−3.05


急激な覚醒が私を襲う。
朝焼けの光が天井に流れ込んでいるのが目に入る。

――今の、何?

夢を見たような気がする。
はっきりとは覚えていないが、苦しい感じが残っている。

――これ、何?

心が知らない形になったまま、元に戻らない。
私は胸に手を当てる。
そのまま深呼吸をするも、息苦しさは取れない。

心を落ち着かせるように手を動かす。
ゆっくり、そっと撫でる。
かえって苦しくなったような気がした。

ボタンとボタンの間からブラウスの中に右手を入れる。
心の位置を確かめて上から押さえる。
指先の冷たさが肌に伝わるだけだった。

――いったい、どうすればいいの?

私は左手でブラウスのボタンをひとつ外す。
動かしやすくなった手のひら全体で胸の辺りを撫でる。
戻ってこない心を呼ぶかのように擦る。
ボタンを全部外し、手と手を重ねる。
心を温めるようにきつく押さえつける。
何度も深呼吸を繰り返す。

――こんなの、イヤ。

さらに吸い上げられる私の心。
振り解くようにして身体を起こす。
はだけたブラウスが不自然に纏わりつく。
私はすべてを乱暴に脱ぎ捨て浴室に向かう。

力任せに開けるアコーディオンカーテン。
無意識に手を伸ばすスイッチ。

――どうして?

私は心も頭も制御できないまま、しばらくその場に立ちすくむ。

目の前には、人工的な明かりに灯された浴室があった。



−3.04


青白い光が私の身体を照らし出している。
暗闇の中のほうが、私のままで居られたような気がするのはどうしてだろう。
シャワーの蛇口をひねると、冷たい水は徐々にぬるま湯へと変わっていった。
液体が身体を伝い、流れ落ち、タイルを這って排水溝に吸い込まれていく。
これまで気にも留めなかった光景が目についた。

制服を身に付け、リビングに戻る。
この部屋にあるすべての電気スイッチを入れてみたが、すべて正常についた。

何度もスイッチを動かすと、そのたびに付いたり消えたりする明かり。
ここにきての電気系統の復旧、私はその意味を考える。

――ネルフ関係者が居る?

恐らくそうなのだろう。
崩壊の激しい都心部は無理でも、ここは被害が少ないから電気が戻った。
だとすると。

――あのシャッターが収納される?

その可能性はある。
もしそうならば、彼はきっと他の街へ向かうだろう。
どこまでも続く紅い空から逃れるために。
これからは捜索範囲を広げる必要がある。
彼がもう一度会いたいと思うような人はここに居ない、から。

私は学生鞄の中から地図と赤いペンを取り出す。
ページを開くと、東の道路に書き込んだバツ印が目に飛び込んでくる。
シャッターが収納されたら、彼はどちらへ向かうだろう。
彼と親しい人が居そうな方角。
学校指定のシェルターの構造を思い出す。
確か避難通路は南へ伸びていたはず――。

そこで私の目はある一点に止まる。
都心部から南へ約一キロメートルの位置に、それは存在していた。

――コンフォート17。

電気系統が復旧した今なら入れるかもしれない。
彼がそこに居る可能性を考える。
あのマンションの自家発電機能はどのくらい持つのだろうか。
彼が部屋に入れて、私が入れなかったという状況はあり得るのだろうか――?

私はスイッチから手を離し、ベッドの脇まで移動する。
学生鞄に昨日と同じものを入れ、そして玄関に向かう。

ここでどれだけ考えようとも、答えなど決して出ない。
彼がそこに居なければ、また違う場所を探せばいいだけのこと。

私は勢い良くドアを開ける。

――そう。

可能性があるならば、どこまでもひたすら進む。

私の心は細くなっても、彼の声を求めていた。



−3.03


なだらかな下り道を黙々と歩いていく。
この街と他の街、世界のすべてと私を繋いでいる道。
次に繰り出す一歩が彼に近づく動作。
その意味を噛み締めながら、前を向いて進んでいく。

私はすでに見慣れた都心部を横目に、南の方角へ伸びる道に入っていく。
克明に覚えてしまった大きな瓦礫の隙間には、もう意識が向かなかった。
徐々に私の目に流れ込んでくるのは、つい先日も見た風景。
幾つもの欠けたマンションを照らし出す光が眩しく思える。

周りと同じように欠けていても、私にはまるで違う形に見える建物。
コンフォート17というプレートを確認した後、ゆっくり中に入る。
一階フロアの正面に見えるエレベーターには電光表示が灯っている。
上ボタン、閉じるボタン、開けるボタンを次々に押す。

徐々に開いていくエレベーターの扉。
十メートルほど先には金属製のドアが浮かび上がって見える。
一歩、二歩と進んでから小走りになる私の足。
三歩、四歩、五歩、六歩、七歩、八歩。

九歩目で辿り着いたドアのセキュリティには、小さく丸い赤の光が浮かんでいる。
私は迷うことなく暗証番号を打ち込み、自分のIDカードをスリットに滑り込ませる。
軽やかに鳴る電子音と緑に変わった光、それは私に与えられた通行許可証。
つい今しがたまで固く閉ざされていたドア、その向こうに私は入り込む。

廊下、リビング、ふすまの部屋、広めの部屋。
手当たり次第に隈なく探しても、変わったところはない。
最後にひっそり閉じられているドアを開ける。
空間を放った瞬間、彼の匂いがした。

私は部屋の中をぐるりと見回す。
きちんと畳まれている衣服、整理整頓された学習机、壁のフックに掛けられた大きめの鞄。
彼のベッドに腰をかけ、そのまま部屋全体を眺める。
片隅に置かれた茶色い楽器からしばらく目が離せなかった。

私はベッドから立ち上がり、一度深呼吸をしてから部屋を出る。
リビング、廊下、玄関、エレベーター。
遠ざかっていく彼の部屋、遠のいていく彼の匂い。
外に出た後、マンションのプレートに触れてから私はさらに南へと進む。

――彼はそこに居なかった、その事実だけを胸に。



−3.02


私はひたすら南へと向かいながら考える。

可能性。
それは、これまでの私にとって幻のようなものでしかなかった。

あの人が私に求めていたこと。
かつて私が待ち続けていたこと。

そこにあったのは破滅への道。
生という概念をひたすら収束させた結果、訪れるもの。

無。

だが、生かされていた私にとって、それは魅力的なものに思えた。
無へと還った時、私は初めて生きられるのかもしれない。
あらゆる存在が一点に集中し、凝縮された場所。
人為的なブラックホール。
生という概念の行く末に現れるのなら、私もそこで生を得られるのかもしれない。
待つことしか出来ない私に残された、たったひとつの可能性。

そう思っていた。
彼と出会うまでは。

可能性。
それは、私が歩いているこの道。

南の方角へ伸びている道路。
彼という存在と私という存在を繋ぐかもしれない糸。
私はその上を自分の意志で進み、自分の足で歩く。

崩壊した建物、無残に潰れた民家。
風に揺れる赤い花、揺れずに広がる紅い空。
私の歩く速度で変わっていく景色が、可能性に繋がる新しい世界。

そのはずだった。
彼の部屋に入るまでは。

彼の匂いだけが残る、彼の居ない部屋。
何を見てもその光景が目に浮かぶ。
損壊を免れた建物の中に入り込んで探しても。
雨風を凌げそうな瓦礫の隙間を探しても。
彼が居ないことを確認するたび、私の心がひび割れていく。

そして目に入ってくるのは、可能性を遮断する壁。
近くに行かないまでも確認出来る、灰色のシャッター。
私はその場に思わずしゃがみ込む。

待つだけの存在だった私。
無へと還るだけの存在だった私。

知らなかった。
求めることがこれほど苦しいなんて。

今まで気づかなかった。
彼の不在がこれほど辛いなんて――。



−3.01


しばらく道路に座り込んでいたが、私は何とか立ち上がる。
一キロメートルほど先に見えるシャッター。
私は学生鞄から地図とペンを取り出し、南の方角にバツをつける。

踵を返し、元来た道を歩く。
巻き戻っていく景色、その中に見えるコンフォート17。
私は吸い寄せられるように入っていく。

エレベーター、玄関、廊下、彼の部屋、彼の匂い。
相変わらず誰も居ない空間。

先程も目にした茶色い楽器が、夕暮れの紅に照らされている。
チェロ、確かそんな名前だった気がする。
私はそれに近づき、そっと指で触れる。

彼の大切なもの。

私はチェロの上部から人差し指でなぞり、カーブの部分から中指も一緒に滑らせる。
少し埃をかぶっているそれは、指が通った跡だけ光を照り返している。

私の指はえぐられたように見える箇所を越え、もうひとつの大きなカーブに差し掛かる。
薬指も添え、三本の指をゆっくりとチェロの下部に向けてなぞる。
最下部まで到達する頃には、手のひら全体で包むように触れていた。

右半分だけ綺麗になったチェロの傍らには、弓がそっと置かれている。
私はかつて一度だけ見たことのあるオーケストラの映像を思い出し、手に取る。
しばらくそれを観察した後、学習机の前にあった椅子を手繰り寄せ、座る。
後ろから抱え込むようにして持ったチェロ、その表面をもう一度撫でてから弓を引く。

低くかすれた声のような音が鳴る。
弦を押さえる位置を変えながら、二度三度と弓を引く。
地の底から這い上がってくるような音、抑えきれない何かを噛み締めているような音。
私は声を求めて弦の位置を探る、野太い音だけが響き渡る。

ひとつ弓を引くたび、眼球の奥に違和感が走る。

――違う。

目の中心が熱を帯びてくる。

――これじゃない。

かつて一度だけ流したことのある液体。

――この声じゃない。

涙が出口を探している。

辺りが暗くなりかけても弓を引き続ける。
少し高めで、優しい響きを持つ音は聞こえて来ない。

弓をそっと床に置いてから、私はチェロを後ろから抱き締める。
弦の位置を探り過ぎてつりそうな左手と、チェロの埃で薄汚れた右手を握り締め合う。
流れることのなかった涙をこの手で掴むように。

――碇君、私は。

右上部のカーブに頬を付け、心の中で彼に語りかける。
きっと伝わることのない言葉、それでも私は思わずにはいられない。

――あなたが居なければ、涙さえ流せない。

チェロをさらに強く身体に引き寄せる。
楽器の中に残る彼のぬくもりを求めて、また指を滑らせる。
だが、どれだけ抱き締めても、心の形は元に戻らなかった。

いつしか部屋の中に溜まっていた闇だけが私を覆った。



−2.05


――私は夢を見る。
  彼の絶叫が続く夢を。

  本当の声はまだ聞こえて来ない。


――私は北への道を進む。
  ただひたすら進む。

  また赤いバツが増えた。


――夢の中でまた知らない私が増えていく。
  私という存在は一人のはず。
  
  本当にひとり?


――心の動きに悩まされる。
  人はこれほど暴れる心をどうやって制御するのだろう。

  そう思う私はいったい何なのだろう?


――私は西への道を進む。
  ただひたすら進む。

  地図上ですべてのバツが繋がった。


――無音の言葉、絶叫の声。
  夢はどこまでも私を苦しめる。

  一番苦しいのは本当の声を思い出せないこと。


――私の心が遠くへ行ってしまう。
  私が分からなくなる。

  私はいったいどうなるの?


――探す場所もなくなった。
  行く当てもなくなった。

  紅い空だけがまだあった。


そして私は夢も見ない――。
 


−2.04


右腕とこめかみ辺りの痛みで私は意識を取り戻す。
目を開けるとそこには床一面の埃。
どうやら私は気絶していたようだ。

最後に食事をしたのはいつだったろう。
それすらも良く覚えていない。
私は床に横たわったまま、埃のひとつひとつを見ていた。

今度は身体の痛みと共に、冷たさを感じた。
いったい何が起こっているのだろうか。
私はゆっくりと上半身を起こす。

目に入ってくるのは零れた水、砕けたビーカー。
そして。

――眼鏡。

あの人の眼鏡。
落ちた衝撃で以前よりもひび割れが増え、床の埃にまみれていた。

私は眼鏡をゆっくりと拾い、丁寧に汚れを取る。
しばらく手の中で軽く握る。
どれほど壊れてしまっても変わらない絆の証――。

――もしかして。

心の中に衝撃が走る。
私は眼鏡を強く握り締める。

そこは私にとって絆の証でも、彼にとっては元凶の地。
彼のすべてを奪った場所なのだから。

そうだとしても。
私の中に広がるひとつの可能性。
夢まで見なくなった私に、もう失うものなどないから。
だから――。

私は立ち上がる。
眼鏡をチェストの上にそっと置く。
学生鞄はもう要らない。
この身ひとつで向かう。

――ネルフ本部。

彼がすべてを失った場所へ。

私が彼と出会った場所へ――。



−2.03


なだらかな下り道、壊れてしまった都心部。
私が何日も通った経路。

まっすぐな道、南東へ三キロメートル。
私が何ヶ月も通った道路。

疲労が蓄積して思うように動かない足で懸命に歩く。

もしかしたらそこには居ないのかもしれない。
彼は私の知らないところへ行ってしまったのかもしれない。

それでも私は歩く。
私の意志で進む。

たとえ彼の不在を思い知ることになっても。

半壊したリニアの駅に着いた私は、瓦礫の隙間からホームへと出る。
あの時を指したまま止まっている時計を一度見てから、線路に降りる。
徐々に地下へと潜っていくレールが残された唯一の羅針盤。
途中で折れたり曲がったりしても、私を可能性へと導いてくれている。

数時間ほど歩いて見えて来たのは、壊れてしまったジオフロント。
世界最高の技術と頭脳を一点に集めた近代地下都市。
収束させることによって引き起こされた破滅の跡。
崩壊の激しさがそれを物語っていた。

私はジオフロントに降り立ち、ネルフ本部へと移動する。
あの時は、絆の証として残るだけでもいいと思っていた。
どんなに壊れていても形があれば良かった。
でも、今は――。

正面ゲートは大きな瓦礫によって潰されていた。
私は右側へ回り込み、幹部専用入口へと移動する。
瓦礫の間を縫うようにして歩き、ドアまで辿り着く。
何故か銃弾の跡が幾つもついていた。

ネルフ内部に入り込み、狭い廊下を歩く。
暗がりには慣れたはずだったが、それにしても視界が悪い。
建物の構造を思い出しながら慎重に進む。
何かの腐臭がするのは気のせいだろうか。

確かこの先にはエレベーターがある。
司令室直通、だが私のIDカードでも動かせるはずだった。
非常階段など設置されていないこのエリア。
暗いままのホールが私の心を徐々に掴み出す――。

――やっぱり。

何度押しても反応しないボタン。
幾ら滑り込ませても光を取り戻さないスリット。

私はその場に座り込む。

沈黙したままのエレベーター。
可能性という名の扉が、目の前で固く閉ざされていた。



−2.02


エレベーターの扉はどれほど見つめても開かずにいた。
私は座り込んだまま、どこか別ルートがないかと考える。
警備上の都合によりひとつしか設けられていないゲート。
内部のダクトに通じる道はすでに塞がれているのを見かけた。
それ以外の道は思いつかない。

本当にここまでなのだろうか?
私はネルフ本部の構造を必死に思い描く。
造り出された時からずっと居て、隅から隅まで知っているその形を。

そう。
入り込めさえすれば、あともう一歩進めれば。
内部はきっとここよりも無事だから、そうすれば――。

私は目を閉じる。
即座に浮かんでくるのは彼の姿。
克明に記憶しているその笑顔。

――私は。

あの時聞いた不明瞭な言葉。
何度も思い出そうとした。
彼が私に伝えようとしていたことを。
ずっと探し続けてきた。
耳の上辺をかすめていっただけの声を。

――こんなにも。

たとえ彼が私から逃げ続けても。
私を震えるほど怖がっていても。
それは仕方がないこと。
彼とは違う存在なのだから。
私はあの言葉さえ聞ければいいのだから。

――あなたが。

また心が細く吸い上げられる。
私は胸の辺りをゆっくり撫でる。
彼を思うと半分になるこの心。
他の何より辛いこの形。
だから私はまた立ち上がる。
たとえ可能性が閉ざされていても――。

それでも私は、あなたを。



−2.01


私は小走りで狭い廊下を抜け、銃弾の跡にまみれたドアを勢い良く開ける。
瓦礫の間を擦り抜け、潰された正面ゲートへ移動する。

助走を付けて大きな瓦礫の先端までよじ登り、上部の小さな石を素手で掻き分ける。
擦り切れていく手、流れ出す血、だが気にしてはいられない。
やっとのことで五十センチほどの隙間を開け、滑り落ちるようにして中へ入る。
泥だらけのスカート、大きくほつれたブラウス、だが問題はない。

見えて来た長いエスカレーター、動きを止めたそれを一段飛ばしで駆け抜ける。
鼻に付く強い腐臭、散らばっているネルフの制服。
やむなく廊下の隅から非常用の懐中電灯を探す、明かりを灯す。
途端に浮かび上がるのは、かつて人として動いていたもの。
ところどころ血の跡だけが残っている壁も見える。
私はそれらを気にすることなくあらゆる箇所を捜索する。
食堂、休憩コーナー、ミーティングルーム、更衣室。
開けてはひとつずつ潰されていく可能性、だが私は彼の名を呼ぶ。
どこに居るの? どこかに居るの? 本当に居るの?

知り尽くしたネルフ内を駆け回る。
研究室、実験室、資料室、応接室、仮眠室。
可能性を広げるため、人だったものを見かけるたび懐中電灯で照らし出す。
足がもつれて転ぶ、倒れ込む、知らない血が付く、起き上がる。
彼の名を呼ぶ、彼の名を呼ぶ、私の声がかすれ始める。
誰も居ないかもしれないネルフ、壊さず残した絆の証。
壊れたのはここに倒れている人達、壊したのはいったい誰?
可能性、可能性、私は新たな可能性を探して回る。
潰れていく可能性、壊れていく可能性、本当にまだ可能性はあるの?
かつて待ち続けていた無、ここはそれよりも無。
私は彼の名を呼ぶ、どこまでも響くように呼ぶ。
声を聞きたい、言葉を知りたい、ただそれだけなのに。
私が祈れば世界は変わった、でも今はどうして変えられない?
分かってる、そんなのは意味のないこと。
彼が望む世界が私の目指す世界、私だけの願いで変えたくない。
その彼はどこに居る? その彼の声はどこにある?
第一発令所、第七ケージ、もうどこにも――。

懐中電灯を持つ手が止まる。

人工的な明かりに照らされる白いシャツ。

私はゆっくりと近づく。

徐々に浮かび上がる全容。
闇と同化して見えなかった黒いズボン。
白いはずのシャツは、良く見れば紅みを帯びている。

私はすぐそばまで近づき、注意深く観察する。
床には液体が乾いたような跡がある。
さらに目を凝らすと、その跡は人の形をしていた。

「碇君」

私は彼の名を呼ぶ。
ずっと探していた彼はここに居た。
最後の可能性。
かつて零号機があったケージに。

乾いた姿で。



−1.03


私はゆっくりと座る。
懐中電灯を床に置いて、乾いた彼の姿を更に照らす。

彼の跡に触れる。

人差し指で頭のほうを。
中指も添えて頬の辺りを。
薬指も一緒に首筋の付近を。

なだらかなカーブを描いた右肩の形をなぞり、手首の跡へ。
手のひら辺りに差し掛かったところで、私の手のひらを合わせる。

「碇君」

また彼の名を呼ぶ。

彼の身体の跡を丁寧になぞっていく。
これは腕、これは脇、これは胸、これは腰。
何度も手を這わせる。

途中、固い感触があったので注意して見る。
黒いズボンのポケットに何かが入っている。
私は慎重にそれを取り出す。

細くて長いコードが付いている四角いもの。
表面にはS-DATと印字されている。

私はかつてよく見た彼の動作を思い出す。

本体が故障していないか確認し、巻き戻しのボタンを押す。
イヤホンと呼ばれるものを両耳に差し込む。

再生のボタンを押す。
流れてくるのは、少し高めで優しげな響き。

目を閉じる。

――そして私はついに彼の声を聞く。



−1.02


「――やなみ。 綾波?
 聞こえる?
 ちゃんと聞こえてるか分からないけど……とりあえず話すね。

 えっと。
 僕……綾波に言ったよね? もう一度会いたいって。
 溶けるとか……違う気がしたし。
 みんなと……普通に会いたかったんだ。

 でも、僕がそう思ったら綾波、消えたよね?
 いきなり見えなくなって……。
 僕がみんなを望んだから居なくなっちゃったんだよね?

 なんか……違うんだよ。
 みんなと会いたかったけど……綾波が居なくなるとか。
 わがままだよね、ごめん」

「本当は……みんなに会う資格なんてないんだ、僕には。
 みんな消えちゃえ、みんな居なくなっちゃえって……思ったから。
 だから僕が消えたほうがいいんだと思う。
 綾波が消えるより……ずっといいと思う。

 でも……どうやったら戻るのかな? 綾波は。
 また望めばいいのかな?
 よく分からないや……ホントごめん」

「僕、綾波に謝らなきゃいけないんだ。
 その……ずっと避けてたりして。
 リツコさんにあの水槽を見せられた時から……。
 なんていうか……綾波が綾波じゃないような気がして。
 知らない綾波が……いっぱい居るような気がして。 
 
 でも、違ったんだ。
 綾波が消えてから思った。
 綾波は綾波だ。
 いっぱい居ても、他に居ないんだよ。
 うまく言えないけど……他には居ないんだ」

「だから……、綾波には生きてほしい。
 消えるとか……駄目だよそんなの。
 綾波が居なくなるなんてもう嫌だ。
 もう……本当に嫌なんだよ。

 どうしたら綾波が戻って来るか分からないけど……。
 いっぱい望むから、いっぱい祈るから。
 だから帰って来てよ……綾波」

「……周りが暗くなってきた。
 エントリープラグ? ……違う。
 ……水? 温かい……感じがする。

 ……ごめん、綾波。
 望んでも……駄目かもしれない。
 ……でも、それでも祈るから。
 たくさん願うから。
 綾波……綾波」

「……ねえ、綾波。
 ちゃんと……生きてね。
 ご飯もちゃんと食べてね。
 ミサトさんの言うこと聞いてね。
 アスカとケンカしないでよ?
 トウジやケンスケを無視しないでね。
 委員長とも仲良くね。
 綾波……綾波、ごめん……涙が止まらないや。
 聞きづらいよね……ごめん」

「……綾波。
 僕の望みを聞いて。
 綾波が……綾波らしく生きること。
 この街……壊してしまったけど、この世界で。
 無茶なんかしないでね?
 他には……居ないんだからさ」

「……それじゃ、綾波。
 ………………。
 ……いつになるか分からないけど、また、後で――。」



−1.01


――人は。

何度も彼の声を聞いた。
ずっと求めていたその声を。
耳の中へ直に流れ込んでくる響き。
少し高めで、優しげで。
心の中が温かくなる。

――嬉しくても。

私の頬が次第に緩む。
彼の声が私の心に作用する。
聞きたくて、聞きたくて。
もっと聞きたくて。
彼の声を再生するたび頬が上がる。  

――泣く。

一粒の雫が床に落ちる。
どうしてだろう。
私はただ嬉しいはずなのに。
緩んだままの頬。
表のままの気持ち。
どうして涙が流れるの?

――人は。

彼がここに居て。
彼の声を聞いて。
彼が伝えたかった言葉を聞けて。
私はそれだけで良かったはず。
でもどうして。
こんなに涙が溢れるの?

――悲しくても。

満たされたはずの心。
急速に形が変わる。
心が絞られていく。
きつく絞られていく。
心が無くなっていく。
心が直接、涙に変わる。

――泣く。

かつて一度だけ流したことがある。
どうしても流れなかったこともある。
そのどちらとも違う涙が床に落ちていく。
緩んでいたはずの頬が震える。
私が私でなくなる。

――碇君。

私はゆっくりと破れた制服を脱いでいく。
一枚ずつ、丁寧に畳んで傍らに置く。
すべてを脱ぎ終えた私は乾いた彼に重なる。
手のひらと手のひらの位置が。
頬と頬の位置が合うように。

――だから。

私は目を閉じる。
そして願う、祈る。
また彼の望みが叶うように。
私が私らしく生きるため。
この世界で生きるために。

――私は。

闇が次第に深くなっていく。
私と同じ温度を持つ液体を感じる。
心が温かさを取り戻す。
新しい涙が流れていく。
また頬が緩んでいく。
人は嬉しいと笑う。
だから、碇君――。



0.00


――私はあなたへと還る。





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