時計の針が、動き出す。錆び付いた歯車が、ギチリ、と音を立てて。
 引き返せない選択を、固い決意と共に。

 空はどこまでも高く、蒼く、揺るぎなく。
 決意を祝福するかの様に、風はゆるやかにそよぎ。



 じっと身を潜めていた想いが、息を吹き返す。
 セピアに染められていた風景が、鮮やかに色を成す。




 凍てついていた時が、動き出す。




 
「キミが、いないから」
 
episode 6. 〜蒼天の下で〜
 








 息詰まる様な地下空間を抜け、レイとアスカは地上の人となった。
 大きく傾いた夕方の太陽の光は、季節が戻りはじめているとはいえ、じっとりと汗ばんでくる。

 しかし、先ほどの息苦しい時間の後では、むしろ爽やかにすら感じた。


 緩やかに頬をなぶる風を感じながら、アスカは思考を巡らせる。
 よくレイがあの決断を出せたものだと。
 多分、彼女の事だから、寝ずに考え続けたのだろう。
 最後の瞬間まで迷い続けて、ほんの僅かに天秤が揺らいだ一瞬だったのかも知れない。

 どんな葛藤があったとしても、この子は選ぶ事を選んだ。
 私には選べません、そう言う答えも対処するべき可能性として考慮に入れておいたのだけれど。
 ならば、次は私達がそれに答える番だろう。
 私達の関係がどんなに重苦しくなっても、彼が私達を選ばなかったとしても、それは甘んじて受けてみせる。

 そう。私達はそれでもいい。
 だけど、レイは大丈夫なのだろうか?
 あの子はそうなった時に、耐えきれるだろうか?
 昔の彼女だったなら、無関心を装って平然としていられたかも知れない。
 文庫本を片手に、時間をつぶしていたかも知れない。

 だけど。

 今のレイは昔のあの子とは違う。
 シンジのヤツに無防備に心を開いてる。
 もしも・・・もしも・・・
 考えたくはないけれど、シンジがレイを受け入れなかったら・・・。
 シンジが他の誰かに心を開くようなことになったら・・・


 ・・・あの子は、生きていけるのだろうか。


 ふとそんな怖い想像に行き当たった。

 しゃらしゃらと栗色の髪を揺さぶり、追い払う。



 今はそんな事考えなくていい。

 ただ、喜ぼう。

 再びアイツの元気な姿が見られる事を。

















 碇くん・・・・・・

 これで良かったの・・・?




 私には何が正しい事なのか判らなかった。


 ただ、貴方の苦しむ姿を見たくなくて。

 ただ、心乱すことなく過ごして欲しくて。





 嘘を付いてしまった。





 ごめんなさい、碇くん。

 許してくれなくてもいい・・・・・・

 ただ、貴方があの笑顔を見せてくれるなら・・・

 その笑顔の向く先が私ではなくても、きっと耐えられるから。


 ・・・耐えられると、思うから。





 貴方に逢いたい。
 貴方の声を聞きたい。
 貴方の手に触れたい。
 貴方の笑顔が見たい。



 この想いは、何?



 何故こんな事を願うの?



 ・・・繋がりが、欲しいから。



 繋がりって何?

 絆。



 絆って何?



 ・・・心が、安らぐ事。

 心が安らぐ事って何?

 碇くんの匂い。
 太陽の匂いがする。

 碇くんの傍にいる事。



 ・・・いられるかどうかも判らないのに?



 ぎしり。

 心が軋む鈍く狂おしい痛みが、胸の中心で弾けた。












 空はどこまでも高く、蒼く、揺るぎなく。
 少女達を包み込みながら、風はゆるやかにそよいでいた。









 「ね、ご飯食べてかえろっか。
  ついでにみんなも呼んでさ、今日の話しよ」

 「・・・ええ、そうね」


 レイの短い返事を受けて、アスカは手早くヒカリに連絡を取る。
 集合場所の喫茶店と時間を伝え、トウジとケンスケへの連絡も頼んでおく。
 手際の良さは今も昔も変わらず。


 こっちもこれから電車とバスで帰れば、丁度良い時間だろう。
 それよりはレイの方が気にかかる。


 「気分はどう? ・・・辛い選択だったわよね・・・」

 「大丈夫、平気。・・・ありがとう」

 「ん、それならいいんだけどね。
  私にまで隠し事したりしないでよ?」

 レイはこくりと頷いた。

 「碇くんが帰ってくるから・・・平気」


 多分強がりではあるのだろう。
 シンジが私達の事を、レイの事を忘れていると聞かされて、平気なはずはない。

 それでも、きっとどんな状況になっても耐える覚悟をしているのだと思う。


 多分、シンジの性格なら、最初にうまく掴みさえすれば、友達としての第一歩を先んじる事が出来るはず。
 こっちの中にうまく取り込めたら、後はゆっくり時間かけていけばいいのよね・・・
 まずは私達のグループに入って貰う事ね。
 そこからもう一度関係を築いていこう。


 アスカは僅かに苦笑した。

 アタシ、イヤな考え方してるわね・・・


 でも、なりふり構ってられないのよね。
 私達はともかく、レイのためにはどんな手を使ってでもこっちのグループに引き込んでみせる。



 この子は、アタシが守るんだから!















 夕闇に飲み込まれそうな時間。
 喫茶「ノワール」に、5人の少年少女が集まっていた。

 アスカ達である。


 昨日の今日なので、皆おおよそ用件は察しが付いていた。
 しかし、何も言わず黙って二人の言葉を待つ。


 「レイ、アンタから言いなさいよ」

 アスカに促され、レイは自分が話すべき事なのだと気が付く。


 言うべき事はひどく単純で簡単な事。
 ただ、自分の選んだ事を話すだけ。

 だけど、本当にそれで良かったのだろうか?
 私は私の願いを口にした。
 でもそれは、他の誰かの思いを踏みにじっていたのではないだろうか?


 不安。


 恐れ。


 知覚されないいくつかの感情が渦巻いて。



 他人との繋がりを感じ始めたばかりの幼い心には、それは確認する術もなく。

 だから。

 まっすぐに、その言葉を口にした。


 「ごめんなさい」

 「私は・・・みんなの事を、考えてなかった。
  私、自分の願いだけで、碇くんの事を決めてしまった・・・」

 「赤木博士に、『貴方の決めた事はみんなにも関わる事』って言われたのに・・・
  その時には判ってなかった。
  もしかしたら、私とは違う考えを持つ人がいるかも知れない、って言う事・・・」

 やや俯いたままのレイの口から吐き出される謝罪の言葉に皆驚いたが、すぐにヒカリが口を開いた。
 いかにも委員長を自他共に認める、彼女らしい言葉だった。

 「綾波さんが謝る事無いの。みんな貴方に全てを任せる事で一致したんだから。
  だから、綾波さんがどう決めたとしても、それは私達が決めたも同じ事なの。
  それに文句言ったり、綾波さんを責めるようなことはしないわ。
  だから、謝ったりなんかしないで。胸を張っていいんだから」



 レイは驚いた表情になる。
 自分が、胸を張っていい・・・?
 自分勝手な、身勝手な願いを、皆に押し付けてしまったのに・・・?



 「あんなに難しい選択なんて、そうそう無いと思う。
  だけど、貴方は逃げ出したりしないで、選んでみせたじゃない。
  だから、私達は貴方がどういう道を選んでも、それを後押しするわ。
  おねがい、話してみて? 貴方の決めた事を」


 それはただ単なる優しさでもなく、偽りの労りでもなく。

 暖炉の温もりを持って、レイの心に染み込んでいく。

 自然に、レイの口から言葉がこぼれていた。


 「碇くんに・・・嘘を付くの・・・私・・・責められても、罵られてもいいから・・・
  碇くんには、これ以上辛い思いして欲しくないから・・・
  だから、ここで起こった事全て、無かった事にするの・・・」

 「みんなにも・・・迷惑掛けるかも知れないけれど・・・手伝って欲しい・・・」



 それまでじっと話を聞いていたトウジが口を開いた。

 「なに辛気くさい事言うとんのや、ワシら友達やろが。
  なんも綾波が気にする事あらへん。
  ワシらがまたきっちりこっちに引きずって来たるさかい、待っとれや、な?」


 「そう言う事だよ、綾波。俺たちがまた昔通りの付き合いにしてやるよ。
  初めて出会った頃のシンジに戻っただけだろ?
  なら扱い方は心得てるってもんさ」

 ケンスケもさらりと言って見せた。

 もちろん、そんな簡単ではないことは百も承知、である。
 彼女の心の負担を軽くしてやりたい、と言う思いが彼を饒舌にさせた。



 「まあね、正直、いつシンジが帰ってくるかはわかんないのよ。
  リツコに今度確認してみるけど、衰えた筋肉のリハビリもあるし、何より私達と同学年に復帰出来るかどうかもわかんないわ。
  いくらなんでも、ちょっと学力に差が付きすぎてるしね」


 少しだらしなく、アスカがテーブルに頬杖を付きながら言う。

 そう、実際の所、シンジが同じ学年に帰ってくる保証など無かった。
 1年半の学力差はおいそれと埋められるものではない。
 ただ、リツコかミサトに頼み込めば強権を発動してくれるかも、と言うのがアスカの読みである。
 読みと言うよりは最後の頼みの綱と言ったところか。



 「ま、まだもうしばらく時間はあるし、今日は報告だけね。
  後は覚悟しておく事ぐらいしか私達に出来る事なんて無いわよ」


 そう言って、ガラスの表面に汗の玉をつけた、少しぬるくなったアイスティーを飲む。


 ヒカリも頷く。

 シンジがどうであれ、私達の気持ちに変わりはない。それだけは確かだと思えたから。


 トウジもケンスケも同じように、物思いにふけるかの様に虚空を見上げ、沈黙していた。

 第壱中学での、皆で過ごした日々を想ってでもいるのだろうか。



 レイは想う。

 これからどうなるのだろうかと。
 アスカの言う通り、あの頃と同じ関係を築ける確証なんか、どこにもなくて。
 シンジの近くにいたいなら、自ら行動を起こさなければいけない。

 いままで受動的だったレイには、それがとても高い壁に感じられていた。

 どうすれば彼の傍にいられるのか。
 あの時、碇くんは向こうから私に心を開いて見せてくれた。
 今度も彼がそうしてくれるとは限らない。

 いや、エヴァのパイロットという絆を失った以上、そうならない可能性の方が高く思えた。


 それなら、私はどうすればいいのだろう・・・




 それぞれが別々に、だけど思う対象は同じ、そんな時間を共有しながら、ゆったりと時間は流れていった。














 あれから一週間。シンジのリハビリは順調に進んでいた。
 事実上身体の異常はどこにもなく、単純に筋力の衰えだけなので、若い肉体は早いうちに回復していくだろう、と言うのが主治医の見解だった。
 今は手すりにつかまって短い距離を歩く練習をしている。

 ゆっくりと、1年半のブランクを噛みしめる様に、一歩ずつ足を踏み出していく。
 付き添いの看護婦の声に励まされ、気恥ずかしい思いをしながらも、少しずつ自分の肉体が期待に応えてくれていくのが判る。
 元々筋肉質ではなく貧弱と言える身体ではあったが、今はまさにやつれている、と言った方が正しい。
 しかし、その瞳には明らかな意志の光が宿り、肉体は生気に満ちていた。

 生きる、と言う事。
 その意味と力。
 滴る程の汗にまみれた細い肉体。
 額に張り付いた前髪。
 激しく荒い呼吸。
 それは生命の息吹。
 それは生命の歓喜。
 それは生命の躍動。
 まだ経験の浅い、この若い看護婦は、その姿を感動を持って見つめていた。
 1年半の空隙からの奇跡的な回復と言う事もあり、ある種の畏怖すら伴って。

 美しい、と。





 レイが決断を出した次の日、リツコからシンジへと現状の説明が行われていた。
 曰く。

 シンジは父親と会うために第三新東京市にやってきたが、そこでガス爆発事故に巻き込まれた。
 運悪くすぐ近くまで父親が来ており、彼の方はそれに巻き込まれて亡くなった。
 シンジは頭部を強打したものの外傷はなく、原因不明のまま意識が戻らず、2年が過ぎた。

 そして6月6日の晩に、突然意識を回復したのだ、と。


 荒唐無稽とも言える説明だったが、リツコの事務的な口調がかえって真実みを増したのか、すんなりとシンジは受け入れた。
 元々父親に好印象を抱いていなかったのが幸いしたのかも知れない、とリツコは思う。
 シンジは、そうですか、としか言わなかったからだ。
 それが本当によい事かどうか、道義的に見てどうか、など考えるべき事がないわけではないが、それはリツコの仕事ではない。
 それに、レイの事もある。
 ロジックとリリックの間でリツコも揺れていた。


 シンジがふと尋ねた。目覚めた数日後に出会った彼女は誰なのか、と。
 リツコは咄嗟に嘘を付いた。

 彼女はお父さんの仕事の関係でこちらで世話をしていた子よ。
 まるっきり嘘でもないが、故意に隠した部分もある言葉。

 その息子が意識不明だと聞いて、度々見舞いに来てくれていたの。
 あの時は目覚めたと聞いて見舞いに来たんだけど、気が動転しちゃったのね。
 許してあげてくれる?

 愛娘をさりげなく庇いながら、辻褄を合わせていく。
 細い糸の上を辿る様なタイトロープ。


 はい・・・でも、あれから来てくれませんから・・・。
 びっくりさせてごめんなさい、って謝りたいんですけど・・・。

 大丈夫よ、近いうちにまた来ると思うわ。
 ・・・まぁ謝る必要はないと思うけれど。
 あの子は私とも繋がりがあるから、これからも仲良くしてあげてね。

 はい!

 何故か嬉しそうな表情が、微笑ましさを感じさせた。








 「そろそろ今日はこの辺にしましょう」

 付き添いの看護婦の張りのある声で、シンジは我に返った。


 時計を見れば既に3時を回っている。
 ぶっ通しで2時間リハビリをしていた計算になる。
 身体に疲労を感じるのも無理からぬ事だった。
 若く回復力のある年代とはいえ、無理のしすぎは良くないとの判断であろう。

 確か5時からはまたリツコさんとの面会の予定が入っていたはずだ。
 看護婦に付き添われて病室に戻りながら、ふとそんな事を思い出す。
 身体を休めて、少し考え事でもしよう。

 ベッドに腰を下ろし、お礼を言って出て行く看護婦さんを見送る。

 タオルで汗をぬぐい、服を着替え、ペットボトルから水をコップに注ぎ、またベッドに腰を下ろす。



 ・・・・・・

 僕はこれからどうしたらいいんだろう・・・

 精神的にも落ち着いてきて、そんな事を考える余裕も出てきた。

 目が覚めて以降、病院から一歩も外に出てはいない。
 何も判ってないに等しかった。
 自分が事故にあった記憶もなく、それから2年経ってしまっている事も、信じるしかないと頭では判ってはいても。
 自分の拠って立つ基盤が見えなくて、不安だった。

 新聞でも読んでみようか・・・

 そうしたら、少しは気が紛れるかな・・・?

 この現実を、受け入れる事が出来るかな・・・?

 リツコさんの事は信じている。だけど、漠然とした不安は消しようもなく。
 友達と言える人も居ないこの街で。

 元からそんな人は居なかったけれど・・・

 そんな感情なんか持ってはいなかったけれど、唯一の肉親である父親をすら失って、どうやって生きていけばいいのかな・・・

 ふと、自分が、ひどく不安定な立場にいる事に気が付く。

 この病院の入院費用は?
 これからの生活は?

 誰を頼ればいいのだろう。



 別に一人で居る事は苦痛ではなかった。
 料理も一通りこなせるし、生活には困らない。

 ただ、誰もいないと言う事。

 繋がりがないと言う事。

 そう、絆が。

 どこにも見えない事が不安で。



 ・・・孤独。



 14才の少年にはそれはひどく重くて。



 小さな頃の、母親の面影が頭に浮かぶ。

 光が背後から差していて、いつも顔の細部まではよく判らないけれど。
 優しげな微笑みを浮かべていたであろう事は思い出せる。
 しなやかな手が、頬に触れていた。


 ふと、何故かそれが先日の蒼い髪の少女と入れ替わり、シンジは狼狽した。


 なんであの子が!?


 どぎまぎとしながら胸を押さえる。

 でも・・・・・・


 そうか・・・・・・

 あの子・・・・・・


 なんとなく母さんに似てるんだ・・・・・・



 鼓動がおさまっていく。
 変わりに訪れたのは、安心感。
 安堵と言い換えても良かった。

 魂が満たされていく充足感。


 絆があるわけでもないのに。

 不思議な気持ち。


 また逢えるといいな・・・・・・



 いつのまにか、シンジの顔には目が覚めて以来見る事の無かった、透明な微笑みが浮かんでいた。







 リツコがシンジの元を訪れたのは、丁度5時になったときだった。
 ノックの音に我に返ったシンジが、どうぞ、と声を掛ける。


 「調子はどう? リハビリの事だけど」

 微かな笑みにのせて、そう言葉を紡いだ。

 「ええ、調子いいですよ。今日も2時間続けてやれましたし」

 「そう、いい感じね。一旦戻り始めれば、貴方は若いからどんどん回復すると思うわ」

 横に置いてある椅子を引き、腰掛ける。

 「今日は貴方のごく近未来に関する話なんだけど、貴方はまだ教育を受けているはずの年齢なの。
  別に15才からは働けるけれど、大抵は高校へと進学するわね」

 「ああ・・・そうですよね・・・学校にも行かなきゃ」

 「そうね・・・で、残念だけど、貴方は正式には中学を卒業した事にはなっていないの。
  今のままだと、中学2年からやり始める事になるんだけど、それでいいかしら?」

 「あ・・・そっか、そうですよね・・・僕は中学2年も終えてないんでしたね・・・」

 「ただ、そうなると2歳下の子達と授業を受ける事になるわね。
  でも・・・もし貴方が望むなら、16才の、つまり、高校1年に編入する事も出来る。
  学力不足を努力で埋める気があるなら、だけど。
  全ては貴方次第、と言う事ね」

 「高校1年、ですか・・・実感涌かないや・・・中学すら卒業してないのに・・・」

 「しばらく考えてていいわよ。もう少し時間はあるから」

 席を立ちながら声を残して。

 「今はまだ体力回復に頑張りなさい」

 扉の前で振り返り、そう言って病室を後にした。








 アスカ・・・レイ・・・約束は果たしたわよ・・・

 シンジくんには選択肢を与えたわ。後は彼次第・・・


 廊下を歩きながら、二人の少女が必死の形相で研究室に来たときの事を思い出す。



 リツコ! シンジのヤツ学校はどうなるの!? 私達と同じ学年に復帰出来るの!?

 赤木博士・・・碇くんとまた・・・学校に通いたいです・・・



 通常では中学二年に復学するしかない事を伝えたときの彼女達の表情は、見てる方が辛くなりそうな顔だったわね。

 思い出してクスクスと笑う。

 二人それぞれの、表現は違えども彼を気にかける気持ちが良く伝わってくる言葉だった。












 風呂から上がったレイは、ふとPCがメールの着信を知らせているのに気付いた。

 ざっと身体から水気を拭き取り、頭にタオルを巻いて、PCに近づく。


 差出人は赤木リツコ、となっている。


 無表情のまま、しばらく考える。
 すぐに思い当たる。
 先日赤木博士の下にアスカと二人で行った時の事に関してだろう。


 下着とTシャツを身につけ、メールを開いた。








 ・・・・・・・


 心の中に、よく判らない感情が湧き上がってくる。

 理由はどうあれ、碇くんが帰ってくる・・・


 ドキドキする・・・?
 そう、ドキドキする・・・

 何かに期待してる・・・?
 そう、きっと私、期待してる・・・

 もう一度彼の元気な姿を毎日見る事が出来るから・・・?
 そう、彼の姿を見られるから・・・

 彼の声が聞きたい・・・?
 ええ、もちろん・・・

 彼に微笑んで欲しい・・・?
 ええ、彼の笑顔が見たい・・・

 それをね、嬉しい、と言うの・・・



 そう・・・これが嬉しい、と言う事なのね・・・


 レイは枕を抱きしめて、顔を埋めた。


 何故か、世界中の人達にこの嬉しさを伝えたくて。
 何故か、大声を出したくてたまらくて。
 でも、自分一人だけの喜びにもしたくて。

 そうして吐き出された声は、枕に押さえつけられて。
 聞く者が仮にいたとしても、理解は出来なかっただろう。












 「リツコさん、この間の話なんですが・・・」

 そうシンジが切り出したのは、それから1週間後の事だった。


 リツコが頷いて目で促すと、少しおどおどとした様子を見せながら話し始めた。

 「あれから色々考えたんですけど・・・
  その・・・やっぱり2歳も年の離れた子と一緒に勉強するのはちょっと・・・
  イヤじゃないんですけど・・・なんというか・・・」

 「勉強なら何とか・・・なるかも知れないですけど、年の差は埋められない気がして・・・」

 「我が侭だ、って判ってるんですけど・・・高校1年に編入することは出来ないでしょうか・・・?」



 リツコは心の中でレイに語りかけた。
 状況は悪くないわよ・・・少なくとも、同じ学校に、同じ学年には戻る事になりそうよ・・・。

 「そう、わかったわ。でも本当に学力の差は大きいと思うから、頑張りなさい。
  それと、これは特例処置になるわ。1学期の中間、期末テストの類も遠からずあると思うから、心しておく事ね」


 シンジとしては、見知らぬ上に年の差まである相手と仲良くできる自信など無かった。
 それ故の、同じ年代ならまだマシだろう、勉強なら一人で頑張れば済む、と言う消極的選択であった。


 ふっとリツコの顔が柔和になる。

 「貴方の編入する学校の同じ学年には、見舞いに来ていてくれていたあの子もいるの。
  偶然の選択ではあるけれど、もし見かけたら、仲良くしてあげてね」


 「え・・・?」

 一瞬訳が判らない、と言う表情になった後、シンジの顔が赤くなる。
 先日の自分の想い出の中に紛れ込んできた彼女だと判って気恥ずかしくなったのだ。

 「あ・・・はい・・・・・・」



 復学は2学期最初になる事、それまでは体力の回復と、この街に慣れる準備をする様に言い含め、リツコは席を立つ。

 「あ、あの・・・!」

 シンジに呼び止められ、振り返る。

 「・・・何かしら?」

 「えっと・・・ですね・・・あの・・・あの子の名前は・・・なんて言うんですか・・・?」


 消え入りそうな声で俯いたまま、それでもなんとか用件を口に出せた。







 「そう・・・そう言えば言ってなかったかしらね・・・」



 「彼女の名前は・・・・・・」







 「・・・いえ。貴方の口から聞いてご覧なさい?」


 「貴方から『君の名前が知りたい』と言われて、嫌がる女の子はいないと思うわよ?」


 そう言って、悪戯っぽく微笑んだ。



 「はあ・・・いや・・・その・・・」


 「頑張りなさい。男の子でしょ」

 軽くシンジの肩を叩き、しどろもどろになっている彼を残して、リツコは立ち去った。













 実際の所、頑張れば7月中の復学も不可能では無さそうではあったが、大事を取る意味と、この街での生活に慣れる意味もあり、また、この街でどうやって生活していくかという大事な基板作りも必要だった為、復学は9月の方向で話は進められていた。

 ミサトがリツコに尋ねる。

 シンジくんの生活費に関してはネルフが持つとして、生活基盤はどうするのかと。
 あの時のように、強引に同居する手は使えない。
 かといって、一人暮らしさせるのも忍びない、と言うのが正直な所だった。


 「実際、一人暮らししてもらうより他にないのよね・・・
  誰も知り合いはいなくて、かといってネルフで預かる事も出来ず、無力ね・・・」


 「そうでもないわよ。彼、前居た所で家事は一通りこなしてた様だし、一人で居るのが習慣のようになってるから、それ自体は苦痛ではないと思うわ。
  問題があるとしたら、倫理面においてかしらね。
  16歳の少年を身よりもないままに一人暮らしさせている、ってね」

 「レイとは訳が違う、か・・・」

 「あの子は少なくともネルフ所属だけど、彼は公式には一般人扱いだもの。
  せいぜい出来るのは済む場所の提供と生活費の面倒ぐらいしかできないわね。
  後は彼自身が友人を広げていってくれる事を期待するしかないのよ」

 「大体私の立場はどうなんのよー? あんな親しくなれたのに、今じゃ全く知らない赤の他人よ? なんとかなんないのー?」

 「そんなの知らないわよ、諦めなさいな。・・・もしかしたら、案外それを忘れたくて記憶喪失になったのかもよ?」


 頬を引きつらせたミサトを見て満足げに笑う。


 「まあレイやアスカと一緒にいれば、また知り合いになれるわよ。それまで我慢する事ね。
  シンジくんの住む家と、口座の手配とかお願いしたわよ。出来たら私が渡しておくから」

 明らかに顔に『しょんぼり』と書いたミサトは、「わかったわよぅ・・・」と言い残して立ち去っていった。



 後一週間もすれば、彼は仮退院の運びになるだろう。
 それまでにやる事が山程ある。
 うんざりとした表情で机の前の書類の束を見据え、はあ、と一つため息をつき、リツコも仕事に戻った。










 慌ただしく一週間が過ぎていき、その間に数度の接見を経て、シンジの退院の日が訪れる。
 顔色も戻り、やや細身に過ぎるきらいはあるが、健康的なシンジの姿がそこにあった。
 最後に軽く健康診断を済ませ、リツコはシンジに第三新東京市の地図とクレジットカードを手渡す。

 「これがこの街の地図とクレジットカードよ。本当ならお父さんと一緒に住む事になったんだろうけど、叶わなくなったから、新しい家を用意したわ。
  こっちはクレジットカード。お父さんの遺産を元に、毎月一定額が使用可能になってるから、それで生活して頂戴。
  あと、何か判らない事や困った事があったら、遠慮せずにいつでも私に連絡をしてくれていいから」

 シンジは深く頭を下げた。

 「本当に何から何までお世話になってしまって、有り難うございました」

 「かまわないわ。貴方のお父さんとは浅からぬ縁があったし、それより、これで終わりじゃないんだから、過去形はやめなさい。子供は大人に世話になって当然なのよ。・・・お父さんの事、今でも好きじゃない?」

 「はい・・・このお金を使わなきゃ生きていけないのが悔しいです」

 「そう・・・今は知りたくもないでしょうけど、いつか貴方のお父さんのやってきた事も知るといいわ」

 複雑な表情でリツコを見返す。
 それも仕方がないだろう。長い間ほったらかされた挙げ句、「来い」の一言で呼び出され、勝手に死んだとあっては、同情する気にもなれないのだろう。
 本当なら、リツコの仕事が何か、と言う事に興味を持ち、それについて聞いていけば簡単に父親の所にたどり着く事が出来るだろう。
 それを出来ないのはシンジの弱点とも、性格とも言えた。

 「そうですね・・・いつか・・・」

 それだけを小声で返した。

 そんなシンジをリツコは痛ましげに見つめ、やがて立ち上がった。

 「さあ、そこまで送るわ。本当は家まで送ってあげたい所だけど、ちょっと忙しくて。申し訳ないけど、住所を頼りに行ってくれるかしら?
  無事に付いたら連絡頂戴ね」



 出口で、白衣のポケットに手を突っ込んで佇み、見送るリツコの視線を感じながら、シンジは街を歩き出した。

 新しい、生活が始まる。

 1年半ぶりの、大地を踏みしめて歩く。
 1年半ぶりの、陽光を浴びながら歩く。
 1年半ぶりの、風を感じながら歩く。

 何もかもが久しぶりで。
 何もかもが懐かしかった。

 そして見知らぬ土地で、生きていくと言う事。

 どんな出会いがあるのか。
 どんな出来事が自分を待っているのか。


 少しだけ、ほんの少しだけ浮かれている自分の心を知覚しながら、黙々と歩き続ける。





 蒼い髪の女の子・・・
 結局名前は教えて貰えなかったな・・・

 自分で聞け、って言われたって・・・
 出会っても何を話せばいいか判らないじゃないか・・・

 聞く勇気があるのか、って言われたら・・・ちょっと自信はないかな。
 シンジは苦笑した。





 どこまでも高い空は、蒼く、揺るぎなく。
 それはまるで、名も知らぬあの少女の髪のように。














to be continued...

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