「 AngelRing (2) 」
夢をみた。久しぶりの夢だった。
その内容までは憶えていない。でも、いい夢でなかったことは確かだ。
夢の中で私は、涙を流していた。
何故、あんなに泣いてたのだろう。辛かったのか、悲しかったのか・・・。
すり硝子を透して観るようなぼやけた全体像のなかで、零れ落ちる涙のしずくだけが、なぜか鮮明に映った。
思い出せるのはただそれだけ。なのに、目を覚ました後もなお残る、錐で胸を刺したような痛み。
それほど辛かった出来事は、私の記憶には・・・・・・ない。
夢をみるなんていつ以来だろうと考えながら身体を起こしたとき、鋭い痛みに左腕が跳ねた。
いけない、うっかりしてた。
カーテンの隙間から忍びこんだ直射日光が、赤い火ぶくれを一すじ、左腕に残していた。
掛け布で擦った肌を手でかばい、窓のむこうへ視線を投げる。
今日も、天気は快晴だった。
浴室に入って、冷たい水で腕を冷やす。
熱が奪われる心地よさに浸かりながら、カーテンを買い替えようと思った。
部屋へ置き去りにした携帯が不意に鳴り出し、慌てて取りに行く。
電話は碇くんからで、午後の都合を尋ねられた。
特に予定もなかったので会う約束を取り付け、とりとめの無い会話をしてから通話を切った。
つかの間の浮わついた気分は、左腕が視界に入ったとたん霧散した。
ひとまず痛みは落ち着いたけど、白い地肌の上にミミズ腫れのような痕がくっきり残っている。
・・・どうしよう、こんなの見せられない。
だからといって、包帯を巻けば余計に目立つし、きっと彼は心配するだろう。
悩んだあげく、長袖の白いブラウスで腕を隠すことにした。
シンプルな上着に合わせて、落ち着いた露草色のプリーツスカートを選ぶ。
レース柄のふんわり広がったスカートは、柔らかなカーテンを連想させた。
鏡の前に座り、ドライヤーで整髪する。整えるといっても、何もつけずにブラシを通す程度だけど。
ドライヤーの風にあおられた髪が、窓からの日差しに反射して白銀にたなびく。
すべてを白に染める陽光の前では、あまりにも儚い、私の青。
―――僕は、綺麗だと思うよ。・・・綾波の髪のいろ
唐突にあのときの言葉を思い出して、頬が熱くなるのを感じた。
風を止めて、ぱたりと寝た前髪をひとつまみ、軽く持ち上げる。
普段は首すじが出る程度に髪を切りそろえる。あまり長いと邪魔な気がするから。
でも、長い方がいろいろ髪型を変えられるし、女の子っぽい・・・・かしら?
両手で髪を梳いてそのまま後ろ手に束ねてみたけど、もともとが短いから、大して印象は変らない。
せいぜい、頬が露わになった程度で・・・・・・すこしくらい、伸ばしてみるのもいいかも。
いつもと違う感じに櫛で流しても、意外に強情な髪は、すぐ元に戻ってしまう。
無駄と知りつつ、何度も前髪を変えてみる。
ふと、時計に目が留まった。
いけない。
慌てて帽子をかぶり、ポーチを手に取る。
出かける支度を大急ぎで整え、待ち合わせ場所へと急いだ。
▼△▼
さすがに今日は、私よりも先に碇くんは来ていた。
いつもの喫茶店で軽く食事をとったあと、二人で公園を散歩する。
昼下がりの公園はとても静かだった。それでも、道の片隅に露店をたてて商売をする人がいる。
「あんなところに、お店があったのね。」
白地に藍色の文字を染め抜いたアイスクリームの幟が、夏草の薫りを運ぶ風に合わせてはためく。
ベニヤ板を乗せただけのひさしの奥には、大きな麦わら帽子が見える。きっとお店の人だろう。
「売れるのかなあ?誰もいないのに。」
そう呟いた彼は、じっと動かない麦わら帽子を訝しげに見ていたが、
「暑いし、買ってこようか。何がいい?」
と、私に尋ねた。
「碇くんと同じもの。」
「わかった。先にあそこで座ってて。」
木かげのベンチを指差してから、彼は露店へと歩いていった。
ベンチに腰掛けて、軽く脚を伸ばす。少し離れた芝生には背の低い草花が猛暑にも負けず、まっ白に咲き誇る。
小さな丸い花が濃緑の葉を埋めるほどたくさん並び、風に溶けた花の蜜の芳香が、ここにまで甘く漂う。
いつものように空を見上げた。重なり合う緑の天幕が青空を覆い、木漏れ日が星よりも眩く光る。
そよ風にまたたく輝きに心奪われていると、ピンク色のカップを両手に持って、彼が戻ってきた。
「お待たせ。バニラだけど、よかったかな?」
「ええ。ありがとう。」
私が目測を誤ったのか、何気なく差し出した左腕と、彼の手がぶつかる。
「っ・・!!」
痛みで、反射的に腕を引いた。
受け取りそこねたアイスクリームは、手をすり抜けて地面へ落ちた。
「ご免なさい、わたし・・・。」
「いいよ。それより服につかなかった?」
「・・・大丈夫。」
落下のはずみで蓋が外れて中身がこぼれ出たけど、幸い飛び散りはしていない。
「綾波・・・手、どうかした?」
じりじり痛む腕を庇う私を見て、彼が心配そうに尋ねた。
「寝ているあいだに日やけしたみたい。その、大したことないけど。」
「ちょっと見せてみて。」
そう言われて躊躇した。出来れば見せたくない。
渋る私を宥めるように、左腕を庇う右手の甲にそっと掌が添えられる。
観念してボタンを外し、注意深く袖を引っぱって見せると、彼は眉をしかめた。
「駄目だよ。ちゃんと手当てしないと。」
「でも、そんなに痛くはないの。」
本当は衣擦れを起こすたび、ちくちく痛んだ。
隠そうとする私の瞳を、碇くんはじっと見つめる。
「近くに薬局があったから、薬を買ってくる。あと包帯も。」
「気にしないで。私は平気だから。」
「よくない!綾波はそうやって、自分の身体に無頓着なんだから。」
珍しく、強い口調でたしなめられた。
「―――ご免なさい。」
小さくなる私に、にっこり微笑みかけてアイスクリームを差し出してくれた。
「はい、これ食べてて。ちょっと行ってくる。」
「私が買ってくるわ。」
「いいよ、すぐ近くにあったはずだから。」
今度は注意深く両手でカップを受け取る。彼は軽く手をあげると、暑い中を駆け出した。
かえって迷惑をかけてしまったことが心苦しく、冷たい容器を脇に寄せて吐息を付いた。
すこし待ったけど、彼は戻ってこない。
隣に置いたカップの表面が汗をかきはじめる。日陰とはいえこの気温だと、溶けるのも早いだろう。
でも、ひとりで食べる気にはなれない。私のせいだから、なおさらだった。
地面に落ちたほうのアイスクリームはすでに溶けはじめ、カップから流れ出している。
もう少し涼しければいいのにと、暑さを増す太陽を恨めしげに見上げた。
しばらく経ってもまだ、彼は戻ってこない。
碇くんはすぐと言ったけど、そんな近くに薬局なんてあったかしら。全く気づきもしなかった。
でも、待つ以外に術はない。焦慮に波立つ時間を鎮めようと、ポーチから詩集を取り出す。
ページをめくるとき火ぶくれの痕が厭でも目に入り、また気が重くなる。
そもそも皮ふが弱すぎるのだろう。この詩人の言葉じゃないけど、雪にも夏の暑さにも負けない、丈夫な身体が欲しい。
寒さの夏なんて体験したことがない。北へ行けば、多少なりとも暑さは和らぐだろうか。
詩人は、生まれ故郷である東北の一地方をイーハトーブ―――理想郷と呼んだ。
私はこの街から出たことがない。もしどこかへ訪れるとすれば、やはりその土地へ行ってみたい。
でも、冬の無いいまの世界だと、かつての理想郷にはもう出逢えないだろうか。
ひとかけづつきれいにひかりながら
そらから雪はしづんでくる
詩集の中で、生き生きと残る雪景色。
瞼を閉じてその情景を浮かべようとしたけど、夏の熱気に遮られ、やはり上手く描けない。
冬―――なだらかに降り積もる雪、吐く息まで凍えそうな氷霧、森閑と眠る大地。
未だ見たことのない世界への憧憬が深まる。
目を開いたとき、遠くの風景がグニャリと曲がった、ように見えた。
さほど遠くでもない露店までゆらゆらと歪む。いつの間にか陽炎が立ちのぼるほど、気温が上がってたらしい。
走っていった彼のことが心配になった。
やっぱり、探しに行こう。
本を閉じて立ち上がったとき、遠くから駆け寄ってくる白いワイシャツが見えた。
「お待たせ。」
息を切らして帰ってきた彼に胸が熱くなるのを感じながら、ハンカチを取り出して汗だらけの額を拭う。
「本当に・・・・・・ご免なさい。」
「どうってことないよ。気にしなくていいって。」
いくら拭いても後から後から汗が出るので、ハンカチを手渡した。
彼は呼吸を整えてから、私にベンチに座るよう促すと買ってきた塗り薬を包みから取り出した。
「腕をまっすぐ伸ばして。痛かったらすぐ言ってくれる?」
おずおずと差し出した左腕に、ひんやりとした感触が触れる。
「痛くない?」
「うん、平気。」
実際、触れるか触れないか程度にやさしく塗ってくれるので、むしろくすぐったいくらいだった。
そのくらい自分でやるべきだと思いつつも、つい甘えてしまう。
薬を塗り終わったあと、慣れない手つきで包帯を巻いてくれた。
「うーん、ちょっと曲がってるかな?」
「このままでいい。本当に、ありがとう。」
確かに上手とは云えないかもしれないけど、他人がきれいに巻いてくれるより、どんなに嬉しいことか。
彼が隣に座ろうとしたとき、たくさん汗をかいたカップに気づいた。
蓋をとって覗くと、バニラの海に小さな氷山がぽっかり浮いている。
「だいぶ溶けちゃったなあ。先に食べればよかったのに。」
「でも、私ひとりだけ食べるの、嫌だったから。」
まだ冷たさが残るカップを手に取り、袋からスプーンを取り出した。
「これは私がいただくわ。碇くんの分はいま買ってくる。」
「あ、僕はこのほうがいいや。ちょうどノド乾ちゃったし。」
「じゃあ、真ん中だけ私がもらってもいい?」
「いいの?すごく小さいけど。」
「ええ。」
まるい塊をスプーンですくって、口に運ぶ。
冷たく、甘い。
カップを彼に手渡すと、碇くんはひと息で飲み干した。
「ふぅ、うまい。」
「まだ冷えててよかったわ。」
「ほんと、生き返った気分だよ。」
大げさな言葉に笑みを返し、空っぽになった容器を受け取る。
もう一つ、地面に転がったカップからは溶けたアイスクリームが流れ、白い水たまりを作っていた。
その周りを、たくさんの黒い点が蠢いている。
「蟻だわ。」
いつの間に出てきたのか、無数の蟻がえさを求めて集まっていた。
「そのカップも捨てとかなきゃ。」
「うん、取ってくる。」
席を離れてカップを拾い上げたとき、まだ底に溶けずに残ってたアイスの欠片がだらりと流れ落ちた。
小石ほどの塊に無秩序に群がった蟻たちは、やがて列をなしてえさを運んでゆく。
その光景が妙に気に掛かり、立ち止まって眺めていた。
「どうしたの、綾波?」
「・・・ふしぎ。」
「え、何が?」
「集まるときはバラバラなのに、帰りはきちんと整列して歩いて行くの。」
「確か、蟻は道に迷わないで巣に帰れるよう、目に見えない印をつけてるんだったっけ。」
「でも一匹くらい、違う道を歩く蟻がいてもいいと思わない?」
見ていると、先頭をゆく蟻が遠回りすれば、あとに続くものたちもまったく同じ動きで迂回している。
「近道すればいいのに。すぐそばに仲間がいるのだから、はぐれはしないと思うけど。」
「習性なんだよ、きっと。」
へんな事を気にするね、と言われて少し恥ずかしくなった。
薬が入っていたビニール袋にごみを詰め、露店の傍にあるごみ箱へ運ぶ。
前を通り過ぎるとき何気なく店を一瞥したけど、店の人は眠っているのか、麦わら帽子は俯いたままだった。
木かげに戻ると、碇くんがそろそろ行こうと言って立ち上がった。
買ってもらった薬と包帯をポーチにしまい込む際、そういえばと思い当たった。
「薬局って、すごく遠かったでしょ。」
「いや、別に。大した距離じゃない。」
「ずいぶん時間が掛かったから・・・。なんて薬局?」
「ええと・・・なんだっけ?急いでたから憶えてないや。」
慌ててたから、レシートも貰わなかったと彼は言った。
「薬局がどうかした?なにか買いたいものでもあったの?」
「別に、用があるわけじゃ・・・。」
どこの、なんていう薬局なのかなんて、実のところ興味はない。
遠い距離をありがとう、ごめんなさいと伝えたかったのだけど、彼が歩き始めたので云いそびれてしまった。
先に立った彼の背中を、やや急ぎ足で追いかける。
足下にあった白い水溜りは溶けてなくなり、群がっていた蟻は整然と一列になって巣に帰ってゆく。
何故か、その光景に微かな違和感を覚えた。
でも、それが何なのか、そのときは考えもしなかった。
▼△▼
明くる日、ひとりでデパートへ出かけた。
カーテンを買い替える用事が出来たのと、もうひとつ、碇くんになにかプレゼントを買おうと思ったからだった。
彼の誕生日でも、何かの記念でもないけど、普段の感謝の気持ちを、たまには形にして表したい。
そう思い立つと、矢も盾もたまらず出掛ける仕度を始めた。
すっかり痛みのひいた腕の包帯を取り替え、ゆっくり店内を見て廻るつもりで、お昼過ぎに家を出た。
デパートの中は外の暑さとは無縁の世界のように涼しい。用事を先に済ませるためカーテンの売り場へ向かった。
厚手のものなら何でもいいと思ってたけど、いざ選ぶとなると色や柄が気になり始め、意外に時間が掛かってしまった。
売り場の壁にずらりと並んだサンプルを見ていくうち、翡翠を水に溶かしたような波模様のカーテンで指を止めた。
遮光性に優れ、色が爽やかで重い感じがしないからと店員にも勧められた。
結局そのカーテンを購入し、カードで支払いを済ませた。商品は後から家へ送ってくれるらしい。
用が済んだので、プレゼントを買いに別の階へ移った。
予想はしてたけど、カーテンを選ぶよりよっぽど悩む。彼の好みや欲しいものをそれとなく訊いておくべきだった。
改めて考えると、碇くんについて私が知っている事柄なんて、驚くほど少ない。
彼のことをたくさん知りたいと思っているにもかかわらず、何も知らない自分に情けなくなった。
今日は諦めようかしらと一度はデパートの外へ向けた足が止まる。
無理にいま買う必要もない、と思う気持ちと、早く喜ぶ顔が見たいと想う気持ちが引き合い、後者が勝った。
くるりと踵を返し、売り場を変える。
彼の欲しいものを考えるのではなく、私が贈りたいものを考えることにしよう。
できれば、普段身に着けてくれるものがいい。男の人に宝石なんて、へんかしら?
好きな人もいるみたいだけど、彼の場合、余りきらきらしたものは好まないように思う。
装飾品売り場を探し出して、丹念に見て廻る。売り場の面積としては少ないけど、男性向けの物も意外とある。
指輪は・・・指のサイズを知らない。本当は一番、プレゼントしたいのだけど。
別のショーウィンドウに目を向けると、十字架をあしらったトルコ石のペンダントが目に留まった。
青空を十字に切り取ったような水色の石を銀で縁取り、黒の革紐を通してある。ひと目で気に入った。
後ろで様子を伺っていた店員から、髪とお揃いでよく似合いますよと云われたので、私のじゃないんですと慌てて首を振った。
でも、自分とお揃いの色のアクセサリーを彼が身に付けてくれると考えただけで、なんだかどきどきした。
きっと、碇くんも喜んでくれるはず。そう自分に言い聞かせ、ペンダントを購入した。
真珠色の包みに銀のリボンで飾った小箱を丁寧にポーチにしまい、デパートを後にした。
▼△▼
ずいぶん時間を掛けてしまったらしく、外へ出ると既に陽は傾き、陽光溶けだす空の群青は刻一刻と茜に染まりゆく。
私は、夕焼けがあまり好きではない。青空が好きなせいかもしれないけど、どこか、不気味に感じる。
夕日が隠れる直前、太陽はいっそう赤く燃え、すべてのものを朱に染める。
空も、山の稜線も、ビルも、街並みも、私の服も、白い肌も、青い髪も、すべて・・・。
・・・・・・まるで、返り血のよう・・・・・・。
断末魔の光を放つ夕日は夜の帳に押し潰され、重苦しい闇がのし掛かる。
・・・・・・命の灯火の途絶えた、横たえた亡骸のように虚ろな闇の刻・・・・・・。
消えゆく残照を呆然と眺めていた私は、頭を振って不吉な連想を払いのけた。
なにを考えていたのだろう?私は。
夕暮れなんて、見慣れた光景なのに。こんな感傷なんて、一度もなかったのに。
陽が落ちると、急速に昼間の熱気は去る。薄ら寒い空気が夕闇と入り混じり、喩え難い不安に包まれる。
薄気味悪くなって、帰宅の速度を速める。途中、彼と昨日歩いた公園に入った。この方が近道のはずだから。
アイスクリームの幟を立ててあった露店は、いまは無い。店じまいしたのだろうと深く考えずに、ベンチの傍を横切る。
昼間咲き誇っていた白い花が、暗がりの中でぼんやり浮かび上がる。
近くでよく見ると、どこにでもありふれたつめくさだった。
詩人の書いた物語に、つめくさの番号を数えながら歩くと、伝説のポランの広場へ辿り着くことが出来ると云う噺があった。
でも結局、花の番号では見つけることは出来なかった。別の日に広場へ辿りついた主人公たちが、そこで見たものは―――。
不意に鼻先をついた、ツンとした刺激で思考が途切れた。
昼中の蒸れた草の香りでも、甘い花の香りでもない。むしろ、不快なにおい。
これは―――そう、私はこのにおいを知っている。砂粒を噛み締めるような、鉄錆に似た味までも。
いつの間にか辺りは真っ暗になり、歩く道を指し示すように並んだつめくさだけが、闇に浮かぶ。
現の中か、現ではないのか、足あとを追うように白い目印を辿ってゆく。
白いつめくさに混じって、徐々に赤いつめくさの花が目に付いた。
その花から立ちこめるのか、進むにつれ不快な刺激臭はますます強く、鼻腔へと入り込む。
嗅ぎたくないのに、そのにおいに急き立てられるように脚が止められない。
粘つく血のにおいが私の遠い記憶を刺激し、引き出そうとする。
―――血?―――いえ―――これは―――エル…シー…?―――
「そっちは、行かない方がいい。」
暗中で耳を通り過ぎた声に驚き、立ち止まって後ろを振り返る。
どこからか流れた冴え冴えとした薫りが、満ち満ちていたにおいを吹き飛ばした。
「誰・・・・・?」
人の姿はもちろん、気配すら感じとることは出来ない。
来た道を戻って曲がり角を曲がると、いつしか公園の外に出ていた。
薄暗い夜の闇とは対照的な乳白色の街灯の下で、辺りを見廻す。
人けのない道路には小鳥の影さえも映らない。にも関わらず、誰かがそこにいたという感じが拭えない。
全く予告もなく、一陣の風が舞う。
どうと唸りを上げた突風は冷めきった気配を残し、来たときのように、唐突に去っていった。
何故、そう感じたのだろう?
立ち去った風が残したのは、いままで私が知るはずのない凍てついた空気。無機質なほど透明な薫り。
季節の終りを告げる、冷たい風だった。
< 続 >