気が付くと、耳を塞ぐように自分の頭を抱えていた。
 ゴトンゴトンと身体を突き上げるように揺さぶる振動に、薄目を開いて辺りを見渡した。

 …また……ここだ。

 緋色の緞帳を張り巡らせたように暮れなずむ汽車の中、シンジは独りオリーブに染め抜かれたシートの上で身体を丸くしていた。
 無限軌道をひた走る汽車。追い越した警笛が後方へと飛ばされていく。
 小刻みに震える身体を、シンジはさらに深く丸くした。

 どこに……僕はどこに向かってるんだろう? ……こんなに苦しい思いをしてまで。

 そっと触れるように耳に届いた声に、弾かれたように身体を起こしたシンジは、忙しなくあたりを見渡した。朱に染めぬかれた車内に他の乗客はその影さえ見当たらない。

 あ、綾波…綾波は? 綾波はどこ!?

 親とはぐれた子供のように、シンジは必死に辺りを見回した。何度も何度も、何度も。
 この場所で、いつもシンジの話に耳を傾けてくれる。ときに母親のように優しく、厳しく諭してくれる。

 綾波ぃぃ!

 車中に虚しく響く自分の声に呻き声を重ね、暮色に膨らんだ車窓を背にして、ふたたび頭を抱え込んだシンジ。

 ……どうしてこんなに苦しい思いをしなければならないんだろう。

………くん


 ……どうしてこんな事になってしまったんだろう。

……り、くん


 ……僕は、ただ……みんなと、普通の……。

 ……碇くん


 ……ただ…みんなと一緒に………う、ううう…うう……。



 紅に染め抜かれた車内にシンジのレイを求める声が木霊する。綾波、戻って来てよ。僕の傍にいてよ。僕を一人にしないでよ。
 ふたたび擡げたシンジの暗い眸に飛び込んできた一人の少年。いつものジャージに身を包んだ鈴原トウジが、シンジの正面のシートに腰を落ち着かせていた。
 少し照れたような笑顔を滲ませた少年は、シンジに何かを語りかけている。必死に耳をそばだてるシンジ。それでも、まるで水の壁に阻まれているかのようにその少年のトーンを拾うことができない。
 少年はやがて納得したように両の手で膝を打つと、腰を上げ出口に足を向けた。

 ……トウジ、だめだよ。

 いつのまに停車していたのか、その車輌のドアはまるで血一色に染め抜かれた世界へとその口蓋を開いていた。

 ……そっちに行ったら……だめだよ。

 ドアの手前でもう一度シンジを振り返ると、少年はふと寂しげに目を伏せ口を開いた。

 ……なに言ってんだよ、トウジ。

 耳朶をついた言葉に大きく顔を歪ませるシンジ。

 ……そんなのダメだよ、トウジ! 行っちゃあダメだ!

 縛り上げられたように微動だにできない身体から噴きだす汗がシャツの下を流れ落ちる。見開いた瞳に映った黒い背中に、シンジは辛うじて自由を取り戻した右手を懸命に伸ばした。
 その向こうで少年ははにかんだ笑顔を絶やすこと無く、ドアから紅一色の世界へと足を踏み出し、そのシルエットを紅い霧に変えた。

























 うわああああああああああああーっ!

























 通路に響く自分の靴音が癇に障る。じっとりとシャツを蒸らす暑さに若竹は閉口した。
 初号機暴走の報を受け、野辺山から本部に飛ぶように戻るや、カートレインから吐き出されたアウディを駐車場に突っ込み、半ば小走りで執務室に向かっているのだから無理も無い。
 第13使徒との戦闘後にサードチルドレンが取った行動にネルフ内は依然として緊張下にあったが、有事プロセスへの移行途上にある保安諜報部を構成する一組織として、その進捗の確認が急務だった。そして、ガード班においては今後予想される展開への対策を急いでシミュレートする必要があり、中央病院に緊急入院させられたサードチルドレンに対しては、退院後の拘束を考えると、もう一方の作業班を動かさざるを得ない――。暗雲の中に浮き沈みつつあった意識が背後から急速に接近する気配に機械のように反応した。

「三佐。第一脳神経外科病棟にて、既に班員はフォーメーションについております」

 足音も立てずに若竹に肩を並べた痩身長躯の男は、一尉という身分ながら別働班班長という職責を持っていた。ネルフ本部の中でも組織・施設全体の警備を所轄する保安局とは異なり、非常事態が発生した場合などにおいては、特命の発令により警備作業を行うのが諜報二課別働班――通称、ニベツである。時に作戦工作活動を伴う事もあるが、班長以下全ての班員が黒服サングラスの強面・武闘派であり、一般職員から”泣く子も黙る”と揶揄される保安諜報部のイメージはこの一隊から由来しているという。
 若竹が小さく頷くと、男は表情を動かすことも無く、次の交差する通路に吸い込まれるように姿を消した。若竹が見据える先には執務室のドアが迫っている。流れるような動作でIDをスリットに通しながら、長門は怒り出すだろうな、と頭の隅で考えた。




 病室の入り口を埋めるように泰山の如く立ち塞がる大男には、流石のアスカも閉口した。
 初号機から強制的に排除させられたシンジは、LCLの圧縮濃度を限界近くまで引き上げられ、エントリープラグから引きずり出された時には殆ど虫の息だったという。そこからは、犯罪者よろしく保安局員の手により曳き回されるようにして中央病院のICUに放り込まれたと聞くに及んでは、いかにアスカと言えど平常心を保てなくなった。同じく第一脳神経外科で治療を受けていたレイの手を引きシンジの入院する病棟に駆けつけたのだ。ところが、その病室のドアは堅く閉ざされ、何度チャイムを押せどもうんともすんとも反応が無い。癇癪を起したアスカがドアをゲシゲシと蹴っていると、漸くレスラーのような黒服の大男が出てきたのだ――アスカにすると突然目の前に黒いカーテンを降ろされたように思えたほどだ。ところがこの男、サングラスの下の表情をぴくりとも揺らさず、全く取り合おうとしない。電池の切れかかったロボットのように、どなたにも入室いただけません、という言葉を繰り返すのみだった。

「ちょっと、あんた。アタシ達を誰だと思ってんのよ! 仲間の見舞いに来たって言ってんじゃないのよ!」
「今は、どなたにも入室いただけません」

 壁のような巨躯に阻まれて、病室内の様子を覗き見ることさえままならない。およそ10分もの黒い塗壁との不毛なやりとりには、流石のアスカも根負けした。こうなったら攻め方を変えるしかない。天から声を降らせてやるわ、と鼻息荒く踵を返したところで、控えるようにすぐ後ろに立っていたレイに愕いた。作戦行動外でその少女が積極的に行動を起こそうとしている事実以上に、その憔悴し切った様子にだ。無理も無い。使徒からの浸食を防ぐためとは言え、神経接続を解かないままに左腕を飛ばされたのだ。レイの身体が受けたダメージは実際に左腕を切断されたそれに等しい筈だった。いくらシンジのこととは言え、無理に引っ張って来たのは悪かったなという想いが、アスカの口をついて出た。

「……ファースト、大丈夫?」
「私の傷は、碇くんが受けた傷には遠く及ばない」

 少女からの絞られるような声に、え? と過ったプラチナブルーの影を追ったアスカ。その少女は一層深くしたその深紅の瞳で黒服の魁偉を睨み据えていた。
 時間にして十数秒、いや数秒のことだったかもしれない。傍目には為す術もなく佇んでいるようにも見える少女を前に、痙攣のように身体を細かく震わせ始めた大男は、これまでとは異なる様相を明確に顕わしていた。今、血よりも赤くなったレイの双眸に脳髄まで射抜かれた男は、およそ理解の及ばない本能的な恐怖に包まれていた――まるで圧倒的実力差のある猛獣に出くわした時のように。生存本能が男の脳内で激しい警告を撒き散らしている。心拍数は著しく上昇し、身体中の毛穴という毛穴から溢れだした脂汗に、男の顔面は液状化現象を起こした地表のような様相を醸し出していた。サングラスの下で見る見る醜悪に歪んでいく男の顔に、アスカはその肌を粟立てた。
 この有無をも言わせぬ迫力。喉笛にあてられた匕首が如き鋭利さ。この感じ。それは綾波レイが内に秘めたるもうひとつの資質、だった。嘗てその片鱗を心の襞で感じとり、全身を逆撫でされた記憶が甦る。久しく意識野に認知できずにいたことではあるが、これもファーストチルドレン。……それにしても、とアスカは粟立った自分の腕を抱くようにさすった。

「……そこを、どいて」

 やおら数歩踏み出したレイに、その巨躯は通電されたように大きく痙攣した。突如として現れた絶対的質量を有する陽炎が、激しい拒絶のエネルギーを迸らせながらその黒い体躯を圧迫している。とめどなく流れ落ちる脂汗の間隙に見開いた眼をさまよわせた男は、少女と自らを隔てた空間に何物も存在しないことを視認するや、怒涛のようなパニックの渦の中に陥った。喉の奥から悲鳴にならない悲鳴がせり上がる。呼応するように動いた不可視の質量により男の巨体は嘲笑われるように数十センチも病室内へと弾かれ、その衝撃は男のサングラスを粉々に砕き、その鼻を奇妙な形に拉げた。

「そこを、どいて」

 正気の縁から足を踏み外しつつある男の眼の前に、ネーブルの彩が広がった――それは、厳粛に最後通牒の帳を下すように。同時に、病室の入り口付近が軋みを上げ、電灯の破裂音が耳朶を打ったのを最後に男の意識はその糸を切った。屹立したまま昏倒した男に向かい、判決を下すように更なる一歩を進めようとするレイ。そして、それを止めたのは、地底から駆け上がるように膨んだ警報のサイレン、そして、やめるんだ! と切実なトーンを響かせた男の叫び声だった。
 切り裂くような音の広がりを見せた警報音は、空気を抜かれた風船のように急速に萎むとやがて消失した。アスカ、そしてレイが振り返った先には、土気色に染まった顔を貼り付かせた若竹が佇んでいた。 




「……何だったのだ、一体?」

 発令所に突如として響き渡った警報のサイレン。通常はマギの自動警報システムにより、デフォールト設定された特定パターンの脅威を感知した場合に発せられるものだ。しかし、怒涛の如くの盛り上がりを見せたサイレンは、通電が途絶えたように細い糸のような余韻を残して消失してしまった。すわ使徒の来襲かと、椅子を蹴るように飛び上がった大方の職員は、何だ何だと中途半端に腰を漂わせたまま状況の確認に追われている。

「よもや誤作動とも思えないが、確認は出来るか?」釈然としない表情を隠さず、深い皺を刻んだ眉間に険しさを滲ませた冬月がマコトに指示を飛ばす。
「ハ、ハイ…これは……誤作動では無いと思われます。しかし……使徒、ではありません。反応パターンが単独展開されたATフィールドに似てはいましたが……シグナル自体が消失してしまっていますので」
「場所はどこなんだ?」
「……中央病院…本部に隣接する中央病院第一脳神経外科病棟です」
「なんと…チルドレンが集まっている場所ではないのか? すぐに保安局員を向かわせるんだ」
「はい…ですが」
「なんだ」歯切れの悪いマコトの返事に、冬月は苛立ちを隠せない。
「ちょうど同現場では、ニベツのフォーメーションが展開中です」
「ふむ」何かあったか? ゲンドウに一瞥をくれた冬月。「では、若竹三佐に状況の確認だ。大至急だ」




「ATフィールド!?」

 驚いてベッドから身体を起こそうとしたミサトは、左腕を襲った辛辣な痛みにもんどりうって、その身体を再びベットに横たえた。

「オイオイ、葛城。しっかりしてくれよ。冗談じゃ無く、ホントに重傷なんだからさ」

 苦痛に眉根を寄せながらも、懸命に身体を起こそうとするミサト。傍らで心配そうに見つめる加持がミサトの肩を支えようと手を伸ばしたが、すぐに振り払われた手を小さな溜め息と共に宙に漂わせることになった。

「……パターンはよく似ていたらしいんだが、ATフィールドかどうかは解らないとのことだ。無論、使徒では無いらしい」
「……どっちでもいいわよ」
「…………」
「大事なのは…あたし自身が、一刻も早く現場に帰ること……役割を果たさなくちゃ」
「……葛城」
「加持くん……あたしね、取り返しのつかないことしちゃった」
「…………」

 やっとの思いで起こした背を丸くし、吊られた左腕に右手を添えて、ミサトは思い詰めた視線を前方の何もない空間に漂わせている。

「……シンジ君に言えなかったの……あたし、シンジ君に話せなかった……トウジ君がフォースチルドレンだったってこと」
「……ああ」
「それで、シンジ君……最後まで、トウジ君が乗ってるって知らなくて……」
「……解ってる」
「トウジ君ね、実験が始まる間際にあたしに電話をかけてきたのよ」
「……もういい、葛城」
「それでね…あたしにね、有難うって言ってくれたのよ……でも、あたし、あたし…何も、何にも出来なかった…」背中を丸め白い掛け布団に突っ伏すミサトの細い肩が静かに震え始めた。
「解ってるよ!」

 強い語気を室内に奮わせた加持にビクリと肩を持ち上がらせたミサトは、涙に濡れた瞳を大きく見開き、呆然とした表情を加持に向けた。

「そうだよ、葛城。おまえは何もしなかった。全部お前の責任だ。どうだ? これで気が済んだか?」
「……加持く…ん、そ、そんな…ひ酷――」
「しっかりするんだ、葛城ミサト」加持の手がミサトの両肩をがっしり掴んで瞳の奧を見据えた。魂を覚醒させるが如く低く遠大なその声に、ミサトは思わず背筋を伸ばした。
「……加持くん」
「いいか、葛城。何もしなかったんじゃあない。出来なかったんだ。相手がエヴァである限り、人が乗ってる限り、シンジ君には手出しは出来なかった。総ては、シナリオに織り込み済みだったんだ」
「……シナリオ?」
「そうだ。そして、そのストーリーに沿ってダミー計画は発動し、そのシナリオは次なる章を迎えることになった。お前も気づいていた筈だ。ここ最近ネルフ全体を覆っているある種得体の知れない力に」
「…そう。だからこそ、あたしは必死になって情報を集めようとして」
「残念だが、もうどうにもならない処にまで来てしまってる。だがな、それでも…」
「それでも?」
「真実は一つだ…そしてそれはいつか必ず白日のもとに晒される。どんなことがあっても忘れちゃダメだ、葛城。お前の本懐を」
「…………」
「そして、どんな渦の中ででもその目を見失わず、自分自身をしっかり持ってるんだ。……解るな?」
「……うん」

 温かい笑顔に続いて、ぱふっとミサトの頭に乗せられた加持の大きな手。
 何もかも打ち捨ててその手に縋ってしまえば、どれほど楽になるのだろう。どれほど幸せなのだろう。
 顔を俯かせたミサトの目に銀のクロスが煌めいた。不器用に撫でられた髪を通して胸に届いた加持の声に、あの日の父の声が重なった。




 あれは一体何だったんだ?

 独りごちた声が無人のナースステーションの中をボールのように弾んでは、若竹の意識を底の見えない深淵に沈めた。
 凍てついた空気の中で、魁偉の別働班員はいかにも不自然な体勢で無力化されていた。まるで灼熱のアスファルトに湧き立つオレンジがかった陽炎に囚われるように。

「お待たせしてごめんなさい」

 朗らかな声に、底の見えない沼から救いだされた気がした。これほど無防備な状態で声を掛けられることは自身の職業柄有り得ることではない。切り替えきれない頭をゆるりと擡げた若竹は、向かいのソファーにやんわりと腰を降ろした千代田ユキの所作に焦点を合わせた。

「いえ」
「安心して。部下の方は気を失ってるだけ。今、シンジ君たちの隣の病室で休んでるわ。あの体なんでベッドに乗せるまでが大変だったけど」

 クスリと頬を緩めたユキにつられそうになる。これまで幾度となく顔をあわせることもあったが、何故だかこの娘は苦手だ。

「……でも。今回あなたの作業班が取った行動はあんまりだと思う」
「…………」
「もちろんシンジ君がやった事は感心出来るものではないし、社会通念上許されることではないというのは解るわ……でも、そこまで追い込んだのは、誰?」
「…………」
「その大人達がやった事が何も問われないのは、何故? 本部施設に損傷を負わせるのは罪になっても、人の心を引き裂くのは赦されること?」
「…………」
「その意識も戻らないシンジ君を、犯罪者みたいに軟禁して……パイロット仲間が怒りだすのも無理は無いわ」
「…………」
「……でも、三佐のお立場上、首肯く事なんて出来ないですよね」

 ユキは、表情を露ほども動かさない若竹から視線を外し、哀しげに目を伏せた。

「何かとお手数をおかけしました。これで失礼します。部下は連れて帰らせて頂きますので」



「……そうですか」

 カタリと椅子から腰を上げ背を伸ばすと、ユキに一瞥をくれる事無く、革底の硬質な音を出口へと響かせた。

「千代田さん」

 目の前の何もない空間に視線を落としていたユキは、出口を覆うように塞いでいる若竹の背に顔を向けた。何て広い背中なんだろうと思った。

「……あなたの仰るとおりですよ」

 眼を丸くしたユキは、広い背中を追い続けるように、若竹が姿を消した白いドアにその瞳をいつまでも留めていた。 




「今度という今度はダメかもしれないわね」

 第一脳神経外科病棟の光を孕んだリノリウムの床にアスカの声が響いた。

「……あのバカ、立ち直れないわよ、きっと」
「碇くんは?」
「怪我はしてないんだし、そのうち気付くわよ。今頃夢でも見てんじゃないの」
「夢?」
「そ。あんた見たこと無いの?」
「…………」

 ……夢……睡眠中の仮想世界における体験並びに体感現象……そして、希望と願望……どちらも私にとっては儚い――。

「まーいいわ。さて、あのアヤシイ黒服の連中も撤収したし、バカシンジも無事だと分かったんだから、あたし達も一度本部に戻るわよ」
「…………」
「今回の報告をすっ飛ばしてココに来たからね。副司令は多分カンカンだと思うわ。……今後の事もあって、それどこじゃ無いかも知れないけど」
「……碇くんには、もう」
「何?」
「……なんでも、ない」
「何なのよ、もう……ファースト、ところでさ」
「…………」
「あんた…さっき何したの?」
「…何も、してない」
「ふーん。あのレスラーにスタンガンでも突っ立てたと思ったんだけどさ。…あんた、偶にメチャクチャ迫力あるからね。あんな風に睨み倒さなくても、あの手のウドの大木は蹴り上げんのが一番よ」
「けりあげる??」
「って、アンタが知ってるわけないわよね…まっ、こんどバカシンジで試したらいいわ。さっ、行くわよ」
「…うん」




「課長」

 報告書を作るときゃいつもコレだ。数行打っては、てにをはの合わない内容にデリートを繰り返していた若竹は、頭越しにトスのように上がった言葉にやおら顔を上げた。眼の前には、やや硬い表情を貼り付かせた男が背筋をぴんと伸ばして立っている。言葉を探しあぐねているその表情に、若竹はキーボードから手を離して向き直った。

「杉一尉、どうした?」
「……今、入った情報なのですが」
「何かあったか? 報告してみろ」
「サードチルドレンが中央病院から本部・第3隔離施設に移送されたとのことです。移送に着手したのはニベツ。重拘束は解かれなかったとの事です」
「ああ、そうだ、な」
「私には納得できません。彼の身分はいまだ初号機専属パイロットです。身柄確保が出来ている現状で、ニベツまで動かす必要があったのでしょうか? なぜ保安局員による移送、そして我々ガード作業班がガーディアンとして動いてはいけないのでしょうか?」

 ローバックに掛けていたジャケットから煙草を取り出しクチリと火をつけた。泳がせた紫煙を貫いて杉の視線が突き刺さる。

「色んな意味で今回の騒ぎは大き過ぎたのさ。軍規に基づく罪状を連ねれば、例え子供であっても極刑は免れない程のな。そんな状況下で通常の手順通り保安局員とガード班だけで対応してみろ、不作為だの何だの言ってくるヤツが必ずいる。足許を掬おうって輩がな。存在自体に非情というイメージが沁み込んでるニベツを展開するだけでもそういったものへの牽制になるのさ。この点、解るな?」
「はい…」
「それともう一つ。分かっとるだろうが、同じ諜報二課とは言え、泣く子も黙る、などと存在自体が保安諜報部の象徴扱いされてる彼らが、影として動く君たちに持ってる心象は決して良いものじゃない。正規発令により今次フォーメーションを展開してる以上、介入してくる他者の排除には、それが例え身内に対してでも容赦は無いので、念のためにな」
「はい」
「思うところは有るだろう。だが、サードチルドレンの処分が決まるまでは待機してもらわねばならん。この点については先日出した指示に変更は無いが、長門には君からも念を押しておいてくれんか…と、今日は非番か」
「はい。明日、本人には私から話しておきますので」

 若竹の中で何か引っ掛かるものがあった。……なんだ?
 紫煙がさまざまな紋様を描く陽射しを割るように、点けて間もない煙草を灰皿に捻じ込んだ。その横でラップトップのモニターの中でカーソルが頼りなげに瞬いていた。 




 仄かに揺れたそれは、淡い一条の光の筋に見えた。それでも暗い深淵にまで凛然と射し込んだ光は、次第に膨らみを見せると、いつしか自分の身体をすっぽりと包みこんでいた。白く暖かい光の早暁を伝える来光が如く、闇より暗い漆黒に自らのシルエットを縁取り始めると、遥か上方にあった海面に揺れていたはずの陽だまりが、いつしか眩い平原に見えるまでに目前に迫っていた。

「――五分だけよ」
「はい。有難うございます」

 針の穴を通すように心の内奥に届いた声に身体が反応した。光も通わぬ絶無の世界においてさえ、ひと時も耳を捕らえて離さない声だった。薄っすらと開いた双眸にぼんやりと映し出された一面の白。それを天井だと理解するのにどれ位の時間を要したのだろう。ふたたび耳朶を打った声にさらわれるように首を向けた先に、飛び込んできた黒いおさげ髪の少女。覚束ない焦点。ひたすら縋り付くような視線をその少女に留め、いまだ夢かうつつか判別のつかない魯鈍な頭で、幾度目かの幻かも知れないその少女に向かって貼りついた咽喉を精一杯に広げた。

「……イインチョやないか」
「鈴原…大丈夫?」
「……ああ、生きとるみたいやな」

 少女の言葉が少年の頬を優しく包みこむ。微かに感じた少女の体温に、少年の中で生命の息吹が徐々に血液のように通い始めた。

「……なんや、シンジがおったような気がしたけど、夢やったんかいな」
「碇君は昨日退院したそうよ。三日も寝てたんだから。……鈴原は」
「……そうか…三日もか……イインチョは――」
「こっ、ここに来たのは、委員長として公務で来たのよ。そ、それ以外の何でもないのよ」
「……ああ…分かっとるわ」……ホンマに、な。
「解って、ないわよ」……ホントに、よ。

 微かに頬を染め、トウジから逸らせたヒカリの目の縁に何かが掛った。

「……鈴原、それ」

 なんや? とヒカリの視線を追ったトウジの視界のなかで、右手にしっかり握られたパッチワークの人形がうなだれていた。その人形は、手からはみ出してる部分だけでも相当に擦り切れ、草臥れているように見えた。呪文でもかけられたように堅く握られた右手を、感覚の覚束ない左手も使い抉じ開けると、見るも無残に胴体が大きく裂けた傷だらけの人形が姿を見せた。

「……それ、あたしが鈴原のお弁当箱にいれたお人形」

「えっ? これはイインチョが…」ワイに手渡してくれた……。
「うん。あの時渡したお弁当箱に、お守り代わりにと思って入れといたんだけど」
「………せやったんか」

 トウジは改めてボロボロになった小さな人形をジックリと見た。間違いあらへん。こいつはあん時イインチョがワイに手渡してくれたもんや。……ワイの身代わりになってくれたというんか……もういっぺんイインチョのとこまで導いてくれたというんか。

「……随分とくたびれちゃったね。でも、鈴原が戻ってきてくれたから……お人形はまた作ってあげるね」

 そう言ってニッコリとトウジに微笑んだヒカリに、眩しそうに目を細めたトウジはその手を少女の手の上に重ねていた。

「す、鈴原!?」
「イインチョ」
「はい」
「ちょっとだけ……ええか?」
「え? う、うん」

 続く言葉を躊躇う間に、ベッドに臥せたままのトウジにひしとかき抱かれたヒカリ。少女は想像だにしない力強さで自分を求める少年に身体を熱くし、また少年はブラウス越しに感じた少女の幼い胸の柔かさにおののいた。

「す、鈴原あ!?」
「………………」
「…ど、どうしたの? どこか痛むの?」
「…ホンマに……たかったんや」
「…え?」
「イキナリこないな事して、すまんな。…せやけど、もうちょっとだけこうさせといてくれんか」
「うん」
「…ヒカリ」
「…なに?」
「………ほんまにアリガトやで」

 そろそろとトウジの頭に手を添えたとき、据えた消毒液の匂いのなかから忘れ得ぬ少年のそれが顔を覗かせた。なぜか懐かしく感じるその匂いに、ヒカリのなかでようやく安堵の二文字が現実のものとして攪拌していった。

「……鈴原が帰ってきてくれたから、…それだけで十分だよ」 




 碇シンジが中央病院からネルフ本部の第3隔離施設に移送されたとの情報を入手してから、はや三時間が経過しようとしていた。
 本部メインエントランス脇に設置されたミーティングコーナーの一角で、長門ミキは情報誌を読み流すふりをしながらメインゲートからの退出者を目の縁で追っていた。
 概してネルフの裁定は早い。適格者への軍規に基づく罰則は適用除外と上司から聞くに至り、胸を撫で下ろしたのも束の間、再拘束のうえ洗脳という最悪のケースも有り得ると聞くに及んでは、ミキは気が気では無くなった。
 その場合は第三隔離施設に収監され続けるのだろうか? でも……。

(放逐処分となると、そろそろ出てきてもおかしくない頃……)
(あと十分待って出てこなければ、別の方法を考えなきゃ……)
(でも、どうやってシンジ君を探したらいいんだろう……今日非番のあたしはゲートにIDを通せないもの……)

 既に明確な指示が出されている以上、公務の上ではシンジに対してガード作業に着手することは出来ない。そして、今回の事件で決定的なダメージを心に負ったであろう少年の脇を固めているのは、とても同じ諜報二課員とは思えないニベツのメンバーなのだ。

(……………)

 ……それなら、公務で無けりゃいい。組織を離れた一私人として、あの少年と少女が共に歩んでいく先に降りかかる火の粉は、可能な限りあたしが払ってみせる。例えこの世界で二人の味方が自分一人になったとしても。
 雑誌の上に思いつめた視線を落していたミキに、俄かにチャイムの音が降りそそいだ。続いてゲートの重々しく開放される音が辺りの空気を震わせた。

(シンジくん!)

 ゲートから出てきたのは、紛うこと無き碇シンジだった。
 一気に背筋に通った芯を抜かれるような安堵感がミキの身体を奔ったが、次の瞬間頭をもたげた違和感に表情を引き締め直した。
 今まさに向き直ったミキの前を通り過ぎようとしているシンジは、決然とした雰囲気をその身体に纏い、彼方を見据えたその乾き切った目は現実の何処にも焦点を合わしていないように見えた。まるで何もかもを拒否するように。
 シンジは、エントランスの手前で思い出したように歩を止めると、持っていたIDカードを紙屑のようにゴミ箱に放り投げた。ぞんざいに投げられたそれは、ゴミ箱の縁で弾かれ鈍色に光るフロアで軽い音を立てたが、少年の目がふたたび向けられる事は無かった。
 ある程度の予想はしていたものの、ミキにとってはショッキングなシーンだった。身体中の穴を塞いだような頑迷さを漂わせている少年の背中がひどく遠いものに思えた。これまで傍に寄り添ってきた少女さえも拒絶しかねないように感じる後ろ姿に、限りなく絶望に近い思いがミキの胸の底を焦がした。

(……いえ、大丈夫。あたし信じるもの。ふたりの絆を)

 とにかくシンジは今は一人だ。見渡す限りニベツの監視も見られない。今は自分の想いに実直に行動するのみ、と腰を浮かしかけたミキは、ふたたび耳をついたチャイムの音に慌てて腰を落とした。

(レイちゃん!)

 同じくミキの前を横切ったレイの歩調はいつもより心持ち早い。ゴミ箱脇の床に打ち捨てられたままのIDカードを拾い上げると、エントランスの車寄せへと小走りに駆けよった。
 雲らしい雲もない眼に沁みるような青一色の空の下、降り注ぐ午後の陽射しと陽炎の向こうに小さくなっていく少年の背中。まるで焼き付けるようにそこに紅い視線を留める少女は、少年のIDカードを小さな胸にうずめるように抱いていた。

(……レイちゃん…あなた)




「サードチルドレン、シンジ君を抹消!?」

 ネルフ本部作戦局第一課長執務室。そこに緊急招集された関係者達は、今しがた下達された 内容に自らの耳を疑った。殆どのスタッフが処分保留と予想していただけに、その想定外の結果に誰もが表情を消し、続く言葉を失った。

「そう、残念なんだけど、シンジ君が初号機に乗ることは、もう無いの……」
「葛城さん、それは拙いんでは無いですか? 零号機もまだ左腕を修復中なんですよ。今後の作戦遂行上、大きな支障を来します」
「日向君、どうしようもないのよ。司令からの下命、なのよ」……なによりそのシンジ君自身が……。
「……そんな」

「あーもう鬱陶しいわね。ダイジョーブよ、バカシンジなんかがいなくったって。あたしが何とかするわ」執務室の底に沈殿し始めた陰鬱な空気をアスカのひと際高い声が薙いだ。
「頼りにしてるわ、アスカ。それから、当面初号機にはレイに乗って貰う事になるから。……ダミーシステムをバックアップとしてね」

 そこにいる全員が顔を顰めた。その脳裏にありありと浮かび上がった先の惨状にだ。ミサト自身、悲嘆の底から加持の激励に理性と少しばかりの気力を取り戻して、駆けつけた現場で目の当たりにした目を覆いたくなるような惨禍そのものに、身体中の骨を抜かれたようにその場にへたり込みそうになったのだ。これはダメだ、これは人類にとって禁忌そのものだ、忌避すべきものなのだと呪文のように呟き続けている自分がいる。そんな自分を封殺して作戦課長という立場としての思考しか許されないシナリオの役回りに、ミサトは意味を持たない煩悶を繰り返すだけだった。

「ところでミサト、そのファーストは?」
「レイは、リツコんとこで健診よ。先週、抜けてたからね…」ふと表情を曇らせたミサトに、アスカの表情が動く。「それじゃ、ブリーフィングはこれまでよ。みんな持ち場に戻って」

 レイちゃん、シンジ君を引き止めなかったのかしら、さぁどうなんだろうな、とお喋りを曳きながら執務室を後にするメンバー。その声を背中に聞きながら執務机の引き出しから書類を取り出すと、ミサトは諜報二課への内線番号をプッシュした。




 珈琲のアロマが漂う寂然とした空間の底を、検査機器の作動音が地蟲のように這いまわっている。
 技術開発部、赤木博士執務室。リツコは連射されるように吐き出されたデータをひとつひとつ鵜の目鷹の目でチェックをかけていた。

(……やはり体組織の構成に異変は見られない)
(……いまだ例の発症については、原因の端緒さえ掴めないけれど)
(……それでも、まずは一安心……といっていいものか)

 先日、本部施設であった警報システムの不可解な作動。誤作動である可能性も考えられますが、という前置きと共に、松代の病院にマヤから届けられた報告に何かしら予感めいたものをリツコは感じた。ベッドを蹴るように病室を抜け出し、医務局で借りたパソコンから潜ったマギに残された情報の断片を確認するに至り、その顔色を失った。
 誤作動などではない。ネルフ中央病院で一瞬ではあるが、展開されたエネルギー波を捉えたデータが、高位のプロテクトが掛った領域に消去されずに残っていたのである。

(……間違いない、ATフィールド……でも、何故?)
(……場所、そして状況を考えても、レイが逼迫した状態に追い込まれたとは考え難いし…有り得ない…)
(……いずれにしても、あれは体組織への負担が大き過ぎる)
(……そう、危険過ぎるわ。それでなくても今のレイの身体は、もう……)

 手許のデータから目を離しメインモニターに顔を向けた。そこに映し出される少女の無辜の表情に、リツコは小さく溜め息を漏らした。
 気に掛かっていたシンジ放逐の件は、何かしらの影響をレイの心身に及ぼしているようには見えない。今のところは。
 ぬるくなったコーヒーのマグカップを口に運ぼうとした時、予感だにしなかったエアロックの解かれる音がリツコの思考を破った。反射的に振返ったリツコは、虚を突かれたような表情を隠そうともせずカップをデスクへと戻した。

「……碇司令」

 いつもの士官服に身を包んだ男は、リツコと視線を絡ませることも無く、幾多のデータと少女を映し出しているモニターへと静かに靴音を響かせた。その男の存在を孕んだだけで無機質な室内の酸素が電化されたように明るくなるのを感じた。

「赤木博士。レイの状態はどうだ?」
「今しがた既定の項目について診断を終えたところですが、特別な異変は見られませんでした」
「……そうか」
「そして……例の症状につきましては、依然原因は究明できていません」
「……そうか」

 モニターの中のレイが、その影をゲンドウのサングラスの上で揺らせている。少女を見つめるゲンドウの目はこれまで無いほどに遠かった。

「碇司令」
「ああ」
「先の中央病院での一件ですが……」
「……………」
「レイは、自分の為に使った訳では無かったのだと、思います……有り得ない事ですが」
「…………」
「……レイ自身に抗えない意志が定着しつつあるようにも思えます。残された時間、それが削られる事さえ厭わない程の」
「……………」
「……そして、このままでは計画そのものへの影響は、回避出来ないものになると、思われます」

 サングラスの奥で眩いものに触れたように目を細めるゲンドウ。

「それでも」

 リツコのカップを持つ手に力が入る。

「……このままで宜しいのでしょうか?」







「……今は、これでいい」

 水面を打った朝露のように、ゲンドウの低い声が穏やかに空気を震わせた。


 ゲンドウが執務室を後にしてから暫くの間、リツコは一人生温かく澱んだ沼に思考を彷徨わせていた。検査はとうに終わり、その多くにノイズの柄を漂わせるモニターの一つでは、微かに揺れるプラチナブルーの髪が映し出されている。
 司令と呼ばれた男が、少女を通して見つめていた彼の岸に佇む影。刻一刻と消えゆく時間の中で、人間らしい自我を顕在化させつつある少女は、ゲンドウの双眸にその女の幻想をより色濃く映し出し、またリツコの内奥に讐敵そのもののイメージを造りあげた。


(……有り得ない……有り得ないこと……)
(……ずっと言ってきたのに……)
……アノケイカクノタメノ、タダノイレモノノクセニ……

(……未来など、あなたには……)
……ヒトトシテノ、ジカンナド

(……用意されてはいない。必要の無いものだと……)
……ダカラ、ケズッテアゲタノ……

(……道具には心など、必要の無いものだと……)
……クルシイデショ? ……

(……でも、それももうじき終わるの……)
……ワタシハ、モットクルシカッタノヨ……

(……あなたの想いが成就する事は無いの……)
……モットクルシカッタ…デモ……

(……それを現わす言葉さえ見つからないうちに――)









……スベテハ、オワルノ――。











 後方に据えられた検査機器から鳴り始めた警告音に顔を張られたように表情を戻したリツコは、反射的に目を移したモニターの中で苦悶の表情を浮かべる少女に目を見張った。反射的に立ち上がった瞬間、平衡感覚を喪いよろめく身体。咄嗟に壁へと伸ばした左手で辛うじて支えると、こめかみを押さえ呼吸を整えてから隣接する検査室へと飛び込んだ。ベッド脇のテーブルから薬袋をひったくるように錠剤を取り出すと、身体を丸め苦痛に喘ぐレイの上半身を抱き上げ、裸錠を口に含ませた。

「レイ、噛んで飲み下すのよ」

 苦悶の表情を浮かべながらも、辛うじてレイが薬を飲み下すのを見届けると、リツコは氷のようなレイの身体をひしと抱きしめた。

(……わたしは……)

 自分の体温を分け与える母親のように、まるで白磁器のような額に頬を擦り寄せ、その蒼銀の髪と消え入りそうな身体をいつまでも擦り続けた。

(……わたしのことが……解らない……)









 ……ごめん……ごめんね………………レイ。






 燦々と降りしきる陽光の下でも、山間から涼と降り立つ風が午後を穏やかなものにしていた。
 そんな自然がもたらす安寧さとは裏腹に、箱根湯本駅の駅舎に背中を消したシンジを認めると、長門ミキは目の前に暗灰色のスクリーンを降ろされたような気持ちに襲われた。シンジが纏った違和感を覚えるほどの雰囲気に、絶望感が足音を立てて近づいてくるようだった。駅前の車寄せでは決して多くはない言葉がシンジとミサトとの間で交わされ、今、数十メートル離れた路上では、片手をギブスで吊った痛々しい姿のミサトが肩を落として佇んでいる。そのミサトは、やがて後方で控えていた黒服に促されると、若干の逡巡に顔を歪ませた後、細い腰を黒い巌のようなベントレーへと滑り込ませた。
 視界の中で小さくなっていくテールランプを見ていると、ミキの中で膨らみをみせていた絶望感がより現実的なものになった。米粒ほどになった車影から駅舎へと目を移したミキの頬を撫でるように風が吹きぬけていった。

(……本当にこれでいいの?)

 触れれば切れてしまいそうなほどにナイーブな少年が、ここ第3新東京市で生死をかけた刻苦の中に紡いできたささやかな絆。友人、仲間、そして……。ミキの脳裏にイメージを咲かせた一人の少女。下命遂行を至上とする日常において鋼の冷徹さに身を染めていた少女は、シンジとの関わり合いを経て、最近では年齢相応の少女らしい感情の発露さえ垣間見せるようになったのだ。そして、ふたり肩を並べ寄り添う姿に、微笑ましいという言葉では尽くせぬ想いをいつしか胸の中に詰め込んだ自分がいる。
 表情を引き締めたミキは、駅舎へ向けて足を踏み出した。このままではいけない、いい筈が無い。それに、恐らく彼は理解してはいない。その少女の――。

 !

「何をしようというんだ?」

 ミキが踏み出した一歩を合図とするように、今の今まで気配さえ感じなかった数人の黒服の男たちが道路脇から散開し、ミキの行く手を塞いだ。
 諜報二課別働作業班。舌打ちしたくなる気持ちを抑えて、ミキは顔を曇り切らせる前に薄い笑顔を作った。

「……誰かとお間違えでは」

 それでも踵を返すのは不自然。黒壁のように立ちはだかる男達の脇をすり抜けようとした。が、その直後、ミキの左の二の腕に激しい痛みが走った。

「……つ」

 ミキの視界の中で駅舎が揺れた。蟷螂に捉えられた薄翅蜉蝣のように、為す術なく円陣を展開した男達の中に引きずり込まれたミキの目は、それでも駅舎を追っていた。

「出まかせを言うんじゃない。ここで何をしていた?」
「何も…くっ」

 二の腕に火が付いたように差し込んだ痛みに顔を歪めたミキの前に、長身痩躯の男が音も無く進み出た。

「余り手荒なマネをしたくは無いんだが、仕方が無い。ネルフでも俺達の怖さは聞いていると思ったがね…長門二尉」

 ええっ!? このムスメ身内なんですかい? 俄かにざわめき立つ男達。万力のような男の手が緩んだと思ったのも束の間、直ぐにこれまで以上の力で掴まれ、ミキの口の端から呻き声が洩れた。

「保安諜報部諜報二課ガード作業班サードチルドレン専属ガード班員、だったな。サードチルドレンが専属パイロットを抹消されたのに、今更何の用がある?」
「…………」
「話せないのなら身体に聞くまでだ。先の事件以来、サードチルドレンの監視とガードについてはウチが引き受けてるのは知ってるな? そして、ガード作業班は首を突っ込まないよう警告は受けていた筈だ」

 剃刀を連想させるリーダーとおぼしきその男は、ミキに粘り気のある視線を向けはじめた班員に向かって顎をしゃくった。その先には黒一色に塗られたワンボックスカーが、燦々と降り注ぐ陽光の下で牢獄然とした筐体を陽炎に揺らせている。あの車に乗せられたが最後、何をされるか解ったものではない。でも、女一人の力じゃ……。俄かに叫び出したい程の恐怖がミキを飲みこんでいった。

「長門は今日は非番だ」

 黒服の男達が砂を蹴って身構えた意識の先で、いつのまにロータリーに進入していたのか、シルバーのアウディが陽光を白銀のボディに弾かせていた。ゆっくり開かれたドアから姿を露わにした人物に一斉に反応を見せた黒服の男達。ミキは朦朧とした意識を持ち上げ、辛うじて見つけた黒壁の裂け目からその姿を瞳に捉えた。

「……杉一尉」剃刀の能面に初めて表情が刻まれた。
「彼女を離すんだ」

 車から降り立った男は、陽炎を押し退けるように一直線に歩を進めた。その双眸には冷徹な光が湛えられている。
 ニベツの黒服越しにセイフティロックの解除される音が冷たく連なった。

 ――杉さん、ダメ! 来ちゃダメ!

 今際の声を絞り出すミキの目の前で、剃刀の男が逸る班員達を諌めるように右手を伸ばした。

「杉一尉。小競り合いが、とんでもない大火へと飛び火することもある。例え身内であってもな。まあ話を聞け」
「もう一度言う。彼女を離すんだ」
「……残念だが、それは出来ない。この娘は我々の公務を妨害しようとした。よって本部に連行する。我々は既定の手順に沿って処理するだけの事だ」
「本部に連行? 既定の手順? 笑わせるんじゃない。それほど品がいいツラには見えないぜ」

 何だと、と数人の黒服が銃を抜こうとした瞬間、杉の表情に残忍な冷笑が奔った。ジャケットの前で一閃した右手には瞬時にしてセーフティロックの解除されたM92Fが銃身を光らせた。

「待った!」

 耳朶を打った聞き慣れたトーンに、シューティングフォームを組み立てようとした黒服全員が金縛りに掛かったようにその動きを静止した。

「課長」

 別働班員達の視線の先では、アウディのピラーに腰を預け睥睨するような視線を投げかける若竹がいた。

「止めた方がいい。おまえ達、杉に銃口を向けた途端、バン、だぞ」

 指で鉄砲の形を作った若竹は、その指先を剃刀の男に向けた。

「おまえは杉の事を良く知ってるから銃に触れようともしないんだよな。賢明だな、由良君よ。正当防衛・緊急避難の類だと、さすがの俺にもどうにも出来ん」

 頭上に飛び交う会話に、我関せずと歩調を変えない杉に押されるように黒い壁が割れた。ミキは掴まれた腕に吊られるように身体を半ば蹲らせながらも、その瞳をまっすぐ杉に留めていた。杉の一睨みでミキの腕を掴んでいた男は慌ててミキを解放したが、それでも石のように動く気配の無いミキの右手を杉が掴むとビクンと反応し、縋りつく様に杉の左腕を自分の胸にかき抱いた。

「結論は出たようですな、課長。今日は引きましょう。ただ、どうにも納得はいきませんがね」

 由良が手を上げると、散開していた男達のフォーメーションは磁石に引かれたように収縮し、黒塗りのワゴンへと吸い込まれた。

「おまえの班だからこそ任せることのできる案件もある。今更おまえ達をスポイルなどしないさ」
「なら、何故?」
「こんな時代だけどな……何をやってもいいって訳じゃあ無い。保安を司る一組織としての矜持は持ってて欲しいってな」
「御意。昔から身についた癖はなかなか抜けはしませんが」


 未だ杉の刺さるような視線を浴びながらテールランプを小さくしていく漆黒のワゴン。その筐体がスキール音を残してコーナーの奥に消えるのを見届けると、杉は左腕に顔を埋めているミキに視線を移し表情を緩めた。

「長門。もう行っちゃったよ」
「…………」
「だから、もうそろそろ離して――」
「いや」
「でも、もう大丈――」
「いや」
「…いや、あの、このままじゃ動けないよ。だから――」
「杉さん、登場するの遅かったもん」
「ご、ごめんよ。でも長門きょうは非番って――」
「すっごく怖かったん、だから……だから、もう少しだけこうしてる」
「…いや、あの、でも」もろに胸が当たって、と胸の中で呟いた杉は、顔を上げたミキに忽ちにして凝固した。

 ぽろぽろと涙をこぼしながらミキは小さな口を開いた。

「……嫌?」
「…いや」どっちだ?「じゃないんだけど…」む胸が……。
「……あたし…もうダメかと思った。あたしの腕をぎゅーって握ってた男、すっごくエッチな目であたしのこと見てたんだから」
「長門は胸…いや、ちょっとカワイイからね」
「……え? かわいい? ほんと? ……おねえちゃんより?」
「え? いや、う、うん」

「取り込んでるとこ悪いがな…そろそろ戻らにゃならん」
「……あ、はい。課長」

 名残惜しそうにミキが腕を解くと、解き放たれた柑橘の香りが杉の鼻腔をついた。降り立つ少しばかりの寂寥感を割るように若竹が二人の前に歩を進める。

「それと長門な。今回おまえがやった事は、非番とは言えあきらかに命令違反だ。懲戒処分に処されても文句が言えない程のな」
「……課長……ごめんなさい…あたし」
「心情的に理解できる点も多分にある。だがな、一番問題なのは、おまえ自身の安全を確保出来なかった点だ。今回は口頭注意のみとするが、今後の為にもよく反省するんだ」
「……は……い」項垂れると、ふたたび瞳を潤ませ始めたミキは両手で顔を覆ってしゃがみこんでしまった。

 ちょっと課長また長門泣かせちゃってどうするんですか、いや杉君よこういった事はその場で叱らないとダメなんだ、中間管理職の辛いとこなんだぞ、いやでもそんなにポンポン責め文句を言わなくても、などと不毛な会話のキャッチボールは、突然開いた傘のような素っ頓狂な声により終止符が打たれた。

「あ」

 それが蹲っていた長門からのものだと理解するのに、ふたりは数秒を要した。

「そうだ……あたし、泣いてる場合じゃない………」

 二人の男に向かって、すいませんでした、と子供のようにぺこりと頭を下げると、ミキは石のように固くなった自分の身体を鞭打ち、駅舎へと歩み出した。




 蝉時雨の降りしだくプラットホームに一人佇むシンジ。政府専用特別急行列車を待つ少年は、容赦のない陽射しに身体を晒してはいたが、焼かれる感覚さえも体感できないまでにその心は堅く閉ざされていた。まるで、そこだけを切り取って冷凍庫に封じ込めてしまったかのように。
 昨日、身体中の毛細血管を炸裂させるほどに飽和された激情は、溶岩の如く胸の底を激しく掻き乱し、あらゆる情緒を飲み込んだまま冷え切り固まってしまった。今シンジは干からび切った雑巾さながらの心で、目に映ったものすべてをモノクロに沈ませていた。
 もういやだ、もうここには居たくない。飽和を越えた虚ろな頭の中には、その言葉だけが出涸らしとなって累々と堆く積まれていた。

 !

 それでも別回路から迂回するように、そのサイレンだけはシンジの意識の中へと差し込んできた。瞬時にして避難勧告へと変更されるプラットホーム上の電光掲示板。人気のないホーム上に空気を引き攣らせたような緊張が走った。

「使徒!」

 忘れかけていた何かが、シンジの中を駆け上がってくる。が、電源を切られたようにふたたび顔を俯かせたシンジは、その思考をそっと押し戻した。僕は決めたんだ。もう乗らないって。

 ……僕がすることは、何も考えずに…シェルターに入ってしまうことだけだ。……もう何も迷う必要はないんだ――。

 !

 避難経路指示に従ってトボトボ歩いていたシンジは、唐突に腕を持ち上げられた感覚に愕いた。咄嗟に顔を上げようとしたシンジは、意識とは反対方向にぐいと引っ張られ危うく転びそうになった。改めて向き直った視線の先に認めたのは、可憐な女性の横顔だった。

「シンジくん、こっちよ」

 頭に咲いた幾つもの疑問符。それでも強引にシンジを引っ張っていくその女性に抗う気持ちになれなかったのは、その女性の外見にそぐわないまでの気概だけでなく、どこかで嗅いだ覚えのある柑橘の匂いが、その女性との距離を近いものにしたからかもしれない。シンジに一瞥をくれることも無く腕を曳いていくその女性は美しかった。

「……あ、あのう」

 箱根湯本駅前のロータリーに停められた車に乗り込んでもなお沈黙を守る女性に、シンジはさすがに不安を感じた。

「どこ…どこに、行くんですか?」

 その女性はエンジンに火を入れると手早くエアコンを操作し、黒目がちな目に少し眩げな表情を添えてシンジと正対した。いまだ少女の面影を色濃く残すその可憐な微笑に、訳もなくシンジは頬を染めフロントウィンドに視線を泳がせた。どこかで会った事のある女性だと思った。

「……第3新東京市。ネルフ本部よ」

 耳を疑ったシンジがふたたび運転席に視線を戻そうとしたとき、降り注ぐ陽光をシルバーメタリックに輝かせていた車は、シートを蹴っ飛ばされるような加速を始めた。航空機のようなタービンノイズが空気を切り裂いていく。

「何故、何故ネルフ本部なのですか? 僕はもうパイロットじゃない。僕はもうエヴァに乗らないって、決めたんだ」
「女の子達だけに闘わせてシンジくんは平気なの?」
「彼女たちだけじゃ無いです。化け物みたいな機械もついてて……」そこまで話すとシンジは吐き気を催したように右手で口を塞いだ。拒絶していた記憶を隔てる隔壁が、ミシリとシンジの中で悲鳴をあげた。
「……レイちゃんも、それでいいの?」
「……綾波」

 凍り付いたトビラが軋みを上げ、その隙間から流れ出た少女のイメージが、春を待つ風のようにシンジの頬を撫でた。そうだ。綾波、綾波はどうなったんだろう? 左腕を怪我したって聞いた。……綾波、大丈夫だったのかな。……綾波……でも。

「あんなことになって…シンジくんの中で何もかもがいっぱいになっちゃって、何かを考える余裕すら持てなくなってしまったのは解るわ。でも、レイちゃんとはこのままでいい筈は無い、と思うの」
「……どんな理由であれ、エヴァに二度と乗らないと決めた僕に、綾波は……綾波は愛想を尽かした、と思います」

 痛みを耐えるように視線を落としたシンジに、一瞥をくれたミキの眸に切なげな表情が掠った。

「シンジくん……レイちゃんの気持ち、全然分かってない。……レイちゃんがね、どんな思いで――」
「もういいです」ミキの言葉にピクリと身体を持ちあげたが、ややあってシンジは目線をふたたび沈めた。「もうエヴァには乗らないって決めたんだ。だから、もうどうにもならないんだ」

 ……だからこそ戻らないとダメ。タービンノイズに掻き消される程の小さな溜め息を吐くと、ミキは右手で髪を梳きステアリングを握り直した。

「とにかく第3新東京市に向かうわ。そこから先どうするかはシンジくんの自由よ。誰も…勿論あたしも強制はしないわ」あたしに出来るのはそこまでだもの。
「……………」

 山間を縫う警報のサイレンがプジョーの中にも聞こえだしてきた。第3新東京市を続々と脱出した対向車がパッシングとクラクションで『引き返せ』の合図を送る中を、ミキは過給圧をフルブーストに設定したプジョーを途轍もない速度で奔らせた。叫ぶようなタービンノイズの狭間に浮かんだ少年の声に、ミキは助手席にそっと視線を送った。

「お姉さんは…ネルフの人、なんですよね?」
「あたし? ……あたしは」

 フロントウインド越しに映える山間の緑濃い稜線に、ふと遠い目を向けたミキ。

「……影、よ」




 最悪のタイミングだった。箱根湯本でシンジを見送った帰途途上に受けた第14使徒来襲の報。その動きは予想以上に早く、間もなく駒ケ岳絶対防衛線に差し掛かるという。少し前に確認した二人のチルドレンの準備状況からも、ジオフロント直上で戦端を開くのは困難かもしれない。絶対防衛線で少しでも足止めが出来れば話は変わってくるのだが……。迎撃のフォーメーションに振った思考に、思わず舌打ちを洩らしたミサト。シンジがパイロットを抹消となった今となっては、禁忌の象徴とも言えるダミーシステムをバックアップとして組み込むことは必定。だが、今は悩んでいる場合ではない。目前に迫っている使徒を屠る為には、悪鬼羅刹だろうが幽鬼だろうが使えるものは何でも利用するのだ。たとえこの魂を悪魔に売ってでも。
 リノリウムの床を激しく闊歩するミサトの目前で、発令所に続くエアロックドアがふたつに割れた。


「目標は?」
「現在、進行中です……駒ケ岳防衛線、突破されました!」

 オペレーターの怒号と呻吟がひしめく発令所に地響きが奔るや、瞬時にして朱に染まった空間に警報が縦走した。

「な、なんだっ!」
「使徒の攻撃です! 単発ではありますが、強烈なエネルギー照射です! 被害不明!」
「18もある装甲板を一瞬に……」

 発令所内の空気は、マコトの呆けたような一言で凍り付いた。メインモニターいっぱいに異形の巨躯を映し出した第14使徒に、発令所にいたオペレーター達は嘗て感じたことのない凄絶な力と拒絶の意思を感じ取った。痙攣するように湧き立ったパニックの波が、浮足立った理性を攫っていく。来る。ここに来る。我々人間という種を滅ぼすために。使徒の穿った暗黒の眼窩に宿る死神が、その顔を覗かせたような気がした。
 オペレーター達の後方では、使徒が身体中から放つ瘴気に血と毒を入れ替えられるのを防ぐように、疼き始めた古傷を右手で庇うミサトがメインモニターを睨み据えている。今なすべき事は、速やかに迎撃プロセスを組み立て、まるで使徒の毒気にあてられたオペレーター達の意識を覚醒すべく体勢を整えること。

「エヴァの地上迎撃は間に合わないわ。弐号機をジオフロント内に配置。本部施設の直援に回して。アスカには目標がジオフロントに侵入した瞬間を狙い撃ちさせて!」
「はい!」
「零号機は!?」
「ATフィールド中和地点に配置されています」
「左腕の再生がまだなのよ」
「……戦闘は無理か」
「レイは初号機で出す。ダミープラグをバックアップとして用意」

 戦闘指揮官たるミサトが指揮権を発動させる最中にゲンドウが口を挟む事は珍しい。振り返ったミサトの探るような視線の先で、ゲンドウはメインモニターの上に嘗て見た事のない厳しい目を向けていた。

「はい」




 第3新東京市に南側から進路をとる第14使徒に対しその北側へと疾走するプジョーは、強羅を掠め金時山の麓にノーズを向けていた。山間を縫うような径の小さい幾つかのコーナーを駆け抜け、ヘアピンカーブからの立ち上がりにアクセルを踏み込んだとき、凄まじい轟音と共に銀色の車体は大きく跳躍した。

「―――くっ」

 着地時にトラクションを失い、横っ飛びするように流れるプジョーのテール。それでもカウンターステアを一発で決めたミキは、絶妙なるアクセルワークとリミテッドスリップデフにより暴れるプジョーを強引に捩じ伏せた。しばらくして大きく開けた視界に映し出された展望台脇のシェルターに群がる人垣を見つけるや、ラフとも言える挙動でミキはブレンボのブレーキシステムを作動させた。

「……駒ケ岳防衛線がこんなに簡単に破られるなんて」被弾し、いまだ消えない十字の火柱を見つめ、ミキは哀しげに呟いた。
「……………」

 第14使徒の攻撃を受け、血を吹き出すように幾多の黒煙を吐き出す第3新東京市。都市全体を俯瞰するように見渡せる展望台としても有名なその場所は、ジオフロント内のシェルターに避難しようとする人々、更に第3新東京市から脱出しようとする人々でごった返し、ターミナル駅さながらの様相を呈していた。

 ――大丈夫。ジオフロントのシェルターにいれば安心だ。早くシャトルに乗るんだ。
 ――そこがこの地上では一番安全な場所なんだよ。
 ――いいから、行こうよ! とにかく逃げようよ。少しでも遠くに。
 ――こちらネルフ保安局です。皆さん、慌てないで並んだ順にシャトルのプラットホームへとお進みください。押さないで、押さないでください!

「……シンジ君」

 シンジの眼の前に開ける第3新東京市のそこかしこに、使徒の攻撃による火柱がふたたび上がり始めた。その距離にもかかわらず、地を揺るがす轟音と爆風が展望台に打ち寄せるたびに、人々は恐怖に身を竦め、悲鳴を上げた。

「……僕は。僕は二度と乗らないって決めたんだ」
「シンジ君! レイちゃんの――!」

 差し伸べられたミキの手を振り切るように踵を返したシンジ。想いを溶かしたその手の向こうで小さくなっていくシンジの背中は、小刻みに震えているようにも見えた。

「……ごめん、なさい」

 ――まだ乗られる方はいますか!? このシャトルが最終となりますので、ジオフロントのシェルターに向かわれる方は急いでお集まりください。
 ――え? お嬢ちゃん、一人なの? ママは、パパは? はぐれちゃったのかい?

「ちょっと、君。悪いんだが、この子をジオフロントのシェルターまで連れてって貰えないか?」
「え? あ、はい……」

 襟首を捕まえられたように声を掛けられたシンジが向けた目の先では、大きなスヌーピーの縫いぐるみをひしと抱いた小さな女の子が不安気に瞳を震わせていた。

「ここにいる」
「え?」
「……パパとママが来るから、ここにいる」
「でもね、お嬢ちゃんね――」
「ここにいるもん!」

 ギュッと抱きしめたスヌーピーに顔を埋めてしまった女の子に、保安局員の男は、うーんと頭を抱えこんでしまった。

「どうしたんですか?」

 ネルフのIDを手に近づいたミキに、保安局員の男はその幼女には届かない声でミキにあらましを述べた。市内に住んでいたと思われるが、最寄りのシェルターに避難する途中、使徒の攻撃によりその地域の住民はほぼ全滅となったこと。生き残った近所の人が瓦礫に囲まれて泣いていたその子を何とかここまで連れては来たが、親を待つと言って聞かないこと。そして、その両親は恐らくもうこの世には存在してはいない、ということ。

「……そう」

 哀しげに呟いたミキの視線の先で、その幼女は小さな手で必死に抱きしめたスヌーピーに顔を埋めたまま力無く身体を震わせている。

「…だったら、あたしに任せて。この子が納得するまでここに一緒にいて、後であたしの車でシェルターに連れていくから」
「……解りました。ただ、出来るだけ早く避難してください。ここもいつまで無事かは解りませんので」

 ありがと、と男ににっこり微笑んだミキは、戸惑いながらも成り行きを見守っていたシンジの背中を押すように微笑を添えて首肯いた。

「ねえ、お姉ちゃんと一緒にパパとママを待ってよか?」

 身を屈めて女の子の頭を撫でたミキに、スヌーピーから顔を少し離した女の子は、涙でいっぱいの顔に可愛げな笑顔を滲ませた。

「………うん――」

 目も眩まんばかりの光に何もかもが覆われた。
 強固な意志を孕んだ圧倒的な光に飲み込まれた展望台は全てを白に染め抜かれ、現存した日常は瞬時にして掻き消された。
 巨大な質量を持った見えざる壁が倒壊してきたかの超高気圧は展望台に存在する何もかもを押し潰し、続いて津波のような波動が怒涛の如く襲いかかった。
 爪と牙を剥き出しにしたそれは、途轍もない速度で其処に存在するあらゆる物質を蹂躙した。超高気圧に歪んだ展望台施設や車をおもちゃのように吹き飛ばし、人間を分解し木の葉のように上空へと巻きあげた。ソニックブーム。容赦のない烈風と地獄の開門に等しき轟音に、裂帛の阿鼻叫喚が木霊した。

「……ぐ……閉鎖、閉鎖ぁ!」

 激しく乗車口の隔壁に叩きつけられ血塗れとなった保安局の男が、今際の声をあげながら決死の形相でシャトル乗車口の隔壁を手動で閉じていく。寸でのところで乗車口の内側に身体を入れていたために難を逃れたシンジは、反射的に頭を抱えた目の前で徐々に狭まる外界の光景に我が目を疑った。一転して戦場の惨状を晒している広場の中に、ここまで自分を導いてきてくれた女性が倒れ臥しているのを視界に捉え目を見開いた。その女性は幼女の身体を庇うように自らの細い身体を重ねていた。

「お…お姉さ――」

 次の瞬間、天雷を凌駕する轟音と閃光が外界を覆い尽くした。隔壁が閉じられる寸前、声を上げる暇も無く四散した保安局員の男。刹那耳に届いた母を呼ぶ幼い声はこの世を揺さぶる裂帛の轟音に塵のように飲み込まれていった。
 大地が割かれるような激しい震動と鳴動に包まれ、電源の落ちたシャトルのプラットホームはパニックの様相を呈していた。恐怖にひきつる叫び声に泣き声が、蝉時雨のように曇ったシャトルの窓に降り注いでいた。

 ――お、俺達は閉じ込められたのか!? ここに!?
 ――イ、イヤ! もうイヤッ! なんでなんで、こんな目に!
 ――外はどうなってしまったんだろう…。
 ――ほ、本当にジオフロントのシェルターで大丈夫なのか?

 陰惨を詰め込んだプラットホーム内に二三度瞬いて照明が点灯し、次いでシャトルのエアロックドアが開放されると、プラットホーム上の人間は転がりこむように我先にと乗り込んだ。少しして場違いとも思えるほどに柔かなアナウンスが流れた。

 ――こちらネルフ保安局です。ここの施設を非常系統による通電に切り替えました。このシャトルはジオフロント第3区画第4シェルター行きです。5分後に出発しますので、お乗り遅れのないようご注意ください。

 群衆の溜め息が大きな塊となり空気を揺るがせた。シンジは、体の最も深い部分に心を閉じこめるように、シャトルの片隅で堅く目を閉じ震える膝をただ抱いていた。




「……碇」

 幾多の"REFUSAL"の文字を点滅させたアラートで埋め尽くされた発令所のメインモニター。広告塔のようにただ表情を変え続けるディスプレイを眺め、冬月は呻くように呟いた。

「……ああ、私を拒絶するつもりか」低く応えたゲンドウ。組まれた指の上から厳然さを湛えた双眸でモニターを睨み据えた。「起動中止。レイは零号機で出撃させろ。初号機はダミープラグで再起動だ」
「しかし零号機は!」

 ――構いません。行きます。

 ざわめき立った発令所内。どうやって戦うんだ、と呻くような囁き声が漏れた。

(……そう……碇くんの悲しみに、碇くんの痛む心に、目を覚ましたのね……)
(……私は……)
(……だめなのね、もう……)

 初号機による絶対的拒絶により組み立てられつつある結合を身体から剥離されたレイは、内臓を絞られるような肉体的苦痛を凌駕する哀しみに、その幼い感情を奈落へと沈ませた。

(……でも、それでも……)
(……私は行く……)
(……私が自分で決めたことだもの……)
(……例え、この身体を……今のこの心を喪っても……)
(……碇くん……)

 …………私が死んでも代わりはいるもの。




「………ツ」

 まるで竜巻が通り過ぎたように何処彼処に残された爪痕も無残な展望台広場は凄まじいまでの変容を遂げ、その片隅では銀色のアウディが逆さまになって鼻先を叢に突き立てている。惰性で力なく回るタイヤだけが、そのシーンの中で唯一の動きを見せていた。

「おい……無事か?」
「……は…い、何とか」

 車体がふわっと浮いたと思った次の瞬間からは訳が解らなかった。断続的な重鈍い衝撃に次々と炸裂するエアバッグの感触だけが身体に刻まれていた。少しの打撲以外に怪我らしい怪我も見られないことを神に感謝し、霞がかった頭に沁みる青空にはっきりしない目をピラー越しに向けながら脱出と避難の手順を組み立てた。
 無数のガラス玉となった窓ガラスを払って身体を這い出させると、若竹は辺りに素早く目を配らせてから後部座席を覗き込んだ。

「大丈夫か? 長門は?」
「気を失ってますが、大丈夫です。息はあります…」
「そうか…よしっ、先ずは長門を出すぞ。ゆっくりとだ」

 間一髪だった。第一種戦闘配置へのプロセスが組み立てられる最中、ギリギリのタイミングで許可を受けたカートレインに車を載せようとした時、GPSモニターのなかで第3新東京市の北部に急行するプジョーを見つけて顔色を喪った。第14使徒は南から第3新東京市へと進路を取っていたが、その車の目的地と思われる金時山の周辺では攻撃を受けた場合、衝撃波を防ぐような構造物は存在しない。悲惨な攻撃に晒される第3新東京市を脇目に疾風のようにアウディを北へと走らせる若竹。銀色のボディーをボートのように滑り込ませた展望台の駐車場から、プジョーの向こうに幼い少女の手を取りシェルターの入口に佇むミキらしい姿を認めた瞬間、近隣に着弾した使徒のエネルギー弾の衝撃波が展望台を吹き荒れた。凄まじい衝撃に暴れるアウディの車体。外界では衝撃波の直撃を受け、一撃で全身の骨という骨を砕かれた人々がその肢体を散らし、奇妙な影と赤い霧を上空へと躍らせた。瞬時にして阿鼻叫喚の地獄に堕ちゆく展望台広場。ミキの名を叫びながら見境なく車から飛び出した杉が、足を縺らせ転がるように倒れ伏すミキにその手を届かせたとき、まるで太陽が堕ちてきたと思わせるほどの光が全てを包みこんだ――。

「………った」
「おい、どうした?」
「……よかった…長門……よかった…」
「……杉よ、脱出が先だ。長門を連れて帰るんだ。本部に戻るんだ」

 ……よく間に合ったものだ。直撃の二文字が脳裏に浮かんだ次の瞬間には、隈なく埋め尽くした閃光と爆音の中で、ミキを抱えた杉の腕を車の後部座席に引っ張り込むので精一杯だった。そしてドアを閉じる間もなく、三人を乗せた銀の方舟は風に吹かれた埃のように舞い上げられたのだ。
 ひっくり返った亀のような銀色の車体は、見るも無惨な外見を晒してはいるが、時に戦車に例えられるキャビンの堅牢さと八つのエアバッグが乗員の生命を守ってくれた。辺りに散らばる鉄の骸となった他の車の残骸を横目に、今更ながらシャツの下を不快に流れる汗を感じながらも、後部座席から引き出したミキの身体を慎重に抱き上げる。ショートカットにいまだ少女の面影の消えないミキの体重は痛いくらいに軽かった。扇のように閉じられた長い睫はピクリとも動く様子は見えない。再びその瞳が開かれたときに流れるであろう涙を、出来れば見たくは無いと若竹は思った。

「……酷い」

 車から這い出した杉は、一頻り辺りを見回すと続く言葉を喪い立ち尽くした。それは、遠い昔どこかで見たことのある地獄絵図さながらの光景だった。構造物らしい構造物は原形を留めず、人の部位が大小の肉塊となって其処彼処に転がり、大地に赤黒っぽい染みを浮かべている。数刻前までそこにあった日常の一切の残存を許さないまでに圧倒的な力で駆け巡った強固な意志。見渡す限り動いている生物が自分達だけだという現実に、怖れとは異なる感情がふつふつと身体の内奥から湧きあがった。

「課長…俺、長門と一緒にいた女の子、救ってあげれませんでした……」
「……仕方がなかったんだ……どうしようも…どうすることも……出来なかったんだよ」

 抑え切れない怒りを、喉の奥につかえる無力感という塊とともに飲み込むと、若竹は血を絞り出すような声を震わせた。




「ダメです!! あと一撃で全ての装甲が突破されます!!」
「頼んだわよ……アスカ」


「……来た」

 それは、通信回線越しに届いたミサトの声を掻き消すほどの轟音を葬送曲の如く従え、その禍々しい能面を露わにした。
 夥しい建造物の残がいや瓦礫をジオフロント内に降らせる天井に向かって、アスカはパレットガンの照準を定めた。

「シンジがいなくったって、あんなのあたし一人でお茶の子サイサイよ!」

 フルオートで吐き出される120ミリ劣化ウラン弾が超貫通力を持った槍となり第14使徒に降り注ぐ。だが、超高速で到達したその弾頭は、使徒の鎧のような表層部分で粉砕され夥しい熱エネルギーを放出させて続々と蒸発していった。

「ATフィールドは中和してるって言うのに……なんで…なんでやられないのよ!?」

 ――パルス消失! 初号機、起動しません!!

 !

(……初号機が起動しない?)
(……それじゃあ、修理が終わってない零号機で出るファーストは……ファーストのことだから……)
(……あたしが…あたしがやらなくちゃ)

 マガジンが空になったパレットガンを捨ててロケットランチャーを手にしたアスカは、ジオフロントの大地を軋ませ降り立った第14使徒に狙いを定めるや、悲壮さを滲ませた声を絞り出す。

「あたしは、絶対に負けられないのよ!」

 次の瞬間の事だった。使徒をもうもうと包みこんだ爆煙と粉塵の中で、何かが煌めいた。刹那、動物的とも言える勘で何かを感じ取ったアスカの背中をゾクリとしたものが伝った。
 斬。身を翻す一瞬前には、弐号機の両腕は断裂されスローモーションのように空を舞っていた。

「……あ」

 両の腕をもがれたに等しき凄絶な痛みがアスカの全身に通う神経を割った。

「あああああああああああ!!」

 身体を内側から熊手で掻き回されるような激痛に見舞われながらも、それでも飛ばされる汀でその意識を踏みとどめたアスカ。

「…あ…あたしは…惣流・アスカ……ラングレー」

 ゆらりと持ちあげた双眸にひときわ清冽な蒼が爆ぜる。

「…あたしは…あんたをここから先には…何があっても……行かせない」




 ジオフロントの懐深くに位置する第3区画第4シェルターを、断続的に奔る地響きが縦横に揺らしている。その都度、100名を超える避難住民達からの悲鳴とも叫びともつかない声がシェルターの中を跋扈した。
 その仄暗いシェルターの中で、陰惨に押し潰されるように背を丸め膝を抱えるシンジは、世の総てを隔絶するように歪ませた顔を地面に俯かせていた。

 もう何も考えたくない……僕は…僕は――。

 シンジの虚ろな意識は、耳を弄する爆音で突如として現実に戻された。咄嗟に叫び声を漏らして身を縮めたシンジの耳に入ってきたのは、発狂したような人々の悲鳴、呻き声、そして細い絹糸のような子供の泣き声だった。
 ゆっくりと視線を上げた先、シェルター内を浮遊する灰燼が沈殿していく向こうに認めたものは、まるで血飛沫に染められたような弐号機の頭部だった。

 !

 ――うわああー! ゆかり! ゆかりぃーっ!
 ――だ、だ誰かー!
 ――パ、パパ……パパっー!
 ――だ、誰か手を貸してくれっ! 人が、人が何人も下敷きになってるぞ!
 ――ネルフ保安局です! 生存者は、急いで隣の第3シェルターに避難してください! 外に出たら身を低くして――。
 ――なんだと! お、俺の、俺の女房が下敷きになってんだぞ。それを、放っていけと言うのか! おまえは!
 ――ちょ、一寸待ってくださいよ。第3シェルターより第5シェルターの方が近いんじゃないですか?
 ――第5シェルターは…先ほど直撃弾を受けて蒸発しました……。
 ――え? まってよ、あんた……あそこはここの倍以上の規模じゃあないのか……ひ、人はっ!? 人もかっ!?
 ――…………………。 
 ――うわーーーーーー! もういやだもういやだもういやだ。

 どこにも焦点を結ばないシンジの目の縁で、ネルフ保安局の職員が瓦礫に埋もれて事切れた肉親に縋り付く少女を無理やり引き剥がし、近くにいたシンジの腕をも乱暴に引き上げた。
 よろめきたたらを踏んだ後、シンジは男に引かれるまま出口へと歩を進めた。




「――パルス消失、ダミーを拒絶! ダメです!! エヴァ初号機、起動しません!!」

 一面血に染まったようなメインモニターは、浮かび上がった幾多のREFUSALの文字を機械的に浮かび上がらせている。

「……ダミーを…レイを」

「……受け入れないのか」

「冬月…少し頼む」

 昇降機に姿を消したゲンドウに一瞥を送ったのも束の間、冬月は副司令の顔を凛然と発令所全体に向けた。

「零号機を上げるぞ。片腕じゃ近接戦闘は出来ん。初号機が起動するまで時間を稼ぐんだ。遠距離からライフルとランチャーで使徒の動きを牽制するんだ」
「はい! マヤ、零号機はライフルと一緒に出して! 日向君、ジオフロントに配置している全ての自走式VLSを第14使徒にロック・オンして!」
「はい。零号機は既に起動プロセスを終了。現在待機中です、が」
「どうしたの? 何かあった、マヤ?」
「は…い、零号機ですが現在双方向回線は生きていません。プラグの内側から通信をカットしているようで、レイちゃんからの応答、ありません…」
「レイ!?」

 身体を駆け抜けた何かしら不吉な予感に、思わずミサトはその少女の名を発令所の中に響かせた。




「…………アスカ」

 轟音を曳きながら空を走る夥しい火線の下で、壮絶なる立ち往生の体で事切れている真紅の巨人。嘗て見たことも無いその凄惨な姿を目の当たりにして、シンジは絶句した。頸部と両腕を喪った紅い機体は、一心同体ともいえる少女が流した血涙により深い暮色に沈んでいるようにも見えた。見るに堪えれなくなったシンジが、堪らず俯かせた視界の縁に、何か見覚えのあるものがその影を落とした。反射的に膝を折り目を凝らしたシンジは、それが煤けてずたずたになったスヌーピーのぬいぐるみだと理解すると、セルロイドの人形のように顔を歪めた。

「シンジ君じゃないか」

 一縒りの光明にも感じたその声は、煉獄の汀に堕ちつつあった魂をシンジに引き戻した。泣き叫ぶ子供の声。シェルターへと走る住民、そして必死の形相で誘導を繰り返す保安局の職員。大地を軋ませる爆発音に、魂さえ揺さぶる衝撃波が断続的に押し寄せる。振り返ったシンジの視界に加持リョウジの姿が映し出された。

「……加持さん……何やってるんですか、こんなところで?」
「それはこっちのセリフだよ。何をやってるんだ、シンジ君は?」
「……ぼくは…ぼくは、もうエヴァには乗らないから…そう決めたから」

 加持の言葉にシンジを非難するニュアンスは微塵も含まれてはいない。が、無残な姿で事切れている弐号機を目の前にして、シンジは加持の視線を正面から受け止める事が出来なかった。
 ……そうか、とトーンを沈ませた加持に、胸の深いところで疼きを覚えたシンジ。

「アルバイトが公になったんでね。戦闘配置に俺の居場所は無くなったんだ…以来、ここで水を撒いてる」
「こんな時にですか?」
「こんな時だからだよ。葛城の胸の中もいいが、やはり死ぬときはココにいたいからね」
「死ぬ?」
「そうだ…使徒がここの地下に眠るアダムと接触すれば、人はすべて滅びると言われている…サードインパクトでね。それを止められるのは、使徒と同じ力を持つエヴァンゲリオンだけだ」

 静かな口調でもその言葉の重さにシンジが顔を俯かせた時、微震を伴い油圧駆動の作動する音が大地を揺らした。
 反射的に振り返ったシンジの双眸に飛び込んできた碧き隻腕の機体。

「綾波、ライフルも持たないで!?」

 その機体から迸る切迫した気概に、小脇に抱えた鉄塊に、シンジは目を剥いた。

「綾波ぃぃぃ!!」




「N2弾頭弾ですって!?」

 警報が縦横に奔り赤一色に染め上げられた発令所では、マヤから齎された報告がそこにいるオペレーター全員を凍てつかせた。零号機のATフィールドによる敵ATフィールドへの干渉、突破。そしてN2弾頭弾によるゼロ距離攻撃。瞬時に想像を巡らせたその戦法は、遂行の可否への考察さえ唾棄するものだった。

「自爆する気!?」
「レイッ!」

 リツコが絞った悲愴な声にゲンドウの叫び声が交差する。


 使徒との間合いを一気に詰めた零号機は、ゲージが振り切れるほどのATフィールドを展開。遠雷にも似た爆音に続いた衝撃波が周辺の建造物や樹木を浚うように吹き飛ばす。のっそり向き直った第14使徒のコアに目掛け、まるで一体化されたようにN2弾頭弾を握り締めた右腕一本による乾坤一擲の攻撃を繰り出す零号機。その捨て身とも言える怒涛の攻撃を強靭な盾となった使徒のATフィールドが受け止める。干渉面から迸る閃光に続いて、耳を聾する轟音を併せ持った衝撃波がジオフロント内を吹き荒れた。


「ATフィールド全開」

 N2弾道弾の信管部をピンポイントとして第14使徒のATフィールドをジリジリと浸食し始める零号機。だが次の瞬間、使徒の絶対的力場の色彩が肉眼でも判別できるほどの変貌を遂げた。

「目標のATフィールド更に高まります! ダ、ダメです、零号機のATフィールド、浸食されます!」
「やはり片腕では……」誰とも無しに呟いた言葉が発令所内にポトリと落ちた。

 零号機を見据える禍々しい眼窩から、獲物を品定めするようにチロチロと蛇の舌のような赤い光が迸った。その影を薄めるまでに濃厚なオレンジ色へと変貌したATフィールドが、零号機の絶対的領域への浸食を一歩また一歩と進めていく。金属同士が噛み合うような不協和音がジオフロント内を震わせた。









「……この世界のどこかにいる碇くん」




 激しい震動に見舞われる零号機のエントリープラグの中、シート脇のコンソールボックスで小刻みに揺れるシンジのIDカードが小さな音を立てている。







「……碇くんは…碇くんだけは」














「わたしが、守る」



 突如としてジオフロント内に大地が爆ぜたような大轟音が奔った。大きく揺さぶられた発令所に差し込む新たな警告音。オペレーター達の悲鳴が渦を巻いた。

「な、何、一体!?」
「……え…ATフィールド、です」必死にその華奢な身体を席にしがみ付かせていたマヤが、モニターを食い入るように凝視している。
「ええっ、使徒がまだ!?」
「……い、え」

 席から半分腰を脱落させた体勢のままキーボードの上に指を走らせる。

「……零号機です。…こ、これまでの倍以上の力場を展開、更に高まります! …で、でも……」見開いたマヤの双眸を通して、その脳に理解不明なデータが流れ込んでいく。「…こんなの有り得ません……零号機の規格から理論上有り得ません………そ、それに」見る見るその眸に畏れの色を滲ませ、見てはいけないものを見てしまったかのように顔を歪ませると、小さく首を振りながらマヤはモニターから顔を遠ざけていった。

 コーヒーカップが床で破砕した。反射的に顔を向けたミサトの視線の先で、見開いた瞳を揺らせるリツコがメインモニター越しに届く筈のない手を碧い巨人に伸ばしていた。

「レイ、だめ! ……あなたの、あなたの身体がもたない!」

 ネーブルの色彩を際立たせる零号機。巨大な橋梁を捩らせたような不協和音が飛沫をあげるように飛び散るなかで、いかなる攻撃にも微動だにしなかった第14使徒の足元が、低い唸り声と共に揺らいだ。

 その少女のたった一人の少年の為の、想いのたけのイージス。

 ATフィールドへの浸食を急速に進める零号機に、第14使徒は暗い想念を霧散させ、機械か獣か判別できない呻き声をジオフロントに鞭打つように波立たせた。
 破。次の瞬間、ガラスを爆砕するような炸裂音に続き、N2弾頭を孕んだ鉄槌となった零号機の拳が第14使徒のコアに打ち込まれた。作動するN2弾頭弾の近接信管。レイはまだ機能を失っていないその目で使徒のコアが殻のようなもので覆われるのを見たと思った次の瞬間、1000万度に迫る火球となった右の手から放射された熱線とゼロ距離で起爆した爆炎が時間差を見せずレイを襲った。まるで太陽を抱いたような光と熱の中、何ら苦しみや痛みを覚えることも無く、レイの意識は風に薙がれるように霧散した。刹那、脳裏に掠った少年の残像と共に。




「……う…うう」

 津波のような衝撃波に数メートルも後方に飛ばされたシンジは、よろめく身体を加持に支えられ辛うじて身体を起こした。朦朧とする頭から靄を振り払い、探しものをするように凝らした眼の先に広がる光景にその顔色を失った。
 撒きあがった夥しい砂塵や瓦礫がそこだけ重力を喪ったように浮遊している。そして、その中心で一層の妖気を際立たせた第14使徒の足元に転がる命の息吹の片鱗さえ感じさせない隻腕の機体。超超高熱で焼かれた特殊装甲はその表層を蒸発させ、下から覗く装甲の殆どは炭化し、断たれた頭部からは脳漿が顔を覗かせている。

「………あ………あ………あ…や…なみ」

 背中を震わせるシンジから視線を離し、加持は飛ばされたジョウロを拾い上げた。

「あれが、レイちゃんに出来る精一杯の闘い方だったんだろう……シンジ君、君なら解るんじゃないのかい? 彼女がどんな想いで、ひとり使徒に向かっていったのかを」

 ジオフロントの中で断続的に響き渡る遠雷にも似た轟音。それら全てを掻き消しシンジの脳裏で広がりを見せたのは、仄白き月のしな垂れかかる月夜のイメージだった。

 月をむこうに佇む少女。消え入りそうに儚くたおやかな背中。風のように流れたコトバがシンジの耳朶を打つ。



……あなたは死なないわ……
……わたしが守るもの……




「シンジ君、俺はココで水を撒く事しか出来ない。だが、君には君にしか出来ない君になら出来る事がある筈だ。誰も君に強要はしない。自分で考え、自分で決めろ。自分がいま何をすべきなのか。…後悔の無いようにな」

 僕にしか出来ない、僕になら出来ること。
 僕だからこそ…守れるひと。
 そして、僕が守りたい、ひと。
 そのために、ココにいたんだ。
 エヴァに乗ってきたんだ。
 世界を、人類を守る?
 そんな、そんな現実味のないものの為にじゃあないんだ。
 僕が守りたいのは……僕がこの命に代えても守りたいのは――。



互いを支え合いながらの月夜の暗夜行。
交わした言葉、そして約束。




(……そして、僕自身が誓ったこと)



――シンジ君……レイちゃんの気持ちを全然分かってない。
レイちゃんがね、どんな思いで――




 僕…僕は……バカ、だ。

 激しい火線が飛び交う下、脱兎の如くシンジは駆けだした。大地を揺るがす衝撃波に幾度身体を絡め取られながらも、その目はただ一点を見据えていた。




「第三基部に直撃!」

 断続的に大地を揺るがす音とは明らかに異質な爆音が発令所の中を渦巻いた。気圧の変化に耐えかねた鼓膜が悲鳴を上げる。そこにいた殆どのスタッフは、本部施設が致命的な損壊を被った事を直感で悟った。

「最終装甲板、融解!!」
「マズいっ! メインシャフトが丸見えだわ!」



(……奴め、来たか)

 ケージを俯瞰する管制室を揺るがしたひと際大きい震動を受け止めると、ゲンドウは地上を仰ぎ見た。

「ダミープラグ、拒絶!」
「ダメですっ! 反応有りません!」

 泣き叫ぶようなレポートが縦横に走る管制室にゲンドウの声が重く響いた。

「続けろ。もう一度108からやり直せ」

 はっ、と即応した複数の声に続き、ふたたび組み立てられる起動プロセス。ゲンドウは動き始めた幾つものインジケーターにサングラス越しの眼光を鋭くした。



(……待っていろ)
(……まだ……まだその身体を)
(……心を喪ってはならん……………レイ―――)





「乗せてください!」

 !



「…ぼくを…ぼくを……この、初号機に乗せてください!」



















 ……ユイ。





 ……………これで、良いのか。











 …………ユイ……私のシナリオは……。




「総員、退避! 繰り返す、総員、退避っ!!」

 発令所を吹きすさぶ警報に押されて、蟻の子を散らしたように退避行動を始めるオペレーター達。しかし使徒の動きは早かった。微震に続き炸裂するように崩れ堕ちたメインモニター。たち込める塵煙の中に浮かび上がったヴェネツィアのマスケラが如きその顔には、底の見えない漆黒を湛えた眼窩に口腔が刻まれている。

「くっ!」

 ブラックホールのような眼窩の底から光が迸りを見せたとき、発令所にいる全員は次に身に降りかかるであろう逃れようのない死に身を竦ませた。その中で、ただひとり真っ向から第14使徒に対峙する人影があった。葛城ミサト。選択肢の許されない絶体絶命の中にあって、右手が白むまでクロスを握り締めたミサトは、かつて父の魂を浚っていったかの使徒を、眼の前の第14使徒越しに見据えていた。


「させるかっ!」

 発令所の隔壁を爆砕して暴れ込むように姿を現した初号機は、今まさにミサト達に向けてエネルギーを照射させようとしていた使徒に掴みかかった。バランスを崩し倒れ伏す二体。その巨躯を受け止めた隔壁が悲鳴をあげ、空間に激しい地響きからなる轟音を轟かせた。組み伏せた第14使徒の異形のマスケラを目の当たりにすると、虫けら同然にその命を散らされていった人達が、凄惨な最期を遂げた弐号機が、煉獄の焔で焼かれた零号機の無残な姿に重なる少女の想いが、凍っていたシンジの血脈を押し広げて駆け巡り、爆発的な激情となって膨れ上がった。

 よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも――。

 焼け落ちそうな胸の底からとめどなく吹きあがる激情。怒りの双拳を嵐のように降りそそがせる表情を刻まないマスケラを睨み据えると、シンジの胸の中で燻り続けてきた疑問が膨張し切った風船のように弾けた。使徒。神の使い。天使の名を持つヒトの敵。

「何故だ!? ……何故おまえ達は……何故だ!?」

……レハ


「!?」

……ワレハ……コノホシノ、セイトウナル、ケイショウシャ……


「何を!?」

 地獄の深淵から湧き立ったような暗い波動が直接脳に響くや、ぬらりとした想念がシンジのヒトとしての理性を犯すように流れ込んだ。まさに振り下ろされんとした鉄拳がビクリと虚空に釘付けになると、予兆無く使徒の眼窩から放たれたエネルギーはその左腕を空に飛ばした。間隙を置かず焼き切られたが如くの激痛がシンジの左腕を襲う。が、肝まで凍てつくほどの生存本能への激しい警鐘は、その自覚を遥かに凌駕した。

「うおおおおおおおおーっ!!」…こいつは……こいつらは、一体!?

 砲弾のように使徒に身体を打ちつけた初号機は、その巨躯を一息に射出台の壁面に叩きつけた。大轟音に揺れる発令所。

「ミサトさんっ!」
「五番射出、急いで!」

 揉み合うように射出トンネルへと吸い込まれる二つの巨影。顔が歪む程のGに全身の血液がじわりと引いていく。初号機の強靭な右手に掴まれ軋みを上げる第14使徒の容貌を睨み据えるシンジの双眸には、壁面に押しつけられた使徒の後頭部から迸る火花の文様がただ映し出されていた。
 間隙を置かず地響きを伴い射出孔から吐き出された巨大な影が、ジオフロントの空に大きな弧を描いた。耳を聾する轟音が大地を震わせる。全体重を掛けて第14使徒の巨躯を地面に叩きつけた初号機は、反撃の暇を与えず鉄拳で打ち据え、鷲掴みにした顔面からマスケラを引き剥がすように高らかと持ちあげた。

「くったばれええええええ!」

 !?

 ゆっくりと全身から血液が抜け落ちていく。忘却の遥けし彼方に押しやっていたその感覚を知覚するまでに、シンジは数拍を要した。いま最も忌避したい現実は、底知れぬ力の漲りを保っていた筋肉がその電化を解かれ、一本、また一本と解かれていく神経接続により現実のものとしてシンジに覆い被さってきた。

「そ、そんなっ! こんなと、くっ!?」

 いまや電化が解かれた仄暗いエントリープラグの中で、気が触れたように操縦桿を動かすシンジの身体に突然襲いかかったG。そしてどこかに叩きつけられたかの衝撃にシンジの口から苦しげな喘ぎ声が洩れた。
 軽い脳しんとうに見舞われながらも、シンジはこの世との命綱のように操縦桿を堅く握り締めていたが、みぞおちに焼け火箸を突っ込まれたような激痛にその身を大きく仰け反らせた。

「…く……な、何でだよ」

 それでもシンジは操縦桿を力なく前後に振り、虚しい作動音をエントリープラグ内に響かせ続けた。

「いま…いま、動かないと……何にもならないんだ」



















 …………動い、てよ。















 …………動い、てよ。

 …………動いてよ。

 ………動いてよ。

 ……動いてよ。

 …動いてよ。

……ナニヲ…


 動いてよ。

…ナニヲ、ネガウノ? …


 動いてよ動いてよ動いてよ。

…ナニヲ、ネガウノ? …


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…ダメ…


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…カノジョ、ハ…


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…アノコハ、ダメ…


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…マタ、クリカエスノヨ…


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…オワルコトノナイ、クルシミヲ…クリカエスノヨ…


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

……イイノ? …


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。

…ソレデモ、イイノ? …


 動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ動いてよ。












…シン…ジ…













「綾波いいいいいいいいいいいいーーーーーー!!」
















 引き潮に取り残されたが如く寂びかえったジオフロントに低く響いた鳴動。

 審判の槌のように厳かに響いたその鼓動は、あまねく一切衆生の魂魄をも打ち据え、

 ふたたび大地を踏みしめた紫紺の巨人の姿に、人々は新たなる時代への転轍を見た。

 幽鬼の如く大地を踏みしめるその巨人の一閃で後方の山稜ごと体躯を断裂された第14使徒は、

 瞬く間にその質量を収束させ、生命の焔共々紫紺の巨人へと取り込まれた。

 烈風が渡り砂塵が吹き募るジオフロント。まるで産まれたての赤子が如く重い歩を大地に噛ませる紫紺の巨人。

 戦慄くその手は、先に打ち臥せる蒼碧の巨人へと真っ直ぐに伸ばされている。

 その求むるは、彷徨いし邂逅か引き裂かれし魂の残片か。

 眩いばかりの光輪を頭上に顕わした巨人の咆哮が、ジオフロントを覆い尽くすように高らかに鳴り響いた。









To be continued





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