夜の闇。
 蒼月の光。
 ゆらゆらと揺れる毛先。

 あるかなしかかすかに漏れる吐息。
 安っぽいスプリングの軋み。
 衣擦れの音。


 少女は使い古されたベッドに俯せて、瞼を閉じる。

 揺らめく月の蒼い光にその身を浸して。





 1年と半年。
 少女が願い続けてきた事。
 小さくか細い、幼いその身を震わせて、祈り続けてきた事。

 ただ一人の少年の目覚め。


 柔らかな微笑み。
 暖かな眼差し。
 照れたような戸惑いの表情。

 胸に染みる言葉。
 頬を伝い落ちる涙。
 躊躇う事無く差し伸べられた腕。


 帰ってくる。


 彼が。


 彼女の求めて止まなかった、彼の全てが。




 静かな、とても静かな夜の闇と、清冽な蒼い月の光に身を浸して。
 いっかな睡魔の訪れぬままに、ただただ夜空の向こうを瞼の奥に映していた。






 
「キミが、いないから」
 
episode 5. 〜True or Lie ?〜
 







 碇シンジの意識回復。
 衝撃の一報は、アスカの元にも同様に届けられていた。

 リツコはまたしても、「もしもし、聞いてるの?」という台詞を吐くはめになったが。

 「そう言うわけだから、シンジくんのお友達、名前は何だったかしら・・・
  まぁ彼らにも伝えてくれないかしら。何度もお見舞いに来てくれていた彼らにも知る権利はあると思うしね。
  レイに頼もうかと思ったんだけど、ちょっと頼りないからアスカ、頼んだわよ」

 「う、うん、判ったわ・・・」


 通話が終わったことを知らせる微かな音を聞き流しながら、呆然と携帯電話を握りしめて立ち尽くすアスカ。

 どうしようもない程の大きな困惑は、時に人を思考停止へと追いやる。
 聡明なアスカといえども、その例に漏れることは敵わず。

 何故今帰ってきたのか。
 何故今まで帰ってこなかったのか。
 言いたいことはたくさんある。
 聞きたいこともたくさんある。


 嵐のように駆けめぐる感情の中から、ふわ、、とただ一つの言葉が浮かんでくる。
 それはとても自然で、暖かな波紋を広げつつ。






 おかえり・・・バカシンジ・・・
















 「それ、ホントなの!?」

 「こんな事で嘘をつく理由がどこにあるの?
  貴方までレイやアスカみたいな反応してないでしっかりして頂戴。作戦本部長殿」

 リツコは軽くため息をついた。
 同じ反応を3度も繰り返されれば、相手は違えどもため息が出るのは致し方ない所であろう。

 「・・・ごみん。で、シンちゃんの容態はどうなの?」

 「今はぐっすり眠ってるわ。身体の方は特に異常はないわよ。だけど」

 ここで一旦言葉を切った。
 特別効果を狙ったわけではない。ただその先の言葉を続けるのが、少しためらわれたのだ。
 レイやアスカには軽く伝えただけで、言えなかった事。

 「彼はね・・・シンジくんは・・・」

 続けられた言葉に、ミサトは真っ青になった。

 「なんですって!? それじゃ・・・あの子達の想いは・・・どうなるのよ・・・・・・」

 「まだよ・・・まだはっきりしたことは言えないの。
  だからこそ、今シンジくんをあの子達に会わせるわけにはいかないし、私達も早急に善後策を練る必要があるわ。
  明日から貴方もしばらく帰れるとは思わないで」

 「わかった。今からじゃなくていいの?」

 「そうね、明日精密検査を行ってからになるわね。昨夜のちょっとした接見だけでは、あまりにも情報が少なすぎるもの」

 「よろしく頼んだわよ、赤木リツコは・か・せ」

 最後をミサトらしく軽い言葉で締めくくり、電話を切る。
 無情の神を邪眼で射殺すが如く、天井を睨みつけて。
 だらりと垂れ下がった右手の携帯が、ピキ、と微かな音を立てた。



 ・・・・・・・・・


 少なくない時間が過ぎて、布団に身を投げ出し、ふたたび天井を見上げる。

 初めて出会った時から、どこか放ってはおけない少年だった。

 頼りなさそうで、内気で、内罰的で、繊細な少年。
 心に鬱屈した感情を抱え、他人の顔色を窺ってばかりいた少年。
 だけど、たまに見せる爆発的な感情は、いつもミサトを愕然とさせたものだった。


 初号機をはじめて起動させた時も。

 友人二人を乗せて、シャムシェルを倒した時も。

 思い切った家出をした事も。

 レイを過熱されたプラグから救い出した事も。

 アスカとのユニゾン戦闘も。

 危険を顧みずマグマの中に飛び込んだ事も。

 ディラックの海からの生還も。

 シンクロ率400%、LCLからの生還も。


 全て彼の身に起きた事。
 全ては彼が起こした事。
 そう、彼がいなければ、今自分たちがこうしてここにいる事は出来なかった。

 辛くて泣きたい事もあったと思う。
 苦しくて逃げ出したい事も幾たびもあったと思う。

 そんな少年のか細い両肩に、人類の命運を賭けていたのだ、私達は。


 やがてゼーレの計画のままに起こった、サードインパクト。そして。


 何があったのかは知る由もない。だけど、彼は生きていながらこっちの世界を拒絶してしまった。
 如何なる手段にも、呼びかけにも、答える事を拒絶し、眠り続けて。

 それがようやく帰ってきてくれた。
 理由なんてわからない。
 それでも、それだけで満足すべきなのかも知れない。


 彼女達には、申し訳ないけれど・・・・・・






















 次の日の朝、教室には、明らかに寝不足で真っ赤な目をしたレイとアスカの姿があった。

 「ねえ、レイ・・・アンタも昨夜、電話聞いたんでしょ?
  私・・・あの後全然眠れなかった・・・」

 「私も・・・眠れなかったわ・・・」

 「そうよね・・・アンタの目、真っ赤よ? 目の下にはクマ出来てるし・・・」

 「アスカも・・・」

 化粧などして誤魔化す年齢でもない彼女達の目の下には、もうはっきりと判る程クマができていた。
 こういう時ミサトやリツコならばなんとかしてみせるのだろうが。

 二人とも、喜びに憔悴すると言うのは初めての経験だ。
 疲労と共に、紛れもない歓喜をその表情に刻んで。


 「やっとアイツと会えるのね・・・本当に長かったわ・・・。アンタの祈り、無駄じゃなかったわね・・・」

 「私、一生このままだとしても、碇くんの所に通い続けるつもりだったから・・・
  それが私の償いだと思うから」

 「アンタ、まだそんな事言ってるの? でももうそれも終わりよ。
  アイツがそんな事気にしてるわけ無い、って、アイツの口から直接聞きなさいよ」

 「そうね・・・それが聞けたら、私は・・・」

 許された気になれるのかも知れない。
 レイの揺れる瞳が、そう語っていた。


 その時、ガラ、と教室のドアが開き、ヒカリが入ってくる。
 そう、彼女にも伝えないといけないんだった。

 「おはよ、ヒカリ」

 「おはよう、今日は二人とも早いのね・・・
  って、ちょっと二人とも、どうしたの? 目は真っ赤だし、クマまで作っちゃって・・・」

 「ちょっとね・・・昨夜眠れなかったのよ、アタシもレイもね。
  その事でさ、お昼ご飯の後、鈴原と相田にも話したいのよ。
  時間貰える?」

 本当なら、今すぐにでも話したい。
 喜びを分かち合いたい。
 だけど、彼の状態は機密事項。
 表向きは、交通事故で入院中、と言う事になっている。
 間違ってもクラスの他の人間に真実を知られるわけにはいかない。

 「うん、もちろんいいけど・・・あの二人にも伝えておけばいいのね?」

 「そうね、頼むわ。あんなバカでも一応シンジの友達だからね・・・
  と、ごめん、鈴原の事悪く言っちゃって悪かったわ。ごめんね?」

 「ううん、いいのよ、ホントにバカだもの」

 ヒカリは軽く笑って受け流し、机に鞄を掛ける。

 「それよりアスカ、今日は貴方が日直よ? ほら、しんどいだろうけど頑張って!」

 「あー、いっけない、忘れてたわ・・・めんどくさいわねー。
  ・・・って、鈴原来て無いじゃない! あのバカ、後でシメてやる。
  はぁ・・・やれやれ、しょうがないわね。じゃ、レイ、ヒカリ、また後でね」

 言い置いて、職員室に向かう。出席簿と日誌を取りに行くためだ。
 ヒカリはレイに向き直り、奇妙に満足感と憔悴の入り交じった顔を覗き込む。

 「綾波さん、貴方も顔色悪いけど、大丈夫・・・?
  もしあまりしんどいようだったら、私先生に言っておくから、二人とも保健室で休んだ方が良くない?」

 「いいえ・・・一日ぐらい寝なくても死なないから・・・」

 一呼吸おいて、付け加えた。

 「・・・ありがとう・・・」

 これだけでも、昔のレイを知る者がいたら驚愕に仰け反るだろう。
 それほどまでに、彼女は言葉も、表情も、仕草も、大きく成長していた。
 もっとも、あくまで昔のレイと比較しての話であって、同年代の少女とは比べるべくもないが。

 「ううん、いいのよ。でも本当にしんどかったら言ってね」

 無理強いする事でもないし、彼女はそう言う判断は自分で出来る事を知っているので、それ以上強くは言わなかった。
 その代わり、いつでも保健室に連れて行けるように、注意しておく事を自分に課した。





 午前中の授業の間、レイもアスカもずっとうつらうつらとしていた。
 眠たい、だけど意識を占める要素が強すぎて眠る事を許されない。
 半覚醒の、責め苦。
 だけどそれは心地よい痛みにも似て。

 碇シンジという少年の、なんと罪深い事か。

 二人の少女の姿からは明らかな憔悴が見て取れる。
 しかし、その顔には確かな安らぎの表情も垣間見えて。


 これほどまでに彼女達を苦しませながら、それでも二人の心を捉えて放さないこの少年は、自分が愛されている事を知っているのだろうか。
 もっと僕を見てよ、もっと大事にしてよ、そう叫び続けた少年の心が報われている事を。


 ゆらりゆらりと揺れる二人の頭。
 今指名を受けたら二人とも廊下に立つハメになるであろうが、女神の加護でもついているのだろうか。
 休み時間もぼんやりと過ごし、ようやく昼休みが到来する。



 「アスカ、綾波さん、お昼食べに行きましょう」

 ヒカリが声を掛ける。

 「・・・ん・・・そうね・・・」

 答えるアスカの声は朝にも増して力がない。

 「お昼ご飯食べたら、二人とも早退したら? ご飯食べたらもっと眠くなると思うし、私も気が気じゃないわ」

 「そうね・・・そうしようかな・・・昼からは体育と家庭科だし・・・
  眠たいのに眠れないのは結構辛いのよね・・・
  レイ、お昼食べたら、今日は帰ろうか?」

 「そうね・・・」

 こちらも朝より青白い顔で答えるレイ。
 明らかに体調は良くない。



 皆で屋上に上がる。
 今日は天気も良く、見晴らしもいい。
 とても気持ちのいい日差しのなかで、二人だけが青白い顔に不思議な満足感をたたえていた。

 トウジが口を開く。

 「で、なんや、いいん・・・ヒカリから聞いたんやが、話があるんやて?」

 この間付き合いだしてから、トウジは委員長とは呼ばず、ヒカリ、と呼び捨てにするように気を付けている。
 これはヒカリからのたっての願いで、トウジは恥ずかしいからイヤやと最後まで抵抗していたが、結局上目遣いの涙目に落とされたのだ。
 当のヒカリはそれだけで頬を染めて俯いている。初々しいとはまさにこの事か。

 「んー。ご飯食べてからの方がいいと思うから、先に食べない?
  多分、聞いたら落ち着いてご飯食べれなくなるわよ?」

 「いいニュースなのかどうかだけでも教えてくれよ。それだけでも落ち着いて昼ご飯に出来るってものだよ」

 ケンスケのもっともな提案にヒカリも頷いた。


 「・・・そうね、いいニュースよ、多分ね。・・・私達にとっては」

 アスカは渋々それだけを答えた。
 レイもこっくりと頷く。

 「そっか。じゃあ後はご飯食べてから聞くよ。二人ともそれでいいだろ?」

 ケンスケがトウジとヒカリに確認する。

 「おう、それでええで」

 「うん、ご飯食べちゃいましょう」


 それぞれが昼食に手を付け、黙々と食べ始めた。微妙な雰囲気を残しつつ。






 やがてみんなが食べ終わる。
 黙ったままそれぞれ後かたづけをして、誰からともなく、ふう、とため息を漏らした。


 再びトウジが口を開く。

 「なぁ、惣流。もうええやろ? オマエら二人とも真っ青な顔しとるけど、妙に幸せそうや。それが関係があるんやろ?」

 アスカの顔をまっすぐに見据え、言葉を紡ぐ。

 「ワシら友達やろ? 無理に言えとは言わんけど、ちょっとは信用せぇや。エエ事も悪い事も背負いおうてこそやろが」



 しばらく視線を絡ませる二人。やがて、アスカがスィ、と目を逸らし、呟いた。

 「・・・・・・勘違いしないでよ、最初に言ったとおり、悪い話なんかじゃないのよ・・・
  ただ、私自身が、どう受け止めていいのか、混乱してるのよ・・・」


 しばし、重苦しい沈黙に包まれる。
 良い事だ、と言うにもかかわらず。
 レイもじっと黙り込んだまま、俯いている。彼女の場合は普段とそんなに変わらないが、やはり話しかけづらいオーラを感じさせる。



 やがて、アスカが意を決したように顔を上げた。

 「・・・いつまでもウジウジ考えててもしょうがないし、みんな、聞いてくれる?」

 一旦言葉を区切り、暫し逡巡する。
 言いよどんでも仕方ないのだと、判ってはいても。
 そして、重い口を開く。

 「・・・・・・シンジがね・・・意識を・・・回復したらしいのよ・・・・・・」


 静かな、爆弾。
 それは予想以上の威力を持って、皆の耳に飛び込んだ。



 その言葉が各人の心に染み渡るまでに、しばしの時間を要した。



 「ほ・・・んとう・・・なの・・・?」

 最初に口がきけるようになったのは、ヒカリだった。それは、委員長として過ごしてきた時間がそうさせたのかも知れない。

 「碇くんが・・・」

 「私もレイも電話の一報を受けただけで、詳しい事はわかんないのよね・・・
  意識は回復した、ってだけで、容態も何も詳しい事は・・・
  みんなには伝えてあげて、って言われたから、言ってもいいことではあるのよね。
  でも、それ以上の事は何も知らされてないのよ。今は大事な時だから、しばらくは会えない、って・・・」

 「そう・・・
  でも、いいことではあるわよね・・・
  喜ぶべき事だと思うわ・・・・・・」

 ヒカリは、辛うじて言葉を絞り出した。

 二人の心が、判ったように思った。
 とてもいい知らせ。手放しで喜びたいのに、喜べない。
 眠れない程喜んでいるのに、口が重かったわけも。
 彼の今の状態が、さっぱり判らない、と言う事。
 緊急事態ではないであろう事は、判る。
 それならもっと違う対応が求められただろう。
 でもそれはそうではない、と言うだけで、状況の良さを示しているわけではないのだ。
 逆に、すぐに会えない、と言う事が、状況のまずさを予見させる。
 ・・・だから、きっとアスカは口にしづらかったのだ。


 「そうだったのか・・・知らせてくれてありがとう。俺たちもアイツの事は心配してたんだ」

 彼らしい少しニヒルな笑みで、ケンスケが言った。
 彼女達が苦しんでいるなら、オレは道化を演じよう。
 彼女達が困っているなら、オレはしがみつける一枚の葉っぱになろう。
 それが、人より少し大人びた、彼らしい発想だった。
 なんでもない事のように振る舞って見せよう。
 それで彼女達の心の負担を、少しでも取り除けるなら。


 「あ・・・アイツが・・・ようやっと・・・目ぇ覚ましよったんか・・・
  長い間・・・綾波に迷惑かけよってからに・・・・・・」


 明らかに判る涙声で、目元をジャージでぬぐうトウジ。
 言葉こそ悪いが、この熱血漢は見かけによらず意外と涙もろかった。
 レイが毎日のようにシンジの元に通っていた事を知っているから、尚更に。
 義理堅く、情に厚いトウジには、それこそ見ているだけでも辛いものだった。





 「話はそう言う事よ・・・それだけ・・・
  ただ、誰にも言わないでよ? 機密事項に属する事なんだから」


 アスカは少しすっきりした顔でそう言った。
 肩の荷が下りた、と言う事なのだろう。
 レイと二人、どちらかと言えば、アスカにこの事は重くのしかかっていたから。



 レイはそんなみんなの様子を、じっと見つめていた。
 ヒカリの言葉が、ケンスケの態度が、トウジの涙が、とても暖かく感じられた。
 みんながシンジの事を想ってくれていると言う事。
 きっとこれが友達という事なのだと。





 「話しちゃったら、ちょっとはすっきりしたわね。なんだかホントに眠くなって来ちゃったわよ・・・」

 アスカがあくびをかみ殺しながら言った。
 レイも視線が宙をさまよっている。
 普段レイは眠たければ無理をせず寝るタチだけに、そんな姿は珍しかった。

 「悪いけど、私達やっぱり帰るわね。もう今日は限界よ・・・」

 アスカがレイの手を引いて立ち上がる。二人とも足下はふらふらとおぼつかない。
 鞄ごと屋上に来ていたので教室に戻る必要もなく、後は帰途につくだけだ。

 「二人とも気を付けて帰ってね。送ってあげられないけど、先生には伝えておくから」

 「ありがと、よろしくね」

 「・・・また・・・明日・・・」


 レイも辛うじてそれだけを口に出して、アスカと共に屋上の扉をくぐって帰っていった。


 「俺たちも教室に帰るか」

 「そやな」

 3人も片づけた弁当を手に持ち、教室へと戻っていく。
 さんさんと照りつける陽光だけが、彼女達を温かく見守っていた。















 あれから二日が過ぎた日曜日。

 レイはけだるい朝の目覚めの中にいた。
 低血圧のレイには朝は辛いもので、いつもぼんやりと過ごす。
 特にシンジが目覚めたという事を知ってからは、はっきりしない頭でシンジの顔を思い浮かべるのが幸せだった。

 碇くん・・・・・・

 想像の中で微笑みを浮かべるシンジは、14歳のままの姿で。

 彼女へ差し伸べられる腕は、幼い少年のもので。


 渦巻き混沌とした感情の中から、やがて浮かんだ言葉。
 早く逢いたい・・・・・・

 レイの心がぐらり、と揺れる。
 それはとても強く、あの日以来願っていた事だから。

 碇くんの温もりを感じたい。
 碇くんの肌に触れたい。
 碇くんの手を取りたい。


 少しずつ意識がはっきりしてくる。


 碇くんの瞳に見つめられたい。
 碇くんの言葉を聞きたい。
 碇くんの微笑みを見たい。



 それはとても蠱惑的な響きを伴って、レイの心に忍び込んできた。

 逢いたいなら、逢いに行けばいい・・・・・・




 しばらく、それを反芻するかの様に、心の中で繰り返してみる。

 逢いたいなら、逢いに行けばいい。

 ・・・・・・・・・・・・

 そうだ、何をためらう事があっただろう?

 いつだって、命令でない限りは、自分のやりたい様に行動してきたのでははなかったか?



 細い両腕に力を込めて、ぐっと身を起こす。
 軽く頭を揺らすと、ふわりと青い髪が踊り、元の定位置に収まる。

 出かける前に軽くシャワーを浴びよう。
 そしてサプリメントでも摂って、とっておきの服を着よう。


 碇くん・・・なんて言葉をかけよう・・・?

 碇くん・・・なんて言ってくれるの・・・?

 碇くん・・・この気持ち伝わるかしら・・・

 碇くん・・・貴方の微笑みが欲しい・・・





 白いブラウスに淡い紫のスカート。
 駅のホームで、少し俯いたまま電車を待つ。

 ゆらゆらと揺れる陽炎の向こうから、電車が現れる。

 ごとん、ごとん

 その音はだんだん近く、間隔は長く、そして、ブレーキの音。



 シンジの顔を想いながら、電車に乗り込む。
 何十分か後には逢える、彼の姿を。

























 通い慣れた道を通り、病院の中へと入っていく。
 見慣れたナースルームの前を通り、エレベータホールへと。
 時刻は昼に届かない。11時ぐらいだろうか。


 ちん。


 シンジの居る階に着いた音が、軽く響く。


 数日前と変わらない風景なのに、何故か色付いて見える。
 真っ白な壁が、床が、輝いて見える。


 左に向かって突き当たりの方まで歩いていく。
 途中で右に曲がり、一番奥の左手、日当たりの良い部屋が彼の居場所になる。

 かつん。

 足音が止まる。

 とくん。
 とくん。
 とくん。

 鼓動が高鳴る。


 この扉を開ければ。


 碇くんの微笑みが待っているかも知れない。


 そう考えただけで、頬が紅潮していくのが自分でも判る気がした。





 静かに深呼吸をして、そっとタッチパネルに手を触れる。

 プシュ。

 小さな圧搾音と共に、扉が開く。


 暖かな陽光が一杯に取り入れられるこの部屋は、太陽の香りに満ちていて。
 白い壁と床がこれ以上ない清潔感を醸し出している。

 一歩、足を踏み入れた。
 ベッドには、確かなふくらみがある。
 艶やかな黒い髪も。

 もちろんこれまでも見てきた姿だ。
 だけど。
 体勢が違う。
 それは意識を取り戻し、自分の身体を制御下においているという証。

 懐かしい声が、レイの耳に飛び込んだ。





 「どなたですか?」





 ああ!


 そうだ、この声だ・・・!





 「碇くん・・・・・・」


 辛うじてそれだけが、口からこぼれ出た。
 言葉にならない想いが、胸を締め付ける。

 痛い。

 苦しい。

 まるで呼吸が止まったかの様に。





 彼が、寝転んだ体勢のまま、こちらに顔を向けた。

 黒曜石の瞳が、レイを認める。


 だが、次に続いた台詞は、レイの予想していた如何なる言葉をも超越していた。





 「あの・・・・・・どちら様ですか?」





 どくん。
 心臓が不整脈を打ち、瞳孔がきゅっと窄まった。

 ・・・くらり。

 平衡感覚を失い、墜落していく様な感覚がレイを襲う。
 全身の血が、ザァッっと音を立てて引いていく音が聞こえた気がした。



 とん。


 背中が扉に当たる。





 「い・・・かり・・・くん・・・・・・」



 小さく、かすれた声が空気を震わせる。

 まさか・・・もしかして・・・そんなはずは・・・・・・

 今まで想像もしていなかった疑念が頭をもたげる。
 何故赤木博士が逢わせようとしなかったのか・・・・・・





 しかし、彼にはそれすら不思議に聞こえたようだった。


 「どうして僕の名前をご存じなんですか・・・?
  ・・・貴方はどなたですか・・・?」




 決定的な一言が放たれた。






 言うべき言葉を見いだせなくて、立っている事さえ辛くて。
 これ以上一秒たりともそこにとどまっているのが滑稽に思えて。

 「ごめんなさい・・・サヨナラ・・・」

 ここまで胸に抱いてきた全ての想いと言葉を投げ捨てて。
 レイはその場を逃げ出した。






















 「シンジくん、調子はどうかしら?」

 レイが立ち去ったその日の夕方。
 いつもの様にリツコとシンジの接見が行われていた。

 「はい・・・身体は問題ないです。
  筋力が戻らないのがもどかしいですが・・・それ以外は特に」

 「そう、じゃあもうちょっとしたらリハビリに入りましょう。
  他に何か気になる事とかあるかしら?」

 「いえ、特には・・・あ。そういえば」

 「どうしたの?」

 「いえ、あの・・・昼前ぐらいの事なんですが・・・一人僕の病室に来た子がいたんです」

 「なんですって!?」

 あまりの驚きに取り乱した事を後悔したが、今更どうしようもなかった。
 気を取り直し、質問を重ねる事で誤魔化した。

 「・・・で、どんな子が来たの?」

 「えっと・・・すごく綺麗な青い髪の・・・紅い目をした女の子でした。
  ああいうのを、アルビノって言うんでしょうか?」

 「さあ、私は見てないから何とも言えないわ。
  その子を見て、他に何か思った事はある?」

 「えっと・・・その・・・」

 言いにくそうに、言葉を探している様でもあった。
 リツコはじっと言葉を待つ。
 しばらくして、シンジが口を開く。

 「その・・・変な事だと思われるかも知れませんが・・・
  胸が苦しかったです・・・締め付けられるような、懐かしいような・・・
  すごく大事な事のような気もするけれど、思い出せない・・・」

 「そう・・・今はそれでいいと思うわ。
  まずは身体を万全にする事が先決よ。明日からでもリハビリを始めましょうか」

 「はい、判りました」

 既にここまでの接見で、リツコはシンジの信頼を勝ち得ていた。
 それはシンジがここで起こった事を覚えていないという事もあったが、リツコの積極的な働きにも大きく貢献していた。
 それ故に、自分の疑問よりも、リツコの言葉を優先させる事を選んだ。

 「じゃあ今日はもうゆっくり休みなさい。明日からは大変になるわよ?」

 軽いからかいを込めてそう言うと、席を立った。

 「お休みなさい、シンジくん」



 病室には、釈然としないものを心に抱えたシンジだけが残された。























 どこをどう辿って帰ってきたのかすら判らなかった。
 気が付いたら、自分のベッドの上にいた。
 レイは震える自分の身体を、力一杯抱きしめた。

 何故・・・何故・・・・・・

 まるで平衡感覚を失ったかように、視界が回っていた。

 心を支えていた何かが、決定的に壊れた。

 別に誰の所為でもない。
 他ならぬ、自分の浅はかな行動によって。

 赤木博士の忠告を守っていれば良かったものを、愚かにも私は自ら地獄へと足を踏み入れてしまった。



 救いを求めて、空を見上げる。

 月は見えない。
 まるで今のレイの心を映すかのように、濃い雲に隠されていた。


 私は誰?
 私は誰?
 私は誰?


 自我すら崩れ去っていきそうで。
 ひたすら自分自身に問いかける。


 私は綾波レイ。
 私は綾波レイ。
 私は綾波レイ。

 私は碇シンジの覚醒を望む者。
 他になにも欲しいものなんて無い。


 呪文のように彼の名前を唱え、少年の淡く儚い笑顔を胸に刻みつけていく。
 がたがたと小刻みに震える胸の中に。






















 リツコは翌日の放課後、レイを呼び出した。

 「貴方、昨日シンジくんの病室に行ったそうね。
  逢ってはいけないと貴方には言ったはずだけれど、どういうことかしら?」

 いつもとは全く違う、後悔に揺らぎ、背けられた眼差しで苦しげにレイが答えた。

 「逢いたかったから・・・です・・・」


 「リツコ! ちょっと待って、お願い、レイを責めないで」

 思わずアスカは叫んでいた。
 アスカは今日レイから何があったか昼休みに聞き出し、心を痛めていた。
 驚きはしたが、実はアスカの幾通りかの想像の範疇ではあったのだ。
 身体に異常がないにもかかわらず、目覚めてもすぐには逢わせては貰えない、と言う事が何を意味するかを考えれば、自ずと答えは絞られてくる。
 だから驚きよりも、レイに対する心配の方が強かった。

 「誤解しないで。起こってしまった事を責めるつもりはないわ。
  でもこれは貴方らしくない行動ね。それとも貴方らしいと言うべきなのかも知れないけれど」

 「碇くんは・・・どうなってしまったのですか・・・?
  私の事をまったく覚えていない様でした・・・
  ・・・記憶を・・・失ってしまったのですか・・・?」


 リツコは仕方ない、と言う様に目を閉じて、ため息を吐いた。

 「その通りよ・・・驚かないで聞きなさい。
  彼の記憶はね・・・・・・
  第三使徒の現れた日の、第三新東京市に降り立った所までしか残ってないの」



 「そんな・・・それって私達と出会う前じゃない・・・
  それどころか、ここで起こった事、何一つ覚えてないって言うの・・・?」


 「・・・貴方達の気持ちは判るけど、そう言う事よ。
  ショックを受けない様に私からあなた達に言うつもりだったんだけど、順序が逆になっちゃったわね」

 ぐっ、と黙り込むアスカとレイ。

 「でも、問題はまだ残ってるのよ。
  彼に本当の事を教えるか否か。
  言ってる意味、判るかしら?」


 しばらく考えていたが、アスカは何か閃いた様に顔を上げた。

 「アイツにここで起こった事、アイツの成した事を全て話して押し付けるか、嘘の話を信じ込ませようか、って言う事ね?」

 リツコは我が意を得たり、とでも言う様に頷いた。

 「ご明察。公式情報通り、事故にあって今まで意識不明だったと言う事にするか、何も覚えていない彼に真実を話すか、二者択一、って事ね。
  悪いけど、考えている時間は残されてないのよ。2〜3日中には決めないといけないわ。
  いつまでも彼もそのままにはしておけないし、復学の準備もあるしね。
  どっちがいいのか、正直言って私達にも判らないのよ。だから、貴方達に賭けてみようかと思うの」

 「どういうことですか?」

 しばらくじっと話に耳を傾けていたレイが問う。

 「どっちを選ぶか、貴方達で決めなさい、って事よ。
  今までシンジくんの事を見守り続けた貴方達にこそ、最終決定権がある様な気もするしね。
  2人だけが辛いなら、他の3人にも話してもいいわ。シンジくんにとってベストと思える答えを考えて欲しいの」

 語るべき事は終えた、とばかりに、リツコは瞳を閉じる。



 何とも言えない、微妙な表情で、3人とも押し黙った。



 「責任・・・重大だわね・・・」

 辛うじて作り笑いを浮かべて、アスカが呟く。

 「シンジの・・・・・・将来が決まるかも知れない言葉の、選択か・・・」

 勝ち気な少女らしく、くい、とアゴを上げて。

 「リツコの言葉に甘えて、みんなで相談するわ。
  レイ、それでいいわよね?」

 こくりと頷くレイ。

 アスカが席を立つ。それに続いてレイも。

 「明日みんなと相談して、遅くとも明後日には返事出来ると思うわ。
  私の腹はもう決まってるけどね。

  シンジの事はリツコに頼む以外どうしようもないから、よろしくね」

 「赤木博士・・・よろしくお願いします・・・」

 ぺこりとお辞儀をするレイにリツコは声を掛ける。

 「時間はないけれど、よく考えなさい。もっとも彼のためになる事を」

 「はい、そうします」

 そう言って二人が出て行くのをリツコは複雑な心境で見送った。



 ふふ・・・結局、あの子達にいつも一番大事な事を任せるのね・・・
 私達は何も変わってないのかも知れないわね、あの頃から。

 やるせない想い。
 煙草に手を伸ばし、火を付ける。
 紫煙が立ち上り、天井付近で霞んで見えなくなる。
 それをぼんやりと眺めながら思う。

 いつも私達はお膳立てをするだけ。
 大事な部分はいつだって年端もいかないあの子達にしか解決出来ないと、そう言って押し付けてしまう。
 加持君に怒られちゃうわね、こんな事じゃ・・・

 立ち上がり、背伸びをする。
 顔でも洗ってすっきりしよう。

 後には、押し潰されて微かな紫煙を残す煙草だけが残された。
















 次の日の昼休み、また屋上でアスカは友人達に事の次第を話した。

 「と言う事なのよ。
  急な話で混乱してるだろうけど、みんなはどう思う?」


 皆一様に押し黙る。
 あまりにも選択として難し過ぎた。
 どっちを選んでも、正負の部分が存在し、それを天秤に掛ける方法は存在しない。


 やがて、トウジが口を開いた。

 「リツコはんもキッツイ事任しよるなぁ・・・
  けど、そう言う事やったら、ワイらの口出す事やあらへん。そやろ?
  綾波が決めたらエエ。それが許されるんは綾波だけや。惣流もそうは思わんか?」

 「ふーん、3バカのクセに判ってるじゃない。
  アタシもレイに任せるつもりだったわ。
  押し付けるんじゃなくて、レイにしか決めていいことじゃないと思うから」

 「いいんじゃないかな?
  俺もその意見に賛成だな」

 ヒカリだけが、黙り込んでいた。

 「本当にそれでいいのかしら・・・碇くんの将来を左右するかも知れない事を、そんな簡単に決めちゃって・・・」

 「しょうがないのよ、ヒカリ・・・アイツの意識の回復があまりにも突然で、時間がなかったの。
  誰が悪いわけでもないし、責められるべきでもないと思う。
  ただ、アイツに対する説明はいつまでも先延ばしには出来ないから・・・」

 「そう・・・そうよね・・・自分の置かれた状況が判らないのは、不安よね・・・
  それなら・・・私も綾波さんが決めるべきだと・・・思うわ・・・」


 皆の視線がレイに集中する。

 目をぱちくりとさせて戸惑うレイ。


 「私・・・が・・・?」

 「貴方が本当に献身的に、毎日の様にシンジくんのところに行ってたのはみんな知ってるから。
  だから、みんな貴方が望んで決めた事に従おう、って思ってるのよ」

 ヒカリが代表して、優しくレイに説明する。

 「でも・・・どうしたらいいか・・・判らない・・・・・・」

 「今すぐじゃなくてもいいの。と言っても、明日までしか猶予はないみたいだけど・・・
  でも、綾波さんの望む通りが、一番いいような気がするのよ。
  だから、苦しいだろうけど・・・辛いだろうけど・・・一生懸命考えてみて欲しいの」

 これほど重大な岐路に立たされたのは、レイの人生の中でも初めてだった。
 これまでは進むべき道は、既に決められていたから。
 それに従うだけで良かった。
 失敗の許されない、失敗かどうかが判るのがいつになるのかも判らない、そんな厳しい選択は今まで出会った事がなかった。
 レイが戸惑うのも当然だろう。


 深紅の、鋭いはずの眼差しが、瞳が、頼りなげに揺れる。

 「考えて・・・みる・・・・・」

 小さな声で、しかし、確かな響きで。















 夕方。
 公園で一人佇むレイの姿があった。

 椅子に座り、鞄を膝の上に置いたいつものポーズ。
 ただし、その手に本はない。

 彫像の様に景色に溶け込んだまま、たった一つの事をただ考え続ける。


 どうするべきなのだろう・・・
 私は何を願うのだろう・・・
 彼はどうしたいのだろう・・・

 答えの出ない問いかけ。

 碇くんに帰ってきて欲しい。
 だけど、記憶のない彼にそれを押し付けていいの?
 碇くんに安らかに過ごして欲しい。
 だけど、彼に嘘を付いてもいいの?

 堂々巡りの、無限回廊を彷徨う。

 厳しい真実と、優しい嘘。
 現実と対峙する苦悶と、偽りに満たされた静謐。
 どちらがより碇くんの為なのだろう?
 どちらをより私は望んでいるのだろう?
 そして、私の我が侭で、全てが決まってしまうのがとても怖い・・・・・・
 私は望んでしまっていいの?
 私が碇くんの人生を左右していいの?


 チカチカ、と街灯が瞬き、公園を人工の光が満たす。

 もうそんな時間なのね・・・


 既にとっぷりと日は暮れ、薄闇の空。
 鞄を手に持ち直し、立ち上がる。
 コンビニに寄って晩ご飯を買い込んで帰ろう。










 ベッドに横たわっても、思考はまとまらなかった。

 考える事それ自体が、儀式の様に。
 幾度と無く繰り返される、問いかけと迷い。
 その度に少しずつ言葉は変わっても、指し示す事は同じ。


 多分、どれだけ時間を掛けても答えなんて出ない事なのだと思う。
 正解なんて、きっと誰にも見えない。神様でもない限りは。

 でも・・・・・・


 考えるのをやめる事なんて出来ない。
 他ならぬ、碇くんの事だから。

 例えこの命がかき消されたとしても、彼には安らかに生きていって欲しい。
 自分の気持ちを自覚する前から、続いていたであろうこの想い。
 きっと二人目の私も、同じ想いだったのだろう。
 今なら、判る気がする。

 彼女も見上げていたであろう、蒼く丸い月の光。
 柔らかく、静かで優しい闇の中の温もり。
 月は何も答えない。ただ照らすだけ。
 だけど心の隅々まで照らし、私の気持ちを洗い流し、浮き彫りにしていく。

 迷う事。
 それは気持ちを天秤に掛ける事。
 どちらがより自分のためになるのか。
 誰かのために、そう思う事も、最終的には自分に返ってくる事だから。
 でもそれこそがヒトである気もする。
 私はヒトになれたのだろうか・・・?

 不思議に、睡魔は襲ってこない。
 時計は3時を指している。
 このまま明日まで考え続けよう。



 だって、他ならぬ、碇くんの事だもの。






 翌日、レイはまだ気持ちが決まらない事をみんなに伝えた。
 ギリギリまで考えるといい、そう言うみんなの言葉に頷いて、授業も上の空で考え続けた。

 アスカはそんなレイをずっと心配そうに見守っていた。
 レイに辛い選択を任せた事は事実だったから、もし助けを求められたら、すぐさま立場を入れ替わろう、そう思って。


 だけどレイは頑張っていた。
 アスカは少し後悔の念がわき上がるのを感じていた。

 昔から彼女はそうだったのではないのか。
 自分に与えられた事から逃げる様な真似は、一度だって見た事はなかった。
 いつだって、限界まで自分で全てを成し遂げようとしていた。


 ならばせめて。
 最期まで見届けよう。


 彼女の出す答えを。





 相変わらず整然と整ったリツコの居室にて、レイとアスカは部屋の主の仕事が一段落するのを待っていた。
 ここに至るまでも、まだレイは考えが決まっていなかった。
 いや、答えを出すのを先延ばしにして、ベストの答えを探していると言えるかもしれない。
 思考停止とはすなわち、シンジについて考えるのを放棄するという事だから。



 「待たせたわね。・・・どうするのか決まったのかしら?」

 リツコがズバリと切り込んだ。

 「リツコ、その前に私達の総論を伝えるわ。
  みんなで話をしたんだけど、全員、レイの望む通りに、って。
  そう返事してくれたわ。
  レイにこそ、その権利があるから、ってね。
  もちろん、このアタシもね」

 アスカがそう切り返す。その顔は誇りに輝いて。
 私達の友達はどうだ、とでも言う様に。


 「そう、いい友達ね。これからも仲良くしなさい。
  友達ってね、望んで得られるモノじゃないのよ。
  強いて言えば、天の配剤ね。日本では一期一会、とも言うわね」

 暖かい、昔では見られなかった微笑みを浮かべて、アスカに語る。
 それは昔日の自分たちを懐かしんでる様でもあった。


 「さて、じゃあレイの答えを聞かせて貰えるかしら?」

 しかし、レイの瞳にはまだ迷いが見て取れた。

 「・・・私は・・・・・・」


 アスカは固唾をのんで。
 リツコは微笑みを浮かべて。

 レイの言葉を待つ。





 永い、沈黙。


 そして。

 つ、と顔が上がり、あの、いつもの迷いのない瞳が、リツコを刺す。



 「私は・・・・・・」



 「彼を苦しめたくありません。現状の公式情報通りで、彼と私達は初対面という形でお願いします」



 「いいのね、それで?」

 「はい」

 「はっきり言うけれど、楽じゃないわよ?
  シンジくんの行動一つ一つを昔の彼と照らし合わせて、その度に一喜一憂するのよ?
  貴方だけじゃなく、アスカも、お友達も、みんなその思いを抱えるの。
  つまり、貴方の決定がシンジくんだけじゃなく、他のみんなの思いにも影響する、って事に対して、覚悟は出来てる?」


 諭す様に、語りかける。


 「覚悟なんて・・・出来てない・・・でも・・・碇くんのためにはこれが一番いいと思ったから・・・」


 「だから・・・」


 「私は、私も含めて、どんな人間が苦しんでも、碇くんが安らかに生きていける事を願います」



 毅然とした表情で、レイは自分の気持ちを語った。





 リツコは瞳を閉じて、深呼吸した。
 娘の成長が、とても嬉しくて。
 そして、娘のこれからの苦難を思い、手助けできないことが悔しくて。

 「わかったわ、じゃあそれで詳細を詰めるわね。明後日ぐらいには資料を渡せると思うから、目を通して頂戴」



 レイは驚いた。
 ふわりと、優しく白衣に包み込まれて。

 「よく頑張ったわね・・・レイ・・・誇りに思うわよ・・・」

 驚く程に静かで、慈愛に満ちた一言だった。



 「頑張りなさい・・・私には見ていてあげるしかできないけれど・・・」


 そう言ってレイを解放した。





 「貴方達には未来を歩く権利がある。幸せな未来をね。出来る限りのバックアップはするわ」


 それは不器用なリツコからの、これから苦しむであろう彼女達への、精一杯の祝福だった。










to be continued...

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