入管理を行うターミナルへと足を向ける。
そこで、馴染みの係官にカヲルは自分のセキュリティーカードを渡した。
「やあ、渚君、今日は特に予定のないフリーな日じゃなかったっけ？」
「ええ、そうなんですが、急遽行かなくてはならなくなりましてね」
「なんだ、折角の休日なんだから、例の彼女とデートにでも行けばいいのに」
「若いのに元チルドレンは大変だなあ」と労ってくれる係官に、カヲルは苦笑いを向けた。
補完計画が消滅し、エヴァも使徒も消失した現在、カヲルは元エヴァンゲリオンパイロットとしての立場に復帰し、上級職員扱いのセキュリティーカードが発行されていた。
人とは違う構成体なれども使徒としての力は失って久しいし、エヴァが無くなったとはいえシンクロ技術の開発などでいまだ実験に参画することも多い。
またSEELEの内情に少なからず知識があるカヲルは上層部の会議に参加を求められることもあった。
ゆえにカヲルは特段、入場の理由を明示しなくても本部内を行き来することが出来ていたし、元来の社交性もあって本部職員と親しくなっていたので信頼も厚かった。
その信頼を踏みにじることになるかと思うと、カヲルの内側はじくじくと疼く。
でも、それを顔に出すことなく、いつも通りのアルカイックスマイルを張り付けた。
「本部の用事なんて早めに片づけて遊びに行ってきな。
本来渚君の年齢の子は楽しんで然るべきなんだからさ」
「ありがとうございます、信濃さん。
そうですね、次の機会にはそうしたいものです」
認証を終えてセキュリティーカードを返される。
笑顔で手を振る係官の姿に、カヲルは軽く会釈してゲートを越える。
が、ふと思い出したように振り返った。
「そうだ、信濃さん、もう少ししたらアスカが来ると思うんですけど、出来たらこれ、渡しておいてくれませんか？
ちょっとした備品なんですが、今日僕はもう渡す機会がないもので」
すこし申し訳なさそうに言ったカヲルの言葉に、係官は快くOKサインを出した。
カヲルはポケットに入れていた飾り気のない小さな箱を係官に渡す。
係官はそれを受け取ると笑顔を作って見送ってくれた。
その後の道の途中も幾人もの職員たちとすれ違う。
中には知っている顔もいて互いに挨拶を交わしたりした。
みな忙しそうで疲労の色を覗かせているものもいるが、一様にその表情は明るい。
カヲルに向けられる挨拶も友好的なものばかり。
以前のような閉塞感や絶望感の色はない。
サードインパクトを経て、人は再び自分の存在を意識し、他者の存在との間に壁を置き、そこに幾らかの恐怖は残っている。
けれど、行き詰まりを感じていたサードインパクト前に比べて、人は群体としても他者をほんの少し思いやれるように変化した。
それが復興の原動力の一端になっているのは間違いないだろう。
そして、使徒の脅威に由来する人類の存亡という天秤に掛けられていた不安定さからの解放も、すべての人の心に余裕と希望をもたらしている。
それを表す人々の中にあって、今のカヲルは異質だった。
とはいえ、その安穏が続くことを願っているのはカヲルも同じ。
だからこそ今、あの場所に足を向けている。
ターミナルドグマに繋がる、メインシャフトの入口へと。
※※※
日陰の中にいても汗が流れるのを止められない気温の中、腕時計の針を確認したのは何度目だろう。
待ち合わせの第三新東京駅の改札口についたのは約束の時間の五分前。
いまでは約束の時間を通り過ぎて十分が経過している。
携帯端末の電波時計も確認したが腕時計の時間と寸分の狂いもない。
着信を知らせる通知もメールの受信を知らせる通知もない。
後ろのほうで逐次響いている構内アナウンスでも電車の遅延や運休などの情報を知らせてはいない。
「あのバカ、このあたしを待たせるなんてなにやってんのよ！」
アスカはいらいらしていた。
いくら平和になって自由な時間が圧倒的に増えたとはいえ、いまだNERVに所属している身としては二人が揃って一日フリーになるのは貴重なのだ。
だから自分でも浮かれているなと自覚するほど、今日のカヲルとのデートは楽しみにしていた。
おそらくカヲルも楽しみにしてくれていたはず、彼の表情を見たときに確信したそれはけっして自惚れだけではないはずだ。
でも、カヲルは待ち合わせ場所に来ていない。
それは珍しいを通り越して天変地異が起こるんじゃないかと思うくらい、カヲルはアスカとの約束に対して誠実だった。
待ち合わせをするときにはかなり前もって訪れていたし、なにか予定変更があった時には十分前もって知らせてくれていた。
だから約束の時間に遅れて、しかも何の連絡もないなんていうことは初めてだった。
しかも、電話をかけても繋がらないし、メールに対する返信もない。
いまのアスカのイライラの半分以上はカヲルの身を案ずるものから来ていた。
残りの部分はデートのプランを予定通り楽しめなくなってしまうことからくる苛立ちだったが、正直にいうとアスカにとってその部分はあまり重要ではない。
今日は一日時間が空いているから、いつもは行けないところまで足を延ばせると思い計画したが、突き詰めてみればアスカはカヲルと一緒に過ごせればなんでもよかったのだ。
いまだそれをカヲルに伝えるのは気恥ずかしいけれど。
「ああ、もう！ 待つのはやめた！
あいつのとこに迎えに行ってやる！」
ついに痺れを切らしたアスカは、家まで迎えに行くとカヲルにメールを打ち、それから踵を返す。
計画変更だ、高いスイーツを奢らせて、話題の映画をレンタルして、カヲルの部屋で一緒に鑑賞しながら思いっきり甘えよう、そう思った刹那。
駅の周辺に群れていた鳥たちが一斉に羽ばたき、風が止み、音が消えた。
そして掌の傷から脊髄まで、凍るような感触に襲われた。
※※※
銀色の髪が下から吹き上げる風になびく。
宝石のような赤い瞳は巨大でどこまでも真っ暗な奈落の底を見つめていた。
NERV本部の内部からずっと下まで続くメインシャフト。
対岸まで人の声が届くだろうかと感じさせるほど巨大で、エヴァを内包してもさらに余りある空間。
シャフトにはフロアごとに横断橋が架けられ、認識灯が明滅を繰り返す。
その光が最奥へと誘っているようにも見えた。
底の見えない深い深い闇の先には、これから向かうべき黒き月の中心部がある。
ここは最上部。
メインシャフトの周囲に設けられたフロアデッキの頑丈な欄干にカヲルは寄りかかる。
このエリアに人影はない。
業務エリアからは離れた場所に位置するし、戦争の最後まで形を保っていたメインシャフトの修繕は再建初期に完了しているから今では訪れる人は稀だ。
下からの空気の流動は、最下層にいまだ澱んでいるかつての主の雰囲気を微かに伝え、自分の中の蠢動が強くなるのを感じる。
自分の根幹に由来するものではないが、それと対になるものの残り香は、いまは叶うはずのない四番目の扉を開こうとする内面の願望を増大させた。
でも、それはカヲルにとっては滑稽であり、憐憫を覚えるものでもある。
カヲルにとっての希望、願望とは相いれないが、それでも責任を果たさなければならない。
それがかつて最初の使徒の欠片であり、最後の使徒であり、使徒でありながら新世紀に存在することを願ったカヲルの宿命なのだ。
それと共に、今まで関わってきた人たちの顔が頭によぎる。
自分を迎え入れてくれた大人たち。
強い願いのもとに新世紀をこじ開け、いま必死に生き、希望を抱いている彼らを、どう控えめに見積もっても危機に晒してしまうだろう。
自分の努力が実を結ばなければなおさらだ。
彼らの信頼に、彼らの好意に、延ばされた掌に刃を握らせるのと同じようなことをしようとしている。
それがカヲルの意思とは無関係に進むものだったとしても、カヲルが実行することに変わりはないのだ。
それに、さらに近しい者たち、自分を気遣ってくれている大人たちや、戦友であり同じ仕組まれた子供であるシンジとレイには大きな心痛をもたらすことになるだろう。
彼らは優しく、自分のような存在でさえ心配してくれる。
それを思うのが辛かった。
でも、それ以上に一番気がかりだったのは、残してきた心の欠片の半分だった。
亜麻色の髪を輝かせ、太陽のように命を輝かせている愛しい存在。
「彼女にだけは少しでも伝えておきたかったんだけど、まあ仕方がないね……。
要望と一緒に言付けも頼むことにしよう。
でも、怒るだろうな……」
募る悲壮感をほとんど感じさせない軽いため息と共に、カヲルは欄干に少しの力を込めた。
鋼鉄製の欄干が、まるで熱せられた水飴のように変形していき、メインシャフトの空間とフロアデッキとを一続きにする。
それからカヲルは歩を進める。
透明な廊下の上を歩くように、メインシャフトの何もない空間の上を歩いていく。
そして巨大な孔の中心まで来て足を止めた。
「努力はしてみるけれど、世界が滅びる前に、あるいは僕が滅びる前に、もう一度彼女の笑顔が見たかったな……」
閉じた瞼の裏側に、彼女の自信に満ちた顔、笑った顔、頬を染めた顔が浮かんでくる。
それをできるだけ焼き付けるようにしてから、カヲルは瞼を開いた。
赤い瞳が輝きを増す。
「さて、抗ってみようか、世界を滅ぼそうとする自らの青い血に」
心を砕こうと膨れ上がる青い血を縛っていた意志の鎖を緩める。
否、もはや緩めざるを得ないほどそれは急速にカヲルの中で大きくなっていた。
赤い、赤い光がカヲルを包み、広がっていく。
そして、その背から強く発光する六対の赤い光の翅が伸びていく。
更に一対の翅が延び、それはカヲルの背を離れて頭上に流れると回転をはじめて癒着し、天使の光輪を象作った。
そして絶対領域が他のすべてを圧倒して空間に押し広がった。
警報が、鳴り響く。
※※※
葛城ミサトが自分の執務室で本部内に響き渡る警報を耳にしたとき、自分でも笑ってしまうような話だが、まずよぎったのは疑問だった。
なぜ警報が鳴るのか？そんな疑問。
重大な事故、あるいは誤報か、昨今の情勢からは考えにくいがテロ攻撃か。
使徒戦争の真っただ中に身を置いていた時には、日常と切り離せないほど身近な存在だったMAGIからの警報も、それから二年のあいだ発せられたことはない。
ミサトだけではない、NERVに所属する誰もが、二度とあの警報音が本部を満たすことはないと、ある意味楽観的な希望を抱いていたことは否めない。
世界の方向性、NERVという組織の存在目的の方向性の転換もそれを後押ししていた。
いまのNERVは戦闘能力を持たず、軍事組織でも無くなっている。
ミサトはいまだ軍の階級を肩に負う身ではあるが、この二年は復興計画のために奔走していた。
それはそれで大変な仕事だったが、全身の血液を沸騰させるような、それでいて精神を氷のように冷却させるような戦争に身を置く感覚を覚えることは無くなっている。
だから警報の原因になり得るものが刹那に頭の中に書き上げられていく中でも、今回の原因たるものに辿り着かなかった。
ミサトはシナリオの深くに触れた数少ない人間の一人だ。
エヴァが消失し、アダムもリリスも崩壊し、ロンギヌスの槍も枯れ、使徒もすべて殲滅した。
サードインパクトの発生でシナリオもそれに関わるものも全て存在意義を失った。
ミサトはそれを知っている。
想定外のことはいつでも起こり得るが、ミサトが今回の正解を予測できなかったのは無理のないことかもしれない。
それでも、培ってきた非常事態への反応速度は衰えることなく、警報が鳴った瞬間には第一発令所へと駆け出していた。
第一発令所までの最短ルートの途中ですれ違う職員はみな一様に困惑と不安の色を覗かせている。
誰もが、あの極限状態への回帰など想像の範囲外だった。
一度溶け合い、再び形作られた人間すべてが、扉を越えたという感覚を共有しているからかもしれない。
赤色灯が回転する通路を駆けるミサトのポケットの中で通信端末が震える。
MAGIから送信される警報の詳細第一報。
液晶画面を見た瞬間、ミサトは総毛立った。
「どうなっているの！？」
発令所に駆け込んだミサトが叫ぶ、が、メインスクリーンに映し出されている光景を見て言葉を失った。
それはミサトだけではない。
一足早く着いたリツコやマヤ、オペレーターとして常勤していた青葉シゲルや日向マコトも同様だった。
「……嘘、でしょ」
メインスクリーンには警報にともなって緊急閉鎖されたメインシャフトの第一装甲隔壁をスポンジでも切り裂くように突き破る巨大な赤い球体が、そしてその中央には見知った少年、渚カヲルの姿が映っていた。
それはまるであの時の事を彷彿とさせる、最後の使徒の襲来を。
隣に従えるしもべはいない。
だが、小さいながらも六対の光の翼を持ち、光輪を戴く姿、そしてあの時よりも目で見てさえ分かる強力な絶対領域は、背筋を凍らせるに十分だ。
サブスクリーンにはミサトが通信端末で受け取ったのと同じ、MAGIによる解析結果が映し出されていた。
『パターン青、使徒と確認』
二年の時を経ての使徒の本部侵攻だった。
「なぜ、彼が！？ そもそもどうして！？」
ミサトが絞り出すようにつぶやく。
ミサトは渚カヲルを身近で見ている人間の一人だった。
チルドレンの保護者としてシンジやアスカと共に生活していたミサトはその延長線上でカヲルと関わる機会が多かった。
それに、ミサトは使徒を憎んでいた、父を奪い、世界を滅茶苦茶にした存在として。
だからカヲルが第十七使徒タブリスとしては殲滅され、フィフスチルドレンとして復帰してからも監視を怠ることはなかった。
いくら使徒ではないと数値上判断されたからといって、今まで使徒であり、構成体として人とは異なる存在なのは変わらない。
人と同じように殺せるかは不明だったが、いつでも排除できるように備えをしていた。
でも、カヲルと接するうちにその考えはどんどん薄れていく。
カヲルの紳士的で社交性に富んだ振る舞い。
誰にでも親切で、気遣いを示し、本部内でも何かできることがあれば進んで手伝うところを見てきた。
ミサトも雑用を手伝ってもらったことは一度や二度ではない。
その時に交わした会話も、カヲルの人として生きていきたいという願いが真摯なものであること感じさせていた。
最たるものはアスカとの関係だ。
実の妹のように思えるアスカを支え、恋愛感情を表すカヲルの姿をずっと見てきて、もはや元使徒などと見ることは出来なくなっていた。
彼女と一緒にいる時のカヲルは、恋する一人の男の子であり、その姿に偽りは感じられなかった。
それゆえに、今の目の前の状況は信じがたいものだった。
そして、同じように接し、接せられてきたここにいるメンバーも同じ心情だった。
それに、そもそも今使徒が発現する理由が不明だ。
シナリオが全ての意味を失ってしまった今、なんの目的があるのだろうか。
アダムもリリスも存在していないし、南極の白き月は消滅し、本部にある黒き月も役割を終えていまはただの抜け殻に過ぎない。
本部に侵攻し、黒き月に降り立ったからといって次のインパクトを引き起こすには材料が圧倒的に足りていない。
わからないことばかりだった。
シナリオがない今、知るのはスクリーンの向こう側の禍々しい光を纏った天使だけ。
「彼の通信端末呼び出して！
他のあらゆる連絡手段も接続を試みて」
ミサトが気持ちを切り替え、指示を出す
リツコも後に続いた。
「マヤ、降下速度からターミナルドグマまでの到達予測時間を割り出して。
それからA.T.フィールドの拒絶強度を計測して過去の使徒のデータと比較を。
特に第十七使徒のものとね。
このA.T.フィールド、肉眼で見ても恐ろしく強力ね、まるで物理的な障壁のようだわ」
リツコが言うように、カヲルがいま纏っているA.T.フィールドは今までのものよりもずっと異質だった。
十四番目、十七番目の使徒の時のA.T.フィールドも想像を超える強力なものだったが、いま目の前で光をたたえるそれは感覚的に格の違いを感じさせる。
使徒襲来の警報と共に緊急閉鎖されていた第二装甲隔壁が今まさに濡れた薄紙のように突き破られていく。
MAGIからの追加解析の結果を知らせるアラームが鳴り、「目標は」と言いかけてマヤが逡巡する。
「構わない、規定通りに」とミサトが促すと、マヤは沈痛な面持ちで報告を続けた。
「目標は、毎秒2.2mで降下中、ターミナルドグマまでの到達予想時間残り2500秒です！
A.T.フィールドの解析結果出ました。
第十七使徒のものに近似していますが完全には一致しません。
新しいタイプのものです」
「目標内部に高エネルギー反応！ S2機関です、なおもエネルギー増大していきます！」
「目標より微弱電波を確認！ 増幅して音声に変換します」
「メインスピーカーに繋いで！」
「切り替えます」との青葉の報告と共に、メインスピーカーが雑音の奥の声を繋ぎはじめる。
皆が固唾を飲んでカヲルの声を待った。
『……し。……しもし。もしもし渚です』
「渚君！？ 聞こえる！？」
『ああ、その声は葛城さんですか、よかった、繋がりましたね』
意思の疎通が取れるかどうかもわからない不安が発令所を包んでいただけに、カヲルの第一声は少しの安堵をもたらす。
しかも、カヲルの声質はどこかのんびりとした普段の彼そのもので、もしこんな状況でなければ、たまたま出合わせたタイミングからの世間話を始めるような雰囲気だった。
安穏と剣呑が入り混じる。
冗談だというなら、いまならちょっとしたお小言くらいでおさめてあげる、そう言ってしまいたいほどだが、カヲルが続けた言葉はそれを許してくれなかった。
「これはいったいどういうことなの！？」
『まずは皆さんに謝っておかなければなりませんね。
今回のことは、半分は僕の意志であり、半分はそうじゃない。
時間があまりないので一方的な話になります。
何が起きたかというと、僕の中の本来の使徒として残っていた青い血が、渚カヲル・タブリスの、というよりアダムの後継の総体と呼んだほうがいいかもしれないですが、その存在の継続に対する代価として、人の存在と地の存在を求めている。
簡単に言うなら、僕の使徒の能力が暴走しかけているということです』
それは控えめに見ても最悪の展開と呼んで差し支えないものだった。
カヲルがモニターに視線を向けた。
その赤い瞳は燃えているような雰囲気を纏い、A.T.フィールド内部には抑えきれないエネルギーが紅焔のようにほとばしっている。
『僕の中にあるアダムの後継の総体は、シナリオ上、リリスを祖とするリリンとの共存はありえません。
それはあなた方も良くご存知のとおり。
それを捻じ曲げて、人と共存することを僕は選んだ。
彼女のおかげで、ある意味で選ぶことが出来た。
ただ、これは僕も予想外だったんですが、この青い血はなかなか強くて、軋轢が顕在化してしまったわけです。
少し前から、なんだかおかしいなとは思っていたんですけどね、まさかこういう事態とは。
理解したときにはもう時間がなかったんです。
それでこう、事後の連絡になってしまいました』
舞台挨拶のように頭を垂れてカヲルが詫びる。
それは普段のカヲルらしい振る舞いでもあり、人類に終焉をもたらす魔王の風格でもあった。
ミサトとリツコは冷や汗を流しながらカヲルの言葉を聞いていた。
カヲルの説明はシナリオが終了した後でもあり得る事象だ。
数値として二年以上観測されなかったからといって、カヲルがアダム由来の使徒の構成体である以上、可能性はゼロではない。
要となる者たちが消失したから大丈夫だと思っていたが、消失してしまったからこそ暴走を引き起こしたのかもしれない。
半永久的に存続可能な使徒のスパンで考えれば、二年程度の沈黙がなんだというのだ。
それと共に自分たちが出来ることを考える。
人類の存在を脅かす使徒であるならば殲滅しなければならない。
けれど、人が使徒に対抗するための唯一の手段であるエヴァは失われて久しい。
通常兵器の総力を挙げて殲滅できた使徒もいないわけではないが、場所や時間的な制約から困難が予想されるし、これほどまでに強力なA.T.フィールドを前にしては無意味だろう。
そもそも、NERVはもはや使徒に対応する軍事組織ではないし、その権限もないのだ。
本部の自爆システムはいまだ健在だが、どこまで有効打になるかはわからない。
それに、少なくない時を共に過ごしてきたカヲルを殺すことが出来るだろうか。
簡単に切り捨てることが出来ないくらいの関係をカヲルはこれまで築いてきたのだ。
それに、ミサトの脳裏には妹のような亜麻色の髪の少女のことがよぎる。
彼女のことを考えればなおさらだった。
『さて、今の僕のA.T.フィールドは強力です。
ありとあらゆるものを拒絶して破壊するのに十分な強度になっているでしょう。
この状態が増大し続ければ、甚大な被害が、おそらくは人類の存続に影響を及ぼすことになりかねない。
現時点で僕が内包するS2機関の余剰エネルギーを開放するだけで、仙石原一帯は蒸発するでしょうね。
でも、僕は、自分自身の滅びも、人の滅びも望まない。
そこで、僕は自分の青い血を制圧したいと思っています。
そのためにこの場所を選ばせてもらいました。
血の制圧には労力と時間が掛かりますからね。
その間の、力の漏洩や空間の歪みに耐え、かつ人にとっても僕にとっても影響の最も少ない場所は黒き月以外にはない』
「渚君、あなたは私たちに敵対するわけじゃないのね？」
『もちろん。
僕はあなた方に好意を持っているし、リリンの行く末に希望を見い出していますから』
ミサトの問いにカヲルは当然のように返答する。
人の滅びを望まない、敵対の意思はカヲルにはない、その言葉に偽りは感じられなかった。
これだけの力があれば偽ることに意味はないだろう。
こちらとしてはそれを信じるしか術がないし、カヲルのことを信じたいという思いも確かだった。
カヲルの意思を知った今、ミサトは思考を使徒の侵攻という観点から、事故対応という観点へと切り替えた。
「私たちに出来ることは？」
『そうですね、無茶なお願いで、今となっては強要に近いかもしれませんが。
ターミナルドグマへの進入と、さらにはヘブンズドアを開放して黒き月への進入を許可していただきたい。
もちろん、僕が入ったらその上から封印していくこともお忘れなく。
それと出来れば、緊急閉鎖されたここから下の装甲隔壁を開放してもらえませんか？
せっかく復旧させた本部施設を壊してしまうことに罪悪感が大きいので』
カヲルの言葉はミサトを通り越す。
ミサトもカヲルが語った内容を理解して、自分のいる場所より一段高い場所へと振り返った。
皆の視線が一人の男に集まる。
NERVの総司令官である、碇ゲンドウへと。
これほどまでの決定となると、ミサトやリツコの判断で決裁出来る次元を越してしまう。
例え黒き月がその主を失い目的を消失したとしても、ヘブンズドアの開放、ましてそこに制御不能の物体を侵入させるなどという事案は各国に緊張をもたらすことになりかねない。
それに、使徒の再侵攻という現実を世界の人々が知ったらどうなるだろうか。
現在の復興への道筋は困難をともないながらも順調に進んでいる。
そこにはサードインパクトで人々が以前より互いを分かり合えるようになったという理由と共に、使徒の脅威が排され、これからの未来に安心を抱くことが出来ているというところも大きい。
そこに新しい人類存亡の脅威が発生したと知れ渡れば、世界的なパニックが広がり復興への道筋を逆戻りさせてしまいかねない。
協力体制を築くことに成功している各国との関係においても、再び利害関係を交えた権謀術数の世界に沈んでいくことになるだろう。
ゆえに、いま進行している事象は世界にとってもとてもデリケートな問題なのだ。
発令所に沈黙が走る。
片手だけを顔を前に置いて思案していたゲンドウは、ほんのひと拍だけ時を置いて重たい口を開いた。
「いいだろう、エヴァを失った我々に出来ることは少ない。
黒き月も今は空座で意義を失っている。
仮に使徒が侵入したところで、あれはただの遺構だ、問題は少ない。
ターミナルドグマおよび黒き月への、フィフスチルドレン・渚カヲルの進入を許可する。
ただし、本作戦は極秘に行う。
全館に通達されている第一種警戒態勢は解除、警報を強制的に止めろ。
各関係部局、政府、関連機関には非常事態体制移行に関する抜き打ちの訓練だと伝えろ。
現在までのオフィシャルレコードは削除、MAGIによる偽装情報発信。
セントラルドグマ、メインシャフト、ターミナルドグマ周辺部は閉鎖、本作戦終了まで立ち入りを禁止する。
中央作戦司令部のみ第一種戦闘配置を継続する」
『対応感謝します、碇司令』
ゲンドウの発令をもって館内の警報が鳴りやみ、それとともにオペレーターたちが慌ただしく動き始める。
『全館内に非常事態に対応する訓練実施を通知』
『メインシャフト装甲隔壁第三番から最終隔壁まで開放、目標の通過と同時に順次閉鎖』
『メインシャフト全横断橋の収納開始』
『セントラルドグマに繋がる全ての通路の隔壁を閉鎖』
『ヘブンズドアの封印解除シークエンス開始』
発令所の動きを耳にしたカヲルは再び静かに頭を下げる。
選択肢がないとはいえ、自分を信用して動いてくれることに。
ゲンドウがフィフスチルドレンとしてターミナルドグマへの進入を許可したことに。
寝耳に水の状態で、ほぼ強要でしかないにもかかわらず対応してくれる者たちの姿を見て、カヲルはせめて人類だけでも存続させたいという気持ちをさらに固めた。
足元ではメインシャフトの装甲隔壁が開かれていく。
カヲルを包んだ赤い球体はゆっくりとした速度でメインシャフトの降下を続けた。
そして深度を増すごとにその拒絶強度は高まってく。
通信回線の増幅も追いつかないほどに。
『ザ……ザザ……ザ……
葛城さん……もう時間がない……たいだ。
A.T.フィー……ドの拒絶……度が、通……限界を超える……
最後……伝え……くれ……せんか
……どう……幸せに生き……ほしい……アスカに…………』
「渚君！！」
「目標からの通信途絶！ 以後外部観測に切り替わります！」
通信が途切れ、A.T.フィールド内部を映していた映像からカヲルの姿が覆い隠される。
メインスクリーンに映り込むのは、内側に触れることを固く拒絶した赤い光の球体だけ。
それが闇の穴の底へと堕ちていく。
最後に映った表情と声がミサトの脳裏から離れなかった。
悲しそうな笑顔をたたえる渚カヲルの表情が。
アスカへの切望を込めた伝言を託す渚カヲルの声が。
※※※
アスカが緊急連絡を受けたのはカヲルを迎えに行こうと電車に乗り込む直前だった。
左掌の痛みに戸惑いながら電話を取ったとき、最初はカヲルからの連絡だと思った。
でもそれは中央作戦司令部のオペレーターからのもので、その内容を耳にしたとき、アスカは携帯を取り落としそうになった。
『本部に使徒の発現を確認、目標はフィフスチルドレンの可能性あり』
何を言っているのかわからなかったし、何を言っているのか理解したくなかった。
でも、自分とカヲルにとって命運を分けるような重大な事件が起きたことだけは理解できた。
心臓が握りつぶされそうな感覚を覚える。
何も返事を返すことなく通話の接続を切ると、アスカは反対側のホームに来ていたジオフロント地上駅に向かう環状線に飛び乗った。
昨日学校で会った時、カヲルに特に変わったところはなかったと思う。
二人ともそれぞれ目立つからと、学校では互いにあまり接触しないようにしているが、掴みどころのない雰囲気はいつも通り。
特に用事がない限り帰り道だけは一緒に、その約束もいつも通りだった。
翌日のデートに関係してかけた夜の電話越しのカヲルも変わったところはなく、いつも通り楽しく心地よく会話を終えた。
もしかしたらサプライズで何か用意してくれているのを隠していたくらいはあるかもしれないが、重大な何かを計画している雰囲気も、悩んでいる兆候もアスカには感じられなかった。
だから、カヲルの状態に気が付けなかった自分が許せなかった。
握り締めた拳に爪が食い込み血がにじむ。
自分が傍にいれば何かをしてあげられただろうなんて傲慢なことは思わない。
それでも、カヲルのために何かしたかった、せめて傍にいてあげたかった。
あの時の記憶が脳裏によぎる。
カヲルが第十七使徒タブリスとして本部に侵攻したときのことを。
それまでの間に、カヲルとアスカは深い絆を互いに結び合わせようとしていた。
だからあの時も薄氷を踏むようなやり取りの末に、タブリスを消滅させ、共に還ってくることが出来たのだ。
今はどうだろう？
今はあの時よりもずっと深く強く互いの心を交わしている、そこにアスカは自信があった。
それは誰にも否定させない、だからアスカは自分に出来る限りのことをしようと心に決めた。
環状線がジオフロントの地上駅に到着する。
扉をこじ開けるようにして降りると、今度は本部行のリニアレールへと駆け出した。
リニアレールに飛び乗るとアスカは携帯を開き、ミサトを呼び出す。
「ミサト！ どうなってんのよ！？ カヲルは！？」
『アスカ、いまリニアに乗ったところね、補足したわ。
最短で来れるようにしておくから、着いたら第一発令所まで来てちょうだい。
彼は、いまメインシャフトの第十一装甲隔壁を通過してセントラルドグマを降下しているわ』
それからミサトはカヲルが語ったことと現状のNERVの対応についてアスカに伝える。
カヲルの中の使徒の能力が暴走していること、それを制御するためにターミナルドグマに向かっていること。
NERVとして、ヘブンズドアの解錠を決定したこと、現状が訓練として通達され極秘に進められていること。
それらをアスカは目を閉じて咀嚼するように聞き入っていた。
現状伝えることの出来る全てを話し終えてから、ミサトはひと時の逡巡をにじませて付け加えた。
『……最後に、彼からアスカに言付けがあるわ。
「どうか幸せに生きてほしい、そうアスカに伝えて」って』
「………………そう」
噛み締めるような長い沈黙の後、恐ろしく感じるほど冷静なアスカの返答に、ミサトは息を呑んだ。
もっと取り乱してもいい、もっと感情を溢れ出させてもいい、そうミサトは思っていた。
いままでのアスカとカヲルの関係を考えれば、そうしてくれたほうが安心に思うほどだ。
それが、すべて納得したうえで感情を呑み込み何かを決断したような声色にミサトは嫌な予感が掠める。
予感といっても具体的にどうと言える何かがあるわけではないけれど。
『アスカ……』
「ミサト、もうすぐ本部に着くわ、また連絡入れるから」
そう言ってアスカは一方的に接続を切る。
同時にリニアレールが本部内へと吸い込まれていった。
※※※
出入管理ターミナルはいつもより混雑していた。
メインの大型スクリーンには現在非常事態に関する訓練を実施している旨の連絡が流されている。
メインシャフト、セントラルドグマへの立ち入りが規制されていることもこの混雑の要因の一つだろう。
一刻も早く抜けたいアスカはイライラを募らせたが、すぐに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それは顔馴染みの係官だった。
「惣流さん、大変だね、抜き打ち訓練で呼び出されるなんて。
SOC（中央作戦司令部）からは最優先で通してって言われてるから、こっちから入って」
「信濃さん、ありがと」
アスカがセキュリティーカードを渡す。
係官には訓練としか伝えられていないらしく、子供ながら巻き込まれるアスカのことを労ってくれる。
この係官は本部を行き来するときカヲルが良く会話をしている人物で、アスカも良く知る人物だった。
それだけに認証はスムーズで、この非常事態にあっては有難かった。
「そうそう、渚君から惣流さんに渡してくれって預かったものがあったんだよ」
「カヲルから？」
「ちょっと申し訳なさそうな顔していたからなんだろうと思っていたんだけどね。
こういうこととは、まあ、抜き打ち訓練じゃ言えないものね」
自ら答えを結び付けて納得した係官は、セキュリティーカードと共に小さな箱をアスカに渡す。
包装も装飾もしていない紙製の小箱。
がんばってきて、と優しく送り出されたアスカは、早く向かいたいという思いと、カヲルが預けたものへの関心との間で揺れていた。
そんなとき声がかかる。
「アスカ！」
「アスカ」
「シンジ、レイ！」
「カヲル君のこと聞いたんだ、それでいてもたってもいられなくて」
「アスカ、大丈夫？」
駆け寄ってきたのは戦友であり、兄弟であり、同じ仕組まれた子供である二人。
シンジとレイも緊急連絡を受けて駆け付けたところだった。
アスカと同程度の状況を聞かされているのだろう、その表情からは深刻さがにじんでいた。
でも、それ以上にアスカのことを、そしてカヲルのことを心配してくれている雰囲気が伝わってくる。
アスカの琴線が震える。
シンジとレイには、かつてカヲルがタブリスとしてターミナルドグマに侵攻した時にも助けてもらった。
レイには背中を押してもらい、シンジには無理を言って初号機でカヲルのもとまで連れて行ってもらった。
その後も、地獄さえ易しいと思える戦場を共に戦い、そしてサードインパクトを共に超えてきた。
そんな二人の前だからこそアスカは少し弱くなる。
「アスカ、その箱は？」
握りしめていた小箱にシンジが気付く。
「カヲルが、あたしにって預けてたのを、いま受け取って……」
震えそうになる声でアスカが応えると、箱を握りしめたその手にレイが触れた。
両手で優しく包み込んで、アスカの胸の前へと持ち上げる。
「開けてみて」
「いまは、そんな……」
「開けてみて、アスカ」
レイが促す。
時間が惜しい、そんな状況下でも、レイの言葉は強かった。
アスカが小箱を開ける。
中身を傷痕の残る左の掌の上に転がした。
「あっ……」
アスカの口唇から声が漏れた。
今日はデートの日だった。
もしかしたらサプライズで何か用意してくれているのを隠しているくらいはあるかもしれない、そう思っていた。
いつかの学校の帰り道、ショーウィンドウで「あれ、かわいいわね」なんて言ったのを思い出した。
ピンクゴールドのピンキーリング。
右手の小指の指輪の意味は「変わらぬ想い」
アスカの蒼い眸から一筋の涙が零れ出る。
「カヲルの……バカ！
こんな、こんな事されちゃ、絶対逢いに行かなきゃいけないじゃない……！」
ぼろぼろ涙を零すアスカの手をレイが握りしめた。
「アスカ、渚君を迎えに行くつもりだったんでしょう。
私たちも出来る限りのことをしたい」
「何でも言ってよ、アスカ。
アスカとカヲル君二人なら何とかなるって、信じてるから」
いい友を、いい兄妹を持ったとアスカは震える。
そして、ここまで支えられたんだから、ぜったいカヲルを迎えに行かなきゃと改めて思いに定めた。
こんな指輪をもらったんだから、引きずり戻してやらなければ。
レイの手をゆっくりほどくと、アスカは右の小指に指輪をはめる。
そして拳を握りしめて涙を拭った。
「ありがと、シンジ、レイ。
あたし、バカカヲルを迎えに行ってくるから、ミサトたちをお願い。
たぶん、これからすることを止めにかかると思う。
無茶なことだから。
でも、もうそれしか間に合わないし、届かない。
だから、お願い」
アスカの願いに、シンジとレイは頷く。
アスカにとってこの上なく力強い了承だった。
それから、シンジとレイは第一発令所へ、アスカはメインシャフトへと走り出した。
※※※
「シンジ君、レイ、来たのね！
あれ、アスカは？」
二人の姿を見たとき、ミサトは直感的に何かおかしいと思った。
出入管理ターミナルの通過記録では三人がほぼ同時刻にゲートを抜けている。
だからタイミング的に合流して三人でここを訪れるものだと思っていた。
でも、発令所に出頭したのは二人だけ。
電話越しのアスカの雰囲気を思い出し、一瞬ぞっとするものが背中を走る。
そして、二人にアスカの行方を尋ねようとした刹那、嫌な予感が的中する。
「葛城二佐！ メインシャフト第一フロアの横断橋がマニュアル操作で稼働しています！」
「セカンドチルドレンを補足！ 同じ場所です！」
サブモニターに第一フロアの監視カメラの映像が映し出される。
カヲルの降下にともなって全て格納されていたメインシャフトの横断橋。
通常管理室から自動で操作されるそれは、非常時には手動のギアを回すことによって伸ばすことが可能になっている。
そして現在そこには、見知った少女によって手動操作で横断橋が橋渡しされていくところが映っていた。
「アスカ、何やってんの、あんなところで……」
口唇の上に言葉が残っている最中に答えが浮かび、ミサトの表情が慄然となる。
「まさか！？ アスカに通信繋いで！」
オープン回線で繋がれた通信に、意外にも待っていたかのようなスムーズさでアスカが応えた。
『ミサト、今忙しいの、今すぐ全部の装甲隔壁を開放して』
ガラガラと雑音を立てながらアスカはさも当然のように要求した。
ミサトが叫ぶ。
「アスカ！ 何やってんの、やめなさい！」
『ミサト、時間がないの。
黒き月に引きこもられて、A.T.フィールド最大で封鎖されたら手も足も出なくなる。
あたしならカヲルを制御できるわ』
アスカは本気だ、そう感じたミサトは、保安要員の出動と転落防護ネットの射出を指示しようとする。
それを後方からの声がとどめた。
「葛城さん！」
「レイ……？」
「お願いです、アスカを行かせてあげてください。
いま、それしか間に合いません、彼にとっても、この世界にとっても。
渚君の心の壁のその奥に行けるのは、アスカしかいません」
「僕からもお願いします、ミサトさん。
カヲル君なら必ずアスカを受け止めてくれます。
最後の使徒の時にも二人は還ってきました」
「シンジ君……」
二人の真摯な願いに、ミサトは逡巡する。
いま、自分たちに手段がないのは事実だ。
策定可能などんな手段も、いまのカヲルに外的な干渉をすることは不可能だと算出された。
カヲル自身が暴走の制御に失敗する可能性は90％以上、その時の被害は最小に見積もってもセカンドインパクトと同程度というのがMAGIの計算結果だった。
事実上、ミサトたちはただ待つことしかできなかった。
そして、いままでそうした状況下で子供たちの奇跡に縋ってきたのも自分たち大人だ。
死地に送り出したことは数えきれない。
それでも子供たちは奇跡を紡いできてくれた。
もうそんなことはさせたくないという思いがミサトの心を締め付ける。
でも、最後の使徒の侵攻の時にアスカとカヲルが還って来た事実。
そして、これまでの二人の絆を考えたとき、限りなく不可能でも絶望的でも、可能性がゼロではないのなら、それに賭けることも必要なのではないかという思いも浮かぶ。
その時、揺れるミサトの肩に手が置かれた。
「ミサト、可能性があるのなら、任せてみましょう。
アスカが失敗したら、その時は私も一緒に地獄の業火に焼かれるわ。
それまでは信じましょう」
リツコのその言葉にはっとする。
周りを見回せばリツコだけではない、オペレーターたちも決意を固めた目をしていた。
共に戦っていた時のことを思い出す。
前線で戦うことは出来なくても、信じることと責任を取ることが自分の役割だとミサトは思い出した。
皆が見つめる中で、ミサトは逡巡を取り払った。
「ありがとう、リツコ、信じるのが、私の役目なのかもしれないわね。
全装甲隔壁緊急開放！
いってらっしゃい、アスカ、ちゃんと渚君と二人で還ってくるのよ」
『Vielen Dank、ミサト！ いってくるわね！』
横断橋がメインシャフトの半分ほどまで伸びる。
眼下に装甲隔壁が開け放たれていく様子と、それにあわせて奈落が口を開いていく光景が広がる。
そのずっとずっと深いところに赤い光がぼんやり輝いているのをアスカは目にしっかり刻み込んだ。
そして走り出す。
「カヲルの！！ バカーーー！！」
横断橋の先端から深淵へ向かって、アスカは勢いよくその身を投げた。
[ワールドエンドはエントランスの片隅で]
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