6.指先の向こう側





「えっと、これは、どう解釈すればいいのかな?」
 今にも「ははっ」なんて言いだしそうな愛想笑いをして、いや、多分困った顔をし
て、彼は私に告げた。
「それはご自由にどうぞ」
 正直に言って、私自身よくはわかっていなかった。どうしてこんなことをしたのか、
彼にどうしてほしかったのか。でも一つだけ言えることがある。少なくともそれくら
いは彼もわかっているはずだ。
「あの、僕はある意味嬉しいというか、なんというか。だってなんだか綾波と僕が良
い雰囲気みたいだし……」
「それだけわかれば十分よ。それは、あなたにとって嬉しいことなの?」
「あ……」
 彼はようやく自分の言ったこと言葉の意味を理解したみたいだけど、それでも、も
う一度しっかりうなずいた。そういうところは、やっぱり似ているんだ。
 物語は、まだまだ終わらない。


 彼と食事をするのはもう何回目か、数えてみても曖昧になってしまうくらいにはご
一緒したけど、カフェテリア以外の場所に来たのはこれが初めてだった。私はあまり
細かいことを気にする方ではなかったし、彼も彼で私が何も言わなければ何もしない
ままなので、昼でも夜でもいつでも私たちはカフェテリアだった。今日ここに来たの
は、やっぱりこれを彼に見せるということが私にとって重要なことだったからだろう。
 ちょっと雰囲気のある居酒屋にはありがちな、全体が完全に個室になっているお店
で、この部屋まで来るときにちらりと見えたほかのお客さんも男女ふたり組みが多か
った。私も碇君もふたりきりだということにはそれほど緊張してはいなかったけど、
自分たちがちゃんとしたお客さんとして振舞えているかどうかには関しては少し緊張
していた。
 暖色の間接照明が中心に使われていて、部屋の隅にはよくわからない陶芸品なんか
も置いてある。完全に仕切られているのでお客さんの声もあまり聞こえなくて静かだ
し、畳に腰を下ろすと私も彼もいよいよ落ち着いてしまった。
 それからいつものように他愛のない話しを少しして、ご飯も食べておなかの心地も
良くなってきたころ、私が今日ここに誘ったわけ、本題について話し始めた。いえ、
話すというより彼が一方的に読んだだけなのだけれど。
「えっと、ちょっと複雑でわかりにくいんだけど、つまり」
 彼が少しずつ噛み砕いてアウトプットしようとするのを私は黙って聞いていた。
「僕たちが大学で出会ったときのことを物語というか、小説にした、んだよね?」
「えぇ、そうね。まだそれほど経ってないのにずいぶん昔のことのように感じるわ」
「なんか綾波年寄りくさいなぁ」
「何か言った?」
 もちろんちゃんと聞こえている。ちょっとだけ、睨みつけてみる。
「あ、えー、えっと、それで」
 誤魔化したわね。顔が赤いわ。
「で、その『僕たちの出会いの物語』をきっかけに出会うこととなるもう一組の『僕
たちの出会いの物語』が続く、と」
「そうね」
「そこでは僕は綾波の絵を描いていて、綾波は『僕たち』の物語を書いている。僕が
話したことはエヴァンゲリオンっていうアニメになっているし、僕の友人としてケン
スケとカヲル君が出てくる」
 そこまで話して、彼はふと寂しげな、でも少しだけ懐かしさも秘めたような表情に
なった。そこの部分は、私にとっても少し迷ったところだった。
 碇君はあの日以来、つまり私が碇君の過去を聞かされてうんざりしてしまった日以
来、そのことに関しては自分からは話さなくなった。なんだかそれが彼が決意したこ
とのように私には感じられたから、私から聞くこともなかなかできなかった。それは、
アスカにそそのかされたあの日からずっと。
 それでも私たちの関係はなんとなく続いていて、碇君はおかしなところを見せずに
私と接してくれたし、少し積極的な部分もあったし、私にとってそれは嬉しいことだ
った。やっぱり彼に惹かれていると、自分でもはっきりわかった。そういう結果に落
ち着いたことに、アスカも喜んでくれた(ちなみに碇君は記憶を残してるといっても
完全にはっきりとしているわけではないらしく、私――綾波レイと、そのことに関し
ていろいろ手助けしてくれた「葛城ミサト」という人以外、うまく顔を思い出せない
そうだ)。
 でもそうやって良好な関係が進めば進むほど、私にとって彼の「過去」は重いもの
になっていった。だって、彼は私の上に彼の中の綾波レイ、過去を見ているかもしれ
ないのだ。彼は綾波レイとは恋人関係にないと言っていたけど、それならなぜ、私の
ことだけ憶えていたのか。
 碇君の言ったことはデタラメだ。ちょっと妄想癖が強いだけだ。そう考えられれば
楽だった。でも私はそうは考えられなかった。彼の方は私に気を使っていてくれたの
に、結局私は自分からまた彼の「過去」について聞き始めてしまった。
 そこではやはり私には理解できない物語が展開されていたし、今の文明の技術レベ
ルと照らし合わせても無理のあるところはたくさんあったけど、彼は私のどんな質問
にも詳細に答えてくれたし、なによりそのときの彼のつらそうな表情が、彼にとって
その「過去」がどんな意味を持つのかを明白に物語っていた。
 相田ケンスケと渚カヲルは、そんな碇君の「過去」で友人だった人たちだ。私は彼
らに直接会ったことはないけど、碇君の口ぶりから彼らがどんな人物か、彼らとどん
な関係だったかをうかがい知ることが出来たし、何より、過去の話をするときはいつ
もつらそうな表情をしている碇君が、彼らとの楽しかった日々を話しているときには
生気を取り戻していたのを見て、彼らには「ご登場」願わなければいけないと、私は
思わずにはいられなかった。せめてこのささやかな物語の中だけでも、大学生として
過ごしている彼らの「未来」を、私は描きたかった。
「ありがとう、綾波。なんでかよくはわからないけど、綾波がこんなもの書いてくれ
ていたなんてなんか嬉しいよ」
「そう、嫌じゃないなら、よかった」
「え? なんで? だってこんなにたくさん書くだけでもすごいよ」
「だって、あなたの過去をアニメにしてしまったのよ?」
「いいよ、そんなことは。それより綾波がそのアニメを好きなことのほうがよっぽど
嬉しいよ。惣流は、なんだか好きじゃないみたいだけどね」
 そう言って、いつも雑談をしているときのような顔で笑い飛ばしてくれた。
 私はもしかしたら彼が逆上したりするのではないかと考えもしたけど、どうやらそ
れは杞憂に終わったようだ。私はそこまでしてでも、彼の「過去」に触れたかった。
「今日こんなところに来たのはこのため?」
「えぇ。うるさいところだと集中できないと思って」
「なんだ、そういうことだったのか。ちょっと残念かも」
「なぜ?」
「だって、やっと綾波とこういうところに来れる仲になったのかなって思ったのに」
 彼はすぐにビールを飲んで誤魔化すように部屋の隅の陶芸品のほうに視線を逸らし
てしまったけど、私にはその言葉がはっきりと頭に入って、なんども響いて。
「……碇君が来たければ、もっとこういうところに来てもいいけど……」
 私も彼の照れ隠しの真似をするように、梅酒のグラスを口にくわえながらそっとつ
ぶやいた。
 アスカはやっぱり、こんな私たちのことをおなかを抱えながら笑うのだろうか?
 でももともとはアスカのせいだし、アスカのおかげだし。
 だからこそ、私はもっともっと幸せを感じたい。
 この碇君と一緒に。
「僕たちの物語も、これからだね」


end