< ever : 4話 − 4th パート >
− e v e r −
「 フォトグラフ 」
絶え間なく校舎の窓ガラスを滑り落ちる雨が、梅雨の気配を嫌でも感じさせる5月の後半。
早々と食事を終えたケンスケは、雨が降り続ける昼休み時間を持て余すかのようにプラプラ校内を歩いていた。
一見暇そうだが、片手を突っ込んだポケットにはカメラが入っている。いま彼は、自身のアルバイトの真っ最中だった。
人気のある生徒の写真を隠し撮りし、こっそり売る・・・お世辞にも良いバイトではないが、不思議と生徒の間では受け入れられている。
勿論先生にバレたら注意では済まないし、嫌がる女子生徒も多い。が、彼の場合、写真を撮る相手にはまず最初に了承を得る。
拒否する相手の写真は取らないし、了承を得た場合でも、撮った写真をまず当人に見せる。
許可が得られない写真は、公開しないで相手に返す。この辺り、ケンスケなりに筋は通しているつもりだ。
また、彼自身の拘りからフィルムを使っているので、公開を拒否された場合は折角のフィルムが無駄になってしまう。
だから儲かるはずはない。事実、常に赤字なのだが、本人はさほど気にしていない。
もともと写真は趣味だし、お金を出して自分の作品を買って貰えるだけでも嬉しい。
本来の趣味に加えて商売の楽しさも味わえ、しかも喜ぶ人もいるのだから一石三鳥―――それが彼の持論だった。
いまケンスケは、下級生のいる階まで繰り出していた。二年生の間でも、彼はそれなりに有名である。
中には協力的な娘もいるのだが、作った笑顔よりも瞬間を撮りたい。単に見てくれだけで決めているつもりはない。
(んーっ、やっぱりそうそう、いい被写体には御目にかかれないか・・・・。)
いい被写体というと、即座に思い浮かぶのが一人居る。彼がいま一番撮りたくて、購買者からのリクエストもダントツでトップの人物。
なのに一度も写真が撮れていない人物―――綾波レイのことだ。
特にここ最近の彼女は、ふとした折に柔らかな表情を漏らしたりと、今までの近寄り難いイメージとは違う面を見せている。
商売抜きで撮ってみたいが、今のところレイから撮影許可はもらっていない。以前それとなく持ちかけてみたが、即座に拒否された。
(やれやれ、まだガードが固いんだよな・・・・・。)
ポケットのカメラを取り出し、フィルムの残数を数える。数枚収穫はあったが、これはというものは撮れていない。
(・・・ま、今日はこんなもんか。)
昼休みの残り時間が迫っているのを確認し、自分の教室へと踵を返した。
雨の日は教室の密度が上がり、にぎやかになる。シンジを含めた数人の男子達はトウジの席に集まり、何やら雑談していた。
レイはその集団から離れた自分の席で、いつもと同じように本を読んでいた。
背後から沸き上がったざわめきに、手元の活字から離した視線を、後ろの席へと投げ掛ける。
彼女の視線はトウジの廻りにいる集団、いや、シンジの姿を自然と捉えていた。
以前マナと一緒に帰ったとき以来、気が付けば、こうしてシンジの姿を目で追う自分がいる。
(”好き”・・・・・良く、分からないけど・・・・・。)
今まで他人から好かれることは望んでいても、自分が誰かを好きになるということに積極的では無かった。
確かにシンジの姿を見たときは、他の人とは違う感情が湧き上がる。だがそれが何なのか、うまく言い表せない。
今はまだ、躊躇いがあるのかもしれない。まだ人を好きになる事に、心のどこかで怖れを抱いてるのかもしれない。
それでもこの気持ちは大切にしたいと思う。心の奥底に芽生え始めた、小さな感情。
それがどう育つのか、自分でも分からない。でも今は失いたくない、この気持を・・・・。
教室に戻ったケンスケが何気なくクラスを見廻したとき、レイの横顔に目を奪われた。
(お・・・・・。この表情良いよな・・・・・。)
本人が気付いてないのを幸い、素早くカメラを取り出し、慣れた動作で淀みなくファインダーに姿を収めた。
パシャリと響くシャッター音。その音に気付いたレイが、ケンスケの方を振り返る。
「へへ、シャッターチャンス。いい瞬間が取れたよ。」
白磁のようなレイの頬が紅潮した。ついですっと立ち上がり、まだカメラを構えたままのケンスケに近づく。
「今の・・・・・私を撮ったの?」
ケンスケの顔から視線を外さないまま、感情が取り払われたような声で問う。
「いや、あんまりいい表情だったからさ・・・・・つい。」
レイの手が一閃し、ケンスケの手を払う。不意をつかれたケンスケの手からカメラが零れ落ちた。
「なっ!なにすんだよ!?」
慌ててカメラを拾い上げるケンスケ。あたふたしながら壊れてないか確かめるその姿を、レイは冷たく見据える。
「・・・・それは私の言葉。撮らないで、って云ったはずだわ。」
「・・・・・・あ。」
カメラが無事と分かって頬を緩めたのも束の間、その静かな口調に込められた怒りに、やっと気付いた。
「ちょ、ちょっと綾波さん!落ち着いて、」
ヒカリが止めにはいる。その騒ぎにシンジも駆け寄ってきた。
「ケンスケ、許可を貰わない相手は撮らないんじゃなかったっけ?」
「そ、それは悪いと思っている。だから、写真が出来たら綾波に渡すからさ。・・・・なっ?」
片手で拝むようなケンスケの仕草が、馴れ馴れしく縋ってくるように映る。
「写真なんて欲しくないわ。・・・フィルムを渡すか、今すぐ捨てて。」
「ま、まてよっ!この中には他の写真も入ってるんだぜ!せめて現像くらいさせてくれないか?ちゃんと返すから。」
「自分の姿なんか、見たくない!」
「二人とも、やめなって!・・・・もう授業も始まるし、後で話し合おうよ。」
シンジが仲裁に入ってその場は何とか止めたが、気まずい空気だけは残った。
一日の授業が終わり、ケンスケはレイに声を掛けようとしたが、彼女は一度も視線を合わさず、教室を立ち去った。
「相田君、あなたが悪いのよ。」
ヒカリはケンスケを少し睨んでから、レイの後を追う。
シンジも行こうとしたが、項垂れたケンスケの姿を見て脚を止めた。
「ケンスケ、綾波はきっと写真が嫌いなんだよ。だから言うとおりにした方がいいよ。」
「・・・・別に、売るって言ってんじゃないんだ。現像ぐらいさせてくれたって・・・・・。」
「おまえなぁ、まだそんなこと抜かしとんのかいっ?男らしゅうないで!」
ケンスケに詰め寄るトウジを押し止めはしたが、まだ未練がましそうなケンスケに苛立ちを感じるのは、シンジも同じだ。
「前に 『他人の嫌がることは俺はしていない』 って、そう云ったのはお前だろ?」
「・・・・・・わかったよ。」
眼鏡で表情を隠しながら、ケンスケは顔を背けた。無言で鞄を手にした後、独り言のように呟く。
「でもさ、自分の写真を見たく無いって・・・・・それって悲しくないか?」
「え・・・・?」
「いや、いいんだ・・・・。フィルムは月曜に、綾波に渡すよ。また来週な。」
それ以上の会話を拒絶するように教室を出て行くケンスケを、呆然と見送る。
去り際の彼の言葉が、シンジの心に引っ掛かった。
翌日、土曜日の朝は気持ち良く晴れていた。久々に朝寝坊したシンジが時計を覗くと、既に10時を回っている。
布団の中で伸びをし、熟睡の余韻を味わう。今日はユイが休みなので、家事をする必要もなく、ゆっくり眠れた。
着替えを済まして廊下を出ると、向かいの部屋から物音が聞える。
(?・・・・・誰か居るのかな。)
この部屋は普段、来客用に空けてある。もっとも、泊まりにくる人など滅多にいないので、今は半ば物置と化していた。
半開きのドアを押すと、乱雑に散らかった部屋の中でちょこんとユイが座り、本を整理していた。
「どうしたの母さん、なんか探し物?」
「・・・ん〜〜っ、じゃなくて、今日の内に、この部屋をお掃除しておこうと思ったのよ。」
「また突然だね?」
「ちょっとね・・・・。あ、そうそうっ!それでいいもの見つけたのよ。・・・ホラ見て!」
ニコニコしながら振り返ったユイの腕は、古めかしいアルバムを抱えている。
「このアルバム随分前に見かけ無くなっちゃって。探そうとは思ってたんだけど、こんな所に紛れ込んでたなんてね。」
そう言いながらアルバムを開く。そこにはシンジがまだ幼い頃からの写真があった。
「んふふっ、懐かしいなぁ〜っ!この頃はまだ右と左の区別がつかなくてさぁ、シンちゃんてばこうやって靴を左右逆に履いてたのよ。」
「そ、そうだっけ?」
つられてアルバムを覗いたシンジはギクリとした。隣のページに写ってる赤いスカートを穿いた子供は、紛れも無く幼い自分である。
「あ〜これこれ!この写真っ!!このスカート、シンちゃんったらとってもお気に入りだったのよ。や〜〜ん、かわいいっ!!」
「も、もう!知らないって。なんでそんな事ばっかり憶えてんだよ!?」
既に彼女の頭から掃除は失念しているらしい。シンジも文句を言いながらも、けっこう熱心に見ている。
一つ一つ解説を加えながら写真を眺めるユイの手が、ページをめくったまま止まった。
「あら・・・・。これって、どなただったかしら?」
写真からすると小学校の入学式の時だろう。自分ともう一人、そばかすの多い少年が並んで写っている。
「あ、これケンスケだよ。・・・たしか、あいつのお父さんがカメラを忘れて、たまたま近くにいた僕と一緒に撮ったんじゃなかったっけ?」
それ以前は交流はなかった。思えばその事が切っ掛けになって、ケンスケと話をするようになったのである。
「そういえばケンちゃんて、この頃はまだ、眼鏡をかけてなかったわねえ。」
トウジは小二のとき、マナは小四のときそれぞれ引越してきた。友人の中ではケンスケとの付き合いが一番古い。
その割にトウジやマナに比べると、ケンスケの性格は未だに掴み切れない所がある。
(・・・・・でもあいつは、相手が本当に嫌がることはしないはず。)
「・・・ねえ母さん、写真に写るのが嫌いな人って、こうして昔のアルバムを見るのも嫌なのかな?」
「どうしたの?藪から棒に。」
「ん、ちょっと・・・・。」
不思議そうにシンジを見たユイだが、視線を手元に向けるとゆっくりと呟いた。
「そうねえ・・・・・その気持ちも分からなくは無いわね。」
睫毛を伏せ、そっとアルバムを閉じる。
「写真が思い出を封じ込めるって、あれ、本当だと思う。長く生きているとね、昔のことなんてどんどん忘れていっちゃうわ・・・・・。
でも、こうして昔の写真を眺めていると、忘れたと思ってたことが次々甦ってくる・・・・。タイムカプセルみたいなものかな。」
それは自分にも分かる気がする。この写真を見るまで、入学式のことなんて憶えていなかった。
「人間って都合の悪い事や嫌な事は忘れるように出来ててね、思い出は美化される・・・・だから、必ずしも正しい記憶ばかりじゃない・・・・。
けど写真は事実だけをありのままに写すから、当人にとって忘れたい記憶まで、甦らすこともあるかもしれない。」
「そうだね・・・・その通りかも。」
レイの過去は、辛い事ばかりだった。やはり本人にとって思い出したくない記憶なのだろう。
「でもね、シンジ・・・・そういった過去も含めて、それは自分が生きてきた証なの。それを積み重ねてきたからこそ、今の自分がいる。」
シンジに向けたユイの微笑は、慈愛よりも深い何かを湛えている。
「だから私は・・・・辛い記憶でも、無いよりはいい。いつかその記憶が思い出に変わって・・・・・その過去にも向き合えるようになったときに・・・・・
そのときはじめて、ああ、自分はこうして生きてきたんだなって、今よりももっと、人生に愛着を感じるようになれるから。」
ユイは、遠い視線を彼方へ向けた。その瞳の色は到底、現在のシンジが読みきれるものではない。
「もっと・・・・・写真を撮っとけばよかったな・・・・・。こうして形に残るのって、やっぱり嬉しいもの。」
「あ・・・・そういえば、母さんたちの昔の写真って見たことないや。」
いつもとは違う憂いを帯びた横顔を見て、ふとシンジは思った。
(母さんにも・・・・辛い過去があったんだろうか・・・・・?)
そんな思いが頭を過ぎろうとしたとき、クルリとユイが表情を変えた。
「・・・んふっ!母さんの若い頃の写真見たら、シンちゃんアタシに惚れちゃうかもよぉ〜っ!!そりゃあも〜〜美っ人なんだからー!!」
と、思ったらこれだ。いつもながら、この変わりようにはついていけない。
「・・・・自分で言ってりゃ世話無いよ。」
「ああっ!でもダメッ!!あたしもシンちゃんを愛してるけど、でもそれは禁断の恋。あたしが許しても、世間が許さないの。」
「なにバカ言ってんのさ・・・・・・。」
やはりさっき思ったことは気のせいに違いない。どっと疲れを覚えたとき、背中の辺りに何ともいえない嫌ぁ〜な気配を感じた。
振り向くと、予想通りゲンドウが、額に青筋を立てて睨んでいた。
「・・・・・と、とうさん・・・・・仕事行ったんじゃなかったの?」
「・・・・ほう、居なければどうするつもりだったのだ?よもや、実の母親に手を出そうと思ったのではあるまいな?」
「な、何考えてんだよ父さんまでっ!!こっちが恥ずかしくなるじゃないかっ!!」
「ま!シンジってばアタシで ”恥ずかしい事” を考えてたの?ああっ、そんな子に育つなんて!・・・・・・・クスッ、シナリオ通りだわ。」
「サラッと不気味なセリフ吐かないでよっっ!!!」
(うう・・・・せっかく気持ちのいい目覚めだったのに・・・・・。)
またも暴走し始めたユイと、不穏なオーラをジリジリ侵食させてくるゲンドウが相手では、この後平穏が訪れるはずもない。
我が家に ”くつろぎ” という文字は無いんだろうか・・・・・。爽やかな朝に似合わぬ、深い溜め息を吐いた。
週明けの月曜日。放課後になるとすぐ、ケンスケは廊下にシンジを引っ張っていった。
「おいシンジ。土曜日電話もらった件だけど、綾波に話してくれた?」
「これから話す。なんとか説得してみるから、ケンスケこそ約束は守れよ。」
「分かってるって!・・・じゃあオレ、先に屋上で待ってるから。」
鞄を肩にかけながら走り去るケンスケを見送った後、シンジは教室に戻る。
帰り支度をしているレイに近づくと、少し改まって声をかけた。
「ねえ綾波。あの写真のことだけど・・・・もう一度だけ、ケンスケと話し合ってくれないかな?」
嫌なことを蒸し返され、レイの紅い瞳が不機嫌そうにシンジを睨んだ。
「・・・・・あなたまで、そんなことを言うの?」
「頼むよ。あいつも話したいことがあるみたいだし、聴いてあげて欲しいんだ。」
「そう相田君に頼まれたから?」
「そうじゃない。僕はあいつの友達だから、他人が嫌がることをして喜ぶような奴じゃないことを知っている。
・・・きっと綾波が傷つけるようなことはしないって、信じているから。」
まっすぐな視線を向けるシンジの顔を黙って見つめていたが、やがて溜息を吐き出すように呟いた。
「・・・・・・分かったわ。」
「ケンスケは屋上で来て欲しいって言ってた。・・・もし一人で行きたくないなら、ついて行くけど。」
「・・・・一人でいい。」
「ありがとう。じゃあ僕、ここで待っているから。」
その言葉に応えずに黙ったまま、教室を出て行くレイの後ろ姿が見えなくなるまで、シンジはずっと見守った。
レイは屋上に出た。土曜日から続く晴天で、足元はすっかり乾いている。
周囲を見廻すと、ケンスケ一人がフェンスに背を預けた姿勢で待っていた。
「来てくれたんだ、ありがとう。」
ケンスケは笑顔を向けたが、レイの表情は固さを崩さない。
「・・・まだ用があるの?」
乾いた声と冷ややかな視線に怯みそうになるが、クッと口許を引き締める。
「ネガを持ってきたんだ。綾波に渡すから、どうにでもしてくれ。」
鞄の中から、フィルムと封筒を取り出す。
「・・・・でも、その前に写真を見て欲しい。俺はいい写真がとれたと思う。会心の出来だ。」
レイの表情が曇ったのを見て、思わず声を強めた。
「自信あるんだ!俺はカメラが好きだし、やましい気持ちなんかない。だから何も見ないまま、判断して欲しくない。」
普段は眼鏡に隠れてしまう彼の目が、今はとても真摯に訴えかけている。
「せめてひと目だけでも見て欲しいんだ。それで駄目なら・・・・納得出来る。」
レイは視線をケンスケの真剣な顔から差し出された封筒に移した。
無言で封筒を受け取り、一枚の写真を取り出す。
「・・・・・・・・・・・・。」
そこに写る自分の姿。大嫌いな青い髪、赤い瞳、白すぎる肌。他の誰かと見間違えようの無い、特徴的な外見。
写真の中の自分は正面を向いていない。その視線は別の方を見ている。遠い景色ではない、少し離れた誰かを。
その人物を見ている少女の表情は、驚くほど柔らかい。
(・・・・・・わたし・・・・・こんな顔も出来るんだ・・・・・・。)
能面のように無表情で、無感動な視線だけを投げかける。それが自分の姿だと、そんなイメージをずっと抱いていた。
だがこの写真の少女の瞳は、それだけで豊かな表情に満ちている。穏やかなその口許に、仄かな微笑すら湛えている。
その写真だけで感じ取る事が出来る。
空気の暖かさを。
自分がいま居る場所の心地良さを。
大切だと感じた、その瞬間を―――。
ケンスケにとって、呼吸が苦しくなるほどの永い沈黙だった。彼女は写真を凝視したまま微動だにしない。
ふと脳裏に、今にもレイが写真を破り捨てて、自分に殴りかかる姿を想像してしまった。
「・・・・これ、預かっておく。」
レイは封筒に写真を戻しながらそう呟いた。言葉がそのまま途切れたので、恐る恐る訊ねてみる。
「あの、フィルムは・・・・・?」
「持ってていいわ。」
「・・・・・・え?」
「他の写真があるから・・・・無いと困るんじゃなかったの?」
「そ、そう!そうなんだよっ!いやーーっ、やっぱり話が分かるなあ〜。」
調子よく頷いたケンスケに険しい視線を向け、ピシリと釘をさす。
「でも、隠し撮りを許したわけじゃないから・・・・それと、他の人に渡さないで。」
「は、はいっ!しません、しませんからっ。」
背中をピンと張りながら、くの字に身体を折り曲げて謝るケンスケに、僅かに悪戯っぽい笑みを向ける。
「え・・・・・・?」
ケンスケがその笑顔に見惚れる間もなく、レイは背を向け、階段へと歩いて行った。
他に誰も居ない教室で、シンジは一人待っていた。
(・・・・自分の写真を見て、綾波はどう思うだろう?)
ユイの話を聞いたとき、レイが嫌っているのは写真ではなく、自分自身なのだと気付いた。
余計なお節介かもしれないが、なにより自分を嫌って欲しくない。そう思ったから、ケンスケにこの話を持ちかけた。
(上手くいってくれるといいけど・・・・。)
教室のドアが静かに開き、レイが入ってきた。シンジは椅子から腰を浮かすと、おずおずと訊ねた。
「お帰り。・・・・・その、どうだった?」
シンジの顔を見た瞬間、あの写真の自分の表情を思い出した。途端、レイの頬に血が廻る。
「べつに・・・・・もんだいない・・・・・。」
意識してシンジの顔を見ないようにしながら、自分の鞄を掴む。
「わたし、先に帰る・・・・・寄るとこあるから。」
「え?・・・・あ、うん・・・・またね。」
挨拶もそこそこ、そそくさと教室を出て行くレイに違和感を感じた。どうして自分の方をちゃんと見てくれないのだろう?
駄目だったのだろうか?それにしても彼女の態度は、怒ってるにしてはどこか変だ。
なんとなく不安に思っていると、満面の笑みを浮かべながらケンスケが戻ってきた。
「シンジぃ〜〜っ!ありがとな〜手間取らせちゃって。」
「え?大丈夫だったの?」
「ちゃ〜んと分かってくれたよ。写真も受け取ってくれたし。」
「そうか・・・・・まあ、良かったよ。」
シンジも肩の荷が下りた気分だった。レイの態度が今ひとつ腑に落ちないが、本人が言ってるから大丈夫なんだろう。
「あ、待っててもらって悪いけど、ちょっと俺、これから部室へ行ってくる。」
「珍しいね、ちゃんと部活に出るなんて。」
「お前だってそうだろ?・・・・あ、そうそう、これやるよ。」
無理矢理入部させたのそっちじゃないか、と反論しようとしたシンジの機先を制すように、ピッと何かを差し出す。
それはレイに渡した筈の、あの写真だった。
「お、おいケンスケ?現像したのって一枚だけじゃなかったっけ?」
「だって、もし綾波に没収されてたら、手元に残らないだろ?自分用に取っとこうと思ったけど、焼き増し出来るから。」
ポケットからフィルムを取り出して得意げに見せるケンスケを、呆れたように眺める。
「そ、それって話違うじゃん!現像した写真もフィルムも、ぜんぶ綾波に返すって約束だったろ!?」
「ん?本人がいいって云ったんだぜ。今回は特別。他の奴に渡さないよう言われたけど、まあシンジには色々と世話になったし。」
キラリと眼鏡を光らせながら、シンジの目の前に写真をちらつかせる。
「あ、約束守れって言うんならそうするぜ?誰にも渡さないからさ・・・・・お前にも。」
「う・・・・・・。」
「それにいい出来だろ?被写体も最高だしさぁ〜。男なら持っておきたいと思うけどね。」
たしかにその写真は見ているほうまで幸せにするような、暖かな雰囲気が伝わってくる。正直、欲しい。
「心配するなって!他のヤツには渡さない。信用しろよ、この俺を。」
ケンスケだから信用できない、友情とは別の部分でそう思う。
だが結局、賄賂の前に折れた。ケンスケは 「んじゃ」 と明るく挨拶し、教室を出てゆく。
取り残されたシンジがチラリと写真に目をやる。ニンマリ崩れそうになる頬を自分でつねった。
(はあ・・・・・。僕ってサイテーだ・・・・・。)
嬉しいのか自己嫌悪なのか、一人複雑な気分に浸る彼であった。
自宅に帰る途中、レイはデパートに立ち寄った。
必要な生活用品を買ったあと、迷った末に文房具売り場に寄り、アルバムを見ていた。
たまたま手に取ったA4版のアルバムは少し薄手で、さほど収納できないが、装丁はしっかりしている。
クリーム色を基調に淡いグリーンで彩られたその表紙が清々しく、何となく気に入った。
レジで清算し、別のフロアへと移る。今度もまた随分ためらっていたが、やがて鏡の売り場へ脚を向けた。
しばらく悩んだが、結局、控え目な大きさの四角い鏡を選んだ。
飾り気の無いその鏡に、そっと自分の顔を映す。
シンプルな銀のフレームに収まった彼女の表情は、あの写真のように柔らかだった。
< 第四話 完 >