シンジとレイのとても幸福な日常

Written by 双子座   


目が覚めると、僕の隣に綾波がいた。
――いや、勘違いしないで欲しい。隣といっても、ダイレクトに僕の隣、ではない。僕と綾波
はそういう中学生にあるまじき関係ではない。
綾波は、ベッドの脇に椅子を用意してそこにちょこんと座り、僕をじっと見つめていたのだ。
僕が最初に思ったのは、ああ夢か……ということだった。
しかし目が覚めたら綾波が椅子に座って僕を見ているなんておかしな夢だなぁ……と思ったと
ころで、
「あ……綾波っ!?」
飛び起きた。
「おはよう、碇君」
綾波は無表情な顔でそう言った。
やっぱり現実だった。
「うん、おはよう、綾波。……って、違う違う! 何で君がここにいるの!?」
「入ってきたから」
「うん、そりゃそうだね。いや、そうじゃなくて!」
「鍵なんて簡単に解除できるもの」
「……そうなの?」
「そう。楽勝」
綾波はこくりと可愛らしく頷いて、ここにはとても書けない、簡単な器具を使って鍵をあける
方法を詳しく語ってくれた。
綾波……。
それっていわゆるピッキングだよね……?

綾波は僕の家のリビングで、僕と一緒に朝食を摂っている。ポテトサラダ、トーストにマーガ
リン・リンゴジャム・オレンジジャム・ブルーベリージャムのうちから好きなものを塗って。
それから温かいダージリン・ティー、目玉焼きにハム……は綾波は食べられないから僕だけ。
どういうわけか、綾波は肉が食べられなくなった。
もう、ミサトさんとは一緒に暮らしていない。ミサトさんは僕以外の人と暮らしている。つま
り、加持さんと、だね。
父さんは出張中。父さんとは色々あって、正直今もそんなに会話はないけど、まぁ、一応……
親子らしい関係に戻りつつある。
というわけで、僕は今、一人暮らしというわけ。
綾波は一つ上の階に住んでいる。
「そのー、綾波。勝手に入って欲しくない……んだ。僕の家に」
僕は一つ咳払いをすると、タイミングを見計らって綾波に声をかけた。
綾波は僕の言葉を聞くと、口に運ぶ途中だったティーカップをお皿に戻して、衝撃を受けたよ
うにがっくりと肩を落とした。
「私、ここに来ちゃ、ダメなの?」
「いや、ダメじゃないよ! 全然ダメじゃない。僕が言いたいのは、夜中に勝手に入ってくる
のはちょっとやめてほしいなぁ、ということだよ! ほら、僕たちまだ中学生だし! 世間体
っていうか……」
「碇君は、私のこと、好きじゃないの?」
「いや、うん、好きだよ? 僕は綾波のことが大好きだ! でも、だからこそ、節度を守らな
きゃダメだと僕は思うんだ。ほら、僕たちが付き合ってるなんて、みんな分かってることじゃ
ない? そういう状況で、夜中に行き来してるなんてことが分かったら、何て言われるか分か
らないし」
決まった。ここまで言えば綾波も分かってくれるだろう。そう、僕たちは中学生なんだから、
中学生らしい交際を心がけるべきなんだ。
夜中に鍵を開錠してとか、あってはいけないことなんだ。
……いや、それは中学生らしい交際以前の問題だけど。
綾波は不承不承といった態で頷いた。
「分かった。碇君が、そう言うなら」
「分かってくれればいいんだ。ちょっとキツいこと言ったかも知れないけど、これも綾波のこ
とを思ってのことだから」
実際噂が立ったら困るのは女性のほうだろうし。
「そう。嬉しい」
綾波はかすかに微笑む。普段は無表情なだけに、たまに浮かべる笑顔が心に沁み入るようだ。
「っていうか、いつ入ってきたの?」と、僕は訊いた。
どれくらい僕の寝顔を見てたんだろう?
「四時くらい」
……僕が起きたのは確か六時三十分ごろだった。二時間以上見てたの? 僕の寝顔。
「だって、碇君の寝顔、可愛いから」
いや。それはまぁ、嬉しいんだけど。二時間。二時間か。僕が男、君が女でよかったよ。逆だ
ったらエライことになっているよ……。
というか、それはもう犯罪だ。
無断で侵入してる時点で犯罪のような気もするけど。
「それと、私以外の女の人の名前を寝言で言ったらどうしようかなって」
「いや、まさかぁ……言わないよ」
僕は笑った。こういうところは本当に可愛いよなぁ、綾波は。ちょっとした嫉妬って正直気分
がいいものがある。
その笑いが凍りついたのは、綾波の服から何か重量感があるものが床に落ちて、ゴトリと音が
したときだった。
綾波が「いけない」という顔をして慌てて拾い上げる。
綾波にしては珍しい表情だったけど、それよりも僕の目は床に落ちた「それ」の姿をはっきり
と捉えていた。
それは……ペンチだった。
え?
えっと。脳裏に焼きついた「それ」を思い出してみる。
……やっぱりペンチだ。ペンチ以外の何者でもない。ネジを回したり、硬いものを曲げたり、
時には切断したりする工具。
とても便利で、職種によっては必須の道具。人類が生み出した叡智の結晶――ペンチ。
だけど、女子中学生が恋人の家に何の理由もなく持ってくるものではない……と思う。
「ペンチ……だよね?」
ちょっと恥ずかしそうに、こくりと頷く綾波。
「何で……そんなの持ってるの?」
普通の女の子は何の用もないのにペンチとか持ち歩かないよね?
「碇君が、私以外の女の人の名前を寝言で言ったら」
綾波はそこで言葉を止めてじっと僕の目を見つめる。赤い瞳はまるでルビーのようだ。
「言ったら!? 言ったらペンチで僕のことどうしてたの!?」
「……どうもしない」
絶対嘘だよね綾波。何もしなかったら持ってくる意味ないじゃない。
ペンチを隠すところが嫌な感じでリアリティがあるというか。
でも僕はそれ以上のことは問いたださなかった。
映画なんかで悪い人が最後に警察に捕まって、あれからどうなるの? とか訊かないでしょう?
それと同じことだ。
一言で言うと、酷い目に遭うのだ。
「……そろそろ学校に行こうか」
気を取り直して、僕は言った。
木っ端微塵になっていたから、取り直すのは大変だったけれども。

言うのが遅れたけど、今僕たちが住んでいるのは第2新東京市。第3新東京市は壊滅状態で、現
在復興作業中。
で、トウジやケンスケたちと同じ中学校に通っている。クラスメイトも半分くらいは第3新東
京市で見た顔で、スムーズにクラスに馴染むことが出来た。といっても高校生になるまであと
半年もないんだけどね。
その学校も終わって、僕と綾波は夕食の買い出しに出かけていた。
料理は僕の担当で、日夜綾波のために腕をふるっている。「僕の担当」と書いたけど、じゃあ
綾波の担当は何?と訊かれると、実は何もないんだけど、それはともかく。
まぁ、綾波には勉強を教えてもらっているお礼という意味合いもあるし。
「じゃあ、ここで大人しく待ってるのよ、シンジ」
綾波は車止めのポールに<シンジ>を繋ぐと、軽く頭を撫でた。<シンジ>は、くーんという
やや情けない鳴き声を洩らしてその場に座り込む。
<シンジ>というのは綾波が飼っている犬の名前だ。この事実を知ったとき、正直なところ僕
はちょっとした衝撃を受けた。
自分の名前を犬につけられるというのは何というか……妙な気分だ。いったいどういうつもり
で僕の名前にしたのか、綾波にそれとなく訊いてみたことがあるけど、綾波は「秘密」といっ
て答えてくれなかった。
それはいいんだけど、犬を叱ったあとに僕のほうを見るのはどういう意味があるのだろう。
例えば今日、このスーパーに来る途中で散歩中の犬に吠えた<シンジ>を「吠えちゃ駄目でし
ょ。何回言ったら分かるの、バカシンジ!」と叱りつけたあとに、僕の方をちらっと盗み見た
りする。
とりあえず、好意的に解釈しておくことにしている。どう好意的に解釈すればいいのか分から
ないけれど。
バカシンジって言ってみたい、とか……?
事件はスーパーで買い物をしているときに起こった。勉強しているときの十倍くらいの集中力
で食材を選んでいる僕に、高校生とおぼしき女の子の集団が僕たちに話しかけてきたのだ。
「あれ、君、碇シンジ君だよね?」
「ええ。そうですけど」
何で僕の名前を知ってるんだろう? どの子にも見覚えはない。
「ひょっとして、ロボットに乗って戦ってた中学生の子って、君?」
「い、嫌だなぁ。違いますよ。そんなことあるわけないじゃないですか。どこからそういう話
が出てきたんですか?」
脇の下に汗をかきながら答える。最近なぜかこの種の質問をされることが多くなってきている
んだけど、どうしてだろう? 
まぁ、トウジやケンスケたちも知ってることだから「絶対漏れるはずのない秘密」レベルの話
ではないんだけど、僕の顔も知ってるようだし……。
「えー、そうなんだ」女の子の一人ががっかりしたように肩を落とした。
「ほら、やっぱり。こんなに可愛らしい男の子がそんなことするわけじゃないじゃん!」
そんなやりとりしながらも、僕は綾波の様子が気になって仕方がなかった。
早くこの場を立ち去らなければならない。でないと……。
せっかくだから携帯で写真を撮りたいという女の子たちの要望を必死に断って、逃げるように
スーパーを出た。
<シンジ>は言いつけ通り大人しく待っていたようだ。僕たちの姿を見ると元気よく尻尾を振
りはじめた。
「碇君」
<シンジ>の紐を手に取った綾波がぽつりと呟くように言った。
思わず跳び上がりそうになった。
「なな、何?」
「この辺に日曜大工売ってるところ、ない?」
僕は不吉な予感に身を慄かせた。
「な、何で? 何をするの?」
一緒に日曜大工ですか? ……そんなわけないよね。
「さっきの女たちに色々してくる」
やっぱりだ。
「色々って!?」
怖いよ。はっきり言わないところが、特に。
「大丈夫。殺しはしないから」
「殺さないのは当たり前だよ!?」
「一歩手前で止めるから」
「手前で止めてもダメだ!」
「……じゃあ、半殺しで」
「何だかすごい譲歩したみたいに言ってるけど、それもダメだからね……」
「どうしてもって言うなら、三年殺しで」
「それ何!?」
「ロシアのサンボの裏技」
「君が何を言ってるのか分からないよ、綾波……。とにかくそれもダメだよ」
「どうすればいいのよ、じゃあ!?」
「何で逆ギレするの!? どうもしちゃダメだって!」
僕の必死の説得により、心から納得した感じではなかったけれど、「碇君がそう言うなら」と
頷いてくれた。
「しかし、何で僕のことがバレてるんだろうね」
「私が碇君が大活躍した様子をネットに流したからだと思う」
「ええーーっ!?」
何てことだ。道理で最近ちらちら見られるわけだ……。
しかし、マッチポンプって言うんじゃないかなぁ、それって……。
「youtubeでもう100万ヒット」
「そんなに!?」
「でも星は3つ。おかしいわ」
「いや、それはいいけど」
「私の貧弱なPCだとH.264でエンコードできないからMAGIを使ったの」
「MAGIをそんなことに!?」
「赤木博士は私の奴隷だから何でも言うことを聞くのよ」
「え……」
「冗談よ」
「それはちょっとタチの悪い冗談だと思うよ……」綾波は表情を変えないで言うから本気なの
か冗談なのか分からないし、綾波とリツコさんの微妙な関係から言っても判別しがたいのだ。
まぁ、冗談だと思う。多分だけど。
「っていうか、ネットに公開したら僕が注目されるの当たり前じゃないの?」
「それとこれとは別」綾波はきっぱり言った。「ある人を格好良いと思うのと、その人に近寄
るのは別の問題」
「格好良いって……僕のこと?」
「そう。碇君のこと」と、頬を赤く染めて綾波は言った。
「そ、そうかな?」
僕は直截的な綾波の褒め言葉に照れてしまう。人から見たら完全にバカップルだよね……。
まぁ、いいか。他人からどう見えようと。綾波と僕がよければ、それでいい。うん。
しかし僕を格好良く思って欲しいけど近寄って欲しくない、か。
うーん。気持ちは嬉しいけど。
確かに僕だって綾波が注目されたら――まぁ、今だって注目されてるんだけど――嬉しくない
かっていったら、やっぱり嬉しいけど。
それは置くとして、僕のどういう場面が流出させられたのか、すごく気になる……。
まぁ、特に害があるわけじゃないか。中学生が巨大なロボットに乗って戦ったとか、どうせ本
当とは思わないだろう。
最近はその手の技術が発達してるから、偽の動画と判断してくれるはずだ。
僕が自分に言い聞かせていると、突然綾波がキッと睨みつけた。視線の先には今度は中学生く
らいの女の子が。
「今度はあの女が碇君に色目つかってるわ。ちょっと懲らしめてくる」
綾波は今にも駆け出しそうだ。
僕は慌てて綾波の手首を掴んだ。
「綾波、君は助さん格さんじゃないんだよ!? いいよ、懲らしめなくて!」
綾波は不満そうだ。
そう、特に害は無い。
僕がちゃんと綾波を見張っていれば。

夕食が終わり、テレビを少し見た後に勉強をして、綾波が自分の部屋に帰る時間が来た。
「じゃあまた明日、綾波」
玄関まで見送る僕。
「碇君」
綾波はそう言うと、目を閉じて少し顎を上げた。
うわぁ……。これはボクシングのヘビー級チャンピオンのストレートぐらいの破壊力がある。
可愛い、可愛い過ぎる。
僕の心は有頂天のあまり第二宇宙速度に到達して、月にまで飛んでいきそうだった。
そう、はじめて口づけを交わしたときは、そんな感じだった。
でも。
僕は今、躊躇している。信じられないだろうけど、僕は綾波にキスをするのをためらった。
なぜなら――。
「どうしたの、碇君?」
綾波が目を開けて不満そうに言った。
「私のこと、嫌いなの?」
「そ、そんなことないよ。でも――あれは止めて欲しい」
「うん。もう大丈夫」
「そ、そう……?」
「……早く」
綾波は再び目を閉じた。
そう言われたら男として待たせるわけにはいかない。僕は綾波に――キスをした。
その瞬間、だった。
ぐあああああっ!
僕は閉じていた目を開けて、のけぞった。完全にのけぞることはできなかった。なぜなら、綾
波に抱き締められていたからだ。
全力で。
やっぱりだ!
僕を力いっぱい抱き締めるのは止めるって話だったのに!
抱き締めるというか、プロレスでいうベアハッグだよこれは!
女の子に抱き締められたからってそんなに大騒ぎするような事なのか? と疑問に思う人がい
るかもしれない。だけど、中学三年生程度の男女の差なんて大人ほどじゃないし、
何というか……綾波には躊躇というものがない。本当に全力なのだ。子供に思いっきり蹴られ
ると、意外と痛かったりするものだけど、それと同じ。
「あ、綾波……」僕は必死で綾波の肩をタップした。「ギ……ギブアップ……」
「……ごめんなさい、碇君」我に返った綾波は、慌てた様子で僕から手を放し、下を向きた。
「好きっていう気持ちが抑えられなくて、つい……。許して、碇君」
そう言われちゃったらね。許すしかないよね、うん。
肋骨がイヤな感じで痛いんだけど、平気さ。何てことない。
でも、ひょっとしてワザとやってない、綾波……?

ふと、人の気配を感じた。
まさか……。
「綾波!?」
僕は跳ね起きた。
綾波がベッドの脇に椅子を用意して、座っていた。
「この間、夜中に勝手に入ってきちゃダメだって言ったばかりじゃない!」
「いいえ」綾波は、きっぱりといった。「私、入ってきたの五時半ごろだもの。五時半は夜中
じゃないわ。朝」
「……」
僕が言いたいのは「夜中に」というところじゃない。「勝手に」というところなんだ、綾波…
…。
頭を抱える前に、一つ気になることがあった。
「綾波……今日はペンチとか持ってきてない……よね?」
「ええ。持ってきてない」
僕は胸を撫で下ろした。さすがにそれは自重してくれたのだ。
と、思いきや。
綾波はどこからか(ホント、一体どこにしまってるのだろう?)、細長い道具を取り出した。
重ねた紙に穴をあけるための、錐に似た、決して人に向けてはいけない文房具。
「今日は、千枚通し」
「……それは何のために持ってきたの?」
「もし碇君が他の女の名前を寝言で呟いたら、爪の間に」
「爪の間に!?」
「……何もしない」
そこまで言われたら最後まで言ってくれたほうが気が楽だよ、綾波!

……と。
こんな感じで僕と綾波の日常は過ぎていく。
それはとても穏やかで平穏な。
いや、これを穏やかとか平穏と言うには辞書の定義を書き換えなければならないけど、とにか
く。
彼女と過ごす日々を、僕はとても幸せに思っている。
チャイムが鳴って、ドアを開けると綾波がいた。
一緒に勉強する時間だ。
特別に高校の入学試験を受けなくていいと言われてはいるけれど、やはり僕だけ勉強が遅れて
いるというのは嫌だし、マズイだろうということで、綾波に教えてもらっている。
「ところで碇君」と、綾波は下を向いたまま言った。シャッ、シャッ、という軽快な音が断続
的に綾波の手元から聞こえてくる。僕がやった模擬テストの採点してくれているのだ。
「ん、何?」
「碇君のファーストキスは惣流さんとだったって噂は本当?」
僕は固まった。昔やっていた、バナナで釘が打てますっていうCMのバナナより硬くなっていた
に違いない。
「碇君?」
綾波が顔を上げて僕をじっと見る。その白い顔は全くの無表情で、感情というものがないよう
に感じられた。僕の額から汗が流れ出て、頬を伝っていくのが分かった。
「本当なの?」
「いや、その……」僕は必死に口を動かした。頭のほうは働かなかった。「だ、誰が言ったの?
そんなこと」
「惣流さんが」
「アスカが!?」
いったいどういうシチュエーションでそんなことを洩らしたのだろう?
「人間にはどうしても耐えられないことがあるのよ、碇君」
アスカに何をしたのか、僕には訊く勇気はなかった。僕がこれからどうなるのかは言わずもが
なだ。
「で、本当なの、碇君?」僕以外の誰もが微笑みだと認識する表情を浮かべて、綾波は繰り返
した。「どうなの、い・か・り・く・ん?」

そう。
僕は彼女と過ごす日々を、とても幸せに思っている。
場合によっては、「とても」は消してもいいかな、と思うときも、たまにあるけれど……。

(終わり)




ぜひあなたの感想を

【投稿作品の目次】   【HOME】