< 〜 she AND sea 〜 : 後編 >




「 彼女と海(後編) 」


しばらく泳いだ後、二人は海から上がった。
太陽は更に高く、暑い。その熱が冷えた身体を暖めてくれる。
「ふう。」
シンジはどっと疲れを感じた。水から上がったとたん濡れた服が身体に纏わりつき、異様に重い。
シャツを脱ごうとして、ハッとレイの事を思い出す。自分が脱いだら一緒に脱ぎ始めるかもしれない。
彼女の方を見ると、スカートのすそを捻って水を絞っている。
透けたブラウス越しに浮かぶブラジャーと、はだけた白い太ももに一瞬、視線が釘付けになる。慌てて目を逸らした。
(やっぱり駄目だ、刺激が強すぎる・・・・・。)
ベタつく服が少し気持ち悪いが、この暑さだ。そのうち乾くだろう。
「あ、綾波、すこし休もうよ。疲れたでしょ?」
「そうね、お腹もすいたし。」
そういわれると自分も腹ペコだ。
「じゃあ、たしか海の家があったはずだから、あそこに行ってみようよ。」

海の家に着いたが、客はだれもいなかった。浜辺に誰もいないので当然かもしれない。
「すみませーーーん!誰かいませんかーーっ?」
大声で呼ぶと、部屋の奥からお婆さんがのそのそ歩いてきた。
「あれま、どうしたね?びしょ濡れで、海にでも落ちたんかい?」
「い、いえ・・・・その。あの、食事したくて。」
「ああ、お客さんかい。何にする?」
「綾波、何がいい?」
「・・・・焼きそば。肉抜きで。」
「じゃあ、僕はカレーで・・・・。あっ!?」
シンジは大慌てでポケットを探る。財布が無い。海に落としたのだ。
「あ、あやなみ・・・・。財布、ある?」
お婆さんに怪しまれないよう小声で訊ねたが、ポケットの中を探ったレイは普通に返事する。
「・・・・落としたみたい。」
あっさり言われ、ガクッと力を落とした。
「ん?どうしたね。」
お婆さんの問いかけに、シンジは申し訳なさそうに答える。
「あの・・・・・財布、海の中に落としちゃったみたいで・・・・・。ごめんなさい。注文、結構ですから。」
バツが悪そうに謝る彼を気にする風もなく、お婆さんはいった。
「ま、いいさね。お腹空いとんでしょ?」
「え?で、でも・・・・・。」
「どうせ客もおらんし・・・・。座りな、今、作ったるわ。」
「す、すみません・・・・・。」
シンジは謝ったが、結局、お婆さんの好意に甘える事にした。
「碇くん、いいの?」
「ま、まあ、せっかくああ言ってくれんだし・・・・。それより、帰りをどうするか考えないと。」
「私の携帯は駄目だわ。壊れたみたい。」
自分の携帯も見たが、海水で壊れてしまったのか電源が入らない。
「僕のも駄目だ。しかたないや、後で電話を借りようか。」
しかし考えてみれば、ミサトは外出中で夜でないと戻らない。リツコは今頃、研究に没頭しているだろう。
(まいったな・・・・。どうやって帰ろう?)
「・・・・ごめんなさい。今日わたし、迷惑かけてばかり・・・・。」
「そ、そんなこと無いって!あ、あの海のことは・・・・その、楽しかった。」
少し照れながら答えると、レイは少し安堵したような、嬉しそうな視線をシンジに向けた。
彼女の表情が柔らかくなったのでホッとしていると、ちょうどおいしそうな匂いが漂い、お婆さんが料理を持ってきた。
「はい、できたよ。」
料理を並べると、コーラーの栓を開けてコップに注ぐ。どうやらこれもサービスらしい。
「す、すみません・・・・その、後でちゃんと払いますから。」
「ええかい、子供はこういうときは 『いただきます』 って云えばいいんよ。」
「あ、はい・・・・いただきます。」
「いただきます。」
そういってかなり多めに盛られた料理を食べる。少々濃い目の味付けに食欲が刺激される。
「・・・おいしい。」
「うん、とってもおいしい。」
「足りんかったら云いな。また作るけんね。」
そういってお婆さんはにっこり微笑んだ。

「ごちそうさま。美味しかったです。」
「・・・ごちそうさま。」
食事を終わった二人はお皿を持って行き、お婆さんに御礼を云った。
「二人とも、うちは近いんかい?」
「え、え〜と・・・・。」
帰るにしてもお金がない。やはり電話を借りようと思った時、お婆さんが口を開いた。
「まあとりあえず、シャワー浴びとき。まだ体、濡れとるよ。」
「え、でも・・・・・。」
「ええから浴びてき。ああ、服を脱いだら籠に入れときな。洗っちゃるから。」
「そ、そんな、そこまで・・・・。それに、あのぉ、服は・・・・。」
「あんたは息子の服があるし、嬢ちゃんは孫の服があるけん、それ着るとええわ。なんちゃ、遠慮せんでええから。」
けっこう世話好きのようだ。あるいは放っとけないのかもしれない。
それに正直な所、海水で身体がベタベタするのでありがたい。
「・・・・・すみません。」
「シャワーは外にあるけんね。・・・砂が残らんよう、ちゃんと耳までよう洗うんよ。」
先にシンジがシャワー室へ入った。カーテンで簡単に仕切られた着替え場所で服を脱ぎ、籠に放り込む。
シャワー室といっても水道管に直接シャワーを取り付け、砂浜の上に板で囲っただけの簡素な部屋で天井はない。
蛇口をひねると勢いよくお湯がでた。暖かい日差しの中、青空の下でお湯を浴びるのは何ともいえない爽快感がある。
隣りの部屋にだれかが入ってくる音がした。きゅっと蛇口をひねる音が聞こえ、水音が跳ねる。
「綾波・・・・なの?」
「ええ。」
当然、隣とはベニヤ板で仕切られて見えないが、したの空いた隙間からチラリと白い足首が覗く。
何となく気恥ずかしくなり、慌てて会話を探す。
「ぼ、僕たちさ、いろいろ面倒みてもらって、なんか申し訳ないよね。」
「どうして、親切にしてくれるのかしら?」
「やさしいんだよ、きっと。」
「・・・そうかもしれない。」
カーテンの向こうから、お婆さんの声が聞こえた。
「二人とも。着替えとタオル、置いといたけんね。」
「は、はーい。」
シンジが背中越しに応える。何となく、甘えたような返事になった。
「ゆっくり、あったまんな。」
そういうとお婆さんは去って行った。シャワーのお湯が跳ねる音だけが響く。
「・・・・・碇くん。」
「なに?」
「あたたかい・・・・・。」
「うん・・・・・。」
シンジの心もあったかい。だからシャワーの事では、無い。

レイより先にシャワーを浴び終え、着替え始める。籠の中にはTシャツとGパンが置いてあった。
ダブ付いたTシャツはまだよかったが、膝のしたあたりで切られたGパンの方は、ウエストが大き過ぎる。
パンツを穿いていないのが気にはなったが、まさかそれまで借りるわけにいかない。ベルトで何とかきつく締めた。
食堂へ戻ると、お婆さんがスイカを切っていた。
「服は洗っとるから。奥へ上がっとき。スイカ、持ってっちゃるわ。」
「す、すみません。・・・・あ、あの、どうしてそんなに、親切にしてくれるんですか?」
「なに云うとん?子供は親切にされるんが当たり前よ。」
さも不思議そうに、シンジの顔を見る。
「・・・うんと甘えればいいんよ。自分が大人になって子供に返してあげたら、それでええ。」
そういってまた、スイカを切り始める。
「奥、上がっとき。嬢ちゃんが来たら持ってったるけんね。」
「・・・・す、すみません。」
「あんた、すんませんが多すぎる。すまんこと、ない。」
「う、うん・・・。」
思わずおばあちゃん、と呼びそうになった。

シンジが畳張りの居間で座っていると、少ししてレイが入ってきた。シンジとよく似た色のTシャツを着ている。
はじめて見る彼女のラフな服装が新鮮で、思わずまじまじと見つめてしまった。
「あ、綾波、その服・・・・・。」
女物の小さいGパンは股下のところでカットされており、そのしたは素足のままだった。
それにしてもTシャツもそうだが、デニム生地のタイトな短パンは腰にピッチリ貼り付いていて窮屈そうだ。
「・・・少し、小さいわ。」
レイはそういってズボンの端を引っ張る。青い布地が形のよいヒップラインをますます強調する。
太ももまですらりと剥き出しになった長い脚が眩しい。
(・・・た、たしか穿いていないはず・・・・・・パンツ。)
思わず不埒な想像をしてしまい、顔が真っ赤になった。
「どうしたの、碇くん?顔、赤い。」
「えっ!いや・・・・アハハッ!どうしたんだろうね?ひ、陽に焼けたんだよ!きっと。」
慌ててごまかすシンジを特に気にした様子もなく、机をはさんで向かいに座った。
レイと視線が合う。小さめのTシャツがノーブラの胸のふくらみを際立たせる。濡れた髪があらためて、色っぽい。
シンジはますます赤くなって下を向く。胸が、ドキドキする。
「これから、どうするの?」
「え?えーと・・・・・。と、とりあえず、服が乾くのを待たなきゃ。」
「そうね。」
そこで会話が終わる。レイと向かい合わせ。シンジの胸が、さらにドキドキする。
(・・・・・間が、もたないよ。)
その時、お婆さんが三角形に切ったスイカを持ってきた。
「はい。食べ切れんかったら、残してええ。足りんかったら、まだ有るけんね。」
「すみま・・・・い、いただきます。」
「いただきます。」
三人は同時にスイカを手に取った。
「あの・・・・おばあさんは、一人で住んでいるんですか?」
「ああ、じいさんがおるけどね。今日は、仕事に出とるから。」
「じゃあ普段は、一人でこのお店をやっているんですか?」
「ああ。昔とちごうて今は年中夏やけん、そんないっぺんに客もこんし。」
軒先に吊るした風鈴がチリーンと鳴る。涼やかな音に惹かれ、視線を向ける。
大きく開いた障子の向こうに縁側があり、更に向こうには白い砂浜、そして海が広がっている。
午後になっても誰もいない海を眺めながら、ゆっくりスイカを食べた。時間までがのんびり過ごしていた。
「・・・さてと、店のほうに行っとくけん、なんぞ用があったら呼びに来いな。ゆっくり食べててええよ。」
そういうとお婆さんは立ち上がって、部屋を出て行った。

シンジはスイカを食べ終わった後、居間でくつろいでいた。レイは縁側に座って、また海を見ていた。
「綾波、ずっと海を見ているね。」
「ええ。なんだか安らぐの。」
シンジは彼女の隣に腰を下ろした。レイは変わらず、海に視線を向けていた。
「海、好きになった?」
「わからない。でも、そうかもしれない。・・・だって海はすべての始まり。」
「え?」
「たくさんの生命が、海から生まれた。動物や、ヒトや・・・・。」
そこで少し、言葉を詰まらせた。
「・・・・だから、海は生命の始まり。そして生命の還る場所。」
(その中に、私も入っていいの・・・・・?)
自分の還る場所。それはここでもいいのだろうか?
赤く漂う海ではなく、白い飛沫をあげてうねる、この青い海でも。
遠くを見つめる彼女の視線を追うように、シンジも海を見た。
(生命の生まれた場所、か・・・・。)
ここがすべての始まりなら、あの使徒もここから生まれたのだろうか?
だとしたら、すべての地球上の生命体は同じ生き物なのだろうか?ヒトも、使徒も・・・・・。
「じゃあ、みんな同じかもしれないね。」
「え?」
「僕らや、あの使徒だって、いま生きている物たちはぜんぶ、同じ存在なのかもしれない。みんなただ、形が違うだけで・・・・。」
深く考えての言葉ではない。ただ、そう感じた。
その何気ない彼の言葉が、レイの心に深くしみ込む。
(同じなの?私も碇くんも・・・・・。)
レイは真摯な眼差しをシンジの横顔に向けたが、やがて海のほうへ視線を戻した。
「そうね・・・・・。」
ゆっくりと頷いた。みんな同じ存在、それでいいのかもしれない。
(だとしたら・・・・・嬉しい。)
海は、穏やかだった。陽光を反射するきらめきが、生命の煌きにみえた。


(あ・・・・・また、寝ちゃってたのか・・・・・。)
まどろみからシンジは目を覚ました。海を眺めたまま寝てたらしい。日が傾き、海からの風が少し冷たい。
障子にもたれていた背中が痛い。身体を動かそうとして、右腕にかかる重みと、薄手の毛布が掛けられているのに気付いた。
(あれ?)
隣をみると、レイが自分に少し寄りかかった姿勢で眠っていた。同じ毛布にくるまっているので、毛布を掛けたのは彼女ではない。
(・・・・・おばあちゃん。)
シンジは自分の祖母を知らない。祖父も祖母も、自分が生まれたときに生きていたのかさえ知らない。
だが、たとえ顔すら知らなくても、確実にいた筈だ。シンジがいる、それこそがその証しなのだから。
恐らく、きっとあのお婆さんのような祖母だったのだろう。他人の子供にも親切で、優しくて・・・・。
『うんと甘えればいいんよ。自分が大人になって子供に返してあげたら、それでええ。』
お婆さんの言葉を思い出す。たとえ血は繋がって無くても、そうして伝わってゆく。親から子へと。それが、人の営み。
シンジはふと、隣で眠る少女に目をやった。
(綾波のおばあちゃんって、どんな人なんだろう?)
レイが知っているようには思えない。というより何故か、彼女の祖母を想像できない。
彼女はここにいる。だから、確実にいる筈なのに。
レイの寝顔を間近で見つめる。普段は大人びた顔が少し幼く見えた。
(―――本当に君は、どこから来たの?)
(―――どこから来て、どこへ行くの?)
海で泳いでいた時、彼女をまるで人魚のようだと思った。
童話の人魚姫の物語は最後、どうだっただろうか?
最後、人魚は海へと消えてしまわなかっただろうか?海の泡となって・・・・・。
毛布のしたでそっとレイの手を握る。細い手。でも確実に、彼女はここにいる。
「綾波・・・・・。消えたりしないよね?」
込み上げる不安を打ち消すように、彼女の耳元で囁いた。
「もし僕で良ければ、ずっとそばにいるよ。だから・・・・・。」
無意識に彼女の手を、きつく握る。その続きは、声にならなかった。
(だから、消えないで・・・・・。お願いだからずっと、そばにいて・・・・・。)
「・・・・・・・ん。」
睫毛が震え、レイがかすかに目を開ける。
視線が合う。心臓がトクッ、と高鳴る。
「・・・・・・・・いかりくんが、いる。」
安心したかのように目を閉じ、シンジの肩に頭を預けた。
「あ、あやなみ・・・・・?」
我に返ったシンジが声を掛けたが、安らかな息遣いだけが微かに聞えた。また、眠ったようだ。
(・・・・また、寝惚けていたのかな?)
少し苦笑したが、心なしか微笑んだようなその寝顔に、何となく幸せを感じた。
彼女の身体が痛くならないようにと、少し姿勢を崩す。
レイが更にシンジに寄りかかる。彼女の重みをますます感じる。
その重みを、受け止めていた。


レイが目覚めた後、リツコに電話を入れた。
少し小言を云われたが、結局仕事から戻ったミサトが車で迎えにくることになった。
場所を聞いたミサトが二人のいる海岸へ着いた時は、既にとっぷりと日が暮れていた。
お婆さんに御礼を云った後、帰りの車の中で早速ミサトに叱られる。
「んったく、あんたたちねぇ・・・・・。いくら疲れていたとはいえ軽率すぎるわよ、シンジ君。」
シンジはミサトには、自分が海に落ちたところをレイに助けてもらった、と話していた。
「す、すみません・・・・・。」
「碇くんは悪くありません。軽率な行動を起こしたのは私の方です。」
「ち、違うよ!そもそも海を見に行こうと言ったのは、僕なんだから。」
思わずレイの肩に手を廻し、彼女の言葉を遮る。彼女と二人で泳いだことは、なぜか言いたく無い。
庇いあう二人をバックミラー越しにチラリと見、ミサトは苦笑した。もとより本気で怒っているわけではない。
「・・・・・とりあえず二人とも。晩ごはん、食べよっか?」


ミサトがレイのマンションの前まで送ったときは、夜の11時を過ぎていた。
「じゃあね、レイ。リツコが明日も起動実験はないって言ってたから、ゆっくり休むのよ。」
「はい。」
シンジは一旦車を降りて、レイに挨拶する。
「綾波、また来週、学校で。」
「碇くん、今日は楽しかった。」
「え・・・・・?」
シンジが知っているかぎり、彼女が楽しいと云ったのは初めての事だ。
「うん、僕も楽しかった。」
そういって微笑むシンジに、レイの口許が柔らかくほころんだ。
「なんか、ぐっすり寝れそうだよ・・・・それじゃあ、おやすみ。」
シンジが車に乗り込む。車の中から、小さく手を振った。
レイもやはり、控えめにほんの少し、手を振った。
ミサトが軽くクラクションを鳴らし、車を走らせる。
レイは去ってゆく車を、しばらく見送った。

自分の部屋へ戻ったレイはシャワーを浴びる。少し肌がヒリヒリしたが、それすら心地良い。
今日は、楽しかった。
嬉しいことが、たくさんあった。
特にあの時、彼がずっとそばにいると云ってくれた。
目を開けると、そばにいてくれた。それが一番、嬉しかった。

――――ずっと、忘れない――――

たとえ、この身体が消えてしまっても・・・・。この想いだけは、いつまでも―――。


あたたかい眠りの中、彼女は珍しく夢を見ていた。
彼女にしては珍しく、楽しい夢のようだ。その寝顔は微笑んでいた。


私の世界は一面の青―――澄みきった透明な青。
私は大海の中を泳いでいる。自由に―――何にもとらわれずに。
私の腕の中には彼がいる―――私の顔をみて微笑んでいる。

海―――わたしが生まれた場所。
海―――わたしが還る場所。
海―――彼と二人で、還る場所。



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