< マナ 誕生日記念 >
チルドレン達の戦いにより、来たるべきサードインパクトは辛うじて回避され、人々が使徒の脅威に怯えることも無くなった。
しかし、度重なる戦いは大規模な被害をもたらした。消失した第三新東京都市を始め、各地に残る戦いの跡はまだ生々しい。
復興に向け人々は弛まぬ努力を続けるが、元の暮らしを取り戻すには、まだ時間を要する。
戦争の犠牲者は数知れない。死者のみならず、生き残ったものにも、深い爪痕を残した。
使徒との戦いの最中、軍に利用されたすえ、死者とならざるを得なかった少女もまた、犠牲者であろう。
かつて霧島マナと呼ばれていた少女は、少年への想いを胸に秘めたまま、影のように第三新東京都市から去っていった。
「 タンポポ(上) 」
旧第三新東京都市から西南へ200キロほど離れた、とある街。
数年前までは単なる地方都市に過ぎなかったこの街も、最近は第三次首都移転計画の中心地として、大都市化が進められていた。
この都市の街外れに、個人経営の小さなパン屋がある。
パンはもちろん、ケーキーなどの洋菓子も専門店に負けないほど美味しいと、来店する客の評判は上々である。
店内の3分の2はカフェ形式になっており、ランチタイムには焼きたてパンと共にフレンチ風の料理も味わえ、好評を博している。
この店で三川ハルナが働くようになってから、はや五年が経とうとしていた。
扱いはアルバイトだがパン作りや料理の腕前はなかなかだし、何より愛想がいい。店主のみならず、お客の受けも良かった。
最近、この店に新しくアルバイトの少女が入った。ハルナより5つ年下の16歳だが、物怖じしない性格で、誰とでも気安く話す。
ハルナも少女のそんなざっくばらんなところが気に入ってるのか、同い年のように親しく会話していた。
1月も終わりに近づいたある日、いつものようにカフェの準備をしてると、カランとドアの鈴が鳴って、一人の青年が入ってきた。
「いらっしゃいませ〜っ。」
机を拭いていた少女が振り返って挨拶すると、青年はやや戸惑った顔を見せた。
「あれ、ランチにはまだ早かったっけ?」
「ううん、もうちょいですから大丈夫。どーぞ座ってて。」
見知った青年にひときわ愛想良く応えた少女は、窓際の席に案内すると、シックな木製の椅子をスッと引いた。
青年がマフラーとコートを脱いで向かいの椅子に置こうとすると、少女が素早く受け取る。
「これ、お預かりしまーす。」
「ああ、ありがとう。」
「じゃ、奥に掛けといたげますね。いまメニュー持ってくるから、少ーしお待ち下さい。」
親しさと無遠慮さが入り混じった妙な丁寧語に内心苦笑しつつも、青年は 『お願いするよ』 と笑いかけた。
ペコッとおじぎした少女は、心持ち浮ついた足取りで席を離れると、ハルナを呼びに厨房へと向かった。
「ハッルナ〜、お客さまー!注文取ってきて。」
「注文くらい自分で聞いて。いまパンが焼きあがったんだから。」
「ふっふん、いーのかなぁ〜?せっかく来てるのに、いつものカ ・ レ ・ シ。」
その言葉にパンを並べていたハルナの手が一瞬止まったが、気を取り直して作業を再開する。
「何度も言ってるでしょ、あの人はそんなんじゃないって。」
「へぇ〜、どんな人かも話してないのに、それだけで判っちゃうんだぁ。」
「アンタがいつも、そういう言い方するからじゃない。」
含み笑いする少女をジロッと睨んだが、ヤジうま根性旺盛な少女には通用しない。
「ホラホラ、待たしてちゃ悪いでしょ。なんならアタシが聞いちゃってもいーけど。」
「どーせそんな気ないくせに。」
ハルナはいかにも渋々といった風情で薄手のビニールの手袋を脱ぎ、マスクを外す。
「ったく・・・代わりにパン並べといてよね。」
「ウィ!了解しましたー。」
笑顔で軽く敬礼する少女の仕草になぜか嫌な表情をしながらも、壁にかかった鏡に目を走らせ、帽子のずれを確認する。
もともと化粧っけは無い方なので嗜み程度に薄く塗っているだけだが、今日は唇の色が少し気になった。
メニューを小脇に挟むと、水を注いだグラスを持って窓際の席に歩いていく。
「いらっしゃいませ。こちら、メニューになります。」
「やあ、今日は早番かい?」
親しげな青年の挨拶を無視するかのように、日替わりのメニューを書いた黒板へ目を走らせる。
「本日のおすすめは、ナスのピューレを添えた鯛のポアレか、子羊のパイ包み焼きになります。」
事務的に読み上げるハルナの素振りに、青年は当てが外れたような顔で、メニューに視線を落とす。
「えっと・・・そうだな、おすすめの魚料理のほうで。」
「鯛のポアレですね。お飲み物はいかがなさいます?」
「エスプレッソを食後に。」
「かしこまりました。」
くるっと踵を返そうとしたハルナに、青年はやや慌て気味に呼び止める。
「あ・・・ところで今日、何時くらいに終わりそう?」
「そうね・・・・たぶん、6時ごろには。」
「じゃあ、6時半に待ち合わせで、いいかな?」
「大丈夫だと思うけど、遅れそうだったら電話する。」
色よい返事をもらえなくて浮かない表情の青年に、取り繕うようにニコリと微笑む。
厨房に戻ると、カフェの様子を伺う少女とまっ先に目が合った。
「くふふっ、デートのお約束かなぁ?」
「へんなことばっか言ってないで、オードブルの盛り付け手伝いなさい。」
少女のニヤニヤ笑いを無視して、50過ぎの恰幅のいい店主にオーダーを通す。
「なんかハルナさん、機嫌ワルそ〜。」
ハルナは 『誰のせいよ』 とでも言いたげに再び少女を睨んだ。
▼△▼
約束の時間まで残り10分を切ると、ハルナはコートを羽織り、慌てて店を出る。
早番だと5時には終わるが、彼女の場合ディナーの仕込みを手伝ったり遅番の娘への引継ぎをする立場なので、すぐには帰れない。
待ち合わせ場所へは歩いて5分ほどだが、やや駆け足で急ぐ。
彼がいつも、約束の15分前には来て待っているのを知っているからだ。
ハルナが公園中央にある時計台まで来ると、予想通り、白いマフラーを巻いた青年がベンチに座って本を読んでいた。
「お待たせ、いつもご免なさい。」
「別に。僕が来てからそんなに経ってないし。」
青年は読みかけの本を閉じて立ち上がった。ハルナの身長は平均よりやや小柄だが、それでも彼の方が30センチ以上も背が高い。
だが顔立ちはどちらかというと、女性のように優しい。彼はハルナを促すように、柔らかく微笑みかけた。
「どこか行きたいとこある?」
「んー、ちょっとドライフラワーを見たいから、『Q~la-wagon』 に寄っていい?」
『Q~la-wagon』 は花屋だが、他にも一風変わったインテリア製品などが置かれてあり、店内の雰囲気はむしろ骨董品売り場に近い。
この店の主人手作りのアートキャンドルが、最近の彼女のお気に入りだった。
「いいよ、じゃあそのあとスーパーに行こうか。」
「シンジは寄るとこないの?」
「ああ、先に用事は済ませたから。」
シンジと呼ばれた青年は左手を上げ、手に持った本を彼女に見せた。近くに大きな書店があり、彼はよくそこで本を買う。
そのブックカバーに舞い降りた透明の雫が、ポツンと小さなシミを滲ませる。
「・・・雨?」
シンジが見上げると、目に映らなかった細かな氷粒はやがて細雪に変わり、星の無い夜空を白く照らし始めた。
四季を取り戻したここ日本において、雪はもはや珍しいものではない。
「ちぇっ、今日は降らないって言ってたんだけどなぁ、天気予報。」
「本、入れといてあげる。濡れちゃうから。」
「サンキュ、悪いね。」
彼が普段カバンを持ち歩かないせいか、日ごろから彼女は大きめのバッグを携帯している。
受け取った厚めのハードカバーは、ハルナのトートバッグにすっぽり収まった。
「急ごう、マナ。雪がひどくならないうちに帰らなきゃ。」
シンジはそう言って、空になった手でハルナの手を握る。
霧島マナ―――それが三川ハルナと名乗る前の、彼女の本名だった。
▼△▼
買い物を済ませた二人は、バスに乗ってシンジの住むアパートへと向かう。
使徒との戦いから七年が経過し、交通機関はかなり復旧したものの、あの第三新東京都市のようなニュートラムにはまだ及ばない。
そのため、車を持たない市民の足はバスが主流になる。
部屋に入ると、シンジは両手の買い物袋を下ろして中身を取り出す。マナはエプロンの紐を締め、料理に取り掛かった。
「シンジ、ワイン開けといてくれる?このワイン、抜栓して少し置いた方が美味しいのよ。」
「ああ、いいよ。」
1DKの彼の部屋は玄関がすぐダイニングに繋がり、向かって右側には手狭ながら小ぎれいなキッチンが付いている。
マナと付き合うようになってから、キッチンには小型のガスオーブンが備え付けられていた。
シンジはテーブルを軽く拭き終わると、丁寧に拭ったグラスに、深い色合いのワインを注ぐ。
「他に手伝うことない?」
「オーブン温めといて。あとはいいから、座って待ってて。」
返事するあいだも手は休めずに、手早く洗った野菜をサラダ用のボウルへ移す。
フライパンを温めながら鍋に火をかけ、メインディッシュのソースに使うトマトを慣れた手付きで刻み始める。
シンジはオーブンのタイマーを軽めに回したあと、ダイニングの椅子に腰掛けて買ってきた本を開いた。
最近の彼は暇を見つけては本を読んでいる。その多くは、いま大学で習っている科目についての専門書だ。
軽やかな包丁の音をBGMに、段々と本の世界にのめり込む。放っておけば一日中読書に耽ることも珍しくない。
マナがひよこ豆のスープをつくり終えた頃、オーブンから香ばしい匂いが漂ってきた。
「お待たせー。」
焼きあがった鴨肉をオーブンから取り出し、お皿に切り分ける。
料理を盛り付けたお皿をテーブルに運んで来たとき、シンジはまだ本に没頭していた。
さりげなく後ろから覗くと、見開きのページには幾何学的な図形が精緻に描かれ、ところどころフランス語で注釈が入っている。
「なにこれ?設計図かしら。」
「・・・うん、有名な現代建築の図面を集めたやつでね、解説文が詳しいから参考になるんだ。」
「へー、これもビルなんだ?まるで半分に切ったソーセージみたい。」
ミサイルの先端のような建造物が写った写真を指差しながら、マナは率直な感想を述べた。
現在シンジは市内の大学に通っており、建築学を専攻している。
サードインパクトの脅威も去り、エヴァのパイロットという責務から解放されたチルドレン達は、その後三年間、NERVで教育を受けた。
戦いが終わったのちどう生きていくか、人生の指針を立てるための準備期間を設けさせたのである。
三年が過ぎ、建築に興味を持ったシンジは、自らの意志でこの街の大学へ入学した。
その時点ではまだ、マナが同じ街に住んでいたとは知らない。再び彼女と巡り逢えたのは、全くの偶然だった。
「熱中するのはいいけど、お料理冷めちゃうから後にしてね。」
「ああ、ごめん。」
エプロンを外したマナが食卓に着くのを待って、シンジがワイングラスを掲げる。触れ合ったグラスが澄んだ音を奏でた。
ナイフで切り分けた肉を頬張るシンジを、マナは心持ち緊張した面持ちで見つめる。
「お昼は魚だったでしょ、だから鴨を使ってみたんだけど、どう?」
「いいね、とっても美味しい。」
率直な笑顔を見せたシンジの感想に頬を緩めると、自分も一切れ口に運ぶ。
料理する人にとって、美味しいと喜んでくれるのが一番嬉しい。好きな人から言われたのであれば尚更だ。
「うん、我ながら上手く焼けてる。でももう少し、ソースの味付けを濃くした方が良かったかしら?」
「そうかな、僕はこれで丁度いいけどな。」
「ま、シンジが満足してるんならいっか。」
最初マナは出来具合いをチェックしながら食べていたが、彼のお墨付きを貰ったので、味わうのに専念することにした。
食事を進めながら最近の出来事を楽しげに話す彼女に、シンジは安堵したような視線を向ける。
「よかった、機嫌良さそうで。昼間会った時は、どこか虫の居所でも悪いのかと思ったよ。」
「だって、あれはミキが―――。」
「ミキってあの新しく入ってきた娘?」
「そ。あたしたちが付き合ってるのに勘付いてから煩いんだもん、シンジが来ると。」
帰り際のことを思い出したのか、マナが不機嫌そうに眉根を寄せる。
「こっちは早くあがりたいのに、何処に行くんだとか服装が地味だとかお化粧がどうだとか・・・余計なお世話だっつーの。」
「ああ、それでか、店で見たときと感じ違うなって思ったのは。口紅変えたんだ。」
「これは違うの。あたしも気になってたから少し明るめに塗り直しただけ。」
多少ぶっきらぼうに答えながらも、内心で恋人が些細な変化に気付いてくれたのを嬉しく思う。
なにせ細かいお洒落に気付いてもらうなど、マナと再会した時点のシンジには望むべくもない能力だったから。
「でもいい娘そうじゃない、明るいし。」
「良いコだっていうのは認めるわよ。だからって欠点が無いわけじゃないけど。」
「そりゃあね。でも彼女と話してると、なんとなく初めて会った頃のマナを思い出すよ。」
「えーっ、アタシあそこまでノーテンキじゃなかったわよぉ。」
大げさに否定するマナにシンジは苦笑いをして見せた。お互い、本気で言ってるわけではない。
「そもそも、彼女がああ纏わりつくようになったのも、シンジのせいですからね。」
「え、なんで?」
「前にお店に来たとき、あたしを 『マナ』 って呼んだでしょ。」
「ごめん、あのときはうっかりしてた。ついいつもの調子が出ちゃってさ。」
「あのあと彼女に、どういう意味かしつこく訊かれちゃたんだから。ま、ただのあだ名よって誤魔化したんだけどね。」
そのときミキには古い友人だと説明したのだが、一方的に恋人だと決め付けられてしまった。事実、その通りではあったが。
別に隠す必要はないが、かといって大っぴらにすることでもないし、本当のことを話したら更に根掘り葉掘り訊ねてくるに違いない。
「今も適当にごまかしてるけど、シンジがお店に来た日なんか、大抵そんな調子よ。」
「もしかして僕、あんまり店に顔出さない方がいいのかい?」
「あ、そういう意味じゃないの。どうせ彼女、シンジが来なけりゃ来ないで、またうるさく質問攻めにするだろうし。」
正直なところ、ミキの彼に対する応対がいまひとつ気に入らない。普段より一ランク以上は愛想がレベルアップしてるのだ。
もちろん、バカバカしいやきもちだとは自分でも思う。
「それにお得意さまを減らしちゃうと、ウチの店長に怒られちゃうからね。お客様は神様ですから。」
「なんだか、店の売上だけが心配なように聞こえるんだけど。」
「まさか、そうなったらあたしだって心配するわよ。知らない間にどこかの女の子と付き合ってるんじゃないか、ってね。」
悪戯っぽい笑みを浮かべてピッと指を差すマナに、シンジは情け無さそうな顔をした。
「ひどいなぁ、そんな風に思われてたのか。」
「フフ、冗談冗談。」
笑顔で否定したが、実際、似たような不安が無いとは言えない。
シンジがどうこうというより、マナの心の片隅で、彼がいなくなるのを密かに怖れていた。
「・・・マナ、そろそろ本名を明かしてもいいんじゃないか?」
「え?」
「もうあの頃とは違うんだし、軍部だって、いまさら探し出してどうこうとかしない筈だ。」
マナが偽名を使ってるのも、そもそもは脱走した軍に悟られないための用心だった。
だが、彼女が行方を眩ました後も戦闘の局面は激化する一方で、行方不明になった少年兵ひとりに構ってる暇などなくなった。
戦争が終結したいま、国連をはじめ軍部も戦後の復興で手一杯だし、平和へ向け多数の国際協定が新たに締結されている。
世界規模で人道主義運動が盛りかえす中、未成年者に対する保護条令の一つとして、少年兵制度も禁止された。
今は個人の生きる権利が尊重される時代で、少年兵などは過去の暗部でしかない。それを自ら蒸し返すことは、軍もすまい。
「うん・・・今はもう、そんな心配はしてないわ。でも・・・・・・。」
「でも?」
「・・・・・わたし、いえ、霧島マナは、死んだことになっているから。」
脱走兵として追われることのないよう死亡を偽装し、彼女は名前を変えた。
戸籍もその時に抹消している。それは彼女が過去と決別するための、大きな代償だった。
「・・・ご免。やっぱりまだ、君にとっては辛い話だった。」
「そうじゃないけど、三川ハルナでずっと問題無かったんだし、いまさら本名なんて名乗っても周りが混乱するだけよ、きっと。」
マナはこちらへ移り住んでから、出会って来た人たちを思い浮かべた。
詳しい事情も訊ねずに引き取ってくれた老夫婦、16になったばかりの自分を雇ってくれた店長、バイト先の娘たち・・・。
学校には行けなかったが、働くのが嫌だと思ったことはない。
「ずっと隠れてたようなものだから、親しい人はそんなにいないけど・・・・・でも、みんな良い人たちばかりだった。」
そしていまは、シンジがいる。それが何より嬉しい。
「でもね・・・・矛盾してるかもしれないけど、シンジにはマナって呼んで欲しい。ハルナって呼ばれたくない。」
「マナ・・・・・・。」
その理由を知ってるシンジは、神妙な顔のまま黙りこくる。こうなってしまった経緯を思うと、彼にとっても忍び難いものがある。
暗い表情を見せるシンジに、マナは笑顔を作って見せた。
「もうそのことはいいの。今はこうして、昔のわたしを知ってくれてる人が傍にいるんだし、それで充分。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「さ、食べましょ!だいぶ冷めちゃったから。」
陽気な声で、空になったシンジのグラスにワインを注いだ。
▼△▼
夕食の後片付けを済ましたあと、マナ手作りのデザートを食べながら二人は雑談に興じていた。
楽しい時間はいつも駆け足で急ぐ。ふと時計を見ると、最終バスの時間が迫っていた。
「今日、泊まっていける?」
「ん〜、そうしたいけど、明日も早番なの。」
店がオープンするのは朝の7時。それまでに下ごしらえを終える必要があるから、5時には入らないといけない。
シンジの家から通うとなるとバスを使う必要があるが、その時間はまだ運行していない。あいにく彼は車を持っていなかった。
「ごめんね、また今度。」
コートを羽織った彼女は申し訳なさそうに謝りながら、帰り支度を始める。
「ところでマナ、来週の木曜は空いてるかな?」
「ええ、大丈夫だけど。」
木曜日はお店の定休日だし、シンジの方はまだ学生だから、いくらでも都合がつく。
「旧第三新東京のタワービルをまた見学に行くつもりだけど、一緒にどう?」
「あぁ、去年観に行った所よね。もう完成してたんだっけ?」
「竣工は8月だけど、ほとんど出来上がってるらしい。今度は中も観させてくれるって言ってた。」
「工事はまだ終わってないんでしょ?私がくっ付いてっていいのかしら。」
「それなら大丈夫。二人分の許可はとってる。」
シンジ本人は一介の学生だが、現在は都市復興計画の中核を担ってるNERVとの繋がりを使えば、かなり融通は利く。
彼の学費や生活費などもすべてNERVが負担しており、チルドレン達に対する生活保証は、生涯支払われることになっている。
もっともアスカは 『あの戦いの報酬のつもりなら安過ぎるわよ』 と皮肉を言ったが、身寄りのない三人にとって有難い措置ではある。
シンジ自身はあまり権利を乱用するまいとは考えているが、それでも今回のように、多少は活用させてもらうこともあった。
「行くもなにも、最初からそのつもりなんでしょ。」
「え・・・いや、その、駄目かな?」
やや困惑した表情でいまさら都合を伺うシンジに、内心可笑しくなった。
付き合い始めて分かったのだが、彼は意外に先走る性格のようで、手回しよく準備してから 『どう?』 と訊ねてくる。
相手の都合を考えないのではなく、約束だけ先に交わしてもし駄目になった場合、後から断るのが申し訳ないとでも思ってるのだろう。
「いいよ。別に、用事もないし。」
「・・・あの、それって本当は行きたくないって意味?」
「もうっ!あたしが 『いいよ』 って言ったときは 『行きたい』 ってこと!」
マナはデートコースに拘るほうではない。正直、建築には興味無いが、シンジと一緒にいられるならどこだっていいのだ。
(どうしてまだ、それが解らないのかしら・・・・ほんと、朴念仁なんだから・・・・。)
落ち着きも出て自信も出来て、昔にくらべれば遥かに社交的になったのに、こういうところの疎さは相変わらずらしい。
「良かった。じゃあ、バス停まで送るよ。」
「大丈夫よここで。すぐそこなんだし、雪ももう止んじゃったみたいだから。」
そう答えるとバッグを手に持ち、玄関へと向かう。
靴を履くため下を向くと、紅茶色のショートヘアに隠れていた襟元から、色白のうなじが露わになる。
シンジはハンガーに吊るしておいた自分のマフラーを、彼女の細い首すじにふわりと掛けた。
「外は寒いから、気をつけて。」
「ありがと。」
真っ白なマフラーをさっと首に巻くと、軽く口づけを交わす。
ドアを開けたまま見送るシンジに、マナは明るく手を振った。
▼△▼
「いってきます。」
冷え込みが一層厳しくなった2月のある日、家の掃除を終えたマナは老夫婦に声を掛けてから仕事に出かけた。
今日は遅番なので、11時に店に入ればいい。店までは歩きで、マナの足だと30分少々掛かる。
この街に移ってからは、市内の外れにある老夫婦の自宅で、部屋の一画を間借りしている。
マナを軍から逃がすとき、用心深い加持は自分の直接の知り合いを避け、信頼出来る者から人づてに彼女の身柄を任せた。
その人の遠い親戚ということにして、当分なら面倒を見てもいいという奇特な老夫婦が彼女を預かってくれた。
見ず知らずの自分を置いてくれるのが不思議だったが、聞けば昔、セカンドインパクトで息子夫婦の一家を亡くしたらしい。
まだ引き摺っているものがあるのだろうか。それ以上、訊ねることは出来なかった。
二人とも、マナの前歴を一切知らない。マナも事情を話してはいない。
それは万が一、軍に発見されたときに迷惑を掛けないための配慮であり、彼女自身も余計な心配を二人に掛けさせたくなかった。
いざとなれば黙ってここから失踪する心積もりだったので、来た当初は彼女のほうで一線を引いた態度で接した。
今はそのような心配はまず無いとはいえ、その接し方は変えられず、完全に打ち解けるまでは到ってない。
それでも、マナは二人に心から感謝している。得体の知れない自分のようなものを、ずっと置いてくれているのだ。
学校へ行く余裕は無かったが、自分が寄宿している分の負担を減らそうと、むしろ率先して働き始めた。
状況が変わった今はすぐにでも家を出るべきかもしれないが、戸籍のない身だと就職は勿論、部屋を借りるのにも苦労する。
実際、店主からずっと店で働く気はないかと持ち掛けられたことがあったが、正式雇用されるには、やはり身分証明が必要だ。
幸い、老夫婦もマナを気に入ってくれているようなので、二人の厚意に甘える形で現在に至っている。
バレンタインデーという行事を目前に控え、マナは店が終わったあともチョコレート作りに余念がない。
2月のこの時期はクリスマスに次いで、お菓子作りがもっとも忙しい。
毎年、期間限定で出すバレンタイン用のチョコレートケーキが人気で、予約の数も年々増えている。
基本となる味は変えないが、毎年少しずつアレンジはしている。今日もリキュールの配合を変えたりするなど、工夫を重ねていた。
閉店後の厨房では、チョコレート作りに勤しむマナをよそに、試し焼きしたケーキをミキが片っ端からパクついていた。
「ミキ、試食だからって、ちょっと食べすぎじゃない?」
「だって、ハルナの作るケーキ美味しいんだもン。」
「太るわよ、あんまり食べると。」
「だいじょーぶ、この程度でデブるんならハルナなんかとっくにデ・・・ぃてッ。」
向こうをむいたまま軽口を叩くミキの後頭部を、泡だて器を持った手でコツンとなぐる。
「アンタはいつも、ひとこと多いの。」
「ふぁ〜い。ところでさっきからさぁ、なに作ってんの?」
「チョコレートムース。同じものばかり作ってたから、ちょっと変えてみようと思って。」
ふーんとマナの手元を覗き込んだミキは、ボウルの中身を素早く指ですくい取って味見した。
「あ、おいしー!ねえハルナ、これでアタシのバースデーケーキ作ってよ。」
「うーん、ムースだからあんまり大きいのは無理だけど・・・・。」
真面目にサイズを検討していたマナだが、一拍置いて気付いた。
「えっ、バースデーケーキ?」
「そ。アタシの誕生日、バレンタインと同じだもん。」
「そうなんだ。いいじゃない、憶えやすくて。」
「良くないよぉー!いつも一緒に誕生日祝ってくれた親友が 『今年はカレシと一緒だからゴメンね』 なんて言ってくれちゃうしさぁー。」
すげぇショック、と大げさに嘆くミキを、マナは苦笑しながら宥めた。
「ミキも素敵な人が見つかったら、バレンタインと一緒に祝えばいいじゃない。」
「そーかぁ・・・やっぱ今のうちに、ちゃんと告白してキープしとこうかなぁ。」
「なんだ、気になる人もういたの?」
何気なく投げかけたつもりの言葉が、ミキの表情を曇らせた。
「・・・・いるよ、年上だけど・・・・背が高くて、物静かで、毎週このお店に来てくれる人・・・・。」
ポツリと告白すると、マナの視線から逃れるように目を伏せる。
普段見せたことのない彼女の突然の表情に、マナも困惑した。
「・・・・あたしに会いに来てるんじゃないと思うけど・・・・でも誰かさんは、付き合ってないって言うし・・・・。」
「まさか―――。」
脳裡に恋人の顔が浮かび、嫌な予感が胸に広がる。
「本当に・・・・彼氏じゃないんだよね?ハルナ。」
真剣な眼差しを向けられ、心臓が激しく早鐘を打つ。
「それは・・・・・・た、確かに、そうは言ったけど・・・・・・。でも、でもシンジは―――。」
やっとの思いで口を開いたが、しおらしげなミキの表情を見てると、それ以上切り出せない。
今更ながら、本当の事を彼女に告げなかったことを悔やんだ。
「・・・・ぷっ、あはははははっっ!!やっぱそーなんだぁーっ!」
くるりと表情を変え、お腹を抱えて爆笑するミキに、訳が分からず呆然とするマナ。
「いや〜、ずっと気になってたんだけど、やっぱ付き合ってんじゃん。ハルナさんってば隠しちゃってもー!」
「ミキ・・・・・・あんたねぇ・・・・・・。」
ようやく演技だったことに気付いたマナは怒るのを通り越して、もはや呆れ果てた。
「『シンジ』 とか呼び捨てにしちゃってぇ。今度お店に来たら 『いらっしゃいませぇシンジぃ』 とか言って上げたほうが・・・ッイデッ!!」
今度はミキのおでこに、手加減抜きでゲンコツを落とす。
「イタいってばぁっ!!ホンの冗談なのにぃ〜。」
「タチ悪すぎっ!もうケーキ作ったげない!」
「あっゴメンなさいウソです謝りますから機嫌直してハルナちゃ〜ん!」
あまりの騒がしさに堪えかねた店主がカミナリを落とすまで、二人の掛け合いは続いた。
▼△▼
「・・・で、結局作ることにしたんだ?ケーキ。」
「だって、ミキがしつこいんだもん。」
キッチンに立つマナに、シンジは半ば笑いながら訊ねた。
約束の木曜日の前日、仕事を終えてからシンジのアパートに寄ったマナは、店で出来なかった分を台所を借りて作り始めた。
シンジからすれば、愚痴をこぼしつつも彼の家に来てまでケーキの試作をする彼女の律儀さの方が、妙に可笑しい。
「マナ、やっぱり料理は楽しい?」
「そりゃあね。好きじゃなきゃここまでやってないと思う。」
振り向かずに答えながら、泡だて器の先でメレンゲの角の立ち具合を真剣にチェックする。
いちおう満足すると、今度は生クリームに取り掛かった。
「でも将来お店を持とうとか、そこまで考えたことは無いの。いまは楽しいし、熱中出来るからやってるだけ。」
「将来・・・・・か。」
そう呟きながら、ボウルをかき混ぜるマナの後ろ姿をぼんやり見つめた。
「シンジは進路決まったの?もう就職活動はしてるんでしょ。」
「まあ、ぼちぼちかな。」
別に今まで遊んでいたわけではないが、来年卒業となるシンジにとってこれからが忙しくなる時期のはずだ。
彼のことだから、とっくに考えてるものだとばかり思っていたマナには、少々予想外の返事だった。
「意外と呑気なのね。」
「うん・・・ちょっと迷っててさ。実は最近、大学院に進もうかとも考えてるんだ。」
「え?」
「もっと深く建築の勉強を掘り下げたいんだ。いま習っている現代建築だけじゃなく、いろんな技法をね。」
コップを持って立ち上がると、サイフォンから涌かしたてのコーヒーを注ぐ。
一口啜り、まだ細かな気泡が浮かぶコップの中をじっと覗いた。
「でも、早く現場について働きたい気持ちもあるし・・・・・。駄目だな、ふらふらして。ちっとも進歩してないや、自分。」
やや自嘲気味に呟いたシンジの傍に、マナがボウルを抱えたまま近づいた。
「一生のことだもん、迷うの当然よ。しっかり悩んで、ちゃんと答えを出せばいいじゃない。」
「・・・そうだな。」
思い詰めるような表情のシンジの口元に、チョコレートクリームがたっぷりついた指をハイッといわんばかりに突き出す。
「ほらっ、口あけて。」
「え?・・・・あ、ああ・・・・。」
軽く開いた唇の隙間をマナの人差し指がスッと滑り込み、甘い味わいが舌の上で溶けた。
「どう?いける?」
「・・・うん、甘過ぎないし、ふわっとしている。」
マナも自分の指をペロッと舐めると、満足げに頷く。
「よしっ、合格!これでいこっと。」
鼻唄を歌いながら踵を返すと、出来上がったクリームを型に移し、冷蔵庫で冷やす。
ややもすると深刻になり過ぎる自分を気遣ってくれたのだと、シンジは今更ながら、彼女の心配りに感謝した。
「本番ではこのムースをスポンジの土台に乗せて、ホワイトチョコで固めようと思うの。」
「へえ、おいしそうだ。」
「なんならシンジのバースデーケーキも、これにしよっか?」
「いいね、お願いしようかな。」
「・・・・でね、ちょっと言いづらいんだけど・・・・。」
その日のミキのホームパーティに、マナも呼ばれたらしい。
「毎年二人で過ごしてた日だけど、なんか断りきれなくなっちゃって・・・。」
「いいよ、行ってあげなよ。」
そう答えながらも、笑顔で感謝するマナをやや複雑な面持ちで見つめる。
マナと付き合い始めた最初の年、シンジは彼女の誕生日を訊ねたことがあった。
『あたしの誕生日?4月11日よ。・・・公称はね』
『公称・・・?』
『そ、本当は誕生日なんて、よく判らないの』
更にマナが云った言葉はシンジを驚かせた。軍に拾われる前は実は孤児で、施設で預けられていたという。
『でも中学の頃、第三新東京へ来たときは確か、両親はいるって・・・・・・』
『戸籍上の、名前だけ借りた両親がね。心配し過ぎで病気になっちゃうような親が本当にいたら、自衛隊なんか入るわけないじゃない』
戸惑う彼にむしろ明るく告白したが、昔を思い出したのか、不意に口調が翳りを帯びる。
『戦自には、似たような境遇の少年兵が沢山いたわ。同じ施設じゃなかったけど、ムサシやケイタもそうだった・・・』
マナという名前は施設に拾われたとき、辛うじて名乗れたらしい。着てた服にも ”Mana” と刺繍が入ってたので、まず本名に違いない。
が、それ以外は彼女の記憶もおぼろげで、両親の顔も憶えていない。
霧島という苗字すら、便宜上あとで付けたものである。
『なんで施設に預けられたのか、分からない。生活が苦しかったのか、死んじゃったのか、嫌われちゃったのか・・・・・・』
誕生日を4月11日とした理由は、自分が孤児院に入った日だったからだと、後に教えられた。
『4月11日は、私が捨てられちゃった日・・・・・・だから、誕生日を祝おうなんて気にならないの』
シンジもずっと父親から打ち捨てられていた。その父も今は亡く、肉親は少なくともこの世にはいない。
自分も子供の頃は同じ気持ちだったので、彼女の孤独は良く解る。一人でケーキを食べても空しいだけだ。
ただ、昔の自分と違い、マナは他人の誕生日は一生懸命祝ってあげようとする。
それは純粋に彼女の優しさであり、それゆえに、痛々しくも映った。
▼△▼
翌朝、早めに朝食を済ませた二人は7時ごろアパートを出立した。
目的地へ行くにはモノレールから幹線へ乗り継ぐ必要がある。まだ旧第三新東京行の本数が少ないため余裕を持って出た。
少々寝不足気味のマナは、身体をややシンジの方にもたれ掛けさせ、うとうとしていた。
シンジは例によって本に目を通していたが、目的地が近づくと感慨深げに窓の外を眺める。
戦略防衛都市として当時の技術の粋を集めた第三新東京都市は、未だその大部分が焼け野原のままだ。
ジオフロントも完全に瓦礫の下に埋まり、そこに辿り着く道はもはや閉ざされてしまった。
シンジはそれでいいと思っている。もう二度と、人類の目に触れさせてはいけない。
コクリコクリと眠りが深くなるマナに申し訳なさを感じつつ、軽く肩を揺さぶる。
「ほら、もうすぐ着くから。」
「・・・・・・ん・・・・・・。」
まだ眠そうに目を擦ってたが、荒涼と広がる戦いの跡地に彼女の目もまた、外の景色へと吸い寄せられた。
昨年、シンジに連れられて何年か振りにこの地を訪れたときは、記憶に残る風景とのあまりの落差に、しばし呆然となった。
街も山も湖も何も無い、真っ平らな地面。爆発の中心部はクレーターのように抉れ、戦いの激しさを物語る。
仮にもしあのとき、自分がまだここに居られたとしても、まず間違いなく死んでいただろう。
慄然とすると共に、彼がよく生き伸びてくれたものだと涙ぐむ思いだった。
窓の外に細長い八角柱の建物が映った。あれが目指すタワービルである。
「すごい・・・・キラキラしてる。」
タワービルは高さ約190m、旧第三新東京都市再生計画の一環として、二年前に建造が開始された。
以前のような要塞都市としての役割は必要ないので、建物の外装はほぼすべてガラス張りされている。
そのため、太陽の光を反射してビル全体が輝いているように見える。
「荒地の海原にそびえる灯台といった感じかな。近づくともっと圧倒されるぞ、きっと。」
嬉しそうに呟いたシンジの横顔を、チラリとマナは盗み見た。
最寄りのターミナルを降りた二人は専用バスに乗り換え、タワービルへと向かった。
以前訪れたとき、ビルの周辺はまだ土が盛り上がっているだけだったが、降車場も含め現在は見違えるほど整備されている。
ビルを案内するのは酒匂という赤ら顔の男で、シンジとは顔見知りなのか、親しげに話しかけてきた。
聞けば、ここの現場監督だという。去年シンジがビルの見学を頼みにいったとき会ったそうだ。
「こんにちは、お二人さん。中は殆ど出来上がってるけどまだ作業中のところもあるから、俺の後に付いて来てくれるかな。」
酒匂は顔に似合わず愛想よく挨拶すると、二人にヘルメットを手渡した。
吹き抜けのホールに足を踏み入れたとき、無機質なビジネスビルを想像していたマナは、大胆な曲面で構成された内装に驚いた。
空間を最大限以上に広く見せるよう、天井はなだらかなアーチを描いて斜めに伸び上がり、緩いカーヴが切れ目なく次の階へと繋がる。
ガラスをふんだんに取り入れた設計は光の反射を緻密に計算し、最低限の常備灯しか点けてないにも関わらず、屋外のように明るい。
特に目を惹いたのがホール中央の、中10階をぶち抜いて造られた螺旋階段である。
足場はすべて特殊な色ガラスで作られ、下から見上ると渦が天に向かって駆け昇るように見える。
「上ってみるかい?」
「え・・・でも、いいんですか?」
「なあに、シートを破らなきゃ大丈夫。」
遠慮しようとしたマナだが、シンジも折角だからと勧めたので、三人で上り始めた。
足場となるガラス板はまだ表面の保護シートが剥がされていない。ヒールを履いてこなくて良かったとマナは思った。
「ちっこい照明を手摺のあちこちに仕込んでてね。今はまだ点けられないが、ライトアップすりゃもっと綺麗だぜ。」
「へぇ〜、豪華でしょうね。」
お世辞でなくマナは言った。素人の彼女でさえ、その造形美にしばし惹きこまれたほどだ。
シンジの希望で、一番上まで上がってみる。10階に辿り着いたときは、さすがに脚が痛くなった。
ここから上へはエレベータを使うが、その前にざっとフロアを見学した。
三メートル近くある大きな窓からは外が一望出来る。が、いまはまだ、どこを向いても荒地しか見えない。
遥か向こうに、ターミナルが伺えた。あの駅からここまで、バスで15分ほどかかる。
「ずいぶん駅から遠いんですね。」
「都市計画の都合ってヤツでね。お偉いサン方が、ここに建てようって決めたのさ。」
「でもどうして、まだ何も無いのにこんな大きなビルを建てるんですか?」
「いや、でけえやつを先に廻したほうが斜線規制がなくて楽なんですよ。後でちっこいのを建てる為の日照の調査もやり易いし。」
何も無いと口を滑らせてバツの悪そうな顔をしたマナだが、酒匂は気にした風もなく答えた。
「ところで酒匂さん、このビルが完成しても、さしあたっては研究施設として使う予定しかないと聞いたんですが。」
「まあ当分、この辺りに人は住めんでしょう。一流ブランドの店が入っても恥ずかしくねえよう造ったんだけどなあ。」
少し表情が沈んだシンジに、それでもいつかはきっとそうなるはずだと陽気に肩を叩いた。
「でも、こんな大きな建物だと地盤は大丈夫でしょうか?不同沈下の心配とか・・・。」
「そりゃ元々でっけえ空洞があったうえ、爆発でズタボロの地面の上に建てようってんだ。基礎計算は特別みっちりやり込んださ。」
我ながら生意気な質問をしたものだとシンジは赤面したが、酒匂は好意的に笑った。
「ま、訊きたいことがあったらなんでも構わないよ。教えられる範囲でしか答えれんけどね。」
「有難うございます。」
口調はざっくばらんだが丁寧に教えてくれる酒匂と並んで歩きながら、シンジは熱心に話を伺う。
自然、マナは後ろからついて歩く形になる。屋内を観るのに飽きてくると、話し込むシンジの後ろ姿を見つめた。
臆病で引っ込み思案で、何より人との接触が苦手だった少年の背中が、いつの間にかあんなにも広くなった。
そのことに喜びを感じながらも、出来れば彼の隣で成長を見守りたかった、そんな想いも心をよぎる。
窓の外に目を移すと、地上10階のこの高さでさえ、果てしなく広がる荒地の向こう側に地平線が望む。
(ここに人が住めるようになるのは、いつのことのかしら・・・?)
マナはふと、以前この場所へ来たときのことを思い出した。
去年の春、二人がこの地に訪れたときはまだ着工したばかりで、見学はビルの周囲を徘徊するだけに止まった。
マナはビルよりも、久しぶりの第三新東京都市に興味があった。
だが、予想を遥かに上回る荒涼たる風景に、しばらく声を失うほどの衝撃を受けた。
(みんな消えちゃったんだ・・・・・・山も湖も、学校もシンジが住んでいたマンションも・・・・・・何もかも・・・・・・。)
ほんの短い間の滞在だったが、この街はマナにとって最も印象深い場所だった。
楽しかった思い出、人知れず悩んだ苦しみ、身を切られそうなほどの哀しみ―――生涯、忘れる事などない。
双眼鏡で工事の様子を眺めていたシンジと離れ、しばらくは辺りを散歩した。歩いても歩いても荒野だった。
気の済むまで歩こうと思ったけど、いくら歩いても気が済まないので、止めた。
いつの間にか、かなり遠くまで来たらしい。後ろを振り返ると、あれだけ巨大な建造物が鉛筆の芯のように細く頼りなく見える。
急に不安になり、マナは来た道を引き返す。しばらくしてプレハブ小屋が見えてきた。
周りを見回したがシンジの姿は見えない。工事現場の喧騒の中、自分が全く別世界の、場違いな場所に戻ってきた気がした。
彼を探しているうち、偶然、荒れ果てた褐色の大地にほんの小さな緑点が目に入った。
(何だろう・・・?)
なんとなく気になって近づく。よく見ると緑だけではない、鮮やかな黄色の花も咲いていた。
(タンポポだ・・・・・・。)
焼け跡の黒ずんだ土地に、ひっそりと、一株だけ根を下ろしていた。
恐らく、どこからか飛んできたのだろう。辺りを見回しても他のタンポポはおろか、草木一本無い。
枝分かれした何本もの茎の先には、愛らしい花と、綿毛が散りばめられている。
マナは顔を近づけるようにしゃがむと、その素朴な美しさにしばし時を忘れたように見入った。
(良かった・・・・・。)
たった一株だけの小さな植物。それでも、この土地に生命は息づいているのだ。
「マナ・・・?」
背後からシンジが声を掛けるまで、彼が来たのに気づかなかった。
「シンジ、見て。こんなところにタンポポが・・・。」
嬉しそうに振り向くマナの隣にしゃがむと、まじまじとタンポポを見た。
「本当だ。驚いたな、この辺りには何も無いのに。」
「遠いところから飛んできたのよね、きっと。」
マナは、小さな一本の綿毛が風に乗って長い長い距離を旅して、やがてこの地に辿りつく光景を想像してみた。
風任せの、行く先もしれない心許ない旅。その孤独さを思いやると共に、あらためて植物の生命の強さに感動した。
「・・・凄いよね、タンポポって。」
「うん、建築の勉強をし始めてから、自然っていかに複雑な形をしてるかが分かったんだ。この綿毛の球体構造なんか・・・。」
「そういう意味じゃなくて―――。もう!ほんっとシンジってば、建物のことばっかりなんだから。」
つんと顔を背けるマナに、ようやくシンジは彼女の云いたかったことに気付いたらしい。
ひとしきり謝った彼は、地面に腰を下ろしてタンポポの花弁を見つめてたが、
「マナ、僕がなんで建築を専攻したかって、話してたっけ?」
と、独り言のように口を開いた。
「ううん、そういえば聞いたことなかったな。」
マナも同じように腰を下ろすと、その先を促すように顔を向けた。
「・・・戦争が終わったあと、僕は綾波やアスカたちと一緒にNERVの教育を受けた。けど、皆で同じことを学んだわけじゃないんだ。」
NERVはまずチルドレンらのメンタルケアを最優先し、衰弱した彼らの心的疲労を取り除くのに腐心した。
その後、様々な分野の中で各々が自ら進む道を見出せるよう、慎重に配慮しながら教育を行った。
レイは早くからバイオテクノロジーに興味を示し、アメリカのマサチューセッツ工科大学へ進学する道を選ぶ。
アスカはユングやアドラーに傾倒したすえ、臨床心理学を主とした医学分野へ進むことを決意し、オーストリアへ留学した。
そんななか、シンジだけは自分がどの道に進むべきなのか、ずっと迷っていた。
「なにせ、彼女らは飛びぬけて優秀だったからさ、僕ひとりが取り残されたような気分だった。」
NERVでの義務教育期間が終わろうとしても、まだ決められない。
焦るシンジに、レイやアスカは本当にやりたいことが見つかるまで一緒に勉強しようと勧めてくれたが、それも断った。
「二人とも自分の進む道を、単なる興味本位で選んだわけじゃない。そんな所に僕が行っても、落ちこぼれるのは目に見えてたしね。」
それぞれが自らの過去を省みた上で、前へ踏み出そうと決めたからこそ、意味を持つ。
そう話すシンジの言葉の一つ一つを、マナはひたむきに聴いていた。
「ちょうどその頃だったな、第三新東京の封鎖が解除されたのは・・・。まだ一般には公開されてなかったけど、来てみたくなったんだ。」
現在のNERVの責任者である冬月とリツコに依頼して、特別に入ることを許された。
「わかってはいたけど、改めてここへ来て呆然とした。まるで死の世界のようだった。」
戦いの間は生き延びることだけに必死で周りを見る余裕など無かったが、平和が戻ったとき、失ったものの大きさに愕然とした。
「本当に、何もなかった。僕達が住んでた家、学校、NERV・・・・・・その時の気持ち、解るよね?」
マナは無言のまま頷いた。自分でさえあれほど衝撃を受けたのだ。彼の心痛は、いかほどだったであろう。
「モノって簡単に壊れちゃうんだなって、つくづく思った。そして、造り直すのがどれだけ大変なのかも・・・・。」
いつの間にかシンジの中で、第三新東京都市こそが自分の故郷になっていた。
辛いこと苦しいことも含め、自分のすべてがこの街と共にあったから。
「いつか、此処にまた住みたい・・・。いや、人が住める街を取り戻したい。」
彼はそこで言葉を切ると、すこし照れたような笑顔をマナに向けた。
「―――だからなんだ。僕がこの世界へ飛び込もうって決めたのは。」
マナは惹きこまれた様に、じっと彼の瞳を見つめる。
様々な葛藤を乗り越えたすえ手に入れたその瞳の強さが、いまの彼女にはとても眩しい。
「きっと出来るよ、シンジなら―――。」
大きくなった彼の手を包むように、そっと掌を重ねた。
(そういえば・・・あのタンポポ、どうなっただろう?)
窓の外を見下ろしたが、人工的に植えられた植物以外、緑は見当たらない。
この高さでは見えるわけないかと思ったが、眼下の風景を眺めるうち、あることに気付いた。
「マナ〜〜。」
窓際に佇む彼女を呼びに、シンジが戻ってきた。
「ご免、ずっと放ったらかしにして。」
その声が聞こえてないはずはないが、彼女の背は凍りついたように動かない。
と、突然マナは振り向くと、螺旋階段へと駆け出した。
「おい、どうしたんだよっ!?」
驚いたシンジが反射的に手を伸ばしたが、彼女は一目散に階段を下りる。
10階から一気に駆け下りたマナは、ゼェゼェ息を切らせながらビルを飛び出し、去年のあの場所へと急ぐ。
記憶を頼りに辿り着いた辺り一帯は、今はもう、だだっ広いだけの駐車場に変わっていた。
(確か、此処にあったはずなのに・・・・・・。)
タンポポが咲いていたはずの地面も一面舗装され、雑草一つ生えていない。
恐らく駐車場を作る際に、根っこから掘り返されたのだろう。
(折角、咲いてたのに・・・・・・・。)
哀しげな瞳で、足下を見つめる。そこはただ、荒れ果てた大地が、固いアスファルトに変わっただけだった。
「・・・・・マナ・・・・・。」
後を追いかけてきたシンジの呼びかけも、立ち尽くす彼女には届かなかった。
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