2.贖罪の彼方へ





「本日12時30分。東海地方を中心とした関東、中部全域に特別非常事態宣言が発
令されました。住民の方々は、すみやかに指定のシェルターへ避難してください。繰
り返しお伝えします――」
 閑散とした街。車の通らない道路。
「特別非常事態宣言発令のため、現在、全ての通常回線は不通となっております」
 つながらない公衆電話。
 女の人の写真。「来い」という手紙。
 飛び立つカラス。
「……あの日と、同じ」
 呆然と立ち尽くし、碇シンジは呟いた。
 初めてこの街に来たときと同じ光景。どうして? どうなっているの?
 既視感どころの騒ぎではない。全てが始まったあのときとまったく同じなのだ。
 本人の意思とは無関係にひとりでに歩き出す足。どこかを彷徨うように。
 そのとき、近くでものすごい衝撃音。
 炎上して落下していく戦闘機の数々。そしていつか倒したはずの使徒。
「あいつ、一番最初の――」
 使徒に気を取られていると、近くで墜落し始めた戦闘機によって削られたビルの破
片が、シンジの近くに落ちてきた。しかし、そんな危機とした光景をもただ眺めてい
るだけのシンジ。
 そして彼の予想に違わず、その破片から彼を守るようにして、一台の車が飛び込ん
できた。運転席を開けサングラスをした姿を現す人物は――
(ミサト、さん……!)
「ごめん、おまたせ!」
 葛城ミサトはこの少年が恐怖のあまり動けなくなっているのだろうと思い、この雰
囲気に不自然なほど明るい声で少年に話しかけた。
 一方の少年は、かつて自分にすべてを託して消えていったはずの彼女が、こうして
元気な姿で現れたことに戸惑いを隠せないでいた。なんで、ミサトさんが――
 彼女を見る少年の目は涙でうるんでいた。
 しかしそれとは無関係に倒壊していくかつて街だったものの一部。
「とにかく、乗って」
 そういってミサトに急かされると、シンジは黙ってそれに従った。
 瓦礫が落ちてきても冷静に車をバックさて、急発進させるミサト。とにかく。ここ
から離れないと。
 少年は依然として黙り込んだままで、未だに恐怖から立ち直れていないようにミサ
トには感じられた。
(司令の息子って話だけど、こっちはずいぶんとかわいいもんじゃない)
「あの、大丈夫? 怖かった? もしかして、ちびっちゃった?」
 忙しなく車を動かしながらも、ミサトに気遣いの言葉をかけられ、シンジはなんだ
か嬉しくなった。
「いえ、大丈夫です」
 そうは言うものの、うるんだ瞳を拭いながら答える少年の姿に、あまり説得力はな
かった。しかし、実のところその涙は少年に声をかける女性自身のために流されたも
のだったとは思いもしないだろう。
「まぁ、ならいいんだけど。ちょっち急ぐから、しっかりつかまって、舌かまないよ
うに歯食いしばってね」
「え? あっ、うわっ! んん!」
 急激にスピードを増したミサトの運転は、あの日のままだった。
「まずいわね、間に合うかしら」
 ミサトがそうつぶやいたのを、シンジは聞き逃さなかった。
(まさかN2爆雷のこと? 本当に、何もかも一緒だ)
 窓の外を見ると、先ほどまで使徒と戦っていた戦闘機が、すごい勢いで離れていっ
た。
「間に合わない! シンジ君伏せて!」
「え?」
 ミサトが助手席にいるシンジを庇い、その胸にシンジの頭を抱きしめた。
 瞬間、一面が真っ白になり、車ごと吹き飛ばされる。
 衝撃が体に走り、車ごと横転した。
「……あと、33回もローンがあったのに……」
 ミサトは悲しげにぼやいたが、シンジにはそれがおかしく感じられた。
 何とか車から這い出て、二人で車をひっくり返した。ミサトは服もぼろぼろになり
果て、無残な格好になっていた。その胸にはクロスペンダント――
「せっかく気合入れてきたのに、台無しね。まぁ来て早々大変だったとは思うけど、
とにかくよろしくね、碇シンジ君」
 そういって笑顔を向けられてもシンジは戸惑うばかりだった。
「あ、あの」
「ミサト、葛城ミサト、よ」
(やっぱり、ミサトさんは僕のことを初対面だと思っているみたいだ。僕の思い過ご
しなのかな? でも、じゃあこの記憶はどこから来たんだ?)
「よろしくお願いします、ミサトさん」
 シンジは自分の感覚を訝しみながらも、とりあえずミサトのほうに合わせることに
した。


「特務機関ネルフ……」
「そう、国連直属の非公開組織。私もあなたのお父さんもそこに所属しているのよ。
まあ、国際公務員ってやつね」
 車は既にネルフ内に入っていて、地下に進むカートレインに乗せられていた。
「人類を守る、立派な仕事……」
「あら、知ってるの?」
「いえ、あの……父さんは僕なんかに何を――」
「それは……あなたのお父さんに直接聞いたほうがいいと思うけど」
 シンジは探りのつもりでミサトに聞いてみたが、期待した答えは得られそうになか
った。もしかして、この記憶と同じことを繰り返すのか?
「お仕事を手伝ってもらうのかも知れないわね」
 そのとき、視界いっぱいに地底都市のようなものが広がった。
「ジオフロント……」
「そう、これが世界再建の要であり人類最後の砦。ネルフ本部よ」
「父さんが、人類のために働いているなんて、信じられないです」
「でもまぁ、実際に私の上司なのよ」
「もしかして、僕、戦闘ロボットにでも乗せられるんですかね。少年兵みたいに」
「へ?」
 シンジはミサトから目線をそらせて、窓の外を眺めた。いつか崩壊したはずの建物
も森も、確かにそこにあった。それが嬉しいことなのか、辛いことなのか、シンジに
はよくわからなかった。
(きっと、父さんがまたなにか企んでいるのかもしれない。それがわかるまでは、黙
っておいたほうがいいのかな。でも、もし僕以外誰も知らないとしたら――僕はどう
すればいいんだ?)
 なにやら思案に暮れているらしいシンジの姿を、ミサトは声もかけられずにただ眺
めているだけだった。
(この子もしかして、すでに何か教えられているの?)

 本部の構造は相変わらず入り組んでいたが、通いなれたシンジはどこがどこにつな
がっているかほとんどわかった。やはり自分の記憶に間違いはないらしく、確信を得
るにいたった。
(とすると、やっぱり僕はまたエヴァに乗せられるのか? どうすればいい? でも
きっと、僕が逃げてもまた綾波が無理に乗せられるだけだ。さっきエヴァの姿がなか
ったのは、また綾波が包帯だらけだからなのか)
 少し廊下を歩くとエレベーターがあり、待っていると、ちょうど降りてきた人物に
見覚えがあった。
(リツコさん)
「この子が例の男の子?」
「そう。三人目の適格者、碇シンジ君よ」
「私は技術一課E計画担当博士、赤木リツコよ」
「あの、よろしくお願いします」
 シンジはあまりの既視感の数々に、すでに考えるのが面倒になっていた。たぶんこ
れからエヴァ、そしてあの男のところに連れて行かれるのだろう、ぼんやりとそんな
ことを考えるだけだった。
「ついていらっしゃいシンジ君。見せたいものがあるの」
「……はい」
 エレベーターで下の階に降り、冷却水で満たされたケージまで来ると、ボートで水
面の上を進んでいった。初号機に近づいていることが嫌でも意識された。
 そのとき、サイレンが鳴り唐突に館内が騒然となる。
「総員第一種戦闘配置、繰り返す、総員第一種戦闘配置。対地迎撃戦初号機起動用意」
 自分の命令なしに出されたこの警報に反応するミサト。
「ちょっと、どういうこと? 司令は何を考えているの?」
「初号機はB型装備のまま冷却中だからいつでも再起動できるわ」
「初号機は良くてもパイロットが……レイはあれじゃ無理でしょ」
 そう答えるミサトだったが、いくらか感づいているのか声が少し震えていた。
「今、届いたわ」
「ちょっとそれ、マジなの?」
「ええ」
 「以前」はわけがわからなかった二人の会話も、今でははっきりその意図を辿るこ
とができた。
 ミサトは苦虫を噛み潰したような顔をしてなにやら考えているようだった。
 ボートを降り、大きな倉庫のような空間に通された。
 電気がつけられ、闇が引き裂かれると、シンジの目の前にあったのは、やはりエヴ
ァ初号機の顔だった。
(変わってない、最後に見たあのときと)
「人が作り出した究極の汎用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオンよ」
「父さんの、仕事ですね」
 そのとき、上のほうから見覚えのある男が姿を現した。
「そうだ」
 今では、憧れも憎悪も、何の感慨もシンジに与えないその男は、あの日と変わらぬ
まま高いところからシンジたちを見下ろしていた。
「久しぶりだな」
「……このために、僕を呼んだの?」
「ああ――」
「ミサトさん、そうなんですか?」
「……ええ……そうよ」
(やはり事前に聞かされていたの?)
 そう思うミサトだったが、それにしてはシンジの態度はやけに無気力で進んでエヴ
ァに乗ろうとしているようではなかった。
(また痛い目にあうのか。でも、もし、本当に僕の見た通りの世界があるのだとした
ら、トウジも綾波も、カヲル君も、ミサトさんだって死なずにすむかもしれない。僕
が戦えば、アスカだって――もう誰かを傷つけるのは嫌だ! どうせ一回死んでいる
んだから)
「わかった。乗るよ」
「そうか」
 シンジがあまりにあっさりと事実を受け入れたので、ミサトは拍子抜けといった感
じだったが、リツコやゲンドウは気にしていない様子だった。
「じゃあ、とにかく乗り方教えてください。今日初めて見たんですから」
「赤木博士、あとは任せる」
「はい。シンジ君こっちよ。操縦システムを説明するわ」
 リツコに促されながら、シンジの頭に浮かぶのは、あのとき包帯だらけの重傷にな
ってもエヴァに乗ろうとしていた、苦悶の表情を浮かべていたレイの儚い姿だった。


(最初の使徒は、確か腕から変な槍みたいのが出てきて、とにかく速くて――あれ?
でも、勝ったって言っても、たまたま初号機が暴走して――母さんの、おかげだった
のか。でも今なら勝てる。たぶんジオフロントまで来た使徒よりはマシなはずだ。そ
れに、トウジの妹も傷つけない!)
「冷却終了。ケイジ内全てドッキング位置」
「パイロット、エントリープラグ内コックピット位置」
「了解。エントリープラグ挿入」
「プラグ固定終了。第一次接続開始」
「了解。エントリープラグ注水」
 足元からつかり慣れたLCLが満たされていく。
「主電源接続。全回路動力伝達、起動スタート」
「A10神経接続異常なし」
「双方向回線開きます」
 そのときリツコが驚きの声を上げたのが、回線を通してシンジの耳に届いた。
「すごいわ。初めてでこのシンクロ率。もうアスカさえも、越えているわ」
(やっぱり、司令の息子だけあって、ただの中学生ってわけじゃなかったのね。なに
かレイと同じにおいがするのは気のせいかしら)
 本来なら驚くべき光景だったが、ミサトはそれらを当然のこととして受け止めてい
た。おそらく、自分にもわからないネルフの裏を、彼も握っている、と。
「エヴァンゲリオン初号機、発進準備!」
「第一ロックボルト解除」
「解除確認。アンビリカルブリッジ移動」
「第一第二拘束具除去」
「1番から15番まで安全装置解除」
「内部電源充電完了」
「外部電源コンセント異常なし」
「エヴァ初号機射出口へ」
「5番ゲートスタンバイ」
「進路クリア。オールグリーン」
「発進準備完了」
 そのオペレーションを聞くと、一層ミサトの顔が引き締まった。
「了解……碇司令、かまいませんね」
「もちろんだ。使徒を倒さぬ限りわれわれに未来はない」
 この親子、どこまで裏があるのかしら。
「発進!」
 この先に何が待っていても、おかしくはない。でも――。今は作戦部長としてシン
ジのサポートに回る決心をしたミサトだった。どんな子だとしても、まだ中学生なの
だから。

「くっ」
 強烈なGがかかるのをシンジは感じた。
 こんなに落ち着いて発進できるなんていつ以来だろう? まだ最初のころのほうが
いくらか幸せだった。そんな場違いなことを感慨深く感じながらも、これから対峙す
るであろう使徒を思い出すことに集中しようとした。
 地上に上がるエヴァ。目の前にはあの時と同じ黒い使徒。
「シンジ君、準備はいい?」
「はい。いつでも」
「最終安全装置解除! エヴァンゲリオン初号機・リフトオフ!」
(頑張って、シンジ君)
 使徒はこちらの様子を伺っているようで、一向に動く気配がなかった。
(とりあえず、近づいてみるか)
 一歩一歩、ゆっくり使徒に近づくと、発令所で歓声が上がるのがスピーカー越しに
聞こえた。その声に、ミサトの「彼、本当にいけるかも」と言う小さな声が混じって
いるのも聞き逃さなかった。
(まだ油断しているみたいだ。それなら――)
 シンジは急に走り出し、使徒に近づいた。そのとき、使徒の「目」が光った。
(やばい!)
 とっさに向きを変え、ビルに隠れる初号機。そのコンマ数秒後、後ろのほうで大き
な爆発音がした。
「シンジ君!」
 ミサトの声が聞こえ、これから指示を出すのだろうと思ったが、せっかく使徒が作
り出したこの一瞬を無駄にできないと思ったシンジは、構わず使徒に接近した。
 即座に近づいたためあちらも対応が遅れたが、ぎりぎりのところで赤い壁に阻まれ
た。
「A.T.フィールド!」
「やはり使徒ももっていたの?」
 シンジにとってはこの問答が滑稽なものにしか思えなかったが、とにかくこちらも
フィールドを張らなくては――
「初号機もA.T.フィールドを展開! 位相空間を中和しています!」
「そんな――」
(これなら、いける)
 発令所の職員ほとんどは今日来たばかりのパイロットが驚くべき操縦をしている光
景に息を呑むばかりだったが、オペレーターやリツコ、そしてミサトは冷静に状況を
分析しているらしかった。
(よし!)
 ついにはフィールド内に進入し、もう少しで使徒に手が届くかと言うところだった。
「目標内部より高エネルギー反応!」
「シンジ君! またビームがくるわ!」
「了解!」
 使徒に近づき、懐に入ると、思い切りその顔らしき部分を足で蹴飛ばし、遠くまで
すっ飛ばした。虚空に向かって放たれる鋭い光。
 大きな通りになっていることが幸いして、障害物もなくどこまでも使徒は飛んでい
った。初号機は息つく暇もなくその使徒に迫っていった。
(手から出る槍が厄介だ。そこさえ封じれば)
 使徒に追いつき、馬乗りになると、手のひらが自分に向かわない角度で腕を掴み、
力の限り捻じ曲げた。
(折れろ折れろ折れろ折れろ折れろ折れろ!)
 液体が飛び散るような音とともに、腕がもげた。
(後はコアだ!)
 いったん立ち上がり、かかと落としの要領で、使徒のコアを狙った。何度も、何度
も。最後は両手を組んでコアに向かって振り下ろした。
 瞬間、使徒の目が光る。しかし、先ほどとは違い、初号機に向かって抱きついてこ
ようとする使徒。
(まだ、やる気なのか?)
 使徒が接近するのを瞬時に避け、回りこんで、背中から思い切り蹴り飛ばした。
 そしてとどめの一撃をばかりに、使徒を寝返らせ、コアに拳を叩きつけた。
 やがて光を失っていく使徒。
 静寂が一面を支配した。
「……目標、完全に沈黙しました」
 そのオペレーションとともに、一気に盛り上がる発令所。その喧騒の中に「確実に
コアを狙っていたわ」というリツコの独り言が放たれていた。
(これなら、サンプルもたくさん回収できるだろ。はぁ、疲れた)
 深くシートに沈みこんだシンジの表情は、いつの日か見せていた少年らしさを残し
たままの表情そのものだった。


「お疲れ様」
 ケージに戻ると、一番に出迎えてくれたのはミサトとリツコだった。
「さすが、司令の息子ってところ? お見事だったわ」
 ミサトは言葉では賞賛したが、慣れ親しんだ、あの労わるときの優しい表情は見せ
てくれなかった。
「いえ、そんなことないです。たまたまですよ」
「とにかく、お疲れ様。あと、ちょっとだけ検査があるんだけどいいかしら?」
 ミサトの隣にいるリツコもクリップボードを持っていて、言いたいことは同じらし
かった。
「はい。なんともないですが、一応お願いします」
「ありがと。じゃあリツコあとよろしく」
「ええ」
 そういってミサトは急いで発令所のほうへ戻っていった。きっと事後処理に追い回
されているのだろう。
「こっちよシンジ君」
 そういって、シンジは医療室までリツコに連れて行かれた。

 検査は予想よりも早く済み、身体面でも、精神汚染のほうも異常なしとのことだっ
た。
(やっぱり、健康な体なんだ。それならどうして)
「シンジ君、ずいぶんな戦いぶりだったけど」
「あ、すいません。まだ慣れてないから」
「いえ、そういうことではないの。初めてでこれほどエヴァを動かせるなんて。それ
に、使徒のコアのことも知っていたの?」
「……たぶん、偶然だと思いますけど」
 苦し紛れにシンジがそう答えると、リツコは目を細めて探るような視線をよこした。
(まさか、知っていましたとも言えないしなぁ)
「あの……父さんから聞いていたんです。お前は使徒を倒すのが使命だって」
「碇司令、が」
「……は、はい」
 リツコがネルフに深く関わっていて、きっとあの男にも近い存在だということはわ
かっていたが、シンジにはこれくらいの言い訳しか思い浮かばなかった。代わりに、
自分から質問を投げかけることにした。自分にどれだけ情報が提供されるかを、確か
めるためにも。
「あの、僕以外にもパイロットはいないんですか?」
「一応、いるわよ」
「その人たちは今日――」
「ちょっと重傷を負っていてね。エヴァを操縦できる状態じゃなかったのよ。ごめん
なさい」
「いえ。あの、日本以外に……もしかしてドイツとかにはいないんですか?」
 ちゃんとアスカがいるかどうか確かめるための質問だったが、今度こそリツコは驚
いたようだった。
「あなた、そこまで知っているの?」
「あ、いえ、確か前に父さんがそんなこと言ってたなぁって――」
「あの司令が? ずいぶん信頼されているのね」
「信頼……」
 自分にとってその言葉は皮肉でしかなかったが、シンジは特に嫌な気分にもならな
かった。それより、意外とリツコがあっさり受け入れてくれたことに驚いていた。
(もしかして、この言い訳案外使えるかも)
 ある程度予想してたが、あの秘密主義者は極端に他人との接触を拒むので、彼にそ
のつけを払わせれば誰も確認などしないのかもしれないと思うのだった。本人に問い
ただされたときこそ、全て話してしまえばいいと思う。でも彼の邪魔をしない限りそ
れはないだろうと思った。それに、ダミープラグは最終的には使えなくなるのだから
自分がいないと初号機は機能しなくなる。
「確認のために聞いておくわ。もしかしたら知っているかもしれないけど、使徒はま
だこれからも来ると予想されているわ。シンジ君はパイロットを続けるつもり、ある
のよね?」
 きっと乗らないわけにはいかないだろう。そう思ったが、シンジにはどうしても確
かめなければいけないことがあった。
「……あの、その、重傷を負っているパイロットには会えないんですか?」
「急がなくても、そのうち会えるわよ」
「……いえ、その人から話を聞いてから決めたいので、できたら今日――」
「降りる可能性もあるということ?」
「ないとは、言いきれません」
 リツコはほんの少し考える仕草をしたが、まるでつまらない冗談を受け流すかのよ
うな態度で一瞬笑ってから答えた。
(それも、面白いかもしれないわね)
「……わかったわ。ついてらっしゃい」

 本部付属の病院のほうは相変わらず消毒くさく、どうしてもなじめなかった。それ
に、どうしてもアスカのことを思い出してしまう。
 「綾波レイ」と表示の出ている個室まで来ると、リツコはシンジのほうに振り返っ
て言った。
「ここよ」
「ありがとうございます。あの、リツコさんは廊下で待っててもらっても良いです
か?」
「あまり長い時間は取れないわよ」
「大丈夫です」
 そういってドアをスライドさせると、中ではいつかのように包帯だらけの彼女が横
たわっていた。部屋を進んでいくと、彼女は顔だけこちらに向けてシンジが近づいて
くるのをじっと眺めていた。
 とりあえず、手ごろなイスに腰掛けるシンジ。
「あの、今日から初号機のパイロットになったサードチルドレンの碇シンジです」
 とりあえず自己紹介はしてみたものの、何を話せばいいのかシンジにはわからなか
った。
「あなたが、使徒を倒したの?」
「え? まぁうん。もう聞いたんだ」
「ええ」
 久しぶりに見た彼女の瞳は、やはりいつかのように透き通っていた。
 その瞳を眺め、その声を聞くだけで、シンジは心に、静かに波風が立ちはじめるの
を感じた。いつか奪われたはずの、彼女への憧れ。
 例え自分の知っている彼女がもう戻ってこないのはわかっていても、せめてこの子
には幸せになってほしい。こころから。
「綾波、でいいんだよね?」
「ええ」
「あの、実はさっき、これからもパイロットを続けてほしいって頼まれたんだ。でも、
僕はこれから何のために、またエヴァに乗り続けるかわからない……綾波は、例えば、
父さん――司令がいなくなったとしても、エヴァに乗る?」
 いつの日か、彼女は「絆」だからエヴァに乗るといった。きっとそれは、父さんと
の深い信頼関係が中心だったのだと、今でも思う。でも、今の自分には、死んでいっ
たトウジや加持さん、綾波やカヲル君、それにミサトさんとの記憶があるだけだ。も
う二度と、なくしていった大切な人との関係は元通りにはならない。それでも、この
ままエヴァに乗り続けることができるのか? 自分を、誤魔化して。
「乗るわ。私には他に何もないもの」
「そんな――」
「あなたは、どうするの?」
 ――そうやって問いただす表情があまりにも真剣で、瞳に意志がこもっていて、僕
は――
「ここに来てから、みんな真剣だった。使徒を倒すことに。ミサトさんもリツコさん
も、発令所の人たちも、父さんも。それに綾波も」
「………」
 ――もう失われたものは二度と戻ってこない。だからこそ大切だったのに、僕は何
もできなかった――
「だから、きっと、今僕のやりたいことは、もう二度と後悔しないように、進んでい
くことだけなんだ」
 ――たとえ、もう戻れない過去があったとしても。これが何の悪あがきにもならな
いとしても――
「だから、きっと、もどって来たんだ。この、記憶を背負って生きていくために」
 いつの間にか、シンジの目から涙が流れていた。とめどなく。つぎからつきへと溢
れるその涙が、帰らなかった人々を弔い、そしてシンジのこころに彼らを刻みつけて
いった。その衝動を感じてはじめて、自分が滅びた世界から離れ、この新しい世界に
来たのだということを実感させてくれた。
「もう、絶対に綾波を死なせない。もう、二度と――」
 溢れる涙を拭おうともせず、シンジは彼女にできるだけの笑顔を見せた。自分の意
志を彼女に見てもらいたがっているかのように。
 レイはそんなシンジの想いを大切に、大切に受け止めようと、涙の流れる少年の頬
に右手を伸ばした。