8.01


鳥のさえずり、澄んだ空気、まばゆい光。
たとえ僕がどんな思いを抱いていたとしても、
朝という時間を構成するものは、いつもと変わることがない。

結局、今の時間に至るまで一睡も出来なかった僕。
けれどそれを悟られないようにして、彼女を起こす。

「おはよう」

普段と変わらず、不機嫌そうに少し眉をしかめる綾波。
だがその声には、隠し切れない覚醒の響きがあった。

「…おはよう」

空気中を舞う塵も、日に透けて濃い灰色に見えるカーテンも。
この部屋を形作るすべてのものが、
僕達の気持ちを知らないまま、普段通りの姿を見せている。



8.02


簡易枕から綾波のブラウスを外し、デイパックを広げる。
殺風景な部屋の中を物色し、使えそうなものを詰めていく。
栄養補助食品、何枚かのタオル、包帯、消毒液、絆創膏。
足りないものは無人の街で補うことにした。

ネルフにはいつも制服で行っていたため、私服を着るのは若干の違和感があったが、
まさか綾波にスカートで行かせるわけにもいかないので、僕も動きやすい格好を選ぶ。
幾らか丈夫なカーゴパンツと、ワッフル素材のTシャツ。
彼女はポロシャツとチノパンツを選択したようだ。

すべての支度を終えた後、ふと綾波の方を見る。
彼女も同時に僕の方を見る。
もうすでに珍しくないこの行動。
違うのは、彼女の目がほんの少し潤んで見えたことだった。

僕はゆっくりとドアを開ける。
外に出てから右手でドアを押さえ綾波を待つ。
一拍置いてから機敏な動作で出てくる彼女。
軽く頷き合った後、後ろ手に閉めたドア。
その軋むような音が廊下に大きく響き渡った。



8.03


アスファルトから立ち上る熱気と、絶え間なく聞こえるセミの声。
抜けるように紅い空には大きな入道雲。
額から噴き出す汗をそのままに、なだらかな下り道を黙々と歩いていく。

機能を停止した信号、崩れたビルから覗いている鉄筋の数々。
足元に注意しながらどこかに店舗がないかを探す。
崩壊の程度がさほどでもないコンビニがあったので、
中の様子を見てから綾波に入ってくるよう促す。

薄暗い店内の中で、必要になりそうなものを物色する。
電池、多めの飲料水、軍手、長いナイロン紐、チョコレート。
ビニール製でリュックタイプの簡単なバッグもあったので、
デイパックからタオルや包帯等を取り出し、ビニールシートも一緒に入れて綾波に渡す。
それから僕はデイパックに残りの物を詰め、誰も居ない店内にごめんなさいと言って外へ出る。

コンビニの隣にあった派出所から頑丈な懐中電灯を借りて、
僕と綾波は誰も居ない街をまた歩き出す。
歩いていくうち、車窓からしか見たことがなかった風景に差し掛かり、
目的の場所へ着実に近づいていることを知る。

抜けるように紅い空。
近くなるにつれ、その色が次第に濃くなるように思うのは、
僕の気のせいなのか、それとも――。



8.04


半壊したリニアの駅の前でしばらく考えたが、
カートレインのパレットを伝って行く方法を取ることにした。
いつかのように内部を通って行くことも考えたが、
いつ崩落するか分からない狭い通路を這うのは最も危険に思えた。

どうにか入口を探しだし、漬物石ほどの大きさの瓦礫を手に取る。
すぐ下に見えるパレットにそれを投げ込むと、衝撃でかすかに揺れてからすぐに止まった。
その様子を見てから、慎重に足を乗せる。
安全を確かめてから懐中電灯を取り出し、地下の方を覗きこむ。
思ったほど崩壊はしていないようだ。
次のパレットに今度はデイパックを投げ込み、足を乗せる。
地上に居る綾波に声を掛け、同じ要領を繰り返しながら進んだ。

汗だくになったので途中で水を飲み、糖分を補給しながら尚も下っていくと、
次第に視界が開けていった。
その圧倒的な広さを持つ地下の空間。

「ジオフロント……」

夢の跡はその姿を見せた。
それは薄暗く、崩壊が激しい、あまりにも儚いものだった。



8.05


「やっぱり……ひどいことになってるね」

何とかジオフロントに降り立つことが出来た僕達。
けれど、あまりにも変わってしまった風景に、やり切れなさが募った

「…これでも良いほうだと思う」
「え……そうなの?」
「ええ、私が想定していたよりずっと」

綾波は辺りをぐるりと見回しながらそう言った。

「僕も最初は無くなってると思ったけど…でもなんで残ってるかもしれないと思ったの?」
「あの人の眼鏡」
「父さんのって……うちにあるやつ?」
「そう。 ……あの人には従わなかった、でも守りたかったから」
「……複雑だったんだね」

以前の僕には裏切りと思える気持ちも、今ではすんなりと受け止められた。

「だから多分、本部はここよりも損傷が少ないと思う」
「絆の証……」
「ええ」

彼女が最初に絆を得た場所。
そして僕が初めて父さんとの絆を見出した場所、ネルフ本部。
まだこの目で見たわけではないから現時点では推測に過ぎないのだが、
彼女がそう言うからには、残っている可能性は高いだろう。

「綾波は……大丈夫?」
「…なにが?」
「……知ることが」

僕のために力を解放した綾波。
知ることによって自分を責めてしまうのではないかと不安だった。

「………」

しばらく言葉を探すように目線を動かしていた彼女だったが、
やがて見つけたのか、確かめるようにして頷いてからこう言った。

「私は造られた存在。禁じられた融合のためだけに存在していたもの。
 人間の心が今ここにあっても、その事実は変わらない」
「綾波……」
「私は知ってる。今どれだけ世界が壊れていても、残ってることが奇跡。
 碇君がこの世界に残した優しさ。だから私は知りたい、分かることすべてを」

言い終わった後、彼女の手が僕の右の頬に触れた。
しかしその指先は冷え切って、細かく震えているのが分かる。

吸い寄せられるようにして綾波の左の頬に触れる。
ずっと拳を握り締めて血の巡りが悪くなった指に、その柔らかい肌が昨日より温かく思える。

(………)

今、彼女がどれほどの痛みや不安を感じているのか、正直に言えば想像もつかない。

(僕も……だから)

この内にある不安も、恐怖も、決して拭い切れるものではない。

(一緒に……)

たとえこれがほんの一時の慰めなのだとしても、今より少し前に進もうと思えるから。

「……行こう?」
「……行きましょう」

互いの頬からゆっくり手を離し、また瓦礫の山を歩く。
様々なものを抱え込んだまま沈黙を続けている、ネルフ本部へと。



8.06


いつも圧倒的な存在感を持って僕を迎えていた正面ゲート。
今はしかし、大きな瓦礫に潰され無残な姿を晒していた。

「どこか……他に入るところ知らない?」
「…幹部専用入口ならあるわ」

そう言って綾波は正面ゲートに向かって右の方角へ歩き出した。
時折、瓦礫に阻まれて立ち往生したが、その度に彼女は迂回ルートを探し出した。

「すごいよね、前も思ったけど」
「そう?」
「だってこんな、迷路みたいになってるのに」
「目的地の位置さえ確定出来れば」
「へえ……」

方向音痴の僕には出来ない芸当だった。

「それに……」
「うん?」
「何年も……ここしか知らなかったから」

彼女の言葉の語尾が掠れたような気がしたので、紛らすかのように慌てて目の前の瓦礫を手で除けた。
これまでも、少しでも歩きやすいようにその作業を繰り返していたため、 
ジオフロントに降りてから着けている軍手は、もうボロボロになっていた。

「…ここ」

彼女が指し示した場所を見ると、一見してそれと分からないように細工されたドアがあった。 
その表面には数えきれないほどの銃弾の跡が残っている。

「これって……あの時の、軍隊みたいな……」

霞のようにおぼろけに蘇る記憶。
何人もの大人に囲まれ銃を突き付けられたのに何もしなかった僕。
……ミサトさん。

「軍隊?」
「うん……最後の日、いきなり攻めて来て……。知らなかった?」
「ええ。ずっとターミナルドグマに居たから……」
「そっか……」

銃弾の穴から立ち上り、空気中に漂い始めた過去への感傷。
それを振り切るかのようにしてドアに手をかける。
一瞬の抵抗感、だが力づくで一気に全開したドアの向こうには、濃密な暗がりが広がっていた。

「やっと……ここまで来た」



8.07


市販のものより強力な光を放つ懐中電灯を頼りに少しずつ先へと進む。
廊下に散らばっている瓦礫の破片は外より小さく、遥かに歩きやすかった。

「綾波、気をつけてね」
「…大丈夫」

僕はこの通路に不案内なため、どうしても彼女が先導する形になってしまう。

「何かあったらちゃんと言ってよ?」
「…問題ないわ」

外ならば二人で並んで歩くことが出来たが、この狭さでは一人ずつしか通れない。

「見えづらかったら教えてね」
「…ええ」

かすかに漂ってくる腐臭に、僕は先ほどまでとは違った不安に襲われていた。

「その……何か……おかしいところない?」
「…………」

いきなりの沈黙に、頭の中にはホラー映画のワンシーンが思い浮かぶ。

「あ…あやなみ?…ど、どうしたの…?」
「……明かり」
「………え?」

出来るだけ余計なものを見ないようにしていたから気づかなかったが、
確かに前方には懐中電灯とは違う光源があった。

「電気が通ってる……?」
「…エレベーターホール」
「あそこが? そうなの?」
「そう。司令室直通の」
「直通……」

歩いていく途中で懐中電灯を消し、徐々に照らし出されていく廊下を進む。

「あれ……?」

凄惨な状況を想像してかなり身構えていたが、エレベーターホールにあったのは血の跡だけだった。
何かの陰にあるのかと思いしばらく探してみたものの、見つけることは出来なかった。

「気のせい?でも……」 
「碇君?」
「あ……うん、ごめん」

見なくて良かったと思うと同時に、浮かび上がるもうひとつの可能性に心が乱れていくのが分かる。

「動く?」
「…もうすぐ来るわ」

ひとつしかないボタンの光を見ながら、目立たないように深呼吸をする。
並んで立つ綾波を横目で見ると、その表情はいつになく険しいものになっている。
恐らく彼女も気づいているのだろう。

生きている電気系統、IDカードなしに動くエレベーター、消えた死体。

――この先に誰かが居る、間違いなく。



8.08


あの日から三週間余り、僕は綾波以外の人物を見かけていない。

(あれほど……無事でいてほしいと思ったのに)

誰も居ないことが不安だった。

(生きていてほしいって思ったのに)

誰も居ない街が恐ろしかった。

(誰か居るって分かったのに……)

今はその誰かが怖い。

(僕……なんで……)

これまでの決心など吹き飛ぶほど怖い。

(あんなに……)

滑らかに下降を続けているエレベーター。

(……決めたのに)

心のどこかで止まることを祈る自分。

(どうして僕は……)

そんな自分を嫌悪する自分。

(……こんなの嫌だ……)

彼女の手が僕の手を探している。

(綾波……)

手探りで彼女の手を握り締める。

(そう……)

彼女の手が僕の手を強く握り返す。

(……こんなことじゃ駄目なんだ)

今そこに居る誰かも。

(僕は……)

そこには居ない誰かも。

(……見なきゃいけない)

この世界を構成する人だから。

(……だから)

エレベーターの下降が緩やかになる。

(……もう)

かすかな衝撃と共に止まる。

(僕は逃げない)

一瞬の間、そしてドアが開く。

(………え?)

そこは部屋と呼ぶにはあまりにも広い空間。

(あれは……!)

薄暗い中に見えるふたつの影、目を凝らすとそこには良く知っている人物。

「……シンジ君」

マヤさんと、

「……レイ」

冬月さんが居た。




9.01


あの時に見た軍隊らしき大人が居ることを想像していた僕は、
そのあまりの落差と、安堵と、そして疑問によってしばらく何も言えないでいた。

「…お久しぶりです。冬月副司令、伊吹二尉」

だが、綾波がよどみなく挨拶する声を聞き、やっと我に返った。

「無事だったんですね……マヤさんも、冬月さんも」
「これが無事と言えるかどうか……だが生きてはいる。私も、伊吹君も」

冬月さんは僕達に固く笑いかけながら言った。

「レイちゃん……身体は大丈夫?」

マヤさんは強張った笑みを浮かべながら綾波に聞いた。

「問題ありません」

そう答える綾波は、かつての無表情に近くなっていた。

薄暗く、隣に立っている人物までの距離さえ見誤りそうに広い司令室。
この空間に居る誰もが皆、自分ではない誰かへの仮面を被っていた。
それはあまりにも脆く、半ば透けていて、悲しいほどぎこちない気遣い。

「……お二人に、聞きたいことがあります」

暗黙の了解を多分に含んだその空気を破るのは、僕しか居ないだろう。

「………」

顔を見合わせるマヤさんと冬月さん。
見え隠れする迷い、戸惑い、ためらい、そして心配。

「僕は……知らなきゃいけないと思っています。どんなことでも」
「本当に……後悔はないのかね?シンジ君」

冬月さんの顔が少し歪んだように見えた。
そこにあるのは、憐憫なのかそれとも後悔なのか。

「……はい」

少し遅れて、だがはっきりと答えた僕を、冬月さんは遠い誰かと重ねるような目で見つめた。

「シンジ君。こう言ってはなんだけど……私は知ることがそれほど重要ではないと思うの」
「マヤさん……」

かつてはかなりの童顔で通っていたマヤさん。
今では誰が見ても年相応、もしくは実年齢より上に思うだろう。

「シンジ君が何をどう望んだか私には分からない。
 でも、こうなってしまったのは、大部分がゼーレとネルフの責任。
 だから……シンジ君がそんなに背負わなくてもいいと思うのだけど」 

マヤさんの表情と同じように強張った声、しかしそれには僕に対する不可解さも込められていた。
その疑問に答えるべく、僕はゆっくりと言葉を探していく。

「……確かに僕は、何も出来なかったかもしれません」

ずっと回想を続けていたサードインパクト、ずっと残っていたわだかまり。

「僕はもう一度会いたいと思った。綾波はそれを僕の優しさだと言ってくれた」

それは本当のことだった。

「でも……、その前に、みんな居なくなってしまえと思ったんです」

それも本当のことだった。

「僕がどう思おうと結果は変わらなかったかもしれません」

結局、僕はただの依り代に過ぎなかった。

「被害者に見える……とも思います」

様々な大人の思惑に踊らされていたのも事実だった。

「だけど……、僕を見てくれないなら全部いらないと……そう思ったのも僕です」

決して消すことの出来ない、すべてを破壊したい衝動に駆られた一瞬。

「だから……僕は、何も無かったことになんて出来ません」

たとえ僕が居ても居なくても同じだったとしても。

「忘れるなんて出来ないから……」

その禍々しい一瞬によってサードインパクトは開始を告げたから。

「………シンジ君」

マヤさんが悲痛な面持ちで僕を見ている。
その表情を目にしたくなくて、思わずうつむいてしまう。

「…碇君」

綾波が心配そうに僕の名を呼ぶ。
僕は顔を上げ、目線だけで大丈夫と答える。

「分かった、シンジ君」

冬月さんが何度も頷きながらこう続けた。

「話そう。……私の知る限りを」



9.02


「それで……何を聞きたいのかね?」

しばらくは重苦しい雰囲気に縛られて身動きが出来なかったが、
冬月さんのいつもより低い声が僕を先へと促す。

「……あの、……お二人は、ずっと無事だったんですか?」

息苦しいながらも何とか言葉を放つ。
聞きたいことがあり過ぎて迷ったが、まずは二人の様子を聞くことにした。

「ずっと無事、とは、どういうことかね?」
「えっと、……僕は最初、アスカと綾波が消えるのを見たんです」
「消える?」
「はい。サードインインパクトの後、紅い海のそばに僕とアスカしか居なくて……。
 それでアスカは、僕の顔を撫でてから消えたんです……プラグスーツだけが残りました」

さすがに、アスカの首を絞めたことは言えなかった。

「ねえ、シンジ君。アスカちゃんその時、LCLにならなかった?」
「LCL……?」

マヤさんは半ば確信めいた口調で僕に聞いた。

「えっと……そういえば、LCLみたいな匂いがしたかもしれません」

半ば恐慌状態にあった時のことを、懸命に思いだしながら答えた。 

「レイ」
「はい」
「確認だが……リリスに還ったのだな?」
「…はい」
「やはりな……だからか、ゼーレとも碇の計画とも違ったサードインパクトとなったのは」

納得したのか、冬月さんはそう言って大きく頷いた。

「私の意志で変えました」

冬月さんもマヤさんも、綾波の力強い言葉に目を見開いていた。

「私は碇君に呼ばれて力を解放しました。でも、具体的に何をしたかは分かりません」
「と、すれば……どうなったかはレイも知らないのだな?」
「はい。感覚だけが残っています」
「リリスと融合しなかったのかね?」
「最初は身も心も溶け合いましたが、途中で私の自我が分離しました」
「シンジ君の望みを叶えたのはレイか?」
「……最後にリリスと私の自我が争いましたが、残ったのは私でした」
「なるほどな……。すべてを一つにしようとする心に抵抗した結果が、この世界か」
「碇君が望む世界が、私の目指す世界でした」

冬月さんはひとつ息をつき、僕と綾波を交互に見る。
その目は幾分、柔らかさを帯びていた。

「レイちゃん……」

マヤさんは迷うような素振りをした後、やがて思い切ったようにこう言った。

「……今まで、ごめんね? 私、あんなこと……!」

その謝罪は、言い切る前に涙声へと変わっていた。

「………」

綾波は反応に困ったのか沈黙したが、やがて誰に言うでもなくこう呟いた。

「…伊吹二尉は、間違ってない」

マヤさんのすすり泣く声だけが司令室に響く。
綾波はさらに困惑したのか、助けを求めるようにこちらを見たが、僕はただ笑って頷いた。

「シンジ君。君の質問に答えないまま、聞いてばかりですまんね」

冬月さんはマヤさんの様子を気にしながらも、僕に謝った。

「いえ。……それで、どうだったんですか?」

改めて僕が聞くと、冬月さんは少し厳しい顔付きになり、こう答えた。

「私も伊吹君も一度はLCLに還ったが、またこの世界に戻って来た。……弐号機パイロット、惣流君も」



9.03


「アスカが……アスカが戻ってるんですか!?」

驚愕のため大きくなった僕の声が広い司令室に響き渡る。

「私も実際に会ったわけではないが…、二週間前に国連が保護したと聞いている」

アスカが無事だった。
その思いもよらない吉報に、僕の心は軽くなっていった。

「大破した弐号機のそばに居たそうだ。衰弱して数日は動けなかったようだが、
 国連のVTOLでドイツに帰ったそうだ」
「そうですか、良かった。アスカ……」

ほっと息をつき、握り締めていた拳を広げる。
びっしりかいていた汗が室温に晒され、熱のこもった何かが蒸発していく。

「じゃあ……ミサトさんは? ミサトさんはどうなったか知りませんか?」
「…………」

一縷の望みを託して尋ねるも、冬月さんは沈痛な面持ちに変わった。

「ダメ……だったんですか?」

一時は嬉しさが広がった心も、次第にその重さを増していくのが分かった。

「シンジ君、君も見ただろう? 上のホールにあった跡を……」
「あっ! あれ……!」

血の跡、かすかな腐臭、消えた死体。

「サードインパクトの前、ここは戦略自衛隊によって侵略された。
 ネルフ職員は大部分が殉職した。上にあった跡もネルフの人間が残したものだ。
 LCLに還る前に死亡した者は戻ることも出来ない……葛城君も、その一人だ」

――かすかにラベンダーの匂いを感じたような気がした。 

「………そう、ですか」

――わずかに抜けるような笑い声を聞いたような気がした。

「今、ネルフ本部はかなりの機能を停止している。それはサードインパクトによるものではなく、
 ほとんどが侵略によって受けた被害だ。マギの一部が辛うじて稼働している」

――ミサトさん。

「…碇君。まだ早い」
「……え?」

綾波が僕を呼ぶ。

「今は、今を見る時。聞いて今を知る時。だから、まだ早い」

……そう。
綾波はいつだって僕を呼び醒ます。
僕以上に僕を知っているかのように――。

「……あ、ごめんね、ありがとう綾波。すみませんでした、冬月さん」

僕の様子を心配そうに窺う綾波に礼を言い、話を中断してしまったことを冬月さんに謝った。

「……いや、私も表現が悪かった。すまなかったシンジ君。レイも」

そう言う冬月さんも、重い話がいったん途切れて少しホッとしているようだ。

「レイちゃん……すごい」
「何でしょう、伊吹二尉」

それまでずっと口を開かなかったマヤさんが、綾波に感激のまなざしを送っていた。

「だって……さっきの話もそうだけど、シンジ君一筋で!」
「……一筋?」
「通じ合ってるっていうか、心で会話してるっていうか……! ホント素敵……!」
「…………」

綾波がひどく困惑した様子で僕を見る。
今度は笑うことも頷くことも出来なかった。  

「マ……マヤさん、困ってますよ、綾波……」

夢見心地でどこか遠いところを見つめるマヤさんを何とか引き戻そうとする。

「……あ、ごめんなさいシンジ君。でも、私、嬉しかったの。すごく変わったから……レイちゃんが」
「マヤさん……」

感慨深そうに呟くマヤさんの心には、以前の綾波が強く印象に残っているのだろう。

「……ありがとうございます、伊吹二尉」

そう言いながら、ネルフに着いて初めての微笑みをマヤさんに贈った綾波。

「レイちゃん……!」

そしてまた、すすり泣く声が響き渡った。



9.04


冬月さんにスチール製の椅子を勧められたので、
僕は歩き通しだった足を労わるようにそっと腰をかけた。
司令室に入ってからというもの、僕達はずっと立ったまま話をしていたのだ。

「シンジ君、レイちゃん。ちょっと待っててね、飲み物持ってくるから」
「あ、すいませんマヤさん」

そう言ってマヤさんは、泣き腫らした顔を恥ずかしそうに拭いながら、
司令室の外れにある仕切りの奥へと移動した。

「冬月さん。どうしてこの部屋はこんなに広いんですか?」

少し気持ちが落ち着いてきたのか、僕は辺りを見回せるようになっていた。

「碇の趣味だよ」
「父の、ですか……」

ちょっとした体育館ほどある空間、そのどこに魅力があるのか僕には分からなかった。
良く見ればあちこちに変な図面まで描かれている。

「悪趣味だろう?」

僕の視線をひそかに辿ったのか、冬月さんが悪戯っぽく笑う。

「はい、なんだかすごい不気味っていうか……」

僕が正直に答えると、冬月さんは少し目を細めてこう続けた。

「碇もな……ユイ君に会うためとは言え、どこかでやり切れん思いもあったのだろう。
 人から好かれないよう、どこか演じていた部分があったのだよ」
「そうだったんですか……」
「あまりにも広い空間は、それだけで人を居心地悪くさせる。この司令室の隠された意味だ」
「父さん……」

かつてリツコさんが、父さんのことを不器用な人と評していた。
それが当たっていたことを今更ながら知る。

「はい、みなさんお待たせ!」

マヤさんが人数分のコーヒーを淹れてきてくれた。

「ありがとうございます、マヤさん」

何の装飾もないシンプルなコーヒーカップを受け取る。

「レイちゃんも。熱いから気をつけてね」
「はい。伊吹二尉」

マヤさんは柔らかく笑いながら綾波を見つめている。

「伊吹君、今日の豆はどっちだ?」
「グアテマラです。少し薄めにしてますが」

父さんが飲んでいたグアテマラ。
きっと演技ではなく本当に好きだったもの。
僕は深く味わいながら、ゆっくりと飲んだ。



9.05


「…そういえばお二人は、どうしてこの部屋に居るんですか?」

和らいだ苦味の向こう側に父さんを見ていた僕だったが、ふと疑問を感じてそう尋ねた。
広い空間に机と椅子しかないこの司令室は、何をするにでも不便だろう。

「……シンジ君」

グアテマラの香りを楽しんでいた冬月さんだったが、僕の質問を聞いてその居住いを正した。

「これから話すのは……多分、君が本当に聞きたかったことだろう」
「……はい」
「だから、今一度問うが……後悔はないかね?」
「もう、大丈夫です」

今度は一瞬も躊躇うことなく返事が出来た。

「私と伊吹君は拘束されているのだよ」

僕の態度に応えるかのように、冬月さんは間髪を入れずそう答えた。

「え……拘束ってどういう意味ですか?」
「ジオフロント及びネルフ本部は現在、国連の管理下にある。
 私達が何も細工出来ないように選ばれたのが、この何もない司令室だ」
「細工? どういうことですか?」
「ゼーレ亡き今、私達はサードインパクトの首謀者として認定されているのだよ」
「そんな……」

僕が穏やかな日常を楽しんでいた裏で、この二人が辛い思いをしていたなんて。

「……シンジ君、何も気にすることはないの。別に手足を縛られてるわけじゃないから」
「でも、だって……」
「シンジ君が思うようなことは何もないの。ただこの部屋から出るなと言われているだけなのよ」
「マヤさん……」

今まで考えもしていなかった事態に、僕は思わずうろたえてしまった。

「……ここに来るまで、何か気づいたことは無かったかね? シンジ君」

冬月さんがゆっくりと、僕をいったん落ち着かせるかのように聞いた。

「えっと……。街で準備してから、リニアの駅まで歩いて……」

焦る気持ちを抑えながら回想を続ける。

「カートレインからジオフロントに降りて……」

瓦礫、ネルフ本部、エレベーターホール、司令室。

「……特に何もなかったと思います。誰にも会いませんでしたし……」

そこまで言葉にした時点で、やっと思い当たる。
弾かれたように顔を上げると、冬月さんは苦渋の表情を浮かべていた。

「あまりにも出来過ぎだろう?」
「言われてみれば……」

誰も居なかったジオフロント、あっさり動いたエレベーター、驚かなかった二人。

「……君達も監視されているのだよ、サードインパクトの実行犯として」



9.07


誰も居ないと思って過ごしていた毎日を、誰かにずっと見られていた。
瞬間、僕の背後に得体の知れない人物の気配を感じたような気がして、思わず後ろを振り返る。

「シンジ君、安心したまえ。監視と言っても、衛星によるものだ」
「……はい、でも……」

たとえ宇宙からの視線であったとしても、一度感じた薄ら寒さは消えることがない。

「お二人は……知ってたんですね? 僕達が来ることを……」
「……ええ。ここへ向かってるから、それまでは干渉するなと通達されたわ」

マヤさんは先ほどより青ざめた顔をしていた。

「でも……そうなら何故、僕達はお二人に会えたんですか?」
「どうしてそう思うのかね?」
「お二人が拘束されてるなら、僕達も――」

そうだ。
どうして今まで思いつかなかったのだろう。
見えない何かに導かれるようにして辿り着いた僕達の行く末。
そう、まるで蜘蛛がその糸を張り巡らせるように――。

「罠などではないよ」

疑心暗鬼に捕らわれた僕の思考を遮った冬月さん。

「え……でも」
「私達はそんなことしないわ……シンジ君」

マヤさんが哀しそうな目で僕の顔を見る。

「なら……どういうことなんですか?」

僕は他の可能性を思い浮かべることが出来ず、混乱した心を持ったまま先を促す。

「……司令室は盗聴もされていなければ、見張りも付いていない。今この時は」

冬月さんが張り詰めた声でこう続ける。

「私達が話す内容も、何ら制約を受けていない」

僕は先が読めなくてかすかな不安を覚え始める。

「君達が来る前に国連から要請された行動は二つ。一つは、伊吹君が話した通り」

見えない糸はどこまで張り巡らされているのだろう?

「もう一つは……君達に伝えてほしいと」

罠はなくても、いつの間にか僕は捕らえられている。

「君達は……世界で一番安全である、と」



9.08


「………え?」

がんじがらめに縛られた僕を襲ったのは、宙に置き去りにされたような浮遊感だった。

「……シンジ君、信じられないかもしれないけど……本当のことなのよ」

マヤさんは呆然としていた僕を気遣うように声を掛けてくれた。

「僕には……何が何だか……」
「……すまない、シンジ君。順を追って話そうにも、事情が複雑過ぎてな」
「……いえ」

僕の知らないところで、いったい何が起きているというのだろうか。
この世界を知るためにやって来たはずが、知ることによって分からなくなっていく。

「先日、二週間ほど前になるか……私と伊吹君は国連による尋問を受けた」
「………」
「様々なことを聞かれたよ。ゼーレの施設にも行ったようだが……誰も居なかったらしい」
「……それで?」
「国連には私の知るすべてを話した。今更隠してもどうにもならんからな。……もちろん、君達の役割も」

僕の身体が意識せずピクリと動いたが、その様子を見ながら冬月さんは先を続けた。 

「形式上は尋問だったが……まるで出来の悪い学生相手に講義をしているようだったよ。
 彼らは使徒が何たるかを知らない。どれほど説明を重ねても、常識で凝り固まった頭には浸透しなかったのだろう」
「……僕にも、良く分かりませんでした」

戦ってはいたが、最後まで僕には分からないままだった。
使徒も、エヴァも。

「まあ、言葉というものには限界がある。最も使徒の近くに居たシンジ君ですらそうだからな。
 実際私も、すべてを知っているわけではない。……サードインパクトについては特にそうだ」

サードインパクト。
あれほど言葉にしていたはずなのに、今となってはその響きすら不可解に思えた。

「ゼーレ、碇の計画、そのどちらでもないサードインパクト。推測に推測を重ねながら説明したが……。
 使徒すら受け入れられない彼らにとっては、悪夢のようなものでしかないのだろう。
 理解には程遠い位置で尋問は打ち切られた。それからは何も尋ねて来ない」
「………」
「だが、そんな彼らでも一つだけ理解したことがある。……サードインパクトは君達の存在が鍵だということ」
「………!」
「君達が創り上げたものである……とな」
「そんな……それを知って、何故?」

僕には拘束も尋問もされない理由が分からなかった。
実行犯と認定され、その上で何故安全が保障されるのか――?

「……人は理解出来ないものをそのままにはしておけない。それが自分達に危害を及ぼすものなら尚更だ」

冬月さんは伏し目がちながらも、説明を続ける。

「かつては、その為のネルフだった。今ではこの有様だがな」

ふいに冬月さんが視線の方向を変えた。

「レイ」
「はい」
「今もATフィールドを展開出来るな?」
「……試してはいませんが、恐らく」

驚いて綾波を見る。
その表情は毅然でありながら、どこか痛みを堪えているようでもあった。

「やはりな……」

冬月さんは深い溜め息をつきながら頷いた。
綾波は僕の気持ちを読み取ったのか、気にしないで、とかすかに呟いた。

「……国連にもレイのことを説明している」

講義することに慣れた冬月さんの声、今はしかし、沈みがちで聞き取り難い。

「少女がATフィールドを展開する……だが彼らも、理解出来たようだ。
 全員が目撃したそうだ……あのレイを」

綾波は今、どんな表情をしているのだろう?
掛ける言葉さえ見つけられない無力な僕が腹立たしい。

「……結局、彼らは何も出来ない」

何かを絞り出すようにして冬月さんは言った。

「彼らは君達が怖いのだ。……怖くてたまらんのだよ、シンジ君」



9.09


何もかもを飲み込んでしまうかのような沈黙が続く。
この空間に居る誰もが皆、他の誰かを複雑に思い遣っていた。

「……だから安全、なんですか?」

だが、この沈鬱な空気を破るのも、僕しか居ないのだろう。

「……そうだ。国連内部ではN2爆雷による攻撃を提案する声も上がったそうだが……、
 意味が無いことを知っているのもまた、彼らだ」
「……倒せないから守るんですか?」
「守るのではなく、隔離だ。だからある意味では、君達も拘束されている」
「でも……、自由に動けましたよ?」
「行動範囲が狭かったから気づかなかっただろうが……。
 第三新東京市は外側から封鎖されているのだよ。……君達のためだけに」
「そんな……」
「すでにライフラインは君達の行動範囲にのみ確保されている。これからは物資も何らかの方法で届けるそうだ」
「………」
「不自由な思いはさせない、とも言っていた。だから君達は……世界で一番安全である、と」

なんて壮大な皮肉なのだろうと思う。
他人を拒絶し、みんな居なくなれと思った僕。
僕の声を聞き、僕のために力を解放した綾波。
そんな僕達が世界一の安全を保障されている。

「こう言ってはなんだけど……私も、副司令も、良かったと思ってるのよ」
「……どうして、ですか?」

僕にはマヤさんが分からなかった。

「副司令は拘束とか隔離とか言ったけど……安全なのは確か。
 今までシンジ君とレイちゃんには辛い思いばかりさせたし、こうなったのは私達のせいでもあるから……」

ならば僕の責任はどこにあるのだろう。

「副司令は言わなかったけど……シンジ君達のために色々と提言してくれたのよ?」
「……君達を好きに動かしていた私のせめてもの償いだ」

ならば僕の償いはどこへ行くのだろう?

「今まではこちらから動けなかったが……これからは必要とあらば連絡は出来る」
「何かあったら遠慮なく言ってね?制約はあるけど、出来ることなら何でもするから」

二人の気持ちが痛い。

「ここに来るまでも苦労したと思うが、帰りは少しでも楽できるよう言っておくよ」 
「私達は送っていけないけど、カートレインくらいは動かせるから」

二人の優しさが痛い。

「………お二人に聞きたいことがあります」

僕が再びその言葉を放った瞬間、それまでわずかに笑いながら話しかけていた二人は動きを止めた。
きっとこのまま終わらせてしまいたかったのだろう。

「……何だね、シンジ君」

二人ともその沈痛な表情を隠しもしない。
僕がこれから何を聞こうとしているのか分かっているのだろう。

「この世界の人達は……どうなったんですか?」

大人が大人であるからこそ出来る気遣い。
でも僕はそれを遮っても聞かなければならない。

「……これは、無作為に選んだ複数のサンプル地から導き出された統計上の話だが」

もしも僕がもっと早くに他人を望んでいたら、
こんなにも後ろめたい気持ちにはならなかっただろうか?

「……人口の約半数が戻って来ていないそうだ」

――――僕には分からないよ……父さん。




10.01


人類の半分が居なくなった。
知らない誰かが見えないところで形を失った。
僕はどうしていいか分からない。



10.02


想像の中で繰り広げていた人類滅亡。
見えないだけで実際に起こった世界の半壊。

想像の中に居たほうが本当だと思えたのは、どうしてだろう。
本当のことが夢のように思えるのは、どうしてだろう。



10.03


もしも誰かがこの家に来て僕を捕まえてくれたら。
お前のせいだ、全部お前が悪いんだと言ってくれたら。

僕は今より楽になれるのかもしれない。
何も分からないよりは幸せなのかもしれない。



10.04


何事もなかったように呼吸を続ける僕の肺が信じられない。

何の支障もなく消化を続ける僕の胃が分からない。



10.05


本当にこの世界はここにあるのだろうか。
終わらない夢を見ているだけではないのか。

僕の顔を触ってみる。
触った感覚と、触られた感覚しか残らなかった。



10.06


世界で一番安全だというこの部屋。

コンクリートの壁に触ってみた。
ただのコンクリートだと思った。

フローリングの床を叩いてみた。
床は床でしかなかった。



10.07


もしかしたら綾波はこんな感じで居たのかもしれない。

頭が真っ白で、自分がどこにあるのか良く分からない。
心の中が抱えきれない何かでいっぱいになっている。
あまりにもいっぱいすぎて、他に何も無くなるくらいに。

ねえ、綾波。
もう気にしなくていいんだよ、僕には分かるから。

伝えられない言葉だけがいくつも浮かんで消える。
僕には僕が分からない。



10.08


雨が降ればいいのにと思う。
その冷たさが少しでも僕を責めてくれるかもしれないから。

出来ればどしゃ降りがいい。
滝のような雨にずっと打たれ続けていれば、もしかしたら。

ずっと晴れているこの世界。
半壊までさせた僕なのに、今ではもう小雨さえ降らせない。



10.09


綾波はずっと本を読んでいる。
そのページは進んでいないようだ。

もう何日も綾波の目を見ていない。
背中には一日何度も視線を感じる。

彼女は人形じゃない。
誰よりも僕が知っている。

今はそれが辛い。



10.10


誰か教えてほしい。
どうすれば本当のことだと思えるの?

誰か教えてほしい。
どうすれば真実を実感できるの?

誰か教えてほしい。
僕はどうすればいいの?

誰か答えてほしい。
どうすれば見えない誰かを思えるの――?




11.01


それは眠りに落ちる手前に訪れた。
啓示にも近い一瞬のひらめき。
あまりにも短い、だが覚醒には余りある衝撃が僕を襲った。

僕はその何かを確かめようとして目を開く。
いつもそこにあった、しかし、ずいぶんと久しぶりに見たような気がする天井。
それを中心にして僕の視界は、暗闇に居るにも関わらず色彩を帯びていった。

半分だけ開いたカーテンから漏れる月の光が眩しく思える。
カバーの付いていない掛け布団がやけに白く感じる。
布団の中から右手を出し、目の前にかざしてみる。
月に照らされて青白く光っている。
少しだけ力を入れ五本の指を曲げてみる。
手のひらの半分が影になった。

確かに何かを感じた、確かに何かが分かった。
だが、それが何なのか分からない。

時折くぐもった稼働音を立てる冷蔵庫、いつも耳にしている彼女の呼吸音、
少し動くだけで軋んだ音を立てるパイプベッド、そのすべてを包む静寂。

僕が僕を取り戻していくたびに、何かが脳裏をかすめる。
掴もうとする、すり抜ける、また掴もうとする、崩れていく。

――いったい僕は何を思った?

頭の中で入り混じった様々な記憶と思いが色を成す。
僕というものを構成する幾多のピースが複雑に絡み合い、そして次第に収束していく。

サードインパクト、紅い海、紅い空、アスカ、誰も居ない街、再開発予定地区、402号室、綾波、独白、
同居生活、コンフォート17、ミサトさん、アスカ、綾波、父さん、穏やかな眠り、穏やかな生活、綾波、
誰も居ない街、ジオフロント、綾波、ネルフ、司令室、冬月さん、マヤさん、父さん、世界の真実――。

――そうだ、僕は。

消えたまま戻って来ない、見えない誰かのことを考えながら眠りにつこうとしていた。
思う、というにはあまりにもおぼろげな、取りとめのないイメージを漠然と思い浮かべながら。
その中で得た一瞬のひらめきは、だが、半分だけ青白く光るこの手には掴めなくて。
歯がゆい、もどかしい、苛立ち、募る、焦がれる、切ない、あともう少し。

――気づいたんだ。

見えない、と思い込んでいるからこそ、本当に見えなくなっていた世界の半分。
心のどこかで気づきたくないと思っていたからか、逃げないと言いながら実際は隠れていたからか。

人と人は繋がっている。
戻って来られない誰かにも、みんなが居る。

ミサトさんが、アスカが、トウジがケンスケが委員長が冬月さんがマヤさんがリツコさんが、父さんが、居る。

――僕は、なんてことを。

「――――――っ!」

急速に流れ込んで来る共感、見えない誰かが知っている誰かへと変わっていく。
僕にとってのみんな、誰かにとってのみんな、僕にとっての誰か、誰かにとっての僕。

「――――っ?! ――――っ!!」

これまで何日も虚無によって満たされていた心が、膨大な感情によって塞がれていく。
それはあまりにも強大過ぎて、何かに乗せて吐き出すことも出来ない。
表に出せない感情を抱えるのは、こんなにも苦しくて辛いものなのか――?

「――――――――っ!?」

瞬間、何かが荒々しく僕を揺り動かす。
強く掴まれた手首、強引に剥ぎ取られる布団、飛び込んでくる身体、ぶつかり合う頬と頬。

そして、伝わって来る体温。

僕の頬と隙間なく付いている彼女の頬、その内側に流れている思いが肌を通じて僕の声帯に届く。

わずかに触れ合う口角と口角、彼女の声にならない声が言葉となって僕の眼窩に到達する。

僕の耳に触れる彼女のいつもより荒い呼吸、その息吹が耳官を下り首筋の裏を通って僕の心に浸透する。

「ああ……っ! あああ………っ!!」

声が出る。

「く……っ! うう………っ!!」

涙が流れる。

「……っ! ごめんなさい……っ! みんな……っ!!」

言葉が溢れ出す。

「ホントに……っ!」

初めて実感出来た罪の意識が僕の身体を循環する。
血液の流れと共に胸へと戻って来る、あまりにも大きな感情。
僕は逆らうことなく受け入れて、また涙を流す。

「本当に……っ!!」

これまで泣こうとしても、一粒も出なかった涙。
それが今となってはこんなにも流れていく。
僕と彼女の頬を伝い、枕に染みを作るほど溢れ出す。

消えてしまった半分の人々。
消すことの出来ない僕の罪。

もっと僕が周りを見ていれば、戻って来ない人も居なかった。
戻って来ない人のことを思い、悲しみに暮れるこの世界の人も居なかった。

――みんな、本当に、ごめんなさい。

どれほどの時間を謝罪の言葉で埋めていたのだろう。
彼女は僕のとめどなく流れる涙に構わず、未だに頬と頬を擦り合わせ続けている。
僕の抑えきれない感情を、彼女の思いによって押し流そうとするかのように。

事あるごとに救われてきた彼女のぬくもり。
だからこそ僕は認められる。
壊してしまったこの世界の真実を。

彼女の匂いに包まれて、彼女の頬に温められて、
初めて僕は僕で居られるから。

綾波――。



11.02


この気持ちを何と呼ぶのか、僕には良く分からない。
感謝してもし切れない何かが心の中に広がっている。
大切に思えば思うほど、大切以上の何かが胸を揺るがす。
こみ上がる彼女への感情を前にして、僕は立ち尽くすしかない。

言葉なんて無力だ。
罪の混じった涙がどうしようもなく流れるだけだ。

「……綾波」

でも、どうすれば彼女に伝えられるのだろう?
見つからないからといって仕舞い込むのはあまりに独りよがり。
何も言わずに分かってほしいと願うのはあまりに自分勝手。
けれど、どうにも出来ない僕でも何とかして伝えたくて。

だから僕は彼女の言葉をそのまま返す。
尚も流れ続ける涙と共に。

「君と一緒になりたい」

少しの間の後、重なる雫。 
綾波の涙と僕の涙がひとつになって、互いの頬を濡らす。
枕の上に互いの思いが混じり合った染みが新たに出来ていく。

彼女の手をそっと握る。
一瞬感じる冷たさ、それから伝わる温かさ。
彼女も優しく僕の手を握り返す。
伝え切れない何かを補うように互いの指を絡み合わせる。

気持ちの表と裏で初めて完成する感情、そして涙。
不器用な僕達は言葉を交わすことなく互いを感じ合う。
それぞれの抱えきれない何かを背負いながら。

そう、これからも。




0.01


 僕達は、ふたりで一緒に涙を流す。

 彼女は左の目からの涙、僕は右の目からの涙で頬を濡らす。

 枕の上では、互いの思いが混じり合った染みが次第に大きくなっていく。

 あの日から始まったこの儀式。 

 彼女が本当は何を思って泣いているのかさえ、はっきりとは分からない。
  
 けれど、僕がひとりだけで泣くこともなければ、彼女がひとりで涙を湛えることもない。

 ただ毎晩こうして、ふたり一緒に涙を流している。 

 かつて在った世界への贖罪のため。

 たとえ、許される日など来ないのだとしても、戻って来ない誰かのために。
 
 今この瞬間、消えてしまった誰かを思いながら泣いている誰かのために。 

 どんなに小さなことであっても、僕に出来る唯一の償いを。

 彼女とふたり手に手を取り合い、これからもずっと。

 ―――あなた達のために。  




<Prev
ぜひあなたの感想を までお送りください >

【投稿作品の目次】   【HOME】