8.果てしなく遠い、穹窿の向こう





 冬休みがあけると、碇君はクラスでもてはやされていた。クリスマスコンサートで
の独奏が素晴らしかったからだろう。ひっきりなしに演奏をせがまれては、彼はただ
ただ愛想笑いを浮かべていた。きっと本当は迷惑に思っているのだろう、今も、教室
の前の窓際のほうで何人かに囲まれて困った顔をしていたが、窓からさす光の加減は、
余計に彼を神々しく見せていた。
 それでもやはり、教室では私に無遠慮に近づいてくることはなかった。きっと彼な
りの配慮なのだろう。
 だから今の私は、昨日図書館で借りてすでに読み終わっている本を相手にしていた。
 アスカは今日も休みだ。冬休みが明けてから一週間、彼女は一度も学校に来ていな
い。
 もう私に会いたくないのだろうか。それとも碇君にまだ会えないでいるのだろうか。
管弦楽部のほうはどうにか碇君が言い訳をしていたようだが、クラスでは彼女を心配
する声が絶えない。私はその声を耳にするたびに、彼女への罪悪感に打ちひしがれる
のだった。
 回りくどい取引など始めからしないほうが彼女のためには良かったのに。本当にア
スカを第一に考えるならもっと彼女の気持ちを汲み取るべきだった。
 なぜあれほどしつこくアスカを求めてしまったのだろう。碇君しか見えていない彼
女にとって、それは苦痛でしかないとわかっていたはずなのに。
 多分、解決方法は一つしかない。こんなおままごとは終わらせて、もとの関係に戻
せばいいのだ。アスカも碇君も私を遠くから見ていて、私が他の誰にも興味を示さな
かったあのころに。あの心地よい暗闇の世界に。
 一度関係を築いてしまった以上、完全に元通りとはいかないだろうが、二ヶ月と少
し我慢すれば、クラスは入れ替わる。そうすればきっと自然と離れていくだろう。そ
して受験勉強にでも没頭すればいいのだ。
 放課後、その解決策を実行できる唯一の人物に全てを託するために、全てを打ち明
けることにした。いつもの図書館からの帰り道――すべてが始まり、狂っていったそ
の場所で。
「アスカ今日も欠席だったね」
「そうね」
「綾波は何か知ってる?なんか電話かけても出てくれなくてさ」
 いつもと同じように部活に出て、図書館により、CDを借りた碇君は、いつもと同
じ調子でアスカのことを話し始めた。私はそんな彼が恨めしかった。
「それ、本気で言っているの?」
「え?」
「アスカがどうして学校に来ないのか、本当にわからないの?」
「う、うん」
 碇君はかなり動揺した様子で、それでもかろうじて答えを返した。きっと私が怒っ
ていると察してくれたのだろう。でもその苛立ちは、実際は碇君に対してではないこ
とは、自分でもよくわかっていた。
「確かにアスカとは幼馴染だけど、何でも知っているわけじゃないし……」
「そういうことではないわ。アスカがおかしくなった原因、想像できないの?」
「そんな。綾波は何が言いたいの?よくわからないよ」
「本当にあなた自分のことにしか興味がないのね」
「そ、そんなことないよ。ただ」
「いいわ。教えてあげる。私とアスカ付き合っているのよ。クリスマスコンサートの
次の日から」
「………」
「あなたと違って体の関係もあるわ。私が脅したから」
「え、え?え?」
「私はあなたのことなんかちっとも好きではないのよ。いつか私を映画に誘ったあの
ときのまま。私が好きなのはアスカ」
「………」
「彼女がほしかったから、その交換条件であなたと付き合っているのよ。仕方なく」
「な、なんでそんなこと……」
 私は感情が昂ぶっているのがわかったが、何とか理性的に話を進めるよう努めた。
解決法はもうこれしかないのだ。
「もう耐えられなくなったの、あなたといるのが。それに、あまり無理しすぎて彼女
にも避けられてしまったみたいだから、もういいわ」
「じょ、冗談だよね?」
「ふふっ。やっぱり、あなたってどこまでもおめでたいのね。もうアスカはだめみた
いだから、代わりを探すわ。そうしたらあなたは用済み」
「だ、だって音楽にも興味出てきたって」
「あなたそれしか関心ないみたいだからね。話を合わせるのに苦労したわ」
「あ、アスカとは二年生になってからずっと一緒にい、いただろ?」
「そう。ずっと機会をうかがっていたのよ。彼女とても可愛いから」
「……そんなに、僕といるのが嫌だったの?」
「えぇ。気づかなかったの?」
 そう言うと碇君はうつむいてしまった。これほど強気に出るには少し無理があるか
もしれないと思ったが、アスカから事実確認をすればきっと納得するだろう。二人の
人間の距離を縮めるのにもっとも有効なのは、共通の敵を作ることなのだから。たぶ
ん、それですべてうまくいく。
「彼女のこと大切に思うなら、早く行ってあげれば?きっと今でも私たちのこと想像
して勝手に傷ついているのよ。笑い話にしかならないけど」
「……綾波は、アスカのこと好きじゃなかったの?」
「従順じゃない子に興味はないわ」
「………」
「冬休みの間は楽しかったわ。あなたの名前を出せば、彼女はどんなことでもしたの
よ」
「………」
「そのたびに、『シンジを幸せにして』っていうの。健気でとても可愛かったわ」
「………」
「でも、もうダメね。それに私ももう十分」
「……それが、綾波の本当の気持ちだったの?」
 そのとき初めて、彼は私の方に顔を向け、目を見た。本当かどうか私を試している
のだろう。
「そうね。残念だけど」
「……わかったよ。今まで嫌な思いさせてゴメンね。ありがとう」
「どういたしまして」
 私がそれを言ったのを合図に、彼は駆け出していった。重い荷物を背負ったまま。
そして、いつもと同じ曲がり角を越えたところで、姿が見えなくなった。
 昨日の夜に降り積もった雪が、 街燈に反射して輝いていた。
 私は両方の手の平を口の前に添えて、息を吹きかけて暖めた。
 白い気体が私の表情を隠した。


 窓を開けて、毛布に包まって、風を感じて、浅い眠気に身を任せるのは心地よい。
決して深い眠りにつく事はできないし、どんなに思考をめぐらせてもなんの解決にも
ならない。ただの現実逃避だということはわかっていたが、他にすることなんてない。
本を読む気にも、音楽を聴く気にもならない。あるのはただの倦怠感。
 でも、明日からも学校を休むことはできない。そして、例え碇君がアスカを元気付
けて彼女を学校に連れてくるのに成功したとしても、未練があるのを悟られるわけに
はいかない。
 後悔はしていない。これできっと二人は昔のようにうまくいくのだろう。
 未練はあった。アスカにも、碇君にも。その感情は、もっとも私が恐れていて、長
い間逃げてきたものだ。
 実際は、直面してしまえば思っていたよりは手ごわいものでもない。ただ、胸の中
で膨らみ続ける痛みを、押さえつけて、じっとしていればいい。それだけだ。それだ
けが私とアスカと、そして碇君との時間だったのだ。
 でも、頭の中で渦巻くのはアスカとすごしてきた優しい時間と、碇君が奏でてくれ
たチェロの音色、そして音楽のことを語るときの彼の顔だ。それほど多くの人間と関
わってきた私ではなかったが、彼らとの関係はとても得がたく、貴重で、代わりの効
かないものなのではないかと感じていた。
 いつだって、アスカは私のことをわかってくれた。私もアスカと通じ合ったと思う
瞬間はたまらなく嬉しかった。こんな人はこの世の中に二人といないと思っていた。
ここ数ヶ月は行き違いばかりだったが、それでも私は彼女といることをやめることは
できなかった。楽しかった、あのセミの鳴き止まない暑い日々に戻りたい。一番嫌い
な季節が、一番の思い出の季節になるなんて。でもやっぱり、彼女に似合うのはその
季節で、私の心に刻まれるのもその季節でなくてはならなかった。
 碇君の奏でるチェロの生み出す時間と空間は、私に広い世界を見せてくれた。そし
て彼は、足踏みばかりしている私の手を引っ張って、果てしない広野へ連れてってく
れた。そこは、言葉だけでは表現できない色鮮やかな旋律で満ち溢れていた。幾何学
そら
模様が描かれる 宇宙 、情熱と優しさが響く幻想、そして愛に満ちた郷愁。たくさんの
ことば
人たちが語り継いできた無数の 音符 が、碇君のいた地平に散りばめられていた。彼は
 
それをいくつも拾っては、私に見せ、聴かせてくれた。その行為そのものに幸せを感
じ取るように。
 きっと私はかけがえのないものを無くしたのだろう。でも、余計者は始めから私の
ほうだったのだ。私が二人の間に割って入らない限り、彼らの平穏な日々が脅かされ
ることはない。
 そうであってくれることが、今の私にとっての唯一の救いだと信じた。


 いつもは時間に余裕を持っていく学校も、今日は遅刻ぎりぎりだった。走ることは
なかったが、別のことで心臓の鼓動は早まっていた。
 彼女はちゃんと、いつもの席に座っていた。背筋を伸ばして、前を向いて。それだ
けで彼女がもとに戻ったことがわかり、やっぱり彼女には、という少しの寂しさとと
もに、とても優しい気持ちにもなった。彼女にはその姿が良く似合う。
 しかし、本当の戦いはここからだ。ここからは、自分との戦いだ。
 授業の合間の休み時間も、お昼休みも、ひたすら私は本を眺めた。内容などてんで
頭に入らず、字面をなぞり、機械的にページを捲っているだけだったが、表情を保つ
くらいの役にはたった。こんなことのために本を利用する日がくるなんて、思っても
いなかった。
 彼はもちろん、彼女も話しかけてこなかった。彼らがどういった結論に達したかは
わからなかったが、彼女が登校してきた以上そう悪いものではなかったのだろう。
 一年前、いやある意味ではもっと寒々しい環境に身をおかれて、あぁやはりここが
私のいるべき場所なのだと実感した。
 だから油断した。放課後、下駄箱の前で碇君に突然声をかけられて、私は少なから
ず動揺した。
「綾波、一緒に帰ろう」
 いつの間にか私の前に立っていた彼は、私と「付き合っていた」ときそのままの無
垢な表情で、臆することもなく口にした。
 あまりの呆気なさに、私は返事をするのに戸惑った。
「なにを、言っているの?」
「え、一緒に帰ろうと思って」
「昨日言ったこと、忘れたの?」
「アスカと付き合っていたこと?それとも僕といるのが嫌だってこと?」
 何のためらいもなく、彼は口にした。
「……どっちも」
「もちろん覚えてるよ。かなりショックだったから」
「そう、なら私に用はないわね」
 そういって私がまた靴を履き替え始めると、彼はまたしゃべりはじめて。
「あるよ。たくさん。返事してくれてよかった。初めて図書館で声かけたときは無視
されたからね」
「………」
「僕とアスカの話を聞いてほしい。昨日は綾波の言い分を聞いた。だから今度は僕た
ちの番だよ」
 私は靴を履き替えて、いつでも逃げられる準備した。でも、露骨に避けていては、
逆にこっちの狙いを見透かされてしまう。それでしつこく付きまとわれたときに、私
は勝てる自信がない。
「損害賠償でも請求するつもり?」
「そうだよ。請求する。僕は騙されていたんだから」
「そうね。でも私も十分に時間を提供したのだから、お互い様よ」
「アスカはどうするの?」
「私は彼女と取引をしただけ。何も悪いことはしていないわ」
 私はこれ以上しゃべってぼろが出ない自信がなかったので、早く帰りたかった。
「そうだよ。何も悪いことはしてない。だから、変な意地をはるのはやめようよ」
「なんのこと?」
 私がそう答えたとき、不意に肩が叩かれた。振り向くとそこにいるのは、やっぱり
アスカだった。
「あんたのことでしょ」
「……アスカ」
「ずっと休んでいたのは悪かったわ。でも、それでレイが傷つくなんて思ってなかっ
たから。というより、余裕がなくて」
「………」
「でも、昨日シンジから話を聞いて目が覚めたわ。だからもう、変なことを言うの、
やめて」
「くっ……」
 二人の言いたいことも要求していることもよくわかった。私はそのまま二人に身を
委ねてしまいたかった。あんな陳腐なウソでも、真剣に向かい合ってくれる二人を見
て、ほんの一瞬心が揺れた。
 でも、それじゃあダメだ。また同じことの繰り返しになる。私たちは三人になって
しまった瞬間、不幸になるのだ。
「言いたいことはそれだけ?」
「ちょっとレイ!」
「さようなら」
 私は前に立つ碇君をかわして、振り向かずに走った。二人から逃げるために。


 校門まで出たところで少し振り返って、二人が追ってこないのを確認してから歩き
始めた。周りは下校する生徒で溢れかえっていた。
 空は灰色で、今にも雨が降りそう。今日は傘を持ってきていないので、図書館によ
ったら間に合わないかもしれない。
 これからどうしよう。図書館に寄れば碇君が追いかけてくるし、家に帰ればアスカ
が来るかもしれない。電話ならそのままにしておくこともできるが、直接来られたら
さすがに次はない。でも、それなら明日はどうしよう?二人が放っておいてくれるま
で、仮病を使って学校を休むしかないだろうか。
 たぶん、私の思惑は探られてしまっただろう。あんなに露骨に逃げたのだから。あ
とはどっちの想いの方が強いかの問題。
 私はもうアスカの傷つく姿を見たくない。アスカが私のことを許してくれたとして
も、私がアスカの傷を抉り続けた事実は残る。その過去がある以上、もう私は彼女と
面と向かって話すことなんてできない。
 気がつくといつの間にか図書館の前まで来ていた。でも、今日はここに入ることは
できない。家の毛布に包まるのも嫌。
 だから私は、図書館の前の公園のベンチに座って時間を潰すことにした。ここなら
見渡しが良く、入り口が二つあるので、彼らが来ても逃げ切れる。
 二人に対する未練を何とかなくそうと努め、何も考えないように、何も感じないよ
うに、そうしながら空を見上げた。雲の動きは速く次第にその色の濃さを増していっ
た。
 どのくらいたっただろう?数分だろうか、一時間近くだろうか。しばらくすると雨
が降ってきた。雨に打たれるまま、制服が水分を増し、重くなり、体が冷え、髪から
水が滴るのを感じた。でも、今の私にこの姿は滑稽なほど似合っていると思った。そ
うだ。このまま風邪を引けば、しばらく学校に行かなくて済む。そしてお見舞いも断
ればいい。タイミングを外してしまえば、きっと二人だって取っ掛りがなくなるだろ
う。私はそのままの態度を維持すればいい。
 もともと公園にはほとんど人がいなかったが、犬を散歩させていたおじいさんも、
子どもを砂場で遊ばせていた主婦も気づいたらどこかに行ってしまった。この公園に
いるのは私たった一人だけ。
 雨に打たれて公園のベンチに一人で座っている。安い演出だと思う。でも、悪くな
い。寂しさ、絶対に私を裏切らない寂しさを感じさせるには十分。
 ここで、フォーレのエレジーを碇君が演奏してくれたら、こんな私でも少しは引き
立つだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えた。
 この地平に、私はただひとり。
 延長線上に碇君もいるだろう。ずっと遠くのほうに。
 アスカはいるだろうか。きっといる。だから彼女は碇君が好きなのだ。
 光もない、温もりもない、広い荒野に私はただひとり。
 向こうでアスカが笑っている。
 その隣では、碇君が地面に腰を下ろしている。
 悪くない。
 私はどこに行くのだろうか?どこにも行かないのだろうか?
 いつからひとりを選んだのだろう。いつからここを選んだのだろう。
 流れる時間は緩やかで、あたりの景色はモノクロで、すべてを拒み続ける。
 私はいつも完全な孤を求めた。
 私は始めから独りだった。
 そこにアスカが入ってきた。
 この心地よい世界にいながらにして、私は共生者を見つけた。
 そこに碇君が入ってきた。
 彼の背にはもっと大きな世界が広がっていた。
 私は逃げる。ただ逃げる。
 この地平に、私はただひとり。
 ………………………
 ………………
 ………
 向こうから自転車がやってきた。私をどこかに運ぶつもりだろうか?
 とても速い。
 雨にも負けず、風にも負けず、その自転車は走り続けた。
 そんなに急いでどこへ行くのだろう。
 そんなに急いで何をするのだろう。
 その姿が次第に大きくなった。
 やっぱりこちらの方へ向かってきていたのだ。
 もう少しでこの地平に入り込むかというところで、自転車は地平の壁に阻まれた。
 弾き出された。
 横転した。
 そこにいたのは……!
 瞬間、脳が覚醒し、目が覚め、駆け出した。公園の入り口に向かって全速力で走っ
た。短距離走でも出したことがないほど速く。足がもつれ、一度転んだが、すぐに立
ち上がった。もうなにも考えられなかった。
「アスカ!」
「……くっ、つ、つぅ」
「大丈夫?ちょっと待って、すぐに図書館の人を――」
「だ、だめ!いかないで!やっと捕まえたんだから」
「そんなこと言っている場合じゃない」
「は、は、お、お願い、わ、私は、大丈夫、だから」
「そんな」
「は、は、ひとつだけ、お願い」
「どうして、そんな、無理して」
「あ、あたし、レイにされたこと、嫌じゃなかったよ」
「な、」
「レイといて嫌だったことなんて一度もない」
「………」
「私もレイが好き。それはずっと変わらなかった」
「………」
「私がただ、レイに甘えていただけなの。レイに身を委ねたのも、学校休んだのも」
「……アスカ」
「だから、お願いだから、さよならなんて言わないで」
「………」
「お願い、だから、は、は、レイ」
「……アスカ」
「……は、はっ」
「……アスカ……私も、同じ。私もアスカといるときはいつも楽しかった。幸せだっ
た」
「………」
「……本当はアスカに変なことしたかったわけじゃないの。ごめんなさい。信じて、
くれないかもしれないけど」
「だ・か・ら!嫌じゃなかったって言ってるでしょう。いえ、嬉しかったわ。レイが
私のこと想ってくれているって、伝わったから」
「………」
「シンジのことは、確かに好きよ、今でも。本気で。でも、もしかしたら、また変な
態度取るかもしれないけど、けど、レイだけは失いたくないの。だからこれまでのこ
と、私も謝る。ごめんなさい」
「そんな」
「これは、私なりのけじめ。だから、一年前のあの時、ちゃんと言葉にできなかった
ことを言うわ」
「………」
「友だちでも仲間でも、恋人でも、姉妹でもなんでもいい。私と一緒にいてほしい。
私と楽しい時間を過ごしてほしい。きっとあなたとなら、うまくやっていける。だっ
てあたしは、レイのことが好きだから」
「……アスカ、私も。うれしい」
「あの時は、本取り上げてゴメンね」
「……そのおかげで、今の私たちがあるのよ」
「そう、そうね」
 傘もレインコートもない彼女は、道路の端に横たわって、それでも顔は私の方をじ
っと見ていて、雨に打たれたまま、泥だらけになって、でも、その濡れた頬は、教室
で一緒にお弁当を食べているときより、体育の時間に汗で湿らせているときより、彼
女の部屋で寝ているときより、美しかった。


 その後、図書館で電話を借りて、救急車を呼び、病院に行くと、捻挫やら打撲やら
で、アスカは包帯と湿布だらけになった。私もアスカもずぶ濡れだったので、医者に
は呆れられた。
 そして、アスカが碇君に電話をすると、彼はタクシーを使ってすぐにやってきた。
バスタオルも持ってきていたし、お金も余計に持ってきているようだった。
 私たち二人の様子を見て安心したようだったが、あまり無理をしないでほしいと言
われた。どうやら、自転車で町中を探し回ったのは、アスカの独断らしかった。
 アスカの家に行き、二人でお風呂に入った。二人で入っても余裕があるほど、アス
カの家のお風呂は大きかった。アスカは左足を捻挫していて包帯も巻いていたので、
湯船につけないように注意した。二人で背中を流し合い、ふざけてお湯を掛け合った。
その日はアスカの家に泊めてもらった。公園に置いたままだった鞄は、碇君が持って
きてくれたようで、いつの間にか部屋に置いてあった。
「ほんと、病み上がりにはきつい一日だったわ」
「でも、今日教室で見たときには、とても病み上がりには見えなかった」
 先ほど台所を使わせてもらって作ったミルクティを両手で挟んで、口にしながらア
スカのほうを向いた。
「まぁかなり気合が入っていたからね。弱気を見せたらレイが勘違いするって」
「……碇君が話してくれたの?」
「そう、レイがあたしに嫌われたって思い込んでるって」
「てっきり、碇君がアスカに愛の告白をして復活したのかと思った」
「はぁ。バカシンジがそんなことするわけないって。それに、それじゃあ復活しなか
ったわ。いつまでも甘えてられないって思ったから復活したのよ」
 それまで机の前のイスに座っていたアスカは、ベットに飛び込んで寝転んだ、その
アクロバティックな仕草は、とても怪我人には見えなかった。カーペットの上に腰を
下ろしている私は、彼女がやっぱりもとの通り元気になったことに安心した。
「休んだのはね、どうしてもシンジに会えなかったからよ。私もシンジに嫌われたと
思ったから。そしたら昨日、いつの間にか親がシンジを通しちゃってて、小さいころ
から知ってるから、それで、そんなことで嫌いになるわけないって怒られたのよ」
「私も、いつかそう言った筈だけど」
「あちゃ〜、ごめんごめん。あの時は結構まいっていたから上の空だったかも。でも、
レイがいてくれてよかったわ。でなかったら何してたかわからなかった」
「それほど、碇君が好きだったのね」
 そう口にしたが、その事実は私の中で前ほど重くなくなっていることに気づいた。
「そうね。でもね、それだけじゃなくて、シンジが好きなはずなのにレイのことをも
っと好きになっていく自分が許せなかったのよ」
「………」
「うれしかったけど、怖かった。それしか考えられなくなりそうで。でも、そのおか
げでシンジのことに折り合いつけて、冷静になれたのは事実よ」
 真剣な目で、アスカは私のほうを見た。
「昨日ね、シンジに。アスカのこともきっと好きなんだって言われたわ。ただ、レイ
に対する感情と、私に対する感情が違いすぎて、どっちの感情が好きって気持ちなの
かわからないって」
「そう、だったの」
「だから、ちゃんと付き合ってるレイのことを大切にしたかったんだって。でも、昨
日ふられたってベソかいていたわ。本当は一緒にいるのが嫌だったみたいって」
「あ、まだ謝ってなかった」
「ウソに決まってるから気にするなって言ったんだけどね、それでもそうとう堪えた
みたいよ」
「でも、今日話しかけてくれたし」
「まぁ、一応ちゃんと謝っておいたら。嫌いではないんでしょ?」
「ええ。ただ、碇君に対して抱いているのは、好意というよりは敬意に近いのかもし
れない」
「チェロうまいから?」
「それだけではなく、ものの感じ方とか、考え方とか」
「へぇ、あいつがねぇ。正直それはわからないわ」
「きっとアスカと碇君は距離が近すぎるのよ」
 紅茶に添えられたマドレーヌを口にすると、どこか懐かしい記憶が口いっぱいに広
がった。冬なのに、とても暖かいと思った。
「でも、すっきりしたわ。別にひとりだけを好きでいる必要なんてないってね。シン
ジへの思いは多分途切れることはないけど、そのせいでレイとのこと犠牲にはできな
いって」
「アスカ……でも、アスカに私より仲の良い友だちができたら、もしかしたら嫉妬す
るかもしれない」
「その可能性はいつだってお互い様よ」
 そういうとアスカは抱き枕を抱えたまま、左足を庇いながら私の隣にやってきた。
「でも、レイ以外のひととこんなに深い関係を結ぶなんて、考えられないわ」
 そして、次第に近づいてくるアスカの瞳。
「アスカ……いいの?」
「うん、いいよ」


 昨日の低気圧が雨雲をさらっていったのだろう、翌日は、日本晴れだった。
 アスカの家で朝食をご馳走になったあと一度家に帰って、代えの制服に着替え、時
間割を揃えてまたアスカの家にもどった。二人で学校へ向かった。
 十字路を曲がったところで碇君の後姿が見えた。いつものように、大きな楽器をそ
の背中に抱えて。
 アスカは私の手をとってギュッと握り締め、碇君に向けてその声を響かせながら、
私を引っ張るように駆け出した。
 きっと、今この瞬間私たちは完璧から程遠いのだろう。そして、完璧を成り立たせ
るための寂しさも絶望もないその瞬間には、いつも一つの可能性が残る。危険を秘め
たその可能性は、この世界を広げるカギでもある。だから、そのカギを持つことがで
きるのは、覚悟を決めた人たちだけなのだ。誇らしくも、気高くも、立派でもない、
ほんの少しの覚悟を決めた人たち。
 私はついていこうと思った。そして、連れて行こうと思った。どこまでも、いつま
でも、果てしなく遠い、あの空の向こうまで。
 手始めに私は彼の背中に向かって初めて、自分から「おはよう」と言った。


end