わたくしは今日死ぬのであるか
 東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
 わたくしはとっていゝのであるか

      ――― 1927.6.13   宮澤賢治 ―――




AngelRing (6)」


目を開けると、空の真っ只中だった。
はるか眼下に雲が集い、はるか遠くに弧を描く境界線が、宇宙(そら)地球(だいち)を分かつ。
疾駆する大気がまとわりついては、足早く去る。
太陽はなお高く明く、無に満ちた真空の彼方から、まばゆい光をあまねく天地へと降り注ぐ。
だが、もう、ぬくもりは感じない。
目を細め、地上を ”み” た。いまのわたしは対流で渦巻く雲を透し、地表に生い茂る木々の一葉一葉も見分けることが出来る。
過去の災厄の傷跡が未だ生々しい、緑の大地。クレーター状に抉られた焼け跡の隣に、ちいさな街がある。
第三新東京都市と呼ばれる要塞都市を目にして、自分がいまどの時代の、何処にいるのか悟った。
そのことに驚きはない。自ら望んだことだから。

だが、何故わたしは未だ記憶を―――意識を宿してるのだろう?
脆く儚い心を抱いたまま、果てなく拡がる空の大海原にたったひとり投げ出された、孤独な存在。
わたしを支えてくれるものは、だれもなにも、ない。
哀しかった。
ひとりぼっちでいることが。
看取られることのない自分が。
ここではもう、あのひとの記憶にも心の片隅にも、わたしという存在は微塵も無い。
そんなことは充分承知していた。もはや呼ぶ資格すらないその名も、面影も、胸の奥へ封じ込めたつもりだった。
なのに、決意した筈の心は強風にあおられ、着地する場所を失った羽根のようにさ迷う。

「どうするつもりだい?」

不意に、まったく予期しない方向から声をかけられた。
それほど離れていない頭上に、いつの間にか、ポケットに両手を入れたままの少年が佇んでいる。
気付かなかった。いまのいままで。

「・・・・・・何しにきたの?」
「ごあいさつだね。いや、ひとつ訊ねたいことがあってさ。」

わたしを見下ろす位置で、たなびく銀髪を右手でかきあげながら、のんびりと答えた。

「あなたに話すことなんか、ない。」
「やれやれ、とり付くしまもないな。出来ればいまの心境を、ぜひインタビューしたいと思ったんだけど。」

無神経なその言葉に、怒気をはらんだ視線を返した。

「わたしがどんな想いで此処にいるのか、あなたは理解できないの?」
「ああ。だから教えて欲しいんだよ、キミが何を考え、なぜ過去へ舞い戻ったのかを。」

相手と同じ目線までゆっくり高度を上げ、小憎らしい笑みを浮かべたその顔を、正面から睨みすえた。

「わたしをあの世界から突き落として、見物人のように見下ろして・・・・・・そんなに面白い?他人の不幸が。」
「勘違いされては困る。あの世界は危ういバランスで揺れていた。中にいたキミは知らなくても、既に崩壊は始まってたんだ。」
「だけど、あなたが来なければ、もう少し永らえたかもしれないのに・・・。」
「かもね。だが、存続させる手段は教えたし、決定権もキミに委ねた。その上で世界を棄てることを選んだのは、キミ自身のはずだろ?」

理屈としては正しいかもしれない。が、口で言うほど簡単に、割り切れる筈もない。

「ええ・・・だけど、それをあなたになんか言われたく無い・・・。」
「そもそも僕は、自分の義務を果たしただけだ。・・・何故、使徒が存在すると思う?」

唐突にそう問いかけられ、返答に詰まった。

「僕らは生まれる前から、世界を秤にかける役目を担っている。キミも他の使徒たちもどうやら、その自覚はなかったようだけど。」
「秤ですって?」
「ああ、世界がその存在を危うくするとき、僕らは使わされる。この先も存続する価値があるかどうか、裁定するためにね。」
「わたしの世界を見張ってたのも、自分の意思ではなかったということ?誰かに命令されていた、そう言いたいの?」
「ま、”誰が” というのは言わないでおこう。口にすると陳腐だし、正直な話、何者かなんて僕にも分からないから。」

わたしの詰問を軽く受け流すと、見えない椅子に座るように虚空で脚を組み、はるか地上を見下ろした。

「この世界もそうだ。ヒトという種子が溢れ、進化の行先は袋小路にはまりつつある。彼らの大部分は、それに気付いてない。」
「・・・・だから、また滅ぼすの?わたしのときみたいに。」
「おや?この世界を滅ぼしたのもキミじゃなかったっけ?」

一番触れられたくないところを突かれ、ぐっと押し黙った。

「ま、キミじゃなく僕だったとしても、どうせ滅亡しただろうけどね。所詮、それがこの世界の運命ということさ。」
「運命なんて言葉だけで、済ますつもり?」
「リリンたちが言う審判の日をどう乗り切るかは、彼ら自身の問題だ。裁きを下した後のことなど、僕の知りうるところではない。」

無責任なその態度に、改めて怒りが湧いてきた。

「・・・・・・それが、使徒の役割?そんなことの為だけに、わたしたちは存在するというの?」
「そんなこと、か・・・。なら、それ以上に大事なものが、キミにはあるのかい?」
「ええ、あるわ。」

何よりも、何を投げ打ってでも護りたいひとがいる。 その気持ちに、変わりはない。

「もし、あなたがわたしと同じ立場で、この世界が滅びの結末を迎えたとしたら―――あなたは、どうするつもり?」
「キミに指図されるいわれは無いね。僕にだって望みの世界を創る権利はあるだろ?キミがしたように。」
「そう・・・・・・それが答え?」

怒りよりも、哀しみが胸を浸す。
言いようの無い侘しさを心の片隅に追いやり、一気に開放できるよう、力を集結させる。

「おやおや、物騒なことを考えるね。」

わたしの戦おうとする意思を覚ってもひるむ気配もなく、むしろ愉快そうに、目を細めた。

「―――裁きの天秤は公平でなければならない。どちらへ傾くにしろ、片側に余計なおもりを付けてては、公正さを失ってしまう。」

組んだ脚をほどき、立ち上がったときにはもう、表情が冷たく固まっていた。

「いまのキミは私情が入り過ぎている。責務よりも感情を優先させる者に、裁きを下す資格はない。」

振り下ろされたその言葉は、裁判官が打ち鳴らす木槌のごとく、傲然と響いた。

「・・・あなたこそ、間違っている。わたしたちには最初から、なんの資格も、権利もない。」

わたしがやったことを裁きというのか?結局は人を押しのけ、自分が生き延びようとしただけではないか。

「それに・・・わたしはただ、奪ってしまった大事なものを、返しにきただけ。」

その返答が意外だったのか、わずかに片眉をつり上げ、真意を測るようにわたしを見つめた。

「・・・何を考えてるか知らないが、では裁きは、僕に任せると言うのかい?」
「―――いいえ。あなたが敵として人々の前に立ちはだかるのなら、わたしが、彼らを護る。」

決裂の言葉を投げつけると、二人の間の空気に緊張が漲った。

「キミと敵対するとは言ってないけど、ま、友好的になる理由もない。僕はただ、運命の意思に沿うだけさ。」
「運命や責務が、何だというの?わたしが従うとすれば、わたしの意志だけ。」

そう、それがあの永劫の世界で出した結論だった。
あの悲劇は決して、確定された未来ではない。それを証明するため、この世界へ還ってきた。

「どうやら、本気のようだな・・・・・・だがキミに、僕が斃せるとは思えないけど。」

余裕たっぷりに口許を歪めると両手をポケットに収め、静かに閉じた瞼を、半分だけ薄く開いた。
真紅の瞳に宿る氷の炎をまの当たりにしたとき、全身を押し潰されそうな恐怖に、思わず目を伏せた。
理性ではない生物としての本能が、意志とは裏腹に、全力でこの場から逃げるよう命じる。
怯える心を叱咤し、頭の中で鳴り響く危険信号に耐え難い痛みを覚えながら、それでも踏み止まって睨み返す。

「ふ・・・ん、頑張るじゃないか。何故そうまでリリンに肩入れする?キミはまだ、自分をヒトだと思っているのかい?」

冷徹なその言葉が、最も辛い箇所を鋭くつらぬく。

「わかってる・・・・・・いまの自分が、なにものかくらい・・・・・・。」

使徒―――それも心を持ってしまった、誰からも受け入れられることのない存在。
どんなに願っても、わたしが人と共存することは叶わない。

「そうかな?キミがヒトであろうとする心も、そもそも元をただせば借り物に過ぎない。それを―――。」
「―――違う!」

ありったけの気力を振り絞って、向かってくる舌鋒をたたき折った。

「・・・あなたの言うとおり、姿だけでなく自我も感情も、基盤になったのは綾波レイ、彼女のもの・・・。」

改めて指摘されるまでも無く、動かしようの無いその事実は、重く心にのしかかっている。

「だけど、たとえわたしのすべてが借りものだとしても、心だけは・・・・・・この心は、わたしだけのもの。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・だって、こんなに泣いている・・・・・・。」

―――まだキミは、自分をヒトだと思ってるのかい?―――

槍のように放たれた言葉は、深く胸に突き刺さったまま、なおも血を流す。
でもいまは、その痛みをありがたいと思う。
心があるからこそ、痛みを感じられる。挫けても、立ち上がることが出来る。
心を持ったことを、もう後悔しない。なによりも貴いものを感じられるから。

「そう―――キミはヒトでも、綾波レイでもない。それが判っていてなお、ヒトに味方するのか?」
「わたしに残されたのは、護るべきものだけ。でも、彼らにはまだ、未来がある。」
「身勝手だな。自分が放棄した未来を、今度はリリンたちに押し付けようというのかい?」
「なんとでも言えばいいわ。所詮、未来を一人で築くことなど、出来はしない。」

自分の手で創って、壊して、悔やみ続けた世界に、未練が無いわけではない。
でも、ようやく理解できたのは、ひとりで創り出す世界の脆さ。
単独で生き、孤独しか知らない使徒が産み出した閉ざされた世界に、開かれた未来など、初めから無かったのかもしれない。

「あなたがそれを解らないのは、仕方がないかもしれない。でも、彼らに手を出すのだけは、許さない。」

そう言ったが、これほど力の格差があれば、おそらくわたしなど、簡単に消されるだろう。
だが、このままで終われない。 やっとの想いで固めた決意を、無にされてたまるものか。

「キミが護ろうとしている人間は、間違いなくキミを殺そうとするだろう・・・・・・それでもかい?」
「・・・わたしは、それでいい。」

仮にこのまま消えてしまったとしても、自分が無意味な存在だったとは思わない。
むしろ、いまほど自らの存在の重さを認識したことはない。
大切なひとの未来を護ること、わたしにはそれしか―――いえ、わたしにしか、それは出来ないのだから。

「・・・そうか・・・。」

ぼそりとなにごとかを呟いて、真紅の瞳が閉じたとき、わたしを縛っていた恐怖が跡形もなく消えた。
と同時に、身体が嘘のように軽くなった。


▼△▼


「―――悪かった。試すような真似をして。」

謝罪の言葉とともにゆっくり開いた双眸には、あの冷たい光は無かった。

「・・・試す?どういうこと?」
「君は、人の心を持ってしまった。そのうえで、どういう結論を下すのか、訊いてみたかった。」

つい先刻まで対立してた事実など忘れたかのように親しげな態度を取る相手に、かえって警戒心を深めた。

「・・・何のため?・・・・・・あなたは一体、なにが目的なの?」

疑いのまなざしを向けるわたしに苦笑しながら、穏やかに口を開いた。

「僕はこれまで、自分の役目に疑問を持ったことはない。僕が意識を宿したときすでに、その使命は在ったのだから。」

君がかつて、アダムを求めたようにね、と付け加えると、深紅の瞳を地上に投げかけた。

「使徒が来訪する裁きのときを、リリンたちは最後の審判と呼び、贖罪を購うその日が来るのを怖れた。・・・が、実際はどうだ?」

見下ろした瞳をわたしに戻すと、ふっと息をゆるめた。或いは、笑ったのかもしれない。

「どんな手段を採ろうがアダムを手に入れた者が勝ち、新たな創造主として君臨する。公正な裁きなど、どこにある?」
「たしかに・・・。」

自分のしたことを省みても、そこに善悪も、罪や罰の重さも、いっさい介在していない。
生存競争―――その言葉に当てはめるのは虚しいが、もっとも的確だろう。

「審判なんてご大層な言葉だけど、所詮は、アダムの奪い合いに過ぎないんだ。人と使徒、或いは、人同士のね。」

吹っ切ったように明るいその口調は、どこか、寒々しかった。

「あの永劫の世界で君が泣きくれている間、ずっと考えてた。仮に、僕が世界を創るとしたら、どうするのか・・・・・・。」
「・・・・・・それで?」
「結局、結論なんて出なかった。・・・そうだろうな、僕にはみるべき夢も護り抜くものも、何も無いのだから。」

皮肉っぽい口調で、例の、口許だけ歪めた笑みを見せた。
ずっと苛立たしかったその笑みが、いまはなぜか、自嘲のように映る。

「以前の君と同じだな。僕に、創りたい未来なんて無い。創造主なんて、面倒なだけさ。」

低い声で呟くと、からっぽの手からすべてを放り出すように両手を広げ、肩をすくめた。

「もともと僕にとって生も死も等価値。だったら、無理に生き延びる必要もない。どのみち僕で最後だし、それもまた運命かもね。」
「最後?」
「君の次は僕、その次はいない。僕さえ斃せばリリンは今まで通り、自分たちの世界を存続できる。」

そう言われて、今更ながら気付いた。人が生き延びる未来、そこに使徒は存在しないことを。

「わたしが、押し付けてしまったの?あなたに―――。」
「君が気にする必要はない。それに、君と僕は同じなのだから。」

最初出会ったときに告げられた言葉を、彼はまた繰り返した。

「僕は、これまでの使徒の記憶を引き継いでいる。最後の使徒、その役割を担うものとして・・・。」
「記憶・・・?わたし以外に?」
「ああ。記憶といっても映像だけで、意思は感じとれないけどね。みるかい?」

突如として映像が脳裏に浮かび上がり、これまで続けた使徒と人との戦いの記録が、早回しのフィルムのように切り替わる。
生き延びようとする本能のままアダムを求めた使徒たちは、アダムを手に入れようとする都度、人間によって阻止された。
最初はただ邪魔者に過ぎなかった人間たちに、使徒が興味を持った切っ掛けは何だったのだろう?
光る鳥の姿をした使徒は、明らかに、人の心を探ろうとした。
そして更に、次の使徒は、人の心そのものに接触を試みた―――。
空中に浮かんだ銀の鞭が青色の巨人と触れる直前、わたしの脳裏から映像が去った。

「これ以上、みる必要はないだろう。」

驚きで言葉を失ったわたしに、そう笑いかけた。
わたしは自分の記憶しか持たない。これは、彼だけの特殊性なのか。

「もちろん、この後の記憶も残っている・・・だからある意味、僕らは同じ存在ともいえる。」

記憶の映像をみた限り、いままでの使徒は、つねに単独で出現していた。
もしそこに、連続した意識が存在したなら―――彼の云うとおり、わたしたちはひとつの魂を分かち合い、生まれたのかもしれない。

「君の答えが、最良のものとは限らない。でも、君がすべてを知ったうえで、自分で導き出した結論だ。だれの命令でもなく・・・。」

途切れた言葉のうちに、心なしか淡い羨望が混じっているように感じた。

「君が人の世を望むなら、僕自身の願いとして、僕が引き継ぐよ。・・・まあ、いまさら信じろというのも、無理かもしれないけど。」

くるりと背を向けた彼の姿に、見た筈のない映像が重なる。
紫の巨人に縛られた、銀髪の少年。すべての運命を受け入れたような、従順な顔―――。

「・・・・・・いまのは・・・・・・?」

一瞬だったが、その光景と、胸の奥を斬られたような痛みがいつまでも残った。
記憶の映像が引き起こした幻視だろうか・・・・?いえ、引き継ぐという言葉の意味するところは、充分理解している。

「待って!本当に、他に手段は無い?どちらかが生き延びるか以外、方法はないの?」
「・・・無いよ、きっと。」
「でも・・・・・・あなたはこの世界が滅ぶと云ったけど、わたしには、そうは思えない。」
「必ず滅びる、という意味じゃない。だが正直、人間たちが生存する確率は、限りなくゼロに近い。」

機械が正確な答えをはじき出すように、冷静に言い切った。

「彼らの戦い方は、いままでの記憶で知っている。本気で戦えば間違いなく、僕が勝つ。」

だから僕が負けるしかない、そう接いだ言葉に悲壮感はなく、醒めた口ぶりだった。

「そうだとしても、まだ戦いを回避する方法が無いと、決まったわけじゃない。共存できる道があるはず。」
「彼らに紛れて暮らすのかい?ま、確かに見た目は、ひ弱な人間だけどね。」

おどけたつもりの笑みが、どこか無理しているように映ったのは、わたしが、彼をそう見てしまったからだろうか。
人と同じ容貌を持ちながらも、人として認められることのない存在。
かといって、単独でしかこの世界に存在し得なかった、これまでのどの使徒とも異なる。
使徒と人、個体と群体をつなぐMissingLink。或いは彼こそが、最も孤独な存在なのかもしれない。

「それとも、僕に人として生きろというのか?君のように、使徒を棄てろと?」
「そうじゃない。ただ―――。」
「誤解しないで欲しい。君が人として在ろうとする、その気持ちは尊重している。」

口を開こうとするわたしに、鋭いまなざしを投げかけた。

「だが、使徒に進むべき未来が無いのなら、役割を終えた後も生き永らえて、一体、何の意味がある?」

かえす言葉もなく、わたしは沈黙した。
彼の疑問に、何も答えられない。最初からわたしは、使徒として生きる道を、選択しなかったのだから・・・。

「何故、旧い世界もろとも、葬り去ってくれない・・・・・・新たな世界も創れない僕に、何を求めるのか・・・・・・。」

俯いた華奢な背中が、間断なく吹く風を受け、糸のように頼りなく揺れる。
初めて感情を剥き出しにした、その言葉が辛かった。
彼はしきりに、運命という言葉を口にした。でも本当は、何よりも自由を欲しているのではないだろうか。
風のように自由でありたいと願いながら、責務という枷に縛られ、飛ぶことも出来ずに空を見上げてるのではないだろうか。
わたしの意志に順じようとするのも、課せられた使命に対する、彼のささやかな抵抗なのかもしれない。

「・・・せめて、考える時間を与えて欲しいの。」

ひとりで考え続けても、たぶん、結論は出ない。その答えは人の輪のなかで、彼自身が導き出すものだから。

「あなたが世界の監視者なら、彼らを見てあげて。それから判断しても、遅くは無い。」
「時間さえあれば、向こうが使徒を受け入れるとでも?」
「あなたが、人間を受け入れればいい。あなたなら、それが出来る。」

確信めいたわたしの言葉に、俯いた顔をわずかに上げた。

「だって、あなたには、心があるわ。」
「こころ、ねえ・・・・・・君の言う心が、君が思う心と同じだとは、限らないさ。」

揶揄するように言ったが、無言で見つめるわたしの視線に耐え兼ねたかのように、ぷいと目を逸らした。
拗ねたように顔を背ける仕種は、見た目相応の少年のものだった。

「いいえ、いまのわたしには判る。・・・それに、云ったでしょ、わたしには心があるって。」
「うん・・・?」
「あなたはわたしと同じなのよね?だからあなたも、同じ心があるのよ。」

意表をつかれたのか、あっけにとられた顔で絶句していた。

「強引というか言い掛かりというか・・・・・・無茶苦茶な論理だな・・・・・・。」
「そうかしら?これでもあなたの話を信じてるのだけど。」

言葉だけでなく、いつの間にか、彼を信頼し始めている自分に気付いた。

「あなたさえ望めばきっと分かり合えるから、共に暮らせるように・・・そう、願うわ。」
「”願う”・・・・・・だって?」
「ええ、それが、わたしの望み。」

きっぱり言い切ったわたしの言葉で退路を断たれたのか、ふてくされたように押し黙る。
腕組みしたまま虚空を見続ける彼。ずっと返事を待ち続けるわたし。
永い間の沈黙は、諦めにも似た長い長いため息で破られた。

「まったく―――。やっかいな望みを残してくれたもんだ・・・・・・。」

ようやく腕組みを解くと片手をポケットにつっこみ、空いた手で髪をひっかき回す。
苦笑いしながらの子供っぽい仕種に、こちらも思わず笑いたくなった。

「・・・わかったよ。ただ、ご期待にそえるかどうかまで、確約は出来ないけど。」
「よかった・・・。」

ありがとうと御礼を云おうとして、ふと、思いついた。

「ねえ、あなた名前はないって言ってたわよね?」
「ああ・・・それが?」
「わたしが付けてもいい?」

よほど意外だったのだろう、これまで見せたことのない無防備な表情で、まじまじとわたしを見た。
そんな表情を引き出せたことに、内心ほくそ笑んだ。

「驚いたね、どういう風の吹き回しだい?」
「だって、寂しいじゃない。タブリス、って呼び名が気に入ってるのなら別だけど。」
「別に、気に入ってるわけじゃないさ。ただ、今まで必要なかったし・・・・・・まあいいよ。ひょっとして、もう決めてるのかい?」
「そうね・・・。」

頷きながら思い出したのは、世界が変わるのを真っ先に伝えた、あの孤独な風のにおい。

「―――薫―――。」

予てから考えてたわけでは勿論ないけど、口にすると、この名前が一番上手く当てはまる気がした。

「かおる・・・なぜ、その名前を?」
「教えない。」
「だんまりとはひどい。」
「あなたには、ずいぶん意地悪されたから。」

皮肉を込めてかえすと、やれやれと言いたげに首を振ったが、

「薫、か・・・・・・。ま、悪くはないかな。」

と、ひとり呟き、ほのかに口許を綻ばせた。これまでの笑みとは違う、初めての笑顔だった。
その笑顔に注いだわたしの視線に気づいたのか、やや狼狽気味に顔を背けられる。
立て続けの珍しい反応を見ることができ、密かな満足を覚えた。
或いは、彼をこう呼ぶことも予め運命の環に嵌っていて、わたしたちはただ、その粗筋をなぞっているだけかもしれない。
それでもわたしは、自分の意思を信じる。
これから紡がれる、新たな未来のためにも。


▼△▼


なんとなく言葉が途切れ、どこか心地よい沈黙が訪れたとき、以前よくそうしたように、天を仰いだ。
青白いちりが揺らめく成層の上には、深遠と拡がる暗い宇宙。
地上に降り注ぐ光の源は、凍てつく闇を何光年も隔てた先で、絶え間なく炎の飛沫をあげる。
天の川は悠久の歳月を経て、ゆるやかに裾を拡げる。大河を流れる一滴一滴は、目も眩むほどまばゆい星星。
北のそらで翼を広げる白鳥に目を向けると、くちばしに咥えた黄と青のふたご星が数多の星たちのなか、ひときわ睦まじく輝く。
下流では、大河に仲を裂かれたふたつの星が、かささぎの群れる逢瀬を待ちわびて、互いを呼び合うように明滅する。
赤心を訴えてあかく燃えるさそりの心臓を更に下り、ケンタウリの蹄をまたぎ、やがて銀河の旅は、南の十字架で終着を迎える。
だが終着駅を過ぎても、無数の星団はなお深く連なり、神秘に溢れた世界の奥へといざなう。
衝突した星雲の最後の煌きが幾億年を経て届くころ、消滅した星が残した光のゆりかごの中から、まだ幼い星が産声をあげる。
この惑星、この銀河が生まれる遥か以前から繰り返された、いまだからこの目でみることの出来る、大宇宙の奇跡。
そして、緋と紫に彩られた風で荒れ狂う銀河の炎を超えるともう、わたしの目でも届かない。
それでもその闇の先にはまだ、無限ともいえる数の星が息づく、広遠な宇宙が拡がり続けているのだ。
畏怖に、心が震えた。自分が漠然と想像していた無限がどれほど狭く、矮小だったかを思い知らされる。

―――これが、世界を・・・・・・宇宙を、創るということ―――

人の創造力ではとうてい及ぶことの出来ない、絶対的な不可侵の領域。
圧倒的すぎる光景に恐怖すら覚え、打たれたように足下へ目を落とした。
茫洋と広がる馴染み深い青さに、ふるさとへ戻ったような安らぎを感じる。
あの頃は空を見下ろすなんて、夢想だにしなかった。こうしてみても、いえ、いまのほうが更に、美しいと思う。
ゆるやかな弧の先まで遠く隔たる青の景色を目で追ったとき、何も無いはずの空に、一瞬だけ、銀の輝きがはしった。
陽光に反射された光は、次の瞬間にはもう、青空の大海へと隠れた。
本来なら見える筈のない透明な輝きを視界に留めたとき、わたしの脳裡を、天啓のようにひらめくものがあった。

「そう・・・・・・そういう意味なのかもしれない。」

思わず口をついた呟きを聞きとがめ、薫が目だけで問いかける。

「わたしの大好きな詩があるけど、いままで、正確な意味は知らないままだったわ。」
「それが?」
「詩を作ったのは百年も前の詩人だけど、もしかしてその人には、わたしがみえたのかな、って思ったの。」

話がまるでみえず疑問符を浮かべた彼に、見上げた空といつも一緒だった、あの詩を諳んじた。

   青ぞらのはてのはて
   水素さへあまりに稀薄な気圏の上に
   「わたくしは世界一切である
   世界は移らう青い夢の影である」
   などこのやうなことすらも
   あまりに重くて考へられぬ
   永久で透明な生物の群が棲む


詩人の時代から時は過ぎ、季節を奪われた地は冬を忘れ、緑の木々は、冷たい金属の柱に変わってしまった。
でも今もまだ、その生き物たちはむかしと変わらず、澄み渡った空を悠然と泳いでいたのだ。

「君に、見えたんだ?その世界が・・・。」
「ええ。幽かだけど、いまもみえている。」
「・・・僕には、わからない・・・。」

薫はどこか寂しげに、わたしと同じ空を眺めた。

「あなたにもみえてる筈だわ。ただ、気づいてないだけ。」

そう答えると一瞬、わたしに顔を向けたが、空中を歩くように目の前を通り過ぎ、脚を止めた。
しばらくは彼だけ時を止めたように、背を見せたまま佇んでいたが、

「世界は青い夢の影、か・・・・・・綺麗だね・・・・・・。」

青空から目を逸らさずに呟いた言葉を、ぽつりと虚空に響かせた。
彼が云ったのはこの世界なのか、言葉そのものを指すのか。あるいは両方かもしれない。

「ええ、本当に・・・。」

そう、世界は美しい。
昔はもっと澄みきっていたのかもしれない。人が生まれる以前の空は、今よりもっと、青かったのかもしれない。
人の棲む世には、醜くさや争いもあるけど、でも、それでもこんなにも、世界は美しい。

「・・・ねえ、変かしら?わたし、いま、嬉しいの。」

空を見続ける薫は振り向きも、返事もしない。それでもかまわず話しかける。

「青空のはてをみることができて。だって想像してたより、ずっとずっと綺麗・・・。」

そして、美しい世界を残したいと、心からそう思えたから―――。

もし、この世界もわたしたちも、誰かの夢にしか過ぎないとしたら、ずっと眠っていてほしい。
永遠なんて、ほんの一瞬。夢見人にとって、瞬きするほどの儚い時間。
でも、その刹那の刻を懸命に生きる沢山の命があるのだから、いつまでも見続けて欲しい、美しい青の夢を。


青ぞらのはてのはて

行き場を失った生き物たちが集う、天上の隠れ家。



青ぞらのはてのはて

やがてわたしも還るだろう。わたしの生まれた空の彼方、輝きに満ちた、あの生命の世界へと。

























「行くのかい?」
「ええ。時間は限られてるから。」

いま、心は、この空のように晴れやかだった。

「いろいろありがとう、薫。」

御礼を云うと、薫はさも意外そうな顔をした。

「まさか、感謝されるとは思わなかったな・・・。どういたしましてと、言っていいのかい?」
「いいの。あなたにはこれから、してもらうべきことが沢山あるから。」

その分も含めて御礼の前貸し、そう言うと彼は、どこか居心地悪そうに視線をずらした。

「言っとくけど、僕は、人との付き合い方なんて分からないよ。」
「あなた自身がうまくやっていきたいと思えば、自然と変わるわ。わたしはちゃんと変われたもの。」
「ずいぶん簡単に言うじゃないか。」
「ええ、変わるなんて、自分で思ってるよりずっと簡単よ。少し外へ目を向ければ、そこに世界は広がっているから。」

以前のわたしなら、こうも楽観的な言葉は出てこなかっただろう。確かに、変わったのだ。
薫は何か反論したげに口を開きかけたが、思い直したのか、諦めたようにわたしを見つめた。

「・・・ま、やってみるよ。あんまり自信はないけどね。」
「大丈夫。きっと出来る。」

気休めではない。不思議と確信めいたものが、わたしの中にあった。

「それを、あの娘にも伝えるつもり。わたしのやり方で。」

いつか夢でみた光景。いま思えば、あれは彼女の心そのもの。
本人もまだ自覚は無いであろう、孤独に震え、ぬくもりを求めて流す涙。
彼女は変わりたがってる。でもまだ、ほんの一歩が踏み出せていない。
言葉で伝える必要はない。わたしの心を見せるだけでいい。いまはあの時より、自分の力を上手く使えるだろう。

「だけど、もし、伝えることが出来なかったら、あなたに頼んでもいいかしら?」

彼の紅い瞳はほんの一瞬だけ揺らいだが、すぐに強い光で固められた。

「・・・受け賜わっておくよ。もしそうなったら、僕のほうから云っておこう。」
「お願いするわ。」

念を押すと真顔で頷いたのもつかの間、引き締めた口許をにんまりと曲げた。

「ま、それはともかく、彼にもちゃんと挨拶しておくよ。いろいろ興味も湧いてきたし。」
「・・・・へんな真似したら、許さないから。」

半ば本気で睨みつけると、ひょいと首をすくめた。そのおどけた仕種に内心で苦笑する。
いたずら好きな弟をもった姉というのはこんな気分だろうかと、埒もない考えがふと過ぎった。

地上へ降り立つ前に、一度だけ振り返り、

「よろしくね、薫。」

と、最後の挨拶をした。
薫は片手を軽くあげただけで、何も言わなかったが、降りてゆくわたしの背に、いつまでも彼の視線を感じた。


▼△▼


雲を敷き詰めた青空の底を破り、地表付近までゆっくりと沈んでゆく。
わたしの姿は、とうに人々から見えているに違いない。
こうして空から地上を俯瞰した景色は記憶の隅に残っているけど、いま改めて眺めると新鮮な感動がある。
鳥の景観を楽しむようにゆっくり巡ったあと、青色の巨人が待ち構える頭上でひとまず停止した。
彼女を取り込む必要はない。少しでも触れさえすれば、伝える方法はある。
苦痛など与えないが、当然、接触されまいと抵抗するだろう。薫にはああ言ったけど、うまくいくかどうか・・・。
でも、やってみるしかない。今度はわたしが、与えられたものを彼女に返す番だから―――。
彼女が護る大地の奥へ想いを傾ける。あのひとが駆る紫の機体が現れる前に、すべてを終わらせなければならない。
ひと目その姿を焼き付けたいと慕ぶ気持ちもあるけど、それを叶えることは出来ない。
未練を断ち切るように銃口から逸らした視線を、北の方角へと向けた。
燦然と降る夏の陽射しを受けた北の大地。たくさんの緑が、いまなお手付かずのまま輝いている。
彼の地にもいずれ、再び冬は訪れるだろうか。
コバルトの峰がそびえる風景を瞳に映し、静かに目を閉じる。
想像の中で、黒々と眠る山も、緑の落ちさった木々も、吹きすさぶ氷霧に埋もれてゆく。
見わたすかぎり一面の雪景色。身震いするほど底冷えする、透明な青ぞら。

―――やっと、みえた―――

淡雪のように消えゆく一瞬の情景を宿したまま、目を開き、使徒としての自分を解放した。












2016年。穏やかな青空がひろがる第三新東京都市の遥か上空に、突如として巨大な光の輪が出現した。
二条の紐を縒り合わせたような環状の物体は、徐々に高度を落としながら、強羅絶対防衛ラインを通過。
存在を察知したNERVは解析を急ぐも、オレンジのパターンのみ発する目標の正体について、MAGIは回答を保留。
データ不足のまま、司令部は零号機を迎撃に向かわせた。
白銀に輝く光の輪は大湧谷の上空まで辿り着くと、その場で停止したまま定点回転を続ける。
膠着状態に陥るかと思われた矢先、螺旋を描いていた二条の紐が束ねられ、一本の輪となった。
オレンジだった目標のパターンが青へと定まった時点で、司令部は目標を使徒と識別、殲滅を命じた。
司令部が発砲命令を出したが、零号機はライフルを構えたまま、一向に攻撃する気配がない。
業を煮やす指揮者の怒鳴り声も、操縦者である綾波レイには、まるで耳に入っていないようだった。
澄み渡った青空に浮かぶ白銀の輪を、彼女は零号機のコクピットの中から、魅入られたように見つめていた。

「あれも、使徒・・・?」

ドーナツ状の輪はその形を崩すことなく、羽根が舞い降りるような静けさで、ゆっくりと青い機体に近付いてゆく。

「・・・まるで、天使の環・・・。」

比喩を知らない少女の唇から、ためらいもなくその言葉が漏れる。
零号機の目の前まで降りてきた円光は、徐々にその輪を縮め、やがて繭を思わせる球形になった。
我に返ったレイはライフルを構えなおし、トリガーに指をかける。
が、輝きを増した光の繭が孵化したとき、今度こそ彼女は、目を瞠った。

「これは・・・・・・わたし・・・・・・?」

驚きで照準を合わせることさえ忘れた彼女の目の前に、柔らかな銀の光に包まれたもうひとりの自分が、そこに立っていた。
綾波レイの姿をした使徒は慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、零号機ごと抱きしめるように、両腕を広げた。



< 了 >



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