黒き月の空座に繋がる、底の知れない深みの抗。

降下する巨大な空間一杯に広がる赤い球体。

無数の光の欠片が高速で動き回り、まるでグラスファイバーのような積層を織り成すそれは、外部からの干渉をことごとく拒絶し、内部のものが顕わにされることを許さない。

この世界を否定するそれは、いまや唯一現存する青い血の顕現であり、始祖の片割れの最後の残滓。

深海のような静寂と澱みの中心をたゆたいながら、カヲルは目指すべき場所に辿り着く時を待っていた。

そこに辿り着けば自分の意思も未来への希望や可能性も閉塞へと呑み込まれることになるだろう。

それまでの幾許かの時の間、僅か許された時の間、カヲルの思考は、同じようにこの場所に降った日の出来事を思い出していた。




ワールドエンドはエントランスの片隅で  第二部  aba-m.a-kkv  





それは剃刀の上を歩くかのような、繊細で過酷で残酷な日々の果て。

でも、いま振り返ってみれば、それはカヲルにとって大切な、大切な思い出になっている。

自分の存在意義と目的が一新された日であり、彼女と自分の関係が新たな次元へと転換した日でもあった。

カヲルの赤い瞳を隠す瞼の裏側に映るのは惣流アスカ・ラングレーの姿。

定められた宿命をひっくり返してしまった存在。

本来なら干渉することなど叶わないはずのシナリオの一部を破綻させた存在。

そんな彼女と出会ったのはゼルエル戦後、しばらくしてからの事だった。

いずれ黒き月のあるNERVを訪れることになるのはわかっていた。

とはいえ、カヲルがSEELEによって送り込まれたのは予想していた時期よりもだいぶ早いものになる。

理由はいくつかあった。

ゼルエル戦において初号機が捕食によってS2機関を取り込んだというSEELEのシナリオに無い出来事に対する監視として。

ゲンドウの独断専行に対する楔として。

NERVの対使徒戦力低下の可能性に対する保険として。

そして、それらの理由に加えて主目的である補完計画の確実な進行役を果たすために、カヲルは派遣されることになる。

カヲルとしてもこの決定にさして異論はなかった。

カヲルが抱く宿命は最後のシ者であり、まだ予定されている同胞がいる以上急ぐ必要もなかったが、かといっていつかは役を果たさなければならない以上遅くする必要もない。

時の配分はカヲルにとって特段重要なものではなかった。

むしろ、カヲル個人の興味として、それは良い機会とさえ思っていた。

それまでのSEELEの管理下にいた時、カヲルは身を置いていた施設の敷地内を比較的自由に散策する権利を有していた。

カヲルのいた施設は自然に囲まれた立地にあった。

そこで見たり触れたりする木々や花々や小動物たち、朝焼けや夕焼けといった自然の風景、そうしたものだけでも使徒であるカヲルにとっては新鮮で興味深いものだった。

であるならば、この星を仮初とはいえ支配し、複雑の極致といえる人という存在を深く知ることが出来たなら、どれだけ興味深いことだろう。

造り出されてこのかた、カヲルが接する人という存在はごく限られていた。

SEELEの老人たち、その直属の医師や技術者程度。

しかし、彼らはカヲルと接する際に内面を見せるようなことは決してしない。

特に後者にはカヲルへの恐れから来る拒絶感さえあった。

故に、座学で人というものの存在や歴史を学んだとはいえ、千差万別と言われる人という存在に対するカヲルの知的好奇心や探求心はその触れ合いを欲していた。

カヲルにとってはSEELEの老人たちでさえ興味深い人の一例として見ていたのだから。

自分とは異なる存在、単体ではなく群体という形態を選び、恐怖と愛情という相反する感情を保有する存在は、カヲルにとって興味の尽きない対象だった。

これから自分が滅ぼすことになるかもしれない、あるいは自分が滅ぼされることになるかもしれない人という存在を知りたかった。

決して交わることのない運命を背負っているだけに、短い時間とはいえ与えられることになった機会は貴重だ。

ゆえに多くの人に出来る限り関わってみようと思った。

もしかしたら、いままで学んだことでは計り知ることのできなかった何かに触れられるかもしれない、とカヲルはそんな風に考えていた。

そして、彼女に出会う。

惣流アスカ・ラングレーに。

もとから同じ仕組まれた子供である三人のエヴァンゲリオンパイロットには特に関心を持っていた。

その他の人間と比較して密接に関わる状況に置かれることになるだろうから、より興味深いものを知ることが出来るのではないかという予感もあった。

事前に目を通していたSEELEの資料からも彼らの魅力をある程度知ることが出来ていた。

どの存在に会っても面白いだろうと考えていたから、最初の接触に何か条件を設定することはしなかった。

だからアスカに最初に出会ったのは偶然だったし、折角最初に会ったのだからこの人についてもっと知ってみようと思った。

知的好奇心を満たすための接触。

でも知れば知るほど、カヲルはアスカにのめり込んでくことになる。

その頃のアスカは、思うように行かない戦況や頭打ちになったシンクロ率、先行きの閉塞感ゆえに転がり落ちる寸前の崖の縁に佇んでいるような状態だったが、元来の内面は人間らしい魅力に溢れていた。

生への渇望、自尊心のための欲求、愛情の探求、アスカの奥底は人間らしい感情と生命力を内包していた。

少し手を引いて道を指し示せば、どこまでも飛んでいけるだけの翼を彼女は持っているということがわかった。

それはカヲルにとって眩しく、青空を見上げた時に映る太陽のように爽やかで温かく心地良いものだった。

それからカヲルはことあるごとにアスカに関わるようになっていった。

実験や訓練前後の待機時間に声を掛けることから始まった。

休憩の時の自販機のスペースや昼食時の食堂に誘うようにした。

携帯の番号やメールアドレスを交換したり、待機時間に本部の庭園を歩いたりするようになった。

最初は自分の居場所を奪われるかもしれないという敵愾心や委員会から投入されたことから来る警戒感を露わにしていたアスカも、カヲルのまっすぐな感情を前にだんだんと心を開いていく。

『君は生に満ち溢れているね、僕にとって君は太陽のように映っているんだ』

『憎しみも悲しみも寂しさも、人の心の繊細さを現している。君の心は繊細だね。繊細というのは美しいことだ、それは好意に値するよ』

『君は特別な存在だ、僕は君に逢うために生まれてきたのかもしれない』

カヲルの関心は、やがてアスカの心の中にゆっくり溶け込み、そしてカヲル自身の心も変化させていくことになる。

二人の関係が決定的に変化したのはアラエルの襲来の時だった。

アラエルにとっての人を知ろうとする試みは、アスカの負の感情や記憶を呼び起こしその心を抉るものになった。

その後、アラエルはレイの零号機によって投擲されたロンギヌスの槍で撃破され、救出されたアスカは昏睡状態で入院することになる。

それからずっと、すぐ傍で看病したのはカヲルだった。

眠り続けるアスカの手を握ってその心に触れるようにしたとき、カヲルはアスカを失いたくないと思い、その感情に驚愕と心地よさを覚える。

アスカを本当に特別な存在と認めた瞬間であり、それがアスカの目覚めに繋がるものになった。

アスカのほうも、その心の中に芽生えていたカヲルへの感情が、それまでのカヲルとの記憶が、アラエルの光の触手から自身の根幹を守る防壁になっていたのだ。

アスカが目覚めた後、二人は互いを意識するようになり、互いを大切な存在として認めるようになっていく。

その認識は、アスカとカヲルの心を変化させていく。

このまま時が続けばいいと願うほどに、この先もずっと、二人の関係を深めていきたいと望むほどに。

それでも、約束の日は訪れる。


「あの日もこうやって降りていったんだよね。

なんだか、もう郷愁を感じるほどだ。

とはいえ、再び同じようにここを降りることになろうとはね……」


瞼を開いたカヲルがそう呟く。

あの日と情景が重なる。

でも違うことも多い。

厳重に封印されていたとはいえ、ターミナルドグマは生きている領域だった。

だから独特な厳かさと不気味さがあった。

そしてあの時は今よりもどことなく明るかった印象がある。

主を亡くし存在意義を失ったいま、この場所に余分なエネルギーは回されていないから、あの時よりも闇が濃く、喪失した抜け殻の雰囲気が垂れ込めている。

さらに付き添う者もいない。

アダムの分身であり、リリンのしもべとして使役されていたエヴァ弐号機は残骸になり果てている。

あの時、弐号機を連れて降ったのはサードインパクトを引き起こすための要の側面があり、かつ初号機に作戦を遂行させるための目的もあった。

それらは第十七使徒タブリスとしての都合であり、SEELEのシナリオに沿うための都合でもある。

けれど、弐号機を連れて行った理由のうち、カヲルという存在としての最大の要因はアスカだった。


「君が傷つくことがないように、君が僕を追ってこないように、弐号機を連れて行ったんだけど……」


弐号機がなければアスカは戦う手段を失うことになる。

零号機は先の戦闘で失われていたし、零号機にしても初号機にしてもアスカはそれらの機体と接続することが出来ない。

エヴァとの接続には機体の核に搭乗者の血に連なる仲介者の存在が必要だからだ。

追撃可能な機体は初号機しかないのだから、アスカは比較的安全な発令所か作戦司令部の待機所で事の成り行きを見守ることになったはずだ。

それをカヲルは望んだ。

アスカと戦いたくはなかったし、アスカに自分を殺させるようなことはさせたくなかった。

もしそうなったら彼女の心に深い傷を負わせることになる。

自惚れと言われるかもしれないけれど、アスカの心の中に自分がそれだけの領域を占めていることへの確信がカヲルの中にはあったのだ。

だから、カヲルは弐号機を道連れにした、この先の出来事にアスカが関わらなくても済むように。


「でも、君は追ってきてくれたんだよね、初号機の手の中に無理やり乗り込んで」


その時に感じた驚愕を思い出して、カヲルは思わず笑みを零す。

彼女の存在、考え、行動はいつだってカヲルの予想を越えてくれる。

そして、その時を回想するために再び瞼を閉じた。

カヲルの頭の中のスクリーンに最後の使徒による侵攻の日の光景が投影される。



※※※



追撃があるのは必然であり、唯一残った初号機がそれを果たすことになるのも当然の帰結だった。

アスカほどではないが、仲良くなっていたシンジには嫌な役回りをさせてしまうことになる。

そのことにカヲルは罪悪感を覚えるが、天秤に掛けたとき、それをアスカにさせるよりは耐えられる。

ようやく初号機の姿が見えたとき、予想していたよりも遅いと感じた。

なにかトラブルでもあったのだろうか、そう考えさせるほど最深部に近づいたときに初号機が追い付くことになる。

しかも、普段のシンジが駆る初号機の動きとは異なって、すこしのぎこちなさや違和感を含んでいるようだった。

「待っていたよ、シンジ君」そう呼びかけようとしたとき、カヲルは初号機の追撃が遅れたであろう理由を目にし、理解し、驚愕した。

自分の名を叫ぶ少女の声と共に。


「カヲル!! 追いついたわよ!!」

「アスカ!? なぜ君がここに!?」

「カヲル君、ごめん、でも仕方がなかったんだ」


追撃してきた初号機の掌には、特別で大切であるがゆえにもう二度と顔を見ることがないように定めた存在が掴まっていた。

アスカは中学校の制服を身に纏っている。

プラグスーツに着替える時間的猶予がなかったか、そもそも着用を要請されなかったのかもしれない。

そして、最低限の身体防護機能を持っているプラグスーツを着ていないアスカの身は無防備そのもの。

ここは戦域であり、空間の中で暴力と破壊と死が弾けるのを待っている状態だ。

初号機と弐号機が軽く拳を交し合っただけで、その華奢な身は引き裂かれることになるだろう。

カヲルはすぐさまA.T.フィールドの範囲を広げ、強度を最大限にまで高めた。

光波、電磁波、粒子までも遮断する、まさに結界と呼ぶに相応しいものを。

意思を込めれば、内包するエヴァの動きさえ封じることが出来る、檻と呼ぶに相応しいものを。

それはこれから起こるかもしれない戦闘からアスカの身を守るためのものであり、ここから先に予定している事象を誰にも妨げられないためでもある。

カヲルからA.T.フィールドが展開されたことにアスカとシンジは驚きの表情を見せるが、アスカはすぐにそれを抑え込んだ。


「アスカ、今すぐ引き返してくれ。

……君が了承してくれるなら、僕は弐号機を解放してもいい」


ひとときの逡巡と思考の末に、カヲルはそう提案した。

時計の歯車を嚙み合わせてしまった今、時間も場所も限られている。

進行を始めたシナリオはもう止められない。

アスカが退避するまでの間休戦というわけにはいかないだろう。

とはいえ、エヴァに守られていないアスカをこの先に連れていけるはずもない。

であれば、選択肢を潰すことになるとしても、弐号機を使ってアスカを上層へ戻し、自らは初号機と共に降るのが最も良いように思えた。

それはカヲルにとって最大の譲歩でもある。

けれど、アスカはそれを許さなかった。


「お断りよ! あたしはあんたに話があるの。

誰にも、何にも邪魔はさせない、例えこの場所でサードインパクトが起きようともね!」

「アスカ、そんなことを言わないでくれ。

僕は君を傷つけたくはないし、失いたくないんだ」


烈火の如く怒りをたたえていたアスカだったが、カヲルの言葉に心臓を鷲掴みされたような苦渋の表情を浮かべる。


「あんたが! あんたが……それをあたしに言うの?」


その悲痛な声にカヲルは言葉を詰まらせた。

お互いに発する言葉を失ってしまった二人を見やって、シンジが思いを挟み込む。


「カヲル君、僕もアスカも、君と戦いたくないんだ。

綾波だってそうだ、僕たちを送り出して、君と一緒に帰ってくるのを待ってる。

君がどういう存在で、なぜこんなことをするのか僕にはわからないけど、アスカは君のためにすべてを懸けたんだ。

だから、アスカと話し合ってほしいんだ」

「……シンジ君」


シンジの言葉はカヲルの心を揺さぶるほどにまっすぐだった。

そして彼の言葉は、アスカが万難を排すためにすべてを後にしてここに来たことを垣間見せる。

初号機の掌の上からこちらを見つめるアスカの目元が微かに腫れていた。

誇り高い彼女が、シンジとレイをどんな姿で説得したのかがよぎる。

さらに、アスカはこの追撃に加わるために自分の立場を危うくしているはずだ。

エヴァの手の上に生身の人間が乗っての作戦行動など前代未聞。

作戦司令部がそんな状況を許すはずがない。

であれば、アスカは作戦司令部の待機命令を無視してここに来たことになる。

さらにはシンジを巻き込む以上、アスカは自分が強要したと言い張るに違いない。

指揮命令系統が絶対である軍事組織の側面を持つNERVにおいて、命令違反やエヴァの私的占有は重罪であり、エヴァパイロットの資格剝奪さえあり得る。

アスカにとってエヴァのパイロットという立場は生きる意味でさえあったはずだ。

それを失う危険を冒してまでカヲルを追うことを選んだのだ。

想いは行動を持って顕わされる。

カヲルはアスカを説得する言葉を紡げなくなった。

そして、二体の巨人が相対するままに、最後の階層を突破し、メインシャフトの果て、ターミナルドグマに降り立つ。

着水と同時に大きな水柱が上がり雨のように降り注ぐが、それが彼らを濡らすことはない。

光の壁に弾かれながら、やがて水しぶきが止み、赤い巨人と紫の巨人、少年と少女が相まみえる。

彼らが立つ場所、メインシャフトが小さく思えるほどの広大なこの空間には赤い海に塩の柱がそびえ立っている。

セカンドインパクトの爆心地となり人の生存を拒絶する聖域となった南極の縮図のような空間。

生命の吐息を感じさせない静寂に満ちた世界。

その沈黙をアスカが破る。


「カヲル、あたしをあの扉の向こうに連れて行きなさい。

そこであんたの話を聞く、あたしもあんたに話がある。

もし、あんたを殲滅しなきゃならないなら、それはシンジでも初号機の役目でもない、あたしの役割よ、それは誰にも譲らないわ」

「アスカ……わかったよ」


アスカの揺るぎのない眸を見て、カヲルは諦観とともに了承した。

力ではカヲルのほうが圧倒的な分を持っている。

S2機関を搭載した現状の初号機に対してでさえ、全力を持ってあたれば打ち倒すのは難しくないだろう。

それが、非力な人間であるアスカが相手であればなおさらだ。

それでも、アスカの言葉には抗えなかった。

力に勝る想いがそこにはあったから。

カヲルが惹かれた、アスカの意思がそこに込められていたから。

特別な想いと存在、それを今呪うべきなのか喜ぶべきなのか、カヲルにはわからなくなっていた。

だからこの先、アスカにすべてを話し、望みを託し、すべてを終わらせてもらおうと心に定める。

中空を歩いて紫の巨人の掌に近づいた。


「アスカ、この手を掴むなら、君の望み通りにしよう」


カヲルは最後の決定権をアスカに託す。

これから起こることを考えれば残酷な選択をさせることになるとわかっていても、カヲルはアスカの意思を見たかった。

手を差し伸べるカヲルをアスカはまっすぐ見つめる。

それから、一度初号機のほうを見上げた。


「シンジ、ここまで連れてきてくれて、カヲルに逢わせてくれてありがと。

あとはあたしに任せて、ここで待っていてほしい」

「わかった、ここで二人が帰ってくるのをずっと待ってるよ。

気を付けていってきてね、アスカ、カヲル君」

「行ってくるわ」


信頼のもとに交わされた約束を結んで、アスカは差し伸べられたカヲルの手をしっかり掴んだ。

そこに躊躇いは微塵もなかった。

アスカの身体が初号機の手から離れ、カヲルと共に中空を進む。

背後にはこれからの行く末を見守るように佇む初号機と弐号機、そして目の前にはこの世界の根幹に続く天国への扉。

カヲルが一瞥するとヘブンズドアの最終安全装置が解除され、重厚な扉が開いていく。

至聖所の天幕が開かれる。

ここから先は定められた存在だけに許された空間。

二人は中へと進み、そして、その背中に扉が閉じられる。

世界の中心が今ここにあり、そして二人はその只中にいた。

そしてアスカとカヲルを待っていたのは、この空間の主である磔刑にされた白亜の巨人だった。


「これは、エヴァ?」

「いや、違う、これは黒き月であり第二の使徒である――リリスだ。

僕たちは、我らが母たる存在であるアダムがいるものと思っていたんだけど、そうか、最初からここにいたんだね。

そして、ずっと待っていたんだ、継承者がここまで来るのを」


リリスを見て困惑の表情で尋ねたアスカに、カヲルはそう答える。

とはいえ、カヲルとしても想定していた状況とは異なっていた。


「継承者って、どういうこと?」

「この星は正当な生存権を獲得する存在を欲しているんだ。

そして、二つの候補となる生命体がこの星に根を下ろした。

一つは僕たちアダムを由来とする使徒たち、もう一つはリリスを由来とする君たち人類であるリリンだ。

僕たち使徒は生命の実を喰らい、単体で永続する命を持つ存在として誕生した。

君たちリリスは知恵の実を喰らい、群体で存在し次世代へ命を繋いでいく仕方で永続する生命体として誕生した。

君たち人間と僕たち使徒の戦争は、この星の継承権を掛けた生存戦争の側面を持っている。

滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれない。

それが僕に与えられた存在意義の一つ。

でも真実はそれだけじゃない、それを君に話そう」


カヲルがアスカの手を引いて黒き月の玉座の前に降り立つ。

地面に足が付き、繋いでいたカヲルの手が離されると、自分を包んでいた浮遊感が無くなるのをアスカは感じた。

その感覚が、カヲルから距離が遠ざかるような感じがして一瞬不安がよぎるけれど、ここからが戦いの場なのだと自分に言い聞かせる。

カヲルのほうは磔にされたリリスの巨躯を見上げていた。


「僕はアダムから生まれた十七番目の使徒だ。

この継承戦争のアダムの側の最後の権利者でもある。

タブリスという名を定められた僕に与えられた存在意義の一つは、母たるアダムに回帰し、完全な生命体としてリリンを滅ぼして、この星の正当な継承者としての権利を確立すること。

僕の中に流れる青い血に刻まれた宿命でもある」


そう語るカヲルの姿は神々しく誇り高かったが、アスカにはそれが孤独で寂しそうに見える。

そして一区切り言葉を置くと、今度は自嘲めいた笑みを浮かべて話を続けた。


「だが、それと共に僕の存在は人の思惑のために仕組まれた存在でもある。

僕をここに送り込んだSEELEという人間たちが夢見る人類補完計画を成し遂げるための要としての役割、それが僕に与えられた二つ目の存在意義だ」

「人類補完計画って?」

「人類補完計画は、継承権の確立にともなうサードインパクトを利用して、人類を新たな段階へ進化させようという試みだ。

群体であるリリンは争いや喪失、苦痛や悲嘆、恐怖や失望に溢れている。

そうした全てから解放されるために、群体を一つに結合し、使徒と同じように単体の生命として再生させる、それが彼らの描く人類補完計画。

エヴァという依り代を使い、人の思惑を継承権の儀式に介入させ、全ての人からA.T.フィールド、つまり他者を隔てる心の壁を取り払えば、全てを一体にすることができる。

彼らは心の補完と言っていたけどね」

「それが、あたしたちが今まで戦ってきた理由なんて……

あたしはあたし、カヲルはカヲルよ。

それを一つに溶け合わせるなんて人類滅亡と同じじゃない」

「君と触れあって、人を知った今、僕もそう思うよ」


いままで命を懸けて戦ってきた裏側で張り巡らされた計略を知り、アスカは苦虫を噛み潰したような表情になった。

壮大で長大で残酷な計画。

人類滅亡を防ぐためという大義を掲げながら、その実、人の種を潰えさせる計画の駒になっていた現実は不快極まりない。

そこに怒りはある、けれど、いまのアスカにとって重要なのはそこではない。

次々と明かされる衝撃的な真実を理性で抑え込みながら、アスカは続きを促した。


「それで、その人類補完計画とカヲルの関わりは?」

「SEELEは補完計画を実行するためにアダムと使徒の力を使おうとした。

アダムと使徒が接触すれば正当な継承権確立の儀式が発動される。

そこに人が作り出した存在であるエヴァを依り代に介入し、アンチA.T.フィールドの集合体であるロンギヌスの槍を成熟させることで、人類を一つに昇華しようとした。

それを制御し発動するのが僕の役割だ。

務めを果たし、サードインパクトが発動されれば、僕の存在意義も終わりを迎える。

だが、現状を鑑みるに、どちらの目的も完全に果たすことは出来ない。

ここにあるのはアダムではないということ。

ここにあるリリスはその重要な部分を欠いているということ。

そしてロンギヌスの槍が失われているということ。

これだけの要素の欠損は、いまの僕には覆すことができない。

目的を完全に果たせない以上、僕の存在意義は消失に向かうしかない」


寂寥感を滲ませるカヲルの横顔を見て、アスカの胸が締め付けられる。


「なら、役割をやめて、一緒に戻ることは出来ないの?」


アスカの懇願すら混じる問いに、カヲルは頭を振った。


「残念だが、それは出来ない。

どちらの存在意義も僕の根幹に刻み込まれたものだ。

存在意義の消失は、存在そのものの消失と同じ。

何をしたとしても、逆に何もしないとしても、僕の滅びは変わらない。

ならば、僕は僕の意志でこのまま死ぬこともできる。

いまの僕に残された絶対的な自由は自分の意志で自らの死の形を選べるということだけだ。

それに、君に逢った今、僕の命は別の価値を持った。

僕が滅びることで、君に希望を繋げることが出来る。

この先がどうなるかは僕にも予測がつかない。

けれど、僕にとって特別な君が未来に生を繋げることが出来るその礎になれるのなら、僕の人生は十分に意味があったことになる」


カヲルはアスカに向かって優しい笑みを向けた。

それからカヲルは掌の中でA.T.フィールドを凝縮する。

飴細工のように形を変える光は、織り成され編み込まれ圧縮されて固体化されていく。

それは幾許もしないうちに腕の長さほどの細長い槍のようなものを形作った。

カヲルはアスカの手を取り、その掌の上に槍を置いて握りこませる。

それは金属のような硬質を感じさせながらも人のぬくもりを帯び、重厚さを称えながらも片手で支えられるほど軽やかだった。

そして、その槍はカヲルの手から離れても形を失わない。

造物主を刺し貫くことを目的に独立させられたものだった。

アスカの手に委ねられ、本体から分かたれても意義を失わないようにカヲルが意志を込めたものだった。

でも、使徒すら殺しきれる鋭利さと威力を感じるそれに、アスカが一片の恐れも感じないのは、カヲルの心の一部から作り出されたものだからだろうか。


「さあ、僕を消してくれ、アスカ。

君は死すべき存在ではない。

……君に逢えて幸せだったよ」


カヲルの言葉は感謝で満ちていた。

いままでカヲルを動かしていた存在意義は、カヲルの個というものを、カヲルの意志というものを無視してきた。

どこを歩いても孤独そのもので、辿り着く先には自らの滅びしかない。

しかも、その滅びは自分の望みを託せるようなものではない。

それでも、それが存在意義だからと諦めてきた中で出会ったのがアスカだった。

自分を認め、自分に特別な感情を持ってくれた存在のために滅びることが出来るのなら、例え共に生きることが叶わないとしても、今までの渚カヲルという個の人生を意味あるものとして肯定できる。

それはタブリスという宿命ではない、渚カヲルという存在そのものに対して。

最初はアスカに辛い運命を背負わせたくはないという思いから遠ざけたが、ここまで来て、全てを話し、全てを託した今、アスカに滅ぼされるのなら本望だとカヲルは思う。

その手で滅ぼされるなら、アスカは自分のことを生涯忘れないでいてくれる、そんな自己中心的な残酷さをはらんだ切望もあった。

でも、カヲルの望みをアスカは打ち砕く。


「わかった、カヲル、あんたの望み通りにしてあげるわ……

なんて! このあたしが言ってあげるとでも思うの!?

あたしはあんたの話を聞いた、ここからはあたしが話す番。

あんたはあたしに殺されて本望かもしれないけど、あたしはそうじゃない。

カヲル、あんたがあたしを好きだって言ってくれたのは偽りなの?

ずっと一緒にいたい、共に生きたいって望んでくれたんじゃなかったの?」


アスカの叫びのような問いが突き刺さる。

交し合った想いが、それまでの出来事が脳裏に蘇る。

それは上辺だけの、言葉の上を滑るような軽いものではないと二人とも理解していた。

残酷な運命のレールの上に立っていることも承知しながら、それでも互いに結び合った心は本物だと。

どうしようもないほど強大な奔流の只中にいるからこそ結び合った想いだと。

それだけ強いものだからこそ、抗うことの叶わない今の状況との差異にカヲルは苦悩する。


「その言葉に嘘はないよ。

君が好きだ、アスカ、ずっと共に生きれたらと願っていた、でも……」


ほんの数週間という短い時間だけ交わった二人の関係だが、個人と個人の関わり合いという点でそれまでの十四年間の全てよりも色濃く意義のある時間だった。

それこそ、これからの長い年月が仮に存続したとして、その時間全てを懸けても構わないと思うほど、ずっと共に生きられたらと願うほど。

まさか自分たちが誰か他の存在を好きになるなど思ってもみないことだった。

アスカにあっては、ずっと自分一人で生きていくと心に決めていたこともあり、憧れや理想などではない感情を抱くなど想像できないことだった。

カヲルに至っては、その存在は究極の孤独であり、他者と共に生きるという概念すら自分に当てはまることになろうとは考えもしないことだった。

でも今は、互いの間に相手を大切に想う感情があり、共に生きたいという想いが確かにある。

それは否定することの出来ない真実だった。

でも、想いだけでは打ち砕くことが出来ない壁もある。

理想ではどうしようない現実もある。

カヲルにとっては今がそれだ。

シナリオという巨大で無数の歯車で成る動力機械に組み込まれた一つの部品が自分だ。

例え小さな楔を打ち込んだとしても、このシナリオはものともせずに噛み砕いて進んでいくだろう。

所詮自分は組み込まれた駒に過ぎない。

それは諦めでもあり、現実を直視しているということでもある。

けれど、アスカにとってそれは我慢できるものではない。

互いの願いが一致しているのなら、万難を排してでもそれに突き進む。

世界を敵にまわしたとしても切り拓く。

その意志の強さこそ、カヲルが惹かれたアスカの心だった。


「なら、それでいい!

あたしにはそれで十分!

その言葉だけで、あたしはあたしのすべてを懸けられる。

あたしがあんたを買い戻すわ、カヲル。

あたしがあんたの代価になる。

この目でも、腕でも、血でも、この命でも、買い戻しに足るなら。

それが生涯続く呪いだとしても!

死さえ許されない災厄だとしても!

人であることを捨てることになったとしても!

カヲルを失うよりはいい!

あたしのすべてを、すべてをあげる。

だから、あたしから離れないで……」


アスカの決意と想いと意志が、大粒の涙と共に溢れ出る。

ぼろぼろと泣きながらも決然とした表情をたたえるその姿をカヲルは美しいと思った。

そして、その覚悟に心が揺さぶられる。

カヲルの中にあるシナリオに固定されてきたものに亀裂が走っていくのを感じた。

巨大で強力な動力機械でさえ、一つの部品の小さな亀裂から崩壊を迎えることもある。

それがいま始まろうとしていた。


「アスカ……

それは……それは僕にとってこの上ない言葉だ。

僕だってそれを願いたい、けれど……」


いまだ逡巡するカヲルを見つめ、アスカはその流れる涙を拭った。

それから手の中の槍をカヲルの目の前に掲げて見せる。

そして、いままで見て、感じて、考えてきたものを基にしてカヲルに問う。


「カヲルは今この槍に存在意義を付した、そうよね?

カヲルの手を離れても、あんた自身を貫くまで形を保つようにと。

本来制御下を離れれば力を失うA.T.フィールドに対して」

「……何を言ってるんだい、アスカ?」


カヲルが訝しげにアスカに問い返す。

アスカの意図が見えなかった。

でも、そのひと言ひと言が、カヲルを包みこむ石棺を圧壊させていくかのような圧力を持っている。


「それから、SEELEはタブリスであるあんたに二つ目の存在意義を付与した、そうよね?

もともとあんたは人になんか縛られない使徒なのにも関わらず」

「……確かに、そう、だね」


アスカの考えが伝わるにつれて、カヲルは肌が粟立つのを感じた。

今アスカは根幹を覆そうとしている。

小さな状況証拠から推測して、この盤上をひっくり返す可能性を組み立てているのだ。

アスカの言葉に導かれて、カヲルの思考の前にも一つの扉が浮かび上がる。

そして、新たに創作した可能性を、まるで決定事項のようにしてアスカは宣した。


「なら、あたしが渚カヲルに、タブリスじゃない渚カヲルに、あたしの命で存在意義を書き込んであげる。

タブリスは二つの存在意義と共にここであたしが滅ぼす!

でも、渚カヲルは、あたし惣流アスカを存在意義として生きてもらうわ!」


アスカの確固とした宣告に、カヲルは目を見開いた。

そんなことが可能なのか、とカヲルの思考が回転する。

いままで考えたことも、夢想すらしたこともない、突飛とも次元を越えたとも言える案。

カヲルの中にあるタブリスの存在意義を使徒の存在ごと消し去り、新しい存在意義を付与して存続させる。

SEELEが自らの願望を叶えるために使徒を作り出し意義を付したように。

カヲルが自らを殺してもらうために造り出した槍にそうしたように。

新たな存在意義の創出と書き換え。

自由意思を司る天使であるタブリスの能力を応用すれば可能かもしれない。

その力は存在や精神に影響を及ぼすことのできるものだからだ。

その力を使って、カヲルはシンクロ率を自由に設定できたし、弐号機を操ることもできた。

それは対象に意味を付す能力ともいえる。

それを、自身にも当てはめることが出来るのなら。

でも、そんなことは想像すらできなかった。

カヲルと使徒タブリスはいままで同義だったのだから。

カヲルの中に存在する使徒を使徒として見、渚カヲルを渚カヲル個人として見たアスカだからこそ考え付いた可能性だった。

とはいえ、滅びゆく宿命の存在を二つに分け、その片方である存在意義を失った渚カヲルに新しい存在意義を付与するというのは生半可なことではない。

一つの種族を支えるに相応しい、等価のものが必要になる。

それこそ、アスカが自ら言ったように、その命だけではなく、そこから続くさらに先の全てにまで及ぶ代償を求められるかもしれない。

それほどの重い決断を、それだけの対価を、アスカに払わせて良いのだろうかとカヲルは苦慮する。

故に、代償が大きすぎることをアスカに問うが、彼女はそれを一蹴した。


「言ったでしょう、あたしのすべてをあげるって」

「……わかった、やってみよう」


自信に満ち溢れた笑顔で宣ったアスカに、カヲルはついに最後の抵抗を諦めた。

そして、必要になるはずの手順のために力を解放する。

自分の中にある、使徒タブリスとそこに付された二つの存在意義、そして空っぽの渚カヲルという存在を分離させる。

いままで癒着していた二つの存在を、間に刃物を通して切り分けた状態にするかのように。

それから造り出した槍に新たなる意義を付与する。

惣流アスカの存在を取り込み、新しい意義として書き込む尖筆としての役割を。

全てを整えて、カヲルはこれからの儀式の事をアスカに告げた。


「渚カヲルの存在を固定化させるためには、やはりアスカ、君の存在そのものが必要になると思う。

そして君の中に流れる血は命の象徴であり代替でもある。

この槍に君の血を纏わせ、それをもって僕のタブリスのコアを貫いてくれ。

上手くすれば、タブリスは滅び、僕の存在意義は君の血によって書き換えられる。

僕の存在は君の命と同義になる。

そこから先、君と僕は運命共同体だ。

君の命によって存在意義を持つ僕は君の滅びと共に滅び、僕の存在意義にその命を懸けている君は僕の滅びとともに滅ぶことになるだろう」

「いいわね、好きよ、そういうの、ロマンチックだわ」


これから今の自分の全て、この先の自分の全てを懸けることになるというのに、そして少なくない苦痛をともなうことになるというのに、アスカは不敵に笑って見せた。

その揺るぎない笑みにカヲルは救われる。

そして、渚カヲルとして初めて浮かべる微笑みをアスカに返した。


「ありがとう、アスカ」

「信じてるわ、カヲル」


アスカが槍の柄をしっかり握り、躊躇いなく自らの左手を刺し通す。

槍の穂先が掌を裂いて、鮮血が二人に跳ねかかる。

一瞬アスカは苦痛の表情を浮かべたが、声にそれを乗せることはなかった。

アスカの掌を貫いた槍先が赤い血に濡れ、溢れ出した血の流れが柄を伝っていく。

そして、アスカのその血は古代へブル文字のような模様となって槍全体に刻み込まれていく。

それを見届けてアスカは左掌から槍を引き抜いた。


「「我、其の父と母を離れて汝と堅く結び合い、二人一体となるべし」」


アスカの血を刻んだ槍がカヲルの脇腹に刺し込まれ、突き上げるようにしてタブリスのコアと渚カヲルの心臓を貫き通した。

最後の使徒のコアが砕ける。

刹那、アスカとカヲルは自らの中の何かが書き換わっていくのを感じた。

二人の根幹が溶け合い、混ざり合い、やがてそれぞれに刻み込まれていく。

十字の閃光が黒き月を満たし、嵐のような光の奔流が過ぎた果てに、赤い光の結界も青い血も消えて無くなっていた。

そこにはただ、新しい形となった二人の存在だけが残されていた。



※※※



「僕を追いかけて、君は来てくれた。

それだけでも僕は嬉しかった。

君に滅ぼされてもいいと、君に消されるならそれ以上望むことはないと思ったのに。

それなのに、君はその願いの全てを超越して、僕に生きる意味さえ与えてくれた。

その歓喜を、僕はどう表していいかわからないほどだ」


服越しに脇腹の傷に触れ、なぞる様に胸の中心に手を当てる。

刺し通され、書き換えられたカヲルの中心。

全身に血を巡らせる脈動を感じる。

それはカヲルの血を巡らせているのと同時に、アスカの血を全身に行き渡らせている証でもある。

滅びの宿命にありながら、いまだここに留まることが出来ているのは、アスカが繋ぎ止めているからだ。

その存在全て、その命の全てで。

こうして自分の内奥に触れる時、カヲルはアスカを感じることが出来る。

半分に欠けた心の、残りの半分を満たすもの。

欠けた心を持たない完全な使徒、完全な継承者であるなら感じることのできない、あたたかく、心地よく、力強い感情。

どこまでも深く、揺るぎない感情。

それは愛と呼んでもいいのかもしれないとカヲルは思っていた。

そしてその感情は、互いに存在意義を交わしあった時から今に至るまで強くなり続けている。


「……でも、だからこそ、君に逢いたいよ、アスカ」


青い血の突然の衝動に時間が限られていたとはいえ、覚悟してこの地に赴いた。

今の状況もこれから起こりうる事象もそのために払うべき犠牲も理解しているつもりだった。

それでも、切望が喉の奥からこみ上げてくる。

存在意義を書き換える儀式を経て、これまで青い血による影響は全て取り除いたと思っていた。

けれど、カヲルを構成する生体は使徒のものであるし、タブリスのコアを破壊したとはいえS2機関とも呼ばれる生命の実はカヲルの中に残っている。

意義を失っても物理的な生体組織や機構が変化するわけではない。

そして人とは異なる使徒の生体には拭いきれない青い血の残滓が燻っていた。

儀式からすぐの頃は、それこそ第十七使徒殲滅直後には精密検査をしても使徒としての波長は一切検出されなかった。

対外的には第十七使徒は人に寄生するタイプの使徒であり、初号機によって殲滅されたということになった。

アスカの介入の件はレコードから削除される。

その後、カヲルは定期的な検査を課されることになるが、やはりパターン青は検知されず、それがカヲルのフィフスチルドレン復帰へ繋がることになる。

サードインパクトを乗り越えシナリオが消失した後の検査を最後に、カヲルの中の使徒は完全に沈黙させられたという結論が下された。

だが時を重ねるごとに細胞の隅々に残っていた青い血は水面下で力を蓄えていき、遂に顕現するに至る。

継承者としての存在意義や補完計画遂行者としての存在意義は消失しているゆえに、具体的な計略を果たそうという意思は青い血にはない。

けれど、アダム由来の使徒が生存していながら、リリンが群体としてこの星の継承者になっている現状に対して異議を呈している。

リリス由来の使徒である人に対しての破壊衝動、あるいは自らの破滅衝動。

どちらかを果たすことで、青い血の存在を是正しようとする働きがカヲルの中で暴走しようとしていた。

今はまだカヲルの意識の元でA.T.フィールドとS2機関は一応の制御下にある。

とはいえ、莫大に膨れ上がる力を解放しようとする青い血の圧力は強まるばかりだった。

カヲルの持ちうる全てを集中して抑え込まなければならないほどに。

現状A.T.フィールドの内側に抑え込めている力も、幾許せずに外界に影響を撒き散らすことになるだろう。

それは人にとって災厄を撒き散らすのと同じことだ。

だから、ミサトに説明しゲンドウに了解を貰ったようにこの場所を訪れた。

異界とも言える黒き月の内部ならば多少の力が漏れ出たとしても耐えられるはずだと考えたからだ。

青い血の衝動がいつ収まるのかはカヲルも予想しようがない。

一日先か一か月先か、一年先か十年先か。

やがては終息するかもしれないし、永遠に継続するのかもしれない。

幸いS2機関は健在だから、カヲルによる抑制が物理的に終了し、青い血の破壊衝動が世界を覆い尽くす事態は防げるはずだ。

でも、青い血が沈静化しない以上、カヲルがこの場所から動けない事象は継続する。

そしてそれは、世界から、人から、そしてアスカから隔絶されることを意味している。

けれど、カヲルには成さないわけにはいかない。

アスカを守るために、何が何でも成し遂げなければならなかった。

そのために彼女と永別する可能性さえ受け入れていた。

アスカと存在意義を共有している以上、カヲルは青い血に食い尽くされて滅ぶわけにはいかない。

それはアスカの命を奪うことになりかねないからだ。

逆にどんな状態だったとしてもカヲルが生存し続ければ、アスカも生き続けられる。

一緒にいては引き裂いてしまうかもしれないし、死が別つまでほの暗い闇の底で拘束することになるかもしれない。

だから、共にいることはできない。

でも、一緒にいられなくても、どこかでアスカが自由に幸福に生きていてくれれば、それがカヲルの願いだ。

元来、使徒と人が共に生きること自体が大それた望みだったのかもしれない。

同じ場所で生きられなくても、同じ時を生きられるなら、十分な報いではないだろうか。

やがてアスカの時が終わるときにカヲルの存在も終焉を迎える。

それでいいと、思っていた。

そう納得させたはずだった。

それでも、カヲルはアスカに逢いたかった。

この暗闇の中で瞼を閉じれば、思い浮かぶのはアスカのことだった。

アスカへの想いがカヲルの中で焦がれるほどに強くなっていく。

でも、それは叶わない、叶わない方がいい。

状況的にも感情的にも、今はあの時に似ている。

けれど決定的に違うのは、エヴァがないこと、そしてアスカが追ってくることはないことだ。

全てのエヴァが消失した今、使徒に対抗する術は存在しないし、追撃することも叶わない。

人は脆く、弱い、そうであれば、どれだけアスカが望んだとしても黒き月への進入を許されることはないだろう。

初号機の掌に乗り込んできたあの時のような手段はもう望めない。

アスカ一人がどんなに強行したとしても、ここまで来ることは不可能だ。

だから、あの時のように見上げても、カヲルを呼ぶ声は聞こえないはずだった。

そう、聞こえないはずだった。

それなのに、カヲルの耳に自らの名を呼ぶ声が届く。

自らの存在意義であり、欠けた心のもう半分であり、愛してやまない彼女の声が。




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