今いったい何時なんだろう。
 だるい。体がホントにだるい。
 水曜? 金曜? ……日曜…だったっけ。
 どっちでも…いいわ。
 ガッコなんて休めばいいんだから。
 無理して行くことないんだから。
 動かないんだもの、あたしの身体。
 動かないんだもの、あたしのエヴァ。
 自分のじゃない……みたい。
 …誰か……誰か。
 あーうるさい、いつまでもドアを叩かないで。
 頭に響く、のよ。
 ………誰か。




 ほとほとと打たれる襖は、世界中のシャボンを作る製造装置のように、気だるさを部屋の中にとめどなく撒き散らせている。それは、時間に関係なく参拝者にかき鳴らされる鈴のように、アスカの頭の中を永遠にかき混ぜるのだ。







「ちょっと、アスカぁ!? いつまで寝てんのー!?」
「…………」
「アスカ、聞いてんの!?」
「……きのう眠れなかったのよ…ほっといて、ミサト」
「あっそう。でも晩ごはんくらい食べたらー?」
「……要らない、欲しくない」…吐きそう。レトルトなんて、見たくもないわ。
「あら、残念ね。せっかくシンちゃんが準備してんのにぃ」

 え? バカシンジが? ちょ、ちょっと。「待っ――」お腹は正直に自己主張を始めた。次いで腸を絞られるような痛みもじんじんと。いつから食べてなかったんだっけ? …あたし。

「シンちゃーん、アスカ晩ごはん要らないって」

 もう、だからちょっと待ってって言ってる――あれ? …あたし、声出てない? ちょっとミサト待って、あたしは。だから、いつまでもドアを叩かないで…誰か。どうしてあたしの声が聞こえないのよ?

「アスカ、どうしたんだ? ずっと部屋に籠ってるなんて、アスカらしくないぞ」

 あ……加持さん。来てくれたの? あたし、ずっと連絡が取れなくて、すっごく心配してたんだから。どうして電話に出てくれなかったの? 加持さん。あたし、身体が動かないの。声が出ないの。誰にもアタシの声が聞こえないの。誰もアタシの話を聞いてくれないの。加持さん。ノックなんかしてないで、ここにきて。傍にいて。身体が冷たい。寒いの。傍にいて……抱きしめて欲しいの。暖かくなるまで抱いていてほしいの。

「葛城、だめだ。アスカ、完全に眠っちまってるようだ」

 加持さん。身体が動かないの。

「きっと疲れてるんだろう。そっと寝かせといてやろう」

 動かなかったの。あたしオカシイの。あんなもの。

「このアイスバインは、まるまる残しといてやろう。アスカの好物だからな」

 あんな、もの。でも避けれなかった。避けれなかったの。

「プランチャしたソーセージもザワークラウトも」

 腕を両方とも……頭も飛ばされちゃったの。

「スイーツは、ヴィタメールのマカロンなんだ」

 重い…エヴァが重い、のよ。

「ほら。開けてごらん」

 翔べない、

「ゆっくりでいいから」

 翔べない、の。

「大丈夫。安心して」

 翔べない、の。

「心を、エヴァに解放するんだ」

 エヴァに、心を?

「そうだ……そうすれば…」

 …加持さん?

「……いつか、アスカにも解るときが来る……」

 …加持さん?

「……アスカ……俺は……」

 加持さん?

「……いつでも見守ってるよ……」

 ……イヤ。

「……どこにいても……」

 ……イヤ。

















 ……ひとりは、イヤ。

















 ……ひとりは、イヤ。







 ……ひとりは、イヤ。










どうして、そんな事を言うんだい?




 ……ひとりは、イヤ。






ひとりじゃ、無いよ












 暗澹とした部屋の底で、青碧の光がはぐれたホタルのように揺れている。わずかに見開かれた瞳には、夜空を翔る航空機の曳く灯が映し出されている。ややあって出鱈目に身体を起こすと、ぐっしょり濡れたTシャツが体に纏わりついていた。着替えなくちゃ。喉はカラカラ頭も痛い。窓から吹き込む風に体を馴染ませると、波打つ動悸を感じた。……なんでよ?
 真っ暗な廊下のフローリングを踏みしだいて抜けると、ダイニングには底の知れない闇が横たわっていた。

「……ミサト、帰ってないんだ」

 独りごちてから鼻で笑った。今日に限ったことじゃない。
 灯した蛍光灯に目を眇めて冷蔵庫を開けた。牛乳パックを取り出し、冷凍庫から掻きだした食パンは化石のようだった。トースターを300Wにセットすると時間がかかるが、そんな事はどうだっていいことなのだ。今、この部屋で一人ぼっちのアスカには時間はいくらでもあるのだ。それでも、モーニングセットにもならない朝食を砂を噛むように胃に流し込む作業は10分も掛らなかった。

「……なんで、あんな夢」




 加持は脚を止めると、やおら後方を窺った。通路では、技術部の職員が軽口を交わしている。その後ろ姿と周辺に、主席監査員らしからぬ視線を巡らせてから、目前に据えられたドアの傍のボタンを押した。エアロックの外れる音が響きドアが開いた。

「ヨオッ、どうだい、調子は?」
「…………」

 澱んだ空気が逃げ口を求めるように加持の頬を掠めた。黄色がかった明かりの下で、やや猫背気味の赤い背はそよとも動かず、キーボードを緩慢に叩く音だけがその部屋の空気を震わせていた。

「少し休憩にしよう。メシ買ってきたんだ。一緒に食おう」
「要らない」
「どうしたんだ? ハンバーガー、葛城、好きだったろ?」
「悪いけど、今のんびりとご飯を食べてる時間、無いの」
「そりゃ、いけないな。ここんとこ家にも帰ってないだろ。睡眠もろくに取ってないんじゃないのか?」
「…………」
「葛城」
「……ごめん、加持君。一人にしといて欲しいの。シンジ君があんなことになってんのに、ゆっくり寝てもいられないの。あたしはあたしの仕事を急がなくちゃ」
「…………」

 でも、と椅子を回転させ、加持に向き直ったミサトの表情は憔悴しきっていた。胸を突き上げた塊を飲み込めきれずに、少し表情を歪めた加持。

「加持君、知ってたら教えて。人類補完計画って、何? それにエヴァがどう関係してんの?」
「……葛城」
「知ってんでしょ? 一体、ネルフは、碇司令は、エヴァを使って何をしようとしてるの!?」
「葛城」
「シンジ君があんなことになったのに、どうして…どうして碇司令もリツコもあんなに平然としていられるの――!?」

 体を詰め寄らせたミサトに、半歩踏み出した加持は、その身体をひしとかき抱いた。

「ちょっ、加持くん!?」

 いいから落ち着いて、と腕のなかで身を捩るミサトを諭し、加持は暖を分け与えるように体を密着させた。

「こ、こんなことで誤魔化さな――」
「眠れないんだろう?」
「…………」
「少しだけでいい。少しの時間でいいから、ネルフのことは忘れて眠るんだ」
「……加持くん」
「おまえには、やり遂げないとならないことがあるんだ。今おまえが倒れちまったんじゃ、それはどうなるんだ?」
「…………」

 どうしてだろう。この男の腕の中にいると、昂っていた神経が鎮まっていく。雪の降るように囁かれるコトバが、ささくれ立ったバラバラの心を整えてくれる。昔は解らないでいたのだろうか。ただ見えなかっただけなのだろうか。陽だまりのなかでじんわりと浸透してくる温かさのように、白濁する頭のなかに存在さえ忘れていた眠りの精が顔を見せ始めた。

「俺としては、このまま眠ってくれても一向に構わないんだけど」
「……そんな事、出来る筈、無いじゃない」
「そりゃそうだ。先ずはメシをちゃんと食って、それからだ」

 ほんじゃ、とマックの袋を机に置いて、加持は踵を返した。ミサトの小さなアリガトをその背に聞いた。

「そうだ。葛城、シンジ君のサルベージが終わったら美味い酒でも飲みに行こう。渡したいものもあるしな」
「渡したいものって……」
「プレゼントって相場は決まってるさ……八年振りのな」


 作戦局第一課長執務室を出た加持は、通路の向こうに一瞥をくれると、十数メートルほど先のリフレッシュコーナーへと足を向けた。思っていた通りの男が、アルミのベンチに浅く腰かけていた。何十年も前からそこにいるように背を丸め、暖を取るように缶コーヒーを両手で持っている。

「楠三佐」

 加持は厳しい表情を一転させ、いつもの微笑を添えて男の隣に腰を下ろした。

「奴らが動きますよ」
「奴ら…ですか?」
「今更、惚けるのは無しにしましょう。お互いにですが」

 男に緩慢な目を向けた後、加持は静かに溜め息を漏らした。

「私は、私のダンスを踊るだけです」
「まだ間に合うのではと思っていたのですが、君は……君の道を行きますか」
「遺憾ながら、ご迷惑をお掛けする事もあるやも知れません」
「それは、大した事ではありません。しかし、私は私の立場で出来ることをする積りです」
「それは、どちらのお立場で?」
「私はここの総務局三課長であり、特殊監査部ではあなたの上司でもあります」
「私は誰に何も申し上げるつもりはありませんが…」

 ふっと肩を落として微笑を俯けた楠は、重気な腰を伸ばした。

「惚けるのは無しと言ったのは、私ですよ。この言葉に相違はありませんよ」と楠は言った。コトリと缶コーヒーをベンチに置くと、靴音を響かせはじめた。
 リフレッシュコーナーを後にした楠の背中が、加持の目の縁で夢の残像のように小さくなっていく。まだ温かい缶コーヒーを手に取って、加持は自らに刻みつけるように呟いた。

「……文字どおりの、ラストダンス、か」




 ときおりケージを走る重く低い共鳴音が脇に据えられたアルミニウム製のラダーを瘧がついたように震わせ、周辺で作業に没頭している職員達の手を止めた。何かの測定機器が積載されているのか、職員たちが群がる大掛かりなワゴンからは、裂かれた腹部から引っ張り出された腸のようなシールドが、幾束も下方のケージに繋がれた初号機へと延ばされていた。マヤは機器に接続されたキーボードに指を走らせては、両袖に控える技術局員と整備班員にきびきびと点検結果を申し送っている。最終項目の点検を終えると管制室への速報を構内無線で送り、哀しげな顔をケージの隅に向けた。

(……レイちゃん)

 マヤの視線の先に佇む少女は、身じろぎ一つすることなく、その紅い瞳を初号機に向けている。プラチナブルーに煌めく髪の下に表情は見られず、心持ち透明度を増した肌の白さがケージの中で際立った。先の凄絶を極めた第十四使徒との闘い。これまで対峙した中でも最強とも言える使徒に対して捨て身の攻撃を仕掛けたレイは、零号機より救出されてから直ちにICUに収容された。今回の戦闘以前に損傷していた左腕に加え、ゼロ距離で受けたN2兵器の爆炎と熱線はレイの身体に深刻なダメージを与えていた。それでも中央病院からなる選りすぐりの医師団による集中治療と第一脳神経外科での専属看護士である千代田ユキの懸命な看護により、レイは一命を取り留めた。そして、意識を取り戻したレイが何の躊躇いも無く足を向けた先は、司令の元でも保護責任者たる赤木リツコの元でもなく、初号機を駐機しているこのケージだったのだ。頭部と両腕を包帯で覆われ、一人での歩行もままならない重症患者そのものの姿に、ケージで作業に従事していた職員達は一様に瞠目し、その痛々しさに胸を痛めた。以来、パイロットとして従事すべきスケジュールを縫い、レイが深夜早朝を問わずケージに佇む姿が目撃されることとなり、それを恒常的に目の当たりにする職員達の中には、いよいよシンジのサルベージ計画を翌日に控え、嘗て見たこともないような切迫した気概が産まれていた。
 打ち付けられたようにレイから視線を離すことのできないマヤに、傍で機器の点検に追われていた整備班の男がやおら腰を上げ、レイを見つめるマヤに倣った。

「明日のサルベージには、おれたち整備班としても万全の態勢で臨むからさ。徹夜してでも施設全体に再チェックを掛けるからさ。だから、そっちはそっちで目一杯リキ入れて頼むよ。…絶対にな、成功させような」

 セカンドインパクト前は自動車工場でメカニックをやっていたという変わり種の男は、自らの言葉を噛みしめるように、一言一言に気骨を籠めた。
 泣き笑いの表情でその男に小さく何度も頷くマヤの立つ場所からちょうど正対する踊り場に、二名の男が手摺に体を預けている。監視カメラよろしく時折り周囲に視線を投げかける彼らの意識もまた、空色の髪の少女に固定されていた。

「やはりレイちゃん、今日も来てますね」
「そうだな」
「テストがあるとき以外は、ずっとここにいるらしいですね」
「そうだな」
「包帯は取れたんですね。でも、まだ顔色は優れないようですね」
「……そうだな」

 体の底に沈殿した澱を溜め息と一緒に吐き出した杉は、祠の仏像のようにそよとも動く様子のない男へと顔を向けた。呼吸さえ忘れたように生体としての気配を潜ませているその男に、杉はパソコンの休止モードを連想した。ただの休止モードではない。水面下で幾多のレーダーを張り巡らせる休止モードだ。何かがその網に引っ掛かるや、コンマ数秒のレベルで通常モードの殻を破って有事モードへと切り替わる。そして、監視対象に降りかかるであろう危害をイージス艦のように排除するのだ。そこに一切の慈悲はない。

「…香取さんは流石ですよね」
「なんだ?」よほどストライクゾーンを離れていたのか、香取は不良少年が尋ね返すような顔で聞き返した。
「いえ、だから…レイちゃんがあんな事になっても、全く動じていないというか、仕事っぷりは全然変わらないし」

 ああ? と眉を顰めて怖ろしげな顔を突きだした香取に、杉は仰け反ってしまった。

「動揺してるに決ってんじゃねえか。…正直、今回ばかりは応えたよ」と、香取は自分の胸に拳骨を押しあてた。「代われるものなら代わりてえよ。…でもな、こればっかりはどうする事も出来ねえんだ。俺達は俺達でこれまで以上に頑張るしかねえじゃねえか」
「そう、ですよね」
「なんだ、杉君よ。おめえらしくないな。…長門か?」
「……いえ」
「顔に書いてるよ。具合は良くねえのか?」
「いえ。身体の方はもう回復したって聞いてるんですが…ただ」
「…そうか。でも、良かったじゃねえか。あの状況であの程度の怪我で済んだんだからな。あいつの代わりに衝撃波をモロに喰らったプジョーはオシャカになっちまったが、まあ奇跡だな。そういった意味では、長門もまだまだ生きてやんなきゃならねえ事があんだよ」
「……そうかもしれない」
「それで? いまは自宅で静養中ってか?」
「いえ。お姉さんのところ、らしいです」
「お姉さんって、いつぞやのあの別嬪さん、かい?」
「ええ。そこが実家らしいんで、…そこで、長門は長門なりに、必死にアイツの中の地獄と闘ってると思います」




 あ。チャイムが鳴った。誰か来たんだ。出なくちゃ、とは思えど遊離した意識ではお尻は直ぐには上がらない。廊下のフローリングを小気味良くパタパタとスリッパが踏みならす音が聞こえ、解錠らしき音に何やらゴソゴソと正体の見えない音を締め括るように、有難うございました、という声がやたら明瞭に耳に飛び込んできた。ふたたび意識を戻した手には、いつから握られていたのだろうか、大きな大きなバスタオルが折り目正しく畳まれるのをレジャーシートのように待っていた。その向こうには、乾燥機から上がった洗濯物が牧草のように積まれている。あたし……洗濯物を畳んでたんだ。何やってんだろう? 早いとこやっちゃわないと。日が暮れ――。
 ミキぃ、と少し間延びした声が半開きのドアの向こうから聞こえた。

「あ、はあい」

「お洗濯物畳み終わったら…と、まだしばらくかかりそうね。まあ、ゆっくりやって。それで終わったら、お風呂に入っちゃって。あたしは晩ごはんの準備に取り掛かるから」トビラの隙間からぬっと首を出したマキは下拵えをしていたのだろう、若草色のエプロン姿だ。どこかの新妻のように見えなくもない。
「うん、おねえちゃん…ごめん。もたもたして」
「いいのよ。お洗濯ものだもの、腐らないわ。ところで、今晩のメニューはイベリコ豚にマルタミコよ。お肉は霜降りだから塩コショウでプランチャでいいよね。生ハム削いでワインも飲んじゃおか?」

 子供のように笑顔を輝かしたミキだが、幾ばくかの不安も……。

「おねえちゃんの調理だよね…あたし、シンプルな味付けがイイナ。……マルタミコは恐いかも」
「…ちょっと、ミキ。あんた居候のくせして、しっつれいな事を言うわねー。ミサトと一緒にしないでよ。そりゃ、シンジ君とかと比べられると――」
「…………」
「…ま、ちゃっと片付けちゃって、一っ風呂浴びてゴハンにしましょ」
「…うん」

 さて下拵えの続き続き、とキッチンにパタパタと慌ただしく戻っていったマキから手許に意識を戻して作業に取り掛かる。……集中しなくちゃ。これ以上、心配かけられないもん。

「ああ、そうそう。それはそうと、ミキ」ふたたび慌ただしく戻ってきたマキは、ダンボール箱を胸に抱え、お尻でドアを開けて入ってきた。なぜか右手にはお玉を握って。「これ、あなたのマンションから転送されてきたわよ」

 はい、と渡されたダンボールに付いてる送り状は有名デパートのそれだった。

「あ」ミキの顔が、ぱっと輝いた。「これ、あたしが頼んでた」

 え、なになに? と横から興味深げにミキの手元を覗きこんだマキの目に飛び出てきたのは、ひとまわり小さな『ハロッズ』のマークの入った化粧箱。そこから宝物を掬いあげるようにミキが持ちあげたのは、一頭のテディベアだった。

「くま…の、ぬいぐるみ?」
「クリスマスベア。あたし、ずっと欲しかったの。すっごくカワイイんだもん。……そおだった、あたし注文したんだった」
「ミキは確かに昔っからクマが好きだったわよねぇ……」

 クマじゃなくてテディベア、ハロッズのが顔がかわいいの、と言ってマフラーを巻いたクリスマスベアをギュッと抱きしめたミキを横目に、そおいや以前ヒースロー空港でもやれ買ってこいとか騒がしかったわね…と独りごちるマキ。内心は紅茶――フォートナム&メイソンのアールグレイ・クラシックあたりと思ってただけにガッカリなのだ。

「はい。それじゃあ、クマも無事に我が家に着いたことだし、ちゃっちゃとお風呂に入っ――」テディベアを抱きしめたまま、ミキはいつしかその細い肩を震わせていた。「――ミ、ミキ。どうしたの!?」
「…………」
「……ミキ」

 後ろから両肩を抱くように覗き込んだミキの頬にぽろぽろと流れる涙を見てとり、マキはその表情を哀しげに歪めた。

「……おねえ…ちゃん」
「…思い出しちゃった? なんでも話していいよ、ミキ」
「……あの子ね…すごく大きなぬいぐるみを抱いてたの。パパかママにねだって買って貰ったんだと思うの。それを、ちっちゃな手で大切に抱いてて…それでね、あたしの身体の下でね…ずっとママ、ママって呼んでたの……なのに、あたし」
「……ミキ」
「あたし……気がついたら、握ってたはずのあの子の手を……離してたの」
「…………」
「…………あたしのこと信用して、あたしの手をキュッて握り返してくれたのに……あたし…」

 胸に穿った空洞を塞ぐようにひしとテディベアを抱きしめるミキ。降りしだく晩冬の風雪を耐える若芽が如く、声を忍ばせ肩を震わせている。この子はこんな泣き方をしただろうか。いつからこんな寂しい泣き方をするようになったのだろうか。かき抱いたミキの体は巣から落ちた雛のように頼りなげに震えていた。

「……ミキ、辛いよね。でも仕方がなかったの。あなただって、どうしようも無かったんだもの」
「…………」
「大切なのは、その子のことを忘れないことよ。そして生きるの。生きてあなたの役割を精一杯に果たして、幸せになるのよ。その子の心の何十分の一でもミキと一緒にいるんだって思って。それが、生き残った私達の責務なの」
「…うん」

 セカンドインパクトで両親を亡くして以来、妹のミキとは二人三脚でここまで来た。天真爛漫な明るさに少しボケたところがかわいい自慢の妹だ。ネルフに入ってから自立を名目に一人住まいを敢行した――最初、男でも出来たのかと思ったが、そうでは無かった――が、事ある毎に理由を付けては姉のマンションに帰ってくる、自分にとってはたった一人の可愛い妹だ。その妹には、自分の信じる道を進んでいってほしいと思う。諦めないで欲しいと思う。そして、幸せになって貰いたいと、心から思う。

「…ミキ、今日はお風呂、一緒に入ろうか?」
「…うん」




 午後11時を過ぎても本部の第七ケージからは職員が途絶えることは無かった。既定の準備作業を既に終えてはいたが、ポーション毎に技術局員と整備班員がペアを組んでの念を入れての点検は先が見えそうになかった。帯電防止サックの中で身を躍らせる工具とキーボードの打ち込まれる音だけが、ケージの其処彼処から聞こえている。
 そのケージを見下ろす作業通路に、綾波レイはいつものように立っていた。その変わらぬ瞳を真っ直ぐと初号機に向けて。

(……)
(…………)
(…………碇くん)

 少女は目を閉じていた。ときおりレイに視線を送る職員達には、少女が祈りを捧げる所作に見えたかもしれない。だが、今レイはその意識を初号機の隅々にまで這わせているのだ。河原に落ちている石をひとつひとつ素手で拾い上げるように。俄かにケージを吹きあがった気流がレイの制服のスカートの裾を巻き上げ、その髪を撫でていく。

(………碇くんの感じ)
(……………)
(…分からない)
(………)
(………)
(……分からなくなってしまった)
(………………)
(……無くなってしまった)

 シンジが近くにいるときにレイがいつも感じるあの感覚――安心を寄せ集め、袋詰めしたような――は、少なくとも昨日のある時間までは初号機に感じることが出来ていた。それが、昨日の夕方、突如として消失してしまった。いつのまにか引いた潮が干潟だけを置き去りにするように、水平線に沈んだ太陽が忽ちのうちに遍く世界を群青に変えるように。それは消失してしまった。それを証明するかのように、彷徨うように流れる風だけがケージの中を廻っていた。

「レイちゃん、今日は自宅に戻りそうにないですね」
「そうかもしれんな」

 門番然とした二人のガードが見守る中、ケージでは疲れを露とも感じさせない職員達が動きまわっている。静かに、そして火花のようなプロフェッショナルとしての意地を迸らせて。ひとりひとりの想いを孕みながら、第七ケージはその日付を変えようとしていた。




 ――全探査針、打ち込み終了
 ――電磁波形、ゼロマイナス3で固定されています

 準備終了のアナウンスが流れると、ガラスに亀裂が走ったような緊張感が管制室を駆け抜けた。ズンと重みを増した空気に耐えられなくなったマヤが、堰を切ったようにその指をキーボード上に躍らせ、まるで機械のように一気にコマンドを打ち込んだ。エンターキーを叩き据えた音はいつもより高かった。

「自我境界パルス、接続完了」
「了解。サルベージ、スタート!」

 サルベージ計画を高らかに宣言したリツコの声に、管制室の空気は更に引き締まりをみせた。

「了解。第一信号を送ります」
「エヴァ、信号を受信。拒絶反応無し」
「続けて、第二、第三信号、送信開始」
「対象カテクシス、異常無し」
「デストルド、認められません」
「了解。対象をステージ2へ移行」

 シンジを呼んだミサトの声が、オペレーションの間隙を縫い職員達の耳朶を打つ。およそミサトらしくない切迫さを湛えた声にマヤは顔を歪ませた。このひと月間というもの、ミサトは作戦局一課の課長としては機能不全といっていい状態が散見されたように思う。客観的に見てとれる動揺もその立場にはそぐわないものだったかもしれない。そして、そんなミサトへの批判もちらほらと耳にする事もあった。それでも、これまでの歴史を多少なりとも分かち合ってきた自分は、その少年との特別な関わり合いを持つミサトを横合いから非難する気にはなれなかった。自分自身とて、碇シンジというパイロットのサルベージ計画の中で、与えられた技術局員としての仕事を粛々と実践……など出来る筈も無いのだ。満身創痍で闘い続ける少年少女達の姿を見るにつけ、心を崩しそうになる自分がいる。胸が痛くて、何でもないコマンドを前に、指が動かないことだってあるのだ。だからこそ、今の自分に出来ること――自分のパートのプロセスひとつひとつに魂を籠めるのだ。少なくとも今このサルベージ計画に携わっている職員たちは皆、全身全霊を捧げて取り組んでいるのだ――。

「駄目です。自我境界がループ状に固定されています!」
「全波形域を全方位で照射してみて!」

 指示を放つ傍ら、キーボードの上に指を走らせ新たなコマンドを打ち込んだリツコ。瞬時に反映された結果に釈然としない表情を浮かべた。

「駄目だわ……発信信号がクライン空間に捕らわれているわ」
「…どういう事?」
「つまり…失敗」

 絶句したミサトの声を掻き消すように警告音が管制室に差し込んだ。

「干渉中止! タンジェントグラフを逆転。加算数値をゼロに戻して」
「Qエリアにデストルド反応! パターンセピア!」
「コアパルスにも変化が見られます! プラス0.3を確認!」
「現状維持を最優先! 逆流を防いで!」
「はい!」キーボード上に激しく指を走らせるマヤの顔が、期待に反する数値の進捗に歪みだす。「…プラス0.5…0.8…変です! 堰き止められません!」
「…これは…何故?」まるで血の池地獄のように真っ赤に湧いたエントリープラグを映し出したモニターを仰ぎ見たリツコ。「…帰りたく、ないの? シンジ君……」
「エヴァ、信号を拒絶!」
「LCLの自己フォーメーションが分解していきます!」
「プラグ内、圧力上昇!」
「現作業中止! 電源落として!」
「駄目です! プラグがエクジットされます!」

 管制室、そしてケージで持ち場につく全ての職員が見守る中、イジェクトされたプラグから吐き出された見たこともないような色彩を帯びたLCLに、そこにいた全員が取り返しのつかない結果を迎えた現実を意識下に悟った。アラートだけが空回りする管制室の空気を破ったのは、弾かれたように飛び出したミサトだった。


 サルベージ計画自体を嘲笑うように開いたエントリープラグの口蓋から吐き出されたLCLとシンジの衣類を眼下に見据え、レイは手摺を強く握り締めていた。

(……碇くん)
(……帰りたくないの?)
(……戻ってきたくはない、の?)
(……………)

 ………もう会えない――。

 胸の中に攪拌した言葉が、酸のように幼いレイの心を犯した。……痛い。胸が痛い。



(……碇くん)

 手摺を握りしめた左手で身体を支え、右の掌を小さな胸に穿った風穴を塞ぐように添え、レイは、それでもシンジがそう望むのであれば、と思った。
 シンジにとってあまりに辛いことの多いこの世界に帰りたくないのであれば、帰らない事がシンジにとって永遠の安らぎになるのであれば――レイは必死にそう考えた。
 白さの際立つ顔を苦しげに歪め、奈落の底で押し潰されそうな心の痛みにひたすら耐えつつも、レイは理性に自らの誓いを重ねて、その苦しみをやり過そうとした。だが、胸の奥底から止めどなく流れ出す感情に、レイは撒かれたように散らばったLCLと衣類に、縋るような目を向けていた。

     ?

 眼下では、シンジのシャツを我が子のように抱きしめたミサトが肩を震わせている。

     !?

(…………違…う?)
(……碇くんが…いない)
(……あそこには…いない)

 レイの視界の中で、剥き出しになった初号機のコアがぼおっと浮かび上がったような気がした。

(………まさか)
(……もしかして……まさか)
(……だとすれば…いけない……)
(……そこにいては……………碇くん)

「……今なら、まだ間に合うかもしれない」

 瞑目したレイは、まるで祈るように手を組み、やおら天を仰いだ。次の瞬間、ケージからあらゆる光は抜け落ち、ケージの中を木霊していた警報音は時空の狭間に吸い込まれたように消失した。漆黒が降り立ったケージの中では、初号機のコアとその双眸だけが奇怪な光を纏いその形を朧に浮かびあげていた。



(……碇くん)
(……そこにいてはいけないの)
(……そこにいるべきではないの)

(…………)



(…………)





(…………)

……ダレダ……


(…わたしはアナタ)

……ソウダ、オマエハワタシ……


(アナタはわたし)

……ワタシハ、オマエ……


(昔、わたしだったもの)

……ムカシ、オマエダッタ……


(碇くんは、そこにいてはいけない)

……コイツガ、ノゾンダノダ……


(違うわ。彼女はふたたび眠りについた)

……コバンダノモ、コイツダ……


(嘘。虚ろなアナタは偽りの幻影で碇くんを絡め取った)

………………


(戻して。碇くんは、そこにいてはいけないの)

……ワタシハ、ムカシ、オマエダッタモノ……


(…そう、アナタは昔、わたしだった)

……ナラバ、ナゼジャマヲスル?……


(今は違う。アナタはわたしではないもの)

……ドウギナノダゾ。ワタシトヒトツニナルコトハ、オマエト……


(……それは…違うわ)

………………


(…すぐに彼を解放して)

……モウ、オソイ……


 ――!


 光を鱗粉のように霧散させながら黒く沈んでいく初号機のコア。その下ではシンジのシャツに顔を埋めた化石のようなミサトがいた。ざわめき立つケージの様相がさざ波のようにレイの意識に割り込んだとき、既に初号機の双眸からは灯は消え失せ、作業通路から見下ろすレイからは太古に打ち捨てられた石像のようにも見えた。

















「……ダメ」

 眼下の巨人を射抜いていた紅に深い彩が走る。





「……返して」























「…碇くんを、わたしに返して」



 突如、ケージの中は強大なエネルギーが吹き上がるような大音響で埋められた。初号機の双眸が灯り、擡げた頸部に保定されていたエントリープラグの軋む音が悲鳴のようにケージに激しく反響した。雷に打たれたように身を捩らせた初号機に、ケージにいる職員たちは度胆を抜かれた。

「エ、エヴァ初号機、起動!!」
「ええっ!?」
「あ、有り得ない!」

 そこにいる全員の目が手繰り寄せられるようにエントリープラグへと集中した。口蓋をあんぐり開き、縁から涎のようにLCLを垂れ流すその中には、何人の存在をも確認はできない。初号機が身を震わせるたびに激しく揺れるアンビリカルブリッジの上で、ミサトは異様な光彩を放つコアにただ目を奪われていた。

「……一体、何がどうなっているのだ」冬月が視線を向けた先では、モニターの前で瞠目したまま顔を強張らせるリツコの下で、マヤが激しくキーボードを叩いている。
「…S2機関も沈黙しています……そんな…何の接続も無いのに」
「……まさか」
「暴走!?」
「いかん!」弾かれたように冬月がケージに通じる場内マイクに飛びついた。「総員。退避、退避だ!」

 ケージ内に響いた冬月の怒号に、釘で打ち据えられた標本のように凝固していた職員達は一様に体を震わせ蟻の子を散らしたように退避行動に移った。それでも一部の職員たちは持ち場を離れようとはしなかった。その中の一人、元メカニックの男はケージの中を行き場を求めて吹き荒れる暴風の中、持ち場の制御盤にしがみ付き、狂ったように振れるゲージを必死の形相で読み取っている。その下方では、シンジの衣類を飛ばされないように固く抱いたミサトが様々な色を滲ませるコアにその意識を囚われていた。
 今、ケージを見下ろす作業通路の踊り場で、レイは祈るように胸の前で手を組んでいる。

(……お願い……)
(……もう一度、目を覚まして……そして……)
(……碇くんを、助けて……)
(……碇くんを……導いて……)



(………わたしの元に)



「香取さん! いったい何が起こってるんですか!?」
「解らんよ、俺にゃあ! まったく、世の中解らんことだらけだよ!」

 断続的に襲いくる激しい震動が二人のいる通路を波立たせた。そのたびに手摺にしがみ付いて暴れる身体を落ち着かせる。まかり間違って転落でもすれば怪我では済まない。

「と、とにかく」バランスを崩し、たたらを踏んだ杉。「レイちゃんを保護して、我々も退却しましょう! 香取さん!」
「ダメだ! 俺たちゃ……影だ」
「な何をっ!? そんな悠長なことをっ!?」

 それに…と照準を定めたような香取の視線の後を追った杉は、レイの姿を捉えた目を瞬かせた。なんだ? …彼女の周りだけが揺れていないような。
 レイだけが違う次元の画像を重ねているように、淡い光に包まれていた。杉が目を擦った瞬間、地球の裂け目から噴き上がる爆音のような初号機の咆哮がケージの中を吹き荒れた。
 耳朶を突きぬける大音響に堪らず頭を抱えこんだ。次に来るであろう圧倒的な衝撃に、竦む身体を杉は殆ど条件反射的に蹲らせた。その狭隘な視界の中で、吠えるような叫び声をあげレイに向かって駆けだした香取の影が大きく揺れた。何もかもをも瞬時に飲みこんだハリケーンに等しき咆哮。天地に爪を立て、引き裂くような反響があらゆる生体の魂を揺るがしたそれは、すべてを手に掛け蹂躙するかに思われた。しかし次の瞬間、落とされたブレーカーに命の脈動を途絶えられたように、突如そのトーンを低くした。そして捩れるように急速に萎むと、やがて地底に吸い込まれるように消失した。
 音を忘れたような静けさだけが残ったケージに、ささやかな水音が響いた。やけに小さく感じたその音に、ミサトの叫び声が続いた。じわっと頭を持ち上げた杉が、手摺の隙間から覗いた先のアンビリカルブリッジに、全裸の少年を抱きしめるミサトがいた。

「……シンジ君のサルベージ……成功、したんだ」

 錯綜した頭を整理し切れないまま、思いだしたように笑顔を香取に向けていた。だが、片膝を通路に打ち据えた姿勢のまま、香取は幾多の感情を綯い交ぜにした視線をレイにただ留めていた。
 蒼銀の髪の少女は、跪くような体勢で浅くなった息を整えるように、肩を小さく震わせていた。

(……よかった、碇くん)











………ありがとう。














 切り抜かれたような青空が午後の陽射しを柔かいものにしている。先の第14使徒の攻撃によりジオフロントの最新の採光システムは半数程度その機能を失ってはいたが、天井都市に穿った巨大な穴が手助けとなり、ジオフロントには初夏を匂わせる穏やかな陽光と爽やかな風がなびいていた。
 その中心地にあるネルフ中央病院第一脳神経外科病棟の一室。こんこんと眠り続けるシンジの病室の側面に大きく取られた窓には、春の妖精のような陽射しが集っている。空調音だけが巡回する空間に、ときおり頁を繰る音が思い出したように混じった。
 少年は眠る。総ての時間を取り戻すように。ベッドの脇で少年の目覚めを待つ少女は、ときおり少年の顔を覗きこんでは額に浮いた汗をハンカチで押さえ、その口から洩れる寝言に耳を澄ませた。穏やかに少年は眠り続ける。忘れえぬ時間を取り戻すように。少女は頁を繰るとき、一度少年の顔に淡い紅の視線を落とす。幾度、幾十回繰り返されたか知れない少女の所作には、その瞬間にだけ垣間見ることのできる優しげな表情が添えられた。少年の穏やかな寝顔にしばらく眸を留めた後、ふたたび手許の本に視線を戻すのだ。深く広大な川はどこまでも穏やかに流れていく。
 窓に映える陽射しの明るさが体を屈めるように沈着し始めたとき、少年の呼気に変化が訪れた。少女の膝の上には既に閉じられた文庫本。その淡い紅色の眸が見守る中、やおら瞼を開いた少年は、暫く天井に虚ろな視線を留めた後、いまだ覚めやらぬ眸を少女へと向けた。

「……あや…なみ?」
「碇…くん」

 森閑とした室内に膨らみを見せはじめた鳥のさえずり。午睡から目覚めたての子供のように、シンジはレイを見つめ、レイはそれを受け止めた。

「……綾波」
「……何?」
「長い…とても長い夢を見てたような気が…するんだ」
「…どんな?」
「…綾波がさ…ずっと傍にいてくれてさ」
「…………」
「一緒にさ、ごはんを作ったり…散歩に行ったり、買い物に行ったりしてさ…」
「…………」
「…普通の生活なんだ……一緒に暮らしていたんだ」
「……そう」
「綾波がこうして、ずっと傍にいてくれたからかな……」
「…………」
「でも、或る日おかしなことが起こったんだ、……そんな生活は長くは続かなかったんだ」
「…………」
「……買い物から戻ってきた僕を待ってたのは、綾波じゃなくて見たこともない化け物だったんだ」
「…………」
「…そいつがさ、僕に向かって言うんだよ……一つにならないかって……必死に抵抗する僕に向かって…」
「…碇くん」
「……怖かった…僕に向かってさ、言うんだよ……わたしと一つになることは綾波と一つになるのと、同じだって…」

 怖かった、と両手で頭を押さえて顔を歪めるシンジに、レイはそっと体を寄せた。レイの甘い匂いが、雲の狭間から降り立つ春の陽だまりのようにシンジを包みこんだ。

「…碇くん。それはわたしでは、無いわ…わたしはここにいるもの」
「…そう、そうだよね。綾波の筈ないよね…綾波の筈がないんだ」
「碇くんは、ずっとエヴァの中にいたの」
「エヴァの?」
「そう、初号機の中に」

 ……そうだ、途轍もない使徒が現れて、皆やられて……僕は、僕はもういちど初号機に乗ったんだ…そして……。目を見開いたシンジは、こめかみを両手で押さえ頭痛に耐えるように顔を歪めた。

「碇くんは、その戦いで初号機に溶けこんでしまったの…一か月もの間」
「…一か月…じゃあ…それじゃ、あの夢は…綾波といたあの世界は」
「そう、擬制の世界。エヴァの中の囲われた世界」
「…でも、全てが穏やかだった。怖いものもなくて、嫌なことや辛いことが無くて……綾波が傍にいてくれて、そして」この匂いに包まれていたんだ。
「…碇くんは、帰ってきて良かったの?」
「ずっといたいと思ってた。けど偽物だったんだ……あの世界も、そこにいた綾波も……穏やかな日常だったけど、引き換えにそんな得体の知れないものと一つになるなんて、嫌だった」
「…………」
「それで…逃げだしたんだ。でも、逃げても逃げても足が進まなくて……後ろからは、そいつの気配だけがどこまでも追いかけてきて……僕は、浜辺のようなところで、とうとう動けなくなってしまったんだ。だけど…目の前に現れた強い光に導かれて海の中に」
「…………」
「…あれは、たぶん母さんが導いてくれたんだと思う。そう、記憶にある母さんと同じ温かさだったんだ」
「……そう」

 シンジはゆっくりと上半身を起こすと、微笑をレイに向けた。その瞳に湛えたスカーレットは淡く揺れているように思えた。

「……綾波がいてくれたから帰ってこれたんだと思う。そう、綾波の呼ぶ声が聞こえたんだ。あの世界を飛び出して、いなくなった綾波を必死になって探しているときに、綾波の声が聞こえたんだ」
「…………」
「……ありがとう…綾波」
「…わたしは、何もしてないわ」
「いいんだ……僕は、もう一度綾波と会いたいって思ったんだ。だから、帰ってくることが出来て、本当に良かったんだ」
「…わたしも碇くんの顔をもう一度見たいと思った。帰ってきてくれて…良かった」

 自分へと真っ直ぐに向けられた視線に顔が熱くなってきた。シンジは堪らずその顔をシーツへと俯かせた。

「で、でもさ。あの世界にいた綾波だけど、とてもリアルだったんだ。話し方とかもそうだけど、一緒にいるときの感じとか…」そうだ、この感じまでが。「…同じだったんだ」

 それには応えず静かに腰をあげたレイは、脇のワゴンの引出しから昼食のトレーを取りだした。

「碇くん、食事。少しでも食べた方がいいと思う」
「あ、うん。そだね」

 かいがいしくベッドにテーブル台をセットするレイの姿を視界に留めていると、生きて帰ってきたという実感がふつふつと湧いてきた。父から手紙を受け取り、それまでの生活の何もかも投げだすようにしてここ第3新東京市に辿り着いたあの日。一縷の希望さえ裏切られ、何を今更と拒絶の言葉を叩きつけるつもりが、居場所を失う恐怖から命令されるままにエヴァンゲリオンに乗ってきた。それは自分自身にとって意味のあることではなく、人類の存続をかけた闘いという大義など、実感の湧く筈も無かったのだ。居場所と交換条件としてもたらされた恐怖、なにより父より不要だと宣告される恐怖と対峙する毎日。それが、ひとりの少女との出会いによって何もかもが変わった。そして、いつしかその少女との未来を描いている自分に気付いたとき、シンジは今の闘いの意味を知った。守りたい。どんなことがあっても守りたい。自分の命に代えても守りたい。そして、その先に朧に見える少女と共に歩む未来。それは、こんな何気ない日常で埋められた日々なのかも知れない――。
 碇くん、と控えめに呼ばれた声に吊られて顔をあげたシンジ。簡易テーブルにはランチョンマットのように敷かれた純白のナプキンにコンビネーションプレートが置かれている。煮物に卵焼き、そしてリゾットが盛られた軽めのコンビネーションで、これなら食べれ――ここで思考が止まった。シンジの前でやおらスプーンを持ち上げたレイは、しばしそのプレートとにらめっこをすると、やおらリゾットを掬ってシンジの口もとにへとスプーンを近づけた。

「はい、碇くん」
「あ…あ、綾波ぃ」

 ちょっとした小爆発を起こした位に顔は赤くなったろう。レイの体はいまやシンジに触れ合うほどに密着していた。乳白色に染められた頭の中で、何かがガンガン鳴っている。シンジは心の中で自らに水をぶっかけ、冷静に現況を理解しようとした。

(……こ、これ、これって)
(……た、食べさせてくれようとしてるの? ……で、でも)
(……どうしたんだろ? だ誰かに何か言われたのかな?)
(……リツコさんとかに、手伝ってあげなさい、とか言われたのかなあ……)
(……う嬉しい…けど、恥ずかしいような)
(……で、でも、そうだ。監視カメラもあるはずなんだ)
(……どうしよう……でも……綾波……)
(……何だか、あの世界での生活の続きのようだ……綾波……)

「……碇くん??」

 スプーンを持つレイの頬は薄っすら染まっている。呆けた表情で自分の顔を凝視するシンジに、小首を傾げる仕草で応えたレイに、シンジの理性はあえなく決壊レベルに到達した。アーンとまではいわないまでも、だらしなく口を開けたシンジにホッとしたように顔を綻ばせたレイ。その瞬間シンジは全てを悟った。どれほど少女が自分に心を配っていてくれたかを。胸の中を駆けあがってきたのは限りなく感激に近いもの。こんな自分がこれほどまでに想われていた。月明かりのしな垂れかかる漆黒の夜に少女の口から紡がれた言葉が浮かんでは、シンジのなかに浸透していった。陽だまりのような穏やかさが胸の中にフワッと広がりを見せたとき、リゾットの味付けだけでは無いしょっぱさが混じり始めた。

「…碇くん? 食べ辛い?」
「…………」
「……碇、くん?」

 どれだけ感激しただなんて言える筈もない。どれほどこの少女を求めていたかなんて。そうだ、自分は求めていたのだ。ずっとずっと、この少女を。頼りなげにスプーンを宙に漂わせ、心配そうに、それでもまっすぐ自分に淡い視線を注ぎ続けるこの少女を、求めてやまないのだ。

「…い、いや、ごめん。有難う、綾波。でも、やっぱり照れくさいからさ…自分で食べるよ。この通り身体も…もういいんだ」
「……そう」
「だ、だからさ。食事が終わったらさ…少し散歩できないかな? 久しぶりに、外を歩いてみたいんだ」
「…うん」

 とろけそうに優しげな表情を浮かべたレイ。ふわりと風に浚われそうな笑顔から、シンジはいつまでも目を離すことが出来なかった。




 外界は穏やかな午後の風に満ちていた。薄暮にはまだ遠い陽射しは、オブラートに包まれたような淡さを地表にちりばめている。一歩一歩確かめるように足を進めるシンジに、寄り添うように歩を合わせるレイ。撫でるように大地をわたる風が心地よい。それが、ジオフロントでは滅多に見られない穏やかな午後を作りあげているのだ。
 二人は風に乗ってやってきた水音に誘われ、いつしか普段は目に付くことのない小径へと歩を進めていった。懐かしむように土の道を噛みしめるふたりの前に現れたのは、煉瓦とテラッコッタが敷かれたヨーロッパ風の庭園だった。噴水から流れ落ちた清水が、縦横に延ばされた小川を通って池に流れこんでいる。きれいに整備された芝と幾つものプランターから背を伸ばしたコニファーが、眩い緑を添えていた。そんな造形に、ふたりは暫し時間を忘れ目を奪われていた。

「……きれい。本部にもこんな所があったのね」

 ここ第3新東京市で出会ってから、幾つかの死線をふたりで乗り越え、そして少女はいつも傍にいてくれた。次第に互いの距離を縮めるその中で、僅かながら自我を見せはじめた少女は、目の前に広がる美しい光景を受け入れるまでに心を育んできたのだ。素直に今を言葉に表すレイを、シンジは心から嬉しいと思った。

「……碇くんの手」
「え?」
「初めて触れた時は、何も感じなかった」

 シンジの中で広がりを見せたシーンは、忘れえぬもの。ベッドから投げ出されたレイを抱き上げたとき、訳もなく抱きしめたい衝動に駆られたのはどうしてなのだろう。掌についた血を見た瞬間、胸の奥から溢れだした声は何だったんだろう。陽炎立つ路上に見た少女の幻影。その影は、愕きの表情を隠そうとはしなかった、まるで巡り合った自分に何かを見出したかのように。

「……2度目は、少し気持ち悪かった」

 ……あれは、あれは――手にいまだ残るその感触は、マシュマロのような、いやもっと木目細かで柔かな、それでいて――あ綾波ぃ…事故だったんだよぉ。

「……3度目は、暖かかった。スーツを通して碇くんの体温が伝わってきた」

 シンジの中に広がったのは、天空を埋め尽くすまでに星が散りばめられた宵の空。自分には何も無いと語った少女が、シンジに誓った言葉。自らを盾として初号機を守り切った零号機が倒れ臥したときの天地を裂くほどの悔恨。熱に爛れるハッチを開け放ち、その中にレイの姿を見出したとき、シンジの中で芽を出した何か。ふたりで歩いていこう、いっしょに生きよう――シンジにとっての新たな誓いと共にそれは歴史を刻み始めた。

「……4度目は、嬉しかった。私を心配してくれる碇くんの手が」

 小さな子供のように、レイは手を水路から池に流れこむ清流に浸した。そのたおやかな背中に視線を留めながら、記憶の引出しを宝箱のように開いたシンジの中に、堰を切って流れこんできた幾多の思い出。そして想い。鮮明に蘇ってきたのは、握った少女の白い腕の頼りなさに、柔かさだった。……傷ついて欲しくない。どんなに小さな傷さえつけたくはない。

(だから、守っていくんだ。これからは……)

「……もう…一度、触れてもいい?」

(僕が……君を……)

「いいよ」

(そして、いつか……君と)

 陽射しがわたぼうしのように降りたった。
 どちらからとも無しに伸ばされたふたりの手は、
 惹きあうように、やがてその距離をゼロにした。
 彷徨いし時間を超越し、溶け合うまでの感覚に、
 ふたりはその手をいつまでも離せないでいた。







……気が付くと、いつも君は僕の傍にいてくれて……
……でも、どうしてだろう?……
……君は、本当はここには居ない……
……そんな、気がする時があるんだ……
……でも、こうしていれば……
……いつだって、一緒にこうしていれば……








「……綾波」
「…いかり、くん?」
「また来ようよ、ここに。…綾波と一緒に来たいんだ」
「……うん」

 染まった頬をコクリと俯かせたレイに、穏やかな笑顔をシンジは投げかけた。
 次にここに来るときは、僕たちの距離はどうなっているんだろう?
 いや、…これでいいんだ。
 いまは一緒にいられるだけでいい。
 これ以上、何を望むものがあるんだ。

 シンジはこれで十分だと思った。














 碇シンジは、十分に満たされていたのだ。



















 夕間暮れの太陽が、第3新東京市に林立する高層ビル街の陰影を色濃く変えた。この時間、カラスのうら寂しい鳴き声を合図にオフィスビルは従業員を吐き出し、業務用の車両はビル街から煙のように姿を消し、街は慌てて帰り支度をするようにやがて襲いくる闇夜への準備を整えていった。
 徐々に沈黙が支配したビル街の目を覚ましたのは、ウェーバーの吸気音だった。そして大地から湧き立つような排気音が続いた。次の瞬間、白のロータス・エランS4スプリントが曲がり角からボディを躍らせるように姿を現し、そのビルの裏手にある駐車場に車体を滑り込ませた。停止する瞬間までライトウェイトスポーツカーであることを誇示するかのような躍動感を見せていた白く小さな筐体は、ひと際大きな咆哮を世界中に響かせるとその動きを止めた。運転席の男は、幾つかの計器を確認した後、コンポからくすんだCDをイジェクトさせ、まるで天を仰ぐように目の前に聳えるビルの遥か上方に目を凝らした。ややあって、いつもの穏やかな笑みをステアリングに戻すと、イグニッションから抜いたキーを助手席に置かれた傷だらけのCDケースの上に落とした。車から降りると夕日が良く見えた。入日影が汗を滲ませたようなクリーム色のフェンダーを労わるように掌で撫でると、ロータスが体を奮わせて応えたような気がした。大事にして貰え、と呟くと、男はビルの入口へと足を向けた。 









Episode 20.02
伝えたい / someday
Written by calu






 噛みつくような排気音に続いて、スキール音がビル街の狭間に激しく反響した。大きくバランスを崩しながらコーナーを駆け抜けてきたBMW−X5は、殆どスピンするようにテールを滑らせ駐車場にその巨躯をダイブさせた。間隙を開けず運転席から飛び出した男は、ビルの入口近くに停められたロータスへと一直線に駆けだしボンネットに手を添えた。まだ冷めやらぬ熱を確認すると罵りの声をあげ、一直線にその足をエントランスへと向けた。懐から抜かれたグロックの弾倉にフル装填された9ミリパラベラム弾を確認し、エントランスに続く階段を駆けあがった男の目前で割れるエアロックドア。そして、風防室を遮る二つ目のドアが開放された先に立っていた予期せぬ男の姿に目を瞠った。

「若竹、か!?」
「楠三佐。残念ですが、ここから先にお進み頂くことは出来ません」
「何? 何を言って……二課には関係の無い事だ。道を開けてください」
「三佐…残念です。ですが、手遅れでした……私も彼のあとを追って来たのですが」
「……」楠は右手のグロックを目のまえに立ちはだかる痩身長躯の男へと出鱈目に持ちあげた。「後生だ。道を開けてくれ……若竹三佐」
「既に中層より上は、連中に占拠されていました…どうすることも出来ませんでした」
「…………」
「あの連中に対しては、あなたや私は手を出せない。立場上、我々の行動はネルフの意志そのものであると看做されます。どんな口実に繋げられるか解らない…連中のもう一つの罠です」
「……何てことだ」
「彼は、初めから決めていたんだと思います……ここが終着点だと」
「……何てことだ」
「…………」
「……何て……くそう…くそ」

 魂が抜け落ちたように、がっくり折った上半身を、両ひざについた手で楠は辛うじて支えた。ひとまわり小さく畳まれた体から漏れ出した、罵りとも自責とも判別のつかない呟きは、エントランスの天井の見えない吹き抜けに吸い込まれていった。




 緋に染め抜かれた世界だ。迫る藍青の世界に追い立てられ、今が姿を隠そうとする刹那に輝く色だ。世界が燃えている。世俗に塗れた一日を浄化する炎が全てを焼き尽くしている。それは明日を迎えるひとつの儀式なのだ。世界が、大地が燃えている。

(八年前のあの日から)

 息をひそめるように緩慢な回転を続ける巨大なファンが、落日の光を遮っては壁面に赤い剣を突き立てていた。

(おまえの背中を追いかけてきた)

 おもちゃの積木が適当に組まれたような壁面には、赤のペンキで描かれたような様々な紋様や陰影が浮かんでは消えていった。

(……そして、やっとおまえに追いついたんだ)

 コトリという音が別世界から届けられたメッセージのように加持の耳に届いた。少し視線をずらしたところに、その人物はいた。決して唐突に現れたわけではない。加持は確信を以ってその人物を迎えたのだ。己が人生を賭した役割と望みを果たした今、何もかもをも清算し、そして解放を授けにきた使者なのだ。待ち焦がれたその微笑に、精一杯の親愛を籠めて、加持リョウジはその人物に向き直った。

「……ヨオ、遅かったじゃないか」



(……俺は行くよ……おまえを追い越して……)



 加持の前で、すべてが朱に埋め尽くされた空間は、うららかなウンターデンリンデンの並木道であり、アーヘンの電飾で埋め尽くされたクリスマスマーケットだった。古びれたアパートで首を振る扇風機越しに開け放たれた窓の向こうでは、モーゼルに抱かれた黄金に燃える葡萄畑は、バーデン・バーデンの黒い森であり、ヴィルヘルムスハーフェンの黒い波は闇を砕いていた。







(……葛城)




(……俺は………俺は)















 ……………俺は。



The End



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