見たことがある。ただなにも思わなかっただけ。

根も歯もない噂話と同じ。ただ聞いたことがあるだけ。

見よう見まねでやってみて、うまくいかなかった。ただそれだけのことだった。






NEONGENESIS EVANGELION

-Growing Comedian-


EPISODE 17.5

それは、あまりにも苦く






 バレンタインデーだから。そのお題目で職場にチョコレートを配って回るような風習はすでに滅んだ。数多の消滅と共に、2000年9月13日に消え去った。だから世界最先端の設備に囲まれたネルフ本部においても、今日が2月14日だからといって女子職員が菓子を配って回るようなことはない。食堂の定食のデザートがチョコレートムースなのは食堂の管理栄養士の趣味趣向だ。豆乳をベースとしており健康への気遣いもされている。
 券売機のボタンを押してチケットを受け取る。日替わり定食で使われている野菜の生産者情報が書かれた看板を無視して水をくみ、唯一座れそうな場所に行くと、実に不満そうな先客が少しだけ席をずらして、不承不承といった様子で座ることを許してくれた。12時台の食堂は賑わっているので、断られたら座る場所がない。助かった。レイは同僚の少女の隣に座り、スプーンを取ってカレーを口に運んだ。
 ネルフ本部で働く職員は、役割の軽重はあるにせよ、各々の職責の先には人類存亡の危機に立ち向かうことを目的としている。だから日々殺伐としているわけではなく、食堂では家庭の愚痴やゲームの話、近所にできた地産地消のケーキ屋の話、遠方に住まう両親への介護の話も当然出る。国政に深く関わる広告代理店の社員より更に堅牢な口の堅さは必要だが、食事時は当たり前に賑わいを見せる。その中にあって10代の二人が座る席が一番賑やかさと無縁の空間だった。
 賑わう食堂で席を見つけられないでいる伊吹マヤが遠くに見える。傍らの少女が手を振ってあげているのを見つけ、やや早い足取りで近づいてきた。
「ありがとう、普段ピークタイムに来ないからびっくりしちゃった」
「あたしも。気にしないで、誰と食べたってメシの味は変わんないから」
 ゴールドブラウンの髪を珍しくひとつに束ねている惣流アスカが誰の目にも違和感なくB定食を食べながら言う。大きな瞳は青みがかったブラウンで、しかし器用に箸を使ってサバの味噌煮の小骨を取り除く少女の、海外との交流が絶えて久しいこの世界では珍しくハイブリッドされた様相。普段マヤが目にしないであろう混じり合ったその違和感を見て、彼女は心地良さそうに頷いていた。
「レイもありがとう、お邪魔するね」
 声をかけられ、軽く頷いたまま沈黙を守って、街の郊外に作られている浄水設備と養殖場を兼ねた実験施設で作られた海産物で作られたシーフードカレーを食べる。そんな受け答えにも慣れたのか、マヤは気にした様子もなく日替わりランチのアジフライ定食を置いて席についた。
「レイ、この間送った服、着てみてくれた?」
 かけられた言葉にも、さっきと同じ力加減でかぶりを振っても、同調を示す意味で頷き返してくれる。もし着る気になったら着てみて。気に入らなかったら、そのまま捨ててくれていいからね。頷く彼女が自分のなにを理解できたのか、理解できないまま進むが違和感はない。およそ着る機会のなさそうな段ボールひと箱分の服のことを思い出す。
「えーなにそれ、あたしにくれなかったの?」
「引越しの時に処分しきれず段ボールに入れっぱなしだった、学生時代の服だからなあ。型落ち、古着、理系女子の地味なだけの服でアスカが満足してくれるっていうなら送ってもよかったんだけど」
 ああ、と小刻みに頷いて緑茶で口をさっぱりさせたアスカが言う。それならいらないわ、別に。
「それよりさあ、伊吹二尉、今日のあたしの最終総合値どうだった?」
「まだ出てない。慌てないで。今日はMAGIを使ってないから少し時間がかかるの」
「なんで?サボり?」
「そうじゃなくて、定期メンテ。有機生体ブレードの」
 第3新東京市の地下空間に拠点を置く特務機関ネルフの運営上の要となるのは、防衛都市ジオフロント、ネルフ本部地下にあるセントラルドグマがもたらす地熱エネルギー、そして都市管理およびネルフの任務すべての運行管理統治する有機コンピューター『MAGI』だ。今日はそのメンテナンスが行われる日だったため、昨日からその準備のために泊まり込みだったんだ、とマヤが肩をすくめて薄い笑みを浮かべた。24時間防衛体制のネルフは夜勤用に宿泊施設が完備されている。ピラミッド型の本部施設ではなく、ジオフロント内部施設にあり、地上で言う研修施設のような宿泊場所が用意されている。そこでは地熱を利用した大浴場もあり、職員からの評判もすこぶる良く、レイも利用者の一人だった。管理運営上、食事施設はないが、その代わり、前日までに申請しておけば、この食堂で夜食または朝食用の弁当を受け取ることができる。
 昨晩はおにぎり弁当を受け取って食べて、夕飯も多分ここで食べることになるの。さすがにこれが三日続くと少しずつ飽きてきちゃうんだよなあ、栄養管理完璧だから助かるけど、と本人なりに思うところを口にしたマヤが副菜のひじきを口に入れた。でもまあ、文句を言ったらバチが当たる味だよね。
「アスカは平均900ポイントでしょう。今日の結果ひとつに一喜一憂しなくてもいいんじゃない?最高水準よ」
「わかってる。でも結果は知りたい。あたしは今日のあたしを知りたいの」
「わかった。修正プログラムを走らせている間、私も解析班を手伝うから」
「それで、ナンボ早くなるの?」
「30分くらいかな」
 自分たちが搭乗する汎用人型決戦兵器はすべてが機械化された人型機動兵器ではない。そのうえそれを操縦するのもまた人間だ。特にエヴァとのシンクロを行った上での操縦訓練をスコア化するのは、フィギュアスケートの採点をするかようにゆらぎが出る。速報ではこれまでの平均値から算出するが、操縦者にとって信じるに足る数値とは言えない。
「エヴァに乗るって意味じゃ、不便な体ったらありゃしない。子供なんていらないってのに」
 彼女の持論は騒がしい食堂でもよく通った。人口減少著しいこの世界で女性に求められる役割とは明確に異なるその持論は、なおさらよく響く。
「女性の特権とも言えるんじゃない」
「女に課せられた呪いとも」
「まあどっちでも。私も全然想像つかないし。今どきの女が25にもなってね」
「伊吹二尉は今どきの女子じゃないでしょ」
 水を飲む動きに混ぜて、レイは顔を上げてマヤの顔を見る。
「普通が何かにもよるかな」
「適度な会社で適度な役割、適度な賑やかしって感じとか、女子だから男子にはいどうぞってチョコレート配り歩く的なポジションでもないでしょ」
「それはまあね。でもそういうのだって悪くないって気もするよ?私にはもちろん無理なんだけど」
「甘いなあ、そんなこと言ってたら男女平等は遠い未来の話になるのに」
 アスカがチョコムースをぱくりとひと口。女子から男子へプレゼントって時代は終わってんの、と言いながら。
「感謝とか、何かしてあげたいって気持ちを示す機会としてはいいじゃない」
 そういうものなのか、と考える。
「それに、とりあえず、今日はデザートがチョコムースでラッキー!それでいいんじゃない?」
「異議なし」
 会話が一段落したからか、マヤがたまらずといった様子で笑って豚汁をすすっている。新玉ねぎ入りで甘くておいしい、と言うマヤが続ける。
「正直、チョコレートをあげられるような大切ができれば文句ないんだけどなあ」
「大人があげると意味が重いもんね」
「そうねえ…………アスカは、友チョコ配る派?」
「んなわけないじゃん、あたしの思いはそう易々と切り売り量り売りしてないんだから」
 そういうことなら、彼女のチョコレートの意味は重いということになるのだろうか。その疑問に対する問いかけが伊吹マヤの口から出てきてくれることはなかった。
 それはさておき、と最後のひと口を食べ終えたアスカがほうじ茶をすすってから口を開いた。
「あたしの弐号機、どうなるわけ?参号機が来るんでしょ」
 まだ正式決定されていない事柄について大声を出すつもりもないのか、さっきまでとは打って変わって声は抑え気味だ。隣のテーブルの耳には入っているかもしれないが、そもそもこの食堂はB級職員以上しか入れないので、相応の情報を知っている者たちばかり。それを知らないアスカではないはずだが、その意図を察して自身も控えめな態度を示すことにした。
「今は使徒と人類の言わば戦時下だから、通常運用とは違う運用ができるって理事会には返答するって聞いてるけど。それが受理されれば、封印措置は取らないかな」
「そりゃあそうでしょ。使徒はドグマ目指して来てるんだし。んじゃ、零号機も弐号機も封印は免れるわけ?」
「政治はわからない。自分で言うのもなんだけど、根っから技術屋だし」
「うまくいったら、なに、エヴァ4機を独占所有ってことでしょ?その気になりゃ世界を滅ぼせるじゃん」
「それは、そうね」
 剣呑な発言だったことに気づかない彼女でもない。意図的であることをマヤもわかっていそうだった。レイは視線を右に左に移しながら2人の話を聞く。
「それに、こんな時のためのアイツだったんじゃないの」
 あいつ呼ばわりされているのが渚カヲルであることは明白だった。がしかし、ネルフユーロドイツ支部所属で、本部へは『預かり』状態だから、アメリカ支部のエヴァには乗せるハードルは高い。元々国連直属のネルフ自体、本部を除いた各支部は各国の軍事施設を間借りしている。本部も戦略自衛隊からの出向組はそれなりの数がいる。葛城ミサトがそのいい例だが、それはあくまで想定されるネルフ本部への使徒襲来に備えてのことだ。ユーロ、アメリカ支部は軍からの出向組の比率が本部に比べて高く、どちらかというと軍をベースとしているという性質上、そこには譲り合えることとできないことがそれぞれ山のようにある。
 マヤがチョコレートムースをひと口入れて、その控えめな甘さに舌鼓を打った。地産地消はいいが、カカオはどこから調達したのかなあ、というひとりごとを挟んでから、
「そう簡単な話じゃないみたい」
「簡単な話でしょ?エヴァが来る、パイロット候補者がいる」
「そうなんだけど、3号機は所有権の問題が面倒らしいのよ。アメリカ産だから」
 アスカにも思い当たる節があるのか、ため息を合図に会話を切ってきた。彼女の愛機がドイツからパナマ運河経由で日本へ運ぶのではなく、ライムシュタイン空軍基地経由で一旦アメリカへ送り、最終調整をアメリカ第1支部で行ったことも、その所有権が関係していたという経緯もある。米国第7艦隊による輸送も、権威の主張以外の何者でもない。
 プロダクションモデルの弐号機以降の素体はネルフ本部およびアメリカ第1支部の共同開発となっており、実質本部の要請を受けたアメリカ第1支部のOEM版とも言えるものとなっている。ネルフ本部はそれを原価で買い取り、ドイツ第3支部へ配属させていた。買い取り後についても諸条件があり、それが本部への輸送時における最終調整と艦隊による輸送の直接的な原因となっていることをアスカもマヤも知っているらしかった。
「あぁ、やだやだ大人の事情」
「その愚痴と上申は、葛城一佐にしてちょうだい。私みたいに代わりが効く技術屋に言っても仕方がないんだから」
「そうする」
 ご馳走様、と手を合わせるアスカの髪が揺れる。
「でも、赤木リツコの右腕なんて、相当人を選ぶと思うから、替えの効く人間ってほどでもないでしょ、伊吹二尉も」
 レイは、からんと音を立ててスプーンを置いた。アスカの仕草より大きな音だったそれに2人が意識を取られた時には、すでに立ち上がっていた。アスカが顔を顰める。
「あんたさあ、そういうところで雑っつーか、なんつうか。ご馳走様のひとつも言わないんだ。根本の所じゃ、エヴァに乗れる自分が唯一無二で無作法なんて知ったこっちゃないって思ってんじゃないの」
 ふん、と鼻を鳴らしたアスカがしかし、親の顔が見てみたいとは言わないけど、と添えて髪を掻いた。
「ごめんなさい」
「謝んないでよ。そうじゃなくて、ご馳走様でしょっつってんだけど、あたし」
「ごちそうさま」
 アスカに倣って手を合わせて言ってみせると、彼女はまた鼻を鳴らした。
「まあとりあえず、午後も頑張りましょう」
「もう頑張ってる」
 棘のある言葉がマヤを襲う。レイは立ち上がった彼女を見上げると、青い炎が瞳に浮かんでいた。
「だから、その頑張りを嘲笑うようなフォースの人選をしようもんなら、誰であろうと許さないから」




◆◆◆



 本物の空はつまらない。感動とか、ない。
 その代わり、飽きることもない。動きのない空も、雲がぐんぐんと動きをつける空も、見飽きることがない。昔からそうだった。青い海も赤い海も、見ているうちに、どうしたらいいかわからなくなってくる。そしてそのうち、どうにかしなきゃ、という気にさせられる。何時間でも海を見ていられるという人もいるらしいけど、僕にはわからなかった。
 屋上で寝っ転がっているうちに眠気がやってくるのは自然の摂理だ。でも毎日規則正しく10時に寝てればそんなこともないだろう。ただしそれは理想論。机上の空論だ。健全な男子たる僕のスマホの指を操る手と煩悩はそれを許さなかった。たったそれだけのことで、目に折りたたんだタオルをあてて今こうして寝ている。タオルの隙間から見える空を見る限り、今日の空は動きが乏しかった。
 第3新東京市は、使徒襲来以来、喧騒と静寂を繰り返している。街の規模と設備からすれば人口の少ない過剰投資された街だった。この街は表向きは政府が標榜する持続可能な社会を実現するための都市で、世界的な食糧不足と深刻なエネルギー不足、気候変動を解決するためのテストケースとされている。自給自足率100%、再生可能エネルギー利用率85%が目標設定値だ。そのため、住人の多くは無駄なエネルギー消費を許されていないし、市による大規模な田畑と果樹の管理、畜産業への手厚い補助などが出ている。農業を副業にする家庭への補助や時短勤務なども取り入れられている。その評判は賛否両論あるらしい。僕が聞く限りでは、その比率はやや賛が優勢、といったところだ。欺瞞と税金の無駄遣いとも言われているし、未来のための投資こそ、減りすぎた人口を取り戻すために必要なことだと支持されてもいる。その実体は僕やアスカや綾波が使徒と戦うための迎撃要塞都市だったことが発覚したわけだけど、街の機能はあくまで表面的にはそういう、エコと人間社会のための最先端都市としての運用が続いている。
 風が吹いて、タオルがめくれて薄目で見ていた空が広がった。空とは違う、評判の悪いジャンパースカートの裾が見えて、昨晩見た動画を思い出した。
「碇君?」
 同じクラスの君塚さんだった。クラス委員の洞木さんと仲が良い人だという認識だけど、話した記憶はほとんどない。強いていうなら、僕にとっては顔が好みじゃないということくらいの追加情報しかない。あとたぶん、それなりに胸が大きそうだということくらい。
「なに」
 眠気を払う気力の涌かない相手に邪魔をされるのは腹立たしかったので、態度に出てしまっているかもしれない。それがどうだったとしても、僕の知ったことではない。正直言って体調が良くなく、立ち居振る舞いってものを気にするべき相手かどうか、吟味するほどの気力もない。
「珍しいね、寝っ転がってるなんて」
「そう、珍しいんだ、君塚さんには」
 ならば起きよう、あなたの関心を引く態度を取るつもりもないから。いやあ、起きろって言ってるんじゃないよ、ただ珍しいなってだけで、と彼女は面倒くさそうに言うと、ラミネートフィルムに入れたチョコレートを渡してきた。
「今日バレンタインだから、渡しておきたくて」
「どうして」
 見上げた彼女の表情が逆光で曇って見える。シンジは訊ねながら立ち上がって受け取った。ありがとう、受け取ってくれて。そう言う彼女の方が下がったのが見えた。
「そっちがお礼を言うの」
「受け取ってもらえるってあんまり思わなかった」
「そう」
 そうだよ、と言う彼女が立ち去らないので、見上げると、彼女はじゃあね、と言って校内へ戻っていった。
 もう一度座って、袋を開けた。チョコレートがコーティングされたクッキーと思しきそれの匂いを嗅げば、業務用のチョコレートの渋い匂いが鼻腔を刺激する。それでもそれは彼女が昨晩だか土曜日だかにチョコレートを溶かしてクッキーに浸し固める作業を行ったことを示唆している。もしかしたら家族の誰かが代わりにやったのかもしれないし、クラスメートの誰か、それこそ洞木さんと一緒に作ったのかもしれない。自分の手で作ったかどうかの確認なんてしようもない。今日はやたらとチョコレートをもらう。それが思っていた以上になんの感慨も湧かない。今日何個めだったっけ。受け取った菓子は匂いを感じない程度の側に置いて、今度はタオルを二つ折りにして目を覆った。その頃にはもう、何個目のチョコレートだったか数えようとしたことも忘れてしまった。それから目を閉じると、すぐに暗闇の夢の中に入ることができた。


 ジオフロントに入って病院で健診を行い、異常なしと診断されたため、帰宅ではなくフィジカルトレーニングメニューの履修を言い渡された。フロアを移って着替えるときに、この町に来た時よりは体つきが変わってきていることを鏡の前の自分で確認した。筋肉が役に立つわけではないし、訓練が意味をなさない敵もいる。たとえば、目に見える目標はただの影で、影だと思ってたものが本体でした、といった時。
 そんな使徒と戦って、自分のなけなしの自信が空っぽになった今、僕のやる気はほとんどゼロだ。帰ってきてからもずっと眠いし、体調がいいとは思えない。なにがフィジカルだよ、そんなことより手っ取り早く初号機が暴走できるようにしてしまえばいいじゃないかと真剣に思う。そしたらどんな敵でも粉砕してくれる。
 着替えてトレーニングルームに入ると、トレーナーの藤堂レンさんが待機していた。
 一定のセキュリティレベルを超える権限を持つネルフの職員なら誰でも利用できる施設なので何人かの人が利用しているけど、レンさんはいつも紫のシャツを着ているのでひと目でわかる。仲が良いらしい青葉さん曰く「あいつ、私服も紫が多いよ」とのことだった。
「シンジ君、お疲れ様。復帰だな」
 そうですね、という返事が生返事だってことくらい、丸わかりだっただろう。構うものか、構わないでほしいんだから。
「まあそうくよくよするなよ」
 はあ、とだけ答えて靴を脱ぎ、マットの上に立つとレンさんがラジオ体操をかけはじめた。アスカや綾波とは違って、僕は毎回このラジオ体操からトレーニングが始まる。いい思い出というわけでもないその体操も、続けていって少しずつ動ける体になっていっている今は、そんなにつまらないものじゃないとわかるから不思議だ。でもなにぶん、今日はやる気が出ない。
 体操の後はストレッチを30分、それから初動負荷トレーニングのメニューをこなして、リンさんと二人でパドルを1ゲームやった。パドルは簡単なスカッシュみたいなスポーツで、完全に息抜き用のメニューだった。僕のやる気が出ない時にやる、と公言されているやつだ。相手と交互に壁打ちし合う上に、どういう風に跳ね返すかを考えなきゃいけないので、息抜きにしては体も頭も疲れる。もともとダブルスが基本らしいけど、ダンスルームを使いまわしてやっているので本来は四方に囲まれている壁も三方しかないし、そのあたりはかなり適当にルールを変えていると聞いてる。本来のものがどんなものか、落ちてる動画で見たりしたことはない。
「最初より大分動けるようになったと思うよ」
 褒められると嬉しい。やる気は出ないけれど、まあ、少し出る。もしかして、僕はわかりやすい人間なんだろうか。
トレーニングを終えれば6時。いつものようにお腹が空いたので、シャワーを浴びて食堂へ直行する。食堂は賑わうほどでもなく、空いてもいない。でも空きテーブルはいくつかあった。どれにしようかとメニューを見ていると、やあシンジ君、という気さくな声かけに振り向いた。
「これから夕飯?」
 黒いTシャツに黒いジーンズで、真っ白い肌のカヲル君が立っていた。たしかに今日は学校に来ていなかったみたいだった。いつもは休み時間に教室に遊びに来たり、昼時に屋上に上がってくるのに来なかった。
「うん。カヲル君は?」
「僕もだよ。今日は新メニューだから食べておこうと思ってね。シンジ君は?もうなにを食べるか決めちゃったかい?」
 いや、まだだよと答えると、そりゃあちょうどいい、と更に別の声が聞こえた。食堂の調理室のドアから何故か出てきた加持さんの声だった。
「俺も一緒に食うよ」
「あれ、加持さんラーメン断ちやめたんでしたっけ?」
「ありゃあ、三日ももたなかった。人間はラーメンなしで生きていけるはずなんだけどな」
 馬が合うらしい二人のペースに乗せられて、夜の時間帯限定の台湾ラーメンを頼むことになった。券売機にIDをかざしてボタンを押して、食券を受け取る。先頭の加持さんが、あとの子たちも同じね、と言いながら食券を渡したので、食堂のおばさんも、はいよと言って、僕らから食券を受け取る前に限定3丁、と声を張り上げた。
「おばちゃん、今日の限定は何が地場産なのかな?」
 加持さんが満面の笑みで訊ねる。この食堂の日替わりランチと夜の限定メニューに使われている食材は、基本的に第3新東京市で採れた野菜や果物、畜産物を使っている。生産者の会社や農家の名前がボードに出ていて、どこかのハンバーガー屋を思わせた。持続可能社会なんだってさ、人類みんな、明日には死ぬかもしれないけど。
「今日は日光畜産の豚を使ったひき肉と、あとは、なんだっけかねえ」
 おばさんも満面の笑みで首を傾げる。その、すこしわざとらしい奇妙なやりとりに首を傾げる。後ろのカヲル君はくつくつと笑って、僕の肩を叩いてから列の奥にある生産者ボードを指さした。まだ列は長くて、遠くてよくわからない。台湾ラーメンを受け取って、お盆を持ってその生産者ボードに近づいてみて、意味が分かった。
『本日のお肉・・・・日光畜産様
 本日のお野菜・・・加持農園様』
 普段は出ていない『生産者の顔【わたしが作りました】』という表記も加わって、どことなく見覚えのある風景と見慣れない畑仕事の作業着を着た加持さんとカヲル君がニラと唐辛子を両手に抱えて映っていた。カヲル君はにんにくを野球ボールのように持ってアイドルのように笑っている。土いじりするアイドルなんかいるのか知らないけど。
「なにコレ」
「いやあ、俺も所属部署の立場上、目立つことはしたくないんだけどな。おばちゃんが言うんだよ「せっかくだから写真貼りだそう」って。それで仕方なく、なあ?」
「ええそうですね、やむを得ない事情でしたね。お誘いを断るというのも野暮ですし」
 言葉に反して、二人ともニコニコ笑っている。写真に写ってる顔と同じだ。
「そんなに楽しいですか?」
 そうだなあ、とコップにお茶を入れて渡してくれた加持さんは、席に移動しながら答えを考えているように見えた。カヲル君はすぐに、楽しいよ、と答えてくれた。加持さんはその言葉に露骨に嬉しそうな顔をして、
「生命を感じられるのがいいな。世界には色んな生命があるって感じられるのがいい。食いもんなら、最終的には腹も満たせるしな」
 箸を取って、加持さんは礼儀正しくいただきます、と言った。僕もカヲル君もそれに倣った。いつもならケータイ片手に食べながらって感じなので、その行為はひどくわざとらしく感じられて、嘘っぽかった。多分僕だけが。
 台湾ラーメンのニラはシャキシャキしていて噛み応えがあった。どう?とカヲル君から聞かれたので、思ったままそう答えると、確かにそうだねえ、と彼はくすくす笑っていた。
「カヲル君、ずいぶん楽しそうだね」
「いやあ、僕、生きてきて自分で野菜育てるなんてパターンは初めてだったし、もちろんそれを誰かに食べてもらえるのも初めてだからね。なんだか不思議な気分だよ」
「だろう?そうなんだよ。他にも色々育ててんだ。シンジ君も、今度連れていくから見てくれよ。俺の自慢の庭なんだ」
 年上のはしゃぐ二人に乗り切れず、僕は曖昧に頷いた。
「ランチの方も、加持さんの畑で採れた何かが使われたんですか?」
「いや、昼は利用者多いからな。夜の限定メニュー30食が、俺の庭の限界だな」
「拡張すればいいんじゃないですか?」
「いや、開墾やら肥料運びが大変なんだぜ。今日の昼飯は上の豆腐屋とコラボして、豆乳チョコプリンだかババロアだった気がする」
 ああ、バレンタインだからか、と頷くと、カヲル君が首を傾げた。
「バレンタイン?」
「そう、日本のお菓子メーカーがかつて流行らせた、女性が男性に好意を示す日だよ。チョコレートをプレゼントするのが定番でな。ドイツでも、形は違えどあるにはあっただろう?」
 僕は鞄に入れっぱなしのチョコレートを思い出して、それを取り出した。加持さんもカヲル君も、へえ、と口をそろえた。
「これ、クラスの子からもらっちゃったんですけど」
「やるなあ。好意に応える義務はないけど、その行為には何かしら答えないとな」
「なんて言って受け取ればよかったのか、わからなくて」
 どうして僕にくれたのかわからないので、何を言っていいのかもわからなかった。
「言葉はただの反応だよ。言おうと思ったって言えるものじゃない。大事なのは、君がどう感じて、どうするかだと思うな」
 わかるようなわからないような、わかりにくいことをカヲル君は言う。いつもだ。だから僕はカヲル君のことだって、どんな言葉で表せばいいのかわからない。彼のわかりづらい言葉がどうして美しく響いて聞こえるんだろう。
「特に、どうも思えないよ。だってさ、クラスメートだけど、ほとんど口きかない子だったし。僕がパイロットだからってことなんだろうけど。それって僕がエヴァのパイロットだからってだけだし」
 加持さんは、ニラと唐辛子を箸ですくっている。流石にスープはやめとくか。
「ご馳走様でした」
 食べながらでも男三人だと食事時間は5分で終わった。
「ただの感謝か、吊橋効果かはわからんが、一通りの好意であることにゃ変わりがないと思うぞ。ま、持続性のあるものかどうかは、当人同士次第だけどな」
 食器を下げて、もう帰るなら送るぞという加持さんの言葉に甘えて3人で車に乗っている間も、僕はそのチョコレートの意味を2人に聞いた。でも明確な答えは見つからなかった。僕の方が先に下りるコースだったので、二人と別れて家に帰ると、アスカもミサトさんも家に帰って、二人でゲームをやっていた。おかえり、という声が穏やかだったので、アスカが勝っているに違いないことはすぐにわかる。シンク脇に置いてある弁当の空箱は、近所の『まごころ』という弁当屋のものだった。僕たち全員のお気に入りだ。
「おかえりーって、んだぁー、またキングボンビーになんのお?」
 先月出たばかりなので、2人はほとんど毎日やっている。でもそれは買ったものじゃなく、奇声を上げたミサトさんが結婚式のクイズ大会で当てたものだった。
 一回で8億円を払わされたアスカがコントローラーを放り投げ、休憩、と言ったのでアイスを食べることにした。台湾ラーメンの辛味が口に残る僕にもうってつけの提案だ。6本入りの箱にある残り3本を各人抜いて、ビニール袋は箱の中へ。チョコレートがコーティングされたアイスをぱくり。
「そういえばバレンタインだったけど、あんた、チョコの一つももらえた?」
 訓練日で学校を休んでいたアスカは、僕が朝から放課後まで、夏の雨のように断続的にチョコレートをもらっていたことを知らない。
「アスカとミサトさん以外でってこと?」
 二人がくれたチョコレートは、机の中にしまってある。置きっぱなしは具合が悪いし、自分の部屋だからといって机の上に置いたままでもぞんざいな気がしてどうにもすわりがよろしくない。ミサトさんからもらったのは、海外の少し高そうなやつ。アスカからもらったのはコンビニで100円で買えるやつ。どっちにドキドキしたのかは言うまでもない。
「べつにいいじゃないか、僕が誰からもらったって」
「んじゃあ、誰かからはもらえたわけね。よかったじゃん?」
 それは確かにそうかもしれない。でも同い年の異性から言われて嬉しい言葉からは遠かった。アスカは本当に、よかったって思ってる?
「んまー、あたしからもらえる以上にこの町で名誉なことはないから。有難みはそこがピークだったと思うけどーって、ミサトふざけんな!」
 サイコロ運だけで目的地にぴたりとゴールしたミサトさんは、ひひひーと笑った。それを合図にゲーム画面に戻った二人の興味の矛先を確認してから、軽くシャワーを浴びて部屋に引っ込んだ。異性との会話の多い一日だったという気がする。日常的に女性二人と同居している自分は、それでもクラスの中では恵まれている方なのかもしれない。でも自分には母親がいない。父親は、いるのに遠い。この点については恵まれていない。
 踏切の音が耳の奥で鳴る。父さんの革靴が地面とハイタッチを繰り返す音も。
 あの音は、これ以上ないほどの別れの音色だった。ゆっくり動き出す列車と父の後ろ姿が網膜に焼き付いて離れない。
 母親の記憶はほとんどない。写真一つありはしない。
 かすかに残る記憶も映像にはない。かすかに残るのは、落ち着いた声のトーン。一緒にいた気がする公園の空気感、あるいは抱き着いた時の匂い。テーブルをはさんで向かい合う、見つめられているときのこそばゆい安心感。そんなものばかり。
 カバンから、もらったチョコレートを出してみる。合計12個。クラスの女子ほとんど全員から貰った。エヴァパイロットの自分は、渡す相手として、きっとリアリティがあるんだろう。注目されて、感謝されている。そのことは嬉しい。
 机の上に積まれたチョコレートを見つめる。
 合計の数に意味はない。ひとつひとつにしかない。でも僕はこの間の戦いで、何もできないまま使徒に飲み込まれた。意気込んだ結果のそれが事実で、その事実は重かった。
 机にしまってあったチョコレートを二つ出す。クラスの皆がくれたものとこの二つには違いがある。でもその違いがよくわからない。手に取ってみる。どうして二人からもらったものに比べて、クラスの皆が示してくれた好意は取るに足らないと思えてしまうんだろう。
 この状況。自分が恵まれているかどうか。父さんはどう思うだろう、こんな僕を。母さんは。母さんなら、僕を見てくれるだろうか、役に立っていない僕だと知っても。
『そう、よかったわね』
 ここにはいない彼女の声が、耳の奥で鳴った。


 土曜日の朝は何時まで寝ても文句を言われない。それでも8時には目を覚ましてしまったのは、日々の習慣の賜物ってことなんだろう。
 同居人が三十になる大人と自立心旺盛な十四歳ならそれも当然、と思いたいけど、ありがたいことに変わりはない。ミサトさんは出勤日で、もういない。備蓄している缶コーヒーを一本飲んだだけみたいだ。洗濯物から察するに、2人ともシャワーを浴びたらしい。アスカはジョギングに出て、シリアルとフルーツと目玉焼きを食べたらしく、今は朝ドラを一週間分見返していた。
「おはよう」
 リビングのアスカに声をかけると、右手だけひらひらさせた返事があって、ふと笑う。コーヒーは好きじゃないけどカフェオレは好きなので、コーヒーを淹れた。
「あたしにもちょうだい」
「わかってる」
 いつもの一言、いつもの返答。
「ガムシロップは?」
「あんたと同じ量。あたしは体動かしてきたから」
 濃いめのコーヒーにガムシロップを入れて、牛乳で割って氷を落とす。アスカのホーローの赤いマグカップには、ただのコーヒーよりカフェオレがよく似合うと思う。それを持ってテーブルに置くとき、さっきと同じひらひらさせた手が浮かんだと思うと、髪の毛をくしゃくしゃといじられて「頭邪魔、見えない」という言葉とセットで「Danke」という言葉をもらった。どちらかにしてくれたらわかりやすいのに。
 朝食はクラスメートが作ってくれたクッキーを食べることにした。その準備をしている時にもアスカはこちらを振り向くこともしない。がさがさと音を立てて準備していも。一生懸命作ったのであろうクッキーは、焦げ臭さが残っていた。魚臭くないだけでも感謝すべきだろうか。上手にできないなら買ってきてくれればいいのに、どうしてわざわざ手作りなのか、よくわからない。それが感謝の示し方なんだろうけど。どこをどう受け止めればいいのか。
「アスカは今日、どっか遊びに行くの?」
「これ見たらヒカリと買い物。夕方には戻るから」
「晩ご飯、どうする?」
 土日は作らないと決めているので、どうするという質問は、買ってくるか頼むか、それを何にするかといった話だ。
「あとで決める」
「相談して決めようよ」
「だめ」
「ケチ」
 日々の家事への貢献度で言うなら毎週自分に決定権があるべきではと思うけど、そういう価値基準に生きていない彼女を相手取っても無駄だということは、この半年の付き合いでなんとなくわかってきた。だからため息ひとつで会話を切って皿洗いに戻った。
 自分はどうしようか。
「あんたはお使いあるってさ」
 絶妙のタイミングで言うから、どきりとさせられた。
「ファーストの新しいID、ミサトのアホが本部で渡し忘れたから昨日の帰りに届けるはずが直帰しちゃったから、届けてくれってさ」
「ミサトさんが自分で行けばよかったじゃないか」
「それ、あたしに言うこと?」
 それもそうだけど、迂闊が過ぎる話だった。
「何時までに行けとか、ミサトさん言ってた?」
「言ってないけど、ファーストって土曜シフトでしょ。だから昼までには行った方がいいんじゃないの。あいつ、朝早そうだし」
「僕が寝坊したらどうするつもりだったんだろう、ミサトさんは」
 さすがにため息をついた。幸い、時間はまだ9時だ。土曜日の急な予定への戸惑いや緊張より怒りに矛先が向いた。
「怒ったってなんにもなりゃしないから、さっさと行ってくれば?ぶっちゃけ、セキュリティ使ってもいいだろうし」
「そんな風に使って怒られないかな」
 自分たちの身辺警護を行うガードマンをタクシーが代わりにするというアスカのアイデアに首をかしげると、アスカがようやく首をこちらへ向けた。青い瞳の間にしわが寄っていた。
「あんたが怒んなさいよ、このおつかいに。あと、あたしに聞かないでよ。知ったこっちゃないんだから」
 その声に、これはしばらく口を利くのは難しいと見当をつけて洗面所に逃げ込んだ。歯を磨いてお気に入りのスポーツブランドのポロシャツに着替えて、玄関に置いてあったネルフのロゴが入ったクリアファイルと、彼女のIDカードをカバンに入れた。いってきます、とリビングに向かって声を張り上げ外へ出ると、慣れ親しんだ2月の爽やかな風が頬を撫でた。
 綾波レイの家は、ここから歩いて20分、第三新東京市が現在の実験都市として再開発されるセカンドインパクトより前からあった、第二次ベビーブームの頃に建てられた団地の一棟の一室にある。僕たちの住んでいるマンションはその未開発区画の手前にあって、都市全体からすれば同一区画に入る。それでも人の少ない、セカンドインパクトの爪痕が残る区域に足を踏み入れるのは気が滅入る。仮にその行き先が彼女の家だとしても、それとこれとは話が別だ。
 前に彼女の家に入ったのも、もう半年も前のことかと思うと、この間にあった様々な出来事、戦いの数々に目がくらみそうになる。日差しはきついほどでもなく、山肌から降りてくる風は最初に思ったよりも涼しかった。もしかしたら長袖を着てくるべきだったのかもしれない。
 赤信号だけど車が通らなさそうだったので、そのまままっすぐ横断歩道を渡った。巨大な使徒をエヴァ3機で受け止めたりしたのはいつだったっけ。帰りに食べたラーメンは美味しかった。父さんに褒められた喜びは、今思い出しただけでも目が覚めるような気持ちになる。
 それに比べて、たどり着いたマンションの思い出は最悪だ。できることなら消し去りたい。消し去りたいのに、脳裏に焼き付いて離れない、白い肌に残る水滴と香り。その後叩かれた頬の痛みもセットだ。間違っていたのだろう、あんな父親なんて、と言った言葉は。現にその言葉は「よくやったな、シンジ」という父さんの言葉と隣り合って恥じていた。穴があったら入りたい。
 403号室のチャイムを押すけど、鳴っている気がしない。これは前と同じ。扉をたたいてみても反応がない。ドアを開けようとすると鍵がかかっていた。これは前と同じじゃない。郵便ポストにたまったチラシを見る限り、ここにIDを差しておくのは最悪だろう。そもそも手渡しでしか支給されないIDだ。そんなことしたら、厳重注意じゃ済まされない。仕方がないので、携帯電話を鳴らしてみる。彼女に電話するなんて初めてだった。戸惑ったけど、開けてもらわなきゃ始まらない。
 電話はすぐに出た。
『はい、綾波です』
「あの、碇だけど」
 なに、と聞いてくる彼女の周りで鳴る音が聞こえてくる。人工的な駆動音やアナウンスではないので、ネルフ本部ではなさそうだ。ただ、どこかで聞き覚えのある音が彼女の後ろで鳴っている。少なくともこの扉の奥ではない。ネルフに行く途中なら、待っててもらう必要もある。
「ミサトさんが昨日渡すID、忘れたから渡そうと思って。もうネルフに行ってるの?」
『碇くんの家に向かってる。もうすぐ着くから』
「え、ああ、そうだったの」
 すれ違っていてもよかったが、使う道が違ったか。
「いま、どこ?追いかけて渡すよ」
『もうすぐマンションの前。さっき、弍号機パイロットが出て行ったのを見た』
「そうなんだ。ごめん、そしたら待ってて。すぐ行くよ、それか、待ち合わせするか」
『待ってる。確実だから』
 そうだね、わかった。そう言って電話を切って、すぐに走り出した。くそっ、ミサトさんのバカ。綾波にも家に来るように言ってたってこと?わかりづらいったらありゃしない!
 来た道を戻ること10分、少し息を切らしながらマンションの前まで戻ると、彼女はエントランスに座って本を読んでいた。マンションのエントランスは広くないけど待合ロビーがあって、ウォーターサーバーと藤の安楽椅子とテーブルが4組用意されている。使われている景色は初めて見た。彼女はそこに浅く腰かけて本を読んでいた。見慣れない。全然見慣れない綾波がそこにいた。
「綾波」
 声をかけられて立ち上がったのだから、白いTシャツに黒いズボン姿であったとしても、それが綾波レイなのは間違いないらしい。
 珍しいね、と言うと、綾波はただ頷いた。白いシャツと、黒いズボン。なんの色味もない。それなのになぜ。
 ごめんね、とIDを渡すと、彼女は何も言わずに受け取ってくれた。
「あとごめん、連絡もなしに行っちゃって。まず電話すればよかった。ミサトさんったら、綾波にも連絡してたんだね」
「ネルフに行く前に、受け取るように連絡をもらったから」
「え、そうなの、誰から?」
 聞けば、ミサトからきちんとそう言われていたという。であればやはり、こちらの家庭内コミュニケーションの問題だったか。
「んだよもう」
 目の前の人間を無視して怒り身を任せていると、綾波は、また座って本を読み始めた。ネルフへは行かないの、と聞けば、時間になったら迎えが来ると言う。彼女が読む本は、一週間前に病室で会ったときから変わっていた。カバーのない文庫本の角度からは、なにもわからない。
「誰の本?」
「宮沢賢治」
 教科書に載っている話の作者の名前が出てきた。へえ、と言って、それで終わった。彼女は微動だにしないわけではなく、呼吸をしていた。動かない瞳に吸い出されるように言葉が出てきた。
「すこし、上がってけば?」
 顔を上げた彼女の赤い眼が明滅した。
 僕は沈黙に耐えて待った。
 あ、と彼女の口から音が漏れたあと、一度閉じて、うん、という声となった耳に届いた。彼女の手がなめらかに文庫本にしおりを挟む。本に閉じ込められた栞には猫が描かれていたのが一瞬見えたけど、本は思っていた以上に素早く鞄の中にしまわれたので、猫は存在そのものがあやふやになった。
 入口のドアを開けてエレベーターに乗って家に上がる。
「掃除してあるけど、よかったら使って」
 スリッパを出すと、白いスニーカーを脱いだ彼女の足がそこに収まった。
「ありがとう」
 綾波の声が少し高かった。緊張しているのかもしれない。そりゃそうだよな、僕だって綾波の家に入ったとき、ありえないくらい緊張した――それは多分に自業自得なので、比べるべきじゃないのかもしれないけど。
「他人の家って緊張するけど、住んでるのミサトさんとアスカと僕だから」
 知らない人間のルールが可視化された空間に身を置くのは億劫だし、地雷原を進むようなものだということを、僕は知っている。それは4歳で経験済みだ。リビングに案内して、座ってて、と促した。赤と青、どちらのクッションを勧めるべきなのかわからなかったけれど、アスカのことを考えて、青を勧めた。ソファに座った彼女は青いクッションを背もたれにせずに膝に乗せた。使い方を間違えている、と指摘するべきなのかよくわからないけど、背中越しのそのしぐさを見て、出そうとしていたグラスを元に戻した。電気ケトルに水を入れてスイッチを入れて、茶棚から紅茶の缶とポットを出した。リツコさんからのもらいもの――リツコさん曰く『もらい物のおすそ分け』なので、もらい物の横流し品――で、なかなかつかいどころかわからないと思っていたけど、アスカが紅茶好きでよく淹れろと言うから予想に反して減りが早かった。淹れ方はアイスティーと同じでいいのかわからなかった。お湯が沸くまでの間、綾波の頭を見ていた。くせっ毛の青い髪は、ライムグリーンの麻の絨毯とブラウンのソファとのコントラストになっていた。僕はそれを眺める。僕の住む家で。
 綾波が振り返った。
「なに」
 どうしてわかったのだろう。僕は、なんでもない、とケトルに目を向ける。青いランプがまだついていて、加熱中を知らせる。なんだよ、早くしろよ。口の中の悪態が終わって向き直ったときにはもう、綾波は元の姿勢に戻っていた。だから、僕はまた、ケトルのカチンという音が鳴るまで動きの少ない彼女の頭を眺めて、彼女のうねる髪の毛の中を冒険する物語を進めたりした。
 ケトルのお湯をポットにそそぐ。その時、ミルクがあっただろうか、砂糖を入れるべきだろうかと考えたのが悪手となって、目をそらして冷蔵庫に身体が向きを少し変えてしまい、ポットを持つ指にお湯がかかった。ぐ、と呻く声も口の中に収めてお湯を注ぎ直し、あとは水で冷やした。
 紅茶をマグカップに注ぐ。お客さん用、なんて気の利いたものはないから、ミサトさんが出張土産に買ってきた全国チェーンのカフェが出しているご当地マグカップを使うしかなかった。お待たせ、と紅茶を置く。どうぞ、と置いてそのまま絨毯の上に座ろうとしたら、ソファの手前に座る綾波が奥にずれたせいで、隣に座らなきゃいけなくなってしまった。誘導灯につられた蛾のように座る。鬼がかわいらしく擬人化されたマグカップを両手で持った彼女がひと口。僕は座りながらひと口。
「少し、苦かったね」
「でも、あたたかい」
 それならよかった、とクッションを抱いて暖をとろうとする綾波をわき目に見て、彼女の赤い視線が僕の顔ではないところにフォーカスしていた。被写界深度の浅そうな視線の意図に気づいて、僕は笑った。
「うっかりした。先が思いやられるよね」
 戦いに身を投じる僕らが火傷なんてね、という意味だった。彼女は黙って立ち上がって、冷凍庫から保冷剤を勝手に出して渡してきた。受け取りながら、そうだねと言って今度は僕が立ち上がって、タオル類がしまってある棚からバンダナを出した。平気な顔をしているフリは得意なのに、と彼女の目ざとさに苛立ちながらだったからか、不器用なつもりはないけど、片手で巻くのは難しかった。ため息を隠す僕の横で、綾波は紅茶をもうひと口飲んだあと、マグカップを置いて、その白い手を伸ばしてきた。僕の腕を引き寄せて自分の脚の上に乗せると、バンダナをたたみ直して少しきつめに縛ってくれる。僕はただその白い手を見つめ、いつだったか、教室の掃除で雑巾を絞っていたしぐさを思い出す。
「冷やしてて」
 腕を引っ込めてありがとう、という僕の声はなぜだかとても小さかった。彼女に触れていた手の甲が熱い。喉がきゅっと細く締め付けられるようだ。会話のないお茶の時間が続いた。会話の糸口が欲しかった。会話、会話。聞きたいこと、話したいこと。なんでもいいのになにもない。
 マグカップを置いた綾波の髪が揺れた。ずっと正面を向いていた僕の視線も左へ。赤い眼の明滅。今度は僕が原因の。いつの間にか鞄を膝に置いているのを見つけた。帰るのか、帰ってしまうのか。
「碇司令とお話できた?」
 ああそのことか、そのことか。たしかにそうだ、そうだろう。
「した、と思う。背中しか見なかったけど」
「できてよかったの?」
 そんなこと、わかるもんか。良いか悪いかなんて、そんなもの。
 答えられない僕を見つめる綾波の視線が下がった。
「ごめんなさい」
「いやいいよ、だって、自分でもわからないんだから。僕こそごめん、お母さんみたいなんて言って」
 そんなこと言われてもって話だったと思うし。
 綾波が頷いた。はっきりと。その仕草は見たことがなかった。
「わたしはあなたのお母さんじゃない」
 その言葉の主成分は見たくなかったし、見なくてもわかった。綾波の指鞄の留め具をかすかに弄ぶ仕草をみせていた。僕は彼女を家に招いたことを後悔しはじめていた。紅茶を飲み干す彼女が腕時計を眺めた。前時代的な手巻き式時計だと初めて知った。
「その時計、珍しいね」
「そうなの、よくわからない」
「うん、確か、たぶんだけど」
 テレビでやってた、絶滅危惧種の時計職人の番組で見たような動きをしている時計だった。
「つけ続けないと、すぐ動かなくなっちゃうみたいだよ。メンテナンスも必要なんだって」
 そう、とつぶやくだけに終わってしまったところをみると、興味を引かなかったようで、綾波は立ち上がってしまった。
「そろそろ迎えがくるから」
 そう、とつぶやくだけにはならないよう僕も立ち上がった。後ろをついて行って、玄関で靴を履く動きを見送る。ドアが開くと涼しいというより少し冷たい風が吹き込んできた。
「また明日」
 去っていった綾波の姿が見えなくなるまで見送る。
 まだ10時前だった。とてもそうとは思えない。
 ベランダに出て、綾波が出てくるのを待った。青い髪の毛がすぐに見えた。彼女は道路の前に立って車を待っていた。声をかけようかどうか迷っている時間はどれくらいだっただろう。穏やかな日差しを見つめるためにか、綾波が顔を上げて、たぶん目が合ったので手を振った。じっと見ているだけの相手に手を振り続けたことはない。だからすぐに僕の手は止まってしまい、僕自身も部屋に引っ込んだ。僕らの間に霧がかかってしまった。そのことについては考えないようにするため、ゲームの電源を入れた。オンライン上には、カヲル君がいるかもしれない。


 週が明けて月曜日。僕もアスカも綾波もカヲル君もみんな揃って普通に登校するのは多分久しぶりだった。登校すると僕はトウジとケンスケのところへ、アスカは洞木委員長のところへ、綾波はいつものように自席で読書、そしてカヲル君は自分のクラスへ鞄を置いて、すぐに僕たちの所へ来た。毎朝のことなのに、女子たちの視線を集める力がすごい。
「おう渚君、おはようさん。またシンジにベッタリかいな」
「いやいや、そういうわけでもないよ」
「ほんなら、なして下りてくるんや」
 彼が小首を傾げるその仕草だけで、僕にバレンタインのチョコをくれた子たちも含めて、教室の女子たちの体温は0.1度上がっているにちがいない。ひょっとしたら僕で練習してカヲル君で本番、ってことかもしれない。それならそれで、納得いってしまうのがカヲル君のすごいところだ。
「なんでかなあ」
 カヲル君は本当に不思議そうだった。なぜかわからないけれど、そうしてしまうんだ、とも。変なの。嬉しいけど。
「そういうところも、女子への人気になるんかのう。こないだのバレンタイン、なんぼもろたん?」
「トウジ君、数に意味はないよ。大切なのは気持ちだ」
 ケンスケがぼそっと、モテるってこういうこと言うんだな、と呟いた。まったくだと思う。まあなあ、とトウジも意地悪を言おうとしていた自分を持て余して、手をばたばたさせた。
「ケンスケはどうだったの?妙高。ずいぶん前から楽しみにしてたじゃない」
「いやバッチリよバッチリ。さすがはあの重巡洋艦『妙高』の名を引き継いでいるだけのことはあるね。やっぱりおれ、艦というよか主砲フェチなのかもなあ」
 詳しいことはわからないので、話題を変えておいて申し訳ないけれど、ケンスケのこの話を膨らませられる気がしない。それでも構わずしゃべりつづけてくれるから、楽といえば楽だけど。
 ケンスケの様子を見て、カヲル君がたまらずといった様子でクスクス笑う。曰く、好きなことに熱中できるっていいなあ、ということらしい。うっせーなあいいだろべつに、とケンスケが口を尖らせた。
「ああ、おれのサバイバルやミリタリ魂はどこでいつ、報われるんだ?」
「そらあ世界が崩壊した後や。センセ、負けても大丈夫やで、ケンスケがおれば百人力や」
 あけっぴろげな冗談に四人で大笑いしていると、アスカが、うっさいなーと聞こえるように言う。
「あんたバカ?報われる日なんか来るわけないでしょ、このあたしがいるんだから」
「なんや、惣流もサバイバルには自信ありっちゅうことかいな。張り合わんでも、力合わせりゃええやろうが」
「んなわけあるかっ」
「ほなら、なしてそないにご機嫌斜めなんや」
「バカシンジが寝坊して弁当作ってこない癖に元気だから。ムカつくでしょう?」
「それでムカつける関係ってなんやねんな」
 そうは言っても、その暴力的な物言いにクラスメートも慣れてきていたし、僕らが一緒に住んでることに必要以上に色めき立つ雰囲気もない。僕らとカヲル君の何が違うんだろうと思わなくもない。
「まあまあアスカ、そしたら一緒にパン買いに行こうよ。僕、ドイツのより日本の総菜パンが好きなんだ」
 能天気なカヲル君のどこか呑気なその言葉で、なんとなくその場が収まった雰囲気になって、僕らはそのままどの総菜パンがナンバーワンか、という話題に移った。アスカがアンドーナッツと答えたのは意外だった。知らなかったから。
 訓練のない日は気が楽だ。友達と呼べる人たちとずっと一緒に喋っていられる。
 でも、綾波とは喋らなかった。向こうがこっちに来たことはないから、僕があっちに行かなきゃならない。それこそ弁当でも作ってこなきゃ、朝に綾波に話しかける用事なんかない。僕が彼女のために弁当を作るかと言えば、それもおかしな話だろう。
 綾波レイが友達かというと、きっとそうじゃない。なぜだろう、と思う。友達でもないなら、昨日のおかしな雰囲気は意味不明だ。
 思い返したらずっとそのことに囚われたまま、午前中の授業が終わる。購買でパンを買って屋上に上がって、それぞれのナンバーワンと思うものを買ってきた。
「学校最大の楽しみを損なわん味と値段には、ほんまに感謝や。言うても昼飯に小遣いそんなに割けへんからな」
「食事はそれだけで生命の営みだよ。その中でもさらに飽き足らず工夫を重ねる姿勢には感服するほかないね」
 カヲル君が不思議そうに言いながらピロシキパンの袋を開ける。日本の総菜パンが好き、という人のチョイスとして正しいのかどうか、よくわからない。
 僕は久しぶりに買ったカレーパンの袋を開けた。
 僕はカレーパンが嫌いだ。嫌いというか、食べ飽きた。第三新東京市に来る前の僕の主食みたいなものだった。母さんの知り合いだったという先生のお世話になっていた僕は、男やもめの先生が置いといてくれるお金で晩ご飯や休日のおひるごはんを食べることがほとんどだった。小さいころに見ていたアニメで一番好きだったのがカレーパンマンだった。僕が通い詰めたその店は、申し訳程度の赤い庇に守られているけど、店に入ると縦長で、日の光が届かない面積の多い店だった。セカンドインパクト以前はきっとずらりとケーキが並んでいたであろうガラスケースには、ひとつかふたつのホールサイズのアップルパイが置いてあるだけになっていた。パンコーナーも、お客さんが手に取りやすい手前に10種類程度あって、全体の1/5程度にしか並んでいない。子供心にも、その様子には違和感を覚えていた。でもそんなのは周りもみんな同じようなものだったから、違和感と呼べるほどでもなかったかもしれない。パン屋の向かいの肉屋だって、ショーケースに並ぶのは小間切れ肉と鳥の胸肉、それをいくらかのすき焼き用のまだらの肉だけ。その並びの和菓子屋だって、奥に見える設備の半分は使われていないことくらいわかった。それでもそこは、僕が小学校3年の時に都心の料亭で仕事をしていたという若旦那がUターンで帰ってきて跡継ぎとなり(それを誰もが『酔狂だ』と言った)、目玉商品の開発に勤しんだ。その結果、おにぎりと唐揚げと卵焼き漬物のセット500円が当たって、お昼時にはちょっとした行列になる、田舎町の人気店となった。
 それでも僕はパン屋が好きだった。パン屋はどこまでいってもパンの匂いがして、幸せな気持ちになるからだ。そこでは毎回のようにカレーパンとマドレーヌを買ってお昼ごはんや晩ご飯にした。その結果、中学生になるころには飽き飽きして、もっぱらおにぎりセットに浮気してしまうのだけど。
 僕は久しぶりに買ったカレーパンをじっと見つめる。
「碇、なにカレーパンに疑いの目を向けてんだよ。カレーは海軍とも所縁が深い、素晴らしい料理だぜ」
ケンスケおすすめのカレーパンに頷いてかぶりつく。古い油の味がした。
「まあまあかな。昔住んでたところの方が美味しい」
「学食のパンに味を求めるなよ」
「なんでや。未来あるワシらをないがしろにしていい道理があるかいな安くてウマいメシ!それがなけりゃ学校なんぞ行ってられんわ。さっき言うたやん、ここのパンは安くて美味いやないけ」
 そしてトウジは、なぜかアンパンから食べだした。ここのアンパンはあんこがぎょうさん詰まってて最高やあ。
「トウジ、そういやさっきおばちゃんと話してたよな。購買マスターのお前が、知らないパンなんかあったか?」
 カレーパンの袋を丸めながらケンスケが聞くと、おうそれな、とトウジが頷いて自分の背中側に置いていたクッキーを出した。
「おみくじクッキー出てとってな。ほいで、パン3個買うからこのクッキー安うならんかっちゅう交渉したんや」
 値切るなよ、と3人ともそれぞれの言葉で突っ込んだ。カヲル君は少しニュアンスが違って「大阪人らしさの発揮の仕方として正しいのかなあ」と首を傾げながらだった。セカンドインパクトで交通網が壊滅し、国内であっても地域の交流が20世紀より減った今このご時世、貴重ではあるけれど。
「まああかんかってん、100円払たわ。ちょうど4個あるけえ、みんなで食べよか。ワシの驕りや」
「それは怖いなあ。今度の1オン1で手加減しろって言われても、僕は困るよ」
 カヲル君とトウジはバスケ仲間でもある。二人はよく放課後で1オン1で勝負していて、大抵アイスを賭けている。たぶんこの学校でトウジが一番カヲル君と遊んでいるだろう。
「そんなんしても面白ないわい。ただまあ、今日はスリーは堪忍したってや」
 トウジ曰く、カヲル君のひょろりとした手足は間合いが長くて捕まえづらいらしい。僕の目から見ても、身のこなしが柔らかい。ゆらゆらしたリズムから難しくなさそうにスリーポイントシュートを打つのがカヲル君の得意技だ。バリバリのインサイドプレーヤーのトウジにとって、カヲル君は「今のところ、ワシの天敵」らしい。二人ともすごく上手いのに、部活には入っていない。トウジにも、妹のサクラさんがいて部活に身をささげられるほど暇じゃない。
 トウジが買ったおみくじクッキーは、一見するといかにもパン屋のクッキーといった感じで、テレビでしか見たことのない、中国のおみくじクッキーとは全然違う。それでもトウジがおばちゃんから聞いた話じゃ「4個のクッキーのうち1つに、10円ガムに入っているようなクジの紙が真ん中あたりに入ってる」らしい。4人とも半分くらいでバリっと噛む。美味しい。それ以外のことは何もない。
「おっ!」
 声を上げたのはトウジだった。
 確かに紙がぺろんと出てきていた。
「この当たりの紙を持っていくと、パン1個20円オフなんやて」
 熱で丸まった紙を伸ばしながらニンマリとトウジが笑い、そして顰めた。
「どうしたの?」
 なんやあ、ハズレもあるんかい!
 ゴロンと天を仰ぐトウジに、僕らは笑い、笑い声は抜けのいい空を駆け上っていった。



◆◆◆



 エヴァンゲリオンのパイロットに課せられている訓練には大まかに言って二通りある。ひとつは戦闘において自身が搭乗するエヴァに乗って行う『操縦訓練』。もうひとつはエヴァ操縦者自身を鍛える『基礎訓練』。その大前提となる、エヴァへの搭乗に必要なエヴァと操縦者をリンクさせるシンクロテストは、それら訓練の結果や肉体・精神の状況で変動する数値のため、シンクロテストのためのトレーニングは存在しない。赤木リツコがパイロットに説明する際は『健康診断のようなもの』と喩えている。戦闘時には三人のパイロットがそれぞれ自身のエヴァを操縦することになるため、このテストは常に3人同時に行う。仲間の不在が精神へきたす負担を考慮してのことだ。それらに対する耐性をつけるためにも、2種類の訓練は合同、または単独で行われる。
 セカンド・チルドレンのアスカはシングル・コンバットの技術に長けるが協調性に欠ける。方やファースト、サードチルドレンはフォローと囮役に長けるため、葛城ミサトが想定する基本戦術は、エースであるアスカの弐号機を他両機がフォローする形となっている。故にアスカは基礎・操縦どちらの訓練でも近接戦闘の得物を重視している。方や初号機はエヴァと使徒の戦いの最重要事項であるA・Tフィールドが強く、使徒のA・Tフィールドに干渉、中和すると同時に、アスカの盾ともなる動きを求められる。防御寄りの立ち居振る舞いと機動力を損なわない射撃専用武器の取り扱い、近接戦闘時にはコンバットナイフによる防御と距離の取り方などが訓練の主となっている。そして零号機はシンクロ率低いためA・Tフィールドが弱い。そのため長距離用射撃武器による後方支援と戦況をコントロールするための振る舞いが求められる。葛城ミサトのパイロットへの適性の見極めは早く、アスカ来日直後に既にその判断を下していた。訓練日は合同訓練が週に1日、個人ごとの訓練が週に4日となっている。例えば、綾波レイは月〜木の4日間で個人訓練が課せられている。
 学校後の綾波レイはネルフへ直行し、個人訓練を16時半から開始した。状況判断の速さを上げるために絵とカードを使ったトレーニングや、身体の使い方を学ぶための体操が月曜日のメニューだった。終わると頭も身体もくたくたになるこの訓練を終えると、シャワーもそこそこに本部の宿泊施設を使うのがいつもの彼女の定番だった。家まで帰る時間より眠る時間の方が重要だったし、疲れた身体を大浴場に沈めるのが心地よい。それが済めばすぐに眠れる。
 眠ればまた朝になる。朝になればクリーニング済みの服に着替えて学校に行けばいいから、不都合は何もない。ただし、今日は食堂の冷房設備が故障して夜の時間の営業を停止していた。それを知らなかったレイは食堂の前まで来て初めてそのことを知った。夕飯を食べ損ねた。腹ごしらえをして眠くなった身体をすぐにベッドに沈めることは叶わなくなったようだった。幾らかの思案の後、一般人には縁のないタッチパネル式の真新しい腕時計型のデバイスからアプリを立ち上げ、自宅に一番近い出口へ移動できる軌道エレベーターの手配をかけてジオフロントへ出た。偽りの夜と風が髪を撫でる。くせの強い髪がかさかさと頬を撫でるので、彼女は髪を耳にかけて歩き出した。少し髪が伸びていた。
 世界で最も危険で安全な夜道を歩いていると、行き帰りの職員数名とすれ違い、その誰もが大なり小なり自分に一瞥くれることを気づかないわけではなかった。それがどういう意味かを考えたこともないわけではない。しかしそこに肯定的な意味を重ねたこともない。同じパイロットでも、弐号機のパイロットがその視線を浴びることを誇りに思っていることはすぐに察した。そういう人もいるものだと、エヴァに乗って嬉しい人もいるのだということを。乗りたくて乗っている人と、乗りたくないけれど乗った人。その二人に挟まれる自分は、自分を生み育ててくれた他人との絆のために乗っている。存在理由と直結している以上、乗りたい・乗りたくないで考えたことがなかった。だから、そんな理由で乗る彼女も彼も、自分とは大きく異なる存在だと感じる。
 ひゅん、と風が鳴った。
 通りの向こうからやってくる人々は制服を着ていない人が多い。施設内のロッカーを使えるという意味では、C級勤務者以上であることを意味している。私服姿も見るが、視界に捉えたインディゴブルーのシャツを少しだらしなく着る男の姿は、通りの奥から歩いてきている記憶がなく、唐突に現れたように感じた。
「よおレイちゃん、訓練上がりかい?おつかれ」
 時折出会う加持リョウジという人が、監査部の人間であることはもちろん知っていた。来日の際、極秘輸送の任に就いていたことも。彼が歩みを止めたので、自分も止めざるを得なかったが、疲れた身体で人と話すのは億劫だった。
「飯食った?俺の野菜が使われてるはずだから、感想聞かせてくれると嬉しいな」
 食堂の空調の空調のことを告げると、彼は思いもよらなかったという顔で驚いた。
「そしたら、ハラ減ってんじゃないか?」
「帰宅後、直ちに夕食を摂ります」
 いやあ、そしたら遅いよ、訓練後に直ちに栄養摂取してこそだぜ。彼は珍しく少し早口で言い、まったく、本部は食べ盛りを何だと思ってんだ?とも呟いた。
「そしたら、俺もちょうど帰りだから一緒にメシでもどう?奢るから。ビーガン向けにもメシ作ってくれる店知ってるんだ。ウマいぞお」
 断る言葉が出てきそうで出てこない。疲れたので頷くと、こともなげに彼は言った。
「D―7地区へ変更利くかい?」
 その意味を2秒ほどかけて理解し、頷いて、時計を使って行き先を変更させた。
 ジオフロントの端にある地上へエレベーターを待つ間や地上に出るまでの間、加持リョウジが話すエピソードは、おそらく、実にどうでもいい話ばかりだった。コーラガムのあたりをはじめて引いた、出張中乗ったゴンドラが空調もなく暑すぎるほどだったのに、一緒に乗っていたおじいさんが汗一滴掻いていないように見えて驚いた、携帯型バッテリーが膨らんでどら焼きのようだった。そんな話ばかりで、大半のキーワードを理解できなかったが、それでも聞いていられる気楽さがあった。
 連れていかれたレストランは中心街の一本裏手で、入ると木調の調度品でまとめられた、全席十五席ほどのこじんまりとしたレストランだった。
「こんばんは。今日はお二人ですか?」
「そう、貴重な機会なんだ」
 客は他に四人掛けと二人掛けのテーブルにひと組ずつ。通された席は窓から一番遠い席だった。
「この子、ゆるめの菜食主義なんでシーフードと野菜で前菜とメイン、あとパスタ頼むよ」
「グルテンフリーにしますか?」
「いや、むしろ糖質ウェルカムで。あとジュースふたつね」
 かしこまりました、と接客係の女性が微笑みを残し、黒いスカートとヒールでまとめた姿で厨房へ消えていく。
「彼女、店主の姪っ子なんだけど、かっこいいよな」
 どの点をみてそう評価するのかわからず、首をかしげると、彼は力のない笑みを浮かべて手をひらひらさせた。
「なに、背の高い女の子がヒール履いてるってだけでイカスなと思っちまう、古い世代の人間のコメントだ。気にしないでくれ」
 そういうものか、そういうものらしいとだけインプットして、少し周囲を眺める。落ち着く雰囲気、と形容されるであろうその空間に、慣れない相手と向かい合って身を置くことに慣れていない身体からはかすかな緊張が抜けないままだが、疲労した身体が緊張を拒否してもいる。また、自分の背丈は平均の範囲内なので、かっこいいわけではないようだと理解した。
 運ばれてきたジュースは複雑な味がした。何種類もの生の果物を使ったミックスジュースだという。
「今時貴重だよな。ぶっちゃけこのあとのパスタより値も高い。世の中からすりゃあいくらでも代替品のあるものかもしれないから、こういうものを作って売るのもそれをありがたがるのも逆行してるかもしれない。がしかし、それだけの価値のあるものだ」
 酸味や甘み、苦みも含めて飛び込んでくるのに、最終的には爽やかな口当たりが喉を通って体に染み込んでくる。
「スイカ、使ってくれてるみたいだ」
 彼が少し声を上ずらせて呟く。自分に聞かせるつもりのない言葉だったことはレイにも理解できたが、今日交わした会話のどれよりも、深くつぶやくようなその声は耳に残った。
 運ばれてきた料理はジュース以上に複雑な味が混じり合いながら噛むうちにひとつの味に統合されていき身体に染み渡る、カプセルの無味な味とは別物の世界だった。噛むたびに舌と身体が直接的に喜ぶのをこれでもかと感じ、出された料理をすっかり胃に収めた。
「いい食べっぷりだったよ。デザートも食うかい?少しでいいなら、生チョコレートが絶品だ」
 満腹の胃が、さすがにやめておけと言うので頭を振る。鞄に視線を向けた。彼は軽めに何度か頷いた。さあて、と言うと、それこそデザートを頼むような口調で言った。
「フォースチルドレンの件、聞いてるかい」
 なぜいま。疑問が顔に出ていたようだった。彼はかぶりを振って、行こうか、と言った。
 レストランを出て通りを出ると、黒い車が一台止まっていた。頼んでもいないその迎えを二人とも理解していた。レイは加持に見送られ、別れの挨拶もなくその場を後にした。
 自宅に戻り、もう一度シャワーを浴びる。食べすぎて、いつもならへこんでいるはずのお腹が少し膨らんでいるので、ボディソープをつけた身体を撫でたときに違和感があった。体を拭いて、これももらいものの半袖短パンのルームウェアに袖を通す。サラサラした服の感触が心地よい。髪を乾かす。「もう少しちゃんとブローすればいいのに。今度教えてあげるから」という伊吹マヤの言葉を思い出したが、意味がよくわからない。乾けばいい。乾けばそれで。
 ドライヤーで髪を乾かしながら、加持の他愛のない話と言葉と表情が蘇る。なんの返事もしない自分に、当たり前のように話かけたりしつづける人間は初めてに近かった。そんな貴重な一日だった。それが貴重であることは理解できていた。それなのになぜか、そのすぐあとには別の人の顔が思い浮かぶ。自分に紅茶を淹れてくれたひと。自分が氷をあてたひと。そのために手を取ったひと。そして。
 ベッドに倒れこんですぐ、身体を起こして鞄を手に取り、中身を掴んでそれをじっと見つめた。もう二日間鞄に入れっぱなしだが、タイミングを逸した以上意味がないので捨てたほうがよいと判断したのだった。
 手の中のものを見る。中間地点にあるコンビニに入って買おうとしたら、いくつもの種類のなかから適切なものを探す必要があった。幸い、特設コーナーが出来ていたので、どれを選んでも間違いなかっただろう。それでも種類があると迷ってしまった。時間がなかったのでパッケージ脇のキャッチコピーを見て選んだ。大きな数字が書いてある方が良いのではないかと思い、99%と書かれているものを買った。シンクロ率みたいだと思った。それがどうして今も自分に手にあるのだろうか。どうしてあの時渡せなかった。どうして。
 捨ててしまえばいいと思ったが、くたびれた頭と体にいいかもしれないので、その包み紙を破った。びりりという音に心臓を軽く掴まれたような気分になりながら出てきた黒く強いカカオの香りが鼻をつく。違和感とともに一口齧ったそれは思っていたものとまったく違い、ただただ苦い、まるでブラックコーヒーのような味だった。破いた包み紙を手に取って成分の解説を読むと、成分表示よりはるかに目立つキャッチコピーがはじめて目に飛び込んだ。『甘みより苦み、そんなあなたへ贈る、おとなのひとくち。』
 どうやら間違っていたらしい。間違った選択だったらしい。それならば彼の手に渡らないでよかった。紅茶と一緒に食べたって、苦いだけのこんなものが喜ばれるはずがない。渡さないでよかった。
 開けてしまった以上、もう渡せないそれをゴミ箱に放り投げて、歯を磨く。きれいに磨いた歯に、もう茶色い形跡は残っていない。綺麗になくなった。
『少し、苦かった?』
 ここにはいない、ちょっと残念そうな少年の言葉が耳の奥で鳴る。
 彼の飲み物は、苦くても、自分の身体を温めてくれた。
 今でもカップの温かさを思い出せる。
 それに引き替え、これは。
「少し、苦かった」
 もう一度コップに水を汲んだ。










To be continued.











あとがき
ども、ののです。
5年ぶりです。
本家の完結の方が早かったな。
これが僕の卒論になるだろうか。
引き続き、頑張ります。
世の中も大変ですが、皆さんも、どうかご無事で。




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