6.歩んできた道、歩んでいく道





 目を覚ますと、そこは深海だった
 どこまでも暗い、冷たい、闇に満たされたところだった
 それなのに、感じることができた
 見ることも、聞くこともできた
 今僕は横になっている
 寝ている
 頭の下には、誰かの足がある
 ふともも?
 膝枕?
 目を向けることはできなかったが、見てみた
 ――もう、いいの?
 聞きなれた、柔らかい彼女の声だった
 音はなかったけど、確かにそれは僕に届いた
 ――ここはどこ?
 ――ここは夢の終わり
 ――夢の終わり?
 ――そして、始まりの場所
 確か、ネルフが襲われて
 僕はミサトさんに助けられて
 でも、アスカを助けられなくて
 エヴァシリーズにやられて
 たぶんサードインパクトが起きて
 あれ?
 ――世界はどうなったの? ここは天国か何か?
 ――いいえ、ここが世界
 ――ここが?
 ――そう。ここが、あなたがもといた世界に限りなく近い世界
 ――みんな死んじゃったの?
 ――いいえ、一つになったの
 ――一つ? どこにいるの?
 ――どこにでもいるわ、あなたが望めば
 ――そんなの、よくわからないよ
 ――あなたは、ずっと彼らとともに小さな物語を生み出していたのよ
 ――小さな物語?
 ――ええ、サードインパクトによって統合された残溜思念を媒介にして
 ――残溜思念?
 ――そして人々の記憶、世界の記憶、その欠片たちをもとにして
 ――記憶を手繰り寄せて、物語を?
 ――ええ、とてもたくさんの物語を
 ――どんな物語?
 ――宿命のない平和なもの、宿命に打ち勝つ強いもの、何百何千もの物語があるわ
 ――すごい
 ――大学生になって碇シンジと綾波レイが恋人になる物語、碇シンジが全ての記憶
を持って始めからやり直す物語、碇シンジと綾波レイと惣流アスカラングレーがほろ
苦い高校生活を送る物語、碇シンジが使徒から綾波レイを救う物語、そして、綾波レ
イの真実を突きつけられる物語
 ――それを、僕が作ったの?
 ――いえ、あなたをもとに生み出され、流出したの
 
 ――どうして?
ト・ヘン
 ――今あなた は一者に なった
 
 ――一者?
 ――かつての世界には大きな物語が存在した
 ――大きな物語?
 ――それを記したのが死海文書、それを継ぐ者がゼーレ
 ――死海文書、ゼーレ、なんだかよくわからないや
 ――反宇宙的二元論支持者の集まりである彼らは、かつての世界は偽の神が一者と
しての流出の根源だと信じ込んでいた
 ――うん
 ――真の神へのプラトニック・ラブが彼らを人類補完計画へと推し進めた
 ――父さんも、そうなの?
 ――碇ゲンドウには別のプラトニック・ラブが働いていた
 ――母さん?
 ――そう、もともと碇家はヘルメス文書の研究者で、そこには死海文書とは異なる
記述がいくつもあった
 ――そんな
 ――ヘルメス文書を信じたのが、碇ユイ、そしてそれを継ぐ者、碇ゲンドウ
 ――父さんと母さんは何がしたかったの?
 ――彼らは、真の神が既に死んでいると信じ込んだ
 ――じゃあ
 ――ゼーレの補完計画の先にあるものは、人類の滅亡だと
 ――それで?
 ――かつての世界は、ヌースの象徴がアダム、エロスの象徴がリリス、アダムの捧
げものが使徒やエヴァとして機能していた
 ――うん
 ――アダムとリリスが融合し、エクスタシアなるときに複合体の魂に触れることが
できた捧げものこそが一者として回帰する
 ――それが
 ――それが、エヴァ初号機、そしてその魂たる碇シンジ
 ――じゃあ、今は僕が神様なの?
 ――いいえ、この世界に絶対的な神は存在しないわ
 ――でも
 ――あなたはただの一者
 ――それって、違うの?
 ――あなたは記憶資源をもとに、残溜思念を媒介していくつものシミュラークルを
生み出しているに過ぎない
 ――シミュラークル?
 ――オリジナルの存在しない、小さな物語
 ――それを僕が作ったの?
 ――いえ、作っているのではなく、生み出し、流出させているだけ
 ――そう、なんだ
 ――全てのシミュラークルは一者をもとに記憶資源から生み出され、流出し、生成
変化し、脱構築され、記憶資源となり、またシミュラークルが生み出される
 ――うん
 ――同一でない反復運動、差延を行うことで世界は成り立った
 ――僕や、みんなは?
 ――シミュラークルの構成要素にアイデンティティの源としての主体は存在しない
 
 ――そんな
エージェンシー
 ――そこに は行為者が あるだけ
 
 ――それがみんな?
 ――かつて、碇シンジや葛城ミサトであったもの、ほかもすべて
 ――それじゃあ
 ――だから碇ユイは、初号機とともに世界を見守ることを決意した
 ――父さんは、その手助けを
 ――それだけでなく、彼自身一者になることを望んでいた
 ――それなら
 ――しかし、それは綾波レイによって阻まれた
 ――綾波が?
 ――そして、碇シンジが一者となった
 ――そう、だったんだ
 ――ただ、記憶資源には世界の人々の記憶が担保されているけど、それを媒介する
一者にも、負の記憶が残っていた
 ――もしかして
 ――鈴原トウジのこと、渚カヲルのこと、個人名ではなくとも様々な過去
 ――確かに、そうかもしれないけど
 ――一者の残溜思念は、シミュラークルを生み出す上で強く働いた
 ――うん
 ――記憶資源をもとに維持させる他の残溜思念より強く働き、スティグマとして存
在し、それぞれのシミュラークルに影響した
 ――そんなの
 ――一番強く機能したのが、綾波レイに対する悔恨
 ――綾波の
 ――綾波レイがもつ神秘と、綾波レイに対する思慕が一者の残溜思念となったため、
全てのシミュラークルには綾波レイが行為者としてあった
 ――それは、仕方ないよ
 ――ただ、綾波レイはリリスとしての魂の欠片を持っていたため、残溜思念に干渉
し、すべてのシミュラークルの綾波レイという行為者をリゾーム状にリンクすること
ができた
 ――じゃあ
 ――それでも綾波レイは、始めのうちは一者にも行為者としての碇シンジにも干渉
しなかった
 ――そうだったんだ
 ――綾波レイとは関係なく、一者が持つ残溜思念が差延運動を繰り返すうちに、記
憶資源の中で真実を求める心がとらえられた
 ――真実を求める心
 ――最初に真実を求める心が発現した大学生の碇シンジは、小説という形でかつて
の大きな物語を再構成し始めた
 ――僕が
 ――綾波レイは碇シンジの真実を求める心を媒介に、5つのシミュラークルをリゾ
ーム状にリンクさせ始めた
 ――綾波が
 ――大学生の碇シンジが記した小説をもとに、記憶を介して、あるいはインターネ
ットを通じて、あるいは予感という形でそれぞれの碇シンジに伝え、それぞれの碇シ
ンジの想いを、真実をあたえる綾波レイに託し、彼女の物語にいる碇シンジに彼女の
真実と願いの二つを突きつけることで、一者に干渉しようと試みた
 ――よくわからないけど
 ――悔恨と悲嘆を打ち消すほどの強い想いがないと、一者は甘美な世界で眠り続け
ているから
 ――それが、僕
 ――すべての綾波レイは、“最後”の綾波レイに、この世界の可能性を託したのよ
 ――綾波が、そんなことを
 ――同時に、真実を求める心は惣流アスカラングレーにも影響し、アダムの残溜思
念をもつ渚カヲルと接触するにいたる
 ――アスカにも?
 ――弐号機の魂となったことで肉体を宿したままこの世界に存続する彼女に、真実
を求める心は強く働き、彼女の体系的な残溜思念をも呼び起こした
 ――アスカが
 ――そして、碇シンジと惣流アスカラングレーは別々にいくつものシミュラークル
を経て、“最後”のシミュラークルで交差して、ここにいたった
 ――ここ?
 ――誰の残溜思念にも干渉されず、どんな記憶資源も伴わない、限りなくかつての
碇シンジがいた世界に近い世界
 ――もとの僕がもどって来たということ?
 ――一者としていくつものシミュラークルを媒介してきた碇シンジは、もう以前の
ままではないわ
 ――成長したってこと?
 ――それをどう捉えるかはあなた次第
 ――そう
 ――ただ、あなたは気づいた、この世界のこと、これからのこと
 ――うん、わかるかもしれない
 ――シミュラークルの流出と差延運動を永遠に繰り返すこの世界は、記憶資源をも
とに現実力を持ったシンボル交換を無限に行っていることしかできない
 ――うん
 ――「綾波レイ」「惣流アスカラングレー」「葛城ミサト」という記号を、悲嘆や
悔恨を和らげるために繰り返される運動
 ――ゆりかごみたいなものだったんだね
 ――そして運動の果てに、強度の弱まったシミュラークル、小さな物語のなかで、
真実を求める心が萌芽した
 ――でも、もうこの世界に真実なんて存在しないか、あったとしても僕にはわから
ないんだ
 ――大きな物語の失われたこの世界で、それでもあなたが生きようとするなら、事
象は続き、あなたに基づいた一定の形で認識され、一連の記憶となる
 ――でも、そこには
 ――一者であることをやめたあなたの前から「綾波レイ」は消失し、望まない物語
が続く
 ――綾波の、最後の言葉とともに、好きだったという曖昧な想いとともに
 ――そしてあなたは
 ――忘れない、綾波のことを
 ――なぜ?
 ――だって僕が生きて、忘れない限り、綾波は生き続ける
 ――………
 ――たとえ、触れることができなくても
 ――………
 ――たとえ、僕の歩む道の先に彼女がいなくても
 ――………
 ――だから、僕は生きて、探して、考えて、求め続ける
 ――………
 ――それが、僕が綾波にあげられる、たったひとつのまごころ


 やっと辿りついた遠い世界
 水面から顔を出して辺りを眺めた。ここには、どこまでも広がる穏やかな海と、そ
の海を覆う赤い空と、干からびた白い砂浜しかなかった。
 海からあがり、砂浜を歩くと、赤いプラグスーツを着た少女が眠っていた。
 かつて腰まで届いていたその長い髪は、今は肩にも届かないほど短い。
 僕の手には、大切な人の想いとともに託されたクロスペンダントが握られていた。
 なんだかよくわからないのに、なんでもいいような気もしていた。
 今ここには、僕と彼女しかいない。
 起こそうかと思ったけど、やめておいた。きっとまたすぐに怒るだろうから。
 仕方ないから、彼女の隣に三角座りになった。
 太陽と空、月と海。そして、少女と少年。
 僕の目の前にあるものはえらくシンプルで、でもそれで十分だった。
 僕には一つの想いと、いくつもの記憶があった。
 これからのことは、それで十分だった。
 うっ、という可愛げのないうめき声を聞いて振り向いた。
 彼女が目をこすりながら体を起こしていた。
 目をこすり終えると、首をぐるぐると回し始めた。
 思い切り伸びをして、顔をこちらに向けてきた。
 焦点が僕のほうに合った。
 僕も、彼女を見ていた。
 それだけでわかった。
 気がついたんだね。
 ここにいること。
 彼女の柔らかな声は不意打ちだった。
「おかえり、バカシンジ」
 だから僕も真摯に答えた。
「うん、ただいま」
 今はまだこれでいいと思う。
 だってこの想いがあれば十分だから。
 これからの道のりは、どこまでも続くのだろう。
 どうやら、僕にできることはまだまだいっぱいあるようだ。


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