7.街は日を追うごとに人が減っていった





「はーい、もしもし。あれ?レイ?どうしたの?こんな早くに。今日はシンジとデー
トじゃなかったの?」
「碇君、急に体調を崩してしまったみたいで、ダメになったの。それで、ちょっと今
日買う予定だったクリスマスプレゼント、アスカに相談したくて」
「えっ?そうなの?あいつほんっとにバカね。今開けるから、ちょっと待ってて」
 そう言ってすぐに開けてくれたアスカは、気のせいか少し疲れているようで、顔に
はいつもの元気がなかった。
「はいって、はいって」
「お邪魔します」
「昨日はどうだった?」
「とても良かった。ありがとう」
「ホントに?こっちこそ来てくれてありがと。頑張った甲斐あったわ」
「今日は一人?」
「えぇ。今日はパパもママもデートでいないから、遠慮しないで」
「アスカはいいの?」
「あんな万年発情ペアレンツなんかについていきたくないわよ」
「そう」
「私の部屋でいい?」
「えぇ」
「ジュースとお菓子持ってくるから、先行ってて」
「わかった」
 私は二階のアスカの部屋に向かった。この部屋に来るのも久しぶり。夏休みは毎日
のように来ていたのに。
「コーラしかないけどいい?」
「えぇ」
 アスカはベッドの上に腰かけた。立っていた私もその隣に座った。
「で、クリスマスプレゼントだっけ?本当は今日二人で買いに行くつもりだったの?」
「いえ、もうそのことはいいの」
「へっ?」
「さっきのはウソ。家に入れてもらうための」
「じゃ、じゃあ早く行きなさいよ!」
「もう断ったからいいわ」
「っ、なんでそんなこと」
「アスカと話がしたくて」
「あたしと、話?」
「そうとても大切な話」
「な、なによ。まさか今日生理とかいうんじゃ」
「そんなことじゃない」
「じゃあなによ?」
「前にアスカ、もう隠さないと言った。だから正直に教えてほしい。アスカは碇君の
こと好き?」
 彼女は一瞬驚いたように肩をビクっとさせてから、うつむいて顔を隠してしまった。
きっとそれだけでいくらか勘付いたのだろう。
「昨日帰りに図書館によって、帰りが遅くなってしまったの」
「……見た、の?」
「えぇ」
「……あたしを怒りにきたの?」
「いえ、確かめに来たの。アスカの気持ち」
「………」
「………」
「好きよ。シンジのこと好き。でも、アレは私が一方的にやっただけで、シンジはた
だの被害者で!」
「そんなことはいいの。とにかく、アスカは、本当は碇君のことが好きなのね」
「そ、そうよ」
「じゃあ、やっぱり別れるわ。最初から付き合わないほうが良かった」
「ちょっと待ってよ!シンジはあんたのこと好きなのよ。昨日のは無理やり私がやっ
ただけで、悪いのは私で」
「………」
「それに、レイもシンジのこと好きなんでしょ?」
「………」
「ごめんなさい。もうバカなことやらないから、そんなこと言わないで!昨日はクリ
スマスだからって、変に気持ちが昂ぶって、もうこんなチャンスないかもしれないと
思ったら、一回だけって思ったら、つい、そ、その」
「………」
「だから、怒るならあたしだけにして」
「………」
「私はもうシンジに嫌われたと思うし」
「じゃあ怒るわ。思い切りビンタするからこっちを向いて」
 そうして、おびえたような目でアスカが私の方を向いた。私はその顔をじっと十秒
くらい眺めた。
「構えられたくないから、目を閉じて。歯も食いしばってはダメ」
 アスカが目を閉じた。
 そして私は、アスカの唇に私の唇を思いきり重ね合わせた。鼻が当たらないように、
少し顔を傾けて。アスカの後頭部を両手で掴んで。アスカはもぐもぐと何か言ってい
たが、私は放さなかった。
「ふ、う、は、はぁ〜、はぁ、はぁ、な、なんなのよ!」
「はぁ、はぁ、これが、私の、本当の、気持ち」
 アスカは私から少し離れて、戸惑った顔をしていた。
「アスカが碇君への気持ちを隠さないなら、私ももう隠さない。私はアスカが好きな
の」
「で、でもあんた女じゃない!」
「そう。でもアスカが好きなの。私のこと、気持ち悪い?」
 そう言って私はアスカににじり寄った。彼女は無理に離れようとはしないものの、
戸惑ったままだ。
「あ、あんた、お、女が好きだったの?」
「ふふっ、変な質問。私は女の子が好きなんじゃなくて、アスカが好きなのよ。アス
カは私のこと嫌い?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。嫌いじゃないけど、でも」
 そして、私はアスカの手をとった。
「アスカのこと、どうしようもなく好きなの。一緒にいるとドキドキするの。離れた
くないの」
「き、気持ちはうれしいけど、でも」
「なら、私と付き合って。私は好きでもない碇君と付き合わされて、あげくあなたに
取られたのよ」
「で、でもレイだってシンジのこと嫌いではなかったでしょ」
「いえ、碇君と付き合うことでアスカが辛そうな顔をしているのがとても嫌だった。
アスカがあまりに碇君に一生懸命だから、仕方なく付き合ったのよ」
「じゃ、じゃあシンジを利用したわけ?」
「それはあなたも同じ。あなたも私を利用したのよ。とても辛かったわ」
「で、でも」
「それに、私のこの想いは、絶対に叶わないものだと思っていたから、今までずっと
我慢してきたの。せめて友だちでいたかったから。でも昨日、碇君の演奏聴いて気づ
いたの。無理することなんてなかった。思う様に自分を表現すればいいって」
「……な、なんでそうなるわけ。ちょっとあんた――」
「だからもう我慢しない」
 アスカが軽く視線をはずしたタイミングを狙って、私はまた彼女に襲い掛かってキ
スをした。今度は、先ほどよりは抵抗しなかった。
 はっきり拒絶されたらどうしよう。気持ち悪がられたらどうしよう。そう思ってい
た。
 でも、アスカは、顔を真っ赤にして戸惑ってはいるが、私が予想していたほど嫌が
ったりはしなかった。
「私も、レイのこと好きだけど、こんなの、よくわからない」
「私もわからないわ。だから二人で時間をかけて考えましょう」
 そういって、もう一度アスカにキスをした。彼女はもう抵抗らしい抵抗は見せなく
なっていた。そして、そのキスの味が段々甘くなってきていることに、私は気づいた。
ずっとこんな時間が続けばいいのに。
「……よかった。アスカに受け入れてもらえて」
「べ、べつに認めたわけじゃないわよ」
「それでもいい」
「……シンジは、どうするの?あいつがかわいそうよ」
「やっぱり、アスカは碇君が好きなのね」
「そ、そうよ」
「それなら、アスカが碇君と付き合えばいい。私がちゃんとふるから」
「……それは、無理よ」
「どうして?」
「……その……き、昨日、あのあと、ふられちゃったの」
「………」
「あたし、告白も何もしないで、ただキスしてってやっただけなのに、私のこと引き
離して、ご丁寧に『アスカの気持ちには答えられない。今の僕には綾波しかいないん
だ』だって。バカみたいでしょ?」
「………」
「そしたら、あたし、冗談に決まってんでしょバカって、あんたを困らせたかったの
よって、それくらいしか言えなくて」
 うつむいていたアスカの目から、涙がこぼれてきた。私は人差し指を横にしてその
涙を拭い、それからアスカをそっと抱きしめた。きっとこれくらいなら普通の女の子
同士でもするだろう。
「自分のしたこと、すぐに後悔したわ。なんてバカなことしたんだろうって。でも、
あいつがレイしか見てないことはよくわかったわ。だから、あいつと別れるなんて言
わないで」
「碇君ひどい」
「シンジは悪くないの、ごめんなさい」
「アスカ……私は、アスカとずっと一緒にいたい。離れたくない」
 しばらくアスカは泣いていて、私は彼女の背中を撫でていた。
 彼女が泣き止んだころ、私はおもむろに口を開いた。
「アスカのためなら、今のまま、何も知らなかったことにして、碇君と付き合っても
いい」
「ほんとに?」
「そのかわり、アスカ、私と付き合って」
「そ、それって、二股ってやつじゃ」
「そうよ二股。でも男と女だから大丈夫」
「……あたしがレイと付き合えば、ずっとシンジを幸せにしてくれるの?」
「えぇ、アスカのためならなんでもする」
 私はアスカの目を見てそう告げた。瞬間、沈黙が部屋を支配した。それほど長くは
ない時間だったが、私は自分の心臓の鼓動が嫌に気になった。
「……わかったわ……じゃあ、レイと付き合う」
 結局、アスカは碇君のことが好きなのだ。でも、そのうち忘れてくれることを、今
は祈るしかない。私だって少しずつは碇君を見直していったのだから。


 クリスマスコンサートが終わってしまえば管弦楽部の活動もいったん休みになるよ
うで、冬休みに入ってから碇君にはたくさん時間ができたようだった。特にどこかへ
出かけると言うようなことはなかったが、彼は頻繁に電話をしては一緒にすごしたが
った。その大半は図書館とその近くの公園だったが。
 彼と一緒の時間をすごすことに不満はなかったが、いつも頭によぎるのはアスカの
ことだった。今こうして碇君といる間にも彼女が辛い思いをしているかもしれないか
と思うと、胸が苦しくなるのだった。だから、それを誤魔化すように、彼といない時
間はアスカと過ごそうとした。これほど一人の時間が少ないことなんて今まであった
だろうか。
「綾波?そろそろお昼にしない?」
「そうね。いつものところ?」
「それでいい?」
「えぇ」
 図書館から道路を隔てて向かいにある小さな公園のベンチに腰掛けて、私たちは話
していた。この時期の風に吹かれればコートを着ていても震えるように寒かったが、
私はそれが嫌いではなかったし、碇君も寒さには強いようだった。
 碇君が立ち上がって歩き出すと私もそれに続いた。
「最近はチェロ、どうしているの?」
「ほとんど家だね。レッスンも年末年始はないし」
「その教室は、アスカも通っているの?」
「そうだよ」
 以前それとなく聞いてみたが、碇君とアスカはクリスマス以来会っていないようだ
った。その理由はすでに私にもわかっていたが、碇君が言わなかったので私も黙って
いた。
 きっとアスカは碇君のことをしばらくは避けるだろう。私はそんなアスカを可哀相
だと思いつつも、碇君とアスカの距離が広がっていくことに安心感を抱いているのも
事実だった。
 街は日を追うごとに人が減っていった。葉が落ちきりほとんど枝だけになってしま
った木がこの街の寂しさをいっそう深く演出している。この街の性質上、帰省する人
が多いのだろう。しかし私はもちろん、アスカや碇君にも帰るべき「田舎」はなかっ
た。
「この喫茶店いつ来てもがらがらだね」
「そのほうがいい」
「そうだね。綾波は何にする?」
「今日はミックスサンド」
「僕はどうしようかな」
 一心にメニューを眺める碇君から視線をはずし、窓の外を見ると今にでも雪が降る
のではないかというくらいに外は曇っていた。彼はいつも選ぶのが遅いので、私は待
っていることが多い。そんな時ふと考えるのは、いつもアスカのことだった。
 冬休み前、私が碇君と「付き合う」ようになって、学校でアスカが私と碇君のこと
を話題にするときのようなあの居心地の悪さを、私は次第に感じ始めていた。碇君の
しこり
ことは嫌いではなかったが、そこにアスカが絡んでくるとどうして も凝が 残るのは、
 
結局変わらなかった。いや、今ではある意味もっと泥沼状態にあるのかもしれない。
今の私とアスカのことを考えると。
「ミートソースにするよ。頼んでいい?」
「えぇ」
「えっと……あ、すいません!注文お願いします」
 彼との時間の流れはひどく緩慢で、どうして一緒にいるのかもよくわからなかった。
きっと傍から見ても、きょうだいか何かのようにしか見えないだろう。
「いつも、つき合わせちゃってゴメンね」
「いえ。べつに用事、ないから」
「宿題はもうやった?」
「いえ、まだ」
 彼との会話はあまり多くなかったが、いつも彼は恥ずかしそうな、うれしそうな顔
をしていた。だから私は、自分が終始無表情であること少し後ろめたさを感じもした
が、他にどんな顔もできないのだから仕方ないのだろう。
「お正月はどうするの?」
「特に決めてないけど」
「初詣は?」
「初詣?行ったことない」
「ほんとに?じゃあ行こうよ」
 冬休みに入って以来いくらか変化したことと言えば、碇君が少し打ち解けて積極的
になったことと、本のことを私に聞くようになったことだ。きっと碇君のことをあま
り知らなかったら、私はそれを疎ましく思っていただろうが、楽器を操っているとき
の彼を知っている今の私は、碇君のそんな姿が仮初でしかないと思っているので、不
愉快ではなかった。
「以前借りたエルガーのチェロコンチェルトとても良かったわ」
「あ、聞いたの?」
「えぇ。とても力強いのに、とても寂しくて」
「そうだよね!わかるんだ。やっぱり綾波はすごいなぁ」
「以前碇君が弾いていた曲と同じ人だった」
「あぁ、『愛のあいさつ』のこと?同じ作曲者だとは思えないよね」
「そうね。でもどちらもメロディーが心地いい」
「メロディーかぁ。有名どころだけどドヴォルザークもいいよ。こっちはボヘミアン
だけどね」
 音楽の話を始めると碇君の口は止まらなかった。私はいつも素人目に素直に感想を
言うだけだったが、碇君はそれを喜んで聞いていた。参考になると言われることもあ
った。碇君が私に音楽を教えて、私が碇君に本のことを教える。きっと私たちがお互
いを理解するにはそれが一番の近道だったし、それを実践してもいた。このときばか
りは嫌なことも少しは忘れられるのだった。
 結局彼は、店員が食事を運んできても気づかないほどに話に没頭し、私はそれを微
笑ましく思った。


「シンジとはうまくやってる?」
「……えぇ。アスカも彼に会えばわかるわ」
「その言葉はレイの意地悪と受け取っていいの?」
「そうかもしれない」
 そう言って、私はまたアスカにキスをした。初めてキスをしたあの日から、いった
い何度唇を重ね合っただろう。そして、体も。もういちいち数えてはいなかったが、
覚え切れないほどしたことは確かだった。
「……ひゃ!」
 アスカの頬を両手で包み込むと、暖かくて、ひんやりとした私の手に心地よかった。
さらに片方の手でアスカの髪を撫でると、柔らかくて滑らかで、いつまでも触ってい
たかった。
「レイ……」
「やっぱり、私にはアスカがいないとダメ」
 あの日以来、私のアスカに対する欲求には歯止めが効かなくなってしまった。彼女
が今でも碇君のことを気にかけていて、本当は私のことなどとっくに嫌いになってし
まったかも知れないと思っていたが、私はその不安を押し殺すように殊更にアスカを
求めた。
「アスカはお正月どうするの?」
「……ごめん。ちょっと家出たくなくて」
「……そう」
 私の隣に、仰向けに寝転んで天井をぼおっと見つめる彼女の顔に翳りが射した。素
肌を晒したまま、布団も掛けずに横になる彼女はどうしようもなく美しかった。氷で
作った彫刻の女神のよう。
 でも、あの日以来アスカは塞ぎ込んだままだった。以前の生気に満ち溢れていた彼
女からは想像もつかないほどに。そんな彼女へ私はいつでも尋常ではない要求をして、
彼女はいつでもそれを素直に受け入れた。
 この数日間で私が思い知らされたのは、私ではアスカに碇君を忘れさせることがで
きないということだけだった。以前のような彼女にもどってほしいとは思っていても、
やはり私ではどうすることもできなかった。私にできるのはただ彼女を傷つけること
だけだ。刹那的に。それは私に敗北感や失望感とともに罪悪感を与えた。
 きっとあの人なら。でも――いつもその繰り返しだった。
「少しでも外の空気に触れないと良くないわ」
「ふふっ。レイがそんなこと言うなんてね」
「アスカのためだから」
「私は大丈夫よ。辛いとかって言うわけじゃないから」
「……でも」
「なんか面倒臭くてね。いろいろ」
「ご飯ちゃんと食べてる」
「食べてる、食べてる。ダイエットしている人に面目ないくらい食べてるわ。お腹触
ってみる?」
「……ヴァイオリンは?」
「今は教室も部活も休みだからいいのよ」
「そう」
 そうやって受け答えするアスカは明らかに空元気といった感じだったが、それでも
私には他に何もできなかったし、いつかは元に戻ってくれるだろうと思っていた。
「ところで昨日はどこ行ったの?」
「図書館行って、お昼食べて、碇君の家に……」
「またそのコース?飽きないわね。手ぐらいつないだ?」
「いえ。別に碇君もそういうこと期待していないみたいだし」
「バカね。あいつはむっつりなのよ。しかも奥手だし。あのバカ。もしかしてレイ、
やっぱり男はダメなの?」
 その疑問に答えられず、たまらなくなって私はまたアスカにキスをした。いつまで
も碇君のことをしゃべるアスカの舌を食べてしまいたくて。
 こんな状況になっても彼女はやっぱり碇君のことばかり話すのだった。痛々しいほ
どに。それでも、そのときだけは表情に輝きが降り注ぐのも事実で、ある意味では病
的でさえあったが、それがアスカの本質なのだと私は思った。私はアスカなしでは生
きていけないと何度も彼女に告げたが、それこそアスカは碇君なしでは本当に死んで
しまうのかもしれない。例え二人の関係がどのような形になろうとも。
 アスカのそんな悲惨な姿を目の前に突きつけられていたので、形の上ではせっかく
アスカと結ばれたのに、私はちっとも幸せではなかった。アスカとこんな時間を過ご
すことなど望んでいなかった。
 私はただ、彼女が私のことを気にかけてくれるのがどうしようもなく嬉しかっただ
けなのだ。それが恋愛感情というものなのかわからないが、私が本来望んでいたのは
そういう関係だったのだと、私はこのたった数日で気づいてしまった。
 でも、そう思えば思うほど、そしてアスカが碇君へ率直に好意を向けるのを目の当
たりにするほど、私は極端に、彼女に一次的接触を求めるのだ。いつかアスカに見向
きもされなくなるかもしれないという不安を少しの間だけでも忘れるために。
「雨降りそうね。それとも雪かしら」
「どっちでもいいわ。どうせ外、出ないし」