0.00 僕達は、ふたりで一緒に涙を流す。 彼女は左の目からの涙、僕は右の目からの涙で頬を濡らす。 枕の上では、互いの思いが混じり合った染みが次第に大きくなっていく。 あの日から始まったこの儀式。 彼女が本当は何を思って泣いているのかさえ、はっきりとは分からない。 けれど、僕がひとりだけで泣くこともなければ、彼女がひとりで涙を湛えることもない。 ただ毎晩こうして、ふたり一緒に涙を流している。 かつて在った世界への贖罪のため。 たとえ、許される日など来ないのだとしても。 ―――― 涙 ――――1.01 気がつけば全速力で駆けだしていた。 紅い海、紅い空、紅いプラグスーツから、とにかく逃れたかった。 目が少しおかしくなっているのか、視野が狭くなって周りが良く見えない。 折れて地面に横たわっている電柱につまづいて転び、 ビルから降り注いだのであろう、大量のガラス破片がスニーカー越しに突き刺さる。 走って、走って、走って。 前を向いていたはずなのに、いつの間にか視界が地面でいっぱいになる。 (……このままじゃ、倒れる) 立ち眩みを感じながら走り続けても、思うように前へ進まない。 焦りを感じて足を動かすペースを速くしても、 ますます目の前にアスファルトが迫ってくるだけだった。 紅い世界からどこまでも遠ざかりたい気持ちはあったが、 ここで倒れてしまっては話にならない。 フラフラと走っていたせいで、まだ幾ばくも離れていないのだ。 (少し休むか……) 歩道の縁に腰をかけ、車道に足を投げ出す。 ほんの少しの段差だったが、まったくの平らよりも楽な気がした。 両手を地面につけて、空を見上げる。 果てしなく広がっている紅い空。 ――これが僕の創り出してしまった世界なのだろうか。 もう僕には、何が何だか良く分からなくなっていた。 1.02 空を見上げながら、居なくなった二人のことをぼんやりと思う。 アスカはプラグスーツだけを残して消えた。 綾波は跡形もなく消えた。 どうして僕だけが残されたのか分からなかった。 二人ともずるい、と思った。 こうなることが分かっていたなら、僕も迷わず消えたのに。 逃げたい気持ちはいつしか無くなっていた。 すべてがどうでも良くなっていた。 1.03 どのくらいの時間、そうしていたのだろう。 夕暮れが訪れたのか、紅い空が一段と濃くなってきた。 いつか見たマグマの色に近くなってきている。 これも僕が創り出したもの? こんなにも禍々しくて、見る者に不快感しか与えない、こんな――! 「うっ……!」 猛烈な嘔吐感。 吐こうとした、吐き出そうとしたが、何も出てこない。 上滑りのえづきだけが何度も何度も口から漏れる。 「うぇ、う、う、うぇっ、おえっ……!」 出来ることなら吐いて、少しでも気分を楽にさせたかった。 胃の内容物、胃液、唾液、胃、内臓、すべてを吐き出したかった。 地面に向かって身体を折り曲げて、絞り出そうとする。 だがどんなに努力しても喉の奥が痛くなるだけで、不快感は少しも拭えなかった。 「はぁ……はぁ……っ」 荒くなった息のまま、また空を見上げる。 さきほどよりも夕暮れは一段と濃くなり、紅と闇の対比が徐々に逆転しつつあった。 ――血液にコールタールを混ぜたら、こんな色になるのかもしれない。 鉛のように重くなった身体を持て余しながら、そんなことを考えた。 1.04 太陽が完全に沈み、辺りは闇に包まれた。 僕にとって救いは、夜はこれまでと変わらなく夜だったことだ。 すべてを照らす光さえ無くなってしまえば、空の色なんて分からない。 それが抜けるような青だったとしても、圧迫されるような紅だったとしても。 (……これからどうしよう) 少し冷静になった僕は、どこへ行けばいいのかを考えた。 まさかこのまま、歩道と車道の間で横になっているわけにもいかない。 (そういえば、ここはどこなんだ?) 当てもなくがむしゃらに走ったせいで、自分がどの辺りに居るのか良く分からなかった。 第三新東京市のどこかだということは、おぼろげに理解していたのだが。 (あ、兵装ビル……あれには見覚えがある) 幾つか点在する兵装ビルよりも新しいそれは、 いつかの使徒の加粒子砲で溶かされた後に建て直されたものだった。 (思ったより離れてなかったんだ。でも……) 家に帰ろうとは少しも思わなかった。 壊れてしまった家庭、壊してしまった家族。 変わり果ててしまった今となっては、その方角に足を向けようとするだけで背筋が凍った。 (どうしよう……僕が知ってるところなんて他に……) もう少し冷静であればきっと、違う選択肢が幾つも見えたのだろう。 僕が長い時間佇んでいたその周りには比較的損壊の少ない建物もあった。 まずは一晩休んで、それからどこかへ移動することも可能だった。 だがそのときの僕には、ひとつの場所しか思いつかなかった。 知っているようで知らない世界の中で僕に残された居所はそこにしかない、と。 (……再開発予定地区) 1.05 久しぶりに訪れた再開発予定地区は、意外にも損壊が少なかった。 今にも朽ち果てそうに思えていたマンションの数々は、そのほとんどが記憶のままだった。 (この辺は……大丈夫だったんだな) 亡霊のように浮かぶ幾つもの建物、僕はその中のひとつに迷うことなく入り込む。 古ぼけた階段の手すりの感触を確かめながら、一段、また一段と上がっていく。 数えるほどしか訪れたことはなかったが、そのどれもが深い印象を残した部屋の前に立つ。 (……402号室) 変わらない。 壊れたインターフォンも、郵便受けでくしゃくしゃになっているチラシも。 変わっていない。 少し錆びたドアも、表札に几帳面な字で書かれた名前も。 (変わらないことがこんなに安心するなんて……) 少なくともここだけは知らない世界ではない。 僕が知っている、僕が思っている通りの場所。 (入るよ、綾波) 心の中でそう断り、ドアノブに手をかける。 やっぱり鍵はかかっていなかった、その事実にくすぐったさを覚えながらドアを開ける。 知っているようで知らない世界と、変わらずに残っている世界が入り混じる。 僕はまず部屋の中に入り、振り返ってドアを見ながら丁寧に閉める。 何かから守られた気がして思わず吐息が漏れた。 呼吸を整えてから再度振り返り、部屋の中を見渡す。 申し訳程度の玄関スペース、埃が薄く積もった冷たい床、あまり使われた形跡のない台所、 ゴミ箱代わりの段ボール、古ぼけたチェスト、カーテンらしきものから零れる月の光。 簡素なパイプベッド。 その上に座っている誰か。 綾波。 綾波が。 綾波が居る。 どうして。 2.01 綾波はベッドの上で体育座りをしていた。 暗闇の中、半分だけ開いているカーテンの間から月を見ているようだ。 窓も開けているのか、月の光に照らされて銀色に輝く髪が少し揺れている。 いつからその体勢でいるのか、制服に少しシワが寄っている。 変わらない、僕の知っている彼女。 少なくとも外見だけは。 (でも……どの綾波だ? あの時の? 二人目? 三人目? まさか、あの巨大な……!) 崩壊した巨大な綾波を見た記憶がよみがえり、思わず足がすくむ。 そういえば、どうして彼女は微動だにしないのだろう。 僕が開けたドアの音も足音も聞こえているはずなのに。 僕がここに居ることを知っているはずなのに。 (幻? 僕は在りもしない綾波を見ている? 確かに消えた、でも……) 怖い。 動かない綾波が怖い。 かといって動いても怖い。 どの綾波か分からないから怖い。 知らない綾波が怖い。 身体全体が震え出し歯がカチカチと音を立てようとしたそのとき、 綾波がゆっくりとこちらのほうを向いた。 月の光から外れた彼女、暗がりの中から紅い視線が僕を射抜く。 (………!!) ガタガタと震えていた僕の身体が、瞬間的にまったく動かなくなった。 起きているまま金縛りに遭ったかのようだ。 心臓だけが普段の倍のスピードで動いている。 喉がカラカラに乾いたまま、けれど唾さえ飲み込めない。 「……碇君?」 ふいに綾波が僕の名前を呼んだ。 無機質の中に混じる、訝し気でいて心配そうな声色。 (………綾波、レイ) こんな非常時に落ち着いてられるなんて。 無断で入り込んだ人間に対して無関心で居られるなんて。 気づいたかと思えば素っ気なく名前を呼ぶだけなんて。 でも僕を心配してくれるなんて。 こんな僕を見捨てないでいてくれるなんて。 紛れもなく綾波だ。 そう思った瞬間、僕は意識を失った。 2.02 (……う……ん) 何かが動いている気配がする。 背中から腰にかけてがやたらと痛い。 何かが身体の上を覆っている、感触からいってタオル地のもの。 (……綾波の匂いがする) 再度襲ってくる眠気に逆らえず、僕はまた意識を手放した。 2.03 ゆっくりと目を開ける。 視界の中に入ってくる、古ぼけた天井。 所々にシミのようなものが見える。 しばらく放心したままそれらを眺めていた。 「……知らない天井だ」 「起きたの?」 驚いて、声がした方へ顔だけを向ける。 そこにはベッドに腰をかけた綾波がいた。 開いた本をひざの上に置き、じっとこちらを見つめている。 表情は逆光のため良く分からない。 「……あやなみ」 身体を起こそうとしたが、あらゆるところが軋むように痛い。 振り切るようにしてやっと起き上がる。 どうやら僕は玄関先で倒れたまま寝ていたようだった。 白いバスタオルが一枚、僕の身体から滑り落ちた。 さり気ないを通り越して素っ気ない気遣いが、ひどく彼女らしい。 「あの……ありがとう。これ」 バスタオルを手にして軽く持ち上げながら礼を言う。 綾波はというとずっと視線を逸らさず、僕を見たままだった。 少し意を決して彼女に近づいてみる。 一歩、二歩、三歩。 綾波の視線も僕の動きに合わせてついてくる。 四歩、五歩、六歩。 僕はバスタオルを手渡し出来るくらいまでの位置で止まった。 それまで逆光で判別付かなかった彼女の顔が、はっきりと見える。 無表情の中に見え隠れする、僕への心配り。 「ありがとう」 もう一度礼を言う。 今度は視線を合わせたまま、バスタオルを彼女のほうへ差し出して。 綾波は少し迷ったように身体をみじろがせ、それからゆっくり手に取った。 「…気にしないで」 そう言う綾波の顔が、わずか綻んだような気がした。 2.04 「その……綾波は、どうしてここにいるの」 バスタオルを返した後、少し落ち着いてからずっと気になっていたことを聞いてみた。 僕は手近にあった粗末なパイプ椅子に座り、彼女はそのままベッドに腰をかけている。 「自分の家だから」 「いや……あの、そういう意味じゃなくて……」 質問の仕方がまずかった。 僕としては、夢とも現実とも取れないあの時からどうなったのか、 そして、消えたはずなのにどうしてここへ戻って来たのかを聞きたかったのだが。 「綾波は……、綾波は覚えてるの? 僕達が話を……その、裸で」 自分で何を言っているのか分からない。 あの時のことをどう表現していいのか見当もつかない。 そもそもあれは本当にあったことなのだろうか。 僕の夢? (……そうなのかもしれない) 僕が創ってしまったと感覚的に思い込んでいた紅い世界も、 本当は別の誰かがやったことなのかもしれない。 滑らかにスライドしていく思考回路。 自分にとって都合の良いストーリーが、頭の中で紡ぎ出される。 (……だって、そうじゃないか) ここに綾波が何事もなかったかのように居るのだから。 縋るように綾波を見る。 僕が悪いんじゃないよね? 半分以上の期待を持ちながら彼女の答えを待つ。 だが返ってきたのは、毅然とした真っ直ぐ過ぎる視線と、 僕の甘過ぎる願望を跡形もなく打ち砕く言葉だった。 「覚えているわ……あなたの願い、サードインパクト」 綾波はすべてを話した。 彼女の知っていることすべてを。 2.05 綾波は彼女らしく理路整然と話をした。 ゼーレ、ネルフ、エヴァ、使徒、父さん、母さんのこと。 最初は、初めて見る彼女の饒舌な姿に圧倒され、 徐々に内容が分かるにつれ僕も疑問や質問を繰り返したが、 途中からは話の難解さと憤りで頭が真っ白になり、 僕自身の無力さに打ちのめされていた。 「そんな、そんな……じゃあ、僕はそんな訳の分からないことのために戦ってたって言うの!?」 「そう。 すべての人間をひとつにするため。 新たな人類の礎のために」 「僕はそんなこと望んでない! 乗れと言われたからエヴァに乗っただけだ!」 「そうね。全部は仕組まれていた。碇君に逃げる術は無かった。いえ、逃げることも計算の内だった」 「綾波は……綾波はどうしてそんなに冷静でいられるのさ!? 僕達が人類を滅ぼしてしまったかもしれないのに!」 「まだ滅んでしまったとは限らない。あなたが途中でサードインパクトを止めたから」 「それでも……僕のせいなんだろ? 僕のせいになっちゃうんだろ!?」 「否定はしない。でも碇君が望んだから不完全でもこの世界が残っている。私もそう」 それから綾波は、彼女自身の話をした。 彼女は何のために造られたのか、どういう役割だったのか。 ゼーレにとっての綾波、父さんにとっての綾波。 約束の時、無に還ることを強いられた存在。 「ごめん……」 「何故謝るの?」 「だって……父さんひどいよ。綾波に……綾波が……」 「待って、勘違いしないで。私は碇司令を憎んでない」 「……綾波」 「今でも大事な人」 そう言って綾波は、変わらずチェストの上に置かれている父さんの眼鏡を見遣る。 少しだけ視線が柔らかくなったのを感じて、思わずカッとなった。 嫉妬だったかもしれない、父さんと綾波の両方に対しての。 「なんでだよ……なんでなんだよ!そんなに父さんが好きなら僕を放っておけば良かったじゃないか! 僕なんて! 僕なんて!! 死んだって誰も気にしないんだ! こんな世界になるくらいなら、僕なんか居なくなったほうが良かったんだ! みんな勝手だよ! 父さんも母さんも綾波も! 今からでも父さんのところへ行けばいいじゃないか!僕なんか見捨てて父さんのところに!!」 頬に走る痛み、二度目の平手打ち。 あの時と違うのは、綾波がひどく辛そうな顔をしていることだった。 居た堪れなくなって思わず僕はうつむく。 張り詰めた空気の中でしばらく無言が続いたが、 やがて決心したかのように僕の名を呼んだ。 うつむいたまま何も言えず、目を合わせられない僕。 返答が無くても構わずに、綾波は長い独白を始めた。 彼女には珍しく、無機質な中に複雑な何かを閉じ込めた声で。 2.06 「私にとって碇司令は創造主。 私にはあの人の存在と命令しか無かった。 他に何も無かった。 幼い頃には命令さえ無かった。 問題ないか、問題ありません。 それが碇司令と交わした言葉のほぼすべてだった。 創造主と造られたものとの関係。 多分、誰にも分からない。 造られたものにしか分からないこと。 私が碇司令に向けていた心。 人によっては深い信頼に、または愛情に見えていたかもしれない。 でもそれは見ていた人が勝手に自己投影していただけ。 私には碇司令の他に何も無かった。 信頼も愛情も対外的、あるいは選択、比較。 他に何かを持っていないと生まれない気持ち。 私の心とは似ているようでまったく違っていた」 「エヴァに乗るようになって、命令が格段に増えた。 命令に従う数だけ、あの人にとっての私の存在が確実なものになっていく。 ある日、中学に行けと命令が出た。 学校は勉強をするところ、その知識だけを持って命令に従った。 実際に行って驚いた。 教師という絶対者の命令に忠実に従う者がほとんど居ない。 勉強に対する姿勢も非効率。 同じような歳の人間と接することも初めてだった。 用もないのに話かけてくる人達。 私に何を求めているのか分からなかった。 だから、それは命令かと聞いた。 答えは返ってこなかった」 「学校へ通うことの違和感。 理解できない人間たちと過ごさなければならない空間。 訓練の時間を割いてまで行う意味が分からなかった。 碇司令の命令に対して初めて感じた疑問。 疑問は疑問を呼び、それは私の存在意義にまで及んだ。 あの人は私に人間らしさを求めているのだろうか。 どうしていいのか分からなかった。 それが零号機起動実験失敗の引き金。 あの人は自らの怪我を気にせず私を助け出してくれた。 非効率で無意味な行動。 碇司令自身が起こした、私を思っての人間的な行動。 その時から、私にとってエヴァは道具ではなく絆になった。 眼鏡はその証だった」 「そして、私の前にあなたが現れた。 サードチルドレン、碇司令の息子。 私が長い時間をかけて得た絆を最初から持っている人。 最初は不快な感覚しか持てなかった。 私の存在意義を奪う人。 訳の分からないことを言いながら使徒を殲滅してしまう人。 眼鏡を勝手に触って、絆を持ちながらあの人を否定して。 でもあなたは、私を助けてくれた。 碇司令が行ったのと同じ、私を思っての人間的な行動。 泣きながらの笑顔。 今なら分かる、その感情が。 でもその頃の私は、少し心が柔らかくなっただけ。 感情自体を理解していなかったから。 だから、私が笑ったのは半分以上が模倣。 思い浮かんだイメージのトレースだった」 「碇君はそれから私に色々なことを教えてくれた。 目に見えるものと、目に見えないもの。 顔に浮き出てくる表情と、その根拠となる気持ち。 命令がなくても行動出来ること。 命令に逆らうことさえも。 気持ちの効果で思いがけず言葉が生まれることも知った。 碇君のおかげで徐々に人間らしい心が育ちつつあった」 「第拾六使徒、アルミサエル。 あの使徒が現われなかったら、 本当の感情は分からないままだったかもしれない。 あの時私は心の奥まで侵食され、 それまで見えていなかったものを掘り返された。 知っていた嬉しいという気持ち。 知らなかった寂しいという気持ち。 表と裏があることに気づいて、初めて感情が私の中で完成した。 初めて涙が私の目から流れた。 碇君と一緒になりたい、でも、なれない。 他に選択肢は思い浮かばなかった。 爆発の瞬間、碇司令の笑顔を見た。 非効率で、無意味だと感じていたこと。 造られた私でも同じ行動を起こすことが出来たから。 あなたを思い、その時だけは人間で居られたから」 「三人目となった私は、混乱する心を持て余していた。 今はリリスに還り統合されたから普通で居られる。 でもあの頃は、複数の綾波レイがバラバラになって混在していた。 主人格の三人目、心の礎の二人目、存在意義の一人目。 造られた意味と理由を全うしようとする意志と、 全うすることによって私という存在が無くなることを恐れる心。 約束の時。 私の宿命、絶対的な命令。 抗うなんて出来ない。 出来るはずもなかった」 「でも、二人目の心が気づいた。 あの人が私に向けていたのは、愛情ではなく愛着に過ぎなかったことを。 一人目の意志が知った。 最初から最後まで私は造られたものに過ぎなかったと。 だから、三人目の主人格が言葉を発した。 私はあなたの人形じゃない」 「二人目の心が聞いた。 遥か上空で絶え間なく続いているあなた悲鳴を。 一人目の意志が決断した。 今、成せる時に、成せることを。 三人目の主人格が声に出した。 碇君が呼んでる」 「結局私は、あの人の命令に従わなかった。 限りなく人間に近づいた心が、物のまま消えることに耐えられなかったから。 碇司令が私自身を見てくれたら命令に従っていたかもしれない。 あの人があなたへ注ぐ愛情の半分でも、私へ向けてくれたなら。 でもそれは、どうやっても叶わなかったこと。 少しでも本当の愛情を抱いたなら、あの人は自分の計画を進められなかっただろうから」 「碇司令は大事な人、今でも大事な人。 でもそれは以前と違う気持ち。 あの人が私を造り出してくれたから、私がここに在る。 そのことの意味を教えてくれたのは碇君。 私の内にあった人間の心を照らし出してくれたのは碇君。 あなたのおかげで、私は私の意志で生きていける。 今、碇司令に思う気持ちは、感謝。 生み出してくれてありがとうの感謝」 「だから碇君、居なくなったほうがいいなんて哀しいこと言わないで。 私はあなたを必要としている、生きていてほしいと思う。 世界中の誰もがあなたを見捨てても、私は碇君と一緒になりたい。 私は私として、あなたはあなたとして、一緒に居たいと思う」 2.07 僕は床の上で眠っていたらしい。 目を開けると、白いバスタオルが視界に入る。 彼女がまた掛けてくれたのだろう。 (………綾波) ベッドの方へ目を向けると、綾波がベッドの上で眠っていた。 月の光が照らすその姿は、起きている彼女よりもほんの少し儚く見えた。 事実を知ったから尚更そう思えるのかもしれない。 綾波の長い独白は、僕に何とも言えない気持ちを呼び起こした。 温かいようでいて、どこか居心地の悪くなるような気分。 嬉しくないのかと聞かれれば、それは否と言える。 僕を必要としてくれて、見捨てないと宣言してくれたのだから。 かといって手放しに嬉しいかと問われれば、それもまた否。 彼女の気持ちを受け止める自信など、どこにもないのだから。 (ねえ、綾波。僕はどうすればいいの……?) 掛け布団の上からでも分かる、規則的に上下する胸。 それは彼女が生きていて、ここに存在することの証。 ("私は私として、あなたはあなたとして"なんて……僕は僕のことなんか分からないのに) "好き"と言われたほうが楽だった。 それが"嫌い"でも、また同じだった。 もっと簡単に、受け入れるなり拒絶するなり出来たのだから。 (やっぱり綾波は強いよ……僕よりもずっと) 彼女がヒトでないことはどうでも良かった。 今の僕にとって綾波は綾波以外の何者でもない。 真っ直ぐで、毅然として、凛々しくて、…眩しすぎるほど強い。 (僕には……そんな価値なんて……ない) 僕と一緒になりたいと、一緒に居たいと言ってくれた。 彼女の独白を完全に理解したわけではない。 分からないことのほうが多かった。 けれど、同じ空間に一緒に居ればいいわけじゃないことは分かった。 それよりもっと重い意味だということは。 (綾波……、僕は……) 寝ている彼女に、心の中でしか語りかけることの出来ない僕。 右の掌を開けたり閉じたりしながら思う。 数々の分からないことの中で、たったひとつだけ確実なことを。 ――逃げちゃ駄目なんだ。 あの時よりも、ずっと。 3.01 綾波の部屋に来てから初めてはっきりとした朝を迎えた僕は、 硬い床のせいで痛む身体をさすりながら当面の生活について考えていた。 現実問題としては悩むまでもなく、他に行く当てなどない。 ここに置いてくださいと頭を下げるしかないだろう。 でも、それは何か違うような気がした。 流されるようにして辿り着き、他に選択肢がないから仕方なく居る。 それだと、これまでの僕と何も変わらないから。 昨日までの僕より一歩前に進みたかった。 たとえその歩幅がどうしようもなく狭くても。 どうしたら彼女の気持ちに応えられるのか分からないけれど、 まずは最初の一歩を踏み出すことが重要なのだと思った。 ベッドの方向を見ると、いつものように綾波は制服を着て座っていた。 良く見ると少しだけ眉をしかめている。 まだ眠いのかもしれない。 そろそろと綾波に近づく。 「あの……綾波?」 「…なに?」 「えっと、その……僕、一緒に住みたいんだけど……いいかな?」 言ってしまった。 僕は緊張のあまり目を閉じる。 「碇君がそうしたいのなら構わない」 何の躊躇もなく答えが返ってきて、思わず目を開く。 綾波はすでに本を読み出していた。 (……なんだ) 安心して力が抜ける。 変に身構える必要はないと知り、顔が緩んでいくのが分かる。 どんな話を聞いたとしても、綾波は綾波。 それが僕には嬉しく思えた。 3.02 ここで暮らすにあたってまず最初に手がけたのは、部屋の掃除だった。 改めて部屋の中を観察してみると、あらゆるところが汚れていた。 床に至っては、綾波が履いているスリッパの跡がくっきりと付くほどだ。 (そういえば、この床の上で二日間も寝たんだよな……) ふと自分の格好が恐ろしくなって、身につけている制服を見てみる。 それなりに汚れてはいたが、致命的なものではない。 背中も見てみたかったが、この部屋にひとつも鏡が見当たらない以上無理だろう。 (どうしようかな……どうせ汚れるからまずはこのままでいいか) 綾波を見ると、彼女も制服のまま掃除しようとしていた。 多分彼女は私服の類を持っていない。 今まで見たことがないし、恐らくそういったものを身につける気もなかったのだろう。 だからと言って、大掃除するにはスカートでは動きにくいだろうと思う。 しばらく迷ったが言ってみることにした。 「綾波」 「なに?」 「私服とか持ってないの?」 「何故?」 「その格好じゃ動きにくいし、その……非効率じゃない?」 「…そうね」 案外あっさりと承諾したところをみると、実は持っていたのかもしれない。 知らずのうちに偏った見方をしていたようだ。 (ごめん、綾波) 心の中で小さく謝っていると、彼女は僕の目の前で制服を脱ぎ出そうとした。 思わず硬直したが、綾波がリボンをほどいたところで我に返り、慌てて後ろを向く。 (狭いワンルームに二人で暮らす……ちゃんと考えないと) 戸惑うことが、彼女の言葉を理解していない証拠に思えてしまう。 こんなことで動揺していては、いつまで経っても綾波に追い付けない。 (そうだよ、僕は真面目に考えなきゃいけないんだ) 綾波が動いている気配を仔細に感じていても。 衣ずれの音ひとつひとつが異常に大きく聞こえていても。 彼女が立てる空気の動きに甘い匂いが付いているような気がしても。 制服の構造と動作の順番を想定して刻々と変わる現在の綾波の状況を想像しても。 初めてこの部屋に来たとき見てしまった姿を背中の後ろに感じる今の彼女に重ねても。 (そう、真面目に……) 着替え終わったと感じてから、一分強ほどの時間を置いて振り返る。 そこには、体操着とブルマを身につけ、背筋を伸ばして立っている綾波が居た。 (……………考えなきゃ、駄目だ) 3.03 数時間ほどで部屋の掃除は終わった。 掃除機を借りようとしたら、前の住人が置いていったであろう古ぼけたモップしかなく、 雑巾を絞ってほしいと綾波に頼めば、そのあまりの主婦的動作に思わず見惚れたり、 懸命に浴室のタイルを磨いて、ふと目を上げるとすぐそばにブルマを見たりしたが、 黙々と手伝ってくれた綾波のおかげで、概ね順調に進んだと思う。 大いに汚れてしまった僕の制服をどうしようかと悩み、 しばらく考えてから、洗濯機を借りて洗い、その間にシャワーも借りようと思いついた。 綾波に頼むとすぐに了承してくれたので、アコーディオンカーテンを締め切り、 着てるものすべてを脱いで洗濯機に放り込んだ。 久し振りに浴びるシャワーはかなり気持ちよく、洗うものが石鹸しかなくても些細なことに思えた。 浴室から出た後に、洗い終わった服を脱水にかける。 珍しいというかふさわしいというか、ここにある洗濯機は二層式だった。 その時点でやっと、僕の着替えがないことに気づいた。 まさか綾波に借りるわけにもいかず、しばらくは白いバスタオルを腰に巻いたまま呆然としていた。 しばらく洗濯機の前で固まっていたが、いつまでもそうしているわけにはいかず、 これも二人で暮らすにあたって仕方がないことと懸命に割り切り、 脱水を終えた服を抱えて、腰にバスタオルを巻きつけたままの格好でアコーディオンカーテンを開けた。 いつものようにベッドの上で本を読んでいた彼女は一瞬僕のほうを見たが、 何事もなかったかのようにまた本を読みだした。 綾波が綾波であることに感謝した。 少しでも早く乾くように日の当たるカーテンレールに服を干し、 バスタオル姿のままパイプ椅子に腰かける。 落ち着かないことこの上なかったが、向い側にいる綾波があまりにも平然としているため、 自然と気持ちが楽になり、そこではじめて久しく食事をしていないことに気づいた。 おなか空いた、そう思った瞬間、猛烈に湧き上がってくる空腹感。 食事はどうしてるの、と綾波に尋ねたら、チェストの下段から栄養補助食品を数個出してくれた。 人間的ってなんだろう、でも保存食としては最適だよな、とか思いながら、 あっという間に食べ終えた。 夜になって、本日一番の問題に頭を悩ませた。 どうやって寝るかということだ。 これまでは倒れたり、いつの間にか寝ていたりと考える間もなかったけれど、 冷たくて硬い床にずっと眠るのは身体が持ちそうになかった。 かといって安易に綾波に聞けば、一緒にベッドで寝ることを提案されそうな気がした。 どうしても隠せない僕の戸惑いを、彼女に対しての拒絶と取られることが怖かった。 3.04 「…どうしたの?」 あまりにも悩んでいたからなのか、綾波が心配そうに声をかけてきた。 「その……僕、床で寝ようと思うんだけど、何か敷くものがないかと思って」 「そう……でも違う布団は持ってないの。ごめんなさい」 彼女が申し訳なさそうに謝るのを聞いて、僕は慌てた。 「そんな! 謝らないでよ……僕のわがままなんだし」 「気にしないで、わがままだとは思ってないから」 「いや、でも……」 「分かってるから」 「え?」 綾波は真っ直ぐな視線を僕のほうへ向けていた。 目と目が合い、しばしそのまま見つめ合う。 「碇君には碇君の考えがある。私に対して誠実であろうとする気持ちが分かる。 だから、あなたの思うまま行動してほしい」 「綾波……」 「どうしていいか分からない時には、相談してほしい。一緒に考えたいから」 そう言って彼女はベッドからシーツを抜き取り、半分に折った。 それをベッド脇の床に敷き、その上にバスタオルを重ねる。 次に掛け布団のカバーを取り、少し考えてからカバーの中に彼女の制服のブラウスを数枚入れた。 簡素で薄い、けれど綾波の気持ちが存分に詰まった即席の布団一式が出来上がった。 綾波に迷惑かけて申し訳ない気分になったが、それ以上に彼女の思いが嬉しかった。 ものすごく、嬉しかった。 「ありがとう」 心から言った。 綾波に伝わるように、伝わりますようにと。 「どういたしまして」 彼女は答えた。 少しはにかむような笑顔を浮かべながら。 3.05 僕はすでに乾いた制服を着ていたが、まさかこのままの格好で寝るわけにもいかない。 今のところ一着しかない服がシワになってしまうし、 だからといって下着だけではさすがに風邪を引いてしまうだろう。 少し迷って、シャツとトランクスという格好で寝ることにした。 綾波の方を見ると、いつの間にかブラウス一枚の姿になっていた。 かなり際どい格好だったが、もう昼間のような動揺はなかった。 この部屋に来て初めて"おやすみ"の挨拶を交わした後、 少しだけ感じる床の硬さを背に軽く息をつくと、 頭の中に思考とも記憶とも取れない雑然としたイメージが流れた。 紅い海、紅い空、――この世界。 (ここに来るまで……人はいなかった) イメージに促されるようにして、先日見た光景を回想する。 誰も居ない、半ば廃墟のようになった街。 必死で駆け抜けていたときには気にならなかったが、 今になって恐ろしい状況だということに気づいた。 (避難したままなの?みんな……) 迎撃都市という性質上、その可能性はあった。 それでなくとも疎開が大部分進んでいたので、元々人数は少なくなっていた。 (それとも、まさか消えて……!) 考えたくなかった。 僕のせいで知らない誰かが居なくなることは、想像もしたくなかった。 (だって……電気だって使えるし……違うよね?) この部屋のライフラインが正常だということ、その事実に縋りたかった。 たとえその裏に、自家発電機能の文字がちらついていたとしても。 (まだ……僕には……) 心の隙間から迫ってくるような恐怖を断ち切るように、薄い掛け布団を頭からかぶる。 今ある状況、これからの生活。 波のように襲ってくる不安は尽きず、ともすれば簡単にさらわれてしまいそうだったが、 あまりにも大き過ぎる事柄に向き合うことなど出来なかった。 (今は……まだ……) 頭の中をまっさらにしようと、深呼吸をする。 綾波のカバー、綾波のブラウス、綾波のバスタオル、綾波のシーツ。 肺の奥まで綾波の匂いが染み渡る。 (綾波……) 僕にとって綾波の存在だけが真実。 今はまだ、それしか考えられなかった。 今はまだ、それだけで良かった。
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