2.なんとなく、教室にいるときの気の弱い彼とは少し違っているさすがに、彼と鉢合わせるのが三回目ともなると、私はこれを偶然ではないと思う ようになった。初めて彼と図書館で遭遇してから二週間ほどたっていたが、一昨日も 遭遇し、そして今日もCDコーナーで熱心にクラシックのCDを選ぶ彼を見つけてし まった。一昨日は彼が図書館にいたことには気づかず、帰りがけに急に肩を叩かれ、 「友だちの友だち」を主張する彼とともに、またしても途中まで一緒に帰宅したのだ が、そのときは「図書館って便利なんだね!知らなかったよ」とうれしそうに語る彼 の声をあまり重く受け止めていなかった。CDを返しに来ただけだろうと思っていた からだ。 今日もCDコーナーを漁る彼を見て、私は声を掛けようかどうか迷った。彼は教室 などで私に親しげに話しかけてくるなどということは特にはなく、いわゆる「人畜無 害」な存在だったが、彼が図書館に現れるようになって私は、ひしひしと自分の空間 が奪われていくような感覚に陥っていくのを止めることができなかった。 彼を無視し続けることもできるが、彼をここから追い出すことができればもっとい い。ここは公共機関なのだからそんな「わがまま」は通じない。私にとって彼は、た まに図書館に水を飲みにふらりと紛れ込む浮浪者と大差なかった。もしくは不審人物 か。 そんなことを考えながら三階にある閲覧スペースに続く階段にぼぉっと突っ立って 彼の背中を眺めていると、ふいに彼が振り返ってこちらを向いた。驚いたのはあちら も同じようでその目が一瞬だけ見開かれたが、すぐに手にCDを持ったまま彼はこち らに近づいてきた。 「綾波。よく会うね」 なんとなく、教室にいるときの気の弱い彼とは少し違っている気がして、私は少し だけ身構えた。 「そうね」 「もしかして、毎日来てるの?」 笑いながら彼は言った。その彼の冗談を言っているような言い方がなんとなく気に 入らなかったので、私はつい正直に答えてしまった。 「えぇ」 「えっ?ホントに?」 「おかしい?」 「いやっ、そういうわけじゃ……ちょっと驚いたって言うか」 「その大きな荷物を背負って図書館に来るあなたも、ふつうとは言えないわ」 私は彼が背中に抱えている楽器を見ながら言った。たしかチェロ。 「あぁ。ちょっと部活帰りで。周りの人に迷惑かもしれないけど」 「わかっているのなら、来なければいい」 「いや、でもちゃんと気をつけているから。たぶん大丈夫だと思うけど」 「そう」 そういう彼は、教室にいるときのような碇シンジに縮こまってしまった。そして、 少し下を向いてから、言いにくそうに彼は口を開いた。 「あの、今日も途中まで一緒に帰っていいかな?」 申し訳なさそうに言う彼があまりにも哀れで、私はいたたまれなくなってしまった。 この半年をともにしたクラスメートは、私がいかに社交性のないつまらない人間なの かを知っているはずだったが、それなのに彼はこうして私に健気に話しかけてくる。 鬱陶しいという感情ももちろんあったが、それ以上に何か物悲しかった。アスカに認 められるほどのチェロの実力を持っているはずなのに。 「碇君は、いつも一人できているの?」 「う、うん。最初は他の部員も誘っていたんだけど、練習時間以外でクラシック聞く ほどみんな熱心じゃないから」 「学校の向こうにある図書館のほうがたくさんCDが置いてあるわ」 「詳しいんだね、綾波。あっちも行ったけど、クラシックのCDはこっちのほうがた くさんあるんだ。向こうはポピュラーものばかり」 「そう。知らなかった」 そういえばアスカがそんなこと言っていた気がする。そして、それきり彼は黙り込 んでしまった。それに視線も落ち着かないようだった。 「じゃあ帰りましょう」 「えっ?」 「本借りてくるから、少し待って。碇君もCD借りてくれば?」 「う、うん。ありがとう」 どうしてそういう気持ちになったのかはわからなかったが、なんとなく私は彼が私 と似たようなものを持っているのではないかと思った。他人に対してとか、世界に対 して。私たちは、とても傲慢で臆病で、そしてとても真摯であると思う。それはいつ もいつも悪い結果ばかり生み出すが、稀に、ごく稀に、どんなに欲しても手の届かな かったものを、ふと私たちの手元にまで届けてくれることがある。本当は、私たちは いつだってそんな瞬間を待ち望んでいるのかもしれない。 「今日は何を借りたの?」 「『シングル・セル』という本。増田みず子という人の」 「シングルセル?マスダ?全然わからないや」 「絶版だから、書店では売ってないわ」 「すいぶん難しい本読むんだね」 「そうでもない」 「でも、あの図書館には手に入らない本とかCDたくさんあるよね。最初に来たとき はびっくりしたよ」 「この地区は特別力を入れている」 「そうなんだ」 「碇君は何を借りたの?」 「ジャクリーヌ・デュ・プレって言うチェリストの協奏曲の作品集だよ」 「キョウソウキョウ?」 「えっ?一年生のときに音楽の授業でやったよ。一つの楽器の伴奏をオーケストラで するんだ」 「覚えてない」 「そう、だよね。やっぱり授業で音楽に興味もつなんてありえないよね。ははっ」 彼はその悲しそうな言葉の響きとは裏腹に、どことなくうれしそうな表情をしてい た。私が真面目に受け答えをしているからだろうか。どちらにしたって私の話は面白 くないだろう。アスカといるときだって、そんなに実のある話をしているわけではな い。 「アスカはどういうものを聞くの?」 「アスカ?あまりクラシックは聞かないんじゃないかな。確か、チャイコフスキーは 好きだって言ってたけど。う〜ん」 彼との話しの中でアスカが話題になるのは誕生日のこと以来だったが、彼が何の抵 抗もなく彼女のことを「アスカ」と呼ぶのに私は少なからず動揺した。 「アスカと仲良いの?」 「へっ?あ、いや、そういうわけじゃなくて、あの、小学校も同じで、通ってる音楽 教室も同じだから、まぁ腐れ縁って言うか」 「幼馴染というもの?」 「ま、まぁそんなところだと思う。確かに女子の中で話できるのってアスカぐらいだ と思うけど、で、でも別に特別な関係って言うわけでは全然なくて」 「大丈夫。変な勘違いしたりしないから」 「そう?良かった」 心底安心したように彼はため息をついた。私はその、誤解されなくてよかったとい う表情を見ると、なんだか逆にイライラしてくるものを感じた。アスカでは不満だと でも言うのだろうか。 「アスカとはどんな話をするの?」 「べつに、たいしたこと話さないけど。クラスのこととか、部活のこととか」 なぜか彼は恥ずかしそうに話していた。それにアスカと彼が抵抗なく雑談している 姿というものをあまり想像出来なかったが、アスカの態度からしても、碇君の態度か らしても、二人はそれなりに好感を抱いている様子だった。 「アスカが今度部長になると話していたわ」 「うん。満場一致でね。それに先輩のお墨付き。やっぱりアスカはすごいよ」 「でもアスカは、碇君のほうが向いていると言っていたわ」 「え?あ〜、なんか前にそんなこと言われた気がするけど、きっとめんどうだったん だよ。僕が部長なんて誰も考えないよ」 「私もそう思う」 「そうだよね、ははっ」 彼と話したのはこれが三回目だが、それでも私はいくつか気づいたことがあった。 彼は話題があまり思うように進まないとき、とにかく愛想笑いをする。しかしそれは 何かを誤魔化すと言うよりは、場を和ませるような雰囲気を伴ったものだったので、 そんなに嫌な気はしなかった。というより、私にはとうてい真似できないものだった ので、軽く敬意すら抱いてしまいそうだった。 「綾波は、部活とか入ってないの?」 「えぇ」 「時間の無駄かな?」 「そういうわけじゃないけど」 「………」 「あまり得意じゃないから」 「……みんなといるのが?」 「気遣いをするのが」 そういうと彼は黙り込んでしまった。次にどういう言葉を発すれば、彼の、人の気 持ちを和らげることが私はなんとなく知っていたが、口にはしなかった。代わりに彼 が、意外なことを話し始めた。 「綾波のこと、少し羨ましいのかもしれない」 「どうして?」 「僕は、人の気持ちを考えるのとか得意じゃないけど、人に甘えちゃうんだ」 「それがコミュニケーションを成り立たせるものではないの?」 「そうかもしれないけど、でも少し違う気もする」 「………」 「部活で合奏をやってると、本当にたまにだけど、なんか、気持ちが通じ合った、み たいになるときがあるんだ。本当にたまに。言葉なんか一言もないのに」 「………」 「すごく贅沢だと思うけど、たぶん僕はいつもそれを求めてるんだ。もちろん、クラ スの人たちと話しているのもすごく楽しいし、やめたくなんかない。でも、僕はあま り話すの得意じゃないから、みんなが僕のことどう思ってるかは、結局はわからない」 「………」 「みんな大事な友だちだけど、なにかきっかけがあって友だちじゃいられなくなった としても、僕はなにも言わないし、言えないと思う。それはきっと僕がずるい奴だか らだと思う」 「ずるいのと賢いのは紙一重」 「そうだね。ははっ」 私は無駄な一言を挟んだのを少し後悔した。そして、そのときになって初めて、な ぜ彼があのとき私を追いかけてきたのか気になった。もう別れるところまで来ていた が、私は立ち止まり、碇君のほうを向いて言った。 「あの時、どうして私に声を掛けたの?」 私のその質問に彼は驚いたようだった。信じられないと言うような顔でこちらを見 ている。 「……あの、それは……」 「………」 「また今度話すよ」 「そう」 「……じゃあね」 そういうと彼は背を向けて行ってしまった。「今度」とは恐らく「また図書館で会 って一緒に帰ろう」と言うような意味なのだろうと思ったが、彼が図書館に来ること に以前ほど不快なものを感じなくなっている自分に気づいた。もしかしたら彼は本当 に部長に向いていたのかもしれない、なぜかそんなことを考えてしまった。 |