いつもの様に、私は病院の玄関をくぐる。



 今日も天気はいい。
 暑くもなく、寒くもなく。
 眠気を誘うような、暖かな日差し。





 視線をぐるりと回せば、色々なものが目に飛び込んでくる。
 緑に彩られた中庭、白く清潔な廊下。
 ベンチには松葉杖の人、忙しそうな看護婦達。
 どれもこれも、見慣れた風景。


 ・・・だけど私には、意味のない風景・・・





 ・・・セピア色に染まった、味気ない世界・・・



















 「あら、今日も来たのね、ご苦労様」


 いたわるように、看護婦さんが声を掛けてくる。
 この看護婦さんは知っている。
 主に彼の担当をしてくれている人だ。
 2年近く通い続けているのだから、私の顔も覚えられて当然かも知れない。


 「王子様・・・今日も穏やかな顔して、よく眠ってるわよ」


 顔には隠しきれない憂いを、しかし口調は努めて明るく振る舞うように、言葉が続いた。


 「そう・・・ですか・・・」


 幾度と無く、繰り返されたやりとり。
 手を、ぎゅっと握りしめる。





 (これが私の、贖罪・・・なのだから・・・)





 そっと、手の力を抜く。
 おこがましい。
 私は何を考えているのだろう・・・


 そう、私には、辛いだなんて思う資格など、無い。
 辛い思いをしたのは、私ではない。彼なのだから・・・





 俯き加減になっていた顔を、すっ、とあげる。


 「・・・行ってきます」


 看護婦さんに告げ、エレベータホールに向かう。




 ブゥン・・・と微かなうなりをあげる、自動販売機。
 喫煙所から聞こえてくる、談笑。
 そういったモノ全てを、視覚からも、聴覚からも、閉め出した。





 「レイちゃん・・・がんばって」


 でも、背後から聞こえた小さな声が、とても暖かくて、心に染みて。





 視界が、にじんだ。


















 
「キミが、いないから」
 
prologue episode. 〜ため息〜
 











 私は、目的の部屋へと、静かに足を踏み入れた。


 目覚めるはずのない、この部屋の主を、起こしてしまうのが怖くて。



 白い、壁。
 白い、床。
 白い、シーツ。
 白い、寝間着。
 真っ白な世界が、痛さすら伴って、目に飛び込んでくる。


 私が生み出されて10数年過ごした部屋は
 もっと光が少なくて、灰色だったような気がする・・・
 でも、部屋が持つ雰囲気と、消毒液の匂いは、同じなのね・・・


 意志を持つ人のいない、寂しい世界・・・・・・





 今日は休日。そして、特別な日。
 時刻は、10時。
 柔らかく差し込む光は、まだ春のもので。
 ただし、どの時間帯でも直射日光が当たらないように、ベッドは配置されている。
 刺激が彼にどんな影響を及ぼすのか、全く判らないから。



 窓からは、外の景色が見える。
 近くには、この病院を取り囲み、患者さんの心を癒す緑が。
 遠くには、復興めざましい、人々の魂の躍動を示す街並みが。
 もっと遠くには、生々しい、闘いの傷痕のいまだ残る山々が。



 はじめて見た頃からは、街並みは大きく様変わりしてきている。
 普段は感じない、時間の流れと言うものを。
 この窓からの風景は、否応もなく、私に感じさせる。


 2年・・・
 私はこの窓からの風景を見続けてきた。
 自らの成長と共に・・・
 それほど背は伸びなかった。
 クラスでも、小さい部類。
 でも、薄かった肉は、ほんの少しだけど、丸みを帯びてきて。

 ・・・・・・

 ベッドに目を移す。

 成長期に入った彼は、大きくなっていた。
 先生の話では、もう身長も170cmになろうとしているらしい。
 細い手足、華奢な体格に、変わりはないけれど・・・











 「碇くん・・・」


 ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・


 心電計に、脳波計。
 規則正しく、わずかに上下する胸。
 それだけが、彼が生きている事の証。
 点滴が強制的に、彼に栄養を与え続けて。


 長い間日に当たっていないため、顔色は青白い。
 栄養剤は投与されているとはいえ、頬もこけてきている。

 長い睫ばかりが・・・目立つようになって・・・





 私は、また視界がぼやけてくるのを、必死に押さえようとした。





 あの頃の、けぶるような、優しく、穏やかな笑顔の痕跡は、どこにも見あたらない・・・





 数秒後、私の努力は実ることはなく。
 頬を熱いものが伝い落ちた。


 床にポタポタと水滴が痕を作る。

 こらえきれない想いが、堰を切ったように私の心の中に嵐を生んだ。

 お願い・・・・・・目を覚まして・・・・・・私を見て・・・・・・お願いだから・・・微笑んで欲しいの・・・・・・





 どれぐらいそうしていただろうか。
 私は、そっと目尻を指でぬぐい、スチールの椅子に腰掛けた。

 これは私の、義務。
 これは私の、権利。
 これは私の、贖罪。
 これは私の・・・希望・・・。





 今日もまた、私からの、一方的な会話が始まる。
 おだやかに、優しく、碇くんに語りかける。
 ここに来るまでに、見た事を、聞いた事を、思った事を。





 「バスの中で、おばあちゃんと、孫らしき子供に出会ったわ・・・」
 「誕生日のプレゼントを、ねだってるの・・・」
 「おばあちゃんは優しそうな顔で、何度も頷いてた・・・」


 「公園でね、ハトに餌をあげてる人がいたわ・・・」
 「強いハトと、弱いハトがいて、餌にありつけない子もいるの・・・」
 「そしたら、遠くの方に餌を投げて、みんなが餌を食べられるように、って・・・」





 ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・


 心電計の音だけが聞こえる。





 「肉・・・最近、少しだけ、食べられるようになったわ・・・」
 「いつか一緒に、碇くんと食べたくて・・・」
 「まだ、ハムとか、焼き豚しか食べられないけど・・・」


 「洞木さんと、鈴原くんがね・・・」
 「最近、ようやくきちんと付き合い始めたわ・・・」
 「私、これぐらいの事は判るくらいに、心も成長したのよ・・・」





 静かな、呼吸の音だけが聞こえる。
 碇くんは・・・何も・・・答えてはくれない・・・





 そして、今日のもっとも大事な事を、彼に告げる。





 「碇くん・・・・・・今日は碇くんの・・・16歳の、誕生日よ・・・」



















 ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・ピッ・・・・


 静寂と、碇くんの呼吸と、心電計の音だけが部屋を満たし。











 私は。











 もう、数え切れない程繰り返した、行動を。





 一日に一度だけ、自分に許した事を。





 今日の分の、ため息を。





 そっと、吐き出した。







to be continued...

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