闇夜に沈んだ第3新東京市上空。
 近傍で煤煙を吹き炎上する山峡からの照り返しが異形の生命体を浮かび上がらせている。
 再びその正八面体の外周部に光る何かがまばらに浮かび上がるや徐に回転し始めた。それは次第に速度を上げ弾ける稲妻のようなものを視認したと感じた瞬間、意識が押されるほどの光の奔流に闇は引き裂かれた。
 その膨大なエネルギー波は日本中のエネルギーを収束しつつあるポジトロンライフルを構える初号機に一直線に伸びてくる。闇夜の中を急激に膨張したかのような光の玉に包まれたと思ったその瞬間、初号機の目前でその光源が切れた。瞬時に初号機の前に出た零号機は、次の瞬間凄絶なエネルギー波を盾で受け止めていた。衝撃に耐える零号機。筆舌に尽くしがたい光と熱そのままのエネルギーは盾で直撃を防いでいる二機のエヴァ以外に存在するあらゆる物質を瞬時にして灰燼に帰した。

「綾波っ!!」

 絶対的な危険に晒されているレイにシンジが叫ぶ。その凄まじいまでのエネルギー照射を防ぐにはその盾は余りに貧弱に見えた。見る見る熔解していく盾。だがポジトロンライフルの第二射の発射準備はまだ出来ない。

「くっ……早く!…早く―――!! 」

 盾は原形を留めないほどに熔解し遂に吹き消されるように消滅した。未だ衰えない圧倒的なエネルギー波の直撃に晒される零号機。そして、次の瞬間シンジは信じられない光景を見た。零号機は衝撃で飛ばされそうになる機体を辛うじて立て直すと、その超高エネルギー波に向かい初号機を庇うようにゆっくりと両手を広げ、そして自らを盾にした。



… さ よ な ら …




「!!!!!綾波ぃぃ―――――!!!!!」

 レイの姿が、声が脳裏を掠める。シンジが絶叫とも言える声を絞り出したその瞬間、ポジトロンライフルへのエネルギー充填が完了、ターゲットスコープ上の照準が第5使徒にロックオンされた。歯を食いしばり一気にトリガーを絞り込む―――。



 日曜日の穏やかな午後。コンフォート17の自室のベッドの上。ようやく見慣れた天井を見るともなしに眺めながらシンジは回想していた。一昨日の第5使徒ラミエルとの二子山決戦《ヤシマ作戦》を。



「あなたは死なないわ……私が守るもの」

(…本当に命がけで守ってくれた…自分と零号機を盾にしてまで…)


「…絆だから」
「絆?」
「そう、絆」
「父さんとの?」
「みんなとの」
「強いんだなぁ…綾波は」
「私には他に何もないもの…」

(…もう…)

「じゃ、さよなら…」

(…僕とは会えないかもしれないと思ったんだね……)



 力尽き倒れ臥す零号機。

 ( 待ってろ…) 

 エントリーハッチをもぎ取りプラグを引き抜く。

 ( 今…) 

 排出されるLCL。

 ( 今、助けるからな )

 水蒸気。エントリープラグの表面にも激しい熔解が見られる。

 ( 綾波!)

 焦燥。衝撃を与えないようにそっと大地に寝かせると初号機から飛び降りハッチに飛びついた。灼熱。プラグスーツの手袋が焼ける。熱で膨張し異様に重くなったレバーを渾身の力をこめて回し、呻いた。

「まさか…綾波、『さよなら』なんて、そんなバカな!!…なんで綾波が、なんで…」

 冷静に考えれば直ぐに理解できる事だった。綾波レイの役割がどれだけ危険だったか…。自分の愚かさを罵った。



(そして…綾波がエントリープラグの中で意識を取り戻してくれた。視界の中で綾波の顔が滲んだ…)


「自分には…自分には他に何も無いって…そんなこと言うなよ……別れ際にサヨナラなんて寂しい事言うなよ…」

(…もう二度と言ってほしくなかった。自分の存在を希薄だなんて思わないで欲しかったんだ…)


「ごめんなさい…こういう時どんな顔すればいいのか解らないの…」

(綾波は寂しげに視線を逸らしたけど、僕はやっぱり笑ってほしかった。生きている喜びを、一緒に笑顔で感じて欲しいと願ったんだ…)
(だから僕は泣きながらだけど…精一杯の笑顔を向けたんだ…綾波が生きていて、本当に本当に嬉しかったから)


 そして………。

(天使の微笑、に見えた……しばらくの間その笑顔に見入ってしまった…全ての想いを置き去りにして…)



 回想を続けるシンジ。しかしながら自分の中で色を為し始めた『何か』を認識するには、未だ至らない。
 セカンドインパクト以降、常夏となってしまったこの国には珍しく日差しが柔らかい、日曜日の穏やかな午後が流れる。

「…どうしてだか解らないけど…気になってた。多分…初めて逢った時から…」



― 路上に佇んでいた、幻かも知れない空色の髪の少女に ―




Episode 06.01
月夜、気づいて / Just the beginning    
Written by calu


(綾波…あれから会っていない……)



 エントリープラグからレイを助け出したシンジは救護班を待つのももどかしく、レイの歩行に支障が無い事を確認すると移動指揮車に向かって歩き始めた。
 壊れモノに触れるようにレイの右腕を取り、そっと左肩でレイの体重を受け止めた。

(…こんなに軽いんだ…)

 自分には何もないと呟いた少女の身体はあまりに華奢だった。

(…腕も……こんなに細いんだ……)

 ネルフに到着した日にケージでレイに会った時のことを思い起こす。
 シンジに対するゲンドウからの一方的な理不尽とも言える命令。そして拒否。その結果出撃命令が出されたのは、単独での歩行も困難なほどの重症を負ったレイだった。出撃できる状態で無いのは一目瞭然だった。そして第3使徒による攻撃。そのあおりを受けベッドから投げ出された包帯姿の少女のもとにシンジは駆け寄り、抱き上げた。苦痛に喘ぐ表情。塞がっていない傷口からの出血は、シンジに初号機に乗ることを決断させるトリガーとなった。

(…あの時、父さんに再び捨てられたくないという思いが強かったのは確かだった)
(ただそれでも、父さんからの呼び出しに一縷の望みを託してやって来た僕に、いきなりエヴァに乗って訳の分からない敵と戦えだなんて命令されてすごくショックを受けたし、絶対に出来ないと思った)
(だから拒否したんだ……。でもあの時の綾波を見た瞬間、何だか分からないけど僕の中で誰かの声が聞こえたような、そんな気がした。そして、ここで絶対に逃げちゃいけない、という想いが僕自身の中から溢れてきた…)
(…でも、あれは…僕自身の声だったような気もする…どうしてだろう…僕は僕なのに…)

 ひと際大きく輝く月が闇夜を薄めている。その月に導かれるように歩を進めながら、シンジはややもすれば希薄に感じてしまうレイの存在を確かめるようにその腕を静かに持ち直し、身体を優しく受け止める。その腕に身体に再び彼女自身を感じた時、こうして二人で支え合っている事がすごく自然で、このままずっと二人で一緒に歩いていけそうな、シンジはそんな感覚に溶け込んでいった。

 しばらく歩くと前方の林の中に幾条もの光が見え隠れし始めた。微かに人らしき声も木霊している。シンジは直感的にミサトだと思った。既にシンジ達の位置を捕捉しているからだろうか、一直線にこちらに向かって来るのが分かる。草木を掻き分ける音に混じりシンジとレイの名を叫ぶ声が一段とハッキリ聞こえたと思った瞬間、ミサトが林の中から低木を飛び越えるように姿を現した。少し遅れて救護班も付いて来ている。ミサトはシンジに右肩を預け覚束ない足取りで歩いているレイを認め、全速力で駆け寄ってきた。

「レイィ! 大丈夫!?」

 ミサトは心配の余り顔を歪ませている。第5使徒の加粒子砲の威力は緒戦で既に認識している。あの攻撃によりシンジが一時心肺停止にまで陥った事は記憶に新しいが、盾となった零号機はそれを凌駕するエネルギー照射を受けている。

「……大丈夫です。葛城一尉……」

 受けたダメージはレイを一見すれば直ぐに理解出来る。ミサトは気丈に応えるレイに胸が締め付けられる思いがした。
 レイは直ぐに救護班による診断と応急手当を受け、到着した医学部のヘリにストレッチャーごと収容されネルフ中央病院に緊急搬送されることとなった。

「レイ。あと少しよ。我慢してね」

 選択枝が限られる中、作戦課長としてこの華奢な少女に発令せざるを得なかった過酷な命令、そして予見できた結果。言葉通り人類の盾となり傷を負った少女を前に、ミサトは押し寄せる悔悛の情に翻弄されそうになった。だがヤシマ作戦の完遂を宣言し第一種警戒体制に移行したとはいえ、戦闘の手仕舞いが終了していない現状にあっては作戦課長としての立場を、顔を崩すわけにはいかない。結果今のミサトに出来ることは、情念を押し殺しつつも作戦を遂行した二人のチルドレンを労う事だけだった。

「二人とも良くやったわ…シンジ君もそうだけど、特にレイは本当に良くやってくれた。最後まで初号機…シンジ君を守ってくれたわ…」

 機中でもあり、また心中そのままに若干トーンの落ちたミサトの言葉が果たして彼らに届いたかどうかは解らない。シンジはそれには反応を示さず静かにストレッチャーの横に腰を落とし、やや不規則な呼吸にその身を預けているレイを心配そうに見つめている。時折機内に漏れ零れる月明りがレイのその白磁器を思わせる頬を照らし出すが、目を瞑っていること以外その表情を窺い知ることは出来ない。意識せずその細い手に自分の手を伸ばそうとしたシンジだったが、暫し宙を彷徨い控えめに自分の膝の上に落ちた。断続的な振動が空色の髪を震わせている。

 ヘリがネルフ中央病院屋上のへリポートに到着するや、待機していた医師と看護師が弾かれた様に救急搬送用ドアから散って出た。引き継がれるストレッチャー。強風吹きすさぶ中、ミサトがその長い髪を左手で押さえながらチーフと思しき医師に経過説明に声を張り上げ、救護班より託されたトリアージシートを手渡す。一連の遣り取りを心配そうに見守っていたシンジも診断を受ける事になったが、すぐに異常無しとの所見が下され本部施設への帰還が命じられた。
 引かれる後ろ髪。意識を先に進める事ができない…。レイの精密検査は既に始まっていたが、シンジはレイの傍を離れたくなかった。しかしパイロットとして服務規程上の残務処理義務が残っており、当該の手仕舞い処理を終了しなければヤシマ作戦は実質的に終了しない。それは政府や自治体の復旧計画への影響をも意味し、いかに特務機関とは言え許容され得ない事はシンジにも容易に理解出来る。幾らかの逡巡を繰り返した後、シンジは緊急入院したレイの分まで残務処理を頑張ると自分に言い聞かせ、病院を後にした。



(…精密検査の結果、目立った外傷は無かったけど、脱水症状が見られる事、そして零号機からのフィードバックによる脳神経系への影響を検査する必要があるという事で集中治療室入りとなったんだ。最終的に二日間は面会謝絶、数日間の入院加療が必要との所見が下された。だから、あの日以来綾波には会っていない…。でも、昨日で面会謝絶は解かれている筈…)

「…会いに行こう」逸る気持ちは自然と呟やきになってシンジの口をついた。



 ジオフロントに向かうリニアトレインは空いていた。日曜日であることも手伝いシンジの乗っている車輌は貸し切りのような状態で、進行方向に隣接する車輌にカップルが一組見て取れるだけだった。シンジはS-DATを聞き流しながら、車窓の中を穏やかに流れていく景色を見るともなしに眺めていた。
 陽光に霞みそうな程に暖かな眺望は一昨日の死闘の現実感を薄め、とてもではないが第5使徒にこのジオフロントへの侵入を許し人類滅亡が危ぶまれるという状況にまで事が進捗したとは思えない。だが、それが事実であったことは天井都市の上方、第3新東京市の兵装ビル間に崩れ落ちている第5使徒の遺骸が雄弁に物語っている。
 一昨日、この攻守完璧な第5使徒ラミエルを殲滅すべく特務機関ネルフはヤシマ作戦を発動した。人類の命運を賭けた史上稀に見るその作戦の成功確立は僅か8.7%。その数値を聞けば全人類はパニックに陥ったに違いない。だが人類は生き残った。現代の人類の科学力では第二射を考えることは出来ない筈だった。第一射目で仕留める事が絶対条件の作戦だった。だが綾波レイが身を挺し、絶体絶命の危機下にあった作戦は成功に導かれた。そして今その少女は、一命は取りとめたものの中央病院のベッドに臥している。
 ふとシンジの脳裏に包帯姿のレイのイメージが浮かんだ。

(なんで綾波が………)

 沈鬱。シンジは考えるのを止めた。自分がしんみりとしている場合ではない。心細い思いをしているかもしれないレイを励ますのは自分なんだ、と気を取り直した。既にレイの病室も確認していた。あれこれ迷った挙句、出勤中のミサトを掴まえ確認したのだ。

(…それにしても、何でミサトさんは綾波の事になるとあんなに僕をからかうんだろう?…)

 コンフォート17を出る前に、ミサトに電話をかけたときの状況を思い起こす。

「あっ、もしもし、ミサトさん。お仕事中にスイマセン。 い、今いいですか?」

(だ、ダメだ。緊張してる…)

「あ〜ら、誰かと思えばシンちゃんじゃない! シンちゃんならいつでもオーケーよぉ。どしたの〜?」
「うっ、すすみません…が、あ綾波の病室を教えてほしいんです…けど…」
「あぁ〜〜ら、レイの病室!? 305よん。シンちゃん、今日レイのお見舞いに行くのぉ? おねーさんは午前中に行って来たわよー」

(そ、そんな大きな声で言わなくても…今、どこに居るんだろミサトさん…発令所じゃなければいいんだけど…)

「え、えぇ今から行こうかと思ってます。あ有難うございました!」急いで電話を切ろうとするシンジ。が…。
「シンちゃん…」
「は、はい…?」一変してシリアスになったミサトの口調にシンジの声が少しうわずった。
「二人っきりになったからといって……監視カメラもあるから、ダメよ………レイを襲っちゃ…」
「えっ!? な、なななにを言っているんですか、ミミサトさんっ!!」受話器を握りしめながらしどろもどろになるシンジ。
「やーねぇ、冗談よ。んふふふ。じゃあね〜ん」プー!、電話が切れる。

(もぉ、発令所で皆に聞こえたらどうすんだよ…。あっ! 次で降りなきゃ)

 天井都市からは先ほどリニアトレインの車窓越しにも感じた柔らかな陽光が降り注いでいる。巧みな採光・空調循環システムが功を奏しているのか、ジオフロント内は今日も穏やかな陽気に包まれていた。



 中央病院のエントランスを潜ると総合受付センターのある広大な空間が広がった。日曜日で外来休診でもあり、その前の待合スペースのベンチには面会に訪れた訪問者との一時の会話を楽しむ入院患者が数組腰を落ち着けているだけだった。シンジはその間を通り抜け、病院独特の消毒薬の匂いに若干閉口しながらもナースセンターを横目に更に奥へと歩を進めた。五分も歩くとチルドレンの入院先として指定されている第一脳神経外科病棟の専用カウンターが視界に入り、規模の割りに広いと感じる待合スペースが右手に広がってきた。平日同様に一般病棟以上に人気が少ないこのエリアを通り抜けると目指す病室は近い。採光に意識したのか左手には連続した窓が柔らかな陽光を湛えている。オフホワイト一色の空間を目的の病室に向かってひた歩くシンジは、病室が近づいてくるにつれ自然と早歩きになっている自分に気付いていない。
 目的の病室まであと二十メートルというところで突然エアの抜ける音が響いた。同時に病室から出てくる人物。ネルフ総司令、碇ゲンドウだ。思わず歩を止めるシンジ。ゲンドウは近づきつつあったシンジには気付く素振りも無く廊下を反対側に歩き去っていく。暫しの沈黙。シンジはその後姿をジッと見つめていた。事実として一番近く、現実において一番遠いと感じる、そしてこれまで求めて止まなかったその背中を。

(父さん…やっぱり綾波の病室には来るんだ…)

 一瞬、シンジの胸中に複雑な感情が翳を落としたが、それが膨らみを見せることは無かった。徐々に霧散していく。

「綾波? 碇だけど…入るよ」

 深呼吸を一つ。膨らみつつあった緊張感を振り払った後、インターフォン越しに声を掛けつつドアの開放ボタンを押した。ドアを開けるタイミングの早さに後悔したのも束の間、ベッドの上で上体を起こしていたレイの姿が飛び込んできた。淡い水色のパジャマを着ている。自分の顔が弛緩していくのが分かった。

「碇くん…」

 瞬間、レイの表情が少し動いたが、今のシンジには分からない。

「あ、綾波。ゴメン、遅くなって。検査の結果は?…体調…それに気分はどう?」
「…問題ないわ…」 いつもの表情で答えるレイ。
「そう…」

 大きく安堵のため息を吐いた。

(良かった…。思ったより元気そうだ…包帯もしてないし…外傷は無いって言ってたもんな…)

 体中の力が頼りなく抜けていく。顔の筋肉も緩んで間抜けな顔をしているかも知れない。少しの気恥ずかしさを覚え下げた目線はベッドのシーツを捉えた。窓から柔らかく溢れ入る陽光にシーツの白さが際立ち、眩しい。
 少しの沈黙。シンジがおもむろに顔を上げると、深紅の瞳が真っ直ぐにシンジに向けられていた。相変わらずの視線だが以前のような冷たさは感じられない。

「…座ったら?」
「う、うん」

 ベッド脇のパイプ椅子を引寄せた。

(父さんは座らなかったんだろうな……少しここに居てもいいってことかな?…)

 再び訪れる暫しの沈黙。

(…何故だろう…)

 時間がいつもよりゆったりと流れるように感じ、

(心が中が落ち着いていく…)

 振り子のように振れていた自分の心が戻っていく。時間をかけて少しずつ調律されていく。

「…綾波」
「何?…」
「ごめん。まだ、お礼を言ってなかったよね。」
「…?…」
「…守ってくれて…有難う…。あの時、嬉しかった。僕の事を守るっていってくれたことも…」
「………」
「…でも、すごく後悔した…」
「…?…」
「…綾波があんな危険な目に遭って……僕はそんな綾波に守られて……自分が情けなくて…」
「………」
「だから…が、頑張って、初号機をもっと上手く乗りこなして、綾波を守れるようになるよ!」
「…!…」

 自分でも驚いていた。一気に話してしまってから頬が熱くなるのが分かる。自分らしくないと思った。これほど自分の気持ちをストレートに言葉にすることは無い。いや出来ない。当惑しているシンジにはやはり微かに動いたレイの表情を読み取る事は出来なかった。

「と、ところでいつ退院できるの?」
「予定では、明日の午後」
「そう。じゃ学校には火曜日から来れるの?」

(良かった…)

「…うん…」

(本当に…)

 再び訪れるひとときの沈黙。だが先程と変わることのない心地良さ。特別にコミュニケーションを交わしている訳でもない。傍にいる事で何故か安心する感じ。月明かりを頼りに寄り添い歩を進める二人。あの時と同じ感じだと思った。

「…そろそろ僕行かなくちゃ。夕飯の買い物に行かないとダメなんだ。今日はここに来て本当に良かった。有難う、綾波」
「………」
「それと、明日0800から本部でシンクロテストがあるんだ。二時間程で終われると思うから…それで、邪魔じゃなければ、明日もお昼前にまた来てもいいかな?…」
「…うん…」
「良かった…それじゃあ、また明日!」

 やおら立ち上がりパイプ椅子を元の位置に戻した。

「また明日…」


 シンジが帰った後、レイはシンジが座っていたパイプ椅子に視線を落としていた。

(…碇くん…サードチルドレン、初号機専属パイロット、碇司令の子ども…)
(…わたしが初号機を守ることは、碇司令からの至上命令の一つ。そして今回は葛城一尉からの同じ命令を遂行しただけ…)
(…でも、過熱したハッチを抉じ開けわたしを助けてくれた……命令ではないのに…)
(…涙…ヒトが悲しいときに流すもの。でも碇くんはわたしが生きていた事を、涙を流して喜んでいた…嬉しいときも涙を流すことがあると言ってた…)
(…そして…嬉しいときは笑えばいいと言ってわたしに見せた表情は…碇司令が時折見せるのと同じだった…それが嬉しいときの表情なの?…)
(…わたし、気が付くと碇司令のその表情を見たときと同じ顔を碇くんに返してた…それが嬉しいときに出す笑顔というもの?……………でも、良くわからない…碇くん、わたしの顔を見て呆然としてたもの…)
(…さよなら、別離の言葉、そしてもう会えないかも知れないという意味を持つ言葉……碇くんは命令はしない…でも、言ってはいけない気がする…)

「……わたしを守る……命令ではない、のに……どうして?…」

 あの日エントリープラグの中でシンジから差し出された手。そのときスーツ越しに感じた『何か』を思い起こすようにそっと左の掌を右手に重ねてみた。シンジの言葉、そしてさっきレイに向けられた笑顔を思い返した時、その『何か』をよりハッキリと思い起こすことができるような気がした。今はまだそれを表す言葉は見つからない。



 セントラルドグマ内、大深度地下施設。ネルフでも一部の限られた人間だけが入室を許された場所。この瞬間この施設にアクセス出来得る最高位の権限を有する二人はLCLで満たされただけの円錐状のガラスチューブを前に佇んでいた。
 一人は暗色の士官服に身を包んだ碇ゲンドウその人で、右手をズボンのポケットに捻じ込んでいる。服装同様に暗色に染められた眼鏡はこの幽冥な空間において表情を読み難くしている以上に陰鬱な雰囲気をゲンドウに与えているが、その締まった口元から厳しい表情を浮かべているものと想像に難くない。そのゲンドウの隣に屹立している金髪の女性、赤木リツコは、同じく右手を白衣のポケットに突っ込んでいるが、左手に持ったバインダーに綴じられた資料に時折目配せしながらも視線は専ら正面のチューブに注がれている。
 二人の視線を受けとめているチューブの登頂部からはヒトの延髄を連想させるかのような配管の類が更に上方に伸張し、夥しい数のパイプと回路で構成された人間の脳を彷彿とさせる装置に繋がっている。仄暗い施設内のイメージも手伝い、その設備自体の外貌は開示され得ない目的を具現化するが如く一種異様な雰囲気を醸し出していた。微かな振動と不整脈にも似た作動音が断続的に静謐とした施設内を彷徨っていた。

「赤木博士。ダミー計画の進捗状況はどうだ?」 ゲンドウは視線をチューブに置いたまま徐に声を放った。その低く抑揚の無い声から感情は読み取れない。
「予定通りに進捗しています。現在のマイルストーンですが、試作中のダミープラグは第四フェーズへの移行を完了。ファーストチルドレンからのパーソナルデータのキャプチャは第四フェーズ第二段階まで進行しています。修復した零号機の起動実験及び関連テストもあり、先の怪我の完治を待たずファーストチルドレンには本部施設への缶詰状態を強いる事になりましたが…。尚、今回の入院はダミー計画のスケジュールには影響を及ぼす事はありません」
「………赤木博士、第四フェーズ以降でのスケジュール再考は可能か?」
「スケジュールの再考と申しますと?…」 真意を測りかねゲンドウに視線を移すリツコ。
「前倒しだ。第3使徒の襲来以来、使徒出現の間隙が短くなっている。ダミー計画の目的は表裏存在するが、何れにせよ今はプロトタイプの早期完成を目指さなければならない…」

 ゲンドウの視線は依然としてチューブに注がれている。一瞬遠くを見つめるように細くなった目元をリツコが読む込む事は出来なかった。

「解りました…」

 ゲンドウの回答はリツコが期待したものでは無かったが想定外のものでも無かった。その表情から何かを読み取ることを諦めると速やかに自らの回路を切替えた。静かに視線を元に戻す。
(マヤへの負荷を考えても、技術部に問題は無い…。レイ次第ね…でも…何故、このタイミングで?……それに…)

「…………」



 同日夕刻、ネルフ中央病院のエントランスを潜ったリツコは警備詰め所の警備員により院内監視カメラで捕捉されていた。白衣を纏い颯爽と闊歩する姿は、部外者には中央病院の主任医師に見えたかも知れない。

「おい、技術部の赤木博士だな。どうしたんだろう…何か連絡が入っているか?」
「一寸待てよ……うん、いや特に無い」

 その間もリツコは総合受付センターを抜けて歩を進めていく。慣れているとはいえ同日午後のネルフ幹部による二度もの突然の来院は警備詰め所に若干の緊張をもたらしていた。業務マニュアルに特段の定めがあるわけではない。だが訪問先への都度のセキュリティレベル変更に加え上職への速報など俄かに彼らのトランザクションが緊張度に比例するように増加した。

「医学部か?…一般病棟ではなさそうだな」
「いや、あの方向だと第一脳神経外科病棟……たぶんファーストの病室だな…業務連絡かな…」

 詰め所の来客用ソファーに腰を落ち着けていたファーストチルドレン担当ガードが警備員二人のやり取りを窺っている。その目で悠然と歩き進むリツコの姿をモニター越しに確認すると、再びその身体を深くソファーに預けた。半ば弾力を失ったクッションからタイヤから空気が漏れるような音がする。どこから持ち込んだのか古ぼけた飴色のソファーは一見この目新しい施設にそぐわない様にも見えるが文句は言えない。ガード班員にとって時にベッドの役目も果たす。

「やっぱりファーストの所だな。赤木博士なら総司令同様モードSS適用、305での目と耳はカットだ。急げ」
「了解……。それにしてもファーストへのビジターが多いな。午後も突然総司令だったもんな。ただの見舞いでもなかろうが…葛城一尉とサードは別にしてな…」 ひとりごち警備制御システムにPINコードを落とし込む。一瞬手を止めソファーに張り付いているガードに一瞥をくれたが、その表情に何ら反応が見られない事を確認すると何事も無かったように操作を再開した。
 いかに諜報局員とは言え、職分以上の情報を得るようなリスクは避けたい。故にその男にも異存は無かった。



「赤木です。レイ、入るわよ」

 大気開放された音が響きドアがリリースされる。リツコが一歩病室に入ったところでレイが上体を起こすのが見えた。

「ごめんなさいね。寝てた?」
「いえ、起きてました。赤木博士…」
「体調はどう?加療履歴を医学部のデータベースから見たんだけど、あらかた脱水症状は治まったようね」傍らにある椅子に腰を落ち着けるつもりは無い。
「問題ありません」
「そう。ならいいわ。予定より半日早いけど、レイには明朝退院して貰うわ。これまでも本部にほぼ缶詰状態だったから、もう少しゆっくりして――と言いたい所だけど、そうも言ってられなくなったの。碇司令の命令でね、ダミー計画のスケジュール前倒しが決まったわ」
「…問題ありません…」
「では、明日の予定を説明するわ。明日0700退院。0820に技術部長室に出頭。二十分程度のブリーフィングの後、0900よりターミナルドグマでの試験開始となります。試験といってもメインはレイのパーソナルデータのキャプチャだから終了予定は1200位かしら。質問ある?」
「……………」
「…レイ?…」
「…特にありません…」
「…そう、分かったわ。それじゃあ私はこれで帰るわ。そろそろここも食事だしね。とにかく今日はゆっくり休んで頂戴」
「…はい…」

 踵を返して入口に向かうリツコ。病室を出る時ふと振り返ってみた。上体を起こしたままだが、俯いている少女は何かを考えているようにも見える。

(いつもと少し様子が違うわね…あの子…)



「おい、赤木博士が出てきたぞ。病室の監視レベルを通常モードに切り替えろ」
「諒解」

 病室から出てきたリツコを別の監視カメラで確認した警備員は、慌しく警備制御システムを操作した。直にモニターが復活しモニタリングパネル上の表示が更新される。
 ガードの男が身体を起こしモニターに視線を走らせた。レイの姿を認めると再びソファーに身体を沈みこませる挙動を見せたが、ふとその動きを止めた。やがてその身体を少し乗り出すと、胸ポケットからタバコを一本取り出し火を点けた。

(……………)

 流れる紫煙。少し霞んだモニターに視線と思考を留めている。

「ファーストチルドレンに、変わった様子は…無し、だな」

 報告書を作成していたのだろうか、警備員の一人がひとりごちるのが聞こえた。



 305号室。薄味の豆腐ステーキと海藻サラダをメインとした比較的軽めの夕食を済ませた後、レイはベッドの上で身体を起こし膝の上で文庫本を開いていた。先程から頁はあまり進んでいない。

(……予定より半日早い退院……ダミー計画の前倒し……碇司令の命令……)
(……碇くん……明日のお昼前にもう一度来ると言ってた………)
(……………………………………………)

 開いている頁に栞をそっと置き、本を閉じた。視線を右に流し、シンジが座っていたパイプ椅子をその深紅の瞳に映した。

(……わたし…どうして?……)



 ターミナルドグマ内大深度地下施設。リツコの指示したスケジュール通り退院したレイは技術部長室でのブリーフィングを定刻に終えていた。今はガラスチューブの中でLCLに抱かれている。チューブの前では前日と同様、暗色の士官服にその身を包んだ男が片手をポケットに捻じ込み佇んでいる。
 ゲンドウの隣ではリツコが流れるように採取されるレイのパーソナルデータの評価に余念が無かった。

(今日はどうも安定したデータが取れないわね…。これほどノイズが混じるなんて…それに…このパルスは何?…)思わず視線をレイに向けるが、目を瞑って静かにたゆたう少女からは何も読み出すことは出来なかった。
(第5使徒戦による負傷の影響?……いえ、ソレは無いわね…肉体的ダメージといった表層的なモノは影響しないもの。だからこそ深層意識が安定しているレイは被験者としては最適だったんだけど…)

 その一方、リツコは昨日から何かしらの違和感を覚えるゲンドウにも、ややもすると意識を奪われがちになる。
 このネルフでも機密中の機密とも言えるダミー計画。あらゆる指示命令が総司令よりトップダウンでもたらされるこの極秘案件においては、例え実験であれ時間の許す限りゲンドウが立ち会う事が暗黙の諒解となっていたし実際そうされてきた。が、今のゲンドウの様子はこれまでのものとは明らかに相違している。ここでの実験の時に常に空色の髪の少女に向けられている、恐らくこの組織において誰も垣間見ることが出来ないであろう、柔和な表情は影を潜めている。その表情が実際には誰に向けられているかを知っているリツコにとっては、それは忌むべきまた自身の女としての根源と対峙する瞬間だと認識はしている。しかしながらルーティンから乖離した事象はリツコに別種の疑念を生じさせ、ややもすると彼女を思考の海へと誘う。

(…何があったというの?…)

 だが、肝心の実験が期待通りの進捗を見せていない。直接的に業務に関係のない事象に囚われ思索に耽っている場合ではない。しかも今日は更新されたばかりのスケジュール、第四フェーズの初日である。不可抗力な要因による遅延は同一フェーズ内のリカバリを条件に許容されるだろう。だが頻度を増したシンクロテストやハーモニクステストの事を考えると、数時間の遅延でも避けたいというのが本音だ。ネルフ本部技術部長としての面子もある。

(…でも…今日退院したばっかりのレイに負担をかけ過ぎる事も、今後のスケジュールを考えると賢明ではない…)

 当然にリツコは今回の更新スケジュールを策定するにあたって、他のテストスケジュールと時間軸上での対比作業をも行っていた。
 予想通り零号機の修理が完了してから後のレイの多忙さは想像に難くない。少なくとも起動実験が成功するまでは、夜を徹してのテストとなる事は容易に想像できる。しかも使徒の襲来が現実となった今となっては、以前のような起動実験失敗による事故は絶対に許されない。それだけに必然的に起動実験実施までの手順はより細分化され木目細かなデータ採取が必要となり、結果パイロットの休息時間、更には睡眠時間を著しく圧迫する等、精神的にも肉体的にも相当な負担を強いる事となる。

(…結果として、司令の命令により最終的にレイの負担が、ある程度軽減されることになったのだけれど…。…でも、それは偶発的なものね。この人が仕事に私情を挟む事など絶対に有り得ないもの。例えそれがレイであっても…。瀕死の状態であったとしても、命令に対しての結果を求めるわ…。そしてそれに対してレイは絶対に拒絶しない。いや出来ない、なぜなら…)
 思考を継続しながら何気にリツコがチューブに視線を移した瞬間、レイの瞳がゆっくりと開かれた。どこまでも深遠なスカーレット。目前に佇んでいるゲンドウに柔かい表情を浮かべた。思い出したように表情を和らげ微笑を湛えるゲンドウ。

 何かが蠢いた。
 腹の奥の最も深い処。
 急速に膨れ上がり黒く深く幾重にも渦を巻く。
 科学者としての自我が、そして母性愛を有する個体としての自我が飲み込まれていく。


 …ヒトノフリヲシタイレモノノクセニ…
 …ワタシトオナジクセニ…


「碇司令」
「…どうした。赤木博士」
「本日は安定したデータを採集する事が難しいようです。恐らく回復途上のコンディションが被験者の深層意識に何らかの作用を与えているためと考えられます。因りまして本日のデータ採取を現時刻を持って終了したいと思いますがよろしいでしょうか?今回の遅延は来週中にはリカバリされ、新たなスケジュールへの影響は考えられません」
「…分かった、問題ない…」

 リツコは再びチューブに視線を向けたが、意識は焦点を結ばない。

「…レイ、上がっていいわよ」
「…はい…」

 電化が解かれチューブの基台部分に吸引されるようにLCLが排出されていく。
リツコはチューブから出た一糸纏わぬ姿のレイにバスローブを手渡しながら口を開いた。「ご苦労さま。まだコンディションは完全ではないようね。今朝退院したばかりだし今日は自宅でゆっくりと休んだほうがいいわね」
「…………」



「あれ、サードチルドレンだ」
「ん!? …本当だ。ファーストの見舞いじゃないよな…今朝早く退院したもんな。他に何があるんだ?」

 ネルフ中央病院警備詰め所の警備制御システムはエントランスに向かって走ってくるシンジを捉えていた。本部から走ってきたのだろうか、モニター越しでも相当息が上がっているのが見て取れる。

(…もう、ミサトさんってば、シンクロテストが十時半までずれ込んだって言うのに、最後のミーティングに四十分近くかけるんだもんなぁ…しかも全く関係のない話で…)

 午前八時から始まったシンクロテストは、伊吹マヤが不在の赤木部長に代わり技術部責任者代行として執り行った。ミサトはいつもと変わらず後方で腕を組みつつ上体を壁に預けていたが、先の使徒戦による影響の有無が気に掛かるのか幾分緊張した表情を浮かべてモニターに見入っていた。マヤの几帳面な性格も手伝い規定の手順を正確丁寧に踏んでいった結果、テストは十時半までずれ込んだ。シンジの計算ではあとはシャワーに着替え、そしてテストの概評で何とか十一時半までにはレイの病室にたどり着くことが出来ると踏んでいた。それが、マヤから冒頭にシンクロ率の平均値が直近のものより5%も高かったと報告されるや、とたんに相好を崩したミサトより散々からかわれた。

「あぁ〜ら、シンちゃんたら〜、レイの部屋に行った途端に調子が上がっちゃってー、いやぁね〜」
「へっ!? ミッミサトさん!!」瞬時にして首まで真っ赤になるシンジ。とても判りやすい。
「おねーさん、あれ程レイを襲っちゃ駄目だって言ったのにぃ」
「えぇ――、ミミサトさん!! ななななにを言ってるんですかぁ!!」
「…シンジ君…抵抗できない入院中のレイちゃんに…そんなこと……フ、フケツよ…信じてたのに…」
「えっえあっ!そ、そんな!ち、ちがちが――」

(…マヤさん思いっきり誤解してたな……でも、なんでソコで綾波なんだよぉ? ……僕が過剰に反応しすぎるのかなぁ …何でだろう? ………あっ、もう十二時前だ!! 綾波、お昼ごはん食べてたらどうしよう……)

 シンジは第一脳神経外科病棟を目指しひた走った。



 突如現れたエヴァパイロットのトレーシングに俄かに忙殺されている警備詰め所。来訪者を知らせるインターフォンが鳴り響いた。

「ハイ、どうぞ…」警備員は予期された来訪者をカメラで確認するとマイクに向かって口早に応えた。
 IDカードが読み込まれた軽やかな作動音の後、漏れ入るエントランスのざわめきを割りながら一組のカップルが入室してきた。室内を一頻り見回した後に静かにソファーに腰を落とす。サマージャケットを軽やかに着こなした二人は二十台半ば位に見えるが、その物腰から年齢にそぐわない落ち着きを纏っているようにも思えた。男は警備制御システムの複数のモニターに何気に視線を這わせ、相方の女性はバッグから小型端末を取り出した。最早彼らの雰囲気はカップルのそれでは無かった。

「ご苦労様です。サードチルドレンは、現在23番モニターでご確認頂けますが、恐らく第一脳神経外科病棟305号室に向かっているものと思われます。が、今その病室には誰もいません。入院していたファーストチルドレンは今朝退院しましたので…。昨日の夕方に急に決まったんで知らなかったんでしょうね。……あ、コーヒーでもいかがです?」
「…いえ、お構いなく…」モニター越しにシンジの姿を捕捉していたサードチルドレン担当ガードの男が丁重に応えた。その視線は柔らかい。

「うん、あれ?…」

 その時もう一方の警備員が小さく声を上げた。目を落としていたエントランスから外側に展開するモニター。そこによく知る人影を捉えたからだ。
 ガード二人も振り向きそのモニターに視線を流す。だが特にその表情を変えることも無く静かにモニターを眺めていた。



 第一脳神経外科病棟入り口の待合室を抜けた後、廊下をしばらく走ってようやく目的の病室に到着した。窓から射し込む柔らかな陽光に背中を撫でられるようにシンジは呼吸を整えていた。

(あぁ、十二時になっちゃたよ……ご飯食べてたら邪魔したくないんだけどな…でも、綾波ってあまりそういうの気にしないかも……それに綾波は僕を守って怪我したんだ。僕が励まさなきゃ…)

 若干の逡巡を振り切りインターフォンを押した。

「碇だけど…綾波、入るよ」

 今度はワンテンポ置いて開放ボタンを押しこんだ。一瞬間をおいてエアロックドアが開く。

「あ、…あれ!?」
(綾波、いないや…。お昼ごはんを取りに行ってる………訳じゃないよね…)

 静謐とした室内は昨日とその様相を異にしていた。シーツが既に取除かれたベッドは冷たい光沢を放っている。退院?と思った瞬間、背後に人の気配を感じた。

(あ、綾波!?)瞬間浮かび上がる空色のイメージ。が、再び失望を覚える事になった。

「ちょっとぉ、あなた。病院内は走らないでくれる!!――と、あらシンジ君じゃない」

 そこに立っていたのは、入院時のチルドレンの看護も兼務している看護師の千代田ユキだった。腰に手を当てて咎める様なポーズを作っていた彼女はマヤと同じくらいの年齢だった筈だ。勿論シンジも良く知っている。

「ごっ、ごめんなさい!本部のテストが長引いちゃって…ご、午前中の面会に、間に合わないと思って、その…」
「え? 面会って、レイちゃん?」
「ハ、ハイ…」

 シンジは少し柔らかくなった表情のユキに安心したのも束の間、レイへの面会と知られ再び緊張してしまう。

「でも、レイちゃんなら退院したわよ、今朝」
「…へ? …え、でも退院は今日の午後だって…」
「昨日の夕方、赤木博士が来られて変更になったのよ。知らなかったの?」 ユキは瞬間納得したような表情を作り、優しげに言葉をつなぐ。「でも、良かったじゃない。予定より少しでも早く退院できたんだから。お見舞いならレイちゃんの家に行ったらいいじゃないの。きっと喜ぶわよ、レイちゃんも」
「ハ、ハイ…」

 ユキは少し赤くなったシンジを見ると目を細め、仕事があるからと手を振ってナースセンターの方に歩き去っていった。
 シンジは、少しの間遠ざかっていくユキの背中をぼんやりと見送っていたが、再び病室内に向き直るとベッドの傍まで歩を進めた。

(綾波、退院したんだ…約束通りにお見舞いに来れなかったけど、ユキさんの言うとおりだ。少しでも早く退院できて良かった……)
(………………………)
(でも、何だろう?……会えなかった…という気持ちの方が強い……)

 やや俯いた気持ちがシンジの目線を下げる。ベッドの上。昨日陽射しが落ちていた辺りに右手を置いてみると、ひんやりとした感触が心地良かった。昨日ここで交わした会話――殆ど一方的にシンジが話しかけているだけだったが――を思い出し、知らず顔が綻んだ。

(確かに…綾波とは以前より少しは距離が近くなったと思う…昨日は以前のような冷たさは感じなかったし………)
(最初は、エヴァのパイロット同士だから、綾波はいつも一人でいるから、そして父さんとのこともあって…、だから気になるんだって思ってたけど……)
(でも、そうじゃなくて……傍にいる事がすごく自然に感じるんだ、心地いいんだと思う…多分……どうしてだか分からないけど…)


   (…レイちゃんの家に行ったらいいじゃないの…)

「…行ってみようかな…」

   (…きっと喜ぶわよ…)

「うん、行って見よう」

 右手を握り締める。ベッドから体を取り戻すかのように、勢いよく身体を反転させた。

「碇くん…」
「!!!」

 飛び上がらんばかりに驚いたのは、突然声が掛けられたこと以上に、その相手がこの瞬間シンジの思考の大半を占めていたココに居る筈のない少女であったからに相違ない。パニックにすら陥ることも出来なかった。レイは病室の入口から一歩入ったところで佇んでいた。その深紅の瞳を真っ直ぐシンジに向けて。

「…………」
「あ、綾波…」

(な、なんで、綾波が今ここに居るんだろう??…)
(…今朝、退院したん…だよね?…)
(…忘れ物?……ソレらしいものは無いけど…)
(…でも、今日も制服なんだな…)

 レイはしばらくシンジを見つめたまま黙っていたが、その視線をやや下げた。

(い、いけない。何か話さなきゃ)

「け、今朝退院したんだよね?…ユキさんに聞いたんだ。良かった、ね。少しでも早く退院出来て、さ……でも、どうしたの?」

 上擦った声はどうしようもなかった。レイは再び深紅の視線をシンジに向けたが、その表情からは何も読み取れない。

(うっ…余計な事聞いちゃったかなぁ?…怒らせてしまった、かな?…)

「…………………たわ」
「……え?……」
「碇くんは…もう一度来てくれると言ったわ…」

(…え、覚えてくれていたの?……も、もしかして、それでわざわざ戻ってきてくれたの?綾波…)

 シンジの中で膨らんでいく。心地良いモノ。温かいモノ。
 少しずつ染みわたる。緊張を溶かし心を落ち着けていく。

「う、うん。でも、ごめん…。シンクロテストが長引いちゃって、結局お昼になっちゃったんだけど。綾波がいなかったんで、どうしたんだろうって思ってたら、ユキさんが来て…。綾波が退院したって聞いて…」
「…ごめんなさい…」
「い、いや僕の方こそゴメン。僕のためにまた戻って来てくれたんだ…もんね…」
「…………」
「で、でも、綾波が退院したって聞いてさ、これから綾波の家にお見舞いに行こうかな、なんて思ってたんだ。ははは」

 辿々しい言葉にシンジらしい笑顔が添えられる。

「…!…」

 微妙な空気の揺れ。レイの微かな表情の変化まではシンジには分からない。

(…あ。調子に乗ってまた余計なこと言っちゃたかな?……)

 レイは徐に踵を返し病室を出た。

「あ、綾波!?」縋るような声が出る。必死にレイの後を追った。「ど、どうしたの?…」

 足を止め、シンジを見返るレイ。再びシンジに向けられる深紅の瞳。

「ウチに来るんじゃなかったの?」
「…う、うん」

 シンジが頷くのを見て、レイは再び歩き始める。シンジは弾かれたように早歩きでレイに追いつき、肩を並べた。

(…お見舞いに行くのに、その相手と一緒に行くなんて、なんかヘンだ…。でも、まあいいか……それにしても、なんだかいつもと違う。今日の綾波……でも、冷たさは感じないよな……)

 第一脳神経外科病棟の廊下を肩を並べて歩を進める二人。オフホワイトの内装色に窓から溢れるように洩れる陽光がさまざまな模様を浮かび上がらせていた。



「サードチルドレンとファーストチルドレンが第一脳神経外科病棟より出てきました。一般病棟への通路を移動中です」モニターに目を落としたまま、警備員が徐に声を上げた。

 警備詰め所内、警備制御システムを前に二名の常駐警備員と三名のガードはシンジとレイを監視下に置いていた。
 レイの到着に合わせ入室していたガードの香取が、短くなったタバコを灰皿に押し付けながら穏やかに口を開いた。
「ご協力有難うございました。現時刻を以って二名のチルドレンの当院での監視を解除してください。それと当該病室での画像及び音声記録は速やかに消去をお願いします。また、本件についての上部への報告は控えてください」

 二人の警備員が見る見る不満の色を滲ませたのを目に留め、シンジを担当する女性ガードが言葉を引き継いだ。
「補足させて頂きますが、チルドレン入院時であれば記録の保管と管理そして報告義務は中央病院を所轄する医学部に帰属します。しかしながら今般の監視行動は私共の協力要請によりなされたものであり、チルドレンの入院時でない以上、関連情報の保管及び報告は私共諜報二課の責に帰する事になります」
「…しかし、長門二尉…。私達もチルドレンに関してはどのような些細なことでも報告するよう上から指示を受けておりましてー」
 これまで沈黙を守っていた相方の男が、言葉を遮った。
「ご心配には及びません。二課のファイルにレジスターされているファーストチルドレンの退院日時は本日0700です。そして此度の中央病院警備課のご協力についても正式に諜報局のデータに残る事となります。逆に申しますと、今次のイベントについての中央病院からの報告はプロセス外と看做され、関係部署に不要な憶測を生じさせる可能性があるやも知れず、好ましいものではないと思料しますが如何でしょうか?」
「わ、解りました。杉一尉。今、この場で記録を消去した方がいいようですね…」

 若干年長に見えるその警備員は杉の返事を待たず慌しく機器の操作を始めた。至極当然ではあるが保安諜報部に睨まれたいと思うネルフ職員はいない。
 香取はそのやり取りを聞くともなしに聞いていたが、エントランスから病院出口方向を映し出しているモニターの中で小さくなっていく二人を見つめながら新しいタバコに火をつけた。



 シンジは道中悩んでいた。
 ここに来るまで交わした数えるほどの会話。その中で二人とも昼食がまだだと分かったからだ。

(ファーストフード?…ファミレス?…)
(学校でも昼休みはずっと本を読んでるもんな…)
(いつも何を食べてるんだろう、綾波…)
(余り重たいのも…じゃあ、喫茶店?…)

 歩きながら考えあぐねていた時、突然レイが立止まった。
 シンジの左前方を小さく指差している。

「コンビニ?」

 コクリと頷くレイ。

(こ、これって持ち帰って、綾波の部屋で一緒に食べるっていう事、かな?…でも、いいのかな?…)

 以前ネルフの更新されたカードをレイの家に届けた際のアクシデント――シンジにとっては、失態以外の何ものでもない――はまだまだ記憶に新しく、当時の状況をリアルに思い出したシンジは心拍数が上がるのを覚えた。深呼吸。右手を二、三度開いては握ると、妄想を振り払うようにコンビニに歩み出した。そんなシンジをジッと見つめていたレイもシンジの後について行く。シンジが小さく呟いた『逃げちゃダメだ』はレイには聞こえなかったようだ。
 コンビニに入ると、ネルフの帰りにいつも立ち寄っているからか、レイは決まった手順に沿うように買い物カゴに次々に商品を放り込んでいく。新製品や価格で悩んだりはしないようで、目的以外の商品には興味を示さないようにも見える。
 シンジは暫く呆然と見つめていたが、レイがそんなシンジの前を通り過ぎてレジへ並ぼうとした時、レイがメインとなるお弁当やパンを選んでいない事に気がついた。

「…綾波。お昼ごはんは?…」
「…これ…」とシンジの目の前に細長い箱を見せる。固形栄養食品。
「えっ、これだけじゃダメだよ…」
「…どうして?いつも食べてるもの……」少し首を傾げるレイ。普段見慣れない可愛い仕草にシンジはまたもや心拍数が上がるのを覚えた。頬が熱い。
「い、いや、ごめん…。こ、これは栄養補助食品だよね。綾波が食事をする時間が無かったりした時に食べるような、そう、食事のバックアップのようなモノだから、今日は時間もあるし、退院したてだし、お弁当かサンドイッチを食べようよ」

 話しながら本気で心配になってきた。あの夜抱いてしまったレイへのイメージ。切ないほどの儚さが脳裏に甦る。日常のこんな何気ないシーンでまでそんなイメージを思い起こしたくない。
 レイは、必死に話すシンジの言葉に一頻り耳を傾けた後、シンジに真っ直ぐ向き直った。

「…解ったわ…」
「…うん。綾波、こっち。一緒に選ぼう」



 新世紀という言葉の響きには凡そそぐわないエリア。眩暈を覚えるほどに真夏の厳しい陽射しが降り注ぐ。前世紀の遺物。建設職員用団地に面した市道が揺れた。近辺に居住者の存在が疑わしくなるほどに寂れ、忘れ去られた印象を拭い切れないものの、林立している古い高層団地群の間から断続的に反響してくるパイルドライバーの音だけがこの地域が未だ拡張途上のエリアであると主張しているように思えた。
 むせ返る暑さに呼応するように蝉の鳴き声が一層膨れ上がった時、一台のセダンが静かに停止した。シルバーのパサートに男二人に女一人という組合せが若干の不自然さを演出しているが、その出で立ちからローラー作戦中の訪問販売員に見えなくも無い。

「402号室に入ったな」
「レイの部屋だからな…」
「シンジ君がレイちゃんの自宅に行くのは、これで二度目ね」
「…ただ、今回は少し様子が違うぞ。前は全くシンジ君の事を意に介していないかのような態度だったからな…。病室での会話を聞いたろう」

 近辺への通り一遍のチェックを終え、運転席の男はアームレストからタバコを取り出し一本銜えた。購買部で拝借したライターで火を点け深く吸い込む。漂う紫煙。少しサンルーフを開けると重い熱気、そして蝉時雨とパイルドライバーを打ち込む耳障りな音が飛び込んできた。

(…レイを担当して長いが、確かにこの入院からいくつか気になった事はある…)
(病室での様子…。今日の午前中だって、本部でも俺が立ち入れない大深度地下施設での実験だったんだ。それであの終了時間だったら、いつもは司令と昼は一緒の筈だ…。それが病院に戻ってきて、今はシンジ君と一緒、か…)

 やはり先程の病室での記録は消去させて正解だったな、と紫煙を天井に滲ませた。

「でもあの二人、何というか、雰囲気が良く似てますね」
「ええ、お似合いだと思いますわ」
「兎に角」 香取がミラー越しに後部座席の二人に視線を移し、本題に入る。「俺たちの仕事は、チルドレンのガードと監視、そしてそれに関わる一連の報告だ」
「そしてその報告内容は、至極客観的事実に限る、ですよね」杉が続いた。
「…ああ、報告内容を受けて諸事分析の上、判断を下すのは上の仕事だからな。つまり、俺達は主観的に感じた事、そして余計な事は報告する必要は無し、だ。俺は今日ファーストが本部を出るタイミングで一時ロストした。これは今日ファーストが本部で昼食を摂ってから帰宅すると踏んでいた俺のミスで、俺の責任だ。想定した時間になっても本部から出てこないのを訝しく思い、退出履歴を確認したところ退出済みと判明。で、その後慌てて自宅に駆けつけたところ、帰宅済のファーストを確認し現在に至る。以上、だ」
「いいですね。ウチのチームからは、シンクロテスト終了後サードはネルフ中央病院に向かう。目的はファーストの見舞いと推測。病院にてファーストが退院済であることを知るに至り、自宅を見舞い訪問。特殊監査部が偶に我々の後方で動いてますんで、自宅訪問は報告せざるを得ませんが、同じエヴァパイロットとして先の戦闘で負傷した同僚を見舞うという事実において、サードの行動には特段リマーカブルな点は無いと判断。以上。ですかね」
 今日シンジはコンビニでネルフのカードを使わなかった。カード決済するレイとの紐付けはなされないだろうとの計算もある。

「まさかシンジ君、泊まったりしないでしょうねぇ〜」杉を一瞥し、面白そうに呟く長門。
「やめてくれ〜。報告が難しくなるよ…」

 香取は二人の会話を軽い笑みで流したが、すぐに表情を戻した。

「あんな子供達が、とんでもないモノを背負わされてるんだ…。こんな時代で無けりゃあ、ごく普通に……。いや、こんな時代だからこそ、何かが始まったんなら彼らとしての時間を精一杯に過ごして欲しいと思う……」

(ただ、あまりロストという手は使えない…。我々に対しての監査名目で特殊監査部の連中が動くし、報告時点でロストなんていったら最後、即ウチの別働班が動く事になるからな…)

 香取は、第4使徒戦の後に家出したシンジを当時の担当ガードがロストした時の事を思い起こした。武装した別働班に拘束されるように連れ戻されたシンジ。精神的に極端に不安定な状態にあった十四歳の子供への対処とは到底思えないものだが、科学者上がりが多勢を占めるとは言えネルフは立派な軍事組織だ。年齢性別に関係なく規律を犯した組織構成員に対しての措置には容赦無い。この事件を機に二課内におけるチーム編成が再考され、ミサトと同居するシンジに対してもレイと同じく専任ガードが就き、またチルドレンに対しての監視は二十四時間体制が敷かれる事となった。それにより担当ガードはチルドレン達の意識内に入ることなく影のように寄り添い監視及び護衛行動を実施する。だからこそ上手くやらなければならない。見守らなければならない。仕組まれた子供達。エヴァパイロットという重すぎる十字架を背負わされた彼ら。日常が厳しく制限される彼ら。そして明日の生命の保証はない彼ら。それでも中学生である少年少女にとっての『今』の重さに変わりはない。だからこそのプロフェッショナル。諜報二課ガード班。そしてそれは………と、ここで香取は思考を切った。

 (…特命、か…)

 再び蝉時雨が響きだした。



 402号室のドアを前にすると緊張感が膨らんでくる。どうしてもあのときの光景を思い出してしまう。玄関のドアは前回と変わり映えしない。夥しい数のダイレクトメールやチラシの類が無造作に新聞受けに捻じ込まれている。とてもではないが、レイが学校を休んだ時のプリントをこの中には入れれないと思う。未だ修理された様子の無いインターフォンを一瞥したとき、何かが擦れるような音と共に、視界の端でドアが若干の抵抗を伴って開くのが見えた。相変わらず鍵をかけていないことを気にかけつつ、少し慌て気味にレイの背中を追って部屋に入っていった。
 玄関で靴を脱ぎながら、こんど自分のスリッパを持ってきたらダメかなぁ、などと考えている間にレイの姿が視界から消えている。

(ま、まさか、奥の部屋で着替えているんじゃ…)

 様子を伺うように奥の部屋に歩を進めるが、何故か忍び足になっている。

「あ、綾波?…」
「何?…」

 シンジの心配は杞憂に終わった。
 レイは既にベッドに腰掛け、コンビニの袋から買ったものを取り出しているところだった。もちろん制服のままだ。

「い、いや…その…」

 ジッとシンジを見つめ、次の言葉を待っている。

(ど、どうしよう…そ、そうだ。椅子…)

「こ、この椅子使ってもいいかなぁ?…」

 シンジはベッド脇のパイプ椅子に視線を移した。
 さすがにレイがいつも使っているベッドに腰掛けるのは気が引けるし、やっぱり緊張する。何を食べているか分からなくなってしまうかもしれない。

「…………」

 レイはそれには応えず視線をシンジから離さない。相変わらずの視線だが冷たくはない、とシンジは思った。

(…でも、気に入らなかったのかな?……)

 座っていいものか判断がつかないでいると、徐にレイが自分の左側に視線を落とした。知らずレイの視線を追う形になったシンジは気付いた。レイはベッドの枕寄りに腰掛けている。まるで彼女の左側のスペースを空けるようにして。

「や、やっぱり、こっちに座らせて貰うね…」と静かにレイの横に腰を落とした。自分でも意志が弱いと思う。

 コクリと頷くレイ。

(良かった…納得してくれたみたいだ…。でも、綾波…いつもこうして食事してんのかな?…ご飯に味噌汁だったらどうすんだろう…)

 チラと横目でレイの顔を盗み見たが、レイは手元のサンドイッチに視線を落としたままジッとしている。手に持っている野菜とポテサラのサンドイッチは、レイがチョイスした中からシンジが勧めたものだ。何故かカツサンドの類は好きではないようだったので、少しでもボリュームがあり美味しそうなそのサンドイッチをシンジは勧めたのだ。

(…見ているだけで食べようとしないけど、気に入らなかったかなぁ?…だったら悪いことしたかなぁ…)

「何か飲む?…」

 突然かけられたレイの声に、驚いて顔を上げた。

「え、あ、うん。もらうよ…」

 レイの表情に微かながらも柔らかさを見出したシンジは、負の感情から解放されるのを感じた。溶けていく緊張感。レイがベッドから腰を上げ、キッチンに向かう背中を視線で追いつつ、ようやくシンジらしい笑みが零れる。

 改めて部屋の中を見回してみた。壁紙も張られていない剥き出しのコンクリート壁は、冷え冷えとした無機質な印象にこの部屋を沈ませている。小さな冷蔵庫とその上に置かれているビーカーや処方薬らしきモノ。そして、あの時シンジが倒したチェストの上には、数冊の文庫本、そしてゲンドウのメガネ――ソコでシンジの視線が止まった。

(…これも…綾波にとって大切な絆なんだ…父さんとの……。こないだは、悪いことしちゃったな…勝手に触ったりして……)

 第3使徒との戦闘。シンジの初戦。その直後の病院での出来事がシンジの脳裏に甦る。シンジの目の前を搬送用ベッドで運ばれていくレイ。包帯姿が痛々しい。廊下を少し行った先でゲンドウが待っていた。レイに声をかけるゲンドウ。ゲンドウはレイと二、三言葉を交わした後、シンジに気付いた。が、使徒殲滅の功に対して労いの言葉をかけるどころか、シンジの存在を無視するかのように歩き去っていった。その表情は変わらない。

(…あの時、僕は綾波に嫉妬した…でも、今は何故だかそんな気持ちは起こらない…。綾波は僕以上に何も持っていなくて…そんな綾波がエヴァに乗ること以外に持っている唯一つの絆だから?……いや…そうじゃない、気がする……)

 それにしても、とシンジは思う。信じられなかった…あの父が火傷を負ってまで自分自身の手でこの少女を助け出した事が…。

(……それほど強い絆、なのかな?…いったい綾波って、父さんの何なんだろう?…)

 思考がその核心に触れようとした時、ブレーカーが働いたかのようにシンジは考えるのを止めた。
 これまでの経験から物事を明確化する事に異常に臆病になっている自分がいる。
 ましてその事実が自分を傷つける可能性がある場合は、何もしないほうがいい、とさえ思っている自分がいる。

「…はい…」

 目の前に差し出されたコップ。シンジは思考を取り戻し顔を上げた。微かながら確かに感じる柔らかさ。

「あ、ありがとう」

 笑顔を浮かべ、ミネラルウォーターの入ったコップを両手で受け取った。少し赤くなっているかも知れない、と思った。

 その深紅の瞳に宿った刹那の揺らめきにシンジが気付くことは無かった。



 ネルフ総司令室。かつての人工進化研究所長室を髣髴とさせる空間。広大な空間には総司令のデスクそして副司令のハイバックチェアが無造作に添えられているだけで、その存在自体に意味を為さない応接ソファーなどはここには無い。この部屋に出頭を余儀なくされた職員は不必要なまでの広大さに意味を見出そうと試みる者、単純な疑念に駆られる者、いずれもゲンドウのデスクより数メートル離れた場所での直立不動を一種独特の緊張感と共に強いられ、大方は居心地の悪さに閉口する。
 今そのデスクには碇ゲンドウが、いつものように口元を隠すように両手を組んで座っている。副司令の冬月もまた、ゲンドウの斜め後ろで両手を後ろに組んで立っている。
 ゲンドウの正面より数メートル離れたところには、その顔に無表情を張り付かせた赤木リツコが資料を手に屹立している。

「結論から申しますと、本日0900より実施したファーストチルドレンからのパーソナルデータの採取オペレーションは失敗です。申し分ないデータ量を採取できたのですが、不安定なものが多く採択出来るレベルに無いと判断せざるを得ませんでした。また現在分析中ですが、これまで見られなかったパルスの混在も確認されています」
「レイが、か?…信じられんが、先の使徒戦の影響かね?」 冬月が俄かに不審な表情を作り、質問を投げかける。
「一般的に死の恐怖に直面した後は、その潜在心理に与える影響によりそのような事象が見られる場合もありますが…、レイの場合は当該のケースとは考えられないと思います」
「では、何故かね?」いつに無く歯切れの悪いリツコに、冬月は若干の苛立ちを覚える。
「申し訳ないのですが、現時点では解りかねます。先に述べましたパルスの分析も急がせますが、ただ…」
「ただ…何かね?」
「いえ、客観的事実からの推測の域を出ないのですが…、サードチルドレンの存在が何らかの作用を引き起こしている可能性は否定できません」

 目だけでゲンドウに視線を送る冬月。その表情に何ら変化を読み取れないと確認すると言葉をつなげた。

「確かに、サードチルドレンは先の戦闘で非常手段を講じてまでレイを救出した。それと昨日から病院にも二度行っている。尤も二度目は空振りで後からレイの自宅に行ったらしいがな」
「赤木博士…」
「はい」
「ダミー計画については、先の指示を維持する。現在のフェーズでリカバリ出来ない遅延は認められない。その障害となるものは、速やかにカウンターメジャーを策定の上、対処しろ。以上だ」
「はい」

 口元を隠すように組んだ手は微動だにしない。対面しているリツコには暗色のレンズを通しては視線の気配さえ感じる事を許されなかったに違いない。


 リツコが退室した後、冬月はゲンドウのデスク脇にあるハイバックチェアに身を沈ませていた。ゲンドウの姿勢は変わらない。その視線は司令室内で焦点を結んでいない。遙か彼方にある何かを凝視しているようにも見える。

「これもシナリオ通りか?…」

 冬月は、視線を詰将棋の本に落としたまま問いかける。

「…………」
「二課からの報告を鵜呑みにしていいのか?あの香取一尉が、レイを数時間ロストだぞ…。一度召喚したほうがいいのではないのか?…」
「二課のガードに問題は無いよ…」

 姿勢を崩す事は無い。静かに応える。

「レイはどうだ?昨日病院に行ったのではないのか?」
「…ああ…。…それも問題ない…。全ては予定通りだ…」
「ふっ、それで複雑な心境、か」

 それには応えず、ゲンドウは組んだ手の裏で僅かに口の端を上げた。



 コンフォート17。先の使徒戦の残務処理もひと段落し、久し振りに本部を定時に退出したミサトは早々に帰宅していた。ネルフでの帰るコールが功を奏し、タイミング良く沸かして貰ったお風呂での命の洗濯の後、『えびちゅ』も一気に二本空けた。今はシンジの手料理で至福のひと時を迎えている。
 今日の夕食は当初ミラノ風エスカロペをメインにペペロンチーノパスタを添えてミサトが愛用しているル・クルーゼのオーバルでコンビネーションプラトでも、と考えていたシンジだったが、レイの家からの帰途に立ち寄ったスーパーで特売赤札が掛かったスペイン産生ハムを発見しメニューを急遽変更したのだった。

「ああんっ、美味しいわ!やっぱシンちゃんは天才ねー」

 前菜。完熟トマトとニンニクが擦り込まれ若干焦げ目がつくほどに焼かれたパンの上に生ハムが添えられている。それを齧りながらミサトは恍惚の表情さえ浮かべていた。もう一方の手には勿論『えびちゅ』だ。特にカタルーニャ地方で有名なこの前菜は、ビールを常に片手に持っているミサトの事を考えたシンジの気配りでバスクのピンチョス風にアレンジされ、食べ易い大きさに整えられ見栄えも良い。美味しそうに食を進めるミサトを前に思わずシンジの顔も綻ぶ。

 これもビールに合うと思いますよ、などと小海老と微塵に砕いたガーリックのオリーブオイル揚げを勧めたりする。ふとビールより白ワインの方が合うというのを以前聞いた事があるのを思い出したが、これ以上アルコールの消費度合いを増やされては堪らないので黙っている。シンジ君だって学習するのだ。
 メインの海鮮パエリアをミサトに取り分けてやる時に、ふとレイの事を思い浮かべた。

(…綾波、夕食の分もコンビニで買ってくれてたけど、ちゃんと食べてるかな?…)

 結局、コンビニでシンジの説得により、レイは昼食にサンドイッチを買い、夕食用として広東風季節の野菜炒め弁当とミックスサラダも買ってくれたのだ。それを見てシンジが安堵したのは言うまでもない。

(…いつも、あんな固形栄養食品で済ませているのかな?…僕が何も言わなかったら今晩もそれで済ませるつもりだったのかな……父さん、綾波の生活をちゃんと把握してるのかなぁ?…)
「――ん…」
(…今日の晩御飯もウチに呼んだ方が良かったのかな…でも、退院したばかりだし…ずっと僕なんかと一緒だなんて、きっと嫌だろうし…)
「―――ちゃん…」
(…でも、こんど一度くらい誘っても…いい、よね……好き嫌いとかあるのかな?…野菜ばっかり選んでたみたいだけど…レシピをチェックする前に確認しなくちゃ…)
「!!シンちゃん!!」
「わあっ!!な、なんですかぁ?」

 ミサトの大声にディラックの如き思考の海に沈みきっていたシンジは強制サルベージされた。

「もおっ、シンちゃんたら何ぼーとしてんのよ?何回も呼んでんのにぃ。レイの事でも考えてたんでしょ!」
「なっ、な何を!ミ、ミサトさん!ぼ僕は別に…。ビ、ビールですよね?」

 思い切り図星を突かれて慌てふためいたが、瞬時にして赤く染まった顔をミサトから逸らすように冷蔵庫の方を向きつつ立ち上がる。『えびちゅ』が7割を占める冷蔵庫から特に冷えた一本を指で確認し、ミサトに渡す。

「あらぁ、シンちゃんたら〜顔を赤くしちゃって〜やっぱり何かあったの?…今日もレイの自宅まで追いかけて行ったって聞いたしぃ」

 シンジからビールを受け取ったミサトの相好は完全に崩れきっていた。こうなると酒の肴になるしかない。シンジに残された選択肢はただ一つ、諦める事だ。

「ええっ!ぼぼ僕は、そそそんなっ事っ、たっただ、あ綾波がっ、ああ綾波が――」
「やーねぇ、シンちゃん。そんなに赤くなって照れなくても…おねーさんはちゃんと分かってるんだからね〜。でも、レイ可愛いでしょー。優しくリードしてあげてねん〜」
「だだから、ぼぼくは別にっ!」
「え〜。冷た〜い。シンちゃん。レイがかわいそー」
「なな、何言ってんですかっ!もおっ。酔った勢いでからかわないで下さいよ!それに、これで9本目ですよ。もうそろそろこれ位にした方がいいんじゃないですか?使徒が来たらどうするんですか」
「今日は特別よん。だーて勿体無いじゃない。こんなに美味しいシンちゃんのお料理で飲んでんのよ〜。それに今月来たばかりだから次の使徒は来月よ。そおだ!こんどレイもウチに呼ばない?!」
「あ、綾波ですか?解りました。さ、誘ってみます。でもお酒は控えてくださいね」
 レイの前でこの調子でからかわれては堪らない。
「ええーなんで〜?みんなで楽しく飲んだらいいじゃないー」
「僕たちは中学生です!」
「いーのよ。保護者同伴だったら、ちょっちくらいならぁ」
「そ、それでしたら、あ、綾波は呼べません」
「えええーなんでぇ〜?そうやって、またレイの所に籠もってしまうのねー。おねーさんをおいてぇ〜。ちょっち寂しいけど仕方ないのねん…でも、お泊りはダメよ…」
「な、ななな!!」

 その晩ミサトは使徒もサードインパクトも人類の未来も忘れて大いに飲んだ。シンジを肴に『えびちゅ』を更に8本ほど程飲み干し、深夜這う様にして部屋に戻っていった。暫く開放感に浸っていたシンジだったが、夕食の後片付けが残っている現実を思い起こし気分を滅入らせた。眠たい…。だが、このまま明日を迎えるわけにはいかない。三足の草鞋を履く主夫には、明日は明日の風は吹かないのだ。
 だが食器を洗いながらもついつい船を漕いでしまう。そしてあろう事かミサトがドイツ支部勤務時代から愛用しているオーバルディッシュを手から滑らせてしまった。咄嗟にスポンジを持っている方の手で受け止めようとしたが、間に合わずシンクに落としてしまった。が、今回ばかりは幸運の女神はシンジに味方した。それは見事なバランスを保ちながらシンクに薄く張っている水をクッションがわりに着水し、破損を免れた。
 このアクシデントはシンジから眠気を完全に奪い去った。一旦眠気が去るとシンジは主夫としての本領を発揮。インダクションモードで恐るべきスピードで洗い物をこなした。

「目標をセンターに入れて、…」

 機械的な作業はシンジの思考をいつしか現実から浮遊させていく。

 正直シンジにとってミサトの発案は嬉しかった。

(…綾波…どんなものが好きなんだろう?…)

 ミサトの酒癖は気になるが、レイを夕食に呼ぶ口実が出来た。

(…綾波との距離は少し近くなったと思うけど…まだまだ知らない事が多いってことか…)

 そして自分の手料理を食べて貰えるかもしれない。

(…でも、綾波の好きなものを知れば…そしたら、距離はまたその分近くなると思う…)

 であれば美味しいものを用意して…

(…綾波に聞いてみよう…そして、頑張って準備して…)

 喜んで欲しい、と純粋に思った。


 いつしか最後の洗い物を終えていた。
 シンクの底に水を打たせている蛇口をシンジはキュッと絞った。シンクの底で、でんっと響いた。

「…綾波…喜んでくれるかなあ…」

 シンジは気付いてはいない。知らず願っている自分に。嬉しいときの表情…もう一度あの笑顔に会いたい、と。



 カーテンの隙間から月の光が柔らかく射し込む中、レイは枕の上で腕を組みベッドにうつ伏せに寝転んでいた。既に夕食も終え淡い水色のパジャマに着替えている。

(……碇くん…、サードチルドレン、初号機専属パイロット、碇司令の子ども…)
(……病院に来てくれた……約束どおり……テストは長引いたのに……どうして?……)
(……食事……必要な養分の補給……基礎代謝を補うだけの栄養とカロリーの摂取行為…と思ってきた……)
(……碇くん……選んでくれた食事……どうして私に構うの?……)
(……赤木博士からは帰宅するよう命令された……でも病院に向かっていた…なぜ?…)
(……わたし……よくわからない………でも、エントリープラグから助けられた時と同じ感じ……)

 あの時エントリープラグの中で差し出された手。スーツを通してシンジに感じた『何か』を再び思い起こしてみた。涙を流しながらレイに見せたシンジの笑顔。病室で、そして今日の午後一緒に過ごした中で幾度と無くレイに向けられたシンジの笑顔を思い浮かべると、胸の中に穏やかに満ちてくるものを感じる。それはレイの身体の隅々にまでゆっくりと溶け入ると心の中で形を成した。

(……温かい?……そう、心が温かいのね……)
(……この気持ち………嫌じゃない……)
(……碇くん……)

 今見つけることができた一つの言葉。少女にとって初めての言葉。そして、全ての始まりとなる言葉。
 しかし少女の心に囁き始めたさざ波のような感情を表す言葉をまだ彼女は知らない。そして二人が出会ったことの意味についても。

 空色の髪の少女はやがて穏やかな寝息をたて始めた。カーテンの狭間より時折射し込んでくる青白い光は、喜びの表情を微かに浮かべる少女の頬を躊躇いがちに照らしていた。


The End



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