AngelRing (5)」

「綾波っ!」

姿より先に、暗がりの中から救いの声が届いた。

「碇くんっ!!」

闇を切り裂いて現れたまっ白なワイシャツの中へ、一目散に飛び込む。

「ち、ちょっと綾波、どうしたの?」

狼狽する彼から離れまいと強く押し付けた頬が、硬いペンダントに触れる。

「怖い・・・。」
「え?」
「怖い・・・・・・怖いの・・・・・・わたし・・・・・・。」
「あやな・・・。」

幼子のようにすがりつく私の背中を、彼の両腕が柔らかく包みこむ。

「大丈夫だよ。僕はここにいるから。」

限りなく優しい言葉に、また涙が溢れる。
ワイシャツ越しに伝わる体温が、寒風吹きすさぶ心の風穴を塞いでゆく。
もっと抱きしめて欲しい。もっと温かさをわけて欲しい。
折れるほど強くして、二度と貴方から離れることがないよう、ずっと捕まえて欲しい。

「お願い・・・ずっと一緒に・・・・・・。どこへも、行かないで・・・・・・。」

しなやかな彼の指が、絡みつく髪をほぐすように、優しく撫でてくれる。
そのぬくもりが闇に固められた心を溶かし、その優しさが、冷たい涙を乾かす。

たとえ、嘘で塗り固めた幸せだとしても・・・
たとえ、他の存在がどうであろうと・・・

唯ひとつの、安息の地。
このぬくもりだけが真実、私のすべて。

彼さえ、彼だけさえ傍に居てくれるのなら
それさえ叶えば、後はもう―――

泣きはらした目を上げて見つめた瞳の距離は、息が触れ合うほど近い。
紅と黒の視線が熱く交わり、ひとすじの絆となって惹きあう。

―――このまま、ひきこまれたい―――

触れ合う吐息はいっそう距離を深め、曇りのない黒曜の瞳に、紅の瞳が映りこむ。
シャツの背を握りしめた両手を解き、革紐のかかった首すじからうなじへと、指を這わす。
二つに割れた欠片を合わせるように、失った半身を取り戻すように、求める。彼を。

唇が重なりあう寸前、閉じかけた瞼の奥に、真紅の記憶が奔る。
優しいその瞳が、憎悪にまみれて私を見た、あの瞬間―――




『綾波ぃぃっっ!!』

 血を吐くような絶叫
 混迷のなか呼ぶ声が近づく
 つめたい笑みで応えると
 安堵でにじむ瞳が愕然と見開き

『畜生ォっっっ!!』

 憎しみの闇に燃え上がった双眸が
 朱に染まり
 輝きを失った
 虚ろな珠へと変わり―――




「・・・・・・・・・っ!!」

みしり、と音を立て、記憶の底が軋む。
亀裂から洩れ覗く封じられた光景に慄然とし、引き裂くように身体を剥がした。
腕を抱いて震える私に、呆然とした視線が投げかけられる。

「・・・どうして・・・?」

悲しみを帯びたその声音に、自分がいま、何をしたのかを悟った。
急く感情のまま釈明しようとしても、伝えたい想いが有り過ぎて、言葉にならない。

「・・・なさい。」
「えっ?なんて言ったの?」

手を差し伸べて近づこうとする彼から逃れるように、一歩、後ずさる。
私のこの態度が、どれほど彼を傷付けてるのだろう。

「・・・御免・・・なさい・・・。」

漏れそうになる嗚咽をこらえながら、ようやく、その言葉だけを振り絞った。
困惑しながらも彼は、いつもの笑顔を見せようとした。

「どうしたんだよ、綾波。なんで謝って・・・。」
「違うっ!」

だが、形作られるはずのほほ笑みを、私が打ち壊した。

「・・・・・・・・・違うの。」

隠し切れない
抑え切れない
耐え切れない、真実に。







「・・・ご免なさい・・・。」

無理して笑ってくれようとして


「・・・ご免なさい・・・。」

いつも、貴方の優しさに甘えてばかりで


「・・・ご免なさい・・・。」

それなのに、貴方を傷つけて


「・・・ご免なさい・・・。」

いままでずっと、騙し続けてて


「・・・ご免なさい・・・。」

綺麗って云ってくれたこの髪も


「・・・ご免なさい・・・。」

ぬくもりを感じた肌も


「・・・ご免なさい・・・。」

切なく見つめるこの瞳すら
貴方が愛したひとではなくて


「ごめんなさい―――。」

私が私ではなくて


「ごめんなさい―――。」

貴方を護れなくて


「―――ごめんなさい―――ごめんなさい―――ごめんなさい―――。」

彼女を殺してしまって
貴方も殺してしまって
すべてを奪ってしまって
世界までも滅ぼして
本当に、本当に、御免なさい―――







打ち伏せた瞳のはしに在りえるはずのない光を感じ、恐る恐る顔をあげた。
すこし困ったような、どこか諦観したような笑顔が、まばゆい灰色の輝きに包まれながら、朧に消えてゆく。
私が見ることの出来た、彼の最後の微笑みだった。


▼△▼


真夜中より暗いそら。
冷たく枯れ果てた、虚ろな空気。
すべての色彩を失った、かつての夏。
持ち主を無くした十字のペンダントはひび割れ、無言のまま足もとに横たわる。
砕けてしまった空色の欠片を握りしめ、静寂しか残らない世界の底で、ただ独り、涙を零していた。

「―――駄目だったか。」

屈み込んだ私の背中に、抑揚のない言葉がぽつりと投げられた。

「・・・・・・思い出したわ・・・・・・なにもかも・・・・・・。」

振り向く力も、涙を拭う気力もないまま、独り言のように呟いた。

「そのようだね。」

相変わらず、表情のみえない声。
私も、その顔を見たいとも思わない。

あの戦いの最中―――綾波レイは、使徒を道連れに自爆しようとした。
だが、爆発するわずか数瞬前、彼女のすべては使徒に取り込まれた。
反転させたATフィールドを瞬時に戻すと、自分の周りだけに結界を張り巡らせた。
爆煙で視界を遮られながらも砕け散った残骸の中に浮かぶ人影を捜し出した初号機は、彼女を助けるためハッチを開いた。
しかし、綾波レイの姿をした使徒は、初号機のエントリープラグごと、彼をも取り込もうとした。

「・・・そのことに気付いた彼は怒り、使徒に殺意を向けた・・・。」

使徒は彼を殺すつもりはなかった。
使徒の目的、それは、綾波レイの願いだったから。
閉じようとするエントリープラグを引きずり出し、彼とひとつになる。それで目的は達せられるはずだった。
だが、彼の怒りに呼応した初号機が自ら動き、ATフィールドごと、使徒の本体を切り裂こうとした。

「・・・使徒は最後まで、彼を殺すつもりはなかった・・・・・・・・・そう・・・思う・・・。」

あれが事故だったのか、苦し紛れだったのかどうか、今となっては定かではない。
確かなのは、プラグを侵食していた光の鞭の一本が跳ねあがり、彼の心臓を貫いたことだ。
その命の灯火が消えたとき、悲鳴のような初号機の咆哮が、大地を震わした。

「・・・でも、初号機以上に動揺したのは、使徒だった・・・。」

これまで経験したことのなかった、胸が張り裂けそうな哀しみ、苦しみ、やるせなさ。
こころを持たなかった使徒にとってまったく未知のその痛みに、耐えうる術はなかった。
吹き荒れる初めての感情に惑い、突き動かされながら、狂ったようにもがき続けた。
その場で初号機に八つ裂きにされなかったのは、彼の亡骸が入ったプラグを取り戻すほうに気が逸れていたのかもしれない。
僥倖というべきなのか、プラグを奪われながらも辛うじて使徒はその場から逃れた。そして、新しい目標を定めた。

「アダム―――次なる世界の扉を開く、運命の鍵。」

それが彼を甦らせる、いや、望みを叶えることの出来る唯一の手段であることを、本能的に悟った。
アダムを探り当てるのに、綾波レイの記憶は役に立った。
ドグマの奥ではない、本物のアダムを見つけ出して、奪うことに成功した。
アダムとの融合を果たした結果、サードインパクトが起こり、新たな世界が産み出された・・・。




「―――碇シンジの再生を望んだのは、リリスの魂が逆にキミの意思を乗っ取った、というわけか。」

わけ知り顔の言葉にうんざりしつつも、疲れた身体を持ち上げた。

「いいえ、そうじゃない。」

たしかに彼女の自我は、もはや自分と切り離せないレベルまで同化してしまっている。
が、それがリリスとしての力なのか、彼女自身の意志の強さが影響を及ぼしたのかは明確でない。
他者を取り込むこと自体、初めての経験だったのだ。なぜこうなってしまったのかなんて、自分にも解らない。
ただ、彼女を取り込むことで芽生えた自意識が、ある疑問を生み出した。
何故、アダムを求めるのか。
何故、ヒトの心に興味を持ち、融合しようとしたのか。
次の世界に、何を求めていたのか。

「知識を手に入れて、初めて・・・・・・・・・気付いてしまったの、空っぽの自分自身に。」

アダムを得て天地の創造を担うはずの神は、新たな世界を築き上げるべき礎を、なにも持ってなかった。
夢も、未来も、目標も、情熱も、希望も、支配欲も、なに一つとして。
『何故』 と疑問を持つ知性すらない、ただ生きのびようとする原始の本能だけが、そのすべてだった。
餌に惹きつけられる蟻のように、遺伝子に織り込まれた欲求に命ぜられるがまま、アダムを求めただけ・・・。

「だけど、リリス・・・いえ、綾波レイには、それがあった。」

夢と呼ぶには、あまりにささやかで、儚すぎる願い。
その一点を除けば、自分と同様、空虚な存在に過ぎなかっただろう。
でも、彼女にはそれがあった。空ろだった胸をほのかに満たす、一縷のぬくもりが。

「だから、託したの・・・・・・彼女の望みに。」

いま振り返ると、それすら歪な夢だった。


―――碇くんと、ひとつになりたい ―――


童女のように一途で、世間知らずな彼女の想いを、人の営みなどまるで知らない使徒は、忠実過ぎるほど叶えようとした。
二人きりの世界を脅かす可能性のある、あらゆるものは世界から排除された。
他者はしめ出され、都合の悪い情報であれば記憶までも、意識の奥底深くに閉じ込められた。
すべては、哀しいまでに純化された、幼い願いのために。

「どうも・・・・・・最初から無理があったようだな・・・・・・この世界は。」

ため息交じりのその言葉に、肯定も否定もなく、無言で首を垂れる。
どれほど忘れたくても、罪の意識だけは、最後まで消し去ることが出来なかった。
そう、彼の肉体も魂も、はじめから此処に無い。
綾波レイの持つ記憶と、わずかな侵蝕で得た情報を基に再構築された、かりそめの存在でしかない。
私が疑念を持てば、彼は消えてしまう。だから、盲目的なまでに信じるしかなかった。

「・・・で、これからどうするつもりだい?」
「どう・・・って・・・。」
「壊れてしまったとはいえ、まだキミはこの世界の主だ。キミさえ望めば、また好きなように創り直せる。」

その言葉は私に、塵ほどの感銘も与えなかった。

「・・・・・・もう、いいの。」

いまとなっては、何もかもが辛い想い出でしかない。
私が消えてすべてが終わるのなら、それでいい。いや、消えてしまいたい。

「あなたにあげるわ。創造主でもなんでも、好きなのになれば?」
「そう簡単にはいかないのさ。世界を創ることが出来るのは、アダムと融合を果たしたキミだけだから。」
「どうしろと言うの?」
「うーん、そうだなあ・・・。たとえば、キミと僕がひとつになる・・・とか?」
「それだけは、死んでも嫌。」
「嫌われたもんだねえ。まあ確かに、キミを殺したあと融合する手も無くはないけど、僕の美意識に反するし・・・。」

・・・五月蠅い。

独りで居たいのに、出来るなら死んでしまいたいのに、どこまでこの男は、私を苛立たせるのだろう。

「いいから、消えて。それとも、力ずくで排除されたい?」
「ま、僕だって無理に神さまになりたい訳じゃないさ。ただ、キミさえちゃんと、次の世界を創る役割を果たすなら―――。」
「やめてっ!!」

怒りで両膝を奮い立たせ、薄笑いを貼りつけたその顔を仇のように睨みつける。
もう沢山だ。世界も、運命も、呪われた自分という存在も。

「そこまでして生き延びて、何の意味があるのっ!?わたし一人の世界なんて、何の価値が!?」

生まれてからずっと、自分はひとりぼっちだった。
以前はそれで良かった。寂しさや人恋しさなんて、無縁の存在だったから。
でもいまは、いまとなっては死より、孤独が怖ろしい。

「・・・・・・全部、無くなればいいのに・・・・・・過去も・・・・・・未来も・・・・・・ぜんぶ・・・・・・。」

私が世界を滅ぼした悪魔なら、いっそ、血にまみれた手をもって徹底的に破壊し尽くして、自分を含めたすべてを葬り去れば、

「・・・・・・なにも・・・・・・欲しくない・・・・・・・・・世界なんて・・・・・・いらない・・・・・・。」

そうすれば、少しは楽になれるだろうか?
彼への、彼女への、この手にかけてしまったあらゆる生命への、償いになるだろうか。

「―――それでも、世界は続かなければならない。」

一片の感情も紛れ込む余地のない、完璧なまでに無慈悲な声が、私の激情に冷水を浴びせる。
顔を上げると、笑みの消えた能面のように白い表情が、得体の知れぬ威圧感をもって立ち塞がった。

「破壊は創造の引き金でしかない。ひとつの世界の終焉は、新たな世界を導く。キミの意志がどうであれ、無関係にね。」

余韻を響かせるように言葉を切ると、嘲りも憐れみも慰めもないすべてを超越した瞳で、私を射抜いた。

「キミが止めたくても、連綿と続く世界の営みを終わらせることも、消し去ることも出来ない―――それが運命なのさ。」
「そんなの・・・・・・そんなこと・・・・・・誰の意思で・・・・・・。」
「僕だってすべてを知ってるわけじゃない。なぜ、僕らという存在があるのか。自分がどこから来て、どこへ行くのか・・・。」

問いかけるようなその視線は私の顔をすり抜けたまま、私を、いや、何ものをも視ていなかった。

「キミが世界を創ったように、どこかに僕やキミの造り主がいて、僕らはただ、それに従うしかないのかもしれない・・・。」

・・・もし、こんな結末までもが予め定められてたとすれば、私はその存在を、心底呪う。
どんなに睨んでも、怒りをぶつけても、無情な仮面は小揺るぎもせず、厳然と対峙する。
疲れ果てた私が膝をついても、醒めきった紅い瞳は、僅かばかり見下ろしただけだった。

「・・・どうするか、好きなだけ考えればいい。どうせ時間なんて無意味だからね、この空間では。」
「無意味?」
「メビウスの輪みたいなものさ。過去も未来も等価値なんだ。たとえキミがここで何兆年悩んだとしても、いずれ元の時間まで遡る。」
「メビウス・・・・運命の・・・・輪。」

固く閉ざした指に力を込める。私はまだ、運命などというものに弄ばれなければならないのか。
まっ白に握り締めたままのこぶしを、じっと見つめた。いつまでも、いつまでも・・・・・・。


▼△▼


たしかに此処には、時間という概念は無いのだろう。跪いた私はそのまま石となって、悠久の時を過ごしたかのようだった。
が、その永遠も終わりに近付いたころ、ようやく私は、血の気を失った白い指を開いた。
掌にあった欠片はもう、影も形も無い。何も持たない両手を支えにして、力なく立ち上がった。

「ひとつ、教えて。」
「なにを?」
「過去も未来も同じ・・・なのよね?ここは・・・。」
「ああ。」

乾ききった喉から、無理やり次の言葉を絞り出す。

「・・・仮に、私が望めば・・・・・・過去に遡りたいと、そう望めば・・・・・・叶え・・・られる?」
「キミがそう願えば、ね。」

恨めしいほど簡単に、つきつけられた回答。

「・・・・・そう・・・・・。」

半ば予測していたはずの答えだったのに、聞いてしまったことに後悔すら湧き上がった。

「いっそ、後戻りできなければ・・・・・・いえ・・・・・・でも・・・・・・。」

意味を成さない言葉を呑み込み、苦い心で空を、いや、かつて空だったものを見上げた。
あれほど高かった空のはては、小鳥がぶつかりそうなほど低い場所でひび割れている。
あらためて周りを見渡すと、至るところに亀裂の入った世界は、箱庭のように小さい。
ささやかな少女の夢そのままをミニチュア化したような、閉じ篭った空間。

「・・・こんなに、狭かったなんて・・・。」

彼との、ふたりだけの世界。
透明過ぎてなにも視えなかった、硝子細工の檻の中。
あの頃のように、広い空を夢見ていたら、
永遠に続く幸せを疑いもなく信じられたなら、
まだ、此処に棲むことを許されていただろうか。

たとえ、歪んだ世界でも、
偽りだけの世界だったとしても、
此処が、私にとってのイーハトーブだった。

























わたしだけの、理想郷


























だけど

























「さよなら。」





無辺の鏡が砕ける音を轟かせ、世界が崩れた。
飛散した幾千億もの破片が蛍火を放ちながら、渦巻く奔流となって天へ駆け上る。
足場を失った身体は見えない腕に掴まれたかのように、奈落の底へと引きずり降ろされる。
闇に投げ出されたまま落下の感覚を見失い、強い力に抗う術もなく引っ張られてゆく。
一すじの光明すら許されぬ濃密な虚無の中で、離れゆく世界の欠片だけが、天の川のように輝きを放つ。
遠ざかるその煌めきを瞳に焼きつけようと、瞬きも忘れて見続ける。



すべてが闇に埋もれたあと、静かに瞼を閉じ、最後の涙を流した。



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