オランダとの国境近く、ドイツの北海沿岸都市ヴィルヘルムスハーフェン。

 第二次世界大戦以後の史実により、軍港としての印象が根強く残るこの臨海都市は、やはり嘗てのドイツ海軍が北海に睨みを利かせる重要拠点でもあり、同じく北海に位置する商船用の巨大コンテナヤードを擁するハンブルグやブレーマーハーフェンに次ぐドイツ第三の港湾を擁していた。今は、かの港湾施設もセカンドインパクトによる水位上昇で大半が水没し、辛うじて被害を免れた幾つかの施設は、国家コントロールの名の下に統合運営されていた。
 その中枢部分のとあるエリアに、エヴァンゲリオン専用ケージが特務機関ネルフ第3支部により建造されていた事は、同国政府関係筋でも一握りの閣僚だけが把握している事実であった。
 およそ観光地とはいえないこの都市には、セカンドインパクト前からそれほど多くのホテルは存在しない。ケージにほど近い山手に位置する四つ星ホテルがネルフ第3支部職員用として指定され、今は日本への出航を明日に控えた惣流・アスカ・ラングレーと第3支部での保護責任者として随伴を指示された加持リョウジ、そしてその他随行の職員達がそこに宿を取っていた。
 まさに日付が変わろうとしているこの時間。この国の、早い時間の食事も早々に済ませた彼らは、携行品の点検に追われている者、既にベッドで眠りについている者等、各人が思い思いの時間を各々の部屋で過ごしていた。

 夜は静かに更けていく。



 その男は、海岸から車道にむかって緩やかに傾斜している小路を登っていた。よれたスーツに身を包み、左手には変わった風貌のアタッシュケースを提げている。
 遠方で砕ける波の音。何かの鳴き声が呼吸をするように浮いては沈み、境界を失った海と陸の漆黒の彼方に吸いこまれていく。
 その男の後方、随分と遠くなった海岸の辺りから、乾いた、何かが弾けたような音が響いた。一瞬、それは静寂を揺るがしたかにみえたが、すぐに何も無かったかのように闇夜に溶けていった。
 男は脚を止めていた。顔を少し俯かせるようにして佇んでいたが、やがて徐に顔を上げると、再び小路を登り始めた。
 彼方で砕ける波の音、そして浮き沈みする鳴き声が、現実感を取り戻すかのように持ち上がってくる。全てが溶け合ってしまった暗闇の中で何かに呼び止められたかのように、男はふたたび足をとめた。

 後方から吹き上がった一陣の風。男を追い越して行ったとき、よく知った感覚がその心を掠っていったかのように感じた。




「あ〜あ。明日はもう日本か……、お昼にはミサトが迎えに来るって言ってたし……、あっ、ミサトって言うのは、加持さんの前にドイツに居た人。あんまり好きじゃないんだ……、生き方わざとらしくて」

 夜空。足早に流れていく雲の隙間から、時折り零れ落ちてくる月の光。
 空飛ぶ絨毯に寝転がっていると、こんな感じなのかも知れない……。

 自分の言葉に反応しない加持を、横目で伺うアスカ。言葉を続けた。

「ちぇ〜、加持さんとも暫くお別れか〜。つまんないのー。ぶー」
「日本に着けば、新しいボーイフレンドもいっぱい出来るさ……、サードチルドレンは男の子って話だぞ」
「あぁーあー。バカなガキに興味はないわー」

 思案気な表情を浮かべると、寝転んだ体勢のまま加持のところまで転がり、抱きついた。その胸に顔をうずめ、少し掠れた声で囁いた。

「あたしが好きなのは加持さんだけよ……」
「そいつは光栄だな……」

 いかにも興味無さ気に呟いた加持に、その蒼い瞳に強い光を浮かべる。

「もおっ。加持先輩だったら、いつだってOKの三連呼よっ! キスだって、その先だって!」
「アスカはまだ子供だからな。そういうことは、もう少し大人になってからだ」
「え〜! つまんなーい。あたしはもう十分に大人よ! 大人よ大人よ! だから私を見て!」
「大人になったらね」

 自分の胸元をはだけさせているアスカの手を優しく戻し、隣に座らせた。

「もっと素敵な男性が現れるよ。アスカなら」
「そんな事絶対ないもんっ! 加持さんしか考えられなーいっ!」

 身体を起こして、アスカに柔らかな表情を向けた。真顔になるアスカ。

「アスカくらいの歳だと、年上の異性に対してそんな感情を持つことがあるんだよ。俺にある種特別な感情を持ってくれてる事は分かってる。でもそれは、単に俺の外面に対して好意を持っているということだけで、恋愛とは別のものだ。この歳まで生きると、内面に作られる、どうしようもなく弱い部分、そして…赦せないほどに汚れちまってる部分というのがあるんだ……。好きになるという事は、そんな部分も含めて愛し合わなければならないって事なんだ。だから、どうしても似たモン同士が惹かれ合ってしまうんだ。アスカはまだ真っ白だからな。自分に相応しい相手と、その時にしか出来ない恋愛をしていくんだ」
「加持さん……」
「だから、さっき言ったサードチルドレンとも、真っ白な気持ちで出会いを迎えないとダメだ。それに噂では可愛い男の子らしいぞ」
「だからぁ、さっきも言ったけどぉ、バカなガキには興味ないのっ!」
「実力も大したものだと聞いている。既に三体もの使徒を倒してるんだからな」
「知ってる。第3支部のイントラで戦闘履歴チェックしたもん! でも、まるっきり素人の闘い方だったわ。大した事な――」
「だが、俺達は今こうして生きている……」
「でも……」
「いずれかの使徒に負けていたら、その時点でサドンデスだったんだ。人類は滅亡していた。先の作戦に至っては、その成功確立はたったの8.7%だったと聞いている。ファーストチルドレンが一命を賭して役割を果たした事が勝因に繋がったらしいが、二人のチームワークがその作戦を成功に導き、人類が救われた事は、厳然たる事実だ」
「……」
「それに解っていると思うが、これまでファーストチルドレンがプロトタイプで実験を重ねたデータを基に、アスカはより効果的な訓練を積み重ねることが出来たんだ。途中、彼女が実験中に大怪我した事もあったらしい。……いいか、アスカは、その支えがあって今があるという事実を忘れてはダメだ。日本についたら仲良くするんだ。チームワークを大切にして、その中で自分の役割を見つけるんだぞ」
「……解ったわよ……」

(確かに……サードチルドレンが初めて乗って、いきなりシンクロした事実は有り得ないわよ……認めたくないけど才能かもしれない。でも、シンクロ率もまだまだだし、戦い方も機体の捌き方の基本もなっていないのに、どうして使徒に勝てるのか理解に苦しむわ……けど事実は受け止めるしかないわよ……)
(ただもっと不可解なのはファーストチルドレン……そもそもパーソナルデータが全てデリートされているって何よ? その子がテストに次ぐテストで、フィードバックされたデータを基礎に、私がこれまでトレーニング積んで来れたのは事実だし有り難いと思うわよ。いきなりあんな深度でシンクロテストなんかされたら、身体が幾つあっても足りないもん。でも、いくら人類のためとはいえ、あの戦い方はどうよ!? いかにも日本人的って感じで、あたしには絶対に理解できないし、理解したくもないわ……)

 思考を振り払うように、アスカは残ったジュースを一気にあおった。缶がベコッと鳴る。


 滑るように航行を続けている空母。喫水面の波を静かに切っていく。

(……赦せないほどに汚れちまった、か……)

 雲間から零れ落ちる月明かり。甲板上の男の心情そのままに。

(……もう、戻ることは出来ないが……)

 揺れている。心に掠った感覚。

(……せめて………)

 男は静かに目を瞑った。







Episode 09.01
もう一度トゥナイト / Shall we dance and feel again?
Written by calu




 それは何の前触れもなくやって来た。
 半年ほど前から、ほぼ月に一度の頻度で訪れる偏頭痛を伴った特異な症状。
 頭の中で、突如として湧き出したような鈍痛による覚醒。瞼を開けようとした瞬間、グニャリと意識が捩れる眩暈に似た感触が加わる。
 少女は辛うじて薄目を開け、抗うように意識を持ち上げようとした。

  枕

    ベッド

         薄い水色

   パジャマ



「くっ……」



    カーテン

       狭間

    光

           朝



「……あうっ…う……」



 淡く映った光景は歪み、モノクロトーンに沈み始める。

「……く…くうっ……」

 何かを掴もうとするかのように伸ばされていた少女の手が、力なくシーツの上に落ちる。

 波のように襲いかかる苦痛に、少女は術無く耐えることしかできない。力の入らない小さな手でシーツを握りしめ、身体を裂かれるような痛みをやり過ごすと辛うじて肩で浅い息をした。
 徐々にその波は小さなものになっていった。が、呼吸さえままならないほどにその身体は硬直している。やがて少しの時間の経過と共に、静けさを取り戻した頭の中で響いている何か。それが少女自身の不規則な息遣いだったことに気付いた時、彼女の身体に重い疲労感が圧し掛かってきた。
 滲んだ視界の中で、シーツを掴む手が少しずつ緩んでいく。いつしか少女は力なく目を閉じていた。




 第3新東京市立第壱中学2−A。ホームルーム開始前の教室内は、今朝も変わらぬ活況を呈している。
 昨晩放映されたテレビ人気番組の話に興じる女子や、宿題をセッセと写させてもらっている常習犯。担任が来る前の最終点検に勤しむ週番、そしてそういった朝の情景を悠然とビデオカメラに収める輩など、子供たちにとっても一日の中で最も慌しい時間帯と言えるだろう。

 そんな喧騒の中、アスカもご多聞に漏れず、ヒカリと一緒に夢中になっている人気ドラマの話題に花を咲かせていた。
 先週このクラスに転入してきたアスカは、早々にこのクラスの学級委員長でもあるヒカリと意気投合した。転入初日からその容姿、既に14歳にして海外の大学まで卒業しているという経歴、更にはエヴァのパイロットでもあるというスーパーヒロインとして登場したアスカは、当然のように学校中の話題を独占した。しかし一方、それがアダとなり、同級生、特に女子からは、転入してきたばかりにもかかわらず、一歩距離を置かれる存在になってしまっていた。
 だがヒカリのアスカに対する接し方は至ってノーマルで、一般の級友に対するそれと変わらないものだった。委員長という立場もあったろうが、その生気溌剌とした外見に隠されたエモーションを微妙に感じ取ったのかもしれない。


 シンジは、トウジそしてカメラを忙しなく回しているケンスケと言葉を交わしながらも、教室の入口付近に時折り視線を配らせている。

「なんやセンセ、なんぞ気になる事でもあるんかいな?」
「えっ? い、いや……別に何でもないよ……」
「ん? そう言えば綾波がまだ来てないな……。来るときはいつも早いから、この時間で来てないって事は、今日は学校を休むんじゃないか? 今週はずっと来てたのにな」
「う、うん……」

 アスカが来日する少し前から、俄かにレイの本部でのスケジュールが立て込んできた。シンジが知らない地下の別施設での単独実験に因るものらしかったが、そのため今週初めまで殆どといっていいほど、シンジはレイと顔を合わせる事が出来ないでいた。レイが退院して間もなかったこともあり、正直かなり気を揉んでいたシンジだが、レイは今週に入ってからは一日も休まずに学校に来ている。何より以前からは考えられない事だが、ここのところ毎朝シンジと挨拶を交わしてくれるようになった。シンジが笑顔を向けると、微かながら柔かな表情を浮かべてくれるようになっていたのだ。
 ところが、そのレイが今朝はまだ姿を現していない。いつもはシンジが登校するとレイは既に席についていて、静かに文庫本を読んでいることが多い。そして、そのレイの席まで行って朝の挨拶を交わす。それがここ数日のパターンとなっていたのだ。ふと時計を見ると、ホームルーム開始のチャイムが鳴るまで十分を切っていた。

(……今日は休むのかな、綾波……どうしたんだろ? 突然、本部から呼び出された、とか……、だとしたら午後のシンクロテストでは会えるかな……)

 レイの携帯は鳴らせない。理由を見つけることが出来ない。ふうっと溜息をつきながら席を立った。

「碇ぃ、どした?」
「……トイレ」

 今行かないとホームルームが始まるまでに戻ってこれない。少し早足で入口に向かおうとした時、徐にドアが開いた。
 空色の髪、深紅の瞳が飛び込んできた。いつもの制服に身を包んだレイが立っている。教室内に歩を進め、いつもと変わらない足取りで席に向かう。

「綾波……」

 たぶん明るい笑顔になっていると思う。その声に、レイの瞳がシンジに向けられる。

「お、おはよう」
「……………」

 シンジの顔を、ジッと見ながら佇んでいる。シンジはそのレイから視線を外せない。事実としては、まるでその視線に射抜かれるように動けずにいるのだが、周りには二人が見つめ合っているように映っていたかもしれない。頬が熱くなってきた。級友たちの話し声も俄かに遠くなってくる。

「……あ、綾波。どうしたの? ……」

 辛うじて絞り出したシンジの声に、意識を戻されるように少し顎を引いたレイ。二度瞬きしてから、小さい声で、おはよう……と言うと、自分の席に向かった。席に着くまで、その背中を見送っていたシンジは、呆然とした表情を消せないでいる。
 ホームルーム開始前の、騒然さがピークを迎える教室内。アスカは頬杖をつきながら、そんな二人を観察するようにジッと見ていた。



 四時限目終了。午前中の授業が終了し、食べ盛りの子どもたちにとっては待ちに待った昼休みだ。チャイムの音を掻き消すように、煩いほどの生活音とお喋りが教室中に溢れかえる。

「ヨシャッ! めしや、めし!」
「二人とも購買だよな。早く行こうぜ」
「う、うん」
「センセ〜何やねん。その気の無いリアクションは〜。昼休みやで、昼休み! ワシ、今日こそ焼そばロールしばくでぇ!」
「いいから行こうぜ。早く行かないと何もシバケナクなるぜ」

 トウジとケンスケの後に従いながら、ちらとレイの方に視線を送る。
 レイは、頬杖をついて窓から校庭のほうを見ている。

(……綾波……今朝は何だか様子が変だったけど……今日は体調悪いのかな?)

 午前中、授業中・休憩時間中を問わず、シンジは何度かレイの方にこっそりと視線を送っていたが、いずれの時もレイは頬杖をついて窓から外を眺めていた。
 柔らかい陽光に空色の髪が煌いている。勿論、シンジが幾度となく視線を送っていたのは、その端整な容貌だけを理由としてはいなかった。

「センセッ! 綾波に見とれとる場合や無いでぇ! ほんまに全部売り切れてもても知らんでー!」
「なっ! 何を! ぼ僕は別に!!」

 見る見る顔が朱に染まっていく。シンジはその顔を隠すように、急ぎ足で教室の出口に向かった。その背中を、いつのまに校庭から視線を外していたのか、レイが黙って見送っていた。


「――だから、アスカ……聞いてる?」
「えっ? ええ。聞いてるよぉ! 昨日最終回だったわよね」
「……やっぱり……聞いてない……」
「……ん、んん……ごめんっ……ヒカリ……」
「……もおっ……でもどうしたの? 何かあったの? アスカ」
「ヒカリ……ちょっと教えて欲しいんだけど……ファー、綾波さんなんだけど、ずっとあんな感じなの?」
「えっ、綾波さん? ……ええ、大人しくて、あの通りとてもカワイイ子よ」
「でも、なんか授業中もずっと外の景色を見てるみたいだけど……」
「ええ、そうねぇ……確かに偶に気になる時は有るけど、授業はちゃんと聞いているみたいよ。学校はよく休むけど、先生に当てられても答えは完璧だし……」
「ふ〜ん。優等生なんだ」
「あっ、でも、最近学校には良く来るようになったわよ。以前からは考えられない出席率よ。……そお言えば、碇君が転校してきてからかなあ……同じパイロットだもんね。綾波さんの負担が少し減ったからかしら。でも今はアスカもいるから、碇君も綾波さんも心強いよねっ」
「えへっ」
「それより、早くお弁当食べましょ」
「うん!」

(確かに良く分からないのよね、この二人の関係……シンジはシンジでよくファーストのことを盗み見てるし、ファーストもシンジのことを偶にジッと見てる時があるもんね……なんか二人の間に独特の雰囲気があるし……)



「でや! 公約どおり焼そばロールをゲットや! ん……自分ら、そんだけしか食べへんのか?」
「フツーの人はこれで十分なの。そして碇も俺もフツーの人なの」
「しゃーないなぁ、自分ら。ヨシャッ! 焼そばロール少しずつしばかしたる!!」
「トウジよ……俺の日本語ちゃんと聞いているか? ……それにしても、毎日毎日それだけ食ってよく金が持つよな……」
「うん……そだよね」
「せや、懐は苦しいでぇ! しやけど、メシ食う楽しみは何事にも代えられへんやないか〜。銭がのうなったら、その分惣流の写真売ったらええ!」
「トウジ……声が大きい……惣流に聞こえたら殺されるぞ……。それに撮影から現像・焼き増しまで全てのリスクを背負ってるのは俺なんだぞ……。まあ確かにトウジは色んなルートで顧客を持ってくるしな、これからも今のレベルの昼メシは維持できるだろう。ただ、それ以上食べたいんなら、新規顧客の開拓が必要だな……だがネタがなあ……綾波が笑ってくれでもしたら新規既存に関係なく売り上げ倍増は間違いないんだけどな……」
「あほう! あの綾波が笑うかいな。なんぞ別の案を考えんとあかん」
「あ、あのさ……」
「ん、どした? 碇?」
「……あ、綾…い、いや、そうだ。今日はどこで食べる?」
「今日もスッコーンと晴れとんのやでぇ。屋上に決まっとるやないけー。気分はアウトドアや! オープンテラスや!」
「良く解んないけど付き合うよ……碇もいいよな?」
「うん……」

 大股で歩き進む上機嫌のトウジに続くケンスケとシンジ。シンジは購買で買った昼食の袋を少し持ち上げ、その中に目線を落とした。
 今日シンジが人波に揉まれながら確保したお昼ご飯は、豚トロのおにぎり、そして野菜とポテサラのサンドイッチだ。このサンドイッチを見ると、先日レイの家に行った時のことを思い出す。あの時コンビニで固形栄養食品を選ぼうとしていたレイ。そしてシンジの必死の説得でこのサンドイッチを選んでくれた。

(……あれから……何度か綾波が昼ごはんにサンドイッチを持ってきているのを見て安心したんだけど、今日もちゃんと食べてるかな? ……)



「ふぇー終わった終わった。碇ぃ、今日もネルフか?」

 六時限目終了のチャイムが鳴るや、どこかの机が軋む音を合図とするように、溢れ始めた生活音が教師の声をかき消した。殆どの教師は、説明の途中であろうが授業を延長する事無く、速やかに授業を終わらせるのが通例だ。

「うん。今日のテストは少し遅いから、余裕あるけどね」
「センセも大変や――」
「碇くん……」

 朝から何かしら気に掛かってた少女の声。シンジの反応は早かった。
 両手で鞄を持ったレイが、すぐ後ろに立っていた。慌てて振り返ったシンジに真っ直ぐに向けられている瞳の色はいつもより若干淡く、少し優しげだ、と思った。

「ど、どうしたの? ……綾波?」
「先に行くから……じゃ、後で」
「う、うん……後でね」

 何故か頬を少し染めているシンジ。そして、その後方で固まり合う二人の友人。

「センセぇ、何や何や何や〜!?」
「あの綾波が、用も無いのに自分から声を掛けるか〜?」
「い、いや……用はあったじゃない……先に行くって……」
「センセ……さてはお前らなんかあったな〜」
「ぼ、僕の言ってること聞いてる? ……トウジ?」
「裏切りモン〜」
「センセ……その幸せの一部だけでも周りに分け与えんとあかんなぁー。ヨシャ、帰りになんぞ奢ってもらおか」
「な、なんでそうなるんだよ〜」
「碇……頼みがある」

 嘆いていたケンスケが顔を上げた時、メガネのレンズが怪しい光を湛えているのが解った。シンジは俄かに嫌な予感に襲われた。

「……な、なに?」
「……お前になら出来るかもしれない……これを」と、小型のデジカメをシンジに手渡す。
「……へ? ……何?」
「バカモン。解らんのか? 綾波だよ。あ・や・な・み・れ・い」
「えっ、綾波がどうかしたの?」
「かーっ! センセっ、まだ解らんのかいな。それでセンセが綾波を撮るんやないか」
「ええっ!! そ、そんなの出来ないよ!」
「碇、よく聞け……そいつで撮るのは、いつもの綾波ではなく、笑っている綾波だ……」
「えええっ!! む、無理だよ! そ、そんな事っ!」
「ふっ、碇よ……俺はプロだ……ごまかそうとしても無駄だ」一条の光がメガネに走った。「さっきの綾波だがな……いつもと違ってたのは、言葉だけじゃないぞ……微かだが優しげだったじゃないかぁ、表情がぁ……それだけであんなに魅力的だったんだ。笑ったらどうなるんだ……。そして、綾波の笑顔を見る事が出来るであろう人間は恐らくお前だけだ……。いけるぞ、これは」

 何がプロなんだか、何がいけるのか解らないが、こんな役を引き受けるわけにいかない。レイに、ハイ笑って、などと言ってシャッターを押せというのか。最近レイとの距離が少しずつ縮まってきたというのに、変態だと思われたらえらい事だ。昼間はうっかり口を滑らせないで本当に良かった。

「や、やっぱり無理だよ……」

 口をつく言葉は、心中には比例しない……。つくづく気が弱いと自分でも思う。

「碇……お前には失望した……」


「なーんか三バカ、騒がしいわねぇ」
「いつものことでしょ。ところで、アスカ。今日、ネルフよね? もう出る?」
「ううん。今日のテストは開始時間遅いから、まだ時間に余裕あるわ。お茶しに行こ」
「えっ、でも碇君と一緒に行くんじゃないの?」
「あのバカは一人で行かせりゃいーわよ」




 ネルフ技術開発部技術局第一課 赤木博士執務室。
 デスクに置かれたコーヒーメーカーが、深煎りのコーヒーをサーバーに吐き出している。薫り立つアロマ。
 リツコはこの時間が好きだった。口に含んで楽しむフレーバーもいいが、デスクで最もリラックスしている自分を感じるのは、まさしくこの瞬間だと思っている。
 こぽっ、と不規則なリズムを刻んでいるその前で、リツコの指がキーボード上を流れるように踊っては止まり、また踊りはじめる。

 今、彼女は自らのアルファ波に酔える状態にはなかった。データベース上にストアされているレイの電子カルテの閲覧を開始して、既に二時間が経過している。それらのデータの確認作業に追われるリツコの表情は厳しい。

(体組織の構成、そしてその維持においては、特別な変調は見られない。データベースで確認する限り、これまでの検査結果から問題は見られないし、カルテにも気になるような所見も無い……。ただ、原因が特定できない片頭痛が発症する間隙は、少しずつだけど間違いなく短くなっている…………解らない……。考えたくはないけど、幼少期での治験履歴にまで遡らなければならないかもしれない……。ただそうなると、マギに残された履歴……レイの幼少期における治験内容……母さんが、当時施した措置内容をも洗い出すことになる………)

 今朝、レイから受けた報告は、半年ほど前からほぼ一カ月おきに発症する片頭痛に今朝も襲われたというものだった。発症当初、臨時健診で確認したレイのコンディションから、リツコはそれが憂慮すべきレベルのものではないと考え、対処療法として鎮痛消炎剤を処方した。しかし、当初の予想に反し、それはほぼ一ヶ月に一度の頻度で発症を繰り返し、都度の健診でもってしても、いまだ原因を突き止めるには至っていない。
 思いもよらなかったタイミングでのレイからの報告を訝しく思いながらも、シンクロテストが開始する一時間前にリツコの執務室に来るように指示をした。だが、何かがリツコの中で引っ掛かっていた。シンクロテストの準備を終えるや、食事を摂る事も忘れて執務室に篭っていたのだ。
 そしていま明らかになった一つの客観的事実。

 深く溜息をつくと、レカロのハイバックチェアに深く背中を預けた。額に右手を添える。

「……もうそろそろ来る頃ね、あの子……今日は家でゆっくりしてたのかしら……無理しないで学校を休むようにいったんだけど……」

 コーヒーメーカーがまた琥珀色の液体を吐き出した。最上のアロマに包まれながらも、リラクゼーションとは程遠い暗礁の淵にリツコの意識は沈んでいた。




「入りたまえ」

 冬月の声に続き、総司令室のエアロックドアが開放された。

「失礼します」
「加持一尉。今日ここに来て貰ったのは他でもない、少々遅くなったが、君の本部での配属先の内示だ。正式発令は明後日付だがな」

 いつ来ても感じる。不必要なまでにだだっ広いだけの印象。が、相応の意図は汲み取れる。居心地の悪さは噂に違わない。正面のデスクには、ゲンドウが相変わらずのポーズで明度の低い空間に沈んでいる。その斜め後方には、冬月が後ろに手を組み屹立している。

「……加持一尉」
「はい」
「特殊監査部勤務を命ずる」
「はい」
「当該の部署はその職務の性格上、ネルフの中でも独立色が強く、その報告義務もネルフ本部ではなく上位組織としての委員会となる。だが実態としては、部長は総務局三課長が代理を務めている。よって君の報告義務は、特殊監査部長代理としての総務局三課長に対して生じる」
「……はい」
「君に相応しい部署だよ。尤も委員会からのご指名でもあったんだがな……」
「……………」
「第3支部から継続してきたセカンドチルドレンのガードについては、諜報二課の若竹三佐に引き継ぎたまえ。そして」と、冬月が加持の後方を一瞥し、言葉を続けた。「君の特殊監査部での引き継ぎと当面のスケジュールについては、総務局三課の楠三佐に確認、その指示に従いたまえ。以上だ」

 凍りつくような恐怖を覚えた。加持が今の今まで気配さえ掴む事が出来なかったその男は、加持の背後から総司令のデスクに歩み寄ってきた。

「楠です」
「……加持です。初めてお目にかかります」
「加持一尉。楠三佐は、文字通りネルフの総務の顔そのものでな。特殊監査部の部長代理に総務局三課に四課、そして管理局四課まで預かってもらっておる。これは購買部など全職員の福利厚生の運営やらネルフの物資調達まで任されておることを意味する。よって非常に多忙なので、その辺りよろしく頼む」
「……はい」
「では加持一尉、行きましょうか。我々のブリーフィングが終了した後、諜報二課との打合せについては若竹三佐に話を通しています」


 楠、加持の退室後、ラップトップを立ち上げたゲンドウは、英文のコレポンを打っている。冬月は愛用のハイバックチェアに身体を預けていた。

「……これで、良かったんだな」
「……ああ、彼とは当面ギブアンドテイクの関係を継続する。それにはあの部署で泳いでもらうのがベストだろう。老人たちの介入は、我々にとって願ったり叶ったりだよ。そして、彼はこちらの第一条件をクリアする事で我々への証を立てている……」
「……だが、彼単独では困難な条件だった筈だぞ……失うものもあったと思うがな……こないだイントラで掲示されていた第3支部での一件、何も関係の無い事を祈るよ」
「………………」
「……それに、こちらの思惑通りに動くかどうかについても気にはなる……老人たち、そして内務省の意思のみであれば、その動きは概ね想定できるのだがな……どうも彼の真の意図が読めていない気がしてならないんだが……」
「問題ない……そのための楠三佐だ」
「ふっ、そうだったな……。取り敢えずは、これで老人たちも納得するとは思うしな……碇の出張も今回は少しばかり楽かな……」




「今日は三人とも比較的調子はいいみたいね」

 本部施設内第7試験場。三名のチルドレンを大写しにしているモニターとアウトプットされてくるグラフの数値をざっと見ながらミサトが誰に聞くともなしに呟いた。その声に反応したマヤが振り返る。

「中でもシンクロ率、ハーモニクス共にアスカの数値が高いわね。ここでテストを始めてからまだ間が無いんだけど……マヤから見てどう思う?」
「そうですね……安定してますね。第3支部でじっくりと手順を踏んで、基礎トレーニングを積んできたからでしょうか。自信に満ち満ちてるって感じですね」
「うーん、零号機が補修中とあって、作戦局一課としては心強い限りだわ。あとは他の二人とどれだけ協調できるかね。シンちゃんとレイとのチームワークの高さは先の実戦において実証済み。それが三人になる事で、いかにパフォーマンスの高いチームワークを期待出来るかがポイントね」
「でも、葛城一尉。第6使徒戦でのシンジ君とアスカの複座でのシンクロ率は、数値としてはこれまでの最高値でした。チームワークを構築する上でも期待出来るのではないでしょうか?」
「う〜ん。でも、あれは特殊な環境下での火事場の馬鹿力と言えなくも無いのよね〜。ねえ、リツコ。どう思う?」

 リツコの視線は、空色の髪の少女を映し出したモニターに一心に注がれていた。が、その視線はどこにも焦点を結んでいないようにも見える。

「……リツコ?」
「えっ? あら。ごめんなさい……。何かしら? 葛城一尉」
「……ん。何でも無い」
「そう……じゃあ、今日はこれ位で終わりにしましょう。これだけデータが取れれば十分だわ」続けてマイクのスイッチを入れる。「三人とも、上がっていいわよ」


 リツコの声を合図に瞑っていた目をゆっくりと開いていく。LCLの電化が解かれるまでは、まだしばらく時間が掛かるだろう。

(今日の結果はどうだったんだろう? ……手応えからして、たぶん昨日より少しは良かったと思うんだけど……下がってたら惣流にまた嫌味言われるんだろうな)

 プラグ内モニターを通してレイに視線を移す。揺蕩う空色。レイはまだ目を瞑っていた。

(……綾波……今日先に来てリツコさんのところに行ってたんだろうか?……でも、こうしてシンクロテストに出てこれてるって事は、どこか具合が悪いってわけじゃなかったのかな? ……帰り際に少し話せたらいいんだけど……)

 シンジがそこまで思考を巡らしたとき、エントリープラグの電化が解かれプラグの中は暗闇に包まれた。



 リツコの執務室での概評が終わるや、アスカはそそくさと帰路についた。学校でのお喋りのネタにするのか、今日は人気俳優が主演しているテレビドラマがあるらしい。
 そしてレイは、シンジの期待に反して、執務室に残るようにリツコから指示を受けてしまった。多少の失望感を漂わせながら、一人トボトボとリニアトレインの駅に向かうシンジ。だが、歩きつつも頭の中では晩ごはんのメニューに思考を巡らせている。帰り際に、ゲートに向かう通路で残業が確定したミサトから今日の夕食のリクエストを受け付けたからだ。

(……今日、ミサトさんが帰ってくるのは、恐らく十一時位。だったら時間も遅いし特製天丼で我慢してもらおうかな……。一品小鉢を付けて、天婦羅とでビールを飲んで貰って、つゆだくにしたらいいんだ。うん、赤だしもつけよう。これだとペンペンも喜びそうだし後片付けも楽だ……それで天婦羅のバリエーションは……)

 ジオフロントから抜ける頃には、すっかりと主夫の顔になっている。今日の食事当番がミサトであった事など頭の隅にも無かった。




「……やはり、今日の臨時健診でも異常は見られなかった」

 ときおり音を漏らすコーヒーメーカーと検査機器の作動音だけが静寂を破り得るこの時間。リツコは今更ながらに静かに時を刻んでいる掛け時計に意識を戻された。レイは、いまだ隣接している診察室でパーソナルデータの捕捉中だった。キャプチャされたデータがモニター上を流れている。それはストアされると、本日のシンクロテストの結果と併せて既定のロジックで評価がなされた後、レポートとして断続的に出力されている。

(……でも、この結果はあくまでも深層意識が何かしらの影響を受けているか、つまりエヴァとのシンクロ率への影響を見るだけのもの。臨時健診で異常が見つからない以上、マギを使用しての解析に踏み込まざるを得ない。何らかの原因あって、この結果だもの……)
(……速やか且つ的確な対処法を策定するためにも……)




(……でも)

           …………

(……でも………あるの?)

                 ……ツキヒヲ カサネルゴトニ……

(………必要……あるの?)

                       ……ツヨクナル アノオンナノオモカゲ……

(……決まっているのに……)

                             ……アノオトコノ アナタヲミルメガ……

(……その日までの存在……)

                     ……ワタシヲ クルシメル……

(……未来など考える必要の無い……)

                 ……アノモクテキノタメニツクラレタ……


(……よしんば……壊れてしまったとしても……)


             ……タダヒトノフリヲシテイル……


(……代わりのある……)





              イレモノノクセニ







 軽い電子音に意識を戻された。
 レポートのアウトプットが終了し、モニター上でメッセージが点滅している。


 私……いま何を考えてた? 何を?
 なんてこと
 何で、こんな時に
 疲れているのかもしれない
 早々に今日の結論を出さなければならない


「……明日も、午前中までとはいっても、あの子、学校だものね……早く返してあげないと……」

 サーバーに残っていたコーヒーを愛用のマグカップに注ぎ、自分を鞭打つかのように一気に喉に流し込む。苦い。

(……脳波、心理グラフ共に安定している……今朝の件にもかかわらず……)
(……深層意識へのダメージも見られない、どころか……)
(……そして、それが今日のテスト結果……シンクロ率の向上に繋がっている……)
(……投薬による効能? ……いえ、違う……アレはあくまで、一時的な鎮痛目的でしかないもの……)
(………………………)
(…………)



 モニターのグラフを俯瞰した後、もう一方のモニターに映し出されている空色の髪の少女に視線を移した。



(……)
(……………………)
(……今日のテスト中も、たまにモニター越しにシンジ君を見ていたようだったけど……)
(………………)
(………)
(……安心……なの?)
(……彼を見ていると……)
(……………)
(……ヤシマ作戦の後で、シンジ君とのコンタクトに因るものと思われる深層意識への作用が確認された事実はあった)
(………………)
(……でも、これでは……まるで……)




「……レイ……そうなの? ……」




「あー終わった。やっと終わったわ……」

 解放された執務室のエアロックドアより吐き出されるや、ミサトは近くのレストコーナーに飛び込んだ。まるでオアシスに辿り着いたかのような足取りで、そのまま直近の自販機にへばり付く。
 何件かの月例報告書の締め切りが重なるこの日、ミサトはこの時間まで執務室でのデスクワークを強いられていた。報告書の骨子となるものは、既に部下のマコトにより準備されてはいたが、この手の事務作業はミサトにとって最も苦手とするものであった。

「まっ、これで一つ気になってた事が片付いたわ……。あとは、シンちゃんに帰るコールをしてぇ、お風呂沸かしてもらってぇ……よっと、あれ?」

 スカートのポケットから百円玉がなかなか出てこない。なんだろうと視線を落とした時、耳元でチャリンと硬貨の落ちる音が響いた。

「お疲れ。作戦課長さん……何にする?」
「え……加持君。……何してんのこんな時間まで?」
「引継ぎさ。知ってのとおりウチは人遣いが荒いからな」
「そっか……発令、今日だったっけ?」

 缶コーヒーのボタンを押すミサト。ミサトが取り出し口からコーヒーを取り出したのを見て、加持はもう一つ硬貨を入れ同じボタンを押した。既にプルトップを開けたミサトは、一気に半分程度飲み干している。清涼飲料水とはいえ渇いた喉には心地良い。

「いや、今日は内示。正式発令は明後日さ。ブラブラしてないで引継ぎでもしてろってことさ。今日は夕方まで新しい職場での打合せ。そして今、二課との引継ぎを終えたばかりさ」
「二課? 何それ?」
「そっちの方だと流石に反応が早いな。アスカのガードだよ。葛城もドイツでやってただろ? アスカの保護責任者。本部での発令までは俺が面倒見ろって言われてたんだ」
「あっそ……」
「何だ。興味なさそうだな」
「あーたり前じゃないの。あんたのここでの職務を考えると、あんまり関わり合いになりたくないわ」
「そんな事は無いぞ。確かな情報ソースは多いほうがいい」
「だーれが、あんたなんかと……」
「それで早速なんだが――」

 不意に真顔になったミサトが加持を見据え、顔を寄せる。少し驚いた表情を浮かべた加持だったが、意図を理解すると表情を戻した。吐息混じりの耳打ち。微かに届いた香りは、記憶のむこうのラベンダーではなくコーヒー。

「一課の耳があるわ……急ぎ? だったら車の中で聞く」
「ああ……頼む」

 そっと離れたミサトは、空き缶をリサイクルボックスに投げ込んだ。

「加持君。ご馳走様。お礼といっては何だけど上まで車で送るわ」
「そいつは有り難いね」
「ちょっち待ってて。今片付けてくるから」




「ふむ……レイのその発症については、原因はいまだ解らずか……」

 総司令室では、デスクのゲンドウ、そしてその後方では冬月がいつもの体勢を保っている。今、彼らは数メートル離れた場所に屹立している赤木リツコの報告を聞き終えたばかりだ。

「はい。それと、発症以降の健診履歴を洗い出して判明した事ですが、少しずつではありますが、その間隙が短くなってきています」
「なんと……。それで、今後の措置はどうするのだ?」
「原因の究明に全力を挙げますが……恐らくレイの出生時から幼少期における治験時の投薬及び措置の履歴にまで踏み込む必要があると思います」
「む…う、そちらの可能性があるということかね?」
「今はまだ明確には解りませんが、……マギに残された当時の記録を辿った上で、解析を進めていく以外に方法は無いかと思います」
「その辺りがハッキリせん事には不安が残る……が、そうとも言ってはおれんか……『その日』は待ってはくれんからな」ゲンドウを一瞥した後、言葉を続ける。「いずれにしても大事を取った方が良いな。学校はしばらく休ませるとかな」
「それは……恐らくレイは、学校を休もうとはしないと思います。勿論、命令であれば別ですが……。今日も私への報告の後に、学校に登校していた事実を確認しています。今朝の状態では学校への歩行も苦痛だったと思いますが……」
「…………………」
「……これは、これまでレイの生体維持と健康衛生を司令より一任されてきた私の私見ですが、体組織の構成と維持という重要な側面においては、これまでの健診でも本日の臨時健診においても、何ら問題点は見られませんでした。この事実を鑑み、また健康管理と精神衛生上のメリットを考察しましても、今このタイミングで学校への登校を休止すべきではないと考えます。なにより、ここ最近学校への出席率向上が、レイの深層意識の安定に一役買っていることは、直近のシンクロテストの結果からも明らかになっています」
「……………」

 冬月は再びゲンドウに視線を移した。

「……赤木博士」
「はい」
「学校については、これまで通りでいい……」
「はい……」
「いざという時は二課のガードも付いている。問題無かろう。今は、原因究明にプライオリティをおいてくれ。その為にマギの占有率を多少上げても構わん……」
「はい」


 リツコの退室を待って、冬月はその身体を愛用のハイバックチェアに沈ませた。無意識にか、身体を馴染ませるように小さく前後に揺らしている。左手に握られた各部署からの定例報告のハードコピーに目を通しながら、両手を組んだ姿勢を崩さないゲンドウに声をかけた。

「碇」
「ああ……」
「明日からの出張だが……ベルリンとなると、キール議長とも会うのか?」
「解らん……表向きは本部の追加予算申請についての委員会内での審議だからな」
「表向きはな……だが、あくまでも話の核心は『槍』だろう? ……出てこぬ筈は無いと思うがな」
「老人達の考えている事はわからんよ……」
「………」
「………」

 椅子の揺れが止まった。

「……碇」
「………」
「……レイは……それでもこのままで良いのだな?」
「………」




「楠三佐?」

 夜の帳が降り立ってから、幾刻かの時を迎えた第3新東京市。その街並みを縫うように、ブルーのアルピーヌA310が疾走している。
 このFRP製のボディーにして、見事な仕上げがなされた塗装とその光沢を見れば、どこかのエンスー系ショップでレストアして間もないのではと思われるほどのコンディションだったが、以前シンジを迎えに行った際に第3使徒と国連軍との交戦に巻き込まれ、中破させてしまった。結果、そのボディーの至るところにひび割れやキズが見られ、フロントバンパーなどは脱落寸前のところを辛うじて針金で固定しているような状態だ。
 しかしながら、エンジンは絶好調。小気味良いモーターノイズに呼応するようにストレス無く吹き上がるその様は、まるで旧世紀の13Bサイド。

「そう。今度の部での俺の上司なんだ。正式には総務局三課長としてアサインされてんだが、お隣の四課長に管理局四課長まで兼務しているらしい」
「何それ? えらい忙しい人ねー。でも彼についてなら、ちょっち情報持ってるわよ」
「おっ、流石に作戦課長殿。助かるよ」
「確か、……そう年齢は四十五くらいで、あの外見通り……とても穏やかで面倒見のいい人ね。あたしも、この車のレストアするのにいいショップを紹介してもらったりしてお世話になったわ。加持君もあのロータスまだ乗ってんでしょ? その手のショップに顔が利くみたいだから紹介してもらったらいいわ。でも、偶に購買部で商品の補充とかを手伝ってんのを見かけた事もあったけど、ただ手伝ってた訳じゃなかったわけね……」
「ふ〜ん。現場にも出てんだ。……いやはや、ウチはホントに人遣いが荒いよな……」
「あとウチの総務の機能知ってるわよね? 表向きの総務やら庶務のアドミに加えて、購買部や職員食堂とか福利厚生に至るまでアウトソースしないでやってんだけど、有事の際には非戦闘員の避難経路確保から武器兵器の調達、そして前線へのロジスティクスまで所轄することになってるのよ。その分掌範囲の全てについては、あなたを降ろすまでには語り尽くせないわ」
「それで総務の顔か……表裏双方のね……」
「そして、そんな課長のポストにウチが尋常な経歴の人間を登用する筈は無い。楠三佐はセカンドインパクト前は警備局外事課にいたらしいわ」

(……カウンターインテリジェンスの総本山……なるほどね……)

「そんな訳で、加持君も注意したほうがいいわ。職分を超える行為は慎むべきね。ネルフを甘く見ない方がいいわ」
「そりゃどうも。でも……なんでそんな男が総務なんだい? ウチでロジ担が重要だってのは解るが、どう見たってオーバースペックじゃないか。一課あたりが適任だろう……」
「解んないわよ、あたしには……。でも、ウチが何の理由も無しにそんな人事をしないことは確かね……」
「……それは葛城の言う通りだな」

(……全て筋書きが用意されている……幾種類もの……そして、その上で踊らされるってわけか……)
(……それにしたって相手が悪すぎるな……確かに甘かない……)

「……あっ!」
「どうした、葛城!?」
「いっけない。シンちゃんへの帰るコールを忘れたわ!」
「は……あ?」

 夜の街にタイヤのスキール音が響いた。




 セカンドインパクトから常夏となってしまったこの国において、清々しさを感じることの出来る貴重なひとときといえよう。
 柔らかな朝靄に浮かび上がる街並みに、朝焼けの陽射しが色を落とし込んでいる。
 前世紀の遺物そのままの団地群のくすんだ壁面でさえ、ある種の神々しさを醸し出させるこの時間。
 そして、そこに居住者の気配など、およそ感じられない建造物の一室。402号室。

 少女は再び昨日と同じ症状に襲われていた。
 頭部に染み拡がるかのような鈍痛による覚醒。そして眩暈に似た感覚が加わり、いまだ明確な覚醒を覚えていない意識さえもが捩れていく。そしてその鈍痛は、俄かにその少女の肢体へと拡がり鋭さを増した。声にならない呻きが少女の口から零れる。


「……あうっ……」



「……くっ…ああ……」



「……はあっ……あっ……」

                     (……)

「……ううっ……あっ……」

                        (…………あなたは……)

「……あっ……はあっ……」

                     (……もとより……存在……)

「……ううっ……」

                  (……しなかったの……)

「………」
(……わたし、は……)

               (……だから……還る)

「……」
(……そう……私は還りたい……)

            (…そう…還るの…)

「…」
(……無に……)

               (……無に…絶無に……)

(……還りたいの……)

                  (……還るの……)

(……還りた……)

                     (……還る……)

(……還り……)



 迸る本能。その奔流が少女の意識を飲み込もうとした時、少女の中で一つのイメージが弾けた。






                 メガネ






 エヴァに乗ること以外の唯一つの絆 触れあい そして






                 約束






(…で、も…だめ……)

                        (……還るの……)

(……還してもらえない…の……)

                           (……還って……)

(……その日までは……)

                        (……還る……)

(……あの人との…約束の……)

                     (……還……)

(……だから…だめ……)

                  (………)



        (…………………)





         (…………)







          (……)



















 少女の意識は、漆黒の闇の中にあった。
 絶無、とも思えるほどの闇で塗りこめられた空間。
 その中に漆黒をくり貫いたかのような淵が浮かび上がっている。
 底なしにも見える淀みを湛えた淵のほとりに、天空から一条の光が糸を引いている。
 そして、その淵の水面に映し出されているのは、少女の大切な絆。
 少女はソレに手を伸ばそうとした。

 ………遠い。届かない。

 少し近づいてみる。もう一度手を伸ばした。

 ……まだ届かない。

 もう少しだけ近づいてみて、手を伸ばす。
 その時、少女の伸ばした指先から、一欠片の淡い光が零れ落ちた。
 光を飲みこみ震える水面。
 ゆっくりと広がる光の波紋は、メガネを光に滲ませた。
 やがて静寂を取り戻す水面。
 どのくらいの時が刻まれたのか。やがて少女の指先からふたたび一欠片の光が零れ落ちた。
 水面に吸い込まれたその光はふたたび波紋となり、幾重にも広がりを見せると、いつしか淵全体を淡い光で満たした。
 その光の波紋を少女は一心に見つめている。
 光の波紋にその形を滲ませていたメガネは、とうに色を失い、いつしか見えなくなっていた。


 静寂。まるで時間という絶対的観念の覚束ない世界。気がつくと、光を湛えた淵から霞がおぼろげに立ち昇っていた。
 ゆっくりと天上へと膨んでいったそれは、徐に二つに割れると、幾つもの翼を大きく広げたようなイメージを描き、ふたたびゆっくりと閉じられた。空色の髪の少女を包み込むようにして。






















 空色の髪の少女は淡い光の中で目を瞑って佇んでいる。誰かの存在を感じていた。



  あなた誰?



 声にした疑問。白んでいく意識。
 徐々に少女を包んでいる光が輝きを増してくる。光の中に溶け込むように霞んでいく少女の身体。



  温かい
  心地いい
  懐かしい感じ
  ずっと
  ずっと一緒だった

  あなた誰?




思い出せない?





 声を聞いたような気がした。
 意識が消えゆく寸前、ひとりの少年のイメージが少女の胸の奥に浮かんだが、少女の意識と共に朝露のように消えていった。


「………り…くん…」






「二課の香取です。赤木博士をお願いします」

 今日一日の暑さを予感させるかのように、刻一刻と強まる日差し。それに呼応するように幾重にも膨らむ蝉の鳴き声。
 建設職員用団地6号棟前のひび割れた路上に停まっている一台のセダン。ドライバーズシートには神妙な面持ちをした男が携帯端末を握りしめている。その手にうっすらと汗を滲ませながら。

 思えば昨日から少し様子がおかしかったのかもしれなかった。
 昨日、レイはいつもより一時間ほど遅い時間に自宅を出た後、いつものコンビニにも立ち寄らず学校に向かった。途中公園のベンチで五分ほど休んでいたのもこれまで見られなかったパターンだった。そして放課後は一人で本部に向かっている。ここ数日、シンジと肩を並べて本部に向かう姿を見ていただけに、ある種の違和感を感じたものの、リツコの執務室に単独で出頭していた事実、そしてレイのいつもと変わらない足取りと雰囲気に、一瞬持ち上がった疑念を払拭していたのだ。
 そろそろ学校では一時限目が始まる時間だ。少し前までなら、今日も学校を休むのか、とさほど気にも留めなかったが、今は違う。昨日に記憶を辿れば辿るほどに漠然とした不安が香取の胸の中に影を落としてくるのだった。

「はい、赤木です……二課の香取一尉から!? スクランブルはかかってるわね? 繋いで、急いで」

 思わず立ち上がってしまった。このタイミングでのガードからの緊急連絡。リツコの頭の中で俄かに緊急シグナルが点滅し始める。

「はい。赤木です。一尉。レイですね」
「ファーストチルドレンがまだ自宅から出てきません。少し気に掛かる事もありますので、彼女を呼び出して頂きたいのです。赤木博士」
「……解りました。取り敢えずはこちらで対処しますので、現状のまま待機をお願いします……万一の時はもう一度連絡しますので」
「……了解しました」

 電話を切ると、リツコは自分の携帯端末を取り出し、躊躇うこと無くレイへの非常招集コードを落し込んだ。



 遠くで何かが鳴っている
 暗闇に走る僅かな亀裂

 そこから零れ落ちる


 工事の音

       重く


          沈んでいく




             霞んでいく




         警報




               非常召集




                      使徒!





 瞬時に覚醒した頭が、身体をベッドから引き剥がそうともがく。が、極度に硬直した身体。枕の下に置いている携帯端末を取り上げる事さえままならない。

「……くっ…う……」

 独特の着信音と発光を繰り返しているその端末を手にするのに数分を要した。

 力が入らない手に渾身の力をこめると、ピッと作動音が響いた。

「――イッ?」
「…………」
「レイッ!」
「…………」
「レイぃ!」
「…………は……い……」



「レイっ!!」


 尋常でない状況下にある事は理解できた。今は速やかに最善の措置を施さなければならない。
 リツコはめまぐるしく思考を回転させた。

(……極力、二課は出したくない……)

 リツコは少しの逡巡の後、端末に登録されているその番号を呼び出した。



 今日は朝から特別なスケジュールは何も入っていない。平穏な1日を予想したミサトは観念し、デスクの上に山積された未決書類を片付けるべく腕をまくったところだ。が、いきなり鳴り出した携帯端末を慌てて取ろうとして書類の山を崩してしまった。崩れた書類を横目で見ながら、元通りにするだけでもお昼過ぎになるわね、と独りごちつつ受信ボタンを押した。

「ミサト!? 悪いんだけど、今すぐあなたのサポートが必要なの」
「なあんだ、リツコかぁ……どしたの? 急用? コーヒーでも切れたの?」
「単刀直入に言って、レイが大変なの」
「えっ!? なによ、レイがどうしたのよ?」
「細かいことは後で説明するから、今からレイの家に行ってくれない? 連れて来て欲しいのよ、ここに」
「ん〜いまいち要領を得ないんだけど……何かありそうね。解ったわ」
「ありがと。恩に着るわ。……倒れてるかもしれないけど、お願いね」
「ええーっ!! 兎に角すぐに出るわ。訳は車ん中で聞く」
「私も行きたいんだけど……レイを受け入れる準備をしないとだめだから」
「んなこた、解ってるわよ! じゃ、走り出したら電話するからっ」
「お願い、ミサト。慌てず急いでね」



「……赤木博士はウチを介入させたくないんだろうな……ウチから報告が上がるのは好ましくないのか……だが、どうする? ……」

 レイの自宅前。香取は何本目になるか分からないタバコに火をつけると、402号室のドアを見遣った。
 その時、突然タイヤのスキール音が高層団地の間に木霊した。条件反射的に市道の右前方に顔を向ける香取。その奥に蒼い影が浮かんだと思うや、とてつもないスピードで突っ込んできたその車は、凄まじいブレーキングを展開。吸いつくように目標の建物の入口付近に停止した。

「作戦課長のお出ましか……」

 ミサトは斜め前に停車しているセダンには目もくれず、団地の階段を駆け上がっていった。小脇には毛布を抱えている。

(……今日初めてきたけど、女の子が一人暮らしをするようなトコじゃないわね……ったくリツコのやつ……)
(……でも、リツコらしからぬ動揺の仕方だったわ……実質的な保護者だもんね……そりゃそうだわ……)

 402号室まで一気に駆け上がったミサトの呼吸には、一糸の乱れも無い。しかし、DMや広告で溢れている郵便受けを見て一瞬固まってしまった。が、こんなものは放っておいたらいい、などと言い捨てられた言葉を真面目に受け止め、レイなりに律儀に守っているんだと理解するや、少し表情を沈めた。ドアの取っ手を回し少し力を入れると、ガゴッという音と僅かな抵抗の後、それは呆気なく開いた。リツコから聞いていた通りだった。

(……それに鍵も掛けていないなんて……いくらガードが付いてるったっても……この調子じゃ中も……)

「………暗い」

 電気は点いていないが、入ってすぐ右手に小さなキッチンがあるのは解る。コンクリート打ちっ放しの壁がさらに薄ら寒いイメージに部屋全体を沈めている、と思った。玄関でブーツを脱ごうとしたが、レイを抱いて出てきた場合の事を考え、土足のまま上がりこむ。

「……レイ、ごめんね……」

 正面奥にチラチラと瞬く光は、カーテンの隙間から漏れ入る陽光だろう。その僅かな光を頼りに廊下をゆっくりと歩き進む。何歩か進むと微かな息遣いを感じた。ミサトは奥まで一気に歩き、端々がほつれたカーテンを勢いよく引いた。肩で浅く息をする空色の髪の少女の姿が浮かび上がる。

「レイぃ!!」



 402号室のドアが開くのを認めるや、香取は車から降りていた。リツコから待機と指示を受けているからには、何をする、何が出来るわけでもなかったが。
 ミサトが毛布にくるまれたレイを壊れ物のように両手で抱き上げている。顔は見えないが、毛布の間から空色の髪の毛が覗いている。香取にはレイがいつもより小さく見えた。
 ドアを開け放ったままの助手席にレイを寝かせると、静かにドアを閉め運転席にまわる。サングラスを下ろす時、一瞬手を止め香取にウインクを送るとアルピーヌを発進させた。静かに、それでも力強くリニアのような加速を始める。続いてパサートのタイヤが悲鳴を上げた。



 ブルーのアルピーヌは滑るような走りで本部へと向かっている。往路と一転して慎重な運転に傾注していたので、カートレインのゲートに到着するまではもう少し時間がかかるだろう。ルームミラーにはつかず離れず付いて来ている香取の車が小さく映しだされている。
 リツコへの一報を終えたミサトは、溜息を一つつくと助手席のレイに意識を戻した。まだ少し不規則な呼吸にその身を預けてはいるが、さっきよりは落ち着いているように見える。身体を覆っている毛布が体温を維持するのに功を奏したのかも知れない。レイは片頬を毛布に押し付けるようにして眠っている。

(……シンちゃんには、今のレイは見せられないわね………慌てふためくわよ、きっと……)

 保護者として、シンジがネルフに来てからレイを気に掛けていることは分かっていた。その感情がどのようなものであるかまでは解らないが。そして、レイもまた先のヤシマ作戦から、シンジを見る表情が柔らかいものに変わってきているのだ。ミサトはレイのその僅かな変化が嬉しかった。

(……たまにジッと見ているのよね。シンちゃんのこと……。こんな可愛い子に見つめられると、シンちゃんもそら赤くなるわよね……)

 寝顔を見ていると愛おしさが込み上げてくる。抱きしめたくなるような衝動に駆られるのは、知らず重ねる自分の過去を含め、語るに尽きない想いがあるからだ。
 パイロットとしての厳しい訓練を受け、テスト三昧の非日常的な中にあっては、ある意味人間性を放棄せざるを得ないような環境だったのだろう。過去の経歴が全て抹消されている事実が、それを雄弁に物語っているのではないか。人間味を感じさせないほどに冷静沈着、そしてその感情と表情に色を失っていた少女が、こんな切羽詰った状況の中で、微かではあるが感情に育みを見せているのだ。言い表せないほどに安らいだ想いが胸中に形を成してくる。脳裏に甦るヤシマ作戦のあのシーン。その時、レイは負傷してはいたが、月明かりの下で支え合うように寄り添い歩くその姿。

(……ずっとシンちゃんと一緒に歩いていけたらいいね……レイ……)



            !!



 心の中でそう呟いた瞬間、感じた。
 身体が真っ二つに引き裂かれる。
 そこまでの違和感を。




          欺瞞




 思わずミサトは左手で口を押さえた。


 これから襲来し続けるであろう使徒、そしてサードインパクト回避を名目に少年少女に課せられる過酷な命令。そしてそれを彼らに下命するのは、他の誰でもない作戦指揮官としての自分。
 希望が、ひとつ、またひとつと明るさを失っていく事への痛みにもがき、彼らのささやかな希望が零れ落ちないようにと、祈るように両手を掲げている自分。が、一方、全く正対するところに佇んでいる虚ろな目をしたもう一人の自分の存在を強く感じる。




          欺瞞




(……あたしには目的がある……本当の目的が……)
(……ネルフでしか為し得ない……エヴァンゲリオンの力で以ってしか……)

 隣で目を瞑っている無垢な少女に対しても、家族同様に信頼を寄せてくれている純粋な少年に対しても、愛しさを感じるこの想いに嘘偽りは無い。
 しかし、人類の未来という大義名分により狡猾に隠蔽されているものの、実際には自分も含めた薄汚れた大人達の利己的な目的のために利用されているに過ぎない。そしてその遂行のために少年少女に課せられる情け容赦の無い命令。それが、少年少女の身体を傷つけ、心を壊し、ささやかな希望さえも切り裂いていく。

(……その為には、どんな手段を使おうが……)
(……たとえ……誰を犠牲にしようが……)
(……たとえ………)

 影が差していく胸中のミサトを待ち構えるように、深い闇を湛えたトンネルがぽっかりと口をあけている。
 ミサトには、それが引き返すことのできない悪鬼羅刹ひしめく奈落への入口のように見えた。

(……………………そして……この子たちの……)
(……希望が……想いが……)



(…………あたしを………)










(…………壊す)

 その左手が白くなるほどに胸のクロスを握りしめている。




 四時限目終了のチャイムが鳴り響く。教室内からはフッと緊張感が抜け、至る所からざわめきが湧き出し始めた。呟くような教師の声に続いて、学級委員長の歯切れの良い声が教室内に響き渡る。
 今日は土曜日。午後の授業は無い。教室は帰途立ち寄るゲームセンターの話や、部活前のお昼ごはんの話やらで俄かに活況を呈していた。
 そんな周りの状況をよそに、シンジはレイの机をぼんやりと見つめていた。

(……綾波……とうとう来なかった……きのう様子がおかしかったのは、やっぱり体調が悪かったんだろうか……)
(……それとも……ネルフなのかなぁ……今日はシンクロテストは無い筈だけど……単独テストなのかなぁ……)

 前で楽しげに駄弁っている友人の声が遠い。

「おっしゃあ、終わった、終わったでぇー。ほな、いのかー」
「ああ、今日どーする? ゲーセン行くかぁ? 碇は今日もネルフか?」
「……いや、今日はテストは無いよ」
「センセ……何やしけた顔して〜。今日は半ドンやで半ドン。今日という日は今からやでー」
「ん? ああ……そうか。結局、今日は綾波、来なかったんだな……」
「う、うん……」
「ほんでかぁ……そないに元気がないんは……センセも大変やのー。三足の草鞋を履いとる上に、好きなおなごの心配もせなあかんねんからの〜」
「う、へっ…えええっ! な何を!」

 教室中に響き渡るような腹筋の効いたトウジの声に、シンジはしどろもどろになってしまった。助け舟を求め、ケンスケに縋るような視線を向けたが、俯き加減のメガネには既に怪しい光が湛えられている。シンジは本能的に、だめだ、と思った。

「……碇……そおだ、お前は裏切りモンだったんだ……ミサトさんとの暮らしだけでは飽き足らずに……あ、綾波にまで……そ、それで、キ、キスはしたのか?」
「えっ、えう!? ケ、ケンスケまで! ななな何言ってんだよ!!」
「センセ……まあその辺のところは、帰りに牛でもしばきながらじっくりと聞かしてもらおか……なぁに心配せんでええ……まあ、魚心あれば水心っちゅうやっちゃ……昨日の話、覚えとんなぁ?」
「へっ!? ……」


「今日も変わらず三バカは賑やかね」
「アスカ、いつも同じ事言ってる。そんなに気になんの?」
「えっ、三バカを? あたしが?」
「ちがうわよ。碇君に決まってんじゃないのぉ」
「ええっ!?」
「だって、アスカよく碇君のほう見てるし。何のかんの言って、いつも気にしてるみたいだし」
「んーそりゃ、ないわ。バカなガキには興味無しよっ。あたしの好きなタイプはねぇ。大人で、カッコよくて、包容力があって、優しいヒト……かな?」
「……要するに中学生じゃ無理なわけね……でも、それってそうとう年上趣味よね……少し危なくない?」
「ぜーんぜん。あのね、実はそのヒト、今ネルフにいるの……」
「えっ、さっき言ったことってその人のことなの?」
「うん!」
「それだけ具体的に言えるってことは、もう付き合っちゃったりしてるわけ? アスカ?」

 周辺でガタガタっと机が動いた。
 アスカとヒカリの周りに座っている男子生徒達は、先ほどからの二人の会話に聞き耳を立てていたが、もはや下校準備どころではなくなっていた。『碇』という言葉に反応し、『バカなガキに興味無し』発言に動揺し、『もう付き合っちゃったりしてるわけ?』に至っては、彼らのほとんどが平静でいられなくなった。中には思わず立ち上がってしまいそうになり、中腰のまま固まっている男子さえいた。
 彼らは皆、熱烈なアスカ信奉者だった。当然、ケンスケから何枚も生写真を買っているし、最新のショットを定期的に入手できる年間包括契約までケンスケと結んでいる者さえいた。無理も無いが、アスカの周りに偶然座っているという幸運(?)により、偶に間近で見ることが出来るこの上なくチャーミングな笑顔、それが偶然とはいえ彼らに向けられたとき、健全な男子の普通のリアクションとして彼らは一様に錯誤した。そして歴史は繰り返される……。
 中腰の状態で凝固していた男子の机から、消しゴムがアスカの足元に転げ落ちた。それに気付き身を屈めて拾うアスカ。

「はい、柏君」

 途轍もなく可愛い笑顔と一緒に消しゴムを受け取ったその男子は、迷っていたケンスケとの包括契約をその瞬間決心した。
 当の本人は、消しゴムを渡すと、少年のかような純粋な決心など全く関知しないが如く、ふたたびヒカリとのお喋りに没頭し始めた。

「……ふっ、それでいい……そうやって着実に下僕を増やしていくんだ……来月、キャンペーンでも張るか……綾波のショット次第ではダブルキャンペーンというシナリオもアリだな……」

 エヴァパイロットを食い物にするこの男、相田ケンスケ。一連の遣り取りを後方より伺い満足そうに呟いたとき、トウジに肩を抱かれたまま連れ去られようとしていたシンジの携帯電話の着信音が聞こえた。




「はい、リツコ」
「ああ……ありがと……」

 デスクの上のカルテを覆うように、両手を組み額を支えているリツコ。前に差し出されたマグカップから沸き立つアロマに先に反応したのは、目を瞑っていたからかもしれない。カップを口につけ琥珀色の液体を口に含んだ。リツコ好みの深煎りのフレーバーだった。

「……レイは?」

「ん……隣の診察室よ。今は落ち着いているわ」
「そう……さっき、ちょっち聞いたけど、原因は解んないのよね……」
「解らないわ…………正直言って、情けないけど。症状としては、半年ほど前から月に一度の頻度で出てるんだけど、月例定期健診でも昨日の臨時健診でも問題は皆無。再検査を要する項目さえ見られ無かったもの」
「月に一度って……それって、生理に関係はないの?」
「レイは………まだ、なのよ……」
「あら? ……そうだったの」
「……シンジ君……心配してた?」
「それは、もお……すぐにでもネルフに飛んで来そうな話しぶりだったけど、休んでるレイに障るわよって言ったら大人しくなったわ」
「…………そう」
「じゃあ、あたしはデスクに戻るわ……なんかあったら遠慮なく呼んでちょうだい」
「ミサト」
「ん?」
「レイ………今日も学校に行きたかったんでしょうね」
「……それは……あたしには、解らない。でも、シンジ君は何だかずっと待ってたような感じね」
「…………そう」
「んじゃ、あたしはこれで。リツコも今日はシンクロテストも無いんだし、少し休んだほうがいいと思うわ」
「ええ……ありがと、ミサト……」

 執務室を出て通路を右手に向かう。歩き進むにつれ思考に沈んでいくミサトには、いつもの颯爽さは見られない。
 何か釈然としない。健診でも引っ掛からないこの原因不明の症状は半年ほど前からだという……。そしておよそリツコらしからぬあの様子。


 何か……複雑に絡んでいる何かがあるように思える

(……私の知らない事があるということ、か………)

 前方すぐ右手の部屋、レイが休んでいると聞いた診察室のドアが開放されているのを見て、ミサトは思考を切った。

(……リツコ……レイが中で休んでんのに開けっ放しにしてるなんて………)

 何も考えずにその部屋に足を踏み入れようとした。が、慌てて身体を引っ込めた。

(……司令!? たしか今日、ベルリンに出発の筈)

 ミサトが僅かに顔を覗かせているその部屋の中で、ゲンドウが入り口に背を向けベッドを見下ろしていた。休んでいるレイを起こしてはいけないと、ソロリと近づいたミサトには気付いていない。レイの静かな呼吸だけが微かに部屋の中で浮き沈みしている。

「……………レイ」

 ゲンドウが低く呟いた。右手を空色の髪に伸ばす。

 その声から表情を窺い知ろうとしたが、俄かに後ろめたい思いに襲われ、ミサトはそっとそこを後にした。

(………初めて聞いたわ…………………司令のあんな声)




「……気がついた?」

 よく知ってる
 この天井
 この声
 そして

「……赤木……博士」
「レイ……もう大丈夫よ」
「……わたし」
「どう? 気分は? どこか違和感を感じるトコ有る?」
「……いえ」
「そう……レイ、あなたはね……一昨日と同じ、いえそれより少し酷い症状で、昨日の朝ココに運ばれてきたの」
「……………」
「それで、丸一日ココで寝てたのよ」と、壁に掛かっている時計に顔を向けた。レイが運び込まれてから既に24時間以上が経過している。

 リツコの視線を追って掛け時計に視線を流した。夢と現実の狭間で相見えたような、そのときの記憶がおぼろげに甦る。
 鈍痛と、眩暈にも似たあの感覚。そして痛みが全身に広がっていった……そして、

 自分の中でせめぎ合っていた何か
 ……思い出せない。
 何か温かいモノに包まれていた感じがした
 ……思い出せない。
 誰かに呼ばれていた気がした
 ……思い出せない。
 何かを思い出そうとしていた気がした
 ……思い出せない。
 わたし……誰かを呼んでいた
 ……思い、出せない。

「……イ?」
「…………」
「レイ?」
「……はい……」
「まだ身体は本調子ではないと思うわ。だから今日はココでゆっくりと休んでいた方がいいわ」
「……!……」

 レイの瞳がわずかに見開かれる。レイの脳裏にけたたましく鳴り響く着信音と発光パターンが甦る。



     使徒!



「赤木博士。使徒…使徒はどうなったのでしょうか?」
「え? ああ、ごめんなさい。使徒が現れたわけではなかったの。あなたの無事を可及的速やかに確認するにはあの方法がベストだったの」
「…………」

 少し表情を緩めたレイは、視線をやや下げた。

「それと、月に一回の、今回は二回だったけど、この症状については今マギも使って全力で洗い出してるから心配しないで」
「………はい」
「でも、覚えてて。レイは基本的には全くの健康体なの。月例健診でも、昨日の特別健診でも異常は見られなかったわ……だから、学校への登校もこれまで通りよ……」

 学校…そう学校……

 レイは再び顔を上げた。

「………はい」
「……それと、ミサトが言ってたわよ。シンジ君も心配してたって」
「……いかり…くん……」

 リツコは驚いていた。
 微かに優しげな表情を浮かべたその少女に。

 少女とあの男との間に存在していた唯一つの絆。これまでその絆だけにヒトとの触れ合いを見出し、その男にだけ柔らかな表情を向けてきた少女。そして、余りにも残酷な宿命そのものの絆。
 リツコは感じていた。それは本当に微かな変化だったが、その少女が今初めて自我を芽生えさせつつある。そして、それは未来に向け育まれるべきモノ。
 目の前の少女への愛おしさ。ただそれだけの純粋な情念が胸の中から溢れ出てくる。

       (……そう…でも……恐らくレイは自分の気持ちを、まだ理解出来てはいない………………………………)

「……そう、だから体調を戻して、早く学校に行けるようにしない…とね」

       (……たとえ、その想いが育まれて……いつか自分の気持ちに気付くことがあったとしても……)

「………は…い」

       (……報われることはない……決して……………………)

 これまで見たことも無いような優しげな表情を浮かべている少女に手を回し、そっと自分の胸に抱いた。
 今のリツコにはそれができる精一杯のこと。


「……レイ」


       (……だから……今は…その日までは……)


「………はい」


       (……その想いのままに……)



「……昨日も……学校に行きたかったのよね……」






「………………は…い」


To be continued





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