< マナ 誕生日記念 >
「 タンポポ(下) 」
2月14日当日、ミキの誕生会を終えたマナは、暗くなった帰り道をひとり歩いていた。
パーティに出たのは他に5人ほどで、いずれもミキと同学年の女の子たち。当然ながらミキ以外知り合いはいない。
最初は彼女らに交じってお喋りしてたが、だんだん仲間うちだけで固まるようになり、そのうちマナと話す相手がいなくなった。
年齢的な差もあるのだろうが、それよりも学校生活に殆ど馴染みのないマナは、会話についていけない。
今更ながら自分が、普通の暮らしというものから縁遠かったことを思い知らされた。
それでも最後まで残っていたのは、自分の分まで祝ってあげたいと思う気持ちが、心の中にあったのかもしれない。
(シンジ・・・何してるだろ?)
少し前にバスの中でメールを打ったが、返信はない。彼はよく携帯を持つのを忘れるので、まだ見ていない可能性もある。
声を聞きたかったが、自宅に電話しようとして思い止まった。今日会えたはずの予定に断りを入れたのは自分ではないか。
とぼとぼ歩いているうち、川原の小さな橋に差し掛かった。あれを渡れば、彼女が住む家までもうすぐだ。
同居している老夫婦はきっと寝ただろう。最近は朝早く夜遅い毎日が続いてるので、あまり顔を合わせられない。
(ミキのご両親、優しそうな人だったな・・・。)
他の女の子から浮いていた自分を気遣ってか、いろいろと話しかけてくれた。
自分の親もあんな人たちだったら良かったのに、と寂寥感が冷たく心をよぎる。
両親の消息を調べる術は、もはや皆無に近い。
仮に向こうが生きていてマナを探し出そうとしても、彼女の方が戸籍から消えてしまっている。
(死んじゃってるんだもんね・・・・・・私・・・・・・。)
マナは橋の上で立ち止まって、真っ暗な川を見つめる。もともと人通りの少ない橋をこの時間に渡る者は滅多にいない。
ぽつんぽつんと心許ない街灯の光が、弱々しく水面に揺れている。
いまこうして生きていることが不思議な気がする。と同時に、結局助からなかったムサシやケイタに申し訳なく思う。
自分を逃がして隠れ住む場所を見つけてくれた加持も、既にこの世にいない。
この街に来てしばらくは、ずっと泣き通しだった。
既に一生分泣いたつもりだったが、自分で思ってたよりずっと泣き虫だった。
夜中こっそり家を出ては何度も此処に来て、こうして川を見つめてたことを思い出す。
(そういえばこの河原にも、沢山タンポポが咲いてたっけ・・・。)
いまはまだ、冷たい季節の下に埋もれているが、春には土手いっぱいに黄の花が咲き誇る。
脈絡もなくそのことが頭に浮かんだのは、あのタワービルを見学に行ったときのことが、どこかに引っ掛かっていたからだろうか。
(此処はまた、春になれば花が咲く・・・・・でも、あそこは・・・・・。)
もともと自然は好きだった。中学校の屋上で初めて第三新東京都市を眺めたときも、街並より山の稜線の美しさに目を奪われた。
それだけに、仕方ないとはいえたった一株の花を根こそぎ奪われたことが、彼女にとってはショックだった。
何かを造るには一旦、そこにあるものを壊さなければならない。土地開発では当たり前の話で、それをとやかく言うつもりなどない。
ただあれから、荒れ果てた土地に凛然とそびえ立つタワービルを、彼女は最初のように綺麗とは思えなくなってしまった。
シンジにはそのことを話していない。彼は建築寄りの人間だし、 『それがどうした』 程度にしか思われないかも知れない。
冷たい言葉を、彼の口から聞きたくない。
マナはタンポポが好きだった。軍にいた頃はよく、空を舞うタンポポの綿毛を眺めながら、自由に飛び回る自分の姿を夢想した。
昔の自分は夢見がちな少女だった。孤児院でも、軍でも、空想にふけることで辛い現実から逃れることが出来た。
だが楽しい空想は所詮、幻でしかない。兄妹のように仲の良かった親友を失ったとき、それを思い知らされた。
もともとは楽天的な性格だったが、彼らの死はマナの心に暗い影を落とした。
あれ以来、どんな楽しいことを考えたとしても、不安を完全に払拭出来ない。
それでも今は、氷上のように薄くはあるが、生活の基盤が出来た。ずっと泣き過ごしていた頃に較べれば幸福といえるだろう。
いや、これまで生きてきた中で一番幸せかもしれない。
彼と二人で居ると、愛しさがさざ波のように心に打ちよせる。
いままで望んでも得られなかった幸福感。現在の暮らしを手放したくないと願ったのは、生まれて初めてだ。
この幸せがいつまで続くのかは分からない。だが亡くなってしまった人の為にも、しっかり生きなければと思う。
(死んだことになってるのに、しっかり生きなきゃってのも変かな・・・?)
寂しげに笑ったとき、ル…ル…と短い着信音が響いた。
携帯を開いて確認すると、自分が打ったメールの返信が返ってきている。
(シンジからだ・・・・・・。)
短い内容の文だったが、温もりがじわりと心に滲む。
マナは更に短い返事を、気持ちを込めて打ち返した。
▼△▼
3月に入ると寒気も和らぎ、この街に雪が舞うこともめっきり減った。
この頃は晴天が続き、厳しかった冬空も心なしか、表情を緩めたように感じる。
シンジとマナは、昼下がりの公園を散歩していた。
2月は結局、あのあと一回きり会えただけだったので、久しぶりのデートだった。
たまにはとシンジの提案で、外で昼食を済ました後、郊外にある美術館へ訪れた。
ここは普段、デートコースには使っていない。美術館を中心に広大な公園がぐるりと囲む、市民の憩いの場でもある。
動作はゆっくりだが歩幅の大きいシンジと離れすぎないよう、マナは時々、小走りになって付いていく。
それに気付いたシンジは、彼女の手を取って歩く速度を緩めた。
二人は穏やかな天気につられたように、館内へ赴く前に公園のベンチで一休みした。
「最近どうだい?仕事の方は。」
「んー、まだホワイトデーまでは忙しいけど、それさえ終わればひと区切りつくかしら。」
シンジは、と訊き返すと、彼は表情を浮かない顔をして曖昧に答えた。
「何か、心配事?」
「そういう訳じゃないけど・・・・・でも、悩んでるのは確かだな。」
黙り込んだシンジが口を開くのを、マナは辛抱強く待った。
「・・・・実は、春にでも、学校推薦でフランスへ留学に行かないか、って話が出てるんだ。」
「えっ、留学!?」
驚いて訊ね返す。マナにとっては寝耳に水だ。
「うん、最近出来た専門学校だけど、ある建築家が発起人となって、イギリスのAAスクールのようなものをフランスにも造ったんだ。」
「その人、わりと有名なの?」
「ああ。いま現代建築の世界では凄く名前が売れてきていて、昔、ジャン・ヌーベルっていう有名な建築家にも師事していた。」
マナはヌーベルを知らなかったが、以前彼女が 『半分に切ったソーセージ』 と評したビルの設計者だと教えられ、思い当たった。
まだ開校して間もないので生徒の数も少なく、現役の建築家から直接講義が受けられるのがシンジにとって魅力だった。
また、優秀な生徒には卒業時、本人直々に推薦文を書いてくれるので、就職する上で大きなプラスになるのは間違いない。
「留学期間は三年・・・いや、五年くらいになるかもしれないけど、冬月さんも乗り気で学費とかは心配しなくていい、と言ってくれた。」
「ふうん・・・・・いい話じゃない。」
「まあ、留学費用については自分でなんとかするつもりなんだけどね。いままで貰ってたお金も貯めてるし。」
「気にすることないんじゃない?向こうだってシンジが受け取ってくれなければ困るんでしょ、きっと。」
「手厳しいな、マナは。」
シンジは苦笑した。NERVがチルドレンの生活を保障するのは、世論の批判を避ける意味もあることを言外に皮肉っているのだ。
マナはシンジ達の戦いをかいつまんで知ってるだけだが、それでも聞いてて空恐ろしくなるほど、無茶苦茶な話だった。
本人の意思とは関係なくパイロットを強要され、自分だったら何度死んでたかわからない戦いの最前線に駆り出される。
現に、アスカは一時は精神崩壊をきたし、(マナは知らない事実だが)レイも一度は死んだ。
シンジも精神を破綻しかけたうえ、父親を失っている。アスカの 『安すぎる報酬』 という言葉には、マナも心底同意する。
「いまは、冬月さんもリツコさんも本当に心配してくれてるよ。確かに、いつまでもNERVの援助を当てには出来ないけど。」
「ひょっとして、だから行くのを迷ってるわけ?」
「ん・・・・・・いやまあ、それだけじゃ無いんだけどさ・・・・・・。」
曖昧な返事で顔を背けると、自らの思考にうち沈む。
俯く彼の横顔をマナはじっと見つめていたが、やがて溜め息をついて辺りを見回した。
平日でも賑やかなこの公園では、子供も老人も、家族連れから恋人同士まで、さまざまな人々が思い思いに過ごしている。
無邪気に犬と戯れる子供、日なたぼっこをする老人、ベンチで寄り添う恋人、平和を凝縮したような風景が此処にある。
ふと、芝生のある一面を覆う草に目が止まる。矢じりを重ねたような三角状のぎざぎざの葉っぱに見覚えがあった。
「シンジ、あれきっとタンポポだよね。」
「ん・・・?ああ、そうかな。」
「ね、行ってみよ!」
重くなった空気を振り払うように、陽気な声でシンジの手を引っ張る。
近寄ってよく見ると、葉の数はまだ少なく、緑も濃くはない。
だが、何本も伸びた花茎の先には、やがて訪れる春を待ちわびるかのように、総包が期待に膨らんでいる。
「もうすぐ咲きそうね。こんなにいっぱい生えてたなんて、知らなかったわ。」
「僕も、気が付かなかった。」
彼女が努めて話題を変えようとしていることに気付いたシンジは、そう相槌を打った。
芝生を隠すように広がるタンポポの数は思いのほか多い。春がくれば、この辺り一面を黄の花で埋め尽くすだろう。
「楽しみだなぁ・・・。あたし、タンポポって好きなんだ。」
「確かに、マナに似合ってる気がする。」
「そう?でも本当に好きなの。もし将来、家を持てたら、たくさんタンポポを植えたいな。」
家庭を知らない彼女にとって、家は家族の象徴でもあり、自分の家を持つことがささやかな願いでもあった。
「庭はもちろん、窓の鉢植えや、壁に掛けたりとか・・・いっそ、屋根の上までぜんぶ植えたいくらい。」
「そういえば以前、小説だかなにかで読んだことある。実際にタンポポの家を建てた人の話。」
「へぇ、造った人いたんだ?」
芝生に後ろ手をついて空を見上げたマナは、青いキャンバスに空想の家を描いてみた。
「花と緑に囲まれた家、かぁ・・・・・素敵だろうな、きっと・・・・・。」
屋根いっぱいに咲き誇るタンポポを想像すると、自然と笑みが浮かぶ。
その家では自分がいて彼がいて、花のように愛らしい子供が睦まじく暮らしている。
「ねえ、此処へまた来ない?このタンポポが咲く頃にでも。」
「そうだな・・・。」
シンジはじっと、マナの笑顔を見つめた。
▼△▼
その後のデートはマナにとって、心弾まないものとなってしまった。
美術館はともかく夕食の席でも会話は途切れがちで、次第に沈黙する時間が長くなっていた。
元よりシンジは口数の多いほうではないが、特に今日は、何かを思索するようにしばしば黙り込んだ。
食事を終えて店を出たあと、今日は彼の部屋に寄らず、そのまま帰ることにした。
市内までモノレールで一緒に戻った後、駅前で二人は別れ別れとなる。
シンジは家まで送るつもりだったがマナが遠慮したので、彼女の帰りのバスが来るまで、停留所で待ちあわせた。
マナはベンチに腰を下ろしたが、シンジは立ったままずっと下を向いていた。
「マナ、今日はごめん。変な話しちゃって。」
「変じゃない、大切な事だよ・・・・どうせ、いずれは聞かなきゃいけなかったんだし。」
そう答えると、背後に立ったまま座ろうとしないシンジの顔を、すくい上げるように見上げる。
「それで、シンジは行くつもりなの?」
二人とも瞳を交えたまま微動だにしなかったが、やがて目を逸らしたのは、シンジだった。
「正直・・・・・・迷ってる。」
「どうして?いいチャンスだと思うな。」
「・・・マナは、本当にそう思う?」
身体を屈めて顔を近づけた彼に、ゆっくりと頷く。
「あたしは行くべきだと思う。今日聞いた話だと、シンジの望みにピッタリじゃない。もっと建築の勉強がしたいって言ってたよね?」
「ああ、確かに勉強するには、凄くいい環境だと思う。」
「でしょ?なら、迷うことないじゃない。」
ほのかな笑みを浮かべるマナとは対照的に、シンジの表情に影が差す。
「もし僕が、フランスに行くとしたら、マナは、どうする?」
「あたし?今まで通りよ。きっとまだあの店で働いてると思う。アルバイトには違いないけど、問題無いわよ、今まで通りだし。」
シンジの表情は冴えない。今後も、それでずっとやっていけるのかどうか。それに、他にも気掛りなことがある。
「・・・変わらない?僕が居なくなっても。」
「だって、ずっと逢えないわけじゃないんだし。国外へ出られないから、フランスまで遊びには行けないけど。」
そのことはシンジも承知している。戸籍のない彼女には、パスポートは作れない。
「さみしくはなるけど、お爺ちゃんもお婆ちゃんも一緒だし、お店のほうもにぎやかだしね。」
シンジが拍子抜けするほど、マナはあっさりと言った。
「そっか・・・・・・そうだよな。」
屈めた背を伸ばし、ふぅーっと息を抜く。見上げた夜空には、いつしか星が瞬いていた。
「マナの焼いたパンが食べられなくなるのも、なんだか寂しいな。」
「じゃあ、エア・メールで送るわよ。ただし生地だけだから、焼くのはオーブン買って自分でやってね。」
顔を見合わせてクスリと笑う。今日、久しぶりに空気が和んだ。
「たまに遊びに帰ってくれると嬉しいな。といっても勉強第一だから、差し支え無い程度にね。」
「・・・・うん。そのときは、必ず逢いに帰る。」
どちらともなく言葉を切ると、それぞれの想いを込めて、お互いを見つめた。
ヘッドライトで二人のシルエットを浮かび上がらせながら、帰りのバスが入ってきた。
「―――じゃあね、シンジ。」
「―――ああ、気をつけて。」
バスに乗り込んだマナは、窓際の席から軽く手を振った。
シンジはバスが去った後も、しばらくその場所に立ち尽くした。
自宅へ戻ったマナは、老夫婦の食事の後片付けを手伝った後、シャワーを浴びて早々に床についた。
布団の中で、ずっと泣いた。何年か振りに、後から後から涙が出た。
離れたくなかった。いまさら彼のいない生活に戻るなんて、耐えられなかった。
行かないでって泣いて喚いて、縋り付くことができればどんなに楽だったろう。
でも彼の為を思えば、そんな真似が出来よう筈もない。
(私には、なにも無い・・・・・夢も、成りたいものも・・・・・。)
それを望むのは贅沢だ、という思い込みが彼女を縛っている。
亡くなった親友達を想えば、いま生きているだけで幸せなんだ、と。
だがシンジは違う。かつては生きることに虚しさしか見い出せなかった少年は、今やっと、夢に向かって進もうとしているのだ。
(・・・・・・シンジの足手纏いになるのだけは、絶対に嫌・・・・・・。)
彼に付いていくことが出来ないのは百も承知だ。とはいえ、留学を止めて欲しいなんて口が裂けても言えない。
結局自分には、彼を気持ちよく送り出すくらいしか出来ない。
(ずっと逢えないわけじゃない・・・・・・シンジだって、帰ってきてくれるって云ってたじゃない・・・・・・。)
寒さに震えるように毛布を掻き抱く。温かいはずの布団も、その温もりを分け与えてはくれない。
彼の温もりが、恋しい。
▼△▼
ホワイトデーも過ぎ去り、慌ただしかった店の方も平時の状況に落ち着いた。
とはいえ、もともと繁盛しているので暇になったわけではない。今日もランチの間は、ずっと混雑していた。
平日のランチタイムも終わり、一区切りついたマナは交代で食事に出かける。
昼休みといっても、休憩を取れる時間は早くて2時を過ぎてしまう。
近くのカフェテリアで昼食を済ませたあと、まだ時間があったので、なじみの書店へ寄ってみた。
特に目当ての本があるわけではない。ぶらぶら眺めながら、なんとなく手にとった旅行のガイドマップをパラパラめくる。
(遠いなあ・・・・・・フランスって・・・・・・。)
そういえばフランスのどことか聞いてなかったっけと考えたが、虚しくなって止めた。
どんなに行きたくても、自分からは行けないのだ。雑誌を元の位置に戻し、その場を離れる。
時間を潰すように歩いていると、心理学のコーナーで、ひときわ背の高い青年を見かけた。
(シンジ―――。)
ドキリとしたマナは、熱心に本を読んでる彼に見つからないよう、とっさに身体を引っ込める。
(やだ・・・・・わたし、何で隠れてるんだろ・・・・・?)
少し気持ちを落ち着かせるとひょっこり顔を出し、さも今しがた気付いたように装おう。
「あれ、どうしたのシンジ?こんなところで。」
突然声を掛けられて驚いたのか、挨拶が返ってくるまで少し間が空いた。
「・・・やあ。マナこそ、仕事じゃなかったっけ?」
「いまはお昼休み中。シンジこそ、珍しいじゃない。」
「珍しいって、しょっちゅう来てるじゃないか。」
「あ・・・・ええと、そうじゃなくて・・・・ほ、ほら!心理学のコーナーに居るなんて、意外だったから。」
言い訳がましかったかなと思ったが、彼の気には止まらなかったようだ。
「ああ、そういう意味か。別にアスカのように、心理学そのものに興味があるわけじゃないけど。」
「ひょっとしてそれも、建築に関係があるとか?」
「まあね。内容というより、書いた人に興味があってさ。」
シンジはその本を購入するつもりなのか、パタンと閉じて膝元に積み重ねる。
表紙から 『ルドルフ・シュタイナー』 という著者名が見えた。
「ところで、いつごろ日本を発つ予定なの?」
「え?・・・ああ、最初は4月って言われたけど、急な話だったから5月の半ばまで待ってもらった。」
「5月・・・・・か・・・・・。」
彼がいなくなるまで、あと二ヶ月足らず。
「だめになっちゃったね、誕生日のケーキ。」
「ん・・・・・そういや、間に合わないな。」
「そしたら行く前にケーキを作ってご馳走するよ。何時がいい?」
「うーん、何時でも・・・・いや、駄目か。最近バタバタしてるからなぁ。」
あまり気乗りしない様子の返事に、マナは内心落胆した。
「やっぱり忙しい?準備とか大変そうだものね。」
「まあ、色々と・・・・・・あの、お店に戻らなくていいのかい?」
そんなのどうだっていいと、つい言いそうになる。今日の彼の態度は、どこかよそよそしい。
「確かに時間だけど・・・・。シンジこそ、用事でもあるの?」
「あ?ああ、ちょっとね。ここへはついでで立ち寄っただけだから。」
取り繕うように答える彼の膝元には、いままで全部目を通していたのか、本が何冊も積み上げられている。
ついでの割には随分長いこと居るのね、と出掛かった言葉を、マナはすんでのところで飲み込んだ。
「ふーん・・・・・じゃあアタシ、そろそろ戻るから。」
「その、暇になったらこっちから連絡する。・・・ケーキ、楽しみにしてるよ。」
最後の彼の一言が、どこか取ってつけたように耳に響いた。
▼△▼
書店で偶然会った日から以降、シンジとは連絡が取れない。
携帯には何度か掛けてみたが、たいてい圏外か、留守電になっている。
店に居る間は携帯の電源を切り、休憩時にチェックするのが常だったが、このところずっと電源を入れっぱなしにしていた。
だが、彼からの着信はない。携帯ばかり気になって、以前のように仕事に集中出来ない。
今日もつまらない失敗をしてしまった。店長は口うるさい人ではないが、最近ミスが目立つので、閉店後しばらく説教を受けた。
怒られて当然なのは自分で分かっているだけに、いっそう気分が落ち込む。
自宅に戻ると、着替えもせずに疲れた身体をベッドに投げ出す。天井を見つめながら携帯を探り出した。
ダイヤルしてみたが、やはり彼は出ない。機械的な発信音だけが空しく繰り返される。
今までも携帯を持たないことはよくあったが、連絡がとれなかったのはせいぜい一日か二日、こう何日も続くのは初めてだ。
どこかへ旅行にでも出たのだろうか。シンジにそんな趣味があったなんて聞いたことないが。
諦めて通話を切り、無言のままの携帯のディスプレイを睨みつける。
連絡を貰えるようメッセージは残したが、何故か彼が、自分を避けてるような気がしてならない。
気にし過ぎだ、とは思う。あの時遇ったときも、本当に忙しかったのかもしれない。
(もしかして・・・・あんな素っ気ない振りしたから、怒っちゃったのかな・・・・?)
留学の話を聞かされたとき、あまりに平気そうな態度をとったのが、かえって悪かったのだろうか。
しかし、先日顔を会わせた時の彼のそぶりは、怒るというよりもむしろ、どこか後ろめたそうに見えた。
彼が自分に隠し事をすることは滅多に無い―――少なくとも、これまでは。
メールを送ろうと思い立ったが、打ってるうちに愚痴っぽい長文になったので、途中で削除した。
そういえば、自分が打ったメールに返信することはあっても、彼の方からメールを送ってきたことは皆無に近い。
シンジは用があるときは、たいてい電話を掛かけてくる。今までは意外とせっかちなんだな、としか思ってなかったが・・・。
(単に面倒臭いから、だったりして・・・・・。)
その考えをマナは振り払った。ひとり悩んでいると、どうにも、悪い方向に考えてしまう。
「ケーキ、練習しよっと!うんとおいしいのを食べてもらわなきゃね。」
沈む気持ちを引っ張り上げるようにガバッと跳ね起きると、台所を借りてまたチョコレートムース作りを始める。
メレンゲを混ぜるときのボウルの底を引っ掻く音が、やけに耳障りに響く。
気晴らしになるかと思ったが、後から後から湧いてくる嫌な空想の方に意識が傾いてしまう。
機械的に動かしていた手が、いつの間にか止まってる。気付いて再びかき回すが、また手が止まる。
そんなことを何度繰り返していても、いっこうに泡立ってこない。
諦めて手を置き、ぐちゃぐちゃになってしまったボウルの中身を、じっと見つめた。
ポツリポツリとこぼれた雫が、脆いメレンゲの表面に小さく穴を穿つ。自分の心もまるで、このメレンゲのようだ。
▼△▼
季節が春を迎えても、マナの心は晴れない。4月に入っても、シンジとの連絡は途絶えたままだった。
一度、仕事を終えてから彼のアパートに行ってみた事がある。普段なら居るはずの時刻だったが、その日は留守だった。
暫く待っても帰ってくる気配がない。合鍵を持ってはいたが、どうしても入れない。
もし、彼が帰ってきたとき他の誰か・・・そう、女性とか寄り添ってたりしたら・・・。
まさか、有り得ない、有って欲しくない。
そんな妄想に捕らわれたように、足がすくむ。何より、こんなふうに彼を疑う自分が、一番嫌だ。
散々迷ったあげく、部屋の前から引き返した。それからは足を向けようという気になれない。
あれからずっと、仕事をしていても身が入らず、不意に暗い表情を見せることが多くなった。
以前は軽口を叩いてたミキも、マナの落ち込み具合を心配してか、シンジの話題はパッタリと止めた。
気を使ってもらえるのは有難いが、根本原因が解決しないとどうにもならない。
それでも、他に気を紛らわすことを知らないマナは、仕事に打ち込むしかなかった。
昼間の忙しさに較べれば、夕方はさほどでもない。ディナーも用意しているが、ランチの時ほど客は大勢来ないからだ。
ディナーの前に二回ほど、パンを焼く作業が入る。
作業を行うのは店主とマナともう一人。ミキはもっぱらレジ専任である。
焼き上がったパンを釜から引き出す。パン作りをしていて、この瞬間が一番好きだ。
甘く香ばしい薫りがふんわり空気に溶け込み、芳しい香水のように全身を包み込む。
こんがりきつね色の焼け具合も毎度、微妙に異なる。思い描いた通りに瑞々しく膨らんだときは、格別嬉しい。
出来たてのパンを冷ますためトレイに並べている最中、突然、ポケットの底の携帯が震えだす。
不意の振動に驚いたマナは、持っていたパンばさみを危うく取り落としそうになった。
「ごめんミキ!ちょっと替わってくれる?」
「え?・・・ちょ、ちょっとハルナぁ〜ッ!」
パンばさみを渡されてあたふたするミキを置いて、急いで厨房の裏口から飛び出した。
もどかしげにマスクを外し、携帯を取り出す。
「・・・・・・もしもし、マナ?」
「・・・・シンジ・・・・?」
掠れた声で彼の名を呟く。
最後に出遇ってから半月しか経っていないのに、半年、いや、それ以上声を聞いてなかった気がする。
「ご免!何度も電話貰ってたみたいで。家に置き忘れてて、しばらく携帯見てなかった。」
「見て無かったって・・・そんな長い間、どこへ行ってたのよ?」
「悪かった。このところ本当に慌ただしくて、あちこち行く羽目になってしまったんだ。後で話すよ。」
彼の声はやや遠い。どこから電話を掛けているのかは不明だが、取りあえず電話口での態度は変わりない。
「早速なんだけど来週、11日の日に朝から会えないかな?」
11日まで指折り数えると4日しかない。随分急な話だ。
「うーん、代わりの人の調整が出来るかどうか・・・・・他の日じゃ駄目?」
「―――ああ、大事な用があるんだ。君の誕生日だし。」
珍しくシンジは粘った。今までも予め準備をした上で予定を訊いてはいたが、いつもマナの都合を最優先してくれていた。
それに彼の言う用事というのが、誕生日とどう関係あるのか、見当がつかない。
「用事ってそのこと?あたし、誕生日なんて―――。」
「マナの気持ちは知ってる。けど、今度だけはお願いしたいんだ。」
(最後だから、かな・・・・?もう会えなくなるものね・・・・。)
「・・・わかったわ。休みを貰えるよう店長に頼んでみる。」
「申し訳ない、余計な手間を取らせちゃって。」
「いいわよ、大丈夫だから。じゃあ、そろそろ仕事に戻るね。」
通話を切ったマナは、店に戻るのも忘れたようにじっと携帯を見つめる。
久しぶりに顔を見れる喜びよりも、なぜか不安の方が強かった。
▼△▼
4月11日の朝、マナが鏡に向かって身支度を整えていると、同居しているお婆さんが彼女を呼びに来た。
来客だと告げられ玄関へ行くと、既にシンジが来ていた。滅多に無かったことで、マナも驚いた。
「どうしたの、わざわざ迎えに来るなんて。待ち合わせの時間は、まだ先じゃなかった?」
「そうなんだけど、早いほうがいいと思って。外で待ってるから、ゆっくり支度しててよ。」
「じゃ、あと5分、待ってて。」
慌てて洗面所に戻ると、もう一度鏡を覗いてチェックする。
薄手のスプリングコートを引っ掛け、いってきますと声を掛けてから外へ出た。
「お待たせ・・・・・・久しぶりね。」
「ご免、しばらく留守にして。」
「ううん・・・・。」
マナは下を向いて、鬱屈する想いを隠した。
押し殺したものが一気に噴き出そうで、彼の顔をまともに見れない。
云いたいことは沢山あったが、最後かもしれない日を、つまらないことで台無しにしたくはない。
マナを促して、シンジは歩きだした。いつもながら歩幅が合わず、歩いているうちにやや距離が開いてしまう。
せめて手を繋ごうと腕を伸ばしかけたが、シンジの右手に持ったポーチに阻まれ、気を削がれた。
以前のように、シンジの方から気付いてくれない。別の考えごとをしているように、どこかうわの空だった。
澄みきった水色の空から淡い陽射しが降りる中、二人は小川に架かった橋を渡り、土手際の道をゆっくりと歩む。
冬の面影が去った川原は緑に衣替えし、春を喜ぶ草花が沢山顔を出していた。
タンポポは鮮やかな黄の、シロツメグサは慎ましい白の、レンゲソウは柔らかな薄紫の色彩で、まだ若い緑の絨毯を華やかに彩る。
特にタンポポの数が多く、時折り吹く強い風に乗って、無数の種子がさらさらと空に流れる。
それらの草花を観賞しながら、シンジはジャケットに片手を入れたまま悠然と歩く。
わざわざ迎えに来たからてっきり急いでるのかと思ったが、随分のんびりしている。
「ねえ、今日はどこへ行くつもり?」
「特に行く先は決めてない・・・っていうか、どうでもいいんだ。話をするのが目的だったから。」
『どうでもいい』 という言葉がマナの気に障った。今日一日を大切に過ごしたいと思っていた矢先、あんまりではないか。
「・・・・・・シンジにとっては、その程度なわけ・・・・・・?」
声を震わせながらぴたりと足を止める。彼の思わせぶりな態度に、我慢も限界だった。
「マナ、どうした?」
「大事な話なら、早く言って・・・・・・こんな気持ちでデートなんて、続けられないわよ。」
身を固くして立ち尽くすマナをシンジは振り返ったが、頷くと彼女の傍まで歩み寄った。
「実は、留学の件なんだけど・・・・・あれ結局、取りやめにしたんだ。」
「えっ!?どうして?」
驚くマナに、言い訳するように肩をすくめてみせた。
「実際、かなり迷ったんだ。マナの云うとおりチャンスだし、いい環境で勉強が出来るのも魅力だったから。」
「だったら、何故・・・・?」
「でも、この一ヶ月悩んだお陰で、やっと判ったんだ。自分の目指したいものが。」
シンジはそこで、一呼吸置いた。強い春風が髪をなぶる。
風に飛ばされたタンポポの綿毛が、二人の間を通り過ぎた。
「マナ、僕がやりたいのはバウビオロギーなんだ。」
「・・・バウビオロギー?」
その言葉を鸚鵡返しに尋ねる。彼女にとっては聞きなれない言葉だった。
「エコロジー建築って言ったほうが分かり易いかな。簡単に言うと、環境や住む人に対して優しい住居を造るってこと。」
バウビオロギーは 『建築生物学』 とも呼ばれ、人間の心身両面に対する健康と自然環境への影響をテーマとした有機的な建築学だ。
住む人が安らいで暮らせる空間造りを中心に据えながら、自然環境との融合を目指したエコロジー的な側面も併せ持つ。
アート性、合理性重視の傾向にある昨今の現代建築とは、ある意味対極ともいえる。
「現代建築も素晴らしいけど、僕は住んでくれる人が快適で、自然を身近に感じられるような家を建てたい。」
「それが、シンジの目指したいこと?」
「ああ、ビルのような集合建物よりも、住む人ひとりひとりの個性に合わせた家を造る方に、魅力を感じるんだ。」
マナはじっとシンジの瞳を見つめた。穏やかに見返す黒い瞳の奥底には、澄んだ光が宿る。
初めて彼と出会ったときにも魅かれたその輝きは揺るぎなく、逞しささえ伺える。きっと、よほど悩んだ末だろう。
シンジが遠くへ行かないこと以上に、彼がしっかりと夢を抱いて前へ進もうとしていることが、マナにとっては嬉しかった。
「・・・・立派だよね、シンジは。ちゃんと自分の目標を見つけて、一生懸命で・・・・。」
一方で、自分ひとり取り残されたような一抹の寂しさも感じる。
「僕にこの道を教えてくれたのは、マナなんだよ。」
「わたしが?」
肯定するように笑ったシンジは、咲き誇るタンポポに目を向けた。
「ほら、前に話してたじゃないか。いつか、タンポポに囲まれた家に住んでみたい、って。」
「そういえば・・・・・言った気がする。」
でもそれは、少なくともあの時点では無邪気な空想、単なる憧れに過ぎなかった。
「別にわたし、本気で願ってたわけじゃないのに・・・・。」
「まあ、それだけが理由じゃないけど。」
以前から、勉強を進めているうち、合理性を追求する現代建築に疑問を感じ始めていたという。
「最初は何か思ってたのと違うなって、その程度だった・・・勿論、現代建築がもっとずっと奥深いものなのは承知してる。」
自分の勉強した知識なんかまだまだ齧ったことにもならないと苦笑し、けど、と続けた。
「あのときのマナの笑顔を見て・・・・・・住む人がこんな風に喜んでくれる家を造りたいって、本当にそう思ったんだ。」
その後しばらくは、バウビオロギーに関する本を片っ端から読み漁り、学部の教授とも話を重ねた。
シンジの話の中に、以前書店でちらりと見かけたシュタイナーの名前も出てきた。
内容が段々と専門的な分野に寄っていったので、マナは途中で彼の口を遮った。放っておくと、一日中喋りかねない。
「じゃ、じゃあそれは分かったけど、でも結局、留学を止めてどうするつもり?」
「酒匂さんを憶えてる?あの人の知り合いに、バウビオロギーに取り組んでいる建築家がいるんだ。」
その建築家はここ日本で、十年以上前から伝統的な日本建築の観点でバウビオロギーに取り組んでいるらしい。
「酒匂さんの紹介で会うことが出来たけど、色々話を聴いてみて、凄く共感が持てた。」
その後、事務所にも何度か足を運び、ぜひ此処で働いてみたいとの気持ちが高まった。
「6月に面接を受ける予定なんだ。試験に受かったら、そこへ行こうと思う。」
いまから遠足に行くのを待ちきれない子供のように、無邪気な笑顔を見せる。
きっと、合格する。贔屓目でなくマナは確信した。
「・・・それと、今日はもう一つ、大事な用件がある。」
そう前置きしたシンジは、今度は少し云い辛そうに頭に手をやった。
「あの、黙ってて申し訳なかったけど、調べてみたんだ、マナの戸籍。」
「え―――。」
トクンと、鼓動が高鳴る。
「最初はまず、君が赴任した駐屯地から調べ始め、前に話してくれた孤児院にも行ってみたんだ。其処から・・・。」
「ちょ、ちょっと待ってっ!!そんなことする前になんで一言云ってくれなかったのよ!?」
「・・・・・・その・・・・多分、マナは反対するだろうから・・・・・・。」
消え入りそうな声で呟きながら、叱られた子供のようにきまり悪そうに頬を掻く。
「当たり前よっ!連絡も寄こさないで勝手なことして!!わたしがどんな気持ちだったか―――。」
「本当に御免!言えばきっと怒られると思っていた。」
食ってかかるマナに、勢いよく腰を折り曲げて謝る。
頭を下げたままのシンジをじっと睨んでいたが、やがて大きく息を吐いた。
「シンジが思うほど、私は気にしてなかったのに・・・・・まったく・・・・・。」
本心からの言葉ではないが、文句の一つでも言わないと気が済まない。
なおも頭を上げようとしないシンジの身体を起こさせ、ジャケットの襟を直してあげた。
「・・・孤児院の先生たち、元気だった?」
「ああ、何人かはマナの名前を憶えてた。ただ当時の院長は退職されていて、君が引き取られた昔を知る人はもういなかったんだ。」
「・・・・・・そうだよね、随分古い話だし・・・・・・。」
感傷的に目を伏せたマナは、決して豊かではなかったが、実の親のように優しくしてくれた人に想いを馳せた。
シンジはその後も何日か滞在して調べたが、はかばかしい結果は得られなかったようだ。
「結局わかったのは・・・・君のご両親はかなり前に離婚したらしく、多分そのとき、君を孤児院に預けたんじゃないかってことくらい。」
「そう・・・・・・。」
黙り込む彼女に、シンジは余計なことをしたあげく、大した収穫もなかったことを再度詫びた。
だがマナは、彼が考えていたほどには落胆しなかった。
「・・・わかった、もうそれ以上聞かない。やっぱり本当の両親なんて、いまさら実感湧かないもの。」
強がりではない。事実、自分の心の棚に引っ掛かっていた何かが、すとんと一段落した気分だった。
思いのほかさっぱり言い切ったマナの返事をどう捉えたのか、シンジは申し訳なさそうに視線を落とす。
「せめてこれだけでもと思って、マナの戸籍を戻してもらった。」
持っていたポーチから封筒を取り出し、マナに手渡した。
自分も以前一度だけ見たことがある。皮肉にもそれは、彼女がシンジの学校に送り込まれたときの必要書類だったが。
「本名・・・霧島マナ、生年月日・・・2001年4月11日・・・・・・か・・・・・・。」
開封して、そこに書いてある文言を機械的に読み上げる。彼女が捨て子となったのちの戸籍と、まったく同じ内容だ。
これであなたは生きていますと言われても、何の感慨も湧いてこない。
「ご免、出来れば、本当の戸籍を作りたかったんだけど。」
「そんなに気にしなくていいわよ。―――ううん、拘ってたのはあたしの方だったって、やっと判ったから。」
こんな紙切れがあろうがあるまいが、自分は自分だ。戸籍が戻ったいまは逆に、強く思う。
いつか、本当の両親に巡り逢うことがあるかもしれない。生涯、出逢わないかもしれない。
それももう、どちらでもいいと感じる。例え親からは祝福されない子だったとしても、自分は此処で、間違いなく生きているのだから。
「でも・・・・戸籍を戻すなんてよく出来たわね。」
確かに最初から戸籍が無いのなら就籍届で新たに作れるが、一旦、死亡と認められたものを覆すのは、容易ではない。
「う・・・。まぁ、ちょっとね・・・・・・確かに、僕の力じゃ無理だけどさ・・・・・・。」
シンジはきまり悪そうに言い淀んだが、どんなつてを使ったのかは、マナにもおおよそ検討がつく。
実際、彼が頼ったのはNERVである。
当初、無理を承知で土下座してでも頼み込もうと意気込んでたシンジは、冬月があまりに簡単に了承したので、かえって驚いた。
『なに、セカンドインパクト直後の混迷期には、大して珍しい話でもなかったさ』
穏やかに哂った冬月に、普段の、物静かな学者然とした好々爺とは別の人生が垣間見えた。
シンジもことマナに関してでなければ、ここまではしなかっただろう。
大きな身体を身の置き所がなさそうに縮める彼の姿に、あえてそれ以上追求はしなかったが、マナは別の疑問を口にした。
「・・・ねえシンジ、約束を今日にしたのは、私の誕生日だからって言ったよね?」
「ああ、どうしても今日、会いたかった。」
「シンジの気持ちは嬉しいけど、やっぱり私、誕生日を祝おうなんて気には・・・・・・。」
戸籍が戻っても、4月11日が本当の誕生日でないことに変わりはない。
「その―――。実は、本当の用事はこっちなんだ。」
やや勿体を付けながら、シンジがもう一つ、封筒を取り出す。
そわそわとどこか落ち着かない彼の態度を不思議に思いながらも、それを受け取った。
「・・・・・・シンジ・・・・・・これって・・・・・・。」
開封したマナは、今度こそ信じられない面持ちで紙を凝視する。
「マナ、結婚して欲しい。」
とっさに何も言えず、火照った顔を紙で隠した。
彼女の手にした婚姻届には、シンジの名前と代理人の署名が既に書かれている。
「君さえ承知してくれれば、すぐにでも役所へ届けれるようにしたんだ。」
「・・・・え?」
「いや、その、出来れば今日中に出したいと思ってさ。そうすれば二人にとって、4月11日が大切な日になるだろ?」
「―――シンジ―――。」
「これからは、二人で祝おう。君が捨てられた日なんかじゃない、僕たちが一緒になれた記念日としてね。」
ただじっと婚姻届を見つめるマナの瞳から、ジワリと涙が滲む。
俯いて目じりを拭うと、無言のまま静かに紙を折り畳んだ。
「・・・・・・散々、心配かけといて、一人で先走って・・・・・・。もしかしてあなた、これでまるく収まるなんて思ってた?」
「え?」
「わたしがサインしないって言ったら、どうするつもりなの?」
「ええっ!?いやあのっ・・・・!!」
いまさらその事に思い当たったように、突然オロオロと狼狽し始めた。
「そっ、それってそのつまり、結婚したくない?いやっも、もしかして、僕の事が嫌いだって意味じゃ―――?」
あまりの慌てっぷりにマナは俯いて、込み上げる笑いを隠した。
昔のように途方にくれた顔が、可笑しい。綿密なようでいて、どこか肝心なところがすっぽ抜けてるのが、彼なのだ。
「マ、マナッ!・・・そんな、考えたくないけど・・・ひょっとして他に誰か、好きな人いるの!?」
放っておくとどんどん勝手な想像を進める彼にひとり悩んでいた頃の自分が重なり、つい堪えきれずに吹き出した。
突然弾かれたように笑いだすマナに、シンジは状況がまったく掴めないまま唖然としていた。
「ちょっと・・・・・なんで笑うんだよ?」
そう言われてもなかなか止まらない。ウジウジ悩んでいた頃の自分があまりに馬鹿馬鹿しく、心の底から笑い飛ばした。
「ハァ、おかしぃ・・・・・・・・・まるでバカみたい・・・・・・・・・。」
涙目になりながらもようやく笑いを静めると、息を整えるようにふーっとひと呼吸して、満面の笑顔を向けた。
「・・・やっぱり、いつまで経ってもシンジはシンジね。」
「え・・・・どういう意味?」
「『いいよ』 ってこと。」
まだ理解出来ずにきょとんとするシンジの胸に、思いっきり飛び込む。
「うわっ!」
かなり体格差はあるが、不意をつかれ危うく転びそうになった。
辛うじて受け止めた彼の胸の中で、マナは顔を埋めたまま、肩を震わせていた。
「・・・・マナ?」
「・・・・・・しっかりしてそうで、危なっかしいんだから・・・・・・ほんと・・・・・・わたしが付いてないと・・・・・・・。」
溢れてくる涙に言葉を途切らせながらも、愛しい人の背中を力いっぱい両手で抱きしめる。
シンジはしゃくりあげながら泣くマナの髪を、優しく撫でた。
「―――ずっと、一緒よね?」
「ああ、もちろん。」
「二度と、離れない?」
「離れるもんか。」
「・・・きっとよ。」
言葉で答える代わりに、彼女を招き入れるように両腕を背に回す。
小柄なマナの身体が、シンジの腕の中へ包み込まれる。まるで彼自身が、彼女の帰る家のように。
春の風が、タンポポの種を青空へと導く。
空いっぱいに舞った純白の綿毛が、抱き合う二人を覆い尽くした。
< 了 >