< 〜 she AND sea 〜 : 前編 >

海―――生命が生まれた場所。
海―――すべての始まりの場所。
海―――わたしは海から生まれた?


「 彼女と海(前編) 」


「シンジ君、今のプロセスをもう一度繰り返して。マヤはパターン89で再度トレースを採って頂戴。」
「はい。」
リツコの指示を受け、シンジはエントリープラグの中から返事をする。
「レイ、シンジ君の方は一時間くらいで終わるから、そのままプラグ内で待機。」
「了解。」
レイは全身の緊張を解くと身体をずらし、腰を少し伸ばす。
LCLの中では自分の体重を感じないが、長時間待機のときは少しでも身体に負担をかけないようにしておく。
シートに身体をうずめ、リラックスする。もともと彼女はこの液体の中に浸かっているのが嫌いではない。
(ここは私の生まれた場所だから・・・・・。)
姿勢を楽にしたまま目を閉じる。身体が底へ底へと沈みながら、徐々にこの液体へ溶け込んでいく錯覚にとらわれる。
いずれ自分が消えるときもこうして赤い液体と混ざりあい、やがて一つになるのだろう。そう、生まれた場所へと還るのだ。
(それが私の望みのはず・・・・・。でも、何故だろう・・・・・?)
綾波レイという存在がこの世界から消えたとき、 "私" という意思そのものも消える。
なぜか最近、ふとその事に寂しさを覚える自分がいた。

結局、その日の起動実験は徹夜だった。シンジとレイは一晩中、実験を繰り返していた。
二人が解放されたときは、既に明け方ごろだった。
「シンジ君、ごめんなさいね。一晩中付き合わせちゃって。」
シャワーを浴び終えたシンジにリツコが声をかける。
「大丈夫?いまから帰るんだったら、ちょっと仮眠室で眠ったら?」
「大丈夫です。まだそんなに眠くないし、どうせ寝るんなら布団の中でぐっすり眠りたいですから。」
LCLに浸かっていると意識が覚醒するのか、さほど眠気を感じていなかった。
仮眠室のベッドはあまり寝心地が良くない。それに昨日からミサトが泊まりで出ているので、一人でゆっくり寝れる。
「そう?無理にとは言わないけど。・・・まあ、そろそろ地上の電車も動き出している筈ね。」
「リツコさんは、まだ仕事ですか?」
「私達はむしろこれからね。さっき採ったデータを分析しないと。」
リツコは疲れた様子はまったくない。この人はいつ寝ているんだろうと疑問に思う。
「リツコさんこそ、寝なくて平気なんですか?」
「まあ、仕事だし・・・。慣れているから。」
そう苦笑すると、リツコはシンジに対して少し微笑んだ。
「ありがとう、心配してくれて。学校にはこちらから届けを出しておくから、ゆっくり休みなさい。・・・それじゃ。」

リツコと別れたあと、廊下でレイと遇った。彼女も既に制服に着替え、鞄を持っている。
「あ、お疲れ。綾波も帰るの?」
「ええ。」
「僕も今から帰るつもりだったから、一緒に出よう。」
NERVの施設を出て、ジオフロントの中を歩く二人。
シンジはさっきリツコには大丈夫と言ったが、歩くにつれだんだん疲労が増してきた。
無重力からいきなり重力のある世界へ戻ってきたように、身体が重く感じる。
人工の太陽がやけに眩しく、一晩中起きていたという実感が湧く。急激に眠気が襲ってきた。
「はあ〜。綾波、なんか疲れない?」
「・・・・・・へいき。」
レイは見た感じは普段と変わらないが、やはり疲れているのだろう。返事もどこか上の空だ。
リニアに乗り込むと、へたり込むように座った。向かいに座ったレイも何となく眠そうな表情をしている。
シンジも眠かったが、リニアが第三新東京の駅へ着いたら、そこでモノレールに乗り換えなければならない。
(寝ちゃ駄目だ・・・・・寝ちゃ駄目だ・・・・・寝ちゃだめ・・・・・。)
呪文のように繰り返す言葉が、かえって眠気を誘う。
それでもリニアが地上に出るまで、なんとか起きていた。
「綾波、降りよう。」
「・・・・・ええ。」
すこしぼうっとしている彼女の手を引きながら、第三新東京駅で乗り換えた。
二人は電車に乗ると、また向かい合わせに座った。ここから家の最寄り駅までは、さほど時間がかからない。
その安心の為か、二人ともすぐに眠りに落ちた。この電車の行き先が普段と違うことには気付かないまま・・・。


心地よい揺れに身体を揺さぶられ、眠りの海に沈んでいた意識が徐々に浮かび上がってくる。
(・・・・・いつの間にか、寝てたんだ・・・・・。)
目を開けてぼんやりと辺りを見廻すと、自分とレイ以外に誰も乗っていない。正面の座席で、彼女は手すりにもたれて寝ていた。
ずいぶんと車内が明るい。窓から差し込む日差しで首すじが暑い。ふと違和感を感じた。
(まだ・・・・・着いてない?)
不審に思ったシンジは外を見る。全く知らない景色。
(まずいっ!寝過ごした!?)
完全に目が覚めた彼は慌てて停車駅を確認したが、まったく知らない駅名ばかり。
(ど、どこに向かってんの!?この電車?)
焦ったシンジはレイを揺り起こす。
「綾波?綾波、起きてよ。」
「・・・・・・・・ん。」
レイは目を半分開けると、ぼぅっとした視線をシンジの顔に向けた。
「・・・・・・・・いかりくんがいる。」
「あ、綾波、大変だよ!僕たち、電車間違えちゃった。」
レイは眠そうな表情のまま、辺りを見廻す。まだちゃんと目が覚めていないらしい。
「ここ・・・・・・・どこ?」
(・・・・・だめだ。寝惚けてる。)
「と、とにかく、次の駅で降りよう。」

二人が降りた駅は、海沿いにある小さな駅だった。どうやら相当遠くまで来たようだ。
時刻表によれば次の電車が来るまで、あと一時間近くは待たなければならない。
「やれやれ、まいったなあ。」
「ごめんなさい。私が眠ってしまったから。」
「僕だって寝てたんだから、お互い様さ。」
既に日は高く、夏の陽射しが照りつける。日なたに居ると暑さで汗が吹き出てきた。
シンジは日陰にあるベンチで座って待とうとしたが、レイはなぜか日の当たる場所から動かない。
「綾波、どうしたの?」
「・・・・海が、見える。」
レイの傍に近づくと、陽光を反射してキラキラ光る海が意外と近く見えた。
「綾波、海、好きなの?」
「海を見たことはある。でも、触れた事はない。」
(触れた事はない、か・・・・。)
シンジも海を見た。そういえば自分も長い間、海に触れていない。
空は雲一つなく、抜けるように青い。汗が流れ落ち、海の誘惑に駆られる。
「・・・・・綾波、時間ある?」
「え?・・・ええ、問題ないわ。」
「ちょっと行ってみようか?・・・海を見にさ。」

駅を降り、海の見える方向へ20分ほど歩くと砂浜が見えた。セカンドインパクト後に造られた海水浴場なのか、驚くほど砂が白い。
監視塔や海の家などもあるが、さすがに平日だからか人影は見当たらない。
二人は日陰に腰を下ろすと駅の近くで買ったおにぎりを食べ、簡単に朝食を済ませる。
目の前に、明るく光る海が広がる。やさしい波の音が聞こえ、心地よい潮風を肌で感じる。
それだけで、ただのおにぎりがとても美味しく感じた。
「気持ちいいなあ。」
最近はこうしてのんびりすることも少ない。いや、こういったことを感じる余裕すら無い。
「・・・・不思議。こうして海を眺めているだけで、何故か穏やかになれる。」
レイも呟く。彼女が自分と同じことを感じていると思うと、少しくすぐったい気分になる。
「ちょっと、行ってみようか。」
「え?」
「ちょっと、海に触れてみようよ。」
シンジはそう言うと、レイを誘って波打ち際まで歩いた。
靴を脱いで裸足になると、ズボンを膝の上までたくし上げる。
そんな彼を、レイは不思議そうにみている。
「何をしているの?」
「え?だって、濡れちゃうからさ。」
ひんやりとした砂を踏みながら、波が届くところまで近づく。波が彼の脚を浸す。心地よい冷たさ。
波が引く。素足が空気に触れる。また、波が打ち寄せる。シンジはその感触を楽しんでいた。
「・・・・碇くん、楽しいの?」
「とっても気持ちいいよ。綾波もやってみたら?」
「そうね。」
レイは躊躇なく上着を脱ぐと、制服のリボンを解いた。
「ちょ、ちょっとあやなみっ!何やってんのっ!?」
「・・・濡れるんでしょ?」
「服は脱がなくていいの!裸足になるだけでいいから。」
「そう?」
レイは素足になると、シンジの隣に並び、足を浸す。
「冷たい・・・・。」
「でも、心地いいだろ?」
「ええ。」
脚を満たした波が引くとき、足元の砂が崩れ、サーッと退いてゆく。波に誘われているような感じがする。
レイは一歩海に近づいた。波が引いていく。
また一歩近づく。砂が退いていく。まるで足元が奪われるかのような、喪失感。
(・・・海が、呼んでいる。)
突然レイは海へと向かって進んで行く。シンジが止める暇もない。
「ちょ、ちょっと綾波っ!どこいくんだよ!?」
シンジが叫んだが、聞こえてる様子はない。深いところへ進んだレイは肩まで海水に浸かった。
(身体が、軽い・・・。)
LCLのように底に沈むのではなく、身体が上へ上へと浮き上がるような感覚が新鮮だった。
波にあわせて身体がユラユラと揺れる。波がせり上がると脚がフワリと浮く。その浮遊感が心地よい。
まるで赤子をあやす様な生命のゆりかごに、不思議な安堵を覚える。
レイは手を水平に拡げたまま、身体を波にゆだねた。
(海・・・・すべての生命が生まれた場所。)
すべてはここから生まれた。動物も、植物も、ヒトも。ありとあらゆる、生命体が。
(私も、ここから生まれたの・・・・・?)
あの赤い液体も海と同じ成分で構成されている。そう考えるなら、自分は・・・・・ヒトであってもいいのか?
同じ生命体・・・・・そう思っていいのだろうか?

物思いに囚われていたレイは、ひときわ大きな波が来た事に気付かなかった。
不意に頭から波をかぶり、強い力に身体が引っ張られる。
「綾波っ!!」
彼女の姿が波に消えたのが見え、血の気を失った。
我を忘れて、レイの元に駆け寄る。
水が重い。波が逆らう。それでも、力を振り絞って前へと急ぐ。
「綾波、どこ?返事して!!」
必死で探すシンジの背後でバシャッと水音が跳ね、レイが顔を出した。
「綾波ぃ!よかったぁ・・・・。」
「・・・・しょっぱい。」
「・・・・・はい?」
「塩辛いわ。この水。」
思わず力が抜けそうになる。
「当たり前だよ!海の水だもの。」
「私、飲んだこと無い。」
「・・・・あのさあ、心配したんだよ。それに服を着たまま海に入ったりして、ビックリするじゃないか。」
「碇くん、服を脱いでは駄目って言った。」
「あのねえ・・・・・。」
妙にずれた返事に、一気に脱力するシンジ。
ハタと、いま自分のいる場所を思い出す。波で身体が浮き上がり、足が地面を見失った。
「うわっ!!」
いきなり水の中でもがくシンジ。
「・・・・・どうしたの?」
「た、助けて!!ぼ、僕泳げ・・・・うわっぷ!!」
波が口のなかにはいり、頭が水の中に沈む。
溺れる!・・・恐怖を感じたその時、波とは違う力が身体を引っ張り上げた。
「ゲホッ!」
「落ち着いて碇くん。まだ足はつくわ。」
レイがシンジの身体を支え、立ち上がらせる。シンジは夢中で彼女にしがみついた。
「た、助かった・・・・・。」
「碇くん、泳げなかったの?」
「う・・・・・・うん。」
冷静になると急に恥ずかしくなった。
(カッコ悪い・・・・・。おまけに、女の子に助けられたなんて・・・・。)
「でも、さっきは私を助けに来てくれた。」
「あ、あれは・・・・・。綾波の姿が見えなくなったから、つい夢中で・・・・。」
シンジの言葉に、彼女は戸惑いを覚えた。
(碇くん・・・・自分が溺れることよりも私のことを心配してくれた・・・・。)
心配をかけて申し訳ないと思いつつも、抑えようのない嬉しさが込み上げてくる。
「ごめんなさい。泳げないなんて知らなかったから・・・・。」
「いや、別にいいよ。・・・・と、ところでさ、そろそろ上がらない?」
足がつくとはいえ、やはり怖かった。しかしレイはシンジの背中に手を回したまま、身体を引っ張る。
「少し、練習しましょ。」
「え?」
「泳ぐの。」
そういってシンジを抱えたまま後ろ向きに地面を蹴り、立ち泳ぎの要領で泳いだ。
自分の足が底につかなくなって、シンジは焦った。
「ちょっ、ちょっと!綾波ってば!?」
「力を抜いて脚を交互にバタつかせれば、身体は前に進むわ。大丈夫、あなたは私につかまってればいいから。」
「つ、つかまるって・・・・・。」
唐突にレイの柔らかな身体の感触を意識し、シンジの顔が真っ赤になる。
目の前に彼女の胸が迫り、慌てて顔を上に向ける。その時、視線があった。
僅かに微笑した無邪気な彼女の表情は、シンジが初めて見るものだった。
(綾波・・・・・楽しいの?)
その表情をみると抵抗する気が失せ、彼女のいうようにバタ足をしてみた。
一人では沈むだけだった身体が苦もなく前に進む。服を着たままなのに、レイの泳ぎが相当上手いからだろう。
「ほら、問題ないでしょ?」
「う、うん、これだったら大丈夫かな。」
「そう、じゃあ息を止めて。少し潜ってみるから。」
「も、潜るって!?」
「大丈夫・・・・怖くないわ。」
その言葉と同時にレイの顔が水面に沈む。シンジの身体も沈む。反射的に目をきつく閉じ、彼女の身体にしがみつく。
自分のすべての意識がレイの身体に集中する。しなやかで柔らかく、暖かい・・・・・。
その存在が、水の恐怖を忘れさせた。教えられた通りに脚を動かす。
軽い浮遊感と水を切る速度に高揚を覚える。
すこし息が苦しくなってきたころ、身体が浮かびあがり、水面に顔をだした。
まだ足はつく。口を大きく開けて息を吐き出し、新鮮な空気を吸い込んだ。
「大丈夫でしょ?」
レイがこちらを向いて問いかける。濡れた髪の間から、優しい瞳がのぞく。
(人魚・・・・・・。)
海の青さに溶け込みそうな青い髪。水面の光をキラキラ反射する紅い瞳。
普段は無表情な彼女の顔がどこか温かく感じるのは、海に包まれているからだろうか?
(おとぎ話の人魚姫って、こんな感じかな・・・・・?)
数瞬、彼女に見惚れてたが、我に返ると慌ててうなずく。
「う、うん!全然平気だった。」
「そう、よかった。・・・じゃあ、また潜るから。」
「ま、またって・・・・・ちょっと!?」
慌てて息を止めたが、目を閉じるのが少し遅れた。
視界が青くなる。青一色の景色のなかで、レイの瞳だけが赤い。
塩水がしみたので目を閉じたが、先程の彼女の顔がいつまでも脳裏に残った。
(綾波、目が痛くないのかな?)
水の中で目を開けているところも、なんとなく人魚を連想させた。
水に対する恐怖心は、さっきより更に少なくなっている。泳ぐ、という感覚を楽しむ余裕が出来た。
レイはまるで自分の生まれ故郷に帰った人魚のように、楽しげに泳ぐ。
目を閉じて泳いでいると、もはや自分がどこにいるのかすら定かではなくってきた。
(―――綾波、君はどこに行こうとしているの?)
(―――僕をどこに連れて行こうとしているの?)
でも不思議と不安は感じない。多分それは、彼女がいてくれるから。
レイの背中に回した手を少し緩め、もう一度、腕の力をこめる。しがみつくのではなく、抱きしめるように。
(・・・・・でも、こうして二人一緒なら、どこだって・・・・・。)

現実離れした浮遊感の中、腕の中の少女の存在だけが、確かだった。


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