2.君の名は僕が彼女に初めて気がついたのは、ゴールデンウィーク明けの人が疎らになり始め た美学の講義でのことだった。4月のうちはそれなりに人が多かったから周りを見渡 してもみんな同じ顔に見えていた。とくに興味もわかなかった。ゴールデンウィーク が明けて、まだこのつまらない講義に出席し続ける辛抱強い人たちを見てみようと周 りをちらちら見始めて、すぐに彼女のところで視点が止まった。ほとんどの人がつま らなそうに時間が過ぎるのを耐えている中、彼女だけは必死にノートをとっていたか らだ。それも、前の方に座ればいいものを、彼女は一番後ろに座っている僕のふたつ 前のひとつ右、ちょうど桂馬が前進したときにくる位置に座っていた。そんな遠くか らだと、座高の低い彼女には前の人の頭が邪魔になるんじゃないかと思ったけど、彼 女は特に不自由なさそうにノートをとっていたから、問題はなかったのかもしれない。 僕はどの講義でも大体後ろに座っていて、この美学の講義でもそうしていた。彼女 の方も毎週一歩先の桂馬の位置に座り続けた。だから、心置きなくノートを取り続け る彼女を眺め続けることができた。それが月曜日の2限の僕の日課だった。 僕はマジメに講義を受けるような人間ではなかったけど、出席だけはちゃんとして いた。ギリギリまで休むのも、わざわざトモダチを作って代返を頼むのもなんとなく 好きじゃなかった。つまらなかったら本でも読んでいれば良いし、ごくたまに教授が 面白いことを言ってくれるなら、耳を傾ければ良い。そう思っていた。 美学での暇つぶしは、とにかく彼女を眺めること。そして、ノートをとり続ける彼 女の絵を描くことになった。もともと絵なんて得意じゃなかったし、彼女の横顔すら ほとんど見ることはできなかったけど、小さく縮こまった彼女の後姿は、見ているだ けじゃ物足りないと思わせるくらいには僕にとって魅力的だった。 僕の大学生活は概ね良好だった。サークルに入って楽しくやっているわけでも、ゼ ミで仲の良い友だちがいるわけでも、勉強を一生懸命やっているわけでも、ましてや 恋人がいるわけでもなかった。それでも、毎日が悪くないとは思えるほどには満足し ていたし、何より自由だった。自分が育った町から出ることがこんなにも気持ちのい いものだなんで思わなかった。別に、あの町での人間関係が嫌だったわけではないと 思う。実際、高校のころからの同級生の友人とは同じ大学に入った今でも仲良くやっ ている。ただ、なんだかあの町の空気とか、風景とか、そういういうものが自分のな かでしっくりこなくて、ずっと、慢性的になんだか消耗していたような気がする。 そのせいかはわからないけど、性格というか態度もずいぶん変わったようだ。それ は友人にも言われたことで、高校のときの僕はもっとまじめぶっていたというか、よ うするにいい子していた。今でも人と衝突したり、悪く思われたりするは好きじゃな いけど、あのころはもっとそういうことに過敏で、つねに気を張り巡らせていた。そ れは彼にも伝わっていたようで、大学に入ってから何ヶ月かすると「肩の力が抜ける ようになった」と言われるようになった。確かにそんな気もしたけど、僕自身はそん なこと気にもならないくらい昔のことをすっかり忘れていたので、言われて初めて 「やっぱりあそこから出て正解だったんだ」と思えるようになった。 たぶん、高校のときのその態度は、中学のときが一番酷かったと思う。というより、 中学のころが一番びくびくしていた。そのくせ、そのことを変に隠そうしたり、自分 はもっと強い人間なんだと思い込みたくて必死になっていて、とにかく今考えると面 倒だった。いつも人に嫌われないか不安だったし、その反動で少し構ってもらえる人 がいるとやけに喜んだりした。でもそうやって生きていられるのは生きてるパワーの 漲っている時期だけみたいで、今ではなんであんなに色々なことに必死だったのか思 い出せない。あの町は、そうやって生きてきた僕の残骸が残っている。 今の僕には友だちどころか知人がとても少ない。講義で周りにいる人たちは知らな い人だらけだし、バイトも日雇いのものばかりやっていたのでいつも知らない人たち と働いていた。だから、口を開く回数も圧倒的に減った。もともとそんなにおしゃべ りなほうじゃなかったけど、余計にしゃべらなくなった。しゃべらなくなると、今度 はしゃべらないことに慣れて、抵抗がなくなって、話したいとき以外は話さなくなっ た。バイトのときも、相手から話しかけられれば最低限のことは答えるけど、こっち から話しかけることも、話題を広げることもしなかった。そういう薄い人間関係で生 きていけるのは、僕にとってとても心地良いことだった。他人に危害を加えることも、 加えられることもない。 美学の講義での彼女は、そういう今の僕が心地よいと思っている世界の、象徴みた いな存在だった。誰もが教授の話なんて上の空で、そのことをわかっているのか教授 すら特に聞かせるつもりもないような口調で淡々と話し、汚い字で殴り書きされた固 有名詞がホワイトボードを黒く埋めていく。そういう雰囲気のなか彼女は教授のいっ たことすべてを書き記しているんじゃないかと思えるほど必死にノートを取っていた。 あれなら、いっそうのこと講義まるまる録音してしまったほうが早いんじゃないかと 思えるくらいに。彼女が何に興味があってあんなに必死なのか、それとも単に勉強熱 心な性格なのか、僕にはわからなかったけど、ただひとり、周りとは関係なく逆方向 に突き進む彼女は見ているだけで面白かった。 もちろん、彼女に興味があるからと言って声をかけるようなことはしたくない。た だ一方的に、こっちが興味を持っている、ただそれだけで良かった。そういうあり方 が、僕が大学に入って見つけた一番僕らしい接点のもちかただった。だから、その一 方通行の好奇心をさらに満足させるために、とにかく絵を描くことにしたんだ。 僕がそんな暇つぶしを覚えてから2ヶ月ほど経って、講義の雰囲気にも彼女を描く ことにもだいぶ慣れてきたある日、いつもとは違うことが起こった。スケッチの精度 もずいぶん上がってきて、いよいよまともな絵が描けるかと意気込んでいたのに、そ の日彼女は講義が始まって数分も立たないうちに、机の上に組んだ両腕の中に顔をう ずめて寝始めてしまった。いつも集中して講義を受けている彼女からは想像もつかな い行為だった。それも彼女は、なんの葛藤もなく、当然のことをしているかのように その行為を始めたのだ。ノートはどうするんだろう? 今までの真面目な態度はなん だったのだろう? それとも、よほど疲れているのか? 色々な疑問が脳裏をよぎっ たけど、ともかく、いつもの構図では彼女を描くことができなくなってしまった。仕 方がないから、今日は寝ている彼女の後ろ姿を描くことにした。 彼女の服装はいつもそっけない感じで、柄もフリルもほとんどないような地味な色 のブラウス・シャツをだいたい着ていた。だから絵を描くのはまだ楽なほうだったと 思う。しかしその日はさらにそっけない感じで、半袖のグレーのパーカーなんかを着 ていた。そして、パーカーのフードがショートカットの彼女の髪の3分の1くらいを 隠してしまっていて、これでは男か女かもわかりにくくなってしまった。印象的な彼 女の長いもみあげも二の腕に隠れてしまってよく見えない。一通り描き上げてはみた けど、なんだかいつものような達成感はなかった。もちろん、今までも斜め後ろから 描いた絵だったからそんなに面白い絵にはなっていなかった。でも、もう少し彼女ら しい特徴が出た絵になっていたとは思う。もうこれ以上は描きようがないと思ったか ら、仕上げに、寝ている彼女の左脇にある「R.A」と白いアルファベットの刺繍が入 った青い布地のペンケースをいつものように最後に描き加えた。人を描くよりは物を 描くほうのが僕にとっては楽だったようで、最後のこの作業だけは毎回スムーズだっ た。 結局今日彼女は講義中ずっと起きなかったし、教授も全く気にしていないようで講 義が終わるとさっさと帰ってしまった。周りの学生もぽつぽつと教室から出始めた。 僕も絵を切り上げ、席を立った。そんな中でも彼女は寝たままだった。このまま誰も 起こさなかったら、彼女はずっとうずくまったまま寝ているのだろうか? 起きたと きの彼女の反応が見てみたいとは思ったけど、自分で起こすのは嫌だったので、僕は そのまま教室を出ることにした。 そういえば、彼女はいつもなら教室を出るのがやけに早かった。それまで真面目に ノートを取っているのに、講義が終わる5分くらい前になると急に机の上のものを片 付け始め、終わると同時に教室を出て行く。僕はいつもそこまで見てやっと「あぁ、 終わりか」と思うことようになっていたくらいだ。何をそんなに急いでいるのかわか らなかったけど、彼女がいつまでも教室に残っていることはまずなかった。 教室を出てずぐのところにあるトイレで用を足しながらそんなことを考えていると、 余計に彼女が起きたときの反応が気になってきた。いつもあれだけ急いでいるという ことは、この講義の後になんらかの用事があるということではないのか? 起きたと き彼女は慌てるかもしれないし、がっかりしてため息をつくかもしれない。どちらに しろ、見たことがないその彼女の反応は気がかりだった。 トイレから出ると、もう教室から出てくる学生はいなかった。きっと、もうみんな 出て行ったのだろう。もともとそんなにたくさんの学生が出席している講義でもない。 そんな誰もいなくなった教室でまだ彼女はあの姿勢のまま寝ているのかと思うと、胸 がざわついた。教室でひとりうずくまる彼女は、たぶん僕が想い描いていた彼女のイ メージそのままを表したようなものだ。これ以上ないくらいに、彼女はひとりだ。 トイレから出てそのまま昼食に向かおうと思っていた足が止まった。そして考えた。 もうこういうチャンスはないかもしれない。来週にはまた彼女は真面目にノートをと り、講義が終わるとともにさっさと教室を出てていくかもしれない。そして僕は相変 わらず似たような絵を描き続ける。なんの変化もなく、何も起こることなく。 それは悪いことではない。僕が望んでいた、他愛のない暇つぶしを見つけた学生の、 ほんのささやかな遊びだ。それ以上でもそれ以下でもない。 そう思いつつも、気づくと僕は教室の方に足を向け進んでいた。今、もう次にはあ りえないかもしれない今日のこの瞬間を、そのまま見過ごすことはできそうになかっ た。もしかしたら彼女はもう起きているかもしれない。だとして、僕がもどることに は何も損も害もないはずだ。ただ、忘れ物をしたようなふりをすることだってできる。 じゃあ、寝ていたら? 寝ていたら、僕はいったい何をするつもりなんだ? 教室の扉のドアノブを回す右手が一瞬だけ、ほんの少しだけ緊張した。構わず扉を 開いた。なるべく音をたてないように。 教室には誰もいなかった。そして彼女は、さっき僕が教室を出て行ったときそのま まの姿勢で寝ていた。わかるかわからないかという程度、小さく、ゆっくりと、肩が 上下していた。どんな微かな物音も立てないように、僕はそっと彼女に近づいた。 今までは数メートルの絶対の距離が保たれていたその障壁が、徐々に薄れていった。 もう彼女は僕の手の届く範囲にまで来ていた。緊張はなかった。高揚感も、スリルも なかった。不思議と、彼女の絵を描いているときにも似た、確かに自分がこの世界に 立てているような、そういう安堵感があった。彼女が眠り続けている限り、僕は彼女 と共存していられる。それは、依存とか執着なんかじゃない。もっと細々として冷た い、軽くて薄い関係だった。そして、それでも確かな感情だった。 眠り続ける彼女は、最初見たときこそ「いつもとは違う行動だな」と思ったけど、 こうやってまじまじ見てみると、やはりノートを取り続けているいつものように、触 れれば壊れてしまいそうなほど、どこか儚げというか、危うい、脆い印象があった。 それはいつも健気に、僕にとっては、いや、ほとんどの学生にとって無駄とも思える ようなノートをとっている彼女の態度から来ているのかと思っていたけど、そうでは なく、彼女自身がもつ雰囲気からきているものだということがわかった。ほとんど寝 息をたてることもなく、目の前で静かに伏している彼女の背中も、小さく縮こまった 肩も、すこしパサついた、それでも充分に柔らかそうな短めの髪も、すべてが、僕が 彼女に抱く印象をそのまま膨らませてくれるものだった。 彼女の名前はいったい何というのだろう? ペンケースに記されている「R.A」と いうのはイニシャルだろうか? 彼女のこのイメージを壊さずにいてくれるような名 前だろうか? できれば、そうであってほしい。毎週回ってくる出席簿を丹念に探し 当てれば特定できるかもしれない。でも、きっと知らないほうがいい。こんなに近く にいてもある、埋まらない確かな溝は、名前を知ってしまったらなぜか埋まってしま えるように思えるから。 僕は今、気づかれずに彼女に触れることもできるだろう。親切なふりをして起こす こともできるかもしれない。それとも、差出人不明の置手紙でも残しておこうか? どれにしたって、講義の暇つぶしに彼女の絵を描き続ける以上の魅力的な成果は得ら れそうにない。だから始めから僕に残された行動は一つしかないんだ。それは、この まま立ち去ること。まるで、今のこの瞬間をなかったことにするかのように。 彼女はまだ起きない。僕も起きることを望まない。 来週は、また熱心にノートを取る姿を見せてくれるだろう。 そうすれば、またいままでの生活が続く。 教室のドアの方まで歩き、もう一度だけ振り返って彼女が寝続けているのを確かめ てから、教室を出て行った。階段を下りるときすれ違った髪の長い女子学生は、もし かしたらあの教室に入って、眠り続ける彼女を目撃したかもしれない。そのときの 「彼女」の反応も、やっぱり見てみたいと思った。 その日の夜は、梅雨の季節になっても晴れてばかりで溜めに溜めてきた雨を、この 一晩ですべて降らせてしまおうとするかのような大雨だった。ガラスの薄い窓からは この狭くて汚いアパートを叩きつける雨の音が鳴り続けていて、貧乏な学生たちを眠 らせてくれそうにない。僕は布団の上に寝転がってはいたけど、たぶんあまり眠れな いだろうと思っていた。でもそれは、雨だけのせいじゃない。 僕は彼女の「感触」を忘れることができなかった。もちろん「感触」と言っても、 直接に触れたわけではないから、僕の触覚が彼女に反応しているわけではないのだけ ど、彼女に近づいたときの「感触」はかすかな熱を持って僕のからだの中に残ってい て、いつまでもそれを反芻してしまう。そうやって脳に焼き付けるために、僕はあの とき教室にもどってしまったのだろうか。でもそれは、今まで望んでいたことじゃな いんじゃなかったのか。 答えは簡単だった。彼女に近づきたくない気持ちと、彼女に近づきたい気持ちは両 立する。僕はきっと、彼女に近づかないことで彼女に対する、最初に抱いた印象を壊 さないよう、必死に、バカみたいに、護っていた。そして、その印象、イメージ、勝 手な妄想が正しいものであってほしいと願うから、そんな微かな可能性に希望をいだ いているから、そしてそのための確固たる確証がほしかったから、僕は彼女に近づい た。まるで、憧れの偉人に出会った無垢で無知な少年のように。ただ、それだけのこ とだったんだ。 だとしても、いったい僕は彼女に何を求めているのか。気が合いそうだから友だち になってほしいのか。好きだから恋人になってほしいのか。僕の偏屈な考えの理解者 になってほしいのか。それとも、彼女の生真面目な行動の理解者になりたいのか……。 形にしてしまえばどれも陳腐で、なによりどれも現実的じゃなかった。「ノート見せ てもらってもいいですか?」「お礼に、お昼なんてどうですか?」そんなばかげた話 があるだろうか。どこかにはあるかもしれない。でも、僕には関係のない話だ。結局、 どんな形であれ彼女と何か接点を作ろうとすることはおろか、声をかけることさえで きないんだ。「近づかない」んじゃなくて「近づけない」んだ。それは、全く偶然に 選ばれた、ただ同じ教室で同じ講義を受けているという関係で配置された僕らには、 到底ありえないことなんだ。これが例えば、同じバイトの同僚だったり、サークルの 仲間だったり、ゼミの学生だったとしたら話は変わったかもしれない。でも、たまた ま同じ時間に同じ教室にいるだけの僕ら、いや、あそこにいる人間たちは、結局は他 人なんだ。たった、それだけのことだ。 そんな臆病な寂しさを紛らわすために、僕はひとつの空想を試みた。例えば、「実 は僕らは昔どこかで会っていた」。これ以上ないくらいに陳腐な物語だ。お笑い種に もなさないほど陳腐だ。でもそれは、あまりにもありえないからこそ、いやむしろそ ういう「奇跡」は、非現実的であればあるほど、希少で運命的で価値がある。きっと 人は、自分の人生にそういう価値を求めるからこそ、自分の人生が唯一無二であるこ とを求めるからこそ、そういう「奇跡」に翻弄されやすいのだろう。もっと簡単なこ とだっていい。例えば、「たまたま混んでいた学食で相席になって、注文も同じだっ た」。そんなささやかな奇跡だって悪くない。そして、そこまで来てふと気がついた。 今、同じ教室で同じ講義を受けていることだって、ささやかな奇跡なんじゃないだろ うか。少なくとも、構内ですれ違うだけの人間よりは、よほど奇跡的なことのような 気がした。だったら、今の僕は何が不満なのだろうか。 結局はいつまで経っても堂々巡りで、彼女に拘っているくせにその気持ちを発露で きずにいる臆病な自分と、そうやって悩んだところで彼女との関係性が変わる可能性 などないとせせら笑う自分が交互に見えてくるだけだった。 |