1.初めての再会





 今でもよく憶えている。声をかけてくれたのは碇君のほうからだった。
「先週のレジュメもっていますか?」
 ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、恥ずかしそうにも嬉しそうにもしてい
た彼のあのときの顔は、実は出会ってから今までで一番印象的だったりする。
「コピーとらせてもらっても良いかな?」
 こんな風に声をかけられたことは今までにも何度かあったけど、碇君のように人畜
無害そうな人は初めてだったから、私はランチを驕ってもらうことを条件に彼にレジ
ュメを差し出した。その時、余裕のありそうな笑顔がちゃんと彼に向けられていたか
どうか、いまいち自信がない。でも、彼はやさしく微笑んでくれたから私は嬉しかっ
た。それが「今」憶えている、碇君との最初の記憶。

 それから大学生協の横に設置されているコピー機に移動するまで、碇君はにこにこ
しているだけで、私にあまり話しかけては来なかった。なので、本当にこの人はコピ
ーがほしくて私に声をかけてきたのだと思ったし、実際、私がランチのことを引き合
いに出さなければ、私と彼の関係はそれまでだったのかもしれない。最初のころはそ
う考えていた。でも、今考えてみると、碇君はなんだかその状況に対して余裕があっ
たというか、自分のやり方を信頼していたというか、そのいう類の雰囲気だったのか
もしれない。コピーが終わり、「じゃあ、お昼にしよっか?」と言ったときの彼の態
度は今考えても彼らしくない自然さで、どもらずに言えていたことを不思議に感じる。
 大学構内には「カフェテリア」と言い張っている学生食堂があって、値段も手頃だ
からほとんどの学生はそこでお昼を食べていた。私はたいていひとりで食事をしてい
たので、なんだか賑やかなその場所に行くのに抵抗があって、いつも近くの公園のベ
ンチで大学生協のお弁当を食べていた。周りにたくさんお店もあって興味はあったけ
ど、それもひとりで行く気にはならなかった。碇君は「どこか行きたい店ある?」と
聞いてくれたけど、私は3限の授業もあったのですぐに済ませられる「カフェテリア」
に連れて行ってもらうことにした。それに、なんだかあまり彼のお財布に負担をかけ
るのも悪い気がしたから。
「綾波っていうんだ。変わった苗字だね。あ、僕も人のこと言えないかな」
 精一杯の作り笑顔で話しかけてくれる彼は、どんな人にもまず最初に言われるその
セリフを、予想を裏切らずに言ってきてくれた。予想もしないようなことを言われる
よりはずっとよかったから、私は「よく言われるわ」と同じように作り笑顔で彼に返
した。彼が注文したのはカルボナーラで、私がたらこスパゲティ。なんだか揃ってい
るようで、ちぐはぐで、お互いの距離を確かめ合っている私たちみたいだったけど、
そのむずがゆいようなくすぐったいような気持ちは、そんなに嫌なものじゃなかった。
3限を休んでしまってもいいかなとも思ったけど、彼が気を使いそうだからやめてお
くことにした。

 次の週、講義が終わるとまた碇君は話しかけてきた。教室に入ってきたときは目で
挨拶しただけだったから、とくにこれから交流を深めようとか、そんなことは考えて
いないのかなと思ったばかりだったので、なんのためらいもなく近づいてきた彼に驚
きもしたし、意外でもあった。ただ、自分が彼との関係を不快に感じていないことは
自覚していたから、特に断る気もしなかった。
 今でもよく考えることがある。もし私が彼に興味を抱かなかったら、もしこのとき
私が彼のことを邪険に扱っていたら、彼はそれでも私に近づいてきただろうか? そ
ういう、強い意志があって私のところに来たのだろうか。それとも、なんとなく私が
ぼーっとしたような女子学生だったから、そのまま運よく事が運んだだけなのだろう
か。私にとっては、そのどちらも怖かった。何か目的があって私に近づいてきたと考
えるのも、彼自身は本当は私にさして興味があるわけではないと考えるのも。とくか
くこのとき私は、彼にとって都合の良い形でほいほい着いていくような、そんな女に
見えたかもしれない、そう思えるほど従順だった。せめてアスカくらいには相談する
べきだったかもしれない。
 だから、チキンカツカレーを7割ほど平らげた後でコップの水を一気に飲み干した
彼が、私が日替わりランチを食べ終わらないうちに、唐突に変なことを言い出したと
きに、私は素直に話を聞いてしまったのだろう。
「実は綾波、僕と君は以前から知り合いだったんだ」
 そんな前時代の人間でも言わないような口説き文句を、今になって真剣な顔つきで
言ってくる彼を見て私は珍しくも思わず噴き出しそうなったけど、自分にもまだこん
な気持ちが残っているということと、彼の茶目っ気のある一面を見たのが嬉しくて、
私はついその話題にのってしまった。
「そう。私は、憶えていないけど。いつのころからの知り合いなの?」
「中学2年の、夏だよ。まぁ、あのころは1年中夏だったけどさ」
 まるでその質問を予想していたかのように、彼は即答した。ますます私は嬉しくな
って、彼がどのくらい「お話」をちゃんと作っているのか確かめたくなって、さらに
質問してみた。
「同級生? どういった関係だったの?」
「一応、同級生。でもそれだけじゃない。その辺はちょっと複雑でちゃんと話さない
といけないんだけど……」
「もしかして、恋人とか、それに類するもの?」
「あ、え? い、いや、違うよ! 全然そういうのじゃない!」
 彼がとても必死に否定するのは、可笑しくもあり、なんだか少し悲しい気もしたけ
ど、私は残りのご飯のことも忘れて、その話の続きが聞きたくなってしまった。
「じゃあ、ちゃんと説明してくれる?」
「え? あの、本当に信じてくれるの?」
 彼の方から言い出しておいて信じるも信じないもないと思ったけど、碇君は本当に
不思議そうな顔をしていた。
「僕たち、まだ大学生になってからは2回しか会ってないよ」
「いいわ。とにかく聞かせてほしい。それとも、もう降参?」
「え、いや、そういうわけじゃないけど……。1回で信じてくれるとは思わなかった
っていうか、バカにされると思ったから」
 そう言う彼の表情はとても自信がなさそうで、そのときはなんだか意外だったけど、
今思えばきっとこちらが彼の本来の姿で、私にとってはそうやって本性を表していく
彼のほうにむしろ親しさを覚えていった。
 結局その後私がまだ講義が残っていたから、その日の夕方、大学近くの本屋さんの
2階にあるチェーン系の喫茶店で待ち合わせることにした。もしここで彼が自分の家
に連れ込もうものなら私は即座にこの「ゲーム」をやめていただろうけど、控えめに
「喫茶店でいいかな?」なんて聞いてくる彼にむしろ拍子抜けしてしまうくらいだっ
た。

 私は人に驚かされるのが好きだった。普段は想像もしないような、自分がするとは
思えないような反応が出てくると、まだ自分にもわからなかった部分、押さえのきか
ないような感情的な部分があることがわかって嬉しくなるからだ。ときどきアスカが
妙なタイミングで平気で驚くようなウソを言ってきて「信じた?」と笑いを堪えなが
ら言うことがあったけど、そういう瞬間が好きだった。表面的にはふてくされていて
も、そうやって私に構ってくれる彼女に、本当に私のことをわかっていてくれるんだ
な、と思って安心した気持ちで接していた。
 まだ初めて会ってから3回目の男性に、急に「世界の真実」を聞いて、その話にう
なずける女性は、いったい世の中に何人くらいいるのだろう。いつか大スペクタクル
の映画で見たようなそんな陳腐なシチュエーションに出くわしたとき、確か私はそう
いう人間ではないだろうなと思っていたはずだし、実際のところそういう人間ではな
かった。そして碇君は、そういう話を信じてくれる女性が世の中にいると思って私に
話しかけたのだろうか? それは今になってもわからない。
 とにかく、この日の彼が私に話したことはあまりにも異常で、突拍子もないことで、
信じられないことだったけど、その話の内容の重さ相応に終始彼は真剣な顔つきで、
真実はどうあれ彼自身はそうだと信じて疑わない、と態度でわからせるような気迫が
こもっていて、私はただ「彼の」世界の真実がどうなっているか理解しようとするの
に精一杯だった。少なくとも「信じた?」なんて言ってはくれなさそうだったし、そ
ういってくれるとしたら彼は演劇部かなにかに違いなかった。それぐらい鬼気とした
態度で彼は話をしていた。
「僕と綾波が始めて会ったのは今はもうない第3新東京市って言う街の、ネルフ本部
っていう研究所みたいなところだったんだ。経緯は色々あったけどとにかく、僕はそ
こで運用されていた『エヴァンゲリオン』っていう大きな人型兵器の3人目のパイロ
ットとして、そして綾波はひとり目として働いていたんだ」
「私のほうが先だったのね」
 私は彼が用意した壮大な物語の方を理解するのに必死で、気の利いた返答が何も言
えなかったけど、彼は構わず続けた。まるで壁にでも話しかけているみたいに。私は
注文したミルクティを飲む暇さえなかった。
「綾波は生まれたときからすでにネルフにいて、そこで育てられたみたい。話を聞い
ただけで実際に知っているわけではないけど……。とにかく、僕らはそこで「使徒」
と呼ばれる巨大な生物と戦っていたんだ。怪獣みたいなものだと思えばいいよ。そし
て、僕らにしか乗れなかったエヴァンゲリオンに乗って、その生物を倒すのが僕らの
仕事だったんだ。ここまではいいかな?」
「……いいわ。とにかく続けて」
「丁度僕がネルフ……エヴァンゲリオンを運用している組織に来たのが中学2年のこ
ろで、そのころから使徒も現れ始めた。とにかく使徒が現れては倒し、現れては倒し
の繰り返しで、毎日命を懸けて戦っていたんだ」
「中学生の子どもたったふたりで?」
「ちゃんと大人もサポートしてくれたけど、エヴァのパイロット……エヴァンゲリオ
ンのパイロットは僕と綾波と、それとアスカっていう女の子の3人だけだった、彼女
は途中から参戦したんだ」
「アスカ?」
 私は、捕まってしまった以上彼が真剣に語り続ける物語に関して何もちゃちゃを入
れずに聞き続けようと、それが軽々しく返事をしてしまった者の定めだと思って覚悟
を決めていたけど、途中から友人の名前が出てきて少し気分が変わった。もしかした
ら、彼女もぐるのどっきりなの?
「……アスカ? 苗字は何ていうの?」
「え? あぁ。式波だよ、式波・アスカ・ラングレーっていうクォーターの女の子な
んだ。変な名前でしょ? 彼女も僕らと同じ年」
 もし彼が「惣流」なんて言ったとしたら、私はこの店内を隅々まで探しただろう。
絶対に彼女がいるはずだから。でも、よかったのか悪かったのか、どうやら彼女は無
関係のようだった。
「もしかして、アスカのこと何か憶えているの?」
「いえ、ただちょっと気になっただけ。いいわ。続けて」
「……えっと、どこまで話したっけ?」
「3人で巨大な生物と戦い続ける日々を過ごしていたところよ」
「あ、そうか。ごめん。それで、そういう毎日が続くことは必ずしも辛いことばかり
じゃなかったっていうか、3人と、あと中学校の友だちと仲良くできるくらいのとき
はまだ楽しいこともあったからよかったんだ。でも、だんだん使徒も強くなってきて、
それにみんなの被害もだんだん大きくなっていって、歯止めが利かなくなっていった
んだ。それで、気持ちがバラバラになったっていうか……」
「負けてしまったの?」
「いや、そういうわけじゃないよ! ちゃんと使徒には勝ち続けてたんだ。でも、そ
れでも、全部の使徒を倒し終わって、みんなボロボロになっていたときに、戦略自衛
隊にネルフが攻め込まれたんだ」
「……どうして?」
「詳しいことは良くわからない。でも、とにかく人間同士でもいざこざがあったんだ。
最後は敵として量産型のエヴァンゲリオンまでやってきて、もうネルフは終わりだっ
た。そうやって追い討ちをかけられたタイミングでさらに、サードインパクトが起き
たんだ。サードインパクトっていうのは――」
 正直な話、私はもうこの辺りからほとんど聞く気がなくなってしまった。彼は私に
もわかりやすいように話してくれていたみたいだけど、私には彼独自の青春時代が全
く理解できなかった。もうすでに「ウソでいい。面白そうだから聞いてみよう」とい
う気持ちも薄れていて、物語を理解するのをやめていた。そのあと大爆発が起こって、
でも人類は奇跡的に復活したけど、大爆発の中心にいた碇君以外の全人類がそれ以前
の記憶を塗り替えられていた、ざっとそんなような話だったと思う。詳しいことは憶
えてない。ただ、何はともあれこれだけは聞いておかなければならなかった。
「わかった。だいたい理解したわ。じゃあ碇君は、なんでこんな話を私にしようと思
ったの? 大学生にもなって」
「それは……高校はいつのまにか別々だったし、連絡先も知らなかったし。でもたま
たま大学に入って綾波を見つけて、それで、何とか声をかけようと思ったんだ」
「あなたは、その物語の……過去の「私」と話がしたかったということ?」
「いや、ごめん……だた、綾波が昔を知らないのが嫌なだけだったんだ。自分勝手だ
ったね……ごめん」
「どうやら、強力に「記憶を刷り込まれている」みたいだから、残念だけど私は元の
記憶を取り戻すことができないわ」
「……あ、いや……ごめん」
 冗談のつもりで言ったのだけど、本当に彼は参ってしまったようだった。でもそれ
は私だって同じだ。こんなにわけのわからない話をいつまでも聞かされて参ってしま
った。ずっと「もしかして、信じた?」なんていってくれるのを待っていたけど、そ
の言葉は最後まで聞けなかった。出されたときには湯気をたてていたミルクティも、
すっかり冷めてしまって、口の中に妙な甘さが残った。


「くっくく、あははっ、だ、だめ! た、耐えられない! ひゃはっ、はは、な、な
んでそんなやつに、ふふ、ははぅ、ほいほいついて行った、ふはっ、わけ?」
 笑わずにちゃんと相談にのってくれると言った私の友人は、その誓約を10分も守
ることはなかった。私が話している間はまだ堪えられたみたいだけど、終わったとた
んにその我慢を吹き飛ばすかのように、右腕で私のベットをバンバン叩きながら勢い
よく笑い始めた。私だって笑えるなら笑いたい。
「私の相談にのる気はあるの?」
「ご、ごめん。くっ、ふふっ、はは、はぁ、はぁー。はぁ。もう大丈夫。それで、最
後はどうなったの?」
「私が『率直に言って、あなたの言っていることが全く信じられないわ』と言ったら
『そうだよね。信じられるわけないよね。ごめん。僕のこと、笑えばいいと思うよ』
だって。こんなこと言われて本当に笑えると思う? あとはお互いにずっと黙ったま
まだったわ。お茶代は彼が払ってくれたけど」
「ならいいじゃない。一日だけ不思議な経験をしたと思えば。別に被害にあったわけ
でもないんだし」
「でも、来週も同じ講義で顔を合わせるのよ」
「気にしなければいいじゃない。きっと向こうももう声をかけてこないでしょ」
 そういってアスカは私が用意したポッキーをぽりぽり食べ始めた。確かにアスカな
らこんなの些細なことかもしれないけど、私にとってはどうしても気分がよくないと
いうか、しこりの残るものだった。今日だって彼と帰る方向は同じだったのに、嘘を
ついてわざわざ遠回りしてきたのだ。タイミングよくアスカが家に来てくれたのは嬉
しかったけど、結局問題は自分で解決するしかなさそうだ。
「碇シンジっていったっけ?」
「ええ」
「まぁ、きっとアニメの見すぎか何かで住んでいる世界が私たちとは違うのよ。大方
あんたがアニメのヒロインにでも似てたんじゃないの?」
「最初はそんな風に見えなかったけど……」
「おかしいやつに限ってそうなのよねぇ。表面上はまともそうに見せてて」
「そんなに決め付けなくても」
「それに妙に細かいところまで設定を考えているのよ。そういうのに影響されたか、
よほど自分で妄想を膨らませたかのどっちかよ」
「それにしては、諦めるのがはやすぎたし、何か常識的な感覚も身につけている感じ
だったわ」
「じゃあ、たんに臆病なやつだったのね」
「知らないからって、あまり悪く言うのは良くない」
「……あんたは碇とかってやつの味方がしたいの?」
「……別にそういうわけじゃないけど」
「まぁ、レイももうお年頃だしねぇ〜。多少頭おかしくてもカレシくらいほしくなる
わよね〜」
「アスカに言われたくない」
「いいじゃない。華の大学生なんだから。そんなやつのこと忘れてさ、次探そうよ。
今からでもいいから、あんたもサークル入ったら? なんならうちくる?」
「……遠慮しておくわ」
 アスカの入っているサークルには新入生歓迎会のときに行って、それきり嫌になっ
てしまった。「オールラウンド」とかいう活動のサークルで、ちょっとしたスポーツ
でもゲームでも、なんでもやって遊ぶサークルだった。そして最後に必ず飲み会があ
る。私はお酒なんか全然飲めなかったし、無理矢理に騒いでいるあの雰囲気も好きじ
ゃなかった。
 そんなことを考えていると急に、アスカが何かを思い出したかのように、いや、こ
れから何かもっと大事なことを思い出そうとするかのように目を細めて、ツインテー
ルに結ばれた長い後ろ髪を人差し指でくるくると弄り始めた。頭を働かせているとき
のアスカの癖だ。
「碇シンジ。いかり、しんじ、ねぇ……なんだっけ? そういえばどこかで聞いたよ
うな、なにかしら……何かの講義か、もしかしたら2外のドイツ語で一緒になったか
もしれない。ちょっと思い出せないけど」
「アスカが? 髪は黒くて短めで、ほっそりした人よ」
「ん? ちょっと待って。メガネはかけてる?」
「かけてないわ」
「背はそんなに高くないわよね?」
「えぇそうね。アスカより少し高いくらい」
「なんか顔が浮かびそうな気がする! なんだっけ! 思い出せない」
 アスカはいてもたってもいられないといった様子で、ついには貧乏ゆすりまで始め
てしまった。
「もしかしてアスカも声をかけられたことがあるの?」
「いえ、それなら多分憶えているはず。話したことないけど、何か知ってたような」
「すれ違っただけではなくて?」
「そんな特徴のない奴いくらでもいるじゃない! なんだか、名前が聞き覚えあるの
よ……碇。碇シンジ」
「早く思い出して。気になるわ」
「ちょっと待って、ちょっと。もうちょっと……とりあえずポッキーでも」
 そういって歯痒そうな顔をするアスカがポッキーを取ろうとした瞬間、その左手が
ぴくっとなったまま動きを止めた。そして、少しずつ頭を時計回りに回転させ、ベッ
ドの右側に座っていた私の方に顔を向けてきた。
「……思い出したわ。そいつ、確か、うちの大学の理事長の息子よ」
「え? 理事長?」
「そう。何かで理事長の名前見てて、珍しい苗字だからなんとなく憶えてたんだけど、
1年生のときに碇と同じ講義をとった友だちがいてさ。その友だちの代わりに1回だ
け講義出席して、隣に座ったのが碇だったのよ。出席カード回収するときにチラッと
名前見えて。それで、もしかしたらと思って声かけたら『うん』だって。それ以上会
話はしなかつたけど、さすがに驚いたわ。あんた気づかなかったの?」
「だって、私そもそも大学に理事長がいることも知らなかった」
「私立大学よ。いるに決まってるじゃない!」
「そうなの? でも、ぜんぜんお金持ちそうでもなかったし。ランチは2回とも学食
よ?」
「金持ちほど意外とそうなんだって。あたしが見たときも全然そんな感じじゃなかっ
たもん。もしかして、結構もったいないことしたんじゃない?」
「別にお金持ちだからといって興味はないわ」
「でも理事長の息子よ? 一度は付き合ってみたいと思わない?」
「思わない」
「ほんと?」
「ほんと」
 でも実際は、そうと知ってしまうとなんだか惜しいことをした気もした。家にお金
があって何不自由なく暮らしているとああいう自分だけの世界ができてしまうのだろ
うか? 一度くらい、彼の家を訪ねてみてもよかったかもしれない。
「じゃああたしに紹介してよ。ちょっとくらい電波な話、付き合える自信あるからさ」
「いや。紹介なんて得意じゃないし、それに、彼が執着しているのはあくまでも「綾
波レイ」よ」
「いいじゃない。じゃああたしはアスカってことにするわ。記憶を刷り込まれたとき
に苗字も変わっちゃったことにして」
「きっと容姿が全然違うわ。アスカみたいにキレイな人、そうそういないもの」
「あら、ありがとう。でも整形手術も受けたことにするわ。大爆発のあとで」
「そんなに彼に興味があるの?」
「ええ、あるわ。だって理事長の息子で完全に頭のネジが緩んでるボケボケ大学生よ。
面白そうじゃない。遊ぶのだっていくらでもお金出してくれそうだし」
「動機が不純」
「動機なんてなんだっていいのよ。ようは相性がいいかどうかなんだから」
「アスカと相性がいいとは思えないけど……」
「それは会ってみなきゃわからないわ。よし、決めた! とにかく来週のその講義あ
たしモグるわ。レイが紹介してくれなくても勝手に声かけるから。もしかしたらあた
しのこと憶えてるかもしれないし」
「……もういいわ。好きにして」
 彼女が一度こうと決めたら絶対に誰にも譲らない性格なのはよく知っていたので、
私は諦めることにした。それに、アスカと彼がどうなろうと私の知ったことではない。
せいぜいアスカと碇君とでありもしない「私」のことを話していればいい。
 アスカはご機嫌でポッキーをかじっていた。私は悔しかったので、アスカのジンジ
ャエールを一気に飲み干してあげた……うっぷ。
「ちょっと! レイ!」


 それから一週間、私はひたすらに彼が次の講義を欠席するのを望んだ。アスカと碇
君を引き合わせたくなかったわけではないけど、むちゃくちゃなことを言う彼にどう
接すればいいかよくわからなかったし、そんな彼とアスカが引き起こしかねない面倒
ごとに巻き込まれたくなかった。少なくとも、平穏なままの大学生活は送れそうにな
い。だからと言ってアスカをほおっておくのもなんとなく嫌だった。
 あんな気まずいまま別れたのだから、きっと彼はもう私と目を合わせることもしな
いだろうと思ったけど、彼は教室に入ると、先に席についていた私に向かって軽く会
釈をしてきた。仕方がないので私も会釈し返した。それでも、席は離れたままだ。
「そんなに気まずい雰囲気でもないじゃない。これなら大丈夫そうかしら」
 隣に座ったアスカはにやにやしながら私に話しかけてきた。そんなに彼を紹介され
るのが楽しみだったのだろうか。先週のあの日以来アスカは碇君の名前を口にするこ
とはなかったけど、「忘れてないぞ」という雰囲気は濃厚に出ていた。思ったとおり、
今日の朝一番で「正門の前で待ってるから教室まで連れてってね!」というメールが
来た。
「それに、見た目もそんなに悪くないし。とりあえず合格ラインは突破ってとこ?」
「変に思われるからあまりじろじろ見ないで」
 私はなるべく彼と目を合わせないようにしていたけど、アスカの方は隈なく観察し
ているようだった。そういう行動はやめてほしい。
「でもあいついきなり本読み始めちゃって、全然こっちには気づいてないわよ」
 アスカにそういわれて少しだけ後ろを振り返ってみると、確かに彼は文庫本くらい
の大きさの本を熱心に読んでいた。それも、結局講義中ずっと。
 私は私で講義中もずっとこの後のこと、先週のことを謝ったほうがいいのか、それ
ともそんなことはやめたほうがいいのか思い悩んでいた。でも結局答えは出なくて、
そのときの状況に任せることにした。隣で寝続けているアスカを見て、考えるのがな
んだかバカらしくなってしまったからだ。おかげで私も途中うとうとしてしまった。
「ふぁ〜、いよいよね」
 両手を組んで頭の後ろにやり、眠そうにしながらも思い切り伸びをしているアスカ
を見て、本当にこれが男の子を紹介してもらう前の女の子の姿かと思った。きっとア
スカは美人だし気も強いから、怖いものなんてないのだろう。
「とりあえず、私が声をかけてここまで来てもらうから、アスカは少し待ってて」
「はいはい。よろしくね〜。あ、背中ゴミついてるわよ」
「えっ?」
 振り返ろうとした私を制して、アスカが背中を払ってくれた。そのとき小声で
「私のこと、ちゃんと紹介してよね」
 と言った。本当にちゃっかりしている。
「わかったわ。ありがとう」
「どういたしまして」
 アスカはにやにやしながら手をひらひらさせた。そうは言ったけど私は、彼とアス
カが一緒になってもっと面倒な話になるのが嫌だったので、アスカには申し訳ないけ
ど、できる限り話題を絞って話の流れを作ってしまいたかった。アスカにはもう例の
話の説明はつけてあること、アスカが「理事長の息子」としての碇君に興味のあるこ
と。
 私が近づいてくると碇君は少し驚いたような顔をした。それはそうだろう。あんな
むちゃくちゃな話を聞かされた人間がのこのこ向こうからやってきたのだ。格好の餌
食にしか見えようがない。それでも私はなんとか平静を保てるように頑張って、声も
上ずらないようにして、私のすぐ目の前まで迫った碇君に声をかけた。
「あの、これから少し時間ある?」
「え、う、うん。大丈夫だよ」
 碇君もいくらか緊張していたようで、先週よりちょっと硬くなった声で返事をした。
「実は、あそこに座っている私の友だち、アスカっていうのだけど」
「アスカ?」
「あ、碇君の知っているアスカではないわ。きっと。とにかく彼女が」
「でも、その人――」
「ちょっと待って。碇君の話はまた聞くから、今はとにかく私の話を聞いて。そこの
アスカが――」
 そうして私が指をさしながら後ろを振り返ったとき、
「綾波の隣にいた人、もう帰っちゃったよ」
 すでに彼女はいなくなっていた。
「………」
「あ」
 碇君が間の抜けた声をあげるのも聴き取れず、私はただ呆気にとられていた。何が
起こったかよくわかっていなかった。アスカはトイレにでも行ったの?
「ごめん、綾波」
「え?」
 背中に何か触れる感触で私は我に返った。
「紙、ついてたよ。いたずらかな?」
 そう言いながら碇君が私に渡してくれたのは、セロハンテープのついた、綺麗に四
つに折りたたまれた、ルーズリーフの切れ端だった。それを見て初めて、私は自分の
身に何が起こったかを理解した。
『私が言ったこと全部デタラメだって、もう気づいたわよね? レイは何度騙されて
も引っかかるんだから〜。理事長の息子なわけないじゃない!(笑) あんたがオト
コを気にかけるなんて珍しかったから手出しさせてもらったわ。いいじゃない、ちょ
っとくらい変なやつでも。もう少し話してみて相性確かめてもいいと思うわよ? ウ
ソついてから言うのもなんだけどさ、今回は私を信じてみて。それに万が一何かあっ
ても、私が全力で助けるわ。だからとりあえず、あんたは頑張んなさい!』