「ロン。四暗刻単騎。ダブル役満だ」

 その唇の片端がほんの少しだけつり上がり、低く抑えの利いた声と共に、笑っているの
か睨みつけているのか実の息子でもよく分からない表情が、対面に座るシンジの方に向け
られた。

「き、汚いよ、父さん! 絶対積みこんだだろう!」

「……下らん言いがかりをつけるな。どこに私が積みこみをしたという証拠がある」

 自分の家の中なのに外そうともしないサングラスの奥で、その目がギラリと鋭い光を発
する。ただでさえ目つきが悪いと近所の人に恐れられているのに、意識して他人を睨みつ
けた日には、その凶悪さは泣く子を半狂乱にさせるほどのものだ。

「そ、そんな、証拠って言われても……」
 
 父のそうした視線を受けとめるのは決して初めてではない。だが、不覚にもその威圧感
に押されてしまったシンジは、ゲンドウから目を逸らし、別のところに助けを求めること
しかできなかった。

「か、母さん、何とか言ってよ」

「う〜ん、でもねえ、こればっかりはねえ。交通事故みたいなものよねぇ」

 そんなことを言いつつのんびりとお茶を啜るのは、碇家のゴッドマザーたる存在の碇ユ
イ。いつもはこうした状況でシンジの味方になってくれるはずのユイなのだが、今日に限
っては全くそうした気配がない。

「で、でも、配牌でいきなり字一色が一向聴で、一巡目でテンパイになったんだよ。それ
だけでも妙なのに、浮いていた五筒を捨てたら途端に直撃だなんて、何かあるとしか思え
ないよ!」

「妙だと思っていながら、そこで五筒を捨てるのがおまえの甘さだというのだ。言い訳は
いい。さっさと96000点を払え」

「く! ふ、冬月先生ぇ」

 シンジが上家に縋るような視線を送ると、冬月先生と呼ばれた初老の男性が優しそうに
目を細めた。冬月コウゾウはゲンドウとユイの職場の上司だったが、二人とは大学時代か
らの師弟関係ということもあり、その関係で度々碇家を訪れることがあった。いつもはお
茶を飲んで二人と世間話をするだけで帰るのだが、どういう風の吹きまわしか、この日に
限っては麻雀をしようと突然言い出したらしく、その人数合わせにシンジが駆り出された
のだった。

 シンジは冬月が好きだったし、冬月もシンジには本当の孫に対するかのように優しく接
し、昔からよくお小遣いをあげたりなどしていた。それ故このときも、シンジがその表情
に淡い期待をかけたのも当然といえば当然と言えるだろう。だが悪いことに、冬月の口か
ら申し訳なさそうに発せられたのは、遠まわしの拒絶の言葉以上のものではなかった。

「ううむ、しかしなあ、シンジ君。積みこみ禁止とは誰も言っておらんからなあ」

「そ、そんなあ」

「そうねぇ。シンちゃんには悪いけど、確かに誰も言っていないわねぇ」

 とぼけた様子でそんなことを言うユイは、早くも得点表を取り出して、鉛筆片手に計算
を始める。

「え〜っと、シンちゃんは今のでトビよね。それで役満賞はプラス40だから……。あら
あら、シンちゃんはもうマイナス400越しちゃったわねえ」

「おや、デカピンでマイナス400かね。中学二年生の払える金額じゃあないぞ、ユイ君」

「あら冬月先生。これは男の戦い、真剣勝負ですから」

 自分は女であることを棚に上げ、おほほほほ、と、季節の移り変わりを語るようなのん
びりとした口調で答えるユイ。そんな母の笑顔とは対照的に、シンジの顔色はみるみる不
健康なそれに変わっていく。

「ちょ、ちょっと待ってよ。それは大人の人だけで、僕は負けてもお金はいいって最初に
言ってたじゃないか!」

「あら、そうだったかしら?」

「そうだったかしらって……。そう言ったのは母さんじゃないか……」

 シンジの必死の反論に、う〜む、と、ある有名な彫刻のようなポーズで考え込むユイ。
なんということはないポーズだが、ユイがそれをやると、四十代を目前にした女性のそれ
とは思えないほどの可愛らしさを醸し出すのだから不思議であった。それを横目に見るゲ
ンドウの表情は心なしか緩み、冬月は微笑を浮かべながら、もう冷えてしまったであろう
お茶を啜り始める。

「う〜ん、母さんそんなこと言ったかしら。最近物忘れが酷くてねえ。もう年かしらねえ」

「ふ、ユイが物忘れをするはずがない。シンジの勘違いだ」

「な、な、な……」

 そんなはずはないのである。元々シンジは麻雀をすること自体乗り気ではなかったのだ
が、それが冬月の希望であること、負けても支払い免除であることの二つの要因が重なっ
て、ようやく重い腰を上げたのだ。だが真実がどんなものであろうとも、こうも結託され
てしまってはいくら一人で頑張ってもどうしようもない。

 そして、そんな四面楚歌の状況にシンジがやや茫然としている間にも、事態は刻一刻と
動き続けていたのである。

「さて、冬月先生。先生はそろそろお仕事に戻られる時間ではありませんか?」

「ん? ……おお、その通りだな。それではそろそろお暇するとしようか」

「あら、そうですか? 残念ですけどしかたありませんわね。それじゃ、手早く清算して
しまいましょうか」

「ちょ、ちょっと待ってよ。清算って言われたって……。僕にそんな金額払えるわけないよ」

「……何だと?」

 もう半泣きのシンジに対して、再び対面からは、容赦の欠片もない剃刀のような切れ味
鋭い視線が飛んでくる。

「逃げるのか、シンジ?」

「だ、だって、何を今更なんだよ。父さんは僕のお金なんかいらないんじゃないの?」

「必要ならば取るまでだ」

「……そんな……無理だよ、そんなの。僕に払えるはずないよ」

「……払うなら早くしろ。でなければ働け」

「む、無茶苦茶だよ……払えっこないよ。今までアルバイトもしたことないのに、できる
わけないよ!」

 本来なら、14才の中学二年生にそんなレートで麻雀をやらせ、しかも寄ってたかって
真面目にお金を取ろうとすることの方が問題にされるべきだろう。だが、心臓を貫き背中
まで突き抜けていきそうなゲンドウの凶悪な視線の前に、シンジはどこか論点のずれた答
えを返してしまう。それこそがゲンドウの狙いであり、自分はすっかりそのペースに乗せ
られているのだと気付くには、少年はあまりに人生経験不足だった。

「……ふ。手段がないわけではないぞ」

「へ?」

 歪められるゲンドウの口元、チラリとシンジを見つめる冬月の微笑、ニコニコしながら
牌を片付け始めるユイ。そんな周りの雰囲気に、さしものシンジも、どうやらこれには隠
されたシナリオがあるらしいということを悟り始めていたが、時既に遅し、なのであった。




「らんらんら〜ん♪」

「全くもう……。何が楽しいんだよ……」

「あらシンちゃん。何か言った?」

「別に、何にも……」

 ここは碇家の2階にあるシンジの部屋。主の性格を反映してか、その部屋は普段はよく
掃除され、整然という言葉がよく似合うものだったのだが、この日ばかりは少し様子が違
った。ベッドの上には様々な種類の衣服が投げ出されており、その数は増加することはあ
っても、減少する気配は全くなさそうだったのである。

 その服の山の脇に腰掛けるのは、やや憮然とした表情でクローゼットの方向を見つめる
シンジ。そしてその視線とぼやきの先には、何が嬉しいのか、鼻歌交じりにシンジの衣服
を引っ張り出すユイがいるのだった。

「……ねえ、母さん」

「なあに、シンちゃん」

「本気なの?」

「何が?」

「何がって、今日のことだよ。決まってるじゃない……」

 朝早くから自分を着せ替え人形にして楽しんでいるユイに対し、無駄とは知りつつも、
シンジは問い掛けずにはいられなかった。

「あら、別にシンちゃん、今日は何も予定ないんでしょう。だったらいいじゃない」

「そういうことじゃなくてさ……」

「じゃあ何のことかしら?」

「これから会う子のことだよ。僕、相手のことを何にも知らないんだよ。本当にそんな子
と一日一緒にいなきゃいけないの?」

「そうよ、それがシンちゃんの使命なんだもの」

「使命って……。はぁ、なんか気が重いなぁ……」

 ある女の子と一緒にクリスマスの一日を過ごせ。それが、借金チャラの代わりにゲンド
ウが出した命令だった。シンジにとってはそれ自体とんでもないことだったが、それに輪
をかけて戸惑わされたのは、相手の女の子とは今まで一度も会ったことがないし、顔すら
も知らないという事実である。

 普通の感性を持った人間がそんなことを言われたなら、大抵不安になり、相手の子はど
んな子なのか知りたいと思うに違いない。無論シンジとて例外ではないわけで、ユイやゲ
ンドウとの会話の中からどうにかしてその子のことを聞き出そうと努力していたのだが、
ここまではかばかしい戦果は上がっていなかった。

「ねえ、その子ってどんな子なの? 少しくらいは教えてよ」

「大丈夫、心配ないわ。すっごくいいお嬢さんだっていうことは母さんが保証するから。
ちょっと不器用だけど、とっても明るい、いい子なのよ」

「……不器用って、何が?」

 それはシンジにとっては何気ない問いだったが、その中には何かユイの琴線に触れるも
のがあったようだ。人差し指を口に当てて何かを考え込むような仕草をするユイ。その目
が少しずつ深い色を湛えていくのにシンジは気がついた。

「そうねえ。少し気取った言い方をするのなら……」

「……?」

「……生きるのが……ってことになるかしらね……」

「……生きる?」

 普段よりも低いトーンで発せられたその言葉。いつも笑顔と明るい声を絶やさず、碇家
の心のオアシスとなっているユイだったが、何か真面目な話をするときにはそうした声に
なるのが常だった。それをよく理解するシンジが、その言葉の中には何か特別な意味が込
められているのだろうかと考えていると、まるでその思考の流れを読み取り、意図的にそ
れを遮るかのようにユイが言葉を続けた。

「ねえ、シンジ」

「何?」

「一つ、お願いしたいことがあるの」

「あ、うん。何?」

「今日来る子、綾波レイちゃんっていうんだけど、あんまりレイちゃんのことを根掘り葉
掘り聞かないであげてほしいのよ」

「聞かない? 聞いちゃダメなの?」

「……ええ。いずれそういう話をできる時がきっと来るって信じているから……。だから
今日だけは、何も言わずにレイちゃんといてあげてほしいの」

「よく意味が分からないよ、母さん」

「今は分からずともいい」

 低くドスの利いた声でそう言ったのは、もちろんユイではない。シンジが声の発せられ
た方向に視線を向けると、何時の間にやってきたのか、半分開かれた襖の向こう側には、
朝早くからどこかに出かけていたはずのゲンドウが立っていた。

「ユイ、レイ君が到着したぞ。シンジの方はまだか?」

「はいはい。う〜ん、ちょっとねえ、上に着せるものなんだけど。これとこれ、どっちの
色がいいかなあ、なんて考えていたのよね。あなたはどっちがいいと思います?」

「……む、ユイはどう思うのだ?」

「私だったらこっちかしらねえ」

「ユイがそう言うのなら間違いはない。シンジ、それにしろ」

 そんな、当人の意思はまるで無視した会話の後、シンジはブラックのハイネックセータ
ーにグレーのハーフコートを羽織り、下はブラウンのパンツにネイビーのソックスという
格好で部屋を出る。ゲンドウ、ユイと共に向かうのは、綾波レイという子が待っているは
ずのリビングである。

「シンジ」

「何、父さん?」

「レイ君はおまえと同い年だ。仲良くやるのだぞ」

「あ、うん、分かった……」

 前を歩く父の背中をジッと見つめるシンジ。

 ゲンドウは家でくつろいでいる時でも、あまり多くを語る人間ではない。何か場を和ま
せる冗談を言ったりなど絶対しないし――したところで、その場の雰囲気が凍り付いてし
まうだけだろうが――ユイとシンジの世間話にもあまり加わったりしない。

 だがそんなゲンドウだからこそ、何かを口に出すときには、そこに何かしらの深い意味
や意志が込められていることが多いのだ。それゆえシンジは、何気ない会話の中でも父の
言葉にはきちんと耳を傾け、それについて考える癖がほとんど無意識の内についていた。

 これから会う子と仲良くしてやれ。

 シンジは思う。なんでもないことのように聞こえるけれど、父さんがそれをわざわざ口
に出したということは、何か裏に深い意味があるのだろうか。

(なんか、さっきから父さんも母さんも雰囲気が妙なんだよな。綾波レイさんって何か訳
ありな人なのかな?)

 そんなことを考えつつ、ゲンドウの後に続いてシンジはリビングへと入る。

 部屋の壁際に置かれた3〜4人がけのソファの端に、その少女は少し身体を小さくする
ようにして腰掛けていた。まずシンジの目に入ったのは蒼銀の髪、そして少し病的な印象
を受けるくらいに白い肌。何か心細げなその表情と、紅い瞳に宿った微かな不安、あるい
は怯えのようにも見える色が、シンジの心の中に決して小さくない波紋を巻き起こす。

 ベージュ色のタートルネックセーターに、チャコールグレーのスカートという出で立ち
のその少女は、入ってきたシンジに気が付くとちらりとその姿を見つめ、そして、ややは
にかむようにして微笑んだ。

「……おはよう」

 雷撃の恋。そんな言葉があるのをシンジは知らなかったが、もし誰かがその言葉の意味
を説明してやったなら、深く頷き同意の意を示したかもしれない。少年は、それを本から
ではなく身をもって学んでいたのである。それはもう、理屈ではない。

「……お、おはよう……」

 それっきり、どう言葉を繋いでいいのかわからない。ただシンジにできたことといった
ら、ぽかんと口を半開きにした少しマヌケな様子でその場に立ち竦み、目の前の信じられ
ないくらいに可愛い女の子のことをただボーっと見つめるくらいのことだった。

 その結果としてリビングに漂う少し不自然な沈黙。その場の雰囲気としては、シンジが
何か言葉を続けるのを期待する空気があるのだが、それを受けとめる立場の少年には残念
ながらとてもそんな余裕はなさそうである。

 そんな様子を見かねたのか、シンジの横に立つゲンドウが息子に声をかけた。

「シンジ」

「……」

「シンジ」

「…………あ、な、何? 父さん」

「何を呆けている。おまえは、今日一日をこのお嬢さんと共に過ごすのだ。自己紹介くら
いせんか」

「あ、うん……」

 固まってしまったシンジの様子に影響されたのか、先程の微かな笑顔が消え、また少し
不安げな様子に戻ったその少女に、少年はおずおずと声をかけた。

「あ、あの……碇シンジです」

 すると、少し緊張していたその表情がみるみるうちにほぐれ、柔らかで可憐な笑顔が急
速に花開いていく。少女は愛らしい微笑みをその顔に湛えたまま、優雅な仕草ですっと立
ちあがると、シンジの前まで歩み寄りペコリと頭を下げて言った。

「綾波レイです。よろしくね、碇君」

「……ぁ……ゃ……」

 その笑顔に見惚れているのか、何か意味のないことをモゴモゴと呟くばかりのシンジ。
そんな息子の様子を横目でちらりと見つめると、今度は、少女に勝るとも劣らないチャー
ミングな微笑みを浮かべるユイが、レイの言葉に答えた。

「あら、いやだわ、レイちゃん。碇君、なんて、そんな遠慮した言い方しないでちょうだ
い。シンちゃんでいいのよ、シンちゃんで」

「え? あ、そうですか?」

「そうよ。遠慮するなんてレイちゃんらしくないわよ」

「あ、えへへ、わっかりましたぁ。で、ではお言葉に甘えまして……。おほん……よ、よ
ろしくね、シンちゃん……」

「……あ……いや……あの……」

 出会い頭の先制パンチ、そして飛び切りの笑顔と共に繰り出された完璧なフィニッシュ
ブロー。シンジにしてみれば、10カウントを聞くまでもなく早く白いタオルを投げ込ん
でほしいという心境だったろう。だが、彼につくセコンドはそれほど甘くはないのである。


「どうしたシンジ。返事をせんか」

「…………あ、うん。あの、よ、よろしく……」

 強烈なダウンの衝撃から未だ立ち直れない息子の様子を一瞥し、このままでは埒があか
ないと判断したのだろう。ゲンドウはその注意を向ける先を、僅か数分でシンジを沈めて
しまった愛らしい少女に向ける。

「レイ君、今日は愚息が君をある場所にエスコートすることになっている。短い時間だが、
楽しんできなさい」

「はい、ありがとうございます。でもエスコートだなんて、なんだか緊張しちゃうなぁ」

「あらぁ? レイちゃん、顔、赤いわよ?」

「え?! やだ、違いますよぉ。これは部屋の暖房が効きすぎてるせいです。ちょっと熱
いですよ、この部屋」

「うふふ。そうなのかしら?」

「もう、そうですよ〜」

「ふ……。ユイ、取りあえずはその位にしておきなさい」

「ええ、そうね。後は若い二人に任せて……ってとこね。ほらお二人さん、早く玄関に行
った行った」

 そんな感じでユイが二人を急き立て、その後を、ぎこちない微笑のようなものを浮かべ
たゲンドウがゆっくりと追う。数十秒後には、玄関前で見送りをする父と母に、それに正
対するシンジとレイという、どこか妙で、そして照れくさい構図ができあがっていた。

「じゃ、二人とも行ってらっしゃい。シンちゃん、レイちゃんをよろしくね」

「レイ君、あまり無理をせんようにな」

「はい、ありがとうございます。それでは行ってまいります」

「行って……きます……」

 幸せそうな微笑みを浮かべ足取りも軽く外へ歩みだすレイと、夢遊病者のようにフラフ
ラと玄関を出るシンジ。閉じられるドアに遮られ二人の姿が視界から消えていった後、そ
の場に残されたユイは軽く首を傾け、その脇に佇むゲンドウの方へと視線を向けた。

「……行きましたね」

「……ああ」

 漏れるのは軽い溜息。数瞬前まで満面の笑みを浮かべていたユイだったが、今は、憐憫
と不安が入り混じった複雑な表情がそれに取って代わっていた。そしてその口からは、抑
えきれないかのような微かな呟きが漏れる。

「……きっと……うまくいきますよね……」

「……全ては流れのままに、だ。そうではないか?」

「……そうね。……それなら、せめて今日だけは……」

 言葉にならなかったユイの思い。それをよく理解するゲンドウは、そっと愛する妻の肩
に手を置くと、促すようにしてリビングへと歩を進めた。こんなとき不完全な存在たる人
間にできるのは祈るくらいのこと。それをよく知るゲンドウは、軽く下唇を噛むユイの様
子を諌めることができなかったし、またそうしようとも思わないのだった。







 全く自慢にならない話だが、シンジは生まれて此の方、一度も女の子と付き合った経験
がない。いや、付き合うどころか誰かと手を握ったことすらないし、学校でも一部の例外
を除き、あまり女の子と話をしたりする方ではない。

 この年代の男子にしては珍しくないことだが、やはり男の友達とつるんでいた方が楽し
いし、女の子絡みのことは少々照れくさい。加えて、周りに彼女持ちの友達がいなかった
というのもある。それ故シンジは、クリスマスやバレンタインの日付をカレンダーでチェ
ックしニタニタ笑みを浮かべる、或いは深い溜息をつく、などということはまるでなかっ
たし、自分がそうしたイベントの中でどういった行動をとるかなど、テレビの中の外国の
映像よりもずっと遠い世界のことだった。

 そんな、よく言えば純粋、少し悪く言えばウブなシンジである。目的地へと向かうガラ
ガラのバスの中、すぐ横に座るレイが自分の顔を覗きこんでいるのに気付いたとき、心臓
が軽い悲鳴をあげてしまったのは仕方のないことだろう。

「あ、あの……何……かな?」

「う〜ん……」

「えと、な、何か顔についてる?」

「……ううん。たださ、シンちゃんって、写真よりも実物の方がかっこいい顔してるな〜
って思ってたの」

「な! な、な、何言ってるんだよ」

「あ、やだ、シンちゃんったら照れてる〜。そういうところは可愛いなぁ」

「か、からかわないでよ、もう」

 そんな自分の反応に屈託なさげに笑うレイ。その様子に、シンジは少し救われた気持ち
だった。もしこれが相手の子が内向的な子で、あまり会話も弾まないということになって
いたなら……。きまずい沈黙の中、逃げちゃダメだという言葉を心の中で何度も繰り返す
羽目になっていただろう。

「えへへ……。ねえ、ところでシンちゃん。今日はこれからどこに行くの?」

「あ、ゴメン。そういえばまだ言ってなかったね。えっと、昨日父さんからこういうのを
貰ったんだ」

 そう言ってシンジがレイに差し出したのは、湾岸エリアにできたばかりの大きなテーマ
パークの一日フリーパス券だった。

「あ、すご〜い。ここって結構評判がいいとこだよね。私も雑誌なんかで見て、行ってみ
たいなあって思ってたんだぁ」

 無邪気に喜ぶレイの様子に、シンジは内心で苦笑していた。渡すものがあるからと、シ
ンジがゲンドウの書斎に呼び出されたのは前日の夜のこと。一万円紙幣を一枚と、件のテ
ーマパークの券二枚をシンジに渡した後、ゲンドウは机に肘を付き、両手で自分の口元を
隠すようなポーズで言ったのだ。

『クリスマスの基本は遊園地だ。ふ……私もユイとの初デートは遊園地だったからな……』

 どこかずれたその感覚と微かに歪められるその口元に――しかもゲンドウは少し遠い目
をしていた――いろいろな意味でシンジは言葉を失ってしまったのである。

(でも、喜んでもらえたみたいで良かったな)

 渡された券を嬉しそうに見つめるレイの様子に、自然とシンジの表情も穏やかなものに
なっていく。

「あの、ところでさ、綾波さん……」

 うまく流れ出した会話の勢いに乗って、今度はシンジの方から声をかける。今までずっ
と引っかかっていた疑問の数々。母親にはそれを止められていたが、最小限のことくらい
は聞いてもいいのではないか。そう思ったシンジは、特に何かを意識することもなくその
言葉を発した。だが尋ねられる側のレイは、傍目からもハッキリと分かるジト目でシンジ
を見つめ返してくる。

「……あ、あの、どうかした?」

「な〜んか、シンちゃん、他人行儀……」

「他人行儀?」

「私はシンちゃんって呼んでるのに、シンちゃんは私のこと“綾波さん”なんて呼ぶんだ
ね……」

 拗ねたような口調でそう言って、レイは少し不満そうに口を尖らせる。

「え? い、いや、でも、僕らまだ初めて会ったばかりだし……」

「でも、私はシンちゃんって呼んでるよ?」

「や、それは、そうだけど……」

「だから、私のことも名前で呼んでほしいなあ……」

 シンジに対してというよりは、誰に向けるわけでもない呟きに近いその言葉。甘えるか
のような声色でそう言った後で、レイは横目でちらりとシンジを見つめた。

「……で、でも……それは、ちょっと……。勘弁してよ……」

「……そっか、そうだよね。シンちゃんにしてみれば、所詮私なんて初めて会ったばかり
の他人だもんね。どうでもいいよね。知ったこっちゃないよね。このまま二人別れて、私
が変な男に声かけられていやらしい所に連れこまれても関係ないよね……」

「ちょ、ちょっと……」

「はあ、なんか、悲しいな、それって……」

 軽く溜息をつき、俯くレイの仕草はやや芝居がかったものだったが、そこはこうした状
況に慣れていないシンジの悲しさ。こうも露骨に寂しそうな表情をされてしまうと、ひど
く申し訳なくなってしまうし、自分が何かとんでもなく悪い事をしている気分になってし
まうのである。

「…………わ、分かったよ。じゃ、あの……レイ……ちゃん」

 するとほんの数秒前の表情はどこへやら、シンジの言葉に途端に笑顔になるレイ。その
あまりの変化にシンジは内心面食らったのだが、こうした過程を経て、少年は一つずつ大
人への階段を上っていくものであろう。

「う〜ん。最後のはちょっと余計な気もするけど、ま、いっか。それにしても、シンちゃ
んって今時珍しいくらい純情なんだねえ」

「ほ、ほっといてよ、もう」

「あ、ひょっとして怒ったかな?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべ、からかうような口調でそう言うレイに、ついシンジはム
キになり虚勢をはってしまう。

「べ、別に怒ってなんかないよ」

「ホントに〜?」

「ホントだってば」

「ふ〜ん、ま、いっか。あ、ところでさ、さっきシンちゃんは私に何を聞こうとしたの?
ひょっとして私のスリーサイズとか?」

「ち、ち、違うよ! そんなんじゃなくて」

「ふふふ。ホントにシンちゃんって可愛いねぇ」

「はぁ、もういいよ……」

「あ、ゴメン、ゴメン。そんなにいじけないで。もう茶化さないからさ」

 正直なところ、シンジはレイのからかいにほんの少しだけウンザリし始めていた。だが
隣に座る可愛い女の子に、天使のような笑顔と次の言葉を期待するような視線を送られて
しまっては、拗ねて自分の世界に篭っているわけにもいかない。

(まあ、いっか……)

 概して男というのはそうした単純で馬鹿な一面があるものである。

「……うん、あのさ。あや……レイちゃんは、どうして僕なんかと一緒に出かけるんだろ
うって思ってさ。僕たちお互いのことも全然知らないのに……」

「……知ってるよ」

「え?」

「シンちゃんは私のこと知らなかったかもしれないけど、私は知ってたもん」

「え、な、何で? 学校、一緒じゃないよね。じゃ、どこかで会ったっけ?」

「ううん。でもね、シンちゃんのことはいろいろ知ってるよ。学校のクラスは2−Aで、
成績は中の上。仲のいい男の子の友達が三人いて、放課後はよくゲームセンターに行くん
でしょ? 一人っ子だけど、家ではしっかりしてて、家事を手伝ったりもするんだよね。
あ、でも私的に一番印象に残ってるエピソードは、家の前で車に轢かれちゃったネコを、
可哀想だからって、わざわざ家の庭にお墓を作って埋めてあげたってことかなあ。優しい
よね、シンちゃんって。私ね、少し感動しちゃったんだよ」

「いや、優しいっていうか、ほっとけなくて……。そ、そんなことよりさ、何でそんなこ
とまで知ってるの? そういえばさっきも、写真より実物の方が、って言ってたよね。僕
の写真なんて誰に見せてもらったの? やっぱり父さんか母さんから?」

「う〜ん、どうでしょうねえ」

「そんな、もったいぶらないでよ。教えてくれてもいいじゃない」

 それまでは楽しそうな笑みを浮かべていたレイだったが、シンジのその言葉には何か笑
顔で流せない要素が含まれていたのだろうか。ほんの少しだけ表情を固くし、何かを考え
込む素振りを見せる。そして次に発せられた声のトーンは、それまでのものよりも少しだ
け低いものだった。

「お父さんとお母さんからは、私のこと何て聞いてるの?」

「それがさ、二人とも全然教えてくれないんだ。母さんなんか、あんまりレイちゃんのこ
とを根掘り葉掘り聞くな、なんて言うんだよ」

「ふ〜ん、シンちゃんはそう聞いてるんだ……」

「でもさ、少しくらいは教えてくれてもいいでしょ?」

 やや身を乗り出し興味津々といったシンジの様子に、レイの整った顔に再びからかうよ
うな笑みが戻ってくる。

「えっへっへ〜、だ〜め。それは秘密だね〜」

「秘密って、何だよ、それ」

「まあまあいいじゃん。それよりもさ、自分のことを知っている謎の女の子、このシチュ
エーションの感想とかはないの?」

「……な、べ、別に感想なんて……」

「あ、シンちゃん、ちょっと顔赤くなってるよ。ほんと純情だね〜」

「ず、ずるいよ。そうやって話を逸らすなんて……」

「ん〜? ふふふ」

 どこか曖昧な笑顔を浮かべるレイ。シンジとしては、レイがそこから何か言葉を続けて
くれることを期待したのだが、相手にはその話題を続ける意志はなさそうだった。なんと
なく途切れてしまう会話。外の光景に視線を向けてしまうレイ。そんな雰囲気に、シンジ
もそのことを追求しにくくなってしまう。

(なんか、うまく誤魔化されちゃったような……)

 だからといって、あまりしつこいのも嫌われるかもしれない。しかたがないので自分も
気分を切り換えようと、姿勢を正すようにして座りなおし、何となく周りを見まわしてみ
る。次の停車地に向けてちょうど減速を始めたバスの中は、休日の朝早くということもあ
ってか他の客はほとんどおらず、車内には鈍いエンジン音のみが響き渡っていた。

 プシュ

 バスが停車し、そんな音を立てて乗車口が開くと、数人の客が乗り込んでくる。杖をつ
きながら、ややおぼつかない足取りで歩く老人。どこかに出かけるのか少しめかしこんだ
中年の女性。楽しそうに何かを話している若いカップル。

(あの人たちもどこかにでかけるのかな。そうだろうな、クリスマスだもんな……)

 仲良く手を繋ぐカップルの様子を眺めながらそんなことを考えていると、突然声をかけ
られた。

「ねえ、シンちゃん」

 気がつくと、少し前まで外を見ていたはずのレイの視線が、いつのまにか自分の顔に固
定されている。

「……あ、何?」

「シンちゃんはさ……。クリスマスを一緒に過ごしたい人とか……いなかったの?」

「え? ぼ、僕は、別に……その……特に……」

「ホントに〜? だってさ、同じクラスにちょっと気になる女の子がいるんでしょ?」

「な! か、母さんだろ、そんなこと言ったの?! ち、違うんだよ。アスカは別にそう
いうんじゃないんだ」

「ふ〜ん。その子はアスカさんって言うんだ……」

「や、だから違うんだって……」

「でもシンちゃん、その子のことは名前で呼ぶんだね……」

「……あぅ。そうじゃなくて、アスカとは席が隣だから自然にいろいろ話をするようにな
ったっていうだけでさ。ホントに、好きとかそういうんじゃないんだ」

「んん〜? ホントかな〜?」

「し、信じてよ……」

 ここにきてようやくシンジは確信した。目の前の少女に自分のことを吹きこんだのは母
親に違いないということを。自分のプライベートをそこまで知っている人間は他にはいな
いし、そうしたゴシップネタは母の最も好むところなのだから。

 様々な脚色を加えつつ、楽しそうにレイに語りかけるユイ。そんな光景が写真のような
鮮明さでシンジの脳裏に浮かび上がる。

(ま、まずいよ……)

 どうも風向きが怪しくなってきたことを敏感に感じるシンジ。このままではまた、から
かいの集中砲火が飛んで来ることは目に見えている。それを避けるにはどうすればいいだ
ろう? 少々考えた末、攻撃は最大の防御なりという言葉に従い、自分の方から先制攻撃
をしかけることにした。シンジにしては上出来な判断といえるだろう。

「レ、レイちゃんの方こそどうなの?」

「ん? 何が?」

「ク、クリスマスを一緒に過ごしたい人……」

「ん〜? 聞きたい? 聞きたい?」

「……う、うん、まあ」

「私はねぇ、いたよ」

 さらっと返すレイの口調、そして『いたよ』という過去形に、少し複雑な気持ちになる
シンジ。

「そ、そうなんだ……」

「うん。……ねえ、その相手は誰か聞かないの?」

「や、べ、別にいいよ」

 それはひょっとしたら……、などというちょっと楽観的で甘い期待が全くなかったわけ
ではない。だが、そんな期待よりも、それが裏切られたときのことを考えてしまう。シン
ジはそんな少年だった。

(そうだよ。こんなに可愛い娘なんだ。きっとレイちゃんには、一緒にクリスマスを過ご
したい相手が他にいたに違いないよ。それが何かの都合でダメになって、それで僕はその
人の代わりなんだ、きっと)

 だから、そんな風に思いこもうとする。それは、何か辛いことがあった時のための言い
訳であり、自分のための逃げ道でもあった。

「……」

「……」

 それっきりまた会話が途切れ、少々居心地の悪い沈黙が二人の間に横たわる。

『次は、アクトン・タウン前、アクトン・タウン前』

 それゆえ、やや抑揚に欠ける車内アナウンスが目的地に到着したことを告げたとき、シ
ンジは少々救われた気分だったのである。








*麻雀が全くお分かりにならない方への注。

 序盤の麻雀のシーンですが、ちょっと汚い手(積みこみ)を使ったゲンドウが、シンジ
からかなり大きい手をあがり、その結果(+それまでの積み重ね)としてシンジが中学生
にはとても返しきれない額の借金を背負ってしまった(その額40万以上(^^;)とご解釈
下さい。





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【B part】


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