1.人を幸せにする力があるのだろう





 寂しさが、冷たい風にのせられて、私の前へ吹きつける。いつもと同じ秋の夕暮れ。
 英語の宿題を進める手を休め、すぐ隣にある窓が強風のせいで震えているのを見て、
ふとそんなことを考えた。十月に入って急に冷え込んだせいだろうか、普段から人の
まばらな図書館の閲覧スペースは、私以外に三人いる程度で、いつも以上に寂しい。
でも、その寂しさは心地よい。秋風も夕暮れも、閑散とした図書館だって、私の味方
だ。寂しさは心地よい。だって寂しさは絶対に私を裏切らないから。いつもそばにい
てくれるから。
 また英語の和訳の宿題にもどると、さっき考えた七五調の変な文章なんてすぐに忘
れてしまった。明日は順番からいうと私が当たる番だから、恥ずかしくないようにし
っかり訳しておかないといけない。私がみんなにどう思われようと構わないが、心の
奥底で嘲笑されるのは悔しい。アスカみたいに完璧にできなくても、間違いを指摘さ
れないくらいの訳にはしよう。閲覧スペースの入り口から一番離れた窓際の端っこの
席で、ひとり心に誓う。
 今日はあの人の本を借りよう。


「あ、『風の歌を聴け』じゃない!これあたしも読んだ!」
「アスカも?」
 翌日、四時間目の英語が無事に終わり、なんとなく昨日図書館で借りた本を広げて
みたら、アスカが私の席の方へ近づいてきて反応してくれた。さすがアスカ。
「レイも村上春樹好きなの?」
「今まで読んだことなかったけど、少し読んでみようかと思って」
「それでとりあえずこれにしたわけね」
 きっとアスカはもっとたくさん読んでいるのだろう。頭のいい彼女のことだから、
日本の純文学作品なんて何の苦もなく読んでいるに違いない。もっとも、この時期の
彼の作品が日本の純文学と言えるかどうかはあやしかったが。
「昨日までミステリーもの読んでいたのに、いきなり方向転換?」
「そう、方向転換。今日の英語の訳をやっていたら、なんとなく」
「あはは、なにそれ〜。でも確かに、今日の訳は異様に気合入っていたわね」
「アスカほど上手ではないけど」
「あたしのよりレイの訳ほうが面白い訳じゃない」
 わざと、ちょっとむっとした顔をしてみる。果たして成功しているだろうか。
「それ、褒めてるの?」
「そりゃもう。それより、早くお弁当食べようよ」
「えぇ。私もお腹がすいたわ」
 教室ではいつもポツンとしていた私だったが、アスカとだけは積極的に話をする。
お弁当を食べるときも、教室を移動するときも、トイレに行くときも、いつも一緒。
明るくて元気のいいアスカと、暗くて社交性のない私と言うのは妙な組み合わせだっ
たけれども、私は彼女といるのがとても心地よかったし、誰とでも仲の良い彼女も、
私にだけは特別に親しくしてくれている、と思う。
 そんな私たちの出会いは、つい半年ほど前のことだ。
 二年生になったばかりのころ、私はいつも一人でいた。一人でいてもいいように、
いつも本を読んでいた。きっと周りから奇妙な目で見られるだろうとは思っていたが、
そんなことは構わなかった。交友関係を作るのも続けるのも疲れる。最初から一人で
良い。それがとても不健康で偏った考え方で、きっと思春期特有のものだろうことは
わかっていたが、そんなことも構わなかった。数年間だけの付き合いなのだから。
 そんな中、私が本を読んでいるにも関わらず、強引に声をかけてきたのがアスカだ
った。きっといつものように同情じみたお節介だろうと思い適当にあしらっていた。
実際、浅く広く交友関係を築こうとする人にこの手のお節介は多かった。あなたも私
のグループに入れてあげる、そう言わんばかりのお節介。そして、それに失敗した人
の中には、今度は逆にいじめに走る人もいた。だから、あしらうのがとても難しい。
その手の人に声をかけられることは、とてもストレスだった。どうして無視してくれ
ないのだろう。どうして構おうとするのだろう。グループのメンバーを増やしたいな
ら、もっと見込みのある人に声を掛けてほしい。私はあなたたちの役には立てない。
 ストレスに耐えかねた私が全てぶつけてやろうとしたのと、アスカが我慢をできな
くなったのはほぼ同時だったのだろう。
 彼女は私が読んでいた本を強引に閉じ、奪って、「少しは話聞きなさいよ!」と怒
り出した。急に読書を中断させられた私もカッとなって、「邪魔しないで」と本を取
り戻すべく彼女に詰め寄った。それからのことはよく覚えていないが、とにかく激し
い口論となり、次の授業が始まるまで言い争った。アスカは私がまともに返事をしな
いことに怒っていたし、私はアスカの「お節介」に閉口していた。
 それから学校が終わるまで、結局私たちが口を利く事はなかったけど、その日の夜、
電話がかかってきた。アスカからだった。私はまだ言い争うつもりかと思い、面倒だ
とは思いつつもここで負けるわけにはいかないと思い、意気込んで電話を取った。し
かし、電話のアスカは昼間とは打って変わってしぼんでいる様子で、「私のこと嫌い
ならはっきりそう言ってほしい。そうすればもう無理に声は掛けない」というような
ことを言ってきた。昼の彼女の態度からは想像もつかないしおらしさに私は気が削が
れてしまい、はっきり「嫌い」だとは言えなかった。代わりに私が思っている交友関
係に関することを全てぶつけてみた。そうすると彼女は、同情も共感も反発もせずに、
「ありがとう」とだけ言った。きっと何か言われるだろうと構えていた私が意外な返
事に答えあぐねていると、彼女は「今日は話せてうれしかった。じゃあまた明日学校
でね」とだけ言って電話を切ってしまった。私はなんとなく腑に落ちないもの感じな
がらも、そんなに嫌な気はしなかった。少なくとも今までよりは。思えば、連絡網以
外でクラスメートから電話がかかってきたのはこれが初めてだった。
 次の日、結局アスカはまた話しかけてきた。その内容は以前私が読んでいた本に関
することだった。私は答え、会話が成り立った。それ以降、アスカは私に話しかけて
くることもあれば、ただ近くにいるだけのこともあった。私からアスカに話しかける
ようにもなった。しかし、私と話しているときアスカはほかの人に私を混ぜようとは
決してしなかったし、私もアスカの友人に声を掛けるようなこともなかった。そうし
て私とアスカの妙な二人だけの関係が始まったのだった。どうしてアスカが私に声を
掛けてきたのかは、よくわからないままだ。
「レイは図書館でCDとか借りたりしないの」
「図書館のCD?借りたことない」
 私は相変わらず愛想のない言葉遣いばかりだったが、アスカはそんなことお構いな
しに会話を続けた。
「そう?あの図書館、邦楽はあまりないけど、クラシックだったら結構あるわよ」
「クラシック?アスカは管弦楽部だから」
「あぁ。レイにはあまり興味ないか」
 アスカが残念そうにつぶやいたので、私は少しだけ悲しくなった。今度アスカのお
勧めを借りてみようかな、と思いつつ、卵焼きを口に運んだ。
「そういえばね、文化祭終わって次の役員決まったんだけど、あたし部長になっちゃ
った」
「アスカなら適任だと思う」
 私は心からそう言った。誰とでもうまくやっていける彼女なら、きっとうまくいく
に違いない。彼女は男女両方から人気がある。それに頭もいいし要領もいい。
「そう?あたしはシンジを推したんだけどねぇ」
 彼女は前の方で他の男子とお弁当を食べる彼のほうに目を向けた。
「碇君?どうして?」
「まあ、なんとなくだけど」
「誰に聞いてもアスカの方が向いていると答えるわ」
「う〜ん、確かに仕切ったりするのは得意じゃなさそうだけど、実力はあいつが一番
だし。なんというか、背中で語るタイプなのよ。あいつは」
「ずいぶん信頼しているのね」
「まっ、否定はしないわ。男子ってバカでスケベで薄っぺらいやつばっかりだけど、
あいつの練習の打ち込み具合はあたしでも適わないわ」
「アスカでも?」
「えぇ。あいつよっぽどチェロが好きみたい」
「そういえば彼、いつも大きな楽器を背負っているわ」
「練習のたびにチェロ持って帰っているからね。チェロが恋人なんじゃない?」
 私はアスカのその皮肉に少しだけ微笑んだ。もしかしたら少しだけ黒っぽい笑いに
見えたかもしれない。
「ふふっ。なにそれ」
「あ〜、部長なんて面倒な仕事引き受けないほうが良かったかもしれないわ」
 私はそのとき、アスカに碇君が好きなのか、と聞こうかどうか一瞬だけ迷ったが、
やめておいた。恋愛の話なんかほとんどしたことがない私たちだったが、きっと彼女
はうんと言わないだろうし、彼女が誰を好きになろうが私には関係のないことだ。
 碇君は他の男子に頭をつつかれてくすぐったそうにしていた。


 だからその日、図書館で彼に出くわしたことに対して私は、やけにお話じみている
なと思った。その日の宿題はたくさんあり、いつものように閲覧スペースで宿題を片
付けていると、あっという間に六時を回ってしまった。部活帰りに図書館に寄った彼
に出会ったのは、全くの偶然らしかった。
 もし彼がちゃんと宿題をこなすマジメな生徒だとしたら、これから家に帰って机の
前に座るのはひどく億劫だろうな、と同情じみたものは感じたが、特に声を掛けよう
とは思わなかった。それこそ億劫だ。
 今日はあまり時間なさそうだから、と自分に言い訳して、さっそく村上春樹を断念
して読みやすそうな私好みのミステリー小説を持って貸出カウンターへと向かった。
彼は貸出カウンターのすぐ横のCDのコーナーに、こちらに背を向けて立っていた。
背中には大きな楽器を抱えていて、それが彼であることを主張していた。
 気づかれたら嫌だなと思ったが、すぐに済ませてさっさと帰ろうと思った。彼は傍
から見てもわかるくらいに熱心にCDを選んでいたので、こちらが不用意に声を出さ
なければ、きっと気づかないだろうと思った。私は本の貸出のやりとりを、全て首を
縦に振るだけで済ませた。
 なんとか気づかれずに済み、図書館を出ようと自動ドアを開けたその音の直後に、
貸出カウンターの方から声が聞こえた。
「あれ、綾波?」
 私に対して声が掛けられたような音量ではなかったので、私は無視してそのまま出
て行こうとしたが、なんと彼は追いかけてきた。大きな荷物を抱えているにも関わら
ず。まだ貸出の手続きすら途中のようだった。
「待ってよ綾波!ちょっと」
 そういって肩を叩かれて、私は観念した。気づいてなかったことにするには、あま
りに無理があった。しかし私はなるべくそっけなく答えた。
「何?」
「え、いや、綾波もこっちの図書館来るんだと思って……」
「何か用?」
「……別に用じゃないけど」
「そう」
 私は待ってましたと言わんばかりに、その答えを聞いてくるりともとの向きに直っ
た。
「さようなら」
「あ、ちょっと待ってよ!ぼ、僕ももう帰るから、あの、い、一緒に帰ろうよ」
「どうして?」
 私は向きを変えずに答えた。こう答えるとたいていの人は怒るか諦める。前を向い
ていたので彼の表情は見えなかったが、きっと困っていたことだろう。
「えっと、その、た、確か綾波ってア、そ、惣流と仲良かったよね?だから、友だち
の友だちってことで……」
 全く関係のないことだった。それに、その、さも彼とアスカが友人であるかのよう
な言い草に私は少しイラっときたが、昼休みのときアスカが彼のことを「シンジ」と
呼び、信頼しているというような会話をしたことを思い出した。彼とアスカはどれく
らいの仲なのだろう。
「アスカと友だちなの?」
「えっ?まぁ、一応、たぶん。あっちはなんて言うかわからないけど……」
 そこで初めて私は振り返った。
「アスカの誕生日は?」
「はっ?えっ?」
 彼は一瞬わけがわからないというような顔をしたが、少し考えてから答えた。
「十二月四日だけど……」
 実際のところ、半年以上親密に付き合ってきたにも拘らず私はアスカの誕生日なん
て知らなかったし、彼もわからないだろうと思ったが、彼はあっさり答えてしまった。
正しいかどうかはアスカに聞いてみないとわからない。
「よくわかったわね」
「べ、べつに友だちかどうかとは関係ないと思うけど」
全くその通りだった。
「早くCD借りてくれば?」
「う、うん」
 そう言って彼はまた貸出カウンターのほうに戻って行った。そのまま帰ってしまっ
ても良かったが、私は帰らなかった。ここで彼と途中まで帰路をともにしたところで、
もう話す機会もないだろう。そう考えれば、アスカが信頼する彼について探ってみる
のも悪くないだろうと思った。


「アスカって誕生日いつ?」
「十二月四日だけど……知らなかったっけ?」
「えぇ。昨日初めて知った」
 四時間目が終わり、いつものようにお弁当をもって私のところに向かおうとしたア
スカに向かって開口一番話しかけた。今日は私からアスカの席のほうに来た。授業が
終わる前にほとんど教科書やノートを片付けてしまっていたのだ。
 アスカはぽかんとしてその質問に答えた。
「昨日?そんな話した?」
「えぇ。碇君とね」
 その名前に、アスカは少しだけ目を見開いた。
「シンジ?」
「昨日図書館の帰りがけに彼と鉢合わせて。友だちの友だちだから途中まで一緒に帰
ろうと言われたのよ」
「それでレイがあいつに私の誕生日を聞いたわけ?」
「えぇ。彼がアスカとは友だちだといったから、誕生日を聞いたの。私も知らないの
に」
 その状況を思い浮かべたのだろうか。アスカは初めて少しだけ笑った。
「なにそれ。変なの。ふふっ」
「そうね」
 アスカは可笑しそうにしていたが、私は少しがっかりしていた。この学校でアスカ
と一番仲が良いのは私だろうと思っているが、もしかしたら碇君との方が仲良しなの
かもしれない。あるいは……
「ねぇ?それでどんな話したの?というかレイとシンジで会話が成り立つわけ?」
「そんなに話していないわ。彼がシューマンという作曲家のCDを借りたことと、…
…あとはよく覚えていないわ」
「あぁ、あいつシューマン大好きだからねぇ。チェロコンとか」
「ずいぶん熱心に話していて、名前を覚えてしまったわ」
「なんて空気の読めないやつ」
 どうでもよさそうに彼のことを話すアスカを見て、やはり彼とアスカの関係を聞き
たい気持ちが、私の中でむくむくと膨れ上がってきた。
「レイも仕返しに本のこと何か話せばよかったじゃない」
「……アスカと碇君は……友だちなの?」
 今日も前の方で他の男子と談笑しながらお弁当を食べる彼を見ながら、いつもより
もさらに小さい声で尋ねた。昨日すぐ隣を歩いていた(と言っても彼は私より少し後
ろを歩いていたが)人が、すぐ近くなのに全然自分とは関係のない世界にいると思う
と、少し変な気分になった。
「まぁ、友だちって程でもないけどね。部活とかクラスの男子の中では話をするほう
かもしれないわね」
 どうやらアスカは私の質問を言葉通りに受け取ったようだった。私はその答えに安
堵して続けた。
「友だちかどうかは、はっきりとは断言できないということ?」
「そうね。まぁ誰でもそんなもんじゃない?」
「えぇ」
「……じゃあ、私達は、どうかしらねっ!」
 アスカはそういうと同時に、不敵な笑みを浮かべて私の脇腹に手を突っ込んできた。
そして、十本の指がごにょごにょと私の脇腹を撫で回す。
「ヒャ、あ、アすか、や、やめて、くすぐったい、ふ、ふ、あすか」
「うりうりうりうり!」
「だ、だめ、あすカ、ひゃ」
「こちょこちょこちょ〜」
 私は成す術もなくアスカの思うがままだ。教室のあちこちから少しだけ妙な視線で
見られるが、そんなの全然気にならない。くすぐったくて仕方がないからだ。
 アスカは時折、急に私をくすぐってくる。そしてそのタイミングはいつも絶妙で、
予想ができないし、嫌な気持ちにもならない時だ。きっと、アスカには人を幸せにす
る力があるのだろうと思う。いつまでアスカと一緒にいられるかわからないが、今だ
けはこの幸福を逃さないようにしようと思う。アスカが私のそばにいてくれる限り。