一人目は笑わない

Written by 双子座   


プロローグ

「あんたなんか……あんたなんかね……」
少女の視界が赤く染まり、キーンという不快な金属音が頭の中に鳴り響いた。
――白衣の女が少女の首を絞めている。
四十は過ぎていると思われる女が、まだ五つになるかならぬかという少女の首を本気で絞めて
いるのだ。
異様な光景だった。
白衣の女の顔は醜く歪み、殺意と憎悪が熱風となって全身から吹き出しているかのようだった。
少女は手を振りほどこうと女の手に爪を立てるが、所詮は幼児の力。抗するすべもなく、視界
が赤から完全な暗黒へと塗りつぶされようとした、そのとき――
「やめて、母さん! 何やってるのよ!?」
首から手が払いのけられ、決壊した堤防から水が流れ込むように、少女の肺に空気がどっと送
り込まれてきた。
「大丈夫?」
少女の命を救ったのは、若い女だった。
けっ、けっ、と、猫が毛玉を吐くような音を立てて咳き込んでいる少女の背中をさする。
突き飛ばされて尻餅をついていた女は、惚けたように少女と若い女を見つめていたが、はっと
我に返ると喉の奥でくぐもった悲鳴を上げ、顔を両手で覆って絞り出すような声を上げて泣き
はじめた。
「母さん……一体、どうしてこんなことを……」
若い女は困惑と恐怖の表情を少女と白衣の女――母親に向ける。もう少しで自分の母親が殺人
者になるところだったのだ。
「私……私……」
涙に濡れた目が自分の娘と少女の姿を捉えた。
「違うのよ……こんなことするつもりじゃなかった……」
「しょちょう、が、しったら」
女の台詞を無視して、少女が苦しそうに咳をしながら口を開いた。
「しょちょうが、しったら、あなたは、ほんとうに、ようずみね」
女の涙と手の震えが止まった。少女を見る。今耳にしたことが信じられないといった様子だっ
た。
首を絞めていたときの火が出るような憎しみはその目から消え失せ、代わりに支配しているの
は恐怖だった。
若い女が少女の背中から手を放して、数歩後ずさる。
得体の知れない、しかし危険であることは本能的に分かる生き物にばったりと出くわしてしま
ったように。
「このことを、ひみつにしたいなら、わたしのいうことを、きくのよ」
身を起こし、たどたどしく言い終えると、少女は唇の両端を吊り上げた。
もし蛇が笑えるならこういう風に笑うに違いない――見るものにそう思わせる笑みだった。



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