一人目は笑わない

Written by 双子座   


1.

少年はふと視線を感じ、後ろを振り返った。
視線の先には――
――女の子?
たった今下ってきたばかりの坂の上あたりで、学生服を着た少女の姿が陽炎のようにゆらめい
ていた。
もっとよく見ようと目を細めたが、その瞬間、電線にとまっていたカラスの群れが一斉に飛び
立ち、その不吉な音に気を取られた。視線を戻した時には少女の姿は消えていた。
――何だったんだろう。僕の気のせい?
少年は額の汗を拭ってため息をついた。
――やっぱり緊張しているのかな。
父親に呼び出されてここまで来たものの、電話も通じない上に妙な幻覚を見るなど、お世辞に
も幸先のいい出だしとは言えなかった。
――困ったな。どうしよう……。シェルターに行くしかないか。
困惑する少年に「幸先のいい出だしとは言えない」どころではない災難が降りかかるのは、そ
れから数分後のことだった。

「あれが碇シンジ……」
少女は小首を傾げて呟くと、かたわらに待たせておいた黒塗りの大型車に乗り込んだ。携帯を
取り出してかける。繋がると一言だけ呟いた。
「作戦開始」
少女の言葉につられたように運転席の黒服の男がミラーに目をやる。
後部座席に座る少女と視線があった。
少女の赤い目は無機質で、人間味というものが全く感じられず、男はそこからどういう感情も
読み取ることはできなかった。
仕事柄、感情を表さない人間は腐るほど見てきているが、少女の目は今まで会ったどんな人間
のそれとも違っていた。
男はその違いを上手く表現出来ない。人間味がない? いや、人間ではない――。
男の思考がそこまで行き着いた、そのときだった。
背後から凄まじい破壊音が鳴り響いてきた。ミラーで背後を見ると、巨大な怪物の一部が目に
入った。
男は押し殺した唸り声を上げた。
ついに使徒が、この街、第3新東京市に来襲したのだった。
男は全身を緊張で漲らせ、少女に問いかける。
「どうしますか? 引き返しますか?」
少女はやはり無機質な目つきを変えず、無造作に言い放った。
「いい。死んだらそれまで」
男はうなずいた。いずれにせよ、今から戻ったところで何も出来ない。ピックアップは別のも
のが行っているはずだ。運がよければ助かるだろう。
ミラーに映る少女は、無表情のままだった。同僚――予定では――の生死など、地面を這いつ
くばるアリほどにも気にしていないように見える。
車内は冷房がほどよく効いているにもかかわらず、男は額に汗が滲み出るのを感じた。
――まったく薄気味の悪い娘だ。
そう思わざるを得ない。一般人には想像もできないような激烈な鍛錬と陰惨な経験を積んだ自
分が、なぜこの小柄な少女を恐れるのか、見当がつかなかった。
その気なら少女の首を一ひねりして殺すことなど造作もない。片手でも出来る。
しかし、もし実際にその行動を起こしたらどうなるのか。少女に手をかける前に自分は死ぬだ
ろう、と何の根拠もなく男は確信していた。オカルトか冗談のような話だが、男は本当にそう
思っている。
「そうね」と、ふいに少女が呟いた。「その通りだわ」
そして、唇の端をほんの少し持ち上げた。人間で言えば、それは微笑みにあたる感情表現だっ
た。
男の全身からどっと汗が出た。思わず声が出そうになる。
自分の思考を読んだのか。まさか。そんなことがあるわけがない。少女の独り言の内容が、た
またま自分の思考に関係あるようなものだっただけだ。つまり、ただの偶然だ。
――いや、この娘なら……。
男はそれから何も考えず、運転することだけに集中した。


――そんな……。
碇シンジは息を呑み、自分の腕の中で苦しげに呻く包帯姿の少女を見つめた。ほっそりとした、
いまにも壊れてしまいそうな少女だった。
こんな酷い怪我をしてる女の子を戦わせようと言うのだろうか? 
――戦わせる……僕が乗らなければ、この女の子が……。
シンジの呼吸が浅くなる。
掌にぬめりとした感触。見ると、血だった。
――まさか。嘘だ。
僕を騙すつもりに違いない、とシンジは思った。思わざるを得なかった。こんな現実は信じら
れない。嘘だ、嘘だ、嘘に違いない……。
シンジは父親にすがるような視線を送る。「冗談だ、シンジ」「ここは危険だ、あとは私たち
に任せて安全な場所に避難しろ」「落ち着いたらゆっくり話をしよう」――父親が、そう言う
事を期待して。
しかし、父親の冷たい目を見て、本気だということが分かった。
「やります」シンジは唇を噛みしめて言った。「僕が乗ります!」

「はい、カット」
シンジが去ったのを確認すると、綾波レイは身体を起こして軽く伸びをした。
「上手くいったわ。ミサトとリツコもご苦労さま。たまには役に立つのね」
そう言うと身体に巻きついた包帯をほどき、担架から降りて司令室に向かって歩きはじめる。
レイは上機嫌だった。即席に近い三文芝居だったが、シンジをまんまと騙して初号機に乗せる
ことが出来たからだ。
彼女にとって、他人が自分の意図した通りに動くことほど気分のいいことはなかった。
それにしても、迫真の演技だったのではないか。包帯に血糊までつけたのはやり過ぎと思わな
いでもなかったが。
レイは、思わずくっくっと喉の奥で笑う。
まったく、単純な男だ。訓練もしていない素人――それも十四歳の中学生を、いきなり実戦に
放り込むわけがない。そんなことも判断できずにその場の雰囲気に呑まれて承諾してしまうと
は。かなりの馬鹿かよほどのお人よしなのだろう。
馬鹿とお人よしは徹底的に利用されるのがこの世の常だった。
――せいぜい私に利用されなさい、碇シンジ君……。
しかし――。
レイの思考はそこで変わる。
――司令とミサトの言い方はないわ。
レイはそこが不満だった。担架の上で苦しそうな演技をしながら、内心ひやひやしたのだ。
普通に考えて、土下座してでも初号機に乗って貰わねばならない状況なのに、どうしてああい
う言い方をするのだろうか。
本当にシンジが帰ったら司令はどうするつもりだったのか。どうせ私がいるから構わないと?
そうだとしたらレイを舐めているとしか言い様がない。
ミサトもミサトだ。お父さんから逃げちゃダメ? 死ぬかも知れないという状況で父親から逃
げるも何もないだろう。
私のために戦ってとでも言って拝み倒すほうがまだマシだ。
どちらも人間の機微というものを分かってなさ過ぎる。
――事態が落ち着いたらおバカさんたちに説教ね。
考えているうちにレイの機嫌は悪くなってしまった。他人が自分の意図した通りに動かないこ
とほどレイの機嫌を損ねることはないのだ。
「あのー、レイ……?」
隣を歩きながら、ミサトが腫れ物に触るような態度で話しかけてきた。
「素直にあんたが出ればいいんじゃないかしら? あの子、訓練も何もしていない素人なのよ」
「牝牛は黙ってて。私に考えがあるんだから。だから司令も許可したの」
「め、めうし……」
あまりの言い草に、ミサトは軽くのけぞって絶句した。
レイはふと立ち止まると、ミサトの左胸をわしづかみにして、レモンでも絞るように思い切り
握りしめた。
ミサトは飛び上がって叫んだ。
「ぎゃーっ! いたたた! 痛い痛い! ちょ、ちょ、ちょっと何するのよレイ!?」
「搾乳」
「はぁ!?」
「胸が大きすぎて脳まで酸素がいってないみたいだから」
怒りのあまり酸欠の金魚のように口をパクパクさせるミサトを横目で見ながら、リツコはそっ
と溜め息をついた。
――ブザマね。


「碇。本当にいいんだな?」
冬月は前を見ながらゲンドウに問いかける。
ゲンドウは答えなかった。
――何を考えている、碇。
冬月は懸念を覚えざるを得ない。この無謀極まりない作戦――それを作戦と呼べるのならば―
―を了承したのは司令の碇なのだ。
冬月に言わせるなら、人員の無駄であり、時間の無駄であり、金の無駄だ。ゲンドウの真意を
量りかねた。
冬月は、ふと、ある可能性に思い至り、顔色が変わる。
――碇、まさか、お前も……。
その可能性は十分にあった。何しろ彼女の行動力と執念は生半可なものではない。彼女の魔手
はネルフのありとあらゆる人員に伸びていると考えるべきだった。
もし自分の考えが正しいなら――と、冬月は暗然とした面持ちで考える――ネルフの将来は暗
いと言わざるを得なかった。


オペレーターの状況報告が飛び交う緊迫した空気の中、レイは超然とモニターを見つめていた。
画面には初号機が歩いているところが映っている。
歓声が沸いた。
初搭乗でエヴァを動かしているのだ。奇跡といってよかった。
「歩いた……!」
「やるじゃない」
とレイが呟いたとたん、初号機は前のめりに倒れこんだ。歓声はたちまち失望の溜め息に変わ
る。
「やっぱり無理よ。レイ、出て」と、ミサトがレイを振り返って言う。
「もう少し待って」
「もう少しって……」
ミサトは気が気ではないという様子でモニターとレイを交互に見た。使徒が初号機に迫ってい
る。
「相手の力も知らずに戦うのは得策じゃないわ」
「敵を知り己を知らば……ってわけ? そのためにシンジ君を犠牲にするの?」
「まだ死んだわけじゃない」
「そうだけど、これじゃ時間の問題だわ。出撃しなさい。これは命令よ、レイ」
「まだ」
レイは食い入るように画面を見つめている。まるでミサトなど存在しないようだ。
そうしているうちに、初号機の左腕が接近した使徒に掴まれた。ぎりぎりと引っ張られる。
「レイ! いい加減に……!」
ミサトは唇を噛みしめる。
「レイの言うとおりだわ」
「リツコ!」
いったい何を言い出すのかと、ミサトがキッと友人を見据えた。
リツコはその視線を気にする風もなく、平然と見返して言った。
「シンジ君が倒されてもレイがいる。戦闘訓練をきちんと受けたレイがね。だけど、レイが倒
されたらあとは素人同然のシンジ君だけなのよ。使徒を倒せる可能性が高いのはどっち?」
ミサトは一瞬、言葉に詰まった。リツコの言い分にも一理なくはなかった。
しかし、だからといってこのままシンジを見殺していい訳がない。
「レイ! お願いだから……」
ミサトは今度はレイとゲンドウの顔を交互に見ながら悲鳴に近い懇願をした。
――司令は何考えてるのかしら。自分の子供なのよ!?
オペレーターたちも息を詰めてレイの様子を窺っている。
鈍い音と共に初号機の左腕が握り潰された。シンジの悲鳴が司令室にこだまする。
ミサトは即座にオペレーターたちに神経切断の指示を飛ばす。
「レイ。出撃だ」
ミサトは深々と安堵のため息をついた。
ようやくゲンドウが重い腰を上げたのだった。
レイの唇の両端が吊り上がって、笑いの形を作った。
瞳が猫のようにきらきらと輝く。
「仕方ないわね」
軽く握った拳を掌に打ち付けて呟いた。
「ボコボコにしてやるわ」


使徒は、ボコボコにされた。




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