5.目覚めの時





「バカシンジ、食パンないわよ」
 ノックもせずにシンジの部屋の襖を開けて、命令口調でアスカは言った。
「ああ、買ってくるよ」
 まだベッドで惰眠を貪っていたシンジは、どうでもいいといった態度で身を起こし
ながら、それでも言葉だけでは殊勝に答えた。
「そう、よろしく」
 彼女もその返事を確認すると、襖も閉めずに自分の部屋へもどってしまった。
(相変わらずだな)
 アスカがシンジを扱き使うのは以前からであったが、今の彼女が仕事を強要するこ
とはない。ただ、本当に自分でやるのが面倒だから、なんとなく近くにいるシンジに
任せているだけ、そういう感じだった。
 シンジもシンジでそれを特に気にする風でもなく、いわれれば無理のない程度に彼
女に従った。その二人の関係に感情の交流は全くなかった。
 シンジはTシャツとGパンに着替え、行ってきますも言わずに外に出た。
 着替えること自体は面倒だったが、ほとんど惰性のままにシンジは動いていた。だ
から着替えた。以前身に着けていた生活習慣をかろうじて維持だけはしているような、
そんな生活を続けていた。
 街に人はほとんどいない。それでもこの街がやっていけるのは、あの巨大な施設を
維持するための人員が法的に確保されているからだ。
 自分たちで攻め滅ぼそうとした街を、今度は復興しようなど、大人って勝手だな、
とシンジは思わないこともなかったが、戦自のネルフ本部攻略に関連して、当時の総
理大臣が失脚したと言うのだから、それならそれでありがたいと思ってはいた。
 今の首相は国連に関与したこともある人物で、そのなかでも「ゼーレ」とかいうい
わゆるネルフを滅ぼそうとした敵(一時期は味方でもあったらしい)の派閥の反対勢
力に属していた人だから、当分の生活は大丈夫だとミサトは言っていた。
 彼女の家にまだシンジとアスカが暮らしていることも、シンジ自身では惰性としか
受け取っていなかった。実際のところ二人はミサトに「この街から出るのは危険だ」
と言われていたが、どんな危険があろうともほとんど関心はなかった。ただ、家に住
まわせてくれていることには感謝している。
 あの家に暮らしていること自体に意味はなかったが、シンジにはこの街にいること
には意味があった。その「意味」がなくならないように、今はただ祈るしかない。
 アスカがどうして残っているかはわからなかった。ただ、きっとミサト自身は、ま
た彼女が以前のような精神状態に陥ってしまうことを懸念しているのだろう。
 今のアスカもとても健康といえるようなものではなかったが、たとえ惰性であって
もなんとか生きていく気力があるなら、それはいいことではないかと思った。実際、
シンジが“彼女”のことばかりに気を揉んでいられるのも、アスカが適度な距離を保
っていてくれるおかげでもある。
 近くの食品売り場は、まだ午前中の早い時間だったのでがらがらだった。食パンだ
け買って帰るのももったいない気がしたので、他に必要そうなものを思い浮かべて適
当にかごに入れた。
(シャンプー買う頻度は、やっぱずいぶん減ったよな)
 レジで会計を済ませ、またもと来た道をもどる。この暑い季節が一年中続くことは、
やはり変わらなかった。

 食パンがないと言ったわりに、彼女はお腹をすかせている風でもなく、シンジがも
どってきてもなかなか部屋から出てこなかった。
 仕方ないのでシンジは、自分の分のトーストとサラダだけ用意して食べ始めた。
(また何かしているのかな)
 いつも彼女が何をしているのかシンジにはよくわからなかった。一日の大半を部屋
に籠もって過ごしたかと思えば、ずっと外に出ていることもある。どちらにしたって
いつも似たようなみすぼらしい格好をしていて、それが本当にアスカであるかどうか
シンジには自信がなかった。
 彼女の部屋をじっと見ながら朝食を取っていると、程なくして部屋から出てきた。
「あたしの分は?」
 そのままダイニングのテーブルに腰を下ろし、右足を組んで、左手で頬杖をついて、
ぼけっとシンジを見据えながら気のない風に言った。
「今作るよ」
「……そう」
 シンジは自分の朝食を中断し、さっき買ってきたばかりの食パンを焼きながら、残
っていたレタスやトマトを適度に切ってコーンを添えた。コーヒーは先ほど食品売り
場で買った1リットルのパックのものを氷とともにグラスに注いだ。
「はい」
「……どうも」
 アスカはそそくさとトーストを食べ始めた。そこにはバターもジャムも塗られてい
ない。
「今日も、あいつのお見舞い」
「……うん……たまには、アスカも行く?」
「いえ、やめとく」
 それっきり会話がなくなり、二人は食事に没頭する。
 以前であればアスカはシンジにいつもつっかかっていたが、今はその雰囲気もない。
静かではあったが、穏やかというにはあまりにも奇妙な光景だった。
 シンジは、下をむいたまま食事を取るアスカを眺めた。
 もう失われてしまったあの長い髪は、その輝きまでなくしてしまった。
 退院してこの部屋にもどってきたその日、彼女は髪を切った。それも、自分で。た
はさみ
の鋏を 使って。
 
 シンジにとってその光景は衝撃的なものだったが、洗面所の鏡に映された、ただ機
械的に髪を切っていく彼女の姿は、静かなものだった。瞳は何も映していなかった。
その行為には、決意も諦めも、意志すら存在しなかった。ただ、髪を切っていた。
 「何でそんなことするの?」と問いかけたシンジに、アスカはただ「邪魔だから」
とだけ答えた。
 一瞬、また精神状態が悪化したのかとも思ったが、意識ははっきりしていた。
 思えば、シンジが少しずつ狂気に飲み込まれていったのはこのときからではないだ
ろうか。彼女に、連れてこられたのではないだろうか。ただ、今のシンジにそれを考
える気力はなかった。
「ごちそうさま」
 シンジより後に食べ始めたアスカは、シンジより早く食べ終わり、食器をそのまま
にしてまた部屋にもどっていった。
 シンジはそんな彼女を何の感慨もなく、ただ見つめているだけだった。


 通いなれたこの病室は、今日も薬品の匂いが漂っている。
 “彼女”が目を覚ますことは、そう頻繁にあることではない。シンジが面会に来て
いる間に目を覚ますかどうかは、賭けでしかなかった。
 たとえ目を覚ましたとしても、あまり話すことはできない。ここへ来たとして、で
きることといったらそういった絶望を一つ一つ確認することでしかなかった。
 ただ、それでもシンジは、“彼女”が必ず完治し、またもとの通りになるのではな
いかと思っていた。希望的観測でも、現実逃避でもなくただ、“彼女”はまた元気に
なる、そういう確信めいたものがあった。
 だからシンジにとってこのお見舞いは、元気になってほしいという願いをこめたも
のでも、少しでも“彼女”のそばにいたいという欲望でもなく、“彼女”がはっきり
と覚醒したときに、最初にその場に居合わせるのが自分でありたい、そういう意志に
基づいたものだった。だから、シンジに悲観的な雰囲気は漂っていなかった。
 空気を入れ替えようとイスから腰をあげ、カーテンをそのままに窓を開けると、向
こうから風か吹いてきて顔一面が新鮮な空気で満たされた。空調を維持しなくてはい
けないためあまり長い時間空けていることはできないが、この暑い季節に吹く湿った
風も、この病室からなら心地よく感じられた。
 そのとき、後ろから声がかけられた。
「こんにちは、シンジ君」
 振り向くと、そこにいるのは“彼女”を担当している――
「……リツコさん」
 定期的に検査にやってくる彼女と出くわすことは、珍しいことではなかった。彼女
は医者ではなかったが、“彼女”の担当だった。
「今日も来ていたの?」
「……はい」
 そういいながらリツコは、慣れた手つきで点滴を確認し、それから注射をした。
「あまり、長い間窓を開けたままにしてはダメよ」
「……はい」
 これで用事は済んだようだが、めずらしくリツコはシンジに話しかけた。態度にこ
そ表さないものの、彼女なりにシンジを気遣っているようだった。
「アスカは元気?」
「はい。ちゃんとご飯も食べてるし、少なくとも病気ではありません」
「……あなたは、大丈夫なの?」
「全然大丈夫ですよ。もう半年近く通ってるんだからこの生活にも慣れました」
「そう。なにかあったら、言ってくれれば助けになるわ」
「ありがとうございます。でもミサトさんもいるし大丈夫ですよ」
「それなら、いいけど――残酷なことを言うようだけど、見ての通り彼女が完治する
保障はないわ。気持ちはわかるけど、あまり拘りすぎてもだめよ」
「大丈夫ですよ。こんなに安らかに眠ってるじゃないですか」
「……シンジ君」
「きっと治ります。というか、なんかそれ以外の結果なんてないと思うんです」
 シンジの口調は甘えでも、強がりでもなく、ただ、事実を述べているといった感じ
だった。どこにそれほどの自信があるのかリツコにはわからなかったが、彼にまだ危
なげなものがない今は何とかなるだろうと思っていた。不安定の危機に瀕しているの
は、なにも彼だけではないのだ。
「それじゃ、私はこれで」
「はい。ありがとうございました」
 リツコが出て行ったのを確認して、シンジは窓を閉めた。
 “彼女”は相変わらず眠り続けている。
 シンジはまたイスに腰掛けた。
 その寝顔に幾分の苦しさも見られないのは、シンジにとっては幸運なことだった。
もし常に苦悶の表情を浮かべていたり、物々しい延命装置などをつけられていたらき
っとこの場にいるだけで辛くなるだろう。
 こうして寝顔を眺めながら、このあとに繰り広げられるであろう幸せな生活を想像
するのはとても楽しいことだった。きっとそのときにはアスカもまた元気になってい
るだろう。そうしたら、ほんの束の間だと思われたもとの穏やかな生活を取り戻すこ
とができる。きっとそれは遠い未来の話ではない。
 すべての戦いが終わってもう半年。きっと、これは生まれるための時間なのだ。自
分たちは試されているのだ。
 エヴァシリーズ9機と激戦を繰り広げたシンジにもアスカにも、肉体的なダメージ
はほとんどなかった。精神面での傷跡はあったが、それはそれ以前につけられた傷だ。
平和になった今、その傷は時間が癒してくれるだろう。だから、今の三人の前に待ち
受けている未来は、ひたすらに明るいものなのだ。
 たしかに、全てが終わった後リツコにダミープラントを見せられ、“彼女”がどう
いう存在であったか知らされたときのシンジは、半ば狂乱していた。アスカやミサト
は現実を受け止めていたようだが、シンジはほとんど怒り狂い、今度こそ父親を殺し
かねない勢いだった。しかし、すべての元凶である彼の父親は既に消えていた。
 シンジは最初こそ気でも狂いそうな態度を見せていたが、病室で安らかに眠り続け
る“彼女”を見ているうちに、次第につまらないことに拘っていた自分がばかばかし
く思えてきた。良く考えれば、彼の「最後」の親友であった渚カヲルだって似たよう
な存在なのだ。それでもやっぱり彼のことは心から信頼していたし、生き残るなら彼
のほうがよかったぐらいだと、今でも思っている。二人がどんなに自分と違う存在で
あっても、彼らとともに過ごした時間も、そのときに抱いていた温もりも、消えるこ
とはない。それは確かな事実として今も胸のうちに残っている。それは真実なのだ。
だから、なにも悩むことはない。
 ただ、そのせいで、“彼女”がそういう存在であるせいで、今こうして病床に就い
ていることも事実ではある。ヒトとは違う構造をしている“彼女”は、もともと長く
は生きられなかった。もっとも“彼女”を良く知るリツコから聞かされた言葉だ。
 シンジはその言葉を、どこか上の空で聞いていた。信じられないと言うよりは、リ
ツコの言っていることにどこか違和感を抱いたのだ。彼女はそういう類の冗談を好む
性格ではなかったので、シンジはとりあえず黙っていただけだ。
 それなら、なぜそんなことを彼女は言ったのだろう。見舞いに来るのをやめさせる
ためだろうか? “彼女”に何らかの罪悪感を抱いていて、それがそのような言葉で
現れただけだろうか? シンジにはわからなかった。
 理由はどうでも構わなかった。一つはっきりしていることは、あとさらに半年もす
ればきっとまた三人で学校にでも通うのだろう。そういうことだった。
 なぜかシンジにはそれがわかっていた。だから、今の時間も苦痛ではなかった。ク
リスマスの夜、プレゼントを心待ちにしてベッドにもぐる子どものような気分だった。
 しばらくそうして思考の海に没入していると、今度は別の人物が病室にやってきた。
彼女がここへやってくることは滅多にない。
「……ミサトさん」
 彼女は少年に向けて軽く笑顔を浮かべていたが、その表情はどこか寂しげだった。
「あんまり無理しちゃダメよ」
「大丈夫ですよ。やることこれくらいしかないですから」
「それは、そうだけど――」
 ミサトは言葉を濁した。
 シンジは屈託もなく微笑んでいた。
「最近は、なかなか家にいられなくてごめんなさいね」
「ちゃんとご飯も食べてますし、掃除も洗濯も必要な分はしていますよ。ミサトさん
は今が大変なんだから頑張ってください」
「……アスカのこともあるでしょう? それが一番気がかりなんだけど」
 およそ中学生の少年にするような相談ではなかったが、実際のところ手が空かない
のでミサトはなりふり構っていられなかった。
「アスカなら大丈夫です。ちゃんとした生活送ってますよ。きっともう前みたいなこ
とにはなりません」
「そう、だといいけどね。今度は洞木さんに頼るわけにもいかないから」
 彼女が一番辛かった時期に、長い間泊まり続けていた家の友人の名を口にした。彼
女はもうこの街にはいない。
「それよりも、ミサトさんのほうが心配です。そんなに毎日仕事ばかりしていて大丈
夫ですか?」
 シンジは彼女を元気付けるため、冗談まじりに「もう若くないんだから」とでも付
け加えようかと思ったがやめておいた。そのセリフはすでに、彼女のいなくなった想
い人が口にしていたことを思い出したからだ。
「ええ。私こそ、これくらいしかやれることないからね。本当はまだまだ足りないく
らいよ」
「そんな――」
「でも、シンジ君とアスカのことはいつでも気にかけているから、困ったことがあっ
たら必ずすぐ私に言うのよ。どんなささいなことでも。もちろん私自身気をつけるけ
ど」
「ありがとうございます、それだけで十分嬉しいです」
 ミサトはシンジの受け答えがどうも妙なのが気にかかった。当たり障りがないとい
うか、他人行儀というか、大人びていると言うか――どれもあたっているようで微妙
に外れていた。
「子どもは遠慮しなくて良いのよ。今日は早く帰れそうだから、一緒に夕飯食べまし
ょうね」
「あ、はい。あの、ご飯は――」
「帰りに私が買っていくわ。給料日前だけど、久々だからご馳走にするわよ」
 そういってミサトは今度こそ笑った。シンジもつられて笑った。
 幸せになれる日もそう遠くはない。やっと待ち望んでいた生活がやってくるんだ。
 ささやかな安らぎを感じながら、シンジはぼんやりとそんなことを考えた。
 ミサトが出て行ってから、いつものように温かいお湯で湿らせたタオルを用意した。
 そしていつものように“彼女”の体をきれいに拭き、筋肉が衰えないように腕や足
などをマッサージした。
 何も感じずに行うシンジの頭の中では、半年後の希望が描かれていた。
 それもいつものことだった。


 ミサトたちは何週間かぶりに三人そろって夕飯をとった。そこに以前のような賑や
かさはなかったが、それでもミサトは終始満足げな笑顔を浮かべていた。
 シンジも口には出さなかったが、こうやってまた家族のように三人でいられること
に安らぎを覚えた。彼にしては積極的にアスカにも声をかけながら食事をしていた。
しかしアスカは逆にどことなく寂しげな表情を浮かべていたが、それに気づいたのは
ミサトだけだった。彼女は何も言わなかった。
 食事の片付けも終わり、ミサトが「明日も早いから」と言って缶ビールを持って部
屋にもどるのに続いて、シンジも部屋にもどった。
 それからしばらくして、アスカが部屋にやってきた。あかわらずノックも掛け声も
なかった。
「アスカ。どうしたの?」
 彼女は部屋の中まで入って、ベッドで寝転んでいるシンジと向き合う形で机の前の
イスに座った。
「あんた、半年もたつのにまだ気づいてないの? それとも気づいてないふりをして
んの?」
 アスカの質問があまりに唐突だったので、シンジは軽く混乱した。
「な、なんのこと?」
 アスカはシンジの態度が演技ではないとわかったらしく、それ以上追求するのをや
めた。期待はずれだったらしい。
「ま、ならいいけど」
 アスカはがっかりしたような、安心したようなため息をついた。
「今日はあいつと話せた?」
「いや、今日は――」
 シンジは俯き、目に見えて暗い顔になった。
「あんた、本当にあいつが助かると思ってるんじゃないでしょうね?」
 容赦なく鋭い目つきでアスカは問い詰めた。昼間のリツコには優しさが含まれてい
たが、今の彼女にはそういった類の思いやりは見られなかった。
「覚醒している時間も頻度もだんだん減ってきてるんでしょ? この意味わからない
わけじゃないわよね?」
 シンジは一瞬また彼女の精神が不安定になり、そのため自分にあたってきているの
かと思ったが、目の前の彼女は、そういった狂気とは程遠いところにある真剣な表情
だった。何も手入れされていない髪も顔も、その迫力を増すには十分な効果を与えて
いた。
「だ、大丈夫だよ」
 あまりの気迫にシンジはしり込みしそうになったが、自分が信じていることを伝え
ればアスカもわかってくれるだろうと思い、なんとか踏ん張った。
「絶対大丈夫だって。何かわからないけど、そう思えるんだ。それに、少なくともそ
う信じてあげられる人がいないと――」
「別にあんたがどう思おうが構わないけど、それは自己満足でしかないってことをち
ゃんと覚えておきなさいよ。どうせ痛い目見るのはあんたなんだから」
 どうやらアスカはシンジの考えに譲歩する気は微塵もないようだった。
「今あたしは確かに、エヴァも使徒もなくなって抜け殻みたいになっているわ。正直
何やっていいか、どう生きていけば良いのかよくわからない。考えたこともなかった
し。でも、少なくとも今のあんたよりはちゃんと歩いていることは確かよ」
「……うん。アスカはよくなったと思う」
「そういうことじゃないわ。あたしが言いたいのは」
「……じゃあ、何が言いたいの?」
 シンジは、今のアスカがとんでもなく、怖いような、恐ろしいような存在に感じら
れた。
「別に。自分で考えれば?」
 そういってアスカはイスから立ち上がった。
「それと、明日はあたしもあいつのとこ行くから」
 アスカの方から“彼女”のところ行くと言い出すなど、今まで考えたこともなかっ
たので、シンジは面食らった。ただ、それを拒否する権利などあるはずがない。
「……うん。わかった」
 シンジがなんとかそう呟くのを聞いてから、アスカは自分の部屋にもどった。
 アスカが“彼女”のところに行くのは悪いことではない。実際にシンジだって何回
も誘った。でも、それでも、シンジは今の状況を単純には喜べなかった。


 翌日はここ何週間かで一番暑い日だった。
 それでも今日はアスカもちゃんと起きて、朝食を取り、午前中からシンジとともに
“彼女”の病室へ向かった。
 病室には既にリツコがいて、“彼女”の検温をしていた。
「リツコさん。こんにちは」
 シンジが声をかけると彼女は振り返った。そしてシンジの少し後ろにアスカも来て
いることに気がついた。
「あら、アスカも一緒? めずらしいわね」
「はい。アスカの方から言い出してくれたんです」
 リツコは一瞬だけ目を細めて、アスカを訝るような目つきになったが、彼女になん
の他意もないのを感じ取ったのか、すぐに表情を和らげた。
「そう。それはご苦労様」
 検温が終わると、リツコはポケットに手を突っ込んで部屋の出入り口のほうまで行
ってからシンジに言った。
「多分、今日は目を覚ますと思うわ。だいぶ安定しているみたいだから、目を覚まし
ても私を呼ばなくていいわ」
 そういうリツコの顔は、言葉とは裏腹に暗いものだった。まるで何かを悟ったよう
な。
「本当ですか? わかりました。ありがとうございます」
 一方のシンジは嬉しくて仕方ないといった表情だった。リツコの表情の変化に気づ
く様子はない。
「それじゃ」
 リツコが出て行くと、病室はしんと静まった。
 シンジはとりあえずいつものように数分の間だけ窓を開けて空気を入れ替え、それ
が終わるとベッド脇のイスに腰掛けた。
 イスは離れたところにもう一つあったが、アスカは腕を組んで壁に寄りかかり、じ
っと“彼女”の方を見て立っていた。
 普段からこの病室は静かだったが、今日はなぜかいつもよりその静寂が増している
気がして、シンジはやけに気になった。
 アスカは後ろの方で立っているからその表情を伺うことはできない。しかし、彼女
は朝起きてからここに来るまで一度も表情を変えていない。いつもの、何もない空っ
ぽの表情だ。昨日のような厳しい顔つきではない。
 シンジはなぜ今日に限ってアスカがついてきたのかどうしてもわからなかったが、
わかるわけもないので考えるのをやめてしまった。
 それよりも、今日は“彼女”が起きるかもしれない。シンジにはそれに対する期待
のほうがはるかに大きく今の心を占めていた。希望があれば、いつまでだって待って
いられる。
 それから何時間じっとしていただろう。シンジは一瞬“彼女”の表情が動いたのを
察した。
 そして、少しずつ口や目の周りの筋肉が動き、細い息を漏らしながらゆっくりとま
ぶたが開いた。
 しばらくは眩しそうに目を細めていたが、ゆっくりと首を横に曲げて顔をシンジの
ほうに向けた。
「いかり、くん?」
 シンジは何日かぶりに聞く“彼女”の声に心を躍らせた。
「うん、そうだよ。無理しなくて良いからね」
 そう言ってからシンジは立ち上がり、吸呑みを手にとってミネラルウォーターを注
いだ。
「水、飲む?」
「ええ」
 シンジは口に含みやすいように吸呑みの先の細長くなった部分を、“彼女”の口元
まで持っていった。
 口が湿る程度に水分を取って、“彼女”は吸呑みから口をはなした。
「ありがとう」
「うん」
 吸呑みをもとの位置に戻して、再びシンジはイスに座ったが、どうやら“彼女”は
そこにアスカがいることに気づいたようだった。
「めずらしい」
「ええ。久しぶりね」
 シンジに向けられていた慈愛に満ちた表情とは打って変わって、意志のこもった視
線がアスカに向けられていた。
「どうして、ここに?――いえ、気づいたのね」
「まぁ、そんなとこ」
「碇君には?」
「何も」
「……そう」
 “彼女”は少し悲しげな表情をして、顔を俯けた。
 シンジは半年以上会っていないはずの二人が、自分には理解できないやり取りをし
ていることに驚いて、口をぽかんと開けていた。ただ混乱した表情でアスカの方を見
ているだけだ。
「……碇君」
 思いつめたように口を開きはじめた“彼女”の声を聞いて、シンジは何とか平静を
保とうと努めながら振り向いた。
「な、なに?」
「……あなたは今、幸せ?」
「へ?う、うん。多分」
 あまりに唐突な質問だったが、シンジは何とか答えた。
「もう使徒も来ないし、エヴァにも乗らなくていいし、それにこれからもっと良いこ
とがあるはずだよ」
「……そう。それなら、よかった」
 “彼女”は躊躇いがちに続けたが、口調はしっかりしていた。
「私は、これが幸せなのかどうかわからないけど、これでよかったと思っている」
「………」
「ネルフのために生まれて、エヴァに乗って。平穏な時間はとても少なかったかもし
れないけど、それでも大切なことはたくさんあった」
 シンジは“彼女”の様子がいつもと違うことに気づいた。
「こ、これからはもっと幸せになれるよ。これからは自分のために生きていくんだ。
僕もいるしアスカもいるし、三人でうまくやっていこうよ。そうすればきっと――」
「ありがとう、碇君。でも、私にその未来はないわ」
「な、言ってるんだよ」
「以前にも聞いたと思うけど、最初から私の体は長くもたないようにできているのよ。
それが私。私のもてるすべて」
「そんなこと、ないよ――」
「私は、それを否定するつもりはないし、それが不幸なことだとも思わないわ」
「そんな」
 ゆっくりとシンジの方に顔を向け、続けた。シンジは俯いている。
「確かに、自由の少ない人生だったのかもしれない。それはよくわからないわ。比べ
たことないから」
「………」
「でも、結局は自分で選んだことなのよ。エヴァに乗ることも、使徒を倒すことも、
その他のことも」
「でも、それ以外の人生があっても――」
「そうかもしれない。でも、私は今までのことも、自分に科せられた運命も、否定す
るつもりはないわ。だって、そのなかで十分に生きてきたもの。最後には、ちゃんと
自分で決めた。私は誰かの人形じゃない」
「でも、でも、そんなのって!」
 シンジは“彼女”がどういう意味の言葉を発しているのか悟り始め、焦って、胸が
ざわざわした。そんなこと、あるはずなかった。
「だから、あと少ししかないけど、これからも私らしく生きるわ。それが今の私の唯
一の願い」
「そんな、そんなこと」
 シンジは言い返したかった。まだこれから幸せな人生があるのだと言い聞かせたか
った。“彼女”とともにそれを歩みたかった。
「碇君の考えていること、わかるわ。気持ちもわかる。でも、本当に幸せをめざして
いるなら他にやることがあるはずよ」
「……僕は、僕は、君との幸せがほしかったんだ」
 シンジの声は震えていて、その瞳には涙がたまっていた。
「それだけでよかったんだ。なのに、なんで――」
「碇君との時間もたくさんあったわ。それも私の大切な時間。それを、否定したい
の?」
「そんなこと! そんなことあるわけないよ! でも、まだ全然たりないよ! おか
しいじゃないか! こんなに苦労したのに、こんなに――」
 シンジは床を見つめたまま、ほとんど半狂乱になって叫んだ。
「確かにたくさん苦労したかもしれないけど、私には悔いはないわ。だって、この想
い出があれば、どこまでだっていけるもの。その先にだって幸せはあるかもしれない
わ。そのことが、今はとても嬉しい」
「……もう、諦めてるの?」
「諦めてはいないわ。やれるだけのことはやるもの。でも、きっと何があっても後悔
しない。これでよかったって言える。そのことを碇君にわかっていてほしかっただけ」
 シンジは堪えきれずに、嗚咽を漏らして泣き始めた。
 “彼女”はそんなシンジをじっと眺め続けていた。
 アスカもシンジが肩を揺さぶっているのを、後ろからただ静かに、見つめていた。
「……碇君、もう、目を覚ますのよ。きっと今なら大丈夫」
 ほとんど聞き取れないほどの音量で“彼女”はそう呟いた。
 そして、静かにその瞳を閉じた。
 窓の外は明るいままだ。その光がカーテンを透かして室内に降り注ぐ。

 二人が家に帰ってから電話があった。
 その日の夜、綾波レイは息を引き取った。
 安らかな眠りから覚めることのないままに。

 夢を見ていた
 ずっと、ずっと
 高校生になって
 三人で学校に行って
 そこには、一握りの幸せがあって
 二人に負けないように一生懸命勉強して
 一緒に大学生になって
 そして
 そこには、幸せがあると思っていた
 自分たちでは得られないような、大きな、とても大きな
 きっと辿りつけると思っていた
 でも、そこに行く道のりは違うところにあった
 遠いのではなくて、始めから違う道だった
 ずっと
 彼女さえいてくれればいい
 彼女が幸せでありさえすればいい
 自分が不幸になってもかまわない
 そう願った
 それなのに、彼女は満たされていた
 自分の道を歩んでいた
 そこに自分もいると言ってくれた
 嬉しかった
 でも、寂しかった
 これは不幸じゃないかと思った
 でも、それは幸せだった
 ちっぽけな僕には抱えきれないような
 大きな、大きな
 真っ白で
 暖かい
 彼女がくれた、幸せだった