風切り音が激しく流れる。
その音を纏いながらアスカはまっすぐ落ちていく。
それは重力にただ身を任せているようにみえるが、それだけではなかった。
そこにはもう一つの力が働いている。
アスカとカヲルの欠けた心が呼び合い、引き寄せ合う力が。
磁石が引き合うように。
もともと一つのものが、在るべき姿へと還るように。
もっと早く、もっと早く、と。
青い血はいま二人を別れさせようとしている。
欠けた心を引き裂き、深淵に誘い、全てを拒絶し遠ざけようとしている。
けれど、それがなんだというのだ。
『然らば、もはや二人は一体であるがゆえに、なんびともそれを離すべからず』
ワールドエンドはエントランスの片隅で 第三部 aba-m.a-kkv
アスカが身を投げた瞬間、発令所ではマヤがアスカを目標2として設定し、目標1に再分類されたカヲルへの接触予想時間のカウントを開始した。
青葉、日向が各種観測を試みる中、その他の面々はメインシャフトを一直線に降下するアスカの姿を固唾を飲んで見守っていた。
ミサトやリツコたちは、ただ信じるしか出来ない大人の無力さに歯痒さを感じながら。
シンジとレイは、必ず二人は還ってくるという確信と信頼を抱きながら。
かわってアスカの方は飛び降りて降下姿勢を整えた頃には終末速度に達していた。
秒速55mを越える通常では体験しえない速度の中、風圧でスカートが痛いほどバタバタなびき、満足に目を開けていられない。
周りの誘導灯や階層表記がすごい勢いで通りすぎていく。
それでも、アスカは落ち着いてバランスをとり、ほぼ瞬間的に本部の構造と深度、落下速度を勘案してカヲルの元に到達するだろう時間を脳内に刻んでいった。
それにしても、まさか使徒戦争が終結して二年もの時間が経過した今、空挺降下をするはめになるとは思いもしないことだった。
その期間、アスカは軍事作戦に参加してない。
だが、これまで受けてきた訓練の感覚がしっかり呼び起こされていく。
ユーロ空軍にいた頃から自身の身体でも弐号機の機体でも空挺降下を経験し、叩き込まれてきた。
あの頃のアスカはがむしゃらに訓練を積んでいた。
自分の居場所を確立するために。
そうして築き上げた地位は、あの戦争の最中に瓦解することになり、意味を失うことになる。
それまでの血の滲むような努力も無駄だったと思った時期もあった。
でも今、こうしてカヲルのもとに向かう術を身に着けているということに、アスカは報われる思いを抱いていた。
この一度の空挺降下のために、これまでの日々があったのだと。
そうであるなら、これまでの日々は十二分の意味があったのだと。
装備不足と私服なのがイレギュラーではあるものの、アスカは身体が覚えている感覚と現状とを補正して安定した降下姿勢を保っていた。
装甲隔壁も横断橋も収納され、巨大なメインシャフトの中心を降下するアスカを遮るものは何もない。
巨大な口を開けて飲み込もうとするかのような深淵の先にアスカの欠けた心の半分があり、それが生み出す心の壁はどんどん大きく近くなっていく。
もはや無意識に姿勢を制御するアスカの思考は全て眼下の存在に向けられていた。
うっすら瞼を開いて見つめる先のカヲルを包んでいるA.T.フィールドはその個体が持つ個別の障壁だ。
自分自身とそれ以外を隔絶する防壁であり、いまのカヲルのそれは史上最強の強度を誇るだろう。
可視化されるほどの無数のA.T.フィールドは幾重にも織り込まれながら高速で回転し、赤い光をたたえながらも虹色に煌めいている。
ガラスというよりもダイヤモンド光沢のそれはいかにも堅牢で硬質だ。
この速度で、生身の肉体であれにぶつかったなら、原型も留めないに違いない。
でも、カヲルが拒絶し、それによって墜死することになるなら、それはそれでいいとアスカは思っていた。
アスカの命が砕かれるなら、アスカという存在意義を失ったカヲルも滅びることになる。
制御を失ったS2機関の開放にともなう幾らかの被害はあるかもしれないが、それでも人という種族を滅ぼすほどのものにはならないだろう。
二つの存在の喪失と共に、この事象も終局を迎えることが出来るはずだ。
これは一つの解決策であり、アスカにだけ唯一可能な対応策だ。
カヲルを迎えにいくと決めたときにも、そして横断橋から身を投げた瞬間にも、最悪命を落とすことを覚悟していた。
そもそもカヲルに拒絶されたらアスカはもう生きていけない。
アラエル戦で心を砕かれたとき、アスカはカヲルによって生を繋いだ。
カヲルの存在なくしては、もはやアスカは心を保てない。
だから、カヲルに拒絶されればアスカは死を選ぶだろう。
それに、カヲルとは存在意義を交わしあった存在だ。
あの儀式の瞬間、カヲルだけでなくアスカも自らの内奥の何かが書き変わっていくのを感じた。
『君の命によって存在意義を持つ僕は君の滅びと共に滅び、僕の存在意義にその命をかけている君は僕の滅びと共に滅ぶ』
カヲルが言ったその言葉が具体的にどう作用するのかは想像できないが、結果として実際そうなるだろうとアスカは確信していたし、それを願いさえしていた。
でも今、そんなことにはならない、という自信がアスカにはあった。
いつかは共に滅びる時が来るかもしれない、けれど今はその時ではない、と。
自分の中にある欠けた心の残り半分がそう教えてくれるように感じていた。
アスカとカヲルはその存在意義を共有し、その欠けた心は深く結び付いている。
存在意義はその存在を形作るもの、欠けた心の基幹。
いまのカヲルのA.T.フィールドは使徒としての存在意義を持つ者のそれではなく、アスカを存在意義とするカヲルから生み出された心の壁だ。
カヲルを形成する根幹がアスカであり、アスカを形成する根幹がカヲルであるならば、カヲルのA.T.フィールドはアスカにとって障壁にはならない。
A.T.フィールドは自分と他者を隔絶するもの。
自身と同じ存在、自分そのものを拒絶はできない。
レイがアスカを送り出したとき、カヲルならアスカを受け入れると確信に近い考えを示したのは、存在意義というものに深く触れた者の一人である故なのだろう。
そして、アスカもそれを信じる。
右の小指を包む指輪の感触に意識が向く。
どんな気持ちでこれを選んだのだろうかと一瞬想像し気恥ずかしさが走る。
これを手にした時のカヲルはまだこんな事態になることを想定していなかったはずだ。
デートの最後に渡すはずだったのだろうか。
人の慣習にいまだ試行錯誤の最中であるカヲルにとって戸惑いは多かっただろうか。
でも、何にしても、そこに込められた想いは伝わってくる。
変わらぬ想い、それはあの時に書き換えたもの、深くに刻んだもの。
右手の指輪を感じながら、左手の傷を感じながら、アスカはそれを握りしめた。
「絶対に取り戻す、私は私を」
A.T.フィールドが大きくなりすぎてメインシャフトの外壁を削りながら降下する球体がアスカの視界に広がっていく。
脳内のカウントダウンがもう間もなくの接触を警告する。
タイミングをあわせ着地体勢の準備に入った。
訓練の時においては落下傘装備、あるいは弐号機の場合は空中挺進用S型装備で着地したわけだが、今回はそういうわけにはいかない。
カヲルが受け入れると信じていても着地の想定はしておかなければならないわけで、アスカは水中に進入する形をイメージした。
球体の内部は見通せない。
でも、その中心に確かにカヲルがいるのを感じる。
「カヲル――!!」
アスカは愛する存在の名を叫び、A.T.フィールドへと突入した。
そして―――想定していた衝撃がアスカを襲うことはなかった。
大地に降りるときのような固さも、ガラスを砕くような感触も、水中に飛び込んだときのような抵抗もない。
それは雲に入り込んだときのような、質の違う空気の層に進入した感覚に似ていた。
あるいは、寒い冬に外から帰ってきて暖かい室内に入り込んだときに似ている感じがした。
スピードを落とす要素は感じられない、にもかかわらず、自分の身体が急激に減速していくのがわかった。
こうやってカヲルのA.T.フィールドの内部に入ったのは第十七使徒戦の時以来だ。
だが、あの時はカヲルから受け入れてくれたものだから、こうしてアスカの意志で入り込んだのは初めてのことになる。
抵抗なく入ることが出来たということは、カヲルから拒絶されていない証であり、存在意義と欠けた心を共にしている証であり、あの儀式が確かに意味をもって成された証だった。
そして、過去の経験ではわからなかったが、いまこうしてA.T.フィールドの中に入ったとき、カヲルの雰囲気を色濃く感じる。
これまで共に過ごした経験と、ひと時とはいえ味わった喪失ゆえに感じるものなのかもしれない。
抱き締められたときのような強く熱いものではないが、喉の奥に熱を覚えるほどに恋焦がれたぬくもりを感じる。
でも、まだこれからだと気持ちを引き締める。
A.T.フィールドの突破は第一関門、それをすんなり通過できたことに大きな安堵を感じるが、これからがアスカにとって戦争だった。
あの第十七使徒戦の時と同じ、たどり着いた先は未知の事象なのだ。
それでも、否、だからこそ、アスカはここまで来た。
一人では成し得ないとしても、二人なら道を切り拓くことが出来る、そう心に定めて。
そして、深度を下げていくその先に、アスカの青い双眸は追い求めていた姿を捉えた。
銀色の髪を揺らし、赤い瞳に信じられないものを見るかのような驚きの色をたたえる渚カヲルの姿を。
自らの存在意義であり、欠けた心のもう半分であり、愛してやまない彼の姿を。
降下がゆっくりと止まり、中心に辿り着き、相対する。
蒼い眸が同じ高さに赤い瞳を捉える。
そして、あの時と違って静かに、ただ目の前の存在の耳元に届くだけの声で呼びかけた。
「追いついたわよ……カヲル」
驚愕の表情を浮かべていたカヲルの腕がわずかに動く。
でもそれは複雑な表情に変わるのと同じくして中途半端な位置で止まった。
アスカに腕を伸ばそうとして、それが出来ないような。
抱きしめようとしながら、それが許されないような。
そんなカヲルの動きを感じながらも、アスカはカヲルから目を離さない。
カヲルの瞳が揺れる。
信じられない今の状況を咀嚼しようとしているような、言葉を紡ごうと思っても出てこない、そんな空白のひと時が生まれるが、アスカはカヲルの声をじっと待っていた。
そして幾許かを経て、ようやく発するべき言葉を探り当てたようにカヲルが口唇を開いた。
「アスカ、僕は嬉しかったんだ」
それは、遠くに思いを馳せるような声だった。
「あの時、君が初号機と共に現れたとき、混乱しながらも嬉しかった。
人と使徒でありながら、言葉を交わすことが出来た、心を触れ合う機会があった、さらに僕のために行動までしてくれた。
滅びる前に君に会えたことは贈り物のように感じていた。
だから嬉しかったんだ、ただ純粋にね」
懐かしさに浸るような様子からうって変わって、カヲルは悲痛な表情でうつむいた。
そこからの言葉はアスカと目を合わせて話すことが出来なかった。
無理やり感情を言葉に変換するようにして紡ぎ出す。
「でも、いまはこの感情をどう表していいかわからない。
まさか、また再び追いかけてきてくれるとは思わなかった。
だから、もう一度君に会えたことが、嬉しくないわけがない、抱きしめたくてしかたがない。
でも、いまこの世界にエヴァはない。
僕を滅ぼしても僕だけで終わる事象でもない。
君を自由な世界に還す術もない。
いまの僕は君を危険にさらし、君を闇の底に縛り付けてしまう」
カヲルは歓喜と絶望を融け合わせていた。
後戻りすることの出来ない袋小路へ落ち込んだこの状況下での邂逅に。
アスカを巻き込んでしまった自責の念が絡み付く。
いまの自分は災厄でしかない。
しかも、タブリスの時にはあった自らの死の自由という切り札も今はない。
存在意義を共有している以上、アスカとカヲルは運命共同体だ。
自分の滅びだけで完結はしない。
共に滅びることを望まない以上、共に生きていかなければならない。
それがどんな状況であっても。
仄暗い闇の底で生命活動がゆっくり停止していくまで拘束されるとしても。
まだ、アスカが地上で自由に生きてくれたなら、それはカヲルの希望になった。
いつか訪れるアスカの死まで自分が黒き月の最深部に留め置かれることになるとしても、太陽の下で幸せに生きるアスカを想像できるなら、それまでの長い時間も甘受できる。
離れ離れになる痛みに引き裂かれようと、愛しさの炎に精神を焼かれようと、アスカのためにそれを受けるというのなら、それらは正当な報いだと納得できる。
でも、アスカがここまで来てしまったことは、カヲルにとって絶望だった。
孤独が蝕むことはないだろう、愛しさに焦がれることもないだろう。
でも、この何もない、何も出来ない、人として生きる世界ではない、この闇の底にアスカを縛り付けることになってしまう。
それは緩やかで、残酷で、確実な死への道だ。
太陽がこの上なく似合う彼女から、光を奪ってしまうことになる。
大空へ羽ばたくことの出来る存在を、狭い鳥かごの中に閉じ込めてしまうことになる。
そして衰弱していく彼女を腕に抱きながら共に滅びの道を歩むことになる。
それはカヲルにとって耐えられないことだった。
自分のことならいくらでも耐えられる。
でも、アスカだけは、そうなってほしくなかった。
それを、自分のためにさせてしまったという重みがカヲルの腕を縫い付ける。
この終末へとアスカをいざなってしまった自分に、邂逅を喜び、その身体を抱き締める資格があるのだろうかと。
そして、そんな終末へと呼び寄せた自分をアスカはどう思うだろうかと、そんな考えがカヲルの思考をよぎる。
アスカは聡明だ、カヲルの少ない言葉だけでも、すべてを悟るだろう。
その綺麗な青い眸は恐怖に彩られるかもしれない、戸惑いや後悔が滲んでいるかもしれない。
自分の言葉を聞いたアスカの表情を恐れながら、カヲルが顔をあげる。
でも、そこには想像していなかった姿があった。
カヲルは息をのむ。
自分をまっすぐ見つめる惣流・アスカ・ラングレーの青い双眸に。
それはあの日に相対したアスカが向けたものよりも遥かに強い意志の力を宿していた。
神々しいほどまでにカヲルを貫く眸、それはカヲルの中で複雑に絡み合った感情を切りわけるかのようだった。
そこには絶望も後悔も悲嘆も恐怖も、一滴すら混じってはいない。
「どうして……?
ここに堕ちてきてしまったらもう戻れない、なのに、どうしてなんだい、アスカ?」
ここまで追いかけてきた理由。
負の感情を一欠片も見せない理由。
これほどまでに強い眸を向けている理由。
様々なものを込めてカヲルが問いかける。
それに対してアスカはまっすぐ言葉を返した。
「どうして? どうしてですって?」
最初は冷静な声だった。
でも、それは冷たいわけではない、ぬくもりと熱が、そこには血が通う。
アスカの中に流れるもの、カヲルの中に刻まれるもの、その血がほとばしる。
アスカはカヲルの胸座を掴み上げ、引きずり寄せた。
「このバカカヲル!!!
それはこっちの台詞よ!
そして、あんたは何にもわかってない!
あの時も! 今も!
いえ、あの時はまだましだったわ。
あんたはタブリスでもあったし、あたしとの儀式もまだだった。
でもいまは違う。
あんたは何にもわかってない!」
アスカの手から、腕から伝わる熱。
それが、戸惑うカヲルに確実に広がっていく。
しばらくの間触れていなかったように感じてしまうそれは、青い血によって覆われていたカヲルの中のアスカの血を蘇らせる。
「あんた一人勝手に気づいて、一人勝手に決めて、一人勝手に行くなんて。
どうしてあたしに言わなかったのよ!?
どうしてあたしを待たなかったのよ!?
どうしてあたしを一緒に連れていかなかったのよ!?
あたしに言ったところで、あたしが一緒にいたところで、何かが変わったなんて、そんな大それたことは欠片も思わないわ。
でもね、たとえこの街が焼け野原になっても、この世界が滅ぶことになったとしても、あんたはあたしを待つべきだった!
だって!」
カヲルの空間から音が消える、アスカの声以外の全ての音が。
「あたしたちは一つでしょう?
欠けた心を交わしあったんでしょ?
心配したわよ、カヲル」
とても優しい表情をたたえながら、アスカは大粒の涙を零していく。
ぼろぼろと止めどなく。
カヲルへの想いがあふれだしていく。
カヲルを掴んでいた手をゆっくりほどき、アスカは両手を広げた。
「嬉しいなら嬉しいでいいのよ、カヲル。
抱きしめたいなら抱きなさいよ。
このあたしが、いつだって一緒にいてあげるんだから」
アスカの言葉が伝わるとともにカヲルの目から一筋の涙が流れ、伸ばしかけて固まった自らの腕に落ちる。
刹那、カヲルの腕を縛っていた見えない鎖が溶け落ちた。
カヲルのどんな状況も、どんな想いも、どんな願いも、アスカは受け止めてくれる。
それが残酷で、暗い未来だったとしても、アスカは望むことを許してくれる。
カヲルはもう堪えられなかった。
自分の中のアスカへの想いを、こんなところまで追いかけてきてくれたことへの喜びを、そしてアスカに触れたいという願いを。
腕を広げるアスカをカヲルは掻き抱いた。
青い血はいまだカヲルの中で支配を広げている、けれど、呑み込まれかけていたカヲルの心はアスカによって引き上げられていた。
「アスカ、ごめん、ごめんよ。
そして、ありがとう」
カヲルの腕の中で、アスカは自らの半身の帰還を迎え入れるようにその背に腕を回す。
失ったと思いながらも取り戻したぬくもりをしっかり感じながら強く抱き締める。
そして、カヲルの耳元で囁いた。
「一緒にいく、カヲルが何て言おうと一緒にいく。
忘れないで、カヲル。
死も生も。
天使も人も。
力も深さも。
この世界のいかなるものも。
あたしたちを別ちはしないわ」
その決然とした言葉にカヲルは頷き、抱き締める腕を強めた。
融け合いそうなぬくもりを感じ、互いの奥底で繋がる血の流れを感じながら二人は泣いていた。
二人が零す涙が滴となって落ちる。
それは青い血を穿つ楔のようにカヲルのA.T.フィールドに幾重にも波紋を広げていった。
※※※
鈍い衝撃音と空間をわずかに波立たせる振動がA.T.フィールド内に伝わる。
しばらくの間、再会を噛み締め、抱き締めあっていたアスカとカヲルはその音と振動に顔を上げた。
カヲルの巨大なA.T.フィールドがメインシャフトの終端、黒き月の中心部の空間に到達したことを告げるものだった。
以前は南極の爆心地の縮尺のように赤い水と塩の柱をそびえ立たせていた景色も、いまは綺麗さっぱり何もない空洞になっている。
LCLプラントやそれを隔てる扉は消え去っているため、現在、天国の扉という名称はメインシャフトと黒き月の空座を隔てる装甲隔壁に冠されていた。
半球状だった形状も、埋めていたものがサードインパクトで吹き飛び、球状の本来の姿に戻っている。
故にアスカとカヲルがたどり着いたのは黒き月の空座の最下部だった。
ここはサードインパクト以降、人の手が入っていない。
レイとシンジが成した継承の儀式によって浄められた場所の一つであり、忘れ去られるために残された場所でもある。
ここに何もないということが、人がエヴァも使徒も無い世界で新世紀を歩み始めた証になっているのだ。
そして、この忘れ去られるべき空間で、独り置き去りにされるはずだった天使は二つでひとつの存在を伴って降り立った。
「来たわね、カヲル。
しっかし、なんにも無くなっちゃったわね。
一応ここはあたしたちの思い出の場所ではあるんだけど」
寄り添ったままアスカがまわりを見回す。
継承の儀式であるサードインパクトほどの規模ではないものの、アスカとカヲルにとって全てを変えた儀式を執り行っただけに、ここは特別な場所だ。
あの時とは様相がまったく変わってしまったが、その雰囲気はいまだに残存している。
そんな場所を再び訪れ、あまつさえ二人の根幹に向き合うことになったのだから不思議な感慨を覚える。
「でもまあ、二度と来ないとこだと思ってたけど、あんたと来れるなら悪くないわね。
で、これからどうするつもりだったの?」
視線をカヲルに戻し、アスカは訊ねた。
デートのプランを聞くような気軽さを込めて。
こんな状況下であっても、一緒に来れるなら悪くないと言ってくれるアスカにカヲルは嬉しくなる。
「そうだね、どうしようかな。
独りで降り立ったなら、眠ってしまおうかと思っていたんだ。
睡眠というより冬眠に近いかもしれない、意識を内面に向ける必要があるからね。
僕が僕自身に向き合うことで、その存在を認識することで、兄弟たちが試みる融合に抵抗することが出来るはずだ。
いつまでかかるかわからないけど、この青い血の衝動が治まるまで」
「気の長い話ね。
なら、なおさらあたしが追いかけてきてよかったわ。
あたしがいればカヲルも退屈しないで済むし、早く抑え込むように横で催促も出来るしね。
とっとと終わらせてデートのやり直しをしてもらわないと」
アスカが右手を掲げて見せる。
その小指に嵌められたピンクゴールドのピンキーリングを。
満面の笑顔と共に。
それを見てカヲルは目を見開き、それからとても嬉しそうに破顔した。
「着けてくれたんだ」
それはカヲルにとって予想外の嬉しいことだった。
忘れていたわけではないが、さらに重大な事象の前に二の次になってしまったのは否めない。
でも、この指輪を選ぶ時にはとても悩んだし、たくさんの情報を調べた。
買いに行く時には、これまで感じたことのない緊張感を味わった。
デートに出掛ける時には何度も忘れていないか確認したし、アスカは喜んでくれるだろうかと心を揺らしながらもその笑顔を想像したりしたのだ。
でも、青い血の衝動を受けて、二度と再び合間見えることも叶わない状況で、直接渡す術を失った。
限られた接触の機会を使って託しはしたが、アスカの手に渡るのはずっとずっと後になってからだと考えていた。
自分が巻き起こす混乱の中では機会も時間的余裕も無いとわかっていたから。
だからこうして指輪をつけてきてくれたことが嬉しかった。
その表情を、願っていた笑顔を見れたこと。
そして、カヲルがその指輪に込めた想いがちゃんとアスカに届いていることを感じられたことも。
後にカヲルは、預かってくれた信濃とアスカの背中を押したレイに感謝することになる。
「あんたが早々と行ってしまうから自分で着けるはめになったわよ。
まったく、本当はカヲルに嵌めてもらいたかったんだからね。
どうしてくれようかしら?」
アスカは悪戯っぽく問いかける。
それはデートのやり直しの際にカヲルから更なるもてなしを要求するものであるとともに、この黒き月に留まる時間を出来る限り短いものにしようという積極的な思いの現れでもあった。
そんな風に気遣ってくれる、願ってくれるアスカのことがカヲルは愛しくて堪らなかった。
だから、その問いに約束を重ねる。
「いつか、埋め合わせをするよ。
その時には左手に、必ず」
一瞬の空白の後、カヲルの言葉の意味の理解が追い付いたアスカは言葉を失い、頬を染める。
見つめるカヲルの赤い瞳は真摯で、その表情はどこまでも優しかった。
アスカはたまらずカヲルの胸に額をぐりぐり押し付けて、赤い顔を見られないようにしながら小さく呟いた。
「……まってる」
地の底の無機質で剣呑な状況の中にあって、幸せを感じあったのも束の間、カヲルの表情が微かに苦痛で歪んだ。
アスカはそれを見逃さない。
左掌の傷の疼きも青い血の侵食がカヲルの中に確実に広がっていることを教えてくれていた。
「つらい、カヲル?」
「そうだね、そろそろ集中して取りかからないといけなさそうだ」
カヲルはアスカを見つめて決意を固めた。
それまでは漠然とした計画だった。
目標としていたのは、どれだけ時間が掛かったとしても、青い血の暴走を抑制し、影響を黒き月の外部に出さないこと。
そして、いつか訪れるだろう約束の時まで、自らの存在の延命を図ること。
それまでの間、自分がどんな状況になろうと構わなかったし、時間も考慮に値しなかった。
でも、いまはアスカが隣にいてくれる。
いつまでも時間を消費するわけにはいかない。
現状維持ではなく、終息させることがカヲルの目的になる。
とはいえ、青い血はカヲルの器を突き破らんとする勢いで大きくなってきていた。
力の奔流も指数関数的に増していく。
それに対してカヲルが切ることの出来る手札は多くない。
どうしても地道で時間のかかる方法しか思いつかない。
せいぜいその強度を引き上げることしか出来ないのが現実だった。
盤上をひっくり返すようなものは存在しないのだ。
アスカがあの儀式の時に示したような、鬼札は望むべくもない。
それでも自分の持ちうるもの全て、全身全霊をかけて成し遂げなければならないと心に定める。
A.T.フィールドの中心部分に浮かんでいたカヲルはアスカを伴ってゆっくり降下し、黒き月に足を着ける。
それからカヲルは腰を下ろした。
アスカもそれに倣う。
「僕が内側に意識を向ける間、傍にいてくれるかい?」
カヲルの願いにアスカは強く頷いた。
それからカヲルの真正面に身体を移し、左手でカヲルの左手を取る。
そして指を絡ませ、右手をそれに添えて胸元へと引き寄せた。
カヲルが不思議そうに首をかしげるが、アスカは当然のことのように言葉を返した。
「ただ傍で待ってるだけなんて性に合わないわ、あたしも手伝う」
それからアスカは祈るようにして目を閉じた。
「あたしたちは二人でひとつ、カヲルが自分に向き合うなら、あたしもそうする。
カヲルであり、あたしでもある、あたしたちの血に向き合うわ」
しばらくの間、アスカは目を閉じたまま何かを探るように額にシワを寄せて唸っていた。
でも、何かに嵌まり込んだように落ち着くと手に力を込める。
カヲルは静かにそれを見つめていた。
やがて、カヲルは自分の中が温かくなるような感じを覚える。
身体が熱を持っているのとは違う不思議な感触。
しかも物質が溶融していくような、境界が曖昧になっていくようなそんな柔らかさを感じていた。
そして、黒き月の空間一杯まで増殖したA.T.フィールドの中に変化が訪れる。
最初はごくぼんやりと、アスカとカヲルを中心とした範囲に青い光が混じり込んでいく。
アスカの眸の色のように綺麗な青い光が。
それは次第に強く、はっきりとアスカとカヲルを覆い尽くしていった。
※※※
時を少し遡って、アスカがカヲルのA.T.フィールドに突入した瞬間、第一発令所では安堵の声が上がっていた。
特にアスカを送り出したミサトとその背を押したリツコはほっと胸を撫で下ろす。
無理もない、カヲルのA.T.フィールドの拒絶強度は観測史上最強を記録していた。
物理的な外的接触はことごとく拒絶される、それが生身の人の肉体であればどうなっていただろうか。
マヤも接触の瞬間はカウントしながら目を瞑ってしまっていた。
ただ、レイとシンジだけがその瞬間を確信を込めて見守っていた。
そして、アスカの進入と共に観測を試みていたデータに変化があった。
「目標2の接触後、目標1の拒絶強度が低下していきます! 観測を再開します!」
「弐号機パイロットのインターフェイスヘッドセットに接続できました! こちらのほうからも観測を継続します!」
「目標2のバイタルサインが入ってきました! 安定して推移しています!」
アスカがカヲルの中に入り込んだことで、カヲルがアスカを受け入れたことで、完全ではないが発令所でも外部観測が再び可能になり、内部のエネルギーの状態などを知ることが出来るようになる。
さらにアスカが常に身に付けているインターフェイスヘッドセットも役に立つことになる。
エヴァを失った今、アスカは思い入れのある装身具として愛用していたが、元来はパイロットとエヴァを接続するための重要な機器であり、小さいながらも様々な計測器を詰め込んだ精密機械でもあった。
内部の映像や音声を拾うことは出来ないが、それによってアスカの生体データや精神関連のデータが得られるようになる。
こうして、いままで何も見えない闇の中でただ座っていることしかできなかった大人たちが、データの形ではあるものの内情をいくらか知ることが出来るようになった。
そこからどんなことが出来るかはわからない。
でも、何かをしたいという思いがあり、それが叶わないならせめて記録を残しておきたいという考えがあった。
次があるならば、その時に生かすために。
二人の今後のために少しでも良い道を作り出すために。
「目標1、2ヘブンズドアを通過! 黒き月への進入を確認!」
「黒き月の最下部に着底! A.T.フィールドの範囲が空間全体に広がっていきます!」
カヲルの望んだこと、要求したことが果たされる。
ここから何が起こるのか、アスカが入り込んだことで何が変わるのかはわからない。
シナリオそのものが存在しない事象。
ここから先の物語の書き手はあの二人に託されることになる。
「ついにたどり着いてしまったのね。
彼の中の使徒の反応は?」
「パターン青は健在です!
A.T.フィールドの拡大もS2機関から生成されるエネルギーの増大もいまだ続いています!」
ミサトの問いに日向が返答する。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、ミサトは首に下げていたキーを引き出した。
本部の自爆システムを起動するために必要な認証キーだった。
コンソールにある誤作動防止のカバーを開き警告表示のある鍵穴に差し込む。
「本部の一般職員や外部関係者の退避も、もはや先延ばし出来ない状況ね」
NERV本部には非常事態体制に関係する訓練の名目で各部門やエリアに現在も制限が課されているが、総員退避命令は出されていない。
そこまでになると、秘密裏に扱える範囲を越えてしまうからだ。
世界に不安を広げないための処置ではあるが、限界はいつか訪れる。
アスカとカヲルが青い血の制御に失敗した場合、本部を自爆させて黒き月を埋没させれば、地表部への被害の拡大を防げるかもしれない。
そのためには総員退避命令もやむを得ないだろう。
少しの可能性でも選択肢を確保する必要がある。
隣のコンソールでは現在得られるデータと過去に記録された情報を照合しながらリツコとマヤが微細な変化、特に破滅に繋がりかねない変化に目を光らせていた。
「シンジくん、レイ、あなたたちも取り敢えず地表施設まで避難しなさい。
あの子達を見守りたい気持ちはわかるけど、エヴァが無い今の状況で本部に残るのは危険だわ。
あなたたちはもう戦闘に携わる人間じゃない、次世代を担う希望なんだから」
ミサトがレイとシンジに退避を促す。
犠牲は少ない方がいいし、それを担うのは自分達の役割だとミサトは思っていた。
アスカは相手がカヲルである以上自ら飛び込んでいってしまったが、レイとシンジはこれ以上危険を冒してまで巻き込まれる必要はない。
でも、レイはミサトに近づき頭を振った。
「葛城さん、大丈夫です。
私たちはここで見届けます。
この事変は長くは続きません。
渚くんがあのままでいることを、アスカは許しはしないから」
「レイ、それってどういう……」
抽象的で予言めいたレイの言葉にミサトが真意を問おうとした時だった。
マヤがデータの変化に気付き報告の声を上げた。
レイの言葉がきっかけのように、堰が切られる。
「目標2のインターフェイスヘッドセットからのデータに変化を確認!
先輩、このパターンは……」
「ええ、これは、エヴァとの神経接続のパターンに似てるわね。
過去のアスカのシンクロデータと照合してみて」
マヤから見せられたデータにリツコが驚きの表情を浮かべる。
二年前までは毎日のように眺めていたものと、かなり似たパターンが映し出されていた。
波形の形は若干異なるものの、見間違えないほど扱ってきたものだ。
リツコの指示に、マヤはかつての弐号機で記録されたアスカのシンクロデータを引っ張ってくる。
「データ重ねます!
条件が異なりますが、これは、かなり似ていますね」
「渚くんとシンクロしているということなの?
マヤ、シンクロ率の計測は出来る?」
リツコとマヤの見立て通り、重ねられたデータは完全に一致とは言わないまでもかなり近似したものだった。
しっかりとした設備や機器が整った状態の実験下と現在の状態を考慮すれば、この程度のぶれは誤差にすぎない。
アスカは今、シンクロ状態にある、データはそれを結論付けていた。
そうであるなら何と繋がっているのか、その答えは一つしか思い至らない。
エヴァもなく黒き月も空座であり、共にいるのは彼の存在しかない。
でもそれは想定の範囲外だった。
エヴァでさえパイロットとのシンクロには仲介者の存在が必要だった。
例外として、カヲルが弐号機と自由にシンクロ出来たのは、同族由来の存在であることと使徒の特殊能力の故だった。
だから、仲介するものもなく、使徒としての力もなく、同族でもないアスカがカヲルとシンクロすることは不可能に思われた。
でも、目の前の現実はあり得ない事象が確かに起きていることを示している。
さらに想定外は続く。
観測データを基にして大まかなシンクロ率を計算したマヤは算出された数値に一瞬絶句した。
「そんな……換算数値で200%を越えています! なおも急激に上昇中!」
「依り代もなく、しかもエヴァではない存在とシンクロできているなんて……!
それにこの高シンクロ率、測定器の異常ではないわよね」
「はい、経年劣化による誤差の可能性はありますが、こちらからチェックした限りインターフェイスヘッドセットは正常に機能しています!」
測定器の異常だと思いたくなるほどのシンクロ率。
実験下ではパイロットの安全を考慮してシンクロ率が80%を越えることはない。
作戦中に100%を超えることはあったが、シンジが初号機に取り込まれた例外を除いて200%を超えるなど異常事態だった。
しかもそれは今も上昇を続けている。
さらに追い撃ちをかけるように事象は変化していく。
青葉が報告を上げた。
「フィールド内部に高エネルギー反応!
S2機関のものとは異なります!
これは、マイナス数値! アンチA.T.フィールドです!
目標1のA.T.フィールドを侵食しながら増大中!」
「アンチA.T.フィールドですって!?」
ミサトが驚愕の声を上げる。
アンチA.T.フィールドといえば高密度集合体のロンギヌスの槍を思い出すが、現象として発生するそれは過去の二度のインパクトを彷彿とさせる。
一度目は覚醒したアダムを還元するため、二度目は人の心を融合させるため、どちらもロンギヌスの槍のアンチA.T.フィールドが重要な役割を果たしていた。
アスカの高シンクロ率にアンチA.T.フィールドの発生。
推測するなかで結び付いてしまうフォースインパクトの可能性にミサトは戦慄する。
「大量のニュートリノを観測!
高密度のアンチA.T.フィールドから生成される反物質と、物質化したS2機関のエネルギーが対消滅反応を起こしていると思われます!
目標内部のS2機関の過剰エネルギー生産を抑え込んでいっていますが、エネルギー留保は増大しています!」
「まずいわ!
このままじゃ行き場を失った力が暴発しかねない!」
カヲル自身が懸念していたS2機関の暴走はアンチA.T.フィールドの高密度化によって発生した反物質との対消滅反応によって抑え込まれていく。
どういう法則が働いているのかは不明だがS2機関が垂れ流すエネルギーは物質化され、それはアンチA.T.フィールドから生成される反物質に食われるように対消滅していくのだ。
生産しても生産しても反応していくため、S2機関のエネルギー生成という観点では制御されていると言ってもよい作用が働いていた。
だが、対消滅反応は新たな高エネルギーを生み出してしまう。
いまやS2機関によって過剰に生み出されたエネルギーより遥かに巨大なエネルギーがフィールド中心部に溜め込まれていっている。
計測される数値は本部の消滅程度では済まない規模にまで膨れ上がっていた。
そしてカヲルのA.T.フィールド内の力場で抑え込むことが出来るエネルギー量は限界に近づいている。
それは少し衝撃を加えただけで爆発しかねないニトロの様相だった。
「シンクロ率300%を突破!
危険です! このままでは個体同士の融合が始まってしまいます!」
「だめよ、アスカ、戻れなくなるわ!」
マヤの悲鳴にも似た報告にリツコの叫びが重なる。
第十四使徒戦でシンクロ率400%を超えたシンジがエヴァに溶けた時のことが脳裏に過る。
その時、初号機は暴走状態に入った。
最強の使徒を軽く葬り、その後三度も力を解放したその原因はシンジのシンクロ率の境界突破だった。
今回、アスカが境界を超えた先にあるものは何なのだろうか。
誰もが最悪の状況を想像する中で、カウントダウンのように数値が上昇していき、遂に臨界点を超える。
「シンクロ率400%を突破! 計測限界を振り切りました!」
「エネルギー集積密度限界! 爆縮します!」
瞬間、大きなうねりが本部を揺らした。
それは小刻みな横揺れの震動ではなく、貨車と貨車が連結するときのようなただ一度の空間のうねり。
そして鮮やかな薄紫色の光が辺りを包んだ。
黒き月を原点にしたその光はメインシャフトを通って本部上層を突破し、ジオフロントに十字架を打ち立てる。
だが、破壊を伴う衝撃も熱も爆音もそこには無かった。
その光は全てを透過するだけ、ただ優しく明るく照らすだけ。
「爆縮による特異作用で、目標中心に虚数空間に近似的な空間変異が発生!
溜め込まれたエネルギーがマイナス宇宙に放出されていきます!」
「すごい……!! あれだけのエネルギーが周囲に何の影響も及ぼさずに消えていく……!」
ミサトが息を飲んだ。
膨れ上がったエネルギーが爆縮し、その力が別次元の空間をこじ開けていく。
そして、目の前のモニターで目まぐるしく変化していく数値の羅列とグラフの波は、さっきまで世界を滅ぼしかけていた力の塊がまるで設定されていたかのように空想の世界に流れ出ていく様子を映し出している。
青い血の力が、今度は本当の意味で無害化されていく。
人類の存続と滅亡の天秤が、サードインパクトに引き続いて存続へと傾いていくのを目の当たりにしていた。
それと共に、この現象の中心になっている妹のような存在のことがミサトの脳裏によぎった。
「アスカは!? どうなってるの!?」
「無事です! バイタルすべて正常、自我境界パルスもリビドー値・デストルドー値均衡を保っています!
極めて安定した自我状態です!」
「あり得ない現象だわ……!
シンクロ率が400%を超え、アンチA.T.フィールドが発生しているのに、中心地になっている二個体の形状と自我境界が保たれているなんて……!」
マヤの驚きと喜びが混じる報告の内容にリツコは驚嘆の声を洩らした。
エヴァとのシンクロと同じ条件ならば、繋がっている存在と融合してしまうはずだ。
シンクロ率400%という数値はそういう意味を持つ。
また、今回観測されたほどのアンチA.T.フィールドに晒されれば、人は自我境界がデストルドーに傾き個体を維持できずに溶けてしまうはずだ。
にもかかわらず、観測されるデータはアスカがそんな極限下にありながら自分の存在をしっかり維持していることを表している。
ミサトやリツコたちは理解できていなかった、アスカだけでなくカヲルの存在も考慮しなければこの状況を把握できないことに。
この場でそれを曲がりなりにも理解しているのは、サードインパクトで継承の儀式を執り行ったレイとシンジを除けば二人だけだった。
「人と人とが形と自我を保ちながら融合する、か」
「ああ、我々は新しい補完の形を目撃しているのかもしれない」
「新世紀を生きる子供たちには驚かされるばかりだな、碇」
「すべての人間がそれを望むわけでも、望めるわけでもない。
残酷な運命さえも乗り越え、絶大な信頼と莫大な自己犠牲を伴う献身が必要だ」
「我々が成せなかったことだな」
「ああ、だが、それでいい。
これもまた一つの可能性だ。
そして、かのものたちの未来を明るく保つことが、残された我々の成すべき義務なんだろう」
ゲンドウが視線を落とした先では、レイとシンジが互いの手をしっかり繋ぎ合いながら、収束を始めた淡い紫の光の源の方を見つめていた。
※※※
「この光はいったい……それにこの感覚、アスカ、君は何をしているんだい?」
カヲルは不思議な感覚に戸惑っていた。
先程まで自分の中で急速に膨れ上がり抑え込むに難儀するほどだった青い血の圧力が徐々に消えていく。
頭の中に響いていた兄弟たちの「還りたい」「なぜ」「どうして」という声も鳴りを潜めていた。
いま感じているのは繋いでいる手から伝わるアスカのぬくもりだけ。
しかもその触れあっている部分の境界は曖昧で、たしかにアスカの存在を感じることができているのに、溶け合っているような形の無さも感じていた。
想いや心という抽象的なものに関してはなおいっそう近くに感じることができている。
青い血の圧力で溺れかけていたカヲルにとって、その溶け合う感覚はどこまでも優しくあたたかく心地いい。
その急激な変化にアスカが関わっているのは間違いない。
そして、自分の中から急速に力が抜けていくのに合わせて周りに視線を向ければ、アスカと自分の間に青い光が輝き、それは自身のA.T.フィールドが持つ赤い光と混ざりあって淡い紫色へと変化していくのが見える。
「特別なことをしてる訳じゃないわ。
ただカヲルを感じてるだけよ、エヴァにシンクロするみたいにね」
事も無げにそう言ったアスカの言葉に、カヲルは視線を戻す。
そしてその言葉に結び付くものがよぎりカヲルは戦慄した。
なるほど確かにエヴァとシンクロしているときの感覚に近いものがあるが、ずっとずっと深いものを感じる。
100%までのシンクロ率はエヴァを自分の体のように扱えるという意味を含めて、自分の存在をエヴァに重ねる割合を表している。
でも100%から上の領域はエヴァに自分の存在を削られる行為だ。
その代わりにエヴァの絶大な力を引き出すことができる。
シンクロ率が上がれば上がるほど、精神はエヴァの側に取り込まれることになり、精神汚染や依存という弊害が起こることになる。
そしてその極致がシンクロ率400%だった。
これまでにおいて、碇ユイと碇シンジの二人がエヴァに完全に取り込まれ、惣流キョウコ・ツェッペリンは魂の大半を持っていかれた。
シンクロ率400%はただエヴァに自分を重ねることとは一線を画す。
その境界を超える本当の意味は存在の融合であり譲渡であり放棄でもあるのだ。
自分の存在を他の存在に委ねてしまう。
それはデストルドーの増大であり、死への願望でもある。
その死への願望がアンチA.T.フィールドを生み出し、自我境界を消失させ、肉体を溶融させてしまう。
シンクロ率を上げるということは死に近づくことであり、アンチA.T.フィールドを創出する手段だった。
そしていま、その現象が目の前にある。
「アスカ、でも、この光は……」
「わかってるわよ、アンチA.T.フィールドでしょ。
たぶん今のあたしのシンクロ率は400%を超えてる。
でも大丈夫、あたしとカヲルはひとつだから、大丈夫」
カヲルは目を見開いた。
アスカが全てを理解した上で行っていることに。
そして、アスカの大丈夫の言葉と共に納得した。
アスカはそれまでエヴァで培ってきたシンクロする技術を持っている。
とはいえ、技術だけでは400%という境界を超えることは出来ない。
カヲルの欠けた心を内包しているからこそ、相手に極限まで近づくことが可能になったのだ。
シンクロ率を400%まで上げることでデストルドーを増大させ、アンチA.T.フィールドを展開することでカヲルの中の青い血のA.T.フィールドを抑え込んでいく。
そしてシンクロ率が限界値を超えても形と自我を保っていられるのは存在意義を共有しているからだ。
あの儀式を経て、アスカとカヲルをこの世界に存在させ形作っている存在意義は一つになっている。
二人は一体、ならば、シンクロ率が400%を超えたとしても、それに伴うアンチA.T.フィールドの中にあっても、一つになっているものはそれ以上ひとつになれない。
互いに触れ合う境界があいまいになることはあっても、それぞれの形を失うことも、自我が交じり合うこともない。
アスカとカヲルだからこそ、一つでありながら、それぞれがそれぞれとして存在することが出来ている。
そして、アスカの自我境界が安定しているのは、自らの生の願望も死の願望もカヲルに託しているからだ。
『君の命によって存在意義を持つ僕は君の滅びと共に滅び、僕の存在意義にその命をかけている君は僕の滅びと共に滅ぶ』とカヲルは言った。
だがそれは裏を返せば『アスカの命によって存在意義を持つカヲルはアスカの生と共に生き、カヲルの存在意義にその命をかけているアスカはカヲルの生と共に生きる』ことを意味する。
数値としてのデストルドーが極限に振れたとしても、それはアスカに影響を及ぼし得ないのだ。
しかも、お互いがいままで以上に結び合っている。
二つでひとつの存在が安定しないわけがない。
考え得るプロセスはそうなるが、アスカにとってはもっと単純なことだった。
アスカにとってはカヲルと一緒に生きたいという願いを表す手段であり、アスカとカヲルが二人で一つであること、互いの存在意義を交し合っていることの認識だった。
そしてそれが、カヲルの中の青い血を抑え込むことにも繋がっていく。
「まさか、こんな方法があったなんて」
「あたしに出来ることはこれくらい。
そして、カヲルの中の青い血を消すことが出来ないなら、あたしはあんたたちの敵じゃないってことを、あたしの願いはカヲルと一緒に生きていくことなんだってことを伝えてやる。
あたしはいつでも、いつまでもカヲルの傍にいるし、必要ならこうして触れ合って、カヲルの中の青い血を説得してやるわ」
今回のカヲルの中の青い血の暴走は、この星の継承者であるリリンとアダムの後継の総体が同じ世界に存在しているという軋轢から生じた。
でも、アダムの後継の総体であるカヲルと継承者の一部であるアスカが一つであるという認識が、青い血を鎮静化させることになる。
カヲルがアスカによって継承の一端に与かることになるならば、青い血が継承権に関して是正を求める理由が無くなるのだ。
カヲルも、カヲルの中の青い血も、アスカによってこの星に存在することを赦される。
カヲルの中の青い血が収束していくのをあらわすように、赤い光の翅と光輪が崩れて消えていく。
それは天使の形ではなく、人の形で歩くようにと告げられているかのようだった。
カヲルの中で青い血のざわめきが消えていくとともに、心の中にアスカへの熱い想いが膨れ上がっていく。
「ありがとう、アスカ。
君と一緒にいられて良かった……本当に良かった……」
「当たり前でしょ、あの時からずっと変わりはしないわ」
カヲルが右腕を伸ばしてアスカを抱き寄せる。
アスカもカヲルの手を握りしめたまま頬をすり寄せた。
身体全体が触れ合い、個体の存在は確かにありながらもその境界はあいまいだった。
「いい感じだわ、カヲルと一つになっているみたい」
「そうだね、あたたかいね」
心地良さにたゆたいながら、アスカとカヲルが心の触れ合いを深めていくにつれて、アンチA.T.フィールドの青い光は全体に広がり、A.T.フィールドの赤い光を侵食していく。
やがて二つの光は完全に混じり合って、淡い紫色の光となって黒き月を満たしていった。
それぞれの存在を保ちながら、心を溶け合わせるアスカとカヲルをあらわすように。
※※※
エレベーターの降下にともなって軽く浮き上がるような感触が伝わる。
一階まで降りる幾許かの間、あの世界が滅びかけた日から今までの出来事がアスカの頭の中に巡っていった。
後にごく一部の関係者の間で幻の侵攻と呼ばれることになるあの日、淡い紫色の光が拡散して消えていくと同じくしてパターン青も消失し、アスカとカヲルは黒き月から救出されることになった。
非常事態に関する訓練は即日解除。
奇しくも同じ時に起きた振動や光の柱は、箱根山直下で発生した低深度地震とそれに伴う発光現象と発表された。
メインシャフトとターミナルドグマにもたらされた損害は地震によるものと認定され、後に修復される。
一時的に拘束されたカヲルには精密検査が行われたが使徒の兆候を示すものはなに一つ見つからず、皆が安堵することになる。
それでも、こうした事変が今後も起きないという確証はなかったことから、NERVとカヲル、そしてアスカの間で条約が結ばれることになった。
NERVがカヲルとアスカの安全を保障すること。
その代わりに、カヲルは人類の存続を脅かすような行動をしないと約束すること。
加えて、カヲルとアスカは行動の制約、つまりは一定の距離、一定の期間、二人が離れ離れになる状況を許さないという制約を受け入れること。
そうした点を含んだ平和条約であり安全保障条約が秘密裏に締結された。
アスカは幻の侵攻時に観測されたデータから、カヲルにとっての制御者と認定された。
それが唯一、青い血をコントロールする手段と見なされ、それゆえにカヲルの自由が限定的に認められることにも繋がる。
NERVとしてもカヲルの使徒の力を物理的に抑える術を持っていなかったし、カヲルとしてもこれだけの事変の原因になりながら一定の自由と安全が保障されるのはありがたかった。
誰もが戦争に戻りたいとも世界の終わりを見たいとも思わない。
アスカだけはある意味でとばっちりを受ける形になるが、二つ返事で了承した。
条約が締結されれば、アスカの自由は制限され生涯カヲルの傍にいることを強制されることになる、それでも良いのかと尋ねられたとき、アスカは事も無げに宣った。
小指の指輪を掲げた後、左手を振りながら。
「右手はもう貰いました、今か、後かの差です」と。
その後も定期的に青い血の暴走がカヲルを襲ったが、その都度アスカが共にいて解消していった。
学校だったり家だったり旅行先だったり、時には仕事の海外出張先で起きたこともあった。
近年では幻の侵攻のようなひどい状況になる前にカヲルもアスカも気が付いて抑え込むことが出来ている。
経験を積むごとに、察知する力も対応する方法も互いに熟していった。
その時に一番の兆しになるのがアスカの左掌の傷だった。
掌を貫く、はたから見てわかるほどの大きな傷跡。
それが、カヲルの青い血の疼きと連動してアスカに痛みをもって知らせてくれる。
目立つ傷跡だが、アスカにとっては誇りだった。
自分たちの儀式の目に見える形であり、互いに生涯消えないものがあるというのはいいものだと感じていた。
そして今宵も、カヲルの事を知らせてくれたのはこの左掌に聖痕のように残る傷だ。
それを見つめながら、この十年いろんなことがあったわね、そんな感慨に浸ったのも数瞬、エレベーターが一階への到着を告げる。
アスカの右手に握られていた携帯の画面にはカヲルからのメッセージが表示されていた。
『エントランスで世界が滅びそうなんだけど、来てくれないかな』
まるで簡単な用事を頼むかのような気軽さと、通常ではありえない重さとが混在する。
安穏と剣呑が入り混じるメッセージ。
エントランスというのは、アスカとカヲルが住んでいるコンフォートの一階にあるエントランスホールの事だろう。
NERVが建設し管理するコンフォートには二重のオートロックの間にエントランスホールが設けられている。
それは景観や豪華さだけでなく、防犯や防衛を考慮したスペースだ。
そこでカヲルはアスカの事を待っている。
到着したエレベーターの扉をこじ開けるように開いて、アスカは駆け出した。
短い通路を越え、内側のオートロックの扉が開いた先のエントランスホールに入る。
そこは一人暮らしなら十分居住できるのではないかと思える空間が広がり、宅配ボックスや観葉植物が置かれている。
さらに大きくて丈夫な長テーブルが二組置かれ、テーブルの長い方向に相対して一人掛けの椅子が一組、短い方向に相対して三人掛けのソファーが一組置かれている。
そして、その三人掛けのソファーの一つに埋まるように腰を沈めたカヲルがいた。
心地よさそうに瞼を閉じ、微かな笑みを浮かべている姿はまるで眠っているようにも見える。
でも、深くゆっくりとした呼吸で銀色の髪を上下させている様子は、内面を抑え込もうとしていることが伝わってくる。
その姿を見てアスカは歩を緩めた。
ゆっくりとカヲルに近づく。
そして、領域に入り込んだのを感じた。
エントランスの空間に見た目でわかるような変化はない。
歪みも震動も光もない。
このエントランスを誰かが通り過ぎたとしても、何も感じず、ただ座っている住人に軽い挨拶をして通り過ぎることだろう。
でも、アスカにだけはカヲルが展開するA.T.フィールドがわかる。
あたたかいカヲルの雰囲気が身体を包み込んでいくのを感じる。
そこで、カヲルは気が付いたように薄目を開けた。
「……アスカ?」
喉の奥深くから絞り出すような声だった。
深く沈んだまま動かないカヲルのすぐ目の前まできて、アスカは仁王立ちになる。
そして一つ息をついた。
「あんたに呼び出されて、わざわざすっ飛んでくるもの好きなんて、あたしくらいよ。
無事ね、カヲル。
よかった……」
それは一つにため息、もう一つは安堵の吐息だった。
アスカの声に心配が混じる。
それでも、完全にというわけではないが、今のところカヲルは自らの青い血を自分で制御できているようだった。
「心配、してくれてるのかい。
うれしいね、遅いと、言われるかと思ったよ」
力のうまく入らない腕でコンビニのビニール袋を僅かに掲げる。
そこにはアスカが頼んでいたスイーツが数種類と牛乳パックが一本入っていた。
「あんたの中のあたしは相当自己中でヒドイやつね。
買ってはきたんでしょう。
それならカヲルの入れてくれるカフェオレで相殺ってことにするわ。
あたしが用意していたお茶は冷めちゃっただろうからね」
アスカの軽口にカヲルが力なく笑いながら首肯する。
しんどそうにしながらも笑ってくれたことに、アスカは少しだけ胸を撫で下ろした。
「それで、どんな感じなの?」
「そうだな、あの日ほど酷くはないけれど、青い血が脈動して、兄弟たちが声をあげてるのはいつもと同じだ。
S2機関からも少し力が溢れだしてる。
油断したね、久しく出ていなかったから気づくのが遅れたよ」
幻の侵攻以来、カヲルは試行錯誤を重ねて、青い血の衝動を表に具現化させずに抑え込む術を編み出した。
ただ、自分の周りに影響をおよぼさない代わりに、カヲルは全力を内側に傾ける必要があり、その場所からほとんど動けなくなってしまう。
幻の侵攻の時は自分一人で何とかしようとした故に顕在化を許したが、今はアスカがいる。
カヲルが大人しく動かずに沈んでいられるのは、アスカがいつでもどこでも傍にいてくれるからという信頼があるからだった。
そして、アスカもそれを理解している。
「そっか……ここでする?」
「すまないけど、そうしてくれるとありがたい」
アスカはソファーに携帯を放り投げるとカヲルの膝の上に跨がった。
それからその首に腕を回し抱き締める。
「カヲル、いくわよ」
アスカの声に、カヲルも力を振り絞ってその背中に腕を回した。
それを合図に、アスカはカヲルの欠けた心に自らの欠けた心を重ね合わせ溶け合わせていく。
カヲルもそれに倣ってアスカに自らを重ねていく。
共鳴が始まる。
二人の境界があいまいになり、かすかな光とともに輪郭がぼやけていく。
やがて、溶け合った二人の中心が臨界を超える。
音が呑み込まれて静寂がエントランスを満たし、それとともに異次元の扉がこじ開けられる。
もし今、誰かがこのエントランスを通りすぎたとしても、若い男女が人目も気にせず抱き合っている様にしか見えないだろう。
でも、目を凝らせば淡い紫色の光が二人を包んでいることに気が付くかもしれない。
それでも、まさかこんなところで、最強のA.T.フィールドと全てを融合させるアンチA.T.フィールドが侵食し合い、中和されているなんて誰が想像できるだろうか。
そして、世界を焼き尽くすのに十二分な凄まじい力の奔流が想像の世界へと放出されているなんて誰が知りえるだろうか。
世界の終焉へと傾いていた天秤が、世界の存続へと動いていく。
互いに存在を保ちながら溶け合う心地よさとぬくもりを感じながら、アスカとカヲルは祈る。
共に生きることを、共に滅ぶことを、何者も二人を引き離し得ないということを。
二人の祈りと共に淡い紫色の光が拡散していく。
やがて何事もなかったかのような平穏がエントランスに戻り、アスカは顔をあげた。
「これでもう大丈夫ね、カヲル」
アスカが心の底からホッとした雰囲気を纏い、優しい笑みをカヲルに向ける。
圧力から解放されたカヲルも安堵の息をつく。
そんなカヲルの表情を見て、アスカはもう一度柔らかくカヲルを抱きしめ頬をすり寄せた。
再び取り戻した半身を迎えるように、そのぬくもりを確かめるように。
もう両手の指では数えきれない終焉を乗り越えてきたとはいえ、心配する思いは変わらない。
慣れることなどこの先もありえないだろう。
世界を天秤に乗せるだけの重みが、このひと時にはある。
自分の命と存在を懸けるだけの意味が、このひと時にはある。
そして、カヲルのために注ぎ出す心はいつだってそれまで以上だ。
時を重ねるごとに、互いへの想いは強く堅くなり、共に経験したものが増えるごとに互いへの想いの量も増えていく。
それは一回の融合ではもはや交わしきれないほどに。
それでもアスカは、ここが自分達の住むコンフォートのエントランスという共用のスペースだったことを思い出して意識を引き上げた。
いくら住んでいる人の数が限られ、なおかつ夜の時間帯であるとはいっても、そのうちに誰かがここを通りすぎるだろう。
いつまでも抱きしめ合っているわけにはいかない。
気恥ずかしさがよぎり、名残惜しさを感じながらもアスカは腕の力を解いた。
これが家の中や人目につかない場所ならもうしばらく身を重ねあっていたかもしれない。
世界の終焉を間近に経験したばかりだというのに、その余韻に浸りたくなるという気持ちになるというのも不思議なものだ。
二人にとっても世界にとっても重大で危機的な事象だ。
最深度のシンクロは身心にかかる負担も軽いものではない。
それでも、この儀式はアスカにとって悪いものではなかった。
いな、それはとても大切なものになっていた。
それはカヲルと極限までひとつになる機会だからだ。
それぞれの存在を保ちながらも一体となる。
それは心地よく、快く、あたたかい。
それと共に、アスカとカヲルが存在意義を交わし合っているということを確認することのできる機会でもある。
それはこの上なく貴重であり、二人が共に歩んでいる道筋に確かな標を刻む意味を持っている。
それに単純にカヲルと触れあうのは嬉しいことなのだ。
だから少し後ろ髪を引かれながらアスカはカヲルから降りようとした。
でも、離れたくないという気持ちはアスカだけではなかった。
降りようとするアスカをカヲルは引き留め抱き寄せる。
そして、口唇を重ねた。
突然の出来事にアスカは目を見開き、それから現状を思い出してカヲルを押し返そうとする。
抱き合っているところを見られるだけでも恥ずかしいというのに、こんなところを見られようものなら死んでしまいそうになる。
でも、強い抱擁と深いくちづけに溶かされ、やがて大人しくそれを受け入れていった。
これ以上ないと思うほどの幸福感が広がり、長いキスの果てにカヲルがアスカを解放する。
「こ、の、バカカヲル! こんな共用スペースでキスするなんて!」
口唇が離れて幾許かのあいだ溶け落ちていたアスカの理性も浮上し、バシバシとカヲルを叩きながら抗議する。
それでも、その顔は真っ赤に染まりながら幸せそうだった。
そんなアスカを見つめてカヲルが眩しそうに目を細める。
「ごめんよ、アスカ、あまりに幸せだったから離れるのが惜しくてね」
謝罪を口にしながらカヲルには反省など影も見えない。
むしろ歓喜で満ちているようだった。
アスカもそれ以上なにも言わなかった。
アスカもカヲルと同じように嬉しかったからだ。
幸せだと、離れるのが惜しいと、そう同じ気持ちをカヲルも抱いてくれていたから。
こうした危機に見舞われることがこれから先もあるに違いない。
それでも、二人なら大丈夫だと、互いに共有し合う幸福感に確信を深める。
ただ、このままでは再びカヲルに絡め取られてしまいかねない。
これ以上の触れ合いを望むなら、せめて家に戻ってからだ。
それに、わざわざ買ってきてもらったスイーツのことも、カヲルに淹れてもらうと約束させたカフェオレのこともアスカは忘れていないのだ。
今度は捕まらないようにカヲルの上から降りたアスカはその手を取って立ち上がらせる。
カヲルも素直に従った。
「ほら! 早く帰るわよ!」そう声をかけ、先に歩きだしたアスカの背中を見つめながら、ふとカヲルの足が止まる。
エントランスに駆けつけてくれた時からのアスカの表情が甦る。
自分を心配してくれる表情、真摯な表情、安堵を浮かべた表情、恥ずかしげな表情、嬉しさをたたえた表情。
移り変わるそれらの中に、カヲルがこの事象を前に想像しうる感情が一つだけなかった。
それはタブリスの侵攻の時も、幻の侵攻の時も、そしてこの十年の全ての終焉の淵にあっても見いだせなかったもの。
聞いてみたいと思いながら言葉に出来なかった質問をカヲルはその背に投げかけた。
少なくない時を、軽くない経験を積み重ねてきた今だから聞いてみたいと思った疑問を。
「ねえ、アスカ、僕のこと、怖いと思ったことがあるかい?」
「は?」
カヲルの問い掛けにアスカは歩みを止め、怪訝そうな顔で振り返る。
「この青い血のことでもいい。
一度聞いてみたかったんだよね、君がどう思っているのか」
カヲルの表情に、戸惑いや恐れの色は見えない。
だからアスカは少し呆れ顔を浮かべた。
これまでの二人の絆は、その問いの返答がいかなるものでも揺るがないと知っているからこその表情だったからだ。
そんな質問をしたところで分かっているだろうに、と思いもしたが、それは言葉にしてほしいというカヲルの奥深いところの願いの表れなのかもしれない。
「あいにくね、最初の時だって、今だって、あんたを怖いなんて思ったことは一欠片だって無いわ。
あんたを失う恐怖はあったけどね」
何の躊躇いも迷いもない即答だった。
一瞬の思案さえアスカの中にはなかった。
答えはいつだって決まっているのだから。
アスカはカヲルに向かって笑顔を向けた。
カヲルにとってこれ以上なく愛しい笑顔を。
「だってカヲル、私は私を恐れはしないわ!」
「当然でしょ!」そう宣うアスカに、カヲルも本当に嬉しそうな笑顔で頷いた。
家へと戻る道すがら、自然に手を繋ぎあい、指を絡ませる。
アスカの右手の小指には、あの時と同じ指輪が変わらない想いの証として。
そして、互いの左手の薬指には、さらに深まった絆を顕す証が輝いていた。
※※※
この世界には安穏と剣呑が混在する。
昨日の安穏が今日も明日も続く保証など何処にも無い。
表側では、買い物に出かけたり、夕食の後片づけをしたり、伴侶の帰りを待ったりなんていう何気ない日常を送っているかもしれない。
でも、その裏側では、世界の終焉なんていうものがそこかしこに転がっているのかもしれない。
それでも、彼女たちはその度に世界の終わりを乗り越え未来を繋いでいく。
互いに交わしあった存在意義を重ね合いながら。
二人でひとつということを確かめ合いながら。
今日も明日も、この先もずっと。
だから、もしかしたらいつかどこかで遭遇する機会があるかもしれない。
はたから見れば、ただ抱きしめ合う二人に。
ほとんど気が付かないくらい淡く輝く紫色の光の空間に。
そして、この世界の終焉に。
そう、例えばそれは、あるコンフォートのエントランスの片隅で―――
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[ワールドエンドはエントランスの片隅で]
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