1.しるし「――ですからここで論じられている〈超人〉というのは、一般人の尺度を越えるス ーパーマンなどのような形而下的な意味ではなく、〈理性〉や〈神〉などの絶対的原 理に惑わされずに、新たに現れ、さらには流転するような真理を承認することができ る、〈力への意志〉をもった人間のことです。〈力への意志〉というのは――」 1限は眠い。おそらく大多数の大学生は賛成するだろう。 碇シンジもその御多分に洩れず1限は爆睡した。遠慮もなく、ぐぅぐぅと。 しかし、それがいけなかった。1限のほとんど全てを寝てすごしたせいで2限では 目がランランとして睡魔が訪れてくれず、退屈な講義に耳を傾けざるを得なかった。 「ニーチェがナチズムの思想に繋がらないことは今では常識ですが、妹のエリザベー トがニーチェの原稿を恣意的に編纂し――」 (退屈だ。ルサンチマンだ。もうだめだぁ〜) 学生など見向きもせずに淡々と話し続けるこの教授の講義がつまらないことは学内 では有名なことだったが、それを知らずにシンジは「哲学」という講義名だけでなん となくとってしまった。今ではとても後悔している。 (あ〜、綾波はまだ寝てるんだろうな。メールするのも忍びないなぁ。退屈だなぁ) 一番後ろの窓際の席でひとり悶々とするシンジ。 いつもなら一緒に講義をとっている友人の相田ケンスケは、今日はシンジに代返を 頼んで欠席していた。暇つぶしもできない。 (早く昼休みになってくれ〜) まだ2限が始まって10分も経っていなかったが、ほとんど講義内容と関係ない試 験(教授の本を買わなければ解けない試験)を繰り出すとわかっている教授の講義な ど聞く気にならなかった。それにシンジの専攻は心理学であり、この講義はただの一 般教養だった。 変に頭が冴えているせいで余計に退屈に感じてしまう。 ついにはノートに落書きを始めた。しかし自分に画力がないことを重々承知してい るシンジにその暇つぶしはあまり効果がなかった。 (はぁ〜。やっぱ綾波にメールしようかな) 思い悩んで、なんとなくノートに「綾波レイ」と書いてみたときだった。そんな恋 する中学生みたいな自分の行動に若干照れつつも彼女の名前を目にしたとき、きれい な名前だと改めて思った。もう長い付き合いだから「綾波レイ」という名前に特別な 感慨など持っていないはずだったが、いざ書いてみるととても美しい名前だとシンジ は思った。 そのことが彼に少しの好奇心を巻き起こす。渇望していた暇つぶしとともに。 (綾波レイ、綾波レイかぁ。碇シンジを並べたらどうだろう) 自分の名前も書いてみて、シンジは悪くないと思った。もしかして、僕たちってお 似合い? などとふざけたことを考えながらも、シンジの思考は少しずつ講義とは離 れていった。 (いいかも知れないな。なんか書けそうだ) 彼は読書家だったが詩や小説を書くといった趣味はなかった。しかしこのとき、2 つ並べられた名前を見て、この二人を主人公に何か書けないかと思った。 (いや、でもいくらなんでも自分が主人公じゃなぁ) とは思ったが、最近読んだ本のモチーフなどをもとに次々とインスピレーションが湧 いてくるのを止められなかった。これは神のお告げか? などと考えながら、なんと なく書き始めてみる。 (やっぱ綾波は薄幸の少女って感じだよな。僕は……綾波を救うヒーロー? いや、 でもヒーローって柄でもないな。でも綾波を救う役目は僕にしたいなぁ) 思い浮かぶままに登場人物を作り出し、ストーリーのアウトラインを決めてみた。 その中には友人の相田ケンスケや渚カヲルだけでなく、惣流アスカやアスカの友人の 洞木ヒカリまで入っていた。 いけるいける、などと調子に乗りながら、その日の講義とはひたすら関係ないほう に突っ走っていくシンジだった。 結局、シンジは新たに発見した暇つぶしに2限のほとんどを費やした。が、もちろ ん後悔などなく、早く終わってよかったと思うばかりだった。 昼食をとるために学食に向かうと、階段を下りたところでアスカに出会った。この 時間帯に彼女と出くわしたのは初めてだった。 「あれ、アスカも講義だったの?」 「え? あ〜、シンジ。奇遇ね」 肩を叩かれてシンジに気づいたアスカは、どうやらこのまま正門のほうへ向かって いるようだった。 「これから綾波とお昼食べるんだけど、アスカも来る?」 「いや〜、さすがにそりゃ遠慮するわ」 「そう? 綾波もアスカに会いたがってたよ」 「まぁいいんだけどさ。ちょっと先約があって」 「まさかまた別の男?」 「そうだけど。男って言っても渚よ。な・ぎ・さ」 「え? カヲル君? じゃあうまくいったんだ」 先日アスカのほうからカヲルについての相談を持ちかけられたシンジは、二人がう まく交際しそうなことに喜び、声を弾ませた。 男から言い寄られることが多いアスカだったが、そのどれもいつも断っていた。し かし、カヲルのことは気にとまったようで、ある日シンジはアスカからカヲルの連絡 先を尋ねられた。カヲルとシンジは同じゼミだったのである。 ただ、目の前のアスカは気になる人に会うといった感じの浮ついた表情とは少し違 っていた。 「そういうわけでもないけど……まぁとりあえずランチはまた今度ね」 「うん。そうしたら今度四人で会おうよ」 「そうね。そっちもうまくやるのよ!」 「う、うん」 アスカはそういうと、空いている左手を振りながら、正門のほうへ走っていった。 (アスカとカヲル君かぁ。美男美女ですごい組み合わせだな) そうは思うものの、シンジは二人が並んで歩いている姿をあまり想像できなかった。 あの二人が一緒にいる光景になんとなく違和感を覚えてしまうのだった。 アスカと別れてからすぐに学食に向かったが、すでにレイは席を取っていてくれた ようだった。本を広げて、静かにシンジが来るのを待っている様子を見てシンジは、 やっぱり綾波は最高だな、と心新たにするのだった。 そして、そのインスピレーションを忘れないように頭に刻みつけておく。 「綾波。お待たせ」 シンジが声をかけると、しおりを挟んでレイはすぐに本を閉じた。 「いえ、今来たばかりだから」 今来たばかりで本など読み始めるかシンジは疑問に思ったが、もしかしたら気遣っ てくれているのかもしれないと思い、口には出さずにささやかに感激した。 「お昼、まだだよね?」 「ええ」 「じゃ、行こっか」 シンジは肩に下げていたショルダーバッグをイスの上に乗せると、券売機の方へ向 かった。それに続くレイ。 「今日さ、2限の哲学がすごい暇だったんだけど、ちょっと面白いもの作っちゃった」 「面白いもの?」 「うん。後で見せるよ」 ラーメンのボタンを押し、麺類のコーナーに向かいながらシンジが話した。レイは どうやらタンメンのようだ。 再び席に腰を下ろし、二人で麺をすする。大学生といえば大学生らしい光景ではあ ったが、男女のカップルが無言で麺をすする様子は、少しだけ浮いていた。 いつもシンジは食べきるのが遅く、レイを待たせては悪いと思って時間をとらない ように無言で食べるのだったが、シンジがしゃべらないのでレイも食事中はあまり話 さなかった。 レイが食べ終わり、シンジがそれに続いて食べ終わると、バッグをごそごそと漁り 始めた。 「3限は越川ゼミだったよね?」 「そう。最近はゲシュタルト療法についてやっているわ」 「こっちも明後日までに実験レポート書かなきゃいけなくてさ」 「日野先生は優しいと聞いたけど」 「まぁ優しいは優しいし、いつも酔っ払いみたいに陽気なんだけどさ、意外とやるこ とはしっかりしてて」 「認知心理学の実験もとても面白そうだけど」 「確かに面白いよ。ゼミ選んだの後悔してないし。それより今日は――」 そういってシンジはバッグから先ほどの出来損ないの“小説”を取り出した。 「まだ綾波に見せるのはやめようかと思ったんだけど、意見とか感想とか聞いて参考 にしようかなって思って」 「なに、これ?」 そういってシンジの手からルーズリーフの束を受け取るレイ。10秒ほど眺めてそ れが小説であるらしいことに気づく。しかも「碇シンジ」という人物がいる。題名は 『エヴァンゲリオン』―― 「自分をモデルにしたの?」 「そういうわけじゃないんだけどさ、ちょっとした遊び心で」 シンジの言葉に耳を傾けながらも、下を向いて“小説”を読み続けるレイ。 「な、なんか恥ずかしくなってきたな。すごくバカみたい」 「……全部読んでいいの?」 「う、うん。まだほんのちょっとだけど」 「面白そう。読みたい」 「時間大丈夫?」 「これくらいなら、平気。少し、待っててくれる?」 「うん。僕は3限ないし」 レイは真剣にシンジの“小説”を読み始めた。シンジはほんの遊び心のつもりで作 っただけだったが、レイはずいぶんと熱心だった。 少ししたところで、一瞬レイの目が細められた。シンジはきっと「綾波レイ」が登 場したのだろうと思った。そして、余計に恥ずかしさを増していく。 なんとなくやり場がなくなったシンジは冷たいお茶をとりに席を立った。ラウンジ は昼の喧騒に見舞われていたが、二人の場所だけが静寂を保っていて、切り取られた 空間のようだった。 お茶を手にして再び席に戻ると、すでにレイは読み終わったようで、ルーズリーフ から目を放して考え事をするような仕草をしていた。 「どう、だった? そんなにマジメに書いたつもりはなかったんだけど」 「続きが読みたい」 「え?」 「続きが気になるわ」 「あの、感想とかは? だって変なところばかりだったでしょ」 「いえ、私が何か言って碇君の書きたいことを阻害するより、このまま書きたいこと を書いてほしい」 「そんなに、面白かった?」 「ええ、そうね。とても興味深い」 どうやら思いついたまま書いたこの文章をレイは気に入ってしまったようで、シン ジは先ほどとは違う意味で照れくさくなってきた。 「うん。実はまだまだ書きたいこと残ってて、続き書いてみるよ」 「楽しみにしている」 レイの表情は楽しみというよりは、なにか探るような目つきだったが、シンジはと にかくレイに気に入ってもらえたことが嬉しくて、急いで続きを書こうと思った。 3限に授業のあるレイと別れ、シンジはパソコンルームにこもった。当初は実験レ ポートを仕上げるつもりだったが、レイの「楽しみにしている」という言葉が頭から 離れなくて“小説”を書けるだけ書いてしまおうと思ったのだ。 細かい筋立ても設定も決めていないはずなのに、シンジはさくさくと続きを書くこ とができた。まるで、シンジに書かれることを待ち望んでいたかのように。 もう一つ不思議に思うことがあった。なぜかレイだけには見せる気になったことだ った。他の誰にも恥ずかしくて見せたいとは思わないが、レイには見てほしいと思っ た。それは彼女が読書家で、こういった文章に対する厳しい視点をもっていて参考に なるからとかいう向上心からではなく、レイには見てほしい、という強い衝動からだ った。 この“小説”に綾波レイなる人物が登場していることが関係しているのかもしれな い。そもそもこれを書き始めるきっかけになったのは彼女の名前なのだから。でも、 今にして思えばそれも必然だった気がする。そういう思いに駆られながら手を動かし 続けるシンジだった。 (小説ってこんなにさらさら書けるものなのかな? 初めて書いたからわからないけ ど……もしかして才能あったりして) 的外れなことを考えるシンジだったが、手は休めなかった。 3限と4限をひたすら書くことに費やすと、次は統計処理の演習だった。必修であ る上にレイとも一緒なので休むわけにはいかなかった。しかし、このまま書いていた いという思いがあるのも確かだった。 (まぁ、いいか) 教室に向かうと学生がまばらに席についていたが、まだレイは来ていないようだっ た。目の前にも先ほどと同じようにパソコンがあったが、演習で使うのでさすがに “小説”を書き進めるわけにも行かない。 だからシンジはまたもやルーズリーフを取り出して、手書きで書き進めた。 少ししてレイがやってきた。いつものようにシンジの隣に座るレイ。 「続きを書いているの?」 「あ、うん。なんか気になってね」 「……あまり、のめり込みすぎても良くないわ」 「うん。でもきっと我慢するほうが良くないよ」 先ほどはシンジをけしかけていたレイだったが、シンジが尋常ではなく没頭してい る姿を見て心配になるのだった。 「先生、来た」 「適当に、受けるよ。これは単位落としたらやばいし」 「無理しないでね」 「大丈夫だよ」 そうは言うものの、一向に手を休めないシンジを見てやはりレイは落ち着かない気 持ちになった。いつもならこの演習をシンジは真面目に受けている。それが今日は教 授のほうを向こうともしない。 レイがシンジを見るその目は、不安や寂しさをいくらか伴ったものだったが、シン ジはそれに気づかなかった。 水曜の5限の後は二人で帰りにどこかへ寄るのが決まりだった。 「今日はどうしようか?」 「……いいの?」 「へ?」 「書くのに夢中だったみたいだから」 「あ〜、結局5限の間ずっと書いてたね」 「続きを書きたくはないの?」 「まぁ、少し疲れたしね。それにせっかくの綾波との時間を無駄にしたくないよ」 「……そう……ありが、とう」 そういって少し頬を赤らめるレイを見て、シンジは我ながら照れくさいことを言っ たなと思いながらも、柔らかな幸福に包まれているような気持ちになった。このまま ずっと彼女のそばにいたい。触れていたい。 シンジはそっとレイの手を取って、声を弾ませて話しかけた。 「あの、駅から少し離れたところなんだけど、新しいイタリアンの店ができたみたい で――」 「行きたい。とても」 視線は地面に注がれていたが、レイはシンジの手をしっかりと握り返して答えた。 いつも感じているそのぬくもりが逃げないように。 (ああ。なんか綾波といるといろんなことがどうでもよくなるな) チラッとレイのほうを見ると、ちょうど彼女もこちらを向いていたようで、目が合 った。それでも目が離せない。 なんとなくお互いに言葉を紡ぎ出せなくなって、沈黙が二人の空間を支配したが、 それはとても心地のよいもので、自然と二人の歩く速度も緩やかになっていった。 レイと一緒にいると、よくこのような気分を味わうことが多かった。ひたすら静か で、平穏な時間。最初のころ、あまりレイが積極的でないことはシンジに不安をもた らしていたが、今ではそういう会話がない安らかなときの流れをかけがえのないもの だと思うことができるようになっていた。言葉がない中にもレイの心遣いやこまやか な愛情を感じるとることができるようになったからだ。 不思議な力だと思う。それに、とても魅力的だと思う。出会ったころから自分は彼 女の持つ雰囲気に呑まれ、引き込まれ、惹き付けられていった。それは彼女との時間 を過ごせば過ごすほど増していき、今では彼女以上の女性なんていないだろうと思う ようになった。だから、彼女が自分を好いてくれていることは、何よりも大切なこと だった。 こんな時間がどこまでも続けばいい。シンジが思うことはいつでもそれに尽きた。 「ケンスケ? 明日の2限なんだけどさ」 「あぁ、代返か? 今日はすまなかったな」 電話越しに謝罪する友人はちっともすまなそうではなかったが、言葉だけでその意 を伝えた。シンジはいつものことなので気にしない。 「別に、いいよ」 「わかった。じゃあ明日はしっかりやっておくから。ついでにノートも取っておいて やるよ」 どうやら態度とは裏腹にその誠意は本物らしく、彼らしくない約束までしてきた。 「うん。ありがとう」 「でも、めずらしいな。シンジが講義サボるなんて」 「ちょっとね」 「綾波か?」 「まぁ、そんなとこ」 「相変わらず仲がいいな」 直接レイとの用事があるわけではなかったが、レイのために“小説”の続きを書く のだからそういっても差し支えないだろうと思った。やはりレイ以外の人間に“小説” のことを言うのはためらわれた。 「なんかシンジ元気ないな。何かあったか?」 「そう? いつもと変わらないと思うけど」 「いや、なんかぼぉっとしてるっていうか、気がない感じっていうか」 今日会ったレイにもアスカにもそんなこと言われなかったので、シンジは驚いた。 特に具合が悪いわけでもない。むしろ先ほどまでレイと一緒の時間を過ごせたことで、 活力が補充されているはずだった。 「眠いのか? 電話切っても良いけど」 「まさか、これから徹夜するのに」 「は? 徹夜? それで明日休むのか?」 「う、うん」 「もしかしてお前、今綾波と一緒にいて、ホテルとかにいたりしないだろうな? そ んでもって一仕事終えたあとで――」 「ち、違うよ! 家にいるし、一人だよ!」 「本当か? それが理由なら代返なんか――」 「だから違うって! 信じてよ」 ケンスケがどういうことを想像しているか理解できたが、シンジにしてみればえら く見当違いなことだった。レイとは夕食をとって、少し話してからさっき別れたばか りだ。 レイといるときは気にならなかったが、一人になって夜風に吹かれ、家路について、 風呂にでも入ろうかと思うと、やはり無性に“小説”のことが頭から離れなくなるの だった。 「まあ、ならいいけど」 「なんだよ。そんなこと疑うなんて。ケンスケだって彼女作ればいいじゃないか」 「おまえな、ほしいからってできれば苦労はないんだよ」 「カメラとミリタリーを諦めればいいんじゃないの?」 「関係ない。それにそれは無理な話だ」 「まあ、そうだね」 それからしばらく雑談を続けて、シンジは電話を切った。 そのまま小説を書き始めようかと思ったが、切った直後に電話が鳴った。 「あ、シンジ? やっとつながったわ」 「アスカ?」 「何回も電話したのよ」 「ごめんケンスケと話してて」 「相田? まぁいいけどさ」 「なにかあったの?」 「ええ。ちょっと話したいことがあるんだけど――」 何でもはっきりものを言うアスカにしては、えらく歯切れが悪かった。 「うん。いいよ。何?」 「それが、ちょっと、直接話したいんだけど――」 「え? 今から?」 「いえ、明日で構わないんだけど――」 シンジはどうもいつものアスカらしくない様子に戸惑いを覚えた。 「昼はちょっと用事あるから、夕方くらいからなら大丈夫だけど。もしかしてカヲル 君のこと?」 「……まぁ、あいつのことと言えばあいつのことなんだけど」 シンジはこういうことに関しては百戦練磨のアスカが、妙に言いにくそうにしてい ることが気になった。これはもしや―― 「アスカをそんなにさせるなんてさすがカヲル君だね」 「は?」 「もっとカヲル君のこと知りたいの?」 「あんた、なんか勘違いしているわね」 「隠さなくて良いよ」 「……あんたレイと一緒にいすぎて脳みそ溶けちゃったんじゃないの? そういうこ とじゃないわ。まぁ知りたいといえば知りたいんだけど――」 「何か、気になることがあるの?」 「ええ、なんか、あいつと話してると変なこと考えるというか、思い出すというか、 自分でも良くわかんないんだけど――まぁ詳しくは明日話すわ」 (変なこと? そういえば、僕も今日は変なこと考え続けっぱなしだな) 「わかった。じゃあとにかく、明日5限くらいに学食にいるよ」 「そう? さんきゅ」 「うん。じゃあ、また明日」 「ええ、おやすみなさい」 電話が切れて少ししてから、そういえば先ほどケンスケに元気がないと言われたこ とを思い出した。今のアスカも妙に声のトーンが低かったような―― しかしシンジはすぐに頭を切り替え、“小説”のほうに取り掛かった。 やはりシンジは徹夜をすることになった。夜通し書いて、眠くなったところで寝て、 午前中いっぱいは休むつもりでいたが、結局一睡もすることはなかった。いや、でき なかったというほうが正しかった。もうシンジにとってこの作業は呪いじみた儀式に 成り果て、書くというより書かされているという気分に近かった。 それでも、最終的にこの文章がレイの手に渡るのならその作業も辛くはないと思っ た。それが、シンジが“小説”を書き続ける唯一のモチベーションだった。 おかげで昨日始めたばかりのこの“小説”はだいぶ書き進められていたが、それで もまだ終わりには程遠い気がした。きっと、これを書き上げてしまえば卒業論文など 敵ではないだろう。 昼間の学食の喧騒は徹夜越しの体には堪えたが、シンジはテーブル席をとって静か にレイを待った。両腕の上に頭を乗せ、テーブルに伏せてじっとしていたが、きっと 眠れないだろうと思った。 「碇君?」 そっと背中を揺すられた。 「大丈夫?」 「……ん、あ、綾波。大丈夫だよ。それよりこれ」 そういって分厚いコピー用紙の束を見せると、レイはめずらしく驚いたようだった。 「もうこんなに書いたの?」 「うん。徹夜したから」 「休まなくて平気?」 「きっと綾波に読んでもらえば疲れも吹き飛ぶよ。って言っても昼休み中にはちょっ と読みきれないか」 「いえ、読むわ」 たまに見せる、意志の強い瞳でレイは答えた。 「それよりお昼食べたほうがいいよ」 「碇君が頑張ったのに、悠長にお昼なんてできないわ」 「でも」 「大丈夫。すぐに読むから少し待っててもらっていい?」 「そう。ありがとう」 「碇君はお昼平気?」 「うん。食欲ないから」 「……すぐ、読むわね」 するとレイは視線を落としてさっそく“小説”に目を通し始めた。 シンジもしばらくはレイが真剣に“小説”を読む姿を眺めていたが、レイに読んで もらえた安心感からか、今になって急激に睡魔が襲ってきた。心身ともに疲弊しきっ ていたシンジはその眠気に身を委ねて、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。 ――もしかして碇君、思い出しはじめているの? 気持ちよさそうに居眠りするシンジを前に、レイはそっとつぶやいた。喜びと悲し みの入り混じったその瞳は、シンジが見慣れた彼女のそれとは少し違う色合いをして いた。 その後、彼女の目の前にいる青年が“ここ”で目覚めることはなかった。 |