2016年、穏やかな青空がひろがる第三新東京都市の遥か上空に、突如として巨大な光の輪が出現した。
二条の紐を縒り合わせたような環状の物体は、徐々に高度を落としながら、強羅絶対防衛ラインを通過。
NERVは直ちに解析を試みたが、青からオレンジへと周期的にパターンを変える目標の正体について、MAGIは回答を保留。
データ不足のまま、司令部は零号機を迎撃に向かわせた。
白銀に輝く光の輪は大湧谷の上空まで辿り着くと、その場で停止したまま定点回転を続ける。
待ち構える零号機がライフルを構えても、動きだす様子が一向にない。
このまま膠着状態が続くかに見えたが、螺旋を描いていた二条の紐が突然、一本の輪に束ねられた。
次の瞬間、円陣を解いた使徒は長い体を空中でうねらせる。その姿はさながら、巨大な蛇のようだった。
「 AngelRing (1) 」
攻撃態勢に入った使徒は、獲物を捕らえる蛇の如く、恐るべき速さで襲い掛かる。
肉薄する敵をかわそうとした零号機を囲むように、鞭のような体が何本にも枝分かれした。
うち一本を零号機の腹部に巻きつけた使徒は鎌首を持ち上げ、装甲をものともせず内部へと侵入する。
ズブズブともぐり込む使徒の胴体を掴んだ零号機は、ゼロ距離からライフルを打ち込むが、弾は空しく弾かれる。
機体が侵蝕されるにつれ、操縦する綾波レイの皮ふにも、葉脈のような神経が這いのぼってゆく。
苦痛に顔を歪ますレイ。
徐々に生体組織を侵されてゆく彼女の眼前に、幻覚なのか、自分と似たもう一人の姿が浮かび上がる。
幻影は、頭の中に直接話しかけてきた。それに対し、自分も何かを答えた気がする。
混沌とした意識はその会話を留めないが、何かが、レイの心を揺さぶる。
不意に、彼女の瞳から光るものが零れた。
今まで流したことのなかった、はじめての涙。
硝子のようにきらめくしずくを、朦朧とした瞳は呆然と映した。
侵蝕が、僅かに止まる。零号機救出のため姿を現した初号機を、使徒が新たな目標と定めたのだ。
しなやかな体の一端を伸ばし、次なる獲物へと襲い掛かる。初号機は応戦するも、ライフルを破壊された。
ナイフを取り出して斬りつけたが、不定形の使徒の本体には大した効果を与えられず、逆に防戦一方となる。
無数の光の鞭と化した体の一本が、初号機の腕に巻きつく。
と同時に、操縦するシンジの腕にも葉脈のようなものが浮かび上がる。使徒が、侵蝕をはじめた。
無線越しに響くシンジの叫び声に、我を取り戻したレイは瞬時に覚悟を決めた。
零号機のATフィールドを反転させ、力ずくで初号機から使徒を引き剥がす。
フィールドの結界に封じ込められた使徒は、今度は防御壁を失った零号機の体を、容赦なく蝕む。
レイの身体を、更なる激痛が襲う。
もはや頬まで組織を侵されながらも、彼女の震える手はやっとの思いで自爆レバーの安全装置を解除した。
逃れようとする使徒は最後の抵抗をみせる。
ATフィールドを砕かんばかりに、自らの身体を叩きつけ、暴れ、のたうちまわる。
激しい衝撃にエントリープラグごと揺さぶられ、か細い少女の身体はシートに叩きつけられた。
折れてしまったのか、動こうとしない自分の腕を、レイは無理やり伸ばす。
震える指先が、冷たい金属を探り当てる。
硬直した掌を、固く握り締める。
レバーを、引いた。
起動されたシーケンスは、無機質に死へのカウントダウンを読みあげる。
レイの意図を知った司令部に、衝撃が走る。
シンジも夢中で、彼女の名を呼んだ。
その声が届いたのであろうか、侵蝕でつぶれかかったレイの双眸が、大きく見開く。
これは・・・・・・私の心・・・・・・
紅い瞳から、硝子の涙がとめどなく溢れる。
碇くんと、ひとつになりたい・・・
グニャリと、コアがひしゃげる。
・・・・・・碇くんと・・・・・・
薄れゆく意識が光につつまれ、最後の瞬間、彼女は目を閉じた―――。
目を開けると、部屋は眩しさで満ちていた。
窓から差し込む陽光で白く照らされた室内。そこが私の部屋だと認識するのに、僅かながら時間が必要だった。
薄いカーテンは熱を帯びた日差しに溶け込み、あえなく光の進入を許す。
眩しさに目を細めながら、光から逃れるようにベッドを離れる。冷たいシャワーを浴びたかった。
カーテンの隙間から漏れる直射日光が、左腕にうっすらと赤いあとを残していた。
色素の無いまっ白な肌は日やけに弱く、気をつけておかないと腫れてしまう。
予めエアコンをセットしておいて、浴室に入った。
降り注ぐ水が全身を包む。石鹸で身体を洗いながら、今日の予定を思い出す。
これから会う人のことを思い浮かべて、ひとり笑みをこぼした。
浴室から出ると、エアコンが効き過ぎたのか、肌寒いほど室温が下がっている。
滴を拭ったバスタオルを身体に巻きつけ、壁に掛かった鏡を覗きこむ。
映し出された紅い瞳が、厳格な審査員のように険しいまなざしで、私を見つめる。
・・・よかった、顔まで日やけしてなくて。
鏡の中の私も胸を撫で下ろしたのか、ほっと瞳を和らげた。
ドライヤーで髪を乾かしてから、
クローゼットの中の洋服を、ひとつひとつ品定めしてゆく。
たくさんはないけど、目移りする程度には増えている。
迷ったすえ、淡い萌黄色のワンピースを選んだ。
ノースリーブのワンピースを身にまとい、一緒に買った純白のストールで肩を包みこむ。
この衣装は、私の宝もののひとつ。
お洒落というものに全く興味を持たなかった私が、ショーウィンドウで一目見たとたん、なぜか惹きつけられた。
私の気持ちを察したように、彼が 『買ってあげるよ』 と言ってくれたときは、嬉しかった。
『似合うね』 って褒めてくれたときは、もっと嬉しかった。
彼に貰った初めてのプレゼント。だから大切な、宝もの。
エアコンを止めて、靴に履き替える。まだ早いけど、彼を待たすくらいなら待つほうがいい。
ポーチを肩に掛け、白い帽子をかぶって準備完了、だれもいない部屋を後にした。
外へ出ると、夏の太陽は容赦ない。でも降り注ぐ陽射しは麻の帽子が遮ってくれるので、眩しくはなかった。
帽子のつばで目を守りながら、遠慮がちに空を仰ぐ。今日もまた、見事に晴れ渡っている。
青と白、空を彩るふたつの色は、混じることなく鮮やかなコントラストを描く。
青はどこまでも澄み、白は頑なまでに染まらない。
青と白、他に表現しようのないほど、至純な色。
毎日の晴れぞらに影響されたかのように、私の心も明るい。
待ち合わせの喫茶店のドアを押した。店内を見渡したけど、予想通り、彼はまだみたいだった。
外から見えやすいようにと、窓際の席を選んだ。
ジュースを注文し、持ってきた本を開く。
繰りかえし読んでいる、お気に入りの詩集。
短い詩を目で追う。
目を閉じて、想像をいれる。
そして、また読む。
文章を噛み締めるように再読すると、初め理解できなかった言葉の羅列が、すこしずつ、色彩を帯びた景色へと変わる。
読んで、また目を閉じる。
瞼のうらに浮かび上がる、空想の世界。
淡い情景が消える前に、目を開く。
現実の世界が飛び込むと、目の前に、彼が座っていた。
▼△▼
待ち人来たる、そのことを認識するまで、ほんの僅か、時間が必要だった。
「いかり・・・・・くん・・・・・?」
「お待たせ。」
テーブルに両肘をついたまま、彼はにこやかに答えた。
「いつ来たの?」
「ん、ついさっき。綾波が寝てたから、起こすのも悪いかなって。」
そう言って笑顔を見せたけど、きっと確信犯に違いない。
「眠ってなんか、ない。」
私が詩を読むときの癖を、彼は知ってるはず。
わざとでしょ、と軽く睨んで追及すると、彼は手を振って認めた。
「ハハ、ちょっとビックリさせようと思っただけ。ゴメンゴメン。」
俯いてむくれてみせたけど、私に気づかれないよう忍び足で入ってくる姿を想像して、つい口許が綻んだ。
「へんなの。」
「ヘン、ってボクのこと?」
「ええ。」
「そうかなあ?」
「そうだわ。」
「ヒドイなあ、そんなふうに思われてたなんて。」
いつもの他愛無いやりとりを交わしながら、彼もジュースを頼んだ。
「ただ、邪魔したくなかったのは本当だよ。綾波はそうやってよく、詩の世界に入っているからね。」
「変・・・かしら?」
「別に。僕は詩とかわかんないけど、いいと思うよ。」
「私も最初は、まったく理解出来なかったの。」
そういえば、私が詩の世界にのめり込むようになったのは、いつからだろう?
はじめて詩集を読んだのは、たしか図書室でだった。
それが誰の詩だったか、もう忘れてしまったけど、途中まで読んで投げ出してしまった気がする。
「物語や論文のように構成が明確じゃないし、比喩表現が多すぎて意図が掴めなかったから。」
もっともあの頃は、言葉を飾ることに興味がなかったせいか、比喩という表現方法すら知らなかった。
「分かる分かる、そういうの僕も苦手だし。」
「でもきっと、惹かれるものがあったんだわ。しばらくして、また読み始めたの。」
読んでいくうち、文章から受けた印象のままに、自分が思い描いた空想を当てはめることを思いついた。
「わからない表現を想像で埋めたり、ちがう空想と結びつけたりすることを覚えてから・・・。」
「面白くなった?」
「面白い・・・というよりも、新鮮だったわ、私にとって。」
明確な結論はなくても、結末を自分の解釈に委ねればいいと気付いたときは、大げさでなく目を開かれる思いだった。
それからは、いろいろ想像するのが楽しくなった。
「ふーん、そういうものなんだ。」
相槌をうちながら彼は、詩集を手に取ってぱらぱらとめくる。
「この人の本、いつも読んでるよね。お気入りなんだ?」
「ええ、とっても。表現がすごく豊かなの。」
「かな遣いが古くて、なんか読みづらいなあ。」
「仕方ないわ。明治時代に生まれた人だから。」
しばらくの間、碇くんは本とにらめっこしていたけど、やがてぱたんと頁を閉じた。
「やっぱり、僕には難しいや。」
「はじめて読んだときはそう感じるけど、繰り返し読むうちに、少しずつみえてくるわ。」
「みえる?」
「ええ、いろいろと。風景とか感情とか・・・・・・こころ、とか。」
「なるほどねえ。」
頷いてはくれたけど、腕組みしたままなので、たぶん、読む気はないのだろう。
すこしばかり気落ちしながらも、話を続けた。
「きっと碇くんも、そのうち理解できるようになるわ。」
「でも、なんにも浮かんでこないんだよね。イマジネーションとかが、僕には足りないのかな?」
「私だって、全部はイメージ出来ない。例えばこの人の詩は、冬の情景描写がたくさんあるけど、冬という季節が想像し辛くて。」
「確かに、冬って言われても実感湧かないよね。寒いんだろうな、ってくらいしか想像つかないや。」
いま、この世界に 『夏』 以外の季節はない。
だから私たちふたりとも、四季というものを知らなかった。
「碇くんは、知ってみたいと思わない?」
「知ってみるって、冬を?」
「冬以外でも、春とか秋とか、いろいろな季節を。」
「う〜ん、興味なくはないけど、僕はこのままでもいいかなぁ。ずっと夏だったし、慣れちゃってるからね。」
彼にとってはそうかもしれない。なかば予測していた答えだった。
「それに、夏は嫌いじゃないし。けっこう好きだよ、僕。」
「ええ、私も好き。」
夏の太陽は私にあまり優しくないけど、でも、暑さも含めて、この気候を気に入っている。
私にとってもやはり、夏は生まれ育った季節だから。
「でも、一面の銀世界というのも、見てみたいわ。」
遮るもののない、広大な雪景色。遠くに連なる銀嶺。ひんやり透き通った青の空。
人けもなく、時が止まったような冬の中、私と碇くんのふたりだけが佇む世界を想像してみた。
「雪かあ・・・雪は僕も見てみたい気がする。」
彼は頭の後ろで手を組んだまま、ぼんやり宙を眺めていたけど、
「まあでも、季節が変わるなんてありえないよな、やっぱり。」
なんて、夢のない結論を口にした。
「もちろん。たとえば、の話をしてるの。」
改めて言わなくても、急に冬が訪れるなんて考えもしてない。
生まれてからずっと季節は変らなかったし、きっとこれからもだろう。
その前提で話してることくらい、察してくれてもいいのに。
「実は、綾波がそう尋ねてくるから、ちょっと期待した。」
「なにを?」
「ひょっとしたら、本当に冬でも見せてくれるのかな、って。」
「うそ、顔が笑ってる。」
そう指摘すると、にんまり、とでも表現したらいいのか、そんな顔をした。
「私をからかってるでしょ。」
「いや、ゴメン。そうじゃなくて、最初のころを思い出しただけ。」
「最初のころ?」
「うん。あの頃は、綾波がこれだけ語りたがるなんて、考えられなかったなあって。」
「わたし、おしゃべりになった?」
碇くんは、おしゃべりな娘は嫌?
「悪い意味じゃない。積極的になったってこと。」
「そうかしら・・・。」
確かに前は、文字はただの記号であり、本に対しても、知識を収集する以上の価値を見出せなかった。
他人に対しても、必要最低限しか接触を持とうとしなかった。
自分の殻の中だけで生き、孵化することなく、生涯を終える。
それが、以前の私の生き方。
「詩を読んだり、季節に興味を持ったり、ずいぶん変ったと思う。」
「そうね・・・・・きっと、変わりたかったのかもしれない。」
私の胸にぽっかり開いていた、からっぽの空洞。
暗く、冷たいその穴を埋める術さえ、あの頃は何も持ち合わせてなかった。
「もうそろそろ、出ようか?」
「うん。」
席を立った私は、前を歩く碇くんの背中を目で追った。
私がいまのように変われたのは、間違いなく彼のおかげ。
あたたかなともし火のように、私の心を照らしてくれたひと。
胸のすき間を彼で埋めるたび、欲張りになっていく私のこころ。
自然に笑えるようになりたい。
碇くんのことを、もっと知りたい。
気軽に冗談を言い合ったり、会話したい。
彼とおなじ時間を、おなじ感動を共有したい。
ずっと、そう想っていた。
たぶん、ずっと前から。
▼△▼
店を出ると、眩しさを増す日差しとはうらはらに、空気は爽やかに澄んでいた。
風は夏草の薫りを運び、雲が去った夏空は、目をみはるような鮮やかな青で塗りつぶされていた。
「空が、高い。」
「ホントだね、雲ひとつ無い。」
「ええ、それに、とてもきれい。」
もっと大空を見たくて、帽子のつばを折り曲げ、手でひさしを作った。
家を出たときとくらべ、空の青はより深く、濃さを増している。
なのに、なんて透明に清んでいるのだろう。
「こんなきれいな青、見たことないわ。」
「そうだね。でも、空以外でなら見たことあるけど。」
「え?」
「僕は、綺麗だと思うよ。・・・綾波の髪のいろ。」
ふいうち、だった。
とっさにかえす言葉が浮かばず、足もとを見つめる。
少し間をあけて、肩を並べた左隣りへ、こっそり目線だけを上げる。
碇くんは、私のほうを向いてなかった。
・・・わざと、目を逸らしてるのかも。
「・・・・その・・・・。」
―――もういちど、云ってほしいな
なんて、口にするのも恥ずかしい。
うつむいて所在なく後ろへ廻した手に、温かなぬくもりが触れる。
遠慮がちな彼の手のひらと、私の手のひらが軽く重なった。
ほんの少しだけ、指先をおり曲げる。
何も反応してこない。
やっぱり、軽すぎたかしら。
控えめに、でもちゃんとわかる程度の力で、碇くんの手を握った。
でも、いま以上、握りかえしてくれない。
そっと小首を傾げ、彼の横顔をうかがう。
・・・まだ、知らないふりしてる。
つかまえた彼の手を、ピンと引っぱった。
慌てたような黒い瞳が、私の視線とぶつかる。
その瞳が優しく揺れ、
こんどはしっかりと、私の掌を握り返してくれた。
見つめ合ったまま、しばらく続く、無言。
やわらかな風のささやきだけが、耳もとを流れる。
急に、目を合わすのが気恥ずかしくなって、今度は私のほうが慌てた。
目のやり場を持て余したあげく、視線を空へ飛ばす。
「青ぞらのはてのはて・・・。」
空を眺める振りをしながら、照れ隠しに詩を諳んじてみた。
「え?なに?」
「ううん、なんでもないの。お気に入りの、詩の一節。」
不思議そうな彼に笑顔でごまかして、あらためて、空を仰ぎ見る。
青は清く明く、一片の曇りもない鏡のように、陽のきらめきをはじく。
本当に、どこまでも、青いそら。
青ぞらのはてのはて
水素さえあまりに稀薄な気圏の上・・・
空想でしか手を伸ばせないほど、遠く離れた彼方のそらの、さらにそのさき。
そこはどんな色だろう。
< 続 >