5.最後のシ者





惣流アスカラングレー様

はじめまして。こんにちは。
僕は渚カヲルという者です。
「福音の物語」に掲載されている小説、拝読しました。
とても面白かったです。
僕も惣流さんと同じように「情報処理」を履修している関係で幸運にも小説を読むこと
ができました。
おかしな青年との出会い、「アスカ」との友情、そして先の読めない展開、どれも僕を
興奮させてくれました。
もう何度読んだか数え切れません。魅力的な作品です。
惣流さんは脇役として出演されているようですが、もしかして綾波さんや碇さんとも
お知り合いなのでしょうか?
その他にもお聞きしたいことがたくさんあります。
何より、このお話の続きが読みたくて仕方ありません。
もし続きが書かれるようでしたらご一報いただけましたら幸いです。
また、僕のホームページも教授が作ったリンク集のほうから見ることができると思い
ます。
ご興味がありましたらどうぞいらしてください。
それでは続きを楽しみにしております。

渚カヲル


 私はもともと例のお話をアスカのホームページに掲載することだってそんなに気が
進まなかった。アスカはアスカで「おすすめ書籍18選」を用意していたのだから、
本当は私が作ったものなんか必要なかったはずなのだ。でも、アスカがどうしても載
せたいと言い、文章を打ち込むのもやると言って聞かなかった。「もしかしたら、碇
シンジにも会えるかもしれないわよ」などとそそのかされた私も私だけど。
 でもやっぱり失敗だった。何より酔いに任せて了解してしまい、アスカに原稿を渡
してしまったのがいけなかった。おかげでしばらくそんなことをしたのを憶えてなか
ったし、次の日の講義、いつも小説を書き耽っている美学の講義では人前で恥ずかし
げもなく居眠りをしてしまって講義が終わってもアスカがくるまで起きられなかった
し、何もいいことはなかった。アスカに無理にエヴァンゲリオンを全部見せたのは悪
いとは思っているけど、この仕打ちはひどいと思う。
 案の定、嫌な予感は的中してしまった。碇シンジ本人が見てしまう可能性は無視で
きるほど低いものだとしても、あのホームページが50人の目にとまれば誰かしらメ
ールを送ってくるだろうとは思っていた。ご丁寧にメールアドレスまで公開してしま
ったのだから。作者としての「綾波レイ」という名前は伏せているとはいえ、私の触
れられたくない部分がどんどん晒されていってるのは事実なのだ。
 アスカがレポートを提出してしまえばホームページを変えることも消滅させること
もできるけど、今日までは我慢しなくてはいけなかった。そして、今日(正確には送
信されたのは昨日だけど)こんなことになってしまった。
 即席で作ったこのメールアカウントはアスカも私も見ることはできる。そして運の
悪いことに私が見たときにはすでに開封済みになっていた。つまり、アスカはもうこ
のメールを見てる。でも私にはなにも言ってこなかった。もしかしたら講義中に見た
のかもしれない。だとしたら私がギリギリ間に合わなかったということで、ちょっと
悔しい。場合によってはすぐに削除してしまうこともできた。
 部屋の窓から外を見渡すと、空はもううっすらとオレンジ色になっていた。夕方の
気だるい感じがこのメールをどうすればいいのかと思う億劫な気持ちと重なって、よ
けいにやるせなくなってきた。そろそろアスカの講義、今問題になっている情報処理
の講義も終わっている時間だと思うけど、電話をかけて問いただしたほうがいいのだ
ろうか? でもどちらにしろ今日アスカは家に来る。そのときでもいいかもしれない。
どうしよう。
 ちょっと迷った。迷ったけどかけてみることにした。
 ほとんど待ち時間なく、アスカは出た。
「レイ?」
「えぇ。講義終わった?」
「うん。あたしも丁度レイに電話しようと思ってたところ。おかげさまでレポートは
ばっちり提出できたわ」
「そのことなんだけど――」
「渚カヲルでしょ?」
「えぇ」
「あたしもどうしようかと思ったんだけど、さすがに講義受けてる男子全員に声かけ
るわけにもいかなし、とりあえず正体を掴むのはあきらめたわ」
「メールはどうするの?」
「せっかくだし、返信してみてもいいんじゃない?」
「でも」
「まぁ、そのことはあとで話しましょ。どっちにしろレイの家に行くんだから」
 まだ教室の近くにいるのか、アスカの後ろがざわざわしているような感じだった。
それにアスカも、なんだかちょっとあせってるみたい。あまり長く話さないほうがい
いかもしれない。
「それでちょっと悪いんだけどさ、図書館で他のレポートの資料集めなきゃいけない
からもう少し時間かかるかもしれない。なんだったら先にご飯食べてていいよ?」
「いえ、アスカが来るまで待ってるわ」
「そう? ま、とにかく用が済んだらいくから」
「わかったわ」
 私がそう答えるとアスカはすぐにきってしまった。試験期間が近いから少しでも早
く本を探したいのかもしれない。でもたぶん、今からだと目ぼしいのは借りられてい
る気がするけど……。


 外が真っ暗になり、渚カヲルのことがだんだんどうでもよくなってきたころ、玄関
からチャイムの音が聞こえた。私はあわてて、全部食べてしまったポッキーの空箱を
ゴミ箱に捨てた。
「アスカおかえりなさい」
「ただいま〜! つっかれたー! 結局見つからなくて、公立の図書館にまでいっち
ゃったわ。馬鹿でかい本だったからコピーだけとったわ」
「お疲れ様。ご飯買ってきたの?」
「ええ。さすがにこれからどこか行くのは嫌でしょ?」
 今日はアスカがご飯を作ってくれる予定だった。というより、私は料理ができない
ので作るとしたらアスカしかいない。でもそんな時間はないので、アスカはお惣菜を
買ってきたようだ。
「ついでにお酒も買ってきちゃった」
「明日午前中から講義なのにいいの?」
「1本くらいなら平気よ」
 私もアスカもあの夜以来お酒に対する抵抗がだんだんなくなってきてしまって、ふ
たりでいるときに飲む機会が増えてきた。アスカの笑顔を見ていると、私もなんだか
それでもいいような気がしてしまうから危険だ。
「さ、ご飯にしましょ」
 アスカはそういうと小さなテーブルの上にお惣菜を手際よく並べた。私は一応コッ
プを用意した。缶のまま飲むとあまり良いことがない。
 アスカの向いに腰を下ろし、ふたりして箸を割り、私はインゲンの胡麻和えを掴み
ながらアスカに聞いてみた。まだ、お酒は口にしていない。
「それで、渚カヲルのことなんだけど」
「あぁ、そうだった。ホームページ見たけど、堅苦しいやつだったわねぇ」
 アスカの方は何の迷いもなくコップに注がれたお酒を口にした。最近はまっている
白桃カルピスサワーだ。
「でも、こっちから『感想送ってください』って書いといて無視するのもあれだし、
やっぱりちゃんと返信した方が言いと思うけど」
「でも……それはアスカがやったことでしょう?」
「それならあたしが返信してもいいわよ? どうせわかりゃしないんだから」
「別に、アスカにやれっていいたいわけでもないのだけど」
 私がそう返すと、とたんにアスカはにやにやし始めた。
「あれ? じゃあやっぱりレイ返信したいの?」
「そういうわけでもなくて」
「なんか今のあんた、物語の中の『レイ』そっくりよ。碇シンジのことを擁護してる
んだか非難してるんだかわからないあのときみたい」
 顔がかっと熱くなるのを感じた。私は我慢できずにコップに注がれたお酒を口にし
た。
「あんたもなかなか浮気性ね。本当の王子様は碇シンジなの? それとも渚カヲル?」
 アスカが嬉しくてしょうがないといいうような顔をして「ねぇ? ねぇ?」と問い
ただしてくる。今のアスカこそ物語の中の「アスカ」そっくりだ。
「だ、だからそういうことじゃなくて。そもそもあんな出来の悪いお話をお世辞丸出
しで褒めるのよ? 信用できると思う?」
「えっ? そうかな? あたしだってけっこう面白いと思うけど。それにあいつの言
うように、あたしも先が読めなかったわ」
「あれぐらいのトリックは誰だってできるし、気づく人もたくさんいるわ。あんなの
じゃ全然ダメ。ただの恥ずかしい女子学生のメルヘンみたいじゃない」
「いいじゃん、メルヘンだって妄想だって。たぶん渚は男だと思うけど、男でも楽し
めたってことよ?」
「男だからこそ女子学生のメルヘンを読んでにやにやしているのではないの?」
 私はだんだん自分が何を言っているのかわからなくなってきて、自覚はあったのだ
けど、とにかく何か言わずにはいられなかった。たぶん、アスカもわかってる。辛抱
強く付き合ってくれているのだと思う。でも私は、今までに経験のないことを一気に
経験しすぎて、なんだかどうすればいいのかもうわからなくなってしまった。
「とにかくあれは、誰かに見せられるようなものじゃなかったのよ。アスカだけにし
ておけばよかった」
「レイ……」
「アスカのこと悪く言いたいわけじゃない。私が迂闊だった」
 疲れ切ったアスカのために部屋を空けた、あのときみたいに。
「……レイは、どうしたいの?」
「………」
「なんだか変なことになっちゃってレイはすごくつらいのかもしれない。でも、レイ
はどうしたいの? それがわからないとあたしも助けられないよ」
 私は俯いたまま何も答えられない。それこそ今まで一番考えないようにしていたこ
とだから。
「またあたしのめんどうごとにレイを巻き込んだのは本当に悪いと思ってる。エヴァ
ンゲリオンだって、あたしから見るって言いだしたのに結局どうにもできなくて」
「……それは、私がアスカの気持ちを考えなかったから」
「庇ってくれないてもいいよ。ありがとう」
 そういってアスカは俯いたままの私のそばにやってきた。
「いつもいつも原因はあたしで、悪いのもあたし。それはちゃんと理解してるつもり
だから、できたら許してほしい。でももしかしたら、単に悪いことだけじゃないかも
しれないわよ? これから良いことがおこるかもしれないわよ? それはやってみな
いとわからないでしょ?」
「アスカ……」
「できるかぎりレイに協力するし、何があっても絶対助けるから。だから今は、レイ
がどうしたいのか聞かせて?」
 下しか見ていられなかった顔を少しだけ持ち上げた。アスカの綺麗な顔が見えた。
頬のあたりがほんのりピンク色に染まっている。でも目は真剣で、私のことをじっと
捕らえて放さない。
 物語の中の「アスカ」は「頑張りなさい!」と言って私の背中を押してくれた。で
もあれは本物のアスカじゃない。私の中のアスカだ。自分で勝手に作り出したアスカ。
でも、あれは、私がどこかアスカに求めているものかもしれなかった。ふとそんなこ
とを考えた。私はどうしたいか? そんなこと、「レイ」は考えたかしら?
「どうして、そんなに気遣ってくれるの?」
「え?」
 ほんのりピンク色だった頬が、さらに赤みを増したのがわかった。ちょっと恥ずか
しそうに、それでも真剣にアスカは答えてくれた。
「そりゃ、ま、と、ともだちだからとか言ったらなんかすごく陳腐になっちゃうけど。
でも、たぶん、立場が逆だったとしてもレイはきっとあたしのこと助けてくれるよね? 
それと、同じ気持ちだと思うけど」
 そう、か。そうだ。私だってアスカが困っていたら助けてあげたいし、悩んでいた
らそばにいてあげたい。そういう欲求は、とても自然なことに思えた。そう考えると、
今アスカがここにいてくれることが、ますます励ましに感じられるようになってきた。
 例え渚カヲルとのことがやっかいな事態を引き起こしたとしても、ふたりでいれば
それはとてもささいなことのような気がした。そうだ、ちょっとくらい何かあっても
いいんだ。それより少しでも今までと違うことをやってみることの方が、よほど面白
いことのような気がした。アスカと一緒に未知の世界へ踏み出すことができるんだ。
なんて、少し大げさかもしれないけど。
「メール、返信するわ」
「え?」
 もう一度はっきり言った。
「渚カヲルにメール返してみる。もしかしたらあの小説の続きが書けるようになるか
もしれないし」
 私のその答えに、アスカの表情が一気に明るくなるのがわかった。そう、こうやっ
ていつもふたりで笑い合っていればいいんだ。
「ついでに、カレシもできるかもしれないしね!」
 アスカは冗談っぽく言って、コップに残ったお酒を一気に飲み乾した。だから私も、
「えぇ、アスカより先にカレシを作るわ」
 缶に残ったお酒を注ぎなおして、一気に飲み込んだ。


渚カヲル様

はじめまして。
ご感想のメールありがとうございました。
楽しんで読んでいただけたようで何よりです。

正直に申し上げますが、綾波レイというのは私のことです。
アスカは私の友人で、今回の課題を機に、ホームページに私の拙著を掲載してくれま
した。
碇シンジという人物は直接面識があるわけではないのですが、ふとしたきっかけでそ
の名を知り、とても美しい名前だと思ったのでお借りしました。
この物語の続きを書くかどうかはまだ決めていません。
もし書き上がったら、渚さんにも必ずご報告します。

また、渚さんのホームページも拝見させていただきました。
恥ずかしながら私は哲学に疎いのでとても難解な内容に感じられましたが、渚さんの
知性溢れる文章には圧倒されました。

繰り返しになりますが、私の拙い文章を読んでいただき、またご感想までいただき、
誠にありがとうございました。

綾波レイ



綾波レイ様

ご返信いただきありがとうございます。
まさかこちらの質問にお答えいただけるとは思っていなかったものですから、とても
嬉しく思っています。

もしかしたらとは思ったのですが、綾波さんは碇シンジ君とお知り合いというわけで
はなかったのですね。
偶然の一致なのか、それともなんらかの必然だったのか、僕はわかりかねていました。
というのも、碇シンジ君は僕の親しい友人だからです。
彼にこの物語のことを話そうかどうか迷いました。
しかし、今はまだ僕の心のうちにしまっておきたいと思います。
この素敵な作品と、さらには綾波さんと果たすことのできた幸運の出会いを、今はま
だ独り占めしておきたい気がするのです。
恐らくですが、綾波さんもシンジ君に知られることを望んでないのではないでしょう
か?
少なくとも、他人の口からは。
ですので、僕から綾波さんとシンジ君をつなげるようなことはしないでおきます。

最後に、このメールに添付させていただいた絵のことをお話させてください。
くだん
は件の 物語の中で、「綾波レイ」という人物にとても惹かれました。
 
自分の悩み、そして他人との接し方に対してとても真摯だと感じられたからです。
それは僕に欠けている部分でもあり、憧れている部分でもあります。
そしてなぜか、僕はそういった「綾波レイ」を鮮明に想像することができました。
無理に形にすることが必ずしも良いことだとは思いません。
しかし、少しでも私のこの物語への、そして「綾波レイ」への気持ちとして伝われば
と思い、あえて手を止めることはしませんでした。
挿絵とまで言ってしまうと差し出がましいですが、この物語に少しでも雰囲気を添え
ることができましたらこれほど嬉しいことはありません。
物語の「綾波レイ」は同時にあなたの分身でもありましたね。
気分を害されたようでしたら、すぐに削除していただいてかまいません。
一読者の感想として受け取っていただけたら何よりです。

まだまだあなたとお話したいことはたくさんあるのですが、これくらいにしておこう
と思います。
僕が碇シンジだったらよかったのにと思わずにはいられません。
それでは、続きを楽しみにしています。
ありがとうございました。

P.S.もしかしたら大学でお会いすることもあるかもしれませんね。そのときはどうぞ
よろしくお願いします。


「もしもしアスカ?」
「あぁ、レイ。そろそろくると思ってたわ」
「……読んだ?」
「えぇ、「何を」なんて聞かなくても充分にわかるほど強烈なインパクトを受けなが
ら読んだわ」
「どう、思う?」
「ん? はいはいごちそうさまって感じ? それ以外にあるわけ?」
「えっと――」
「ほとんどコクられたようなものじゃない。それにあの絵、あんたそっくりよ? も
しかして、あんたのこと知ってて送ってきたんじゃないの?」
「たしかに、よく似てた」
「あんたのイニシャルが入ったペンケースだって描かれてたじゃない」
「どこであれを描いたのかしら」
「ゼミとか第2外国語とか、クラス単位で受ける授業に渚ってやつはいなかった?」
「確か、いなかったと思う。いえ、いなかったわ。そんなに目立つ名前なら必ず憶え
ているはずだから」
「となると……う〜ん。まぁ、どっかで知る可能性なんていくらでもあるから考えて
も仕方ないか。友だちから聞いたのかもしれないし、隣に座ってたまたま出席カード
見たのかもしれないし」
「でも少なくとも、この絵を見せたってことは、渚カヲルが私のこと知っているって
アピールしているということ」
「うわっ! フルネーム呼び捨て? まぁ、こっちとしては良い気持ちではないわよ
ね。向こうは知ってるのにこっちは知らないんだから」
「……絵は、とても綺麗だったけど」
「ありゃ相当あんたに惚れてるわね。凛とした姿勢で前向いてて、それを斜め後ろか
ら描いてて。妄想爆発って感じ? 下手したらあんたのストーカーかもしれないわ
よ?」
「アスカは同じ教室で講義うけていたのでしょう? おかしな人はいなかったの?」
「そりゃ目立っておかしいやつはいなかったけど。一見普通そうに見えて実はおかし
いやつなんていくらでもいるじゃない。「アスカ」も言ってるけど」
「……そうね」
「その辺は考えても仕方ないわ。別にこれから会うわけでもないんだし。メールはど
うするの?」
「区切りも良いみたいだから、ここでやめておくわ。あまり深入りしない」
「それが一番良さそうね。あとはまぁ、どっかで会った時にキモい男でないことを祈
るだけじゃない?」
「哲学に詳しいみたいだし、もしかしたら文学部かもしれない」
「文学部と言ってもいたくさんいるしね。同じ学年ともかぎらないし」
 そのあといつものように雑談をして、電話を切った。電話をしながら食べたお菓子
がテーブルの上に散乱している。でもなんだか疲れてしまい、少しベッドに横になる
ことにした。
 アスカには言わなかったけど、私はひとつ、かなり可能性の高い結論を導き出して
いた。
 私をあれほど詳細に描く機会があるということ、彼がとても哲学関連に詳しく興味
があるだろうということ。そしておそらく私のことを知っていたであろうこと。
 彼は、美学の講義を受けているのではないか?
 講義で配られる出席簿には私の名前が書かれている。それとペンケースのイニシャ
ルを見て、私が綾波レイだと思ったのかもしれない。
 アスカのホームページを公開してからの期間では、一度だけ美学の講義はあった。
そのときに描いたのだろうか? ただそれにしても、物語の「綾波レイ」という名前
と講義を受けている私がそんなにすぐに結びつくはずがない。私の名前は確かに特徴
的だけど、彼が私の名前をもともと覚えていて、物語を読んでふたつを一致させて、
というのはちょっと考えにくい。とすると、本当に私のストーカーなのだろうか? 
でも、今までそんな気配を感じたことはなかった。じゃあ、なぜ渚カヲルは綾波レイ
に興味を持ったの? それは結局はわからない。本当に私の名前を憶えていたのかも
しれない。
 どちらにしろ、一番可能性が高いのは美学の講義ではないか、そう考えざるをえな
かった。ただそうだとすると、ふたつほどやっかいな問題があった。
 ひとつは、出席簿には「渚カヲル」の名前はなかった。
 これは断言できる。さっきアスカにも言ったけど、こんなに目立つ名前なら私は絶
対に憶えている。碇シンジの名前を発見した、暇つぶしに出席簿を眺めていたときは
「渚カヲル」の名前はなかった。もちろん、正式にカリキュラムに登録せずに、モグ
リで授業を受けている可能性はある。哲学に興味があるなら、美学に関しても知識は
あるはずだ。私は面白い講義だとは思わないけど。
 もうひとつは、碇シンジも美学の講義を受けているということ。
 彼の言うようにふたりが友人なら、彼らは一緒に講義を受けている可能性が高い。
その講義中にあれほど詳細に私の絵を描いているのだ。とすると、碇シンジは実はす
でに私のことを知っているのではないか? 渚カヲルとの会話の中で。あんな絵を描
いていて中の人物が気にならないわけがない。碇シンジと渚カヲルが別々に席を離れ
て講義を受けているのでないかぎり、きっと私は碇シンジに認識された存在なのだろ
う。そうだとしたらますます碇シンジにこの物語を見られるのはたまらなく恥ずかし
い。渚カヲルが気を回してくれたのはある意味助かった。それが彼の独占欲の表われ
だったとしても。
 一番困ったのは、私が渚カヲルのことをそう悪く思えないことだった。例えお世辞
だとしてもお話を褒めてくれたり、私への好意を仄めかしたり、仕方のないことなの
かもしれないけど。絵を見た瞬間も驚きはしたけど、それは気持ち悪いとか不快だと
いう感情よりは、感心したというか素直にすごいと思えたとかで、少なくとも悪い気
分ではなかった。確かに、あの物語にあの挿絵はぴったりかもしれない。モノクロで
描かれたぼんやりした感じが、なんだか私のあやふやな雰囲気に重なって見える。そ
して、そんな絵にも、それを描いた渚カヲルという人物にも、もっと近づいてみたい
と思っている自分を感じていた。そしてそれは、なんだか困ったことだった。


 その日、やっぱり何かあるような気はしていた。あれだけで終わるとは思えなかっ
たし、自分でも終わってほしくないとも思っていた。その日が最後の講義の日だった
からだろうか、いつもより席についている学生の数が多く、そんな中いつもの席に座
った私は、きっと傍目には少し不審に見えたであろう感じでちらちら後ろを見ていた。
あの角度と距離から予想できる視点に向けて。そのとき、なんとなくだけど、ひとり
の学生と目が合った気がして、それに、笑いかけられた気がして、私は講義中、いつ
ものようにお話を書いているわけでもないのにもかかわらず何も頭に入らなくて「そ
れ以外」のことを考えることができなかった。
 ひとりしかいない。ふたりじゃない。「彼」はどちらなの? 渚カヲル? 碇シン
ジ?
 講義が終わってまわりの学生が次々と教室へ出てお昼へ向かっても、私はなんとな
く席についたままでいた。そしてがらにもなく緊張というか、どきどきしていた。教
室はいつものように寒いくらいにクーラーがかけられているはずなのに、なんだか私
はあつかった。
 全身を耳にしていた私にははっきりと「彼」が近づいてくるのがわかった。たぶん
そんなことを期待していたのだろう自分が少し憎たらしかった。
「先週のレジュメ持っていますか?」
 私は聞きなれたはずの、でも音声としては初めて聞いたその言葉だけで、もう何も
考えられなくなってしまった。もしかしたら不自然な動きになっていたかもしれない。
それでも自分を抑えきれずに、ゆっくりと顔をあげ、振り返ると、そこには思ったと
おり少しはにかんだような笑顔があった。カッコつけているような、でもちょっと無
理をしているような、そんな感じの見ていてきゅんとくる端整な笑顔で、私は自分が
正常の状態で対応できる自信がなかった。それでも、顔を背けることはしなかった。
したくなかった。
「コピーとらせてもらっても良いかな?」
 このまま「ゲーム」を続けた方がいいのか、それとも正直に聞きたいことを聞いて
しまったほうがいいのか、私はわからなかった。でも私は、物語の「綾波レイ」ほど
強くはなかった。それだけは言えそうだった。
「……ラ、ランチをおごって、くれ、るなら」
 ほとんど消えてしまいそうな声で、なけなしの勇気を振り絞った。自分がどんな表
情をしているかなんて、全然わからなかった。
「ふふ。なんてね、僕は先週もちゃんと出席しているから大丈夫だよ。でもランチは
おごらせてもらおうかな。カフェテリアでね。いい?」
 私はただ必死にうなずいて、そそくさと身支度までして、そういう態度のひとつひ
とつが「彼」への気持ちを表してしまっているんだとわかったけど、もっとカッコよ
く振舞えるほど私には経験なんてなかった。


 昼のカフェテリアはやはり混んでいた。そこに男女ふたりでいるのなんて恥ずかし
かった。いや、たぶん相手を意識してしまっているから恥ずかしくなってしまってい
て、嬉しさがあるのも事実で、とにかくアスカが来ないことだけを祈った。
「はじめまして、かな? 僕は渚カヲルです」
 彼がカルボナーラを注文したのはわざとなのか偶然なのかよくわからなかったけど、
私の前にもたらこスパゲティが置かれていた。
「……はじめまして。綾波レイです」
 私がそう答えると、もともと微笑んでいた彼の表情が一層明るくなったのがわかっ
た。
「僕がシンジ君じゃなくて悪かったよ。でもまぁ、僕としては君と会えて嬉しい」
「私は別に気にしません」
 相手を気遣う言葉の使い方というものの大切さを、今ほど痛感したことはなかった。
いったい私は20年近くなにをやってきたのだろう。
「聞きたいこと、いろいろあると思う。なんでも答えるよ? 君にもメールで答えて
もらったしね」
「あの、絵のことなんですが……」
 さすがにその質問は予想していたのか、彼はすぐに答える体勢になった。テーブル
の上に置かれているランチはいつまでも手をつけられる気配がない。わかっていて書
いたわけでもないけど、物語の中の私と一緒で、話しかけるのと聞くのとで精一杯だ。
「あれは、ずっと前から描いていた絵なんだ。美学の講義中はだいたいあの絵を描い
ていたよ」
「私の、ことを?」
「そう。最初は真面目に講義ノートとっているのかと思った。誰もまともに教授の話
なんか聞いちゃいないのにね。健気にノートなんかをとる君のことがすごく気になっ
て、それで絵を描き始めたんだ」
「ずっと講義受けていたのですか? あの、確か出席簿には渚さん名前はなかったと
思うのですけど……」
「よく気がついたね。僕はモグリというか、シンジ君の代返でこの講義を受けていた
んだ。彼が来たのは4月中だけ。あとはずっと僕ひとりで受けていた」
「そう、だったんですか」
 私はそれでやっと腑に落ちた。なぜ名前のなかった渚カヲルがあの教室にいたのか。
そして、碇シンジが私とは関係ないままで過ごしていたのか。
「敬語じゃなくていいよ。そちらが気にしないのなら、だけど」
「あ、えっと……うん」
 私はまだまだ聞いたいことがあったはずなのに、どうしてもドギマギしてしまって、
要領よく質問できそうになかった。彼はずっと笑顔のままなのに。
「出席簿に渚カヲルの名前があったら、僕も物語に登場できたかな?」
「それは、わかりませんけど」
 つい私が正直に答えると、彼は苦笑いした。本当に私には肝心なときに愛想がない。
「『綾波レイ』と私は、どこで結びついたの? メールを送ってくれたときには、気
づいていたのよね?」
「それは、正直なところそんなに自信があったわけじゃない。もしかしたらペンケー
スに刻まれているアルファベットがイニシャルかもしれないということと、講義中と
っていたノートがもしかしたら例の物語を書いていたんじゃないかということ、それ
と面識がないにも関わらず知っていた『碇シンジ』という名前。僕の持っていた情報
はこれくらいだよ。はずす可能性のほうが大きかったと思う」
「それなのに――」
「あの物語に対して何かレスポンスがしたかった、それが一番大きな動機かな。例え
君が綾波レイじゃなかったとしても、あの絵は送りたかったんだ」
 それはなんだか嬉しいことなのか嬉しくないことなのか、私は一瞬わからなかった。
私が私じゃなくても、あの絵は届いていた。それは、渚さんが私の物語をとても気に
入ってくれたのだということと同時に、絵の中の私にはそれほどの興味がなかったと
いうことで、複雑な気持ちだった。
「確信を持って君が綾波レイがとわかったのは今日だよ。いつもの席に座っている君
が、今日に限ってきょろきょろしていたからね」
 じゃあ、お互いのことがわかったのはほとんど同時なんだ。それなのに、渚さんの
方から声を……。
「でも来週には、シンジ君にも会うことができるよ?」
「え?」
「来週は試験。さすがに替え玉受験をするわけにはいかないからね。シンジ君があの
教室にやってくる」
 渚さんの方ばかりに気をとられていて、そのことを私は全く考えてなかった。
「でも、彼は私のことを……」
「そう、知らないよ。でも君がシンジ君のこと気になるなら、例えば僕が彼に席を指
定して座ってもらってもいい。一番後ろの廊下側、とかね。そうすれば、試験のとき
そこに座った学生が碇シンジ君だ。君のことは知られずに済む」
 そうか。そんな風に一方的に彼のことを知ることもできるのか。そんなこと考えて
もみなかった。でも少なくとも今の私にとって、その提案はなんだかあまり魅力的に
は響かなかった。その理由はもうはっきりわかっている。私はもう、この目の前にい
るひとのことしか興味がなくなっている。
「私は、碇シンジさんとはお会いしなくて結構です」
 私がきっぱりそう答えると、渚さんは少し意外そうな顔をした。残念そうでもあり、
嬉しそうでもある。
 私はそれより、このひとのことがもっと知りたかった。どんなものが好きなのか、
どんな講義をとっているのか、どこかのサークルに所属しているのか、ゼミはどこか、
バイトはしているのか。今ままで描いた「私」の絵が他にあるのか。
 恋人は、いるのか。
「物語の主人公に会えなくても?」
「主人公は碇シンジではなく綾波レイ。それに、「あの」綾波レイと私は別人よ。必ず
しも同じ人間に興味を抱くわけではないわ」
 目の前の彼は、少し微笑んで、最後にひとつ付け加えた。
「それは、僕は喜んでもいいことなのかな?」
「……それがあなたにとって望ましいことなら」
 そのとき回りは学生だらけで、たぶんすごく騒々しかったはずだけど、私の耳には
なにも入らなくて、ただ、どきどきしていて、苦しくて、でもあたたかくて。
 私はもう、一歩を踏み出した。ここからは、私の物語が始まる。私の物語を始める
んだ。それが私が今望んでいること。アスカと、約束したこと、
「スパゲッティ、冷めてしまったわ。早く食べましょう?」
 そういったときの私がちゃんと微笑むことができていたかわからない。でも彼は微
笑み返してくれた。
 言葉だけではなく、本当にわかった。それがうれしいんだということを。


「へえへえごちそうさまごちそうさま。もうおなかいっぱいで食べられませ〜ん」
 アスカの方から「もしかして今日の美学でなにかあったの?」なんて聞いてきたく
せに、私が話終えるころにはもううんざりといった態度をとっていた。私がこんなに
楽しい話をすることなんて滅多にないんだから、一緒に喜んで聞いてほしいのに。
「あ〜あ、カレシできるかもしれないなんて冗談で言ったのに、現実になっちゃうな
んてね」
「別にまだカレシっていうわけじゃないけど」
「『まだ』、ね。『まだ』! あんたも言うようになったじゃない? そんな秒読み
な感じなんだ」
「だからそういう意味ではなくて」
「そのあとどんな話したの? 学校のこと? 趣味のこと?」
「なんだか、ずっと例の物語のことで」
「ぷっ、なんて色気のない」
「でも、楽しかった」
「はいはい。どうせあたしが間違ってますよ」
 アスカはいろいろつっかかってくるけど、私は全然気にならなかった。むしろ言わ
れれば言われるほど嬉しくて、多分こんなににやにやしっぱなしだったことなんて、
今までに数えるほどしかない。
 アスカには私の部屋のものの中でお気に入りがいくつかあって、今はその一つであ
る座布団型の低反発クッションを抱えて、押したり揉んだりしている。もしかしたら
本当に、悔しいのだろうか?
「アスカは、喜んでくれないの?」
 ちょっと悲しそうな声色を使って言おうとしたけど、たぶん失敗している。
「や、そりゃまぁ嬉しいに決まってるけど。だってそもそもメール返した方が良いっ
ていったのもあたしよ?」
 そう、アスカがあのとき辛抱強く私に付き合ってくれたから、今の私はある。だか
らこそ喜びを共有したかった。
「ええ。アスカには感謝している。ありがとう」
 正直に気持ちを伝えると、さっきまでむくれていたアスカの表情も少し和らいだ。
「ま、いいけどさ。素直に喜んでたらなんか情けないじゃない?」
 そういいながら私の方にクッションを押し付けてくる。
「あぁ、やっとあんたも自分のことに積極的になってきたかぁ。ちょっと寂しいな」
「アスカ……」
「今度はあたしが頑張らなきゃ」
 そのときのアスカは本当に寂しそうな顔をしていた。その理由はなんとなくだけど
わかった。私だって、アスカに恋人ができたら寂しいと思うはずだ。
 ずっと一緒だよ?
 そう伝えたかったけど、言葉にしてしまったら気持ちの方がうまく伝わらない気が
した。だから一生懸命考えようとしたのだけど、私にはどうすればいいのかよくわか
らなかった。
「アスカ、エヴァンゲリオン見る? 今のアスカならわかるかもしれない」
 そういって私は、DVDが置いてある本棚の方に立った。
「へ? あんたなに言ってんの?」
「なんだかアスカが寂しそうだから、アスカにはエヴァンゲリオンをと思って……」
 そういって私がDVDのケースをアスカに見せると
「いや、ちょっとあんた!」
 アスカは私の腕を掴んで呆れたように笑っていた。
「……んじゃ、飲みましょうか。レイ」
「本当に最近そればっかり」
「あんたのための祝い酒よ」
 そのちょっと力が抜けたような表情は、長い付き合いのなかでもあまり見たことの
ないもので、またひとつアスカのことを知れたような気がした。


 次の週、美学の試験には見たことのない顔ぶれの学生ばかりが集まっていた。どれ
ほどの学生が代返をしていたかよくわかる。そのくせレジュメは毎週きっちり配るも
のだから、おそらくみんなそれを見てきたのだろう。発表された試験範囲を見ても、
それだけで事足りそうではあった。
 この中のどこかに碇シンジがいるかもしれない。なんとなくそんなことも考えたけ
ど、それ以上には彼のことは気にならなかった。
 渚さんとは、あの後少しメールでやり取りしたけど、お互い試験期間に入ってしま
い忙しかったので、なかなか会うことはできなかったし、専攻も選択しているカリキ
ュラムもだいぶ違うようなので、学校で会うこともできなかった。でも、試験が終わ
れば夏休みが始まる。ふたりしてそう言い合って、これからのことを楽しみにしてい
た。そういうメリハリのついた関係はアスカとの関係とも似ていて、私にはとても心
地よかった。彼とのことが、もっと続けば良いと思う。続けていきたいと思う。
 周りにいる人のほとんどは、必死になってレジュメを見ていた。私もなんとなく眺
めていたけど、頭に入れるのにそれほど苦はなかった。ちゃんと講義を聞いていなく
ても、聞き流しているだけでも結構耳には入っていくのもしれない。なんとなく見た
ことのあるようなものばかりだった。
 そうやって直前にここで詰め込む人が多いからか、遅れてくる人はあまりいなかっ
た。だから彼が入ってきたときには少し目立っていたし、それほど集中してレジュメ
を見ていたわけではない私はついそちらの方を見て、釘付けになった。その遅れてき
た人物が、よく知っている人でもあり、意外な人物でもあったからだ。
 彼は私を見つけるとそのまままっすぐにこちらに向かってきて、たまたま空いてい
た私のとなりの席に当然のように座った。声をかけようかと思ったけど、前の方での
試験用紙を配り始める様子と、試験官の「静粛に」という注意で周りが静かになって
しまい、私は何も言えなくなってしまった。
「それでは、机の上はシャーペン、消しゴムなどの筆記用具、アナログ式の腕時計、
本人確認用の学生証のみ置いてください。携帯電話を時計として使用することは認め
ません」
 準備のために周囲が少しざわつき始める。私はもう必要なものは机の上に置いてあ
った。遅れてきた彼は急いでバッグの中から色々なものを取り出し始めた。シャーペ
ン、消しゴム、学生証。
 私は混乱したまま何も考えられなくなってしまって、ただ呆然とその仕草を眺めて
いるだけだった。そして彼は、最後に出した学生証をわざと私の見える位置にいった
ん出してから、所定の場所、机の端に寄せた。その学生証には紛れもなく彼の顔写真
と、私のよく知っている名前が刻まれていた。
 私はこの状態でよく試験に集中できたと思う。それを知っていて彼もこんな行動に
出たのだろうか?
 試験中、本人確認のため学生証と受験者を見比べていた試験官補佐は他の学生のと
きと同様、とくに彼に何の不信感も抱くことなく通り過ぎていった。
――替え玉受験をするわけにはいかないからね。
 その瞬間彼の言葉が頭をよぎった。


「お疲れ様。でき具合はどうだった?」
 なんの臆面もなく、彼は私に尋ねてきた。さすがにここで戸惑うほど、私はこの状
況を楽しめない人間ではなかった。
「ええ、おかげさまでよく頭が働いたわ。渚――いえ、碇シンジさん」
 そのときの彼の「ニヤリ」という表情は、彼の透き通った顔から出たものとはとて
も思えなかった。もしかしたら、彼の親のどちらかは結構とあくどい性格だったりす
るのかもしれない。
 私も他の人と同じように試験から解放された声を上げながら一刻も早く教室から出
てお昼を食べに行きたかったけど、今日もまた先週のようにここでいくつか話さなく
てはいけないことがあるようだった。
「どこからがウソなのかしら?」
「僕の名前と、代返をしていたということ、情報処理の講義を受けていたこと。あと
は全部本当だよ。カヲル君は僕の友だちだし、絵のことも、君を見ていたことも、ウ
ソじゃない。それに、君に対する気持ちも」
「……な、なにを言うのよ」
 私は強気で詰問しようとしたのに、彼の真剣な態度といかにもな感じのセリフにつ
いつい赤くなってしまった。でもすべてを打ち明けて恥ずかしくなってしまったよう
で彼も顔を赤らめていた。
「もしかしたら、驚かされるのが好きかなと思って。新しい一面が見れるかなって思
って」
「綾波レイと私は別人よ」
 素直に喜んでたら情けないと、昨日アスカは言っていた。今ならわかる。
「綾波って、呼んでもいいかな?」
「名前なんてどうでもいいことよ」
 そう、名前なんてどうでもいい。名前で何かが変わるわけじゃない。例えどんな名
前であろうと私は彼に惹かれているし、きっと彼も私のことを好いてくれる。それだ
けで充分。それだけは真実だった。なぜなら、私と彼は同じ教室の中で、全く別の方
法で、たくさんの時間をともにしてきたのだから。ふたりで動かした指先の時間だけ、
私たちは触れ合っていたのだから。その満たされたこころを、今はなんとかして彼に
伝えたい。それを打ち明ける唇が、押さえ切れない胸の高鳴りに少し震えていたとし
ても。
「私はあなたのこと、碇君って呼ぶわ」
 やっぱり彼は、出会ったときのようなやさしい表情で笑ってくれた。
 それが碇君と私の最初の想い出となった。
 これからもっと、ふたりの物語を育んでいこう。