4.01


夜中過ぎにやっとうとうと出来たが、いくらも経たないうちに目が覚めた。
この部屋特有の空気をまとった静寂の中で、綾波の規則正しい呼吸音だけが響いている。
寝不足のため頭の芯にぼやけたような痛みがあったが、意外にも気分は穏やかだった。

(なんだろう、この感じ)

時間がゆっくりと流れているような気がする。
時計が刻む正確なそれよりも、ゆるやかで自然な経過。
カーテンの隙間から覗く日の光、その中で揺れている埃のひとつひとつが目に入るほどに。

(……なんだか心地いい)

不思議だった。
あれほどの出来事、あれほどの困惑、あれほどの痛み。
感じたことは確かなままで、それでもここにある穏やかさ。
ところどころ穴が開いてパイプが見える天井も、
剥き出しになったコンクリートの壁も、どこか暖かい印象を受ける。 

(……きっと……たぶん)
 
"ただいま"と"おかえり"の儀式もない。
ここへやって来てから、日にちもさほど経っていない。
使っているものも借り物ばかりで、僕の物はひとつもないけれど、
目に映るものすべてが違和感なく捉えられる。

(僕の……家)



4.02


しばらくの間、感慨に耽りながら横になっていたが、
そろそろ起きる時間だろうと思い、手洗いに立つ。
部屋の中へ戻ると、まだ寝ていたはずの綾波が、
それまで僕が寝ていた即席布団の上で仰向けに横たわっていた。

思いもしなかった光景に驚いて、恐る恐る彼女の様子を窺う。
目を開けたまま無表情で横になっている綾波。
だが突然、右向きになったり左向きになったりと激しく動き出し、
その度に彼女のブラウスの下から出ている白い脚が、差し込む光の中で眩しく揺らめく。

「あ……あやなみ? 何やってるの?」
「……やっぱり硬い」
「はい?」
「気になってたの。寝づらいと思って、碇君」

そう言いながら彼女は、なおもゴロゴロと即席布団の上で寝転がる。
きっと僕が手洗いに立った音で目が覚めて、即座に僕の布団へ移動したのだろう。
"硬くない?"とは聞かず、自らの行動で実際に確認する。
どこまでいっても綾波は綾波だ。

でも僕としては、出来れば掛け布団をかぶってから実践してほしかった。
そうでなければ本当の寝心地は分からないだろうし、
カバーの中に入っている服もシワだらけになる。
それよりも、何よりも、いくらなんでも、この光景は眩しすぎる。
綾波が右へ左へと動くたびに彼女のブラウスが自然とたくし上がり、
まったくもって、どうして良いのか全然分からない。

「……と、とにかく起き上がらない? もういいよね?」

僕がそう言うと、彼女の動きは時間を分断したかのようにピタッと停止した。
そして伸びをしてから、いったん体育座りの姿勢を取って立ち上がる。

……僕は何も見ていない、何も見なかった、そうに決まってる。

「これから、寝る場所は毎日交換しましょ」
「え……ごめん、何?」

その眩しさのあまり、写真のごとく目に焼きついた一瞬の光景と対峙していた僕は、
綾波が言ったことを完全に聞き逃していた。

「次は私が下で寝るから、あなたはベッドで寝て」
「えぇ?!悪いよ、大丈夫だよ僕は」 
「そんなはずない、だって硬かったもの」
「そりゃ、ベッドに比べればそうかもしれないけど……」
「毎日寝てたら身体がおかしくなる。だから、毎日交換」
「だからって……綾波だって痛いよ? やっぱり僕が……」
「だめ。ぜったいダメ」

譲らない彼女と、譲れない僕。
途中からにらみ合いになったが、何だかおかしくなって思わず笑う。  
ほとんど同時に、彼女も自然と穏やかな笑顔になっていく。
きっともう、模倣などではない。

「綾波って優しいよね」

どこか清々しい気分になって、いつもなら照れてしまう言葉も素直に言える。
けれど綾波は、いきなり真顔になったかと思えばそのまま黙りこくってしまった。
何かおかしいことを言ってしまったか?
そう思いながら少し焦っていると、次第に彼女の白い肌が朱に染まってきた。
頬から顔全体、耳へと、その範囲はあっという間に広がっていく。  

(うわ……照れてる、綾波)

その彼女の反応を見て、僕も急に恥ずかしくなってきた。 
顔が熱い、火が出そうなほど熱い。
恐らく僕も、綾波と同じくらい赤くなっているのだろう。
思わずうつむいてしまいそう、けれど彼女から目が離せない。
僕の知らなかった綾波。
ものすごく魅力的な、初めて見る表情。

「………何を言うのよ」

この台詞は、二度目。
 


4.03


栄養補助食品の朝食を摂り、綾波の洗濯を差しさわりのない部分で手伝い、
代わり順にシャワーを浴びる。
僕の制服を洗濯しようかどうか迷ったが、とりあえず今日は見送った。
この部屋で出来る申し訳程度の家事は終わってしまい、何もすることがない。

とりあえずパイプ椅子に座る。
綾波は相変わらずベッドに座り、本を読んでいる。

「それ、何読んでるの?」

読書の邪魔をするのは悪いと思ったが、あまりに手持ち無沙汰だ。 

「ウィトゲンシュタイン全集 補巻2 哲学の心理学2」
「…………そう、なんだ」

会話は終わった。

(………)

(…………)

(……………)

「他に何か本ない? ヒマだから読みたいんだけど」
「ある。ベッドの下」
「借りてもいい?」
「ええ」

綾波はそう返事をして、僕が探しやすいように少し身体をずらしてくれた。
ベッドの下を覗くと、学校で使っていた補足資料や辞書、そしてノート類の他に、
彼女が今、手にしている硬そうな本ばかりが十冊ほど無造作に置かれていた。

"ユングと共時性"
"人間学・教育学"
"ウィリアム・サローヤンT"
"思春期・青年期臨床心理学"
"自己愛とエゴイズム" 
"非言語行動の心理学"
"言語と思考"
"病的性格"
"サルトル全集 自由への道"
"ウィトゲンシュタイン全集8"

「ずっ、ずいぶん難しそうな本ばっかりだね」  
「全部、赤木博士の本」
「借りたの?」
「ええ……心を知りたかったから」
「そうなんだ……」

言われてみれば、心理学と名のついた本が目につく。
きっと自分が手に出来る範囲で、少しでも"人間"を知りたかったのだろう。
それがリツコさんの本棚だったから、難しそうなものばかりになっただけで。

綾波も必死だったんだ。
本のタイトルを追っていくたび、彼女が遠ざかっていくような気がしたけれど、
これも綾波なりのアプローチだったんだ。

床に寝そべったまま、手に取ったひとつをパラパラとめくる。
その内容は、やっぱり難し過ぎて全然理解出来ない。
それでも僕は、綾波を近くに感じる。
前よりもっと、昨日よりずっと。

バラバラに置かれていた本をサイズごとに整理していると、
少し離れたところに雑誌らしきものを見つけた。
手を伸ばして取ってみる。

"ねこのきもち 11月号"

「猫好きなの?」
「ちがう」
「え? じゃあ、なんであるの?」
「きもちだから」
「それってまさか……」
「一応」

……綾波がまた少し遠いひとに思えた、が、
僕に読めそうなものはこれしかなかったので、借りて読んでみる。

「綾波、猫飼わない?」
「嫌。ハムスターならいい」



4.04


朝に交わした取り決めの通り、僕は綾波のベッドに寝ていた。
申し訳なく思う気持ちはまだ残っていたが、
僕が躊躇している間に彼女はさっさと薄い布団に入り込み、
高々と宣言するかのように"おやすみ"と言った。
もう僕に選択の余地など無かった。

少しだけ後ろめたさを感じたが、
久しぶりにちゃんとした寝具に横たわったため、かなり気持ち良かった。
ひとつ息をついてから、じっと天井を見つめる。
さほど位置は変わらないはずなのに、朝方に眺めたそれとは違って見えた。

これまで綾波が見た夢が染み込んでいるだろう枕を触りながら、
僕は次第に思考の波に捕らわれていった。
これまで意識的に避けて、でも、どうやっても避けられないことが、
渦になって頭の中を駆け巡る。

中心には、アスカの姿があった。



4.05

 
僕がサードインパクトからこの世界へ戻ってきた時、そばにはアスカしか居なかった。
もう一度会いたいと思ったのは確かだが、彼女だけ居ればいいと考えたわけではない。
なのに、どうしてアスカだけが居たのかも分からないし、どうして消えてしまったのかも分からない。

"アンタが全部アタシのものにならないなら、アタシは何もいらない"

あの時がまったくの現実とは思えないが、偽りでもないのだろう。
曖昧な世界だったからこそ垣間見えた僕の本音と、アスカの本心。
ただ誰かに優しくしてほしかった僕と、ただ僕を自分のものにしたかったアスカ。

これまでに見たいろんな彼女の姿が思い浮かぶ。
得意げにポーズを取るアスカ、リビングに寝転がっているアスカ、
怒っているアスカ、笑っているアスカ、元気のないアスカ、……病室のアスカ。

アスカ。
多分、彼女は僕のことが好きだった。

嫌われていると感じたこともあった。
見下されていると思ったこともあった。
でもそれは、綾波が言っていた"気持ちの表と裏"のうち、
裏のほうが大きかったということなのだろう。
アスカに喧嘩をけし掛けられた数だけ、きっと好きでいてくれた。

アスカ、カヲル君、綾波。
みんながそれぞれの形で僕を必要としてくれていた。
僕だけが何も見えていなかった。
誰も見ていなかった。

今になって分かるなんて。

アスカ。
僕はやっぱりバカシンジだ。
本当にバカシンジだよ。

泣きたかった、思い切り泣き叫びたかった。
けれど涙なんか一粒も出て来ない。
あの頃の彼と彼女をどれだけ思っても、失ってしまった世界と時間は戻らない。
僕には涙を流す資格さえ持っていないのかもしれない。
すべては僕のせいなのだから。

アスカがこの世界に戻ってきているか分からないけれど、今の僕に出来るのは祈ることだけ。
たとえ彼女がどこに居ようと、せめて苦しまないでいてほしい。
彼女の気持ちを無視して、首まで絞めてしまった僕だから、
そう思うことすら許されないのかもしれないけれど。

ふいに、綾波が寝返りする音が聴こえた。 

――ねえ、綾波。
  少しだけ分かったんだ。
  僕が僕であることの意味を。
  それは思っていたよりも、ずっと辛いことだったけれど。

まだ、寝ている彼女に心の中でしか語りかけられない僕。
だが僕はそのとき、確かに聞いたような気がした。
いつもと変わらない無機質な声で。

――碇君は碇君よ。

当たり前のことを当たり前に言うような口調で、こう答えてくれるのを。  




5.01


僕のかつての居場所、コンフォート17。
僕と彼女は、ふたりでそこに向かっている。
交わす言葉もなく、ただ前を向いて歩いている。

あの部屋に入り込んでから、幾日も外へ出なかった僕と彼女。
これまでの僕には勇気がなかった。
紅い空を見上げることも、誰もいない街を歩くことも、
想像するだけで、首筋の無防備な場所に寒気のようなものが走った。

でも、今なら大丈夫なような気がした。
まだ、すべての事柄と向き合うことは出来ないけれど、
外に向かっての一歩を踏み出せそうな気がした。

とりあえず、あの部屋に戻ろう。
そして必要なものだけを取って、また帰って来よう。
ひとりでは持てない量になるだろうと思い、彼女に同行してくれるよう頼んだ。
彼女は、僕の目の奥を覗きこむようにしてから、黙ってうなずいた。

紅い空の下、黙って進む僕達。
歩いて移動するには長い距離でも、彼女とならあまり苦にならない。
変わってしまった街の中を今、ふたりで歩いている。



5.02

   
最後にこのドアを開けたのは、いったい何日前のことだろう。
さほど経っていないはずなのにひどく懐かしく感じる。
周辺は崩壊が結構ひどかったが、どうやら電気は通っているらしい。
かすかに震える手で暗証番号を押し、IDカードをスリットに通す。
承認の合図、ドアを開ける、中に溜まっていた空気が動きだす。
僕はゆっくりと中へ入った。

玄関から繋がる廊下を半分ほど進んだところで、
彼女が来ていないことに気づいて振り向く。
開いたままのドアの向こう側に、彼女が外の方を向いて立っているのが見えた。
きっとこれも、彼女なりの気遣い。
僕はまた中に向き直り、リビングへのドアを開けた。

記憶よりも少し散らかったリビングの中。
少しくすんで見えるのは、多分気のせいではないのだろう。
何度も三人で囲んだ食卓テーブル、大小ふたつの冷蔵庫、
半分ほど残っているビールの箱、何本かあるコーヒーの空き缶。 
あの頃の思い出が一気に蘇り、思わず胸が詰まる。
喉の奥から潰れたような声だけが出た。

イスの背もたれに、ジャケットが掛けられているのが目に入る。
恐る恐る手を伸ばし、そっと掴む。 
静かに持ち上げたとき、かすかにラベンダーの匂いがした。
心の中でこみ上がる思いのままに、強くジャケットを抱きしめた。



5.03


――ミサトさん。
  今でも僕には良く分かりません。 

  懸命に家族であろうとしてくれた。
  僕のことをからかいながら、あなたなりの愛情を僕にくれた。
  今になって、その気持ちは分かります。

  力づくで奮い立たせてくれた、
  優しく別れを告げてくれた。
  今になって、その気持ちも分かります。

  でも、ミサトさん。
  僕があの時、あの行動を取ったのは、
  本当に正しかったのでしょうか?

  駐車場の片隅で座り込んだままのほうが、  
  幸せな世界だったかもしれない。

  この世界に残っている意味も。
  あなたの命を犠牲にしてまで生きている価値が、僕にあるのかどうかも。

  僕には良く分かりません。

  でもきっと、そう考えるのはあなたに失礼だから。
  "アタシの命をなんだと思ってるのよ"と、怒ると思うから。

  僕は僕に出来ることを探していこうと思います。
  たとえそれが、どんなに小さなことであっても。

  ミサトさん。
  そこはどんなところですか?
  もう苦しんでないですよね?
  どうか、ゆっくり休んでください。
    
  さよならは言いません。

  また、いつか。



5.04


しわくちゃになってしまったジャケットをイスに掛け直し、
キッチンの中から保存の効きそうな食糧を探す。
米、レトルト食品、缶詰、インスタント食品。
それらをいったんテーブルに置き、自分の部屋へ移動する。

たくさんのことを思い、たくさんのことを閉じ込めた、かつての部屋。
深い感慨を振り切るようにして、持ち出すものを手に取っていく。
多めの着替え、S-DAT、薄手のタオルケット、何枚かのバスタオル、デイパック。
片隅に置いてあるチェロを横目で見ながら、部屋を出た。

次にミサトさんの部屋に入り、出張用のキャリーケースを探す。
この家から僕の物と食糧以外を持ち出す気はなかったが、
荷物を運び切れないのでひとつだけ許してもらう。
ごめんなさい、と、心の中で呟いてから、香水と化粧品の匂いが混じった部屋を出る。

リビングに戻り、荷造りをする。
食料品をデイパックに入れ、その他のものをキャリーケースに入れる。
何も考えないように手早く作業を進める。

荷造りが終わった後、もう一度だけリビングを見渡す。
ふと、アスカの部屋へ続くふすまが目に付いた。
いったん背負ったデイパックを床に下ろし、そこへと近づく。

ぴったりと閉められているふすま。
引き手に少し力を込めたところで止め、その表面を数回撫でる。
またリビングの中を向き、荷物を持って玄関への廊下に出た。
もう後ろは振り返らなかった。 



5.05


玄関のドアはそのまま開けっ放しになっていた。
彼女は先ほどと同じ姿勢で立ったままだった。
廊下を進むたび徐々に混じる外の空気が、やけに新鮮に思えた。
 
玄関のドアを閉めたところで、彼女が振り返る。
彼女は何も言わない、僕も何も言わない。
複雑な色を纏った時間だけが過ぎていく。

僕がキャリーケースを渡すと、彼女は素直に受け取った。
そしてそれを軽く引きかけ、手を止めた。
同じようにして、僕も歩きかけた足を止める。

何時間か振りに目と目が合う。
彼女のそれが、いつもの澄んだ紅よりも濃いように感じる。
しばらくそのまま見つめ合う。

どれほどの時間が経ったか、彼女が手を伸ばし僕の頬に触れた。
壊れものに触れるようにそっと、それから頬全体を覆うようにしっかりと。

体温の低い、それでも胸の奥まで届くぬくもり。
右の頬しか触れていないはずの手のひらが、僕のすべてを包み込んでくれているようで。

何かが融けるような気がした。
目の奥がじんわりと熱くなるような気がした。
だが、わずかにくぐもった声が漏れただけで、涙は出ない。
彼女の手のひらに心を委ねても、決して流れることはなかった。

――忘れるな、ということなのかもしれない。
  僕がしてしまったことのすべてを。

しばらくそのままでいたが、そっと彼女の手を取る。
僕は感謝の意を込めて、その手を握った。
彼女は優しく握り返してくれた。

ほんの少しだけ、ぎこちなく笑ってから手を離す。
彼女の表情もわずかながら緩んだ。
いつの間にか、その目の色は元に戻っていた。

彼女がキャリーケースを再び手に取り歩き出す。
僕もデイパックを担ぎ、少し遅れて歩き出した。
交わす言葉もなく、僕達の家へと帰る。
   
――ありがとう、綾波。
  君が居てくれて本当に良かった。

まっすぐ前を向いて歩き続ける彼女に心の中でそう呟く。
僕の頬と手のひらには、いつまでもぬくもりが残っていた。 




6.01


家に着いたときには、もう夜と言っていい時間になっていた。
僕達はさっそく、コンフォート17から持ち出してきたものを取り出した。
スーツケースを開けた時に以前の家の匂いがしたが、
必要以上の感傷を覚えることはなかった。

多めに持ってきた僕の服の中から、細めのものを選んで綾波に貸すことにした。
彼女はずっと制服で通してきたから不自由を感じていないかもしれないが、
せっかく選択肢が増えたのだから、より快適な方法を選んでほしいと思った。
スリムストレートのブラックジーンズ、淡いピンク色のショート丈のポロシャツ、
ベージュ色のノータックなチノパンツ、タイトシルエットの白いTシャツ。
他にパジャマ代わりとして、ショートパンツともう一枚Tシャツを手に取る。

「綾波、これ」
「どうしたの?」
「制服より動きやすいよ」
「でも、碇君の物」
「僕だって綾波に借りてばっかりだよ」
「それは構わないから」
「そうじゃなくて、うーん……貸したいんだよ、お返しに」
「…善意?」
「い、いや、そんな大げさじゃなくて……そう、僕のものとか思わないで使ってほしいんだ」
「共有?」
「そう!それ! 少しでも過ごしやすいようにさ」 

彼女は手渡された服を一枚ずつ丁寧に観察し、制服の上から身体にあてたりしていたが、
やがて納得したのか僕の方を見て柔らかく笑い、ありがとう、と言った。
僕はどういたしまして、と答えて、すぐに後ろを向く。
途端に聞こえてくる衣ずれの音。
長めの時間を置いてから、僕は再度振り向く。
そこには、白いTシャツと黒いジーンズを身につけた綾波が居た。
僕にとっては細めの服も、彼女が着ると少し大きい。
だがそれも不自然なほどではなく、ルーズフィットくらいで収まっていた。

綾波は着心地を確かめているのか、屈み込んだり両手を広げたりと盛んに動いている。
最初は規則性のない動作を繰り返していたが、次第にそれは身に覚えのある動きに変わった。
滑らかで模範的なラジオ体操第一。
意外な行動に思わず目を見張ったが、気を取り直して途中から僕も参加する。

「感想は?」
「確かに動きやすい……ズボンはちょっと硬い」
「そのうち慣れるよ」
「そうね。これを穿いてる人多かったわね」
「知ってたんだ?」
「碇君が着用してるのを見て、それから」

体操を終える頃には身体が少し温まり、どこか強張りが取れたような気がした。
改めて綾波のジーンズ姿を見る。
僕の服だったはずなのに、僕よりもずっと似合っていた。
それが嬉しかった。
綾波はまだしばらく屈伸などを繰り返していたが、
ふいにその動きを止めて自分の足を眺め、ヒザの辺りを触り始めた。

「ずっと穿いてみたかったの」

そう、呟いて。



6.02


僕もずっと着ていた制服から私服に着替え、夕食の支度を始める。
台所を探すと、古ぼけた鍋がひとつに、使われた形跡がない一人分の食器類があった。
茶碗、皿、お椀、箸、フォーク、スプーン、そのどれもが何の装飾もないシンプルなものだった。

まずは鍋と食器一式を丁寧に洗う。  
次に鍋で米を研ぎ、直火で炊いてから食器に移し替える。
空になった鍋を洗ってから湯を沸かし、レトルトのカレーをふたつ温める。
温め終わったら、皿のご飯に野菜カレーをかけ、茶碗とお椀ふたつのご飯にビーフカレーをかける。
綾波にスプーンを添えた野菜カレーを渡し、スーツケースをテーブル代わりに食べ始める。

「カレー、食べたことある?」
「ええ。ネルフで碇司令と一緒に」
「と、父さんがカレーを?」
「あの人は違うものを注文してた。でも、どうして?」
「いや……似合わないなぁと思って」
「そう? あの人は天ぷら定食が多かったわ」
「父さんと定食……やっぱり想像出来ないよ」

そもそも父さんが食事すること自体、イメージが湧かない。

「いつも食後にコーヒーを飲んでた。マンデリンかグアテマラ」
「て、天ぷら定食の後にコーヒー? しかも豆指定!?」
「変なの?」
「変っていうか……変わってると思う」
 
綾波が不思議そうに僕を見るが、混乱にも似た驚きは消えそうもない。

「碇君はあの人をどう見てたの?」
「父さんのことを?そうだね……怖くて、近寄りがたくて……」

そう言いながら、次第に僕の気持ちは沈んでいった。

「……認めてほしかったんだ。必要だって、エヴァがなくても必要だって言ってほしかった……」

思わずフォークを持つ手に力が入る。

「なんていうか……きっと甘えたかったんだと思う。見てほしかったんだと思う……」

力が入らなくなって、フォークの先端を半分ほど残っているカレーの上に置く。

「…碇君」
「……あ、ごめん。湿っぽくなっちゃって」

慌ててまたフォークを持ち直し、食事を再開しようとする。

「待って、違うの。聞いてほしいの」

その言葉に、僕の手は止まる。

「碇君。あの人はいつもあなたのことを気にしていたわ」
「……え?」
「碇司令と食事をする時には、いつも学校やエヴァの事しか話をしなかった。
 でも、あの人に勧められて初めてカレーを食べようとしたら、こう言ったの。
 "シンジもカレーが好きだった"」
「……ホント?」
「私がカレーを食べる時には、どこか柔らかい感じだった。それからも」
「……父さん」

知らなかった。
ちゃんと僕のことを気にしてくれたなんて、全然気付かなかった。 
これまで持っていた父さんのイメージが、急速に変わっていく。
意外だった父さんの一面。
その驚きと嬉しさが混ざり合い、心の中に温かい何かが広がっていく。

「あ……でも」

その温かい何かが喜びに変わる少し手前で、綾波の独白を思いだした。

「綾波は……辛かったんじゃないの? その、父さんが、僕を見てるって……」
「…最初は何か変な気持ちになった。でも……」
「でも?」
「……それは人間の心が気になり始めていた頃。だから……」
「だから?」
「……"シンジも好きだった"と聞いたから。それで……」
「……え?」
「……それからは、いつも、カレー……」

白いTシャツまで染まってしまいそうに赤くなった綾波を見て、
僕も身体全体が火照ったように熱くなる。

「…………」
「…………」
「……とりあえず、食べちゃおうか」
「……そうね」

少し冷めてしまったカレーを二人とも無言で食べる。
初めはどうしてもぎこちない動きになったが、
食べ終わる頃には、食器と食器が擦れ合う音も軽やかになっていた。

ごちそうさま、と言い合った後、ひと息ついてから片付けを始める。
夕食の用意をしている時には手を出さなかった綾波も、
たどたどしい手つきで洗い物を手伝ってくれた。

僕ひとりでやるよりも少し時間のかかった片付け、終わった後に聞いてみた。

「カレー、おいしかった?」

初めての食器洗いを終えて少し放心していた彼女、だが顔を綻ばせながらこう言った。

「これまでで、いちばん」



6.03


数日前に綾波が用意してくれた簡易布団のリニューアル作業。
まずはシーツを折りたたんだ中に、僕のバスタオルを一枚。
続いてその上に僕と綾波のバスタオルを交互に置く。
掛け布団のカバーから綾波のブラウスを一枚取り出し、
僕の薄いタオルケットをカバー布団の上に掛ける。
最後に僕の空になったデイパックを畳んで綾波のブラウスで包み、枕にする。
ちゃんとした寝具とは言えないまでも、昨日までより確実に良い環境が出来たはずだ。

まずは僕が寝心地を確かめる。
敷くものと掛けるもの、それぞれ数枚ずつ増えただけなのに、
思った以上に柔らかく、暖かくなっていた。
もしかしたら、気持ちの問題なのかもしれない。  
ゴロゴロと寝転がる僕の様子をじっと見ていた綾波は、
僕が立ち上がると即座に簡易布団に寝そべった。
先日と同じように右へ左へと転がる彼女を見て、
最近の愛読書である"ねこのきもち"を思い出す。
なんだか幸せな気分になった。

相変わらず布団の中には潜り込まず、上でゴロゴロしている綾波。
違うのは彼女の格好がジーンズ姿であるということ。
もういくらでも、存分に寝転がってくれて構わない。
そう思っていると、綾波は予想に反してタオルケットを身体に巻きつけ、その状態で止まった。
そのままピクリとも動かないので少し心配していたら、
タオルケットの中から"……碇君の匂いがする"という、かすかな呟きが聞こえた。
……そんなの反則だと思った。



6.04


綾波の呟きにしばらく呆けていると、いつの間にか寝る時間が近づいていた。
いったいどのくらいの時間を間抜けな顔で過ごしたのかと思うと、少し恐ろしかった。
気を取り直して、カーキ色のバミューダパンツと"平常心"Tシャツに着替える。
僕が着替え終わったら、次は綾波の番。
その間に眺めるコンクリートの壁には、すでに僕の中で視点の定位置があった。
いつもの時間を置いた後、ショートパンツ姿の綾波を想像しながら振り返る。
……彼女の中に譲れない何かがあるのか、いつものようにブラウス一枚で立っていた。

「おやすみ」
「…おやすみ」

綾波はベッドに、僕は簡易布団に滑り込んだ。    
彼女は僕の匂いを感じたようだが、僕には綾波の匂いしか分からなかった。

「ねえ」
「…なに?」
「僕の匂いってどんなの?」
「…………聞こえてたの?」
「……うん……ごめん」

しばしの無言。

「……安心する匂い」
「僕の匂いが?」
「…そう」

試しに自分のTシャツを嗅いでみた。

「分からないよ」
「…でも私には、そう」
「そういうもの?」
「…そういうもの」
「変な匂いじゃないよね?」
「…それは……大丈夫……」

寝息混じりの彼女の返答に少し不安を覚えたが、気にしても仕方ないので寝ることにした。
思い切ってタオルケットとカバーを頭からかぶる。
一日の疲れが溶けていくように思え、綾波の匂いに導かれるようにして眠りについた。

かつてないほど、安らかに。




7.01


穏やかな日常は、ただそれだけで価値がある。
そう素直に思えたのは、ここへ来てからどのくらい経った頃だったろう。

相変わらずの狭く、古びた部屋。
内装だけで判断するなら決して選ぶことのない場所。

台所にはこびりついて元が何だったのか不明な汚れがあり、
シャワーはお湯よりも水が出てくる時間のほうが長い。
床を良く見れば何かが擦れたような細かい傷がたくさんあり、
窓や窓に近い壁は結露がかなりひどい。

だがそこには、常に静かで優しい時間が流れていた。

カーテンから漏れる朝の光で僕が目覚めて、綾波を起こす。
彼女がシャワーに行っている間、簡素なインスタントの朝食を作る。
ふたりで食べ終えてから、僕はシャワーで綾波は後片付け。
掃除と洗濯を分担して済ませたら、自由時間。
綾波が本を読みだせば、僕は"ねこのきもち"を手に取った。
僕がS-DATで第九を聴き始めると、彼女は眼鏡を丁寧に拭いた。

時折の何気ない会話と、たまに交わし合う視線。
特別なことをしなくても、何かが通じているような感覚。
おやすみを言い合い、互いの匂いに包まれて眠るまで変わらず、
柔らかく暖かい空気がそこにあった。

ただそれだけで価値がある、穏やかな日常。

本当に、本当に。
このままでいられたなら、どんなに良かっただろう。



7.02


綾波に話を切り出したのは、決して僕に勇気があったからではない。
この日常を出来るならば無くしたくなかったし、失いたくなかった。
叶うものならずっと続いてほしいと思っていた。 

けれど、知らないうちに気持ちの整理がついていた。
毎日減り続ける食糧を目にしながら、意識しないままのカウントダウン。
構える間もなく自然に心の準備が出来ていた。

持ち出した食糧が残り数日分になったところで、彼女に言った。
何でもないようで、穏やかな日常に終わりを告げる意味を持つ言葉。
右の掌を数回握り直し、深呼吸をしてから。

「僕達、このままじゃいけないよね」

綾波は僕の言葉を聞いた途端、本のページをめくる手を止めた。
しばらく何も言わずにそのままの姿でいる彼女。
だが、僕達の間に横たわる沈黙はいつかのそれと違って、
音さえ響かない真空の場所に居るかのような静寂に満ちていた。

どのくらいの時間が経ったか、綾波はふいに顔を上げた。
一見、いつもの彼女の無表情。
しかしその目には、これまで見たことがないほど澄み切った紅があった。

「……そうね。このままではいられないわ」



7.03


「それで……どうしようか」

前に進むことを決めた僕達だったが、その方向性は何も見えていなかった。

「…優先順位を決めたほうがいい」
「優先順位?」
「そう。たとえば、私達が生きていくために何が必要か」
「それは……まずは食べるもの」
「なら、それを確保する手段を探す」

確かにその通りだった。
必要なものを手に入れれば、生活に支障は出ない。

「でも……」

外に行けば何かしらのものが手に入るだろう。
コンビニへ行って食糧を取ってくることも、
デパートに入って日用雑貨を物色することも出来た。

「それだと……何も変わらないと思う」

綾波は静かに頷く。

「そうね。何も変わらないわ」

当座は補うだけで良くても、根本的な解決には至らない。
今は問題なく使えるライフラインも、いつまで持つか分からない。
けれど、穏やかな日常を崩しても手に入れなければならないものは、他にあった。

「僕は……知りたい。この世界がどうなってしまったか」

そう。
いつまでも目を背けているわけにはいかなかった。
紅い海と紅い空、そして誰も居ない第三新東京市の中心部。
僕がこの世界について知っているのは、たったそれだけだった。

「本当に……いいの?」

綾波は少し心配そうに、だがそれ以上に問うような口調で聞いた。

「いいんだよ……」

僕は肺に溜まっている空気をすべて吐き出すように言った。

「僕にはきっと……知る義務がある」

綾波は僕の答えを聞いた後、しばらく考えるような素振りを見せていたが、
やがて思いついたように頷き、また僕の目を見た。

「私が知っているのはサードインパクトまでの情報。それから先のことは何も分からない」
「うん」
「感覚として残っているのは、碇君に導かれて力を解放したこと」
「……うん」
「途中で身体が崩れたこと」
「………」
「どこまでサードインパクトが進んでいたかは分からない……でも残っているかもしれない」
「何が?」
「……情報を得られるかもしれない場所、何かが見つかるかもしれない場所……」
「それ……まさか……」

爆心地に相当したであろうその場所は、もう跡形もなく崩壊していると思い込んでいた。
可能性の低い話であることは、珍しく言いよどむ綾波の口調からも分かる。
だが、残っているかもしれないと思うだけで、
怖さと懐かしさと不安が入り混じった気持ちが湧き上がった。

「……ネルフ本部」

日常と、非日常と、思い出と、後悔の場所。



7.04


月の光で少し薄まっている闇の中、
翌日のため早々に床に就いたはずが、僕は一向に眠れなかった。

(明日……本当に行くのか。ネルフに……)

次々と思い浮かぶ人達。
ミサトさん、アスカ、リツコさん、マヤさん、カヲル君。
次々と蘇る記憶。
シンクロテスト、ハーモニクス、戦闘訓練、作戦会議。
毎日を追われるようにして過ごしていたから気づかなかったが、
一介の中学生である自分が人類を守るため戦っていたなど、今となっては荒唐無稽な話に思えた。

(……父さん。……僕は知らなかった)

使徒殲滅、補完計画、シナリオ、約束の時。

(守っていたはずが……壊すことになるなんて)

最後まで自分のことしか考えていなかった父さん。
大義名分に隠れて見えなかった小さな真実。
だがしかし、極限まで追い詰められたとはいえ、
正義でありながら悪でもあったのは、僕もまた同じだった。

(結局……似てるってことか)

他人を見ず、自分のことしか見えていなかった僕。
人類を守る戦いに出ていたのは、ただ自分を褒めてほしかったから。
好意を寄せてくれた人達に目もくれず、一度はすべてを拒絶した。
親子であるとこれほど実感したのは、皮肉にも初めてのことだった。

(ネルフが残ってるか分からない……、でも知るにはきっとそこしかない)

すべての始まりであり、終わりでもある場所。
たとえ建物が崩壊していたとしても、這いつくばって何かを探さなければならない。
この壊れてしまった世界を知ること。
どんなに悲しい形であっても、きっとそれが僕と父さんの……絆。

(………寒い)

このままではいけないと心の準備はしていたはずなのに、
刻々と迫る明日を思うだけで、ざらついた悪寒が全身を駆け抜けた。
胸の奥から広がり、皮膚に張り付き、肉体に浸透し、臓腑に染み渡る。
どこからが身体でどこまでが心なのか、それすらも分からなくなっていく。

(…………)

思わず綾波の方を見る。
だが彼女はベッドで寝ているため、下からではマットレスが邪魔で姿が見えない。

(綾波……)

どうしても彼女の姿を見たくて、布団から起き上がる。
いつものように仰向けで眠る綾波。
かすかに零れる月の光が、その寝顔をおぼろげに照らしている。

(もっと……そばで)

ベッドの脇で立ち膝をし、普段より近くで綾波を見つめる。
無表情の上に穏やかさという雫を数滴加えたような寝顔。
左の頬にそっと触れる。
指先に一瞬の冷たさ、そして少しずつ広がる柔らかさと温かさ。
頬を覆うようにして触れる。
手首に当たるいつもより浅い寝息が、僕の寒さを和らげる。

(……綾波)

こうしている間にも時間は進み、明日は着実に近づいてくる。
朝なんか来なければいいと思う僕と、夜のままでは居られないと思う僕。
どちらの僕も本当で、覚悟なんてどこにもない。

(…………)

それでも僕は、進まなければならない。
足がすくみ身体が震えたとしても、逃げてはいけない現実がそこにある。

(……こんな僕に)

手のひら全体で感じている彼女のぬくもり。
せめて今だけは、このままで。
指先に灯る優しさを、手首に当たるいたわりを。
朝の光がこの部屋を照らし出し、空がその紅さを見せるまで。

(……どうか)

君が起きる頃には手を離すから。
だからどうか、今だけは許してほしい。
君の頬で、君のぬくもりで。
こんな僕に、どうしようもなく弱い僕に。
どうか、綾波――。

――――僕に勇気を。


ぜひあなたの感想を までお送りください >

【投稿作品の目次】   【HOME】