「うわあ、すっご〜い」

 すぐ脇でレイが上げる歓声に、シンジは心から頷いた。

 チケットを提示してレイと共にゲートをくぐると、そこは別世界だったのである。

 入り口に掲げられていた“Let's walk into the wonderland”なる看板が示すとおり、
浮世の煩わしさとはまるで無縁に思える夢の国。溢れる色彩、流れる音楽、どこかから聞
こえてくる歓声、幸せそうな顔、顔、顔。頭上に広がる青空も、外で見上げるのとは違っ
て、この空間の中では少し異なった深みと鮮やかさを醸し出しているように見えるのだか
ら不思議だった。

 その年にオープンしたばかりのその大遊園地は、シンジたちの住む地域最大のジェット
コースター、最新のテクノロジーを駆使したバーチャルリアリティ型のアトラクションと
いったものから、ややレトロなコーヒーカップ、ゴーカートといったものまで、ありとあ
らゆる種類の楽しみ方ができるのである。年間の利用者数は軽く一千万人を超え、地方か
らの修学旅行生にとっては絶対に外せない観光スポットにもなっていた。

 時期が時期ということもあり、カップルや親子連れなどでひどく混んではいたが、ゲン
ドウが選んだにしては、クリスマスを過ごす場所として中々センスのよろしい場所であっ
たと言えよう。それともそれはユイ辺りの入れ知恵があってのことだろうか?

 裏にどんな事情があるにせよ、その場にいるシンジとレイにとっては、ゲンドウとユイ
が与えてくれたこの時間を最大限に楽しむことこそが、二人に対する恩返しと言えるだろ
う。

「すごい、すごい、すご〜い。私こんなところ初めて〜」

 入り口近くに佇んでいた、テーマパークのシンボル的存在である白兎のキャラクターの
着ぐるみと、両手でしっかり握手をしながらはしゃぐレイ。その無邪気な様子に自然とシ
ンジの頬も緩んでいく。

「レイちゃんは遊園地とか来たことないの?」

「うん、初めてなんだ」

「へえ、そうなんだ。お父さんとかお母さんと一緒に来たりしたことないの?」

「あ、うん……。私、そういう人いないからさ……」

 俯き、苦笑めいたものを浮かべながら答えるレイに、シンジの心は一瞬にして後悔の念
で満たされる。

「あ、ゴ、ゴメン。僕、そんなつもりじゃ……」

「ううん、気にしないで。シンちゃんはそんなこと知らなかったんだもん。しょうがない
よ。ねえ、それよりもさ、そんな話はやめて今日は楽しもうよ。ね?」

「あ、うん……」

 一瞬頭上に漂いかけた黒い雲を吹き飛ばすかのような笑顔に、シンジは自分の無神経さ
が益々申し訳なくなってしまい、想像の世界で自分の頭を小突いた。

 自分の少し前を歩きつつ、時折振り向いては後に続くシンジの様子を確認するレイ。そ
れに微笑みを返しながら、シンジはすぐ目の前の少女のことを思う。

 両親がいないというレイ。あまり詮索するなと母が言ったのはそういったことが絡んで
いたからなのだろうか。出会ってからずっと柔かな微笑みを浮かべているレイだが、実は
今まで楽しいことばかりではなかったのかもしれない。だとするなら、ユイの言う通り変
に相手のことを詮索せずに、自分もレイと共に与えられた今日という時間を楽しんだほう
がいいのではないだろうか。

(そう、だな……。そうしよう)

 この日初めて感じる前向きな思いと共に、レイの後を追うシンジ。

 もしここがワンダーランドだというのなら、せめてその中にいる時だけは、仮初めの夢
の中を漂い、辛いことを忘れてもいいはずだから。


White lie -B part-



「ねえ、シンちゃ〜ん。ちょっと、はあ、待って。私、ちょびっと疲れちゃった」

「あ、ゴメン」

 そんな謝罪の言葉と共にシンジは立ち止まり、やや後方を歩くレイの方を振りかえる。
特に早足で歩いているというわけでもないのだが、エスコートすべき少女にとってはその
ペースについていくのも辛そうな様子だった。遊園地に入った直後は常にシンジの前を歩
き、どこに行くにもパートナーをリードするような素振りのレイだったが、様々なアトラ
クションを回り、時刻が正午をまわる頃には、その立場は完全に逆転していたのである。

「レイちゃん、大丈夫?」

「ん〜、なんとか。ふ〜。でも結構歩いたからさ、少しバテちゃった……」

「レイちゃんて、あんまり体力ないんだね」

「ん? そうかな?」

「うん、さっきお昼を食べてる時にも思ったんだけどさ。レイちゃんはもうちょっとご飯
食べたほうがいいんじゃないかな。ちょっと細過ぎだと思うよ。僕等の年でダイエットと
かはまだ早いと思うけどな」

「う……。でも女の子に太れっていうのは禁句だよぉ」

「でも食べ過ぎないのも問題あるよ。父さんと母さんもよくそう言うんだ。僕たちは成長
期だからさ、今はしっかりご飯を食べて体を作らなきゃいけないんだって」

 本人にそうした意識はないのだが、やや説教くさくなるシンジ。それに対しレイは何度
か目を瞬かせると、トレードマークとなりつつあるいたずらっぽい笑みを浮かべ、コート
越しに自分の胸の辺りをさするような仕草を見せる。

「ふ〜ん、そっか。じゃあご飯をしっかり食べれば、少しは私の胸も大きくなるのかなあ」

「な! そ、そんなの分からないよ」

「ふふ。シンちゃんったら照れない、照れない。……ところでシンちゃんはさぁ、やっぱ
し胸の大きい子の方が好きなわけ?」

「そ、そんなこと、僕は、別に……」

「でも、好みとかあるでしょう?」

「べ、別に、僕は……。む、胸の大きさとかそういうのは気にしないから……」

「あ、そうなの? それじゃあ、私もシンちゃんの彼女としては脈ありってとこかな〜?
ふふふ」

「そ、そんなこと……」

 からかわれているだけだと分かってはいるのだが、ついついレイの胸元に目が言ってし
まうシンジ。レイが着る赤いダッフルコート越しにはその大きさなど分かるはずもないの
だが、無意識に視線がそこに吸い込まれていくのは悲しい男の性か。そんなシンジの様子
に敏感に気付いたレイは、腕を交差させるようにしてわざとらしく胸の辺りを隠すような
仕草をする。

「あ、やだ〜、今の、シンちゃんの……視線……ちょっと……ぅ……いや……らし……」

 からかい混じりの抗議の声をあげようとするレイだったが、途中で言葉が途切れ、緊張
した表情で自分の胸を押さえ始める。

「レイちゃん? どうしたの?」

「え? あ……ごめんね……。ちょっと……息が、切れちゃって……。大したこと……な
いから……」

「だ、大丈夫? どこか温かいところに入って休もうか?」

「あ、ううん……大丈……夫。……うん、大丈夫……だからさ。……え、えへへ、それに
してもシンちゃん、優し〜ね〜。しかも、さりげなく女の子をお茶に誘ったりしちゃって
さ。なっかなかプレイボーイだねえ。やっぱし、いっつもそういうことしてるわけ?」

「もう、すぐそうやって……。そんなことよりさ、遠慮してないでどこかで休もうよ」

「あ、えへへ、そだね。折角シンちゃんが誘ってくれたんだから、どこかで休憩しようか」

「うん、ちょっと待ってね。え〜と、どこかに休めるところは……」

 どこか喫茶店にでも入って温かいものを飲むのがいいだろうとシンジは辺りを見まわす
が、特にそうした店は見当たらない。入場のときにもらった案内用のパンフレットを開い
て確認してみると、そうした場所はシンジたちのいる位置からはかなり離れたところにし
かないことが判明する。

「う〜ん、困ったなあ。とりあえずその辺のベンチに腰掛けて休もうか?」

「そうだねえ。……あ、ねえ、シンちゃん、あれ見て、あれ」

 喫茶店以外に何か休憩所はないかとパンフレットに視線を左右させるシンジに対し、レ
イが指差したのは、おとぎ話に出てくる小人の家のような、メルヘンチックな外装をした
小さな写真館だった。

「ね、シンちゃん、折角だからさ、二人で写真撮ろうよ、写真」

「写真? でも、レイちゃん休まなくて大丈夫なの?」

「うん、大丈夫、大丈夫。きっと中には他にお客さんがいるんだろうし、待ち時間がいい
休憩になるよ。だからさ、行こう。ね?」

 そう言ってシンジの腕を取ると、引っ張るようにして写真館へ向かうレイ。

 中に入ると、予想した通り、店は様々な年齢層の客で込み合っており、受け付けカウン
ターには“ただいまの待ち時間 約20分”という札が置いてある。言った通りでしょ?
と言いたげな視線をシンジに送ると、待ち札を受け取り二人は待合室の椅子に腰掛けた。

「ふい〜。ちょっと一息ついたねえ」

「うん、でも本当に大丈夫?」

 まだ少し心配そうなシンジに対し、レイは招き猫のような仕草で手を振り、少年の不安
を打ち消そうとするかのような明るい声を張り上げる。

「大丈夫、大丈夫。たまにあるんだ〜。胸の動悸ってやつ? ちょっと落ち着いてればオ
ッケーだからさ。全然心配いらないよ」

「そう?」

「そうそう。あ、それともあれかな〜、今日はシンちゃんと一緒にいるから、そのせいで
余計胸がドキドキしちゃったのかもしれないねえ。ふふふ」

「もう、すぐそういうこと言うんだからなぁ……」

 少し拗ねたような口ぶりをして見せるシンジ。だが言葉とは裏腹に内心では、完全復活
したレイのからかいと、周りの雰囲気をパッと明るくする不思議な力を持った微笑みに、
どうやらこれは本当に大丈夫そうだと、ようやく心の緊張を緩めるのだった。

「えへへ。あ、それよりもさシンちゃん、カタログ見ようよ、カタログ。写真の背景はど
ういうのにしようか?」

「あ、うん、えっと……」

 そんなこんなで待ち時間はあっという間に過ぎ、自分たちの順番が回ってくる。撮影室
に入ると、付け髭だろうか、大仰な髭を蓄えドワーフの衣装を着こんだ恰幅のいい老人が、
やさしそうな瞳で二人を出迎えた。

「おやおや、これはまた可愛らしいカップルさんだねえ」

「あ、やっぱし私たちってカップルに見えますかぁ?」

「おや、違うのかね? それとも兄妹か何かだったかな?」

「えへへ〜。どうなんでしょうかねえ、シンちゃん?」

「そ、そんなこと僕に聞かれても……」

「ふあっはっは。やはりどう見てもカップルにしか見えないがなあ」

「えへへ。それよりも写真撮りましょうよ、写真。ちゃんと美人に撮って下さいね」

「おお、まかせておきなさい。お兄さんの方も男前に撮ってあげるからね」

「はあ……」

「あ、それじゃ背景はA−17でお願いしま〜す」

 先程待合室で決めた背景を指定し、二人でカメラの前に立つ。

「ねえシンちゃん、腕組もうよ、腕」

「え、ええ? 腕?」

 突然の申し出に、傍目からもハッキリと分かるくらい露骨に引いてしまうシンジ。別に
悪気があるわけではないし、レイと腕を組むのが嫌だというわけでもないのだが、そこは
それ、こうした状況に慣れていない純情無垢な少年にとって、レイの望みはいささか刺激
の強いものなのである。

「あ〜、何よ〜、その反応。ひょっとして嫌なの?」

「べ、別に、そういうわけじゃないけど……」

「そ、良かった」

 少し不満そうに口を尖らせていたレイだったが、少年からの言質を取ると、すかさず左
手でシンジの右腕を抱え、空いた方の手でVサインをする。その顔に楽しそうな笑顔が浮
かぶ一方で、右腕に巻きついている感触にどうしても戸惑いの隠せない少年が、やや固い
表情をしているのはご愛嬌というもの。

「ほい、それじゃあ撮るからね」

 そう声をかける老人の口元も、このどこか初々しいカップルの様子に影響されてか、自
然と緩んだものになるのだった。





「にへへ〜」

「ねえ、さっきから何にやけてるの?」

「んん〜? なんかさ、クリスマスにシンちゃんみたいな男の子と一緒に写真を撮れるな
んて、嬉しいなあって思ってさ」

 そう言って、先程撮った写真とそのネガの入った袋を大事そうに抱えるレイ。

「もう、そうやってまた僕のことからかってるんでしょ?」

「ありゃ、分かっちゃった?」

「うん。僕、何となくレイちゃんの考えることが分かってきた気がするよ」

「そっか〜。私もまだまだ修行が足りないねえ」

 そんなことを呟きつつ写真の袋をバッグに入れるレイの様子に、シンジは自分の中から
ある疑問が湧き上がってくるのを感じていた。綾波レイという少女に出会って以来、ずっ
と自分の中を漂いつづけていたその疑問。それは今まで見て見ぬふりをしていたものであ
り、考えるのは少し怖いことでもあるのだが、ふとした折に、少しやっかいなそいつはシ
ンジの心の深い海の中から、音を立てて浮かび上がってこようとするのだ。

(レイちゃんは、僕のことをどんな風に見ているんだろう……)

 きっと嫌われているわけではないだろう。レイのシンジに対する態度は一貫して友好的
なものだし、何より、もし嫌われているならこんな所に二人で来るはずなどない。だが何
かそれ以上のものは……? そこまで辿り着いて、シンジの思考は前進を止めてしまう。

 初めて会ってから、軽い言葉と共に思わせぶりなことを何度か言われていたが、それを
額面通りに受けとっていいものかどうかシンジには確信がない。さっきの写真館でカップ
ルかと聞かれたときも、レイは曖昧な返事しかしなかった。期待させるようなことを言っ
ているからといって、それを鵜呑みにしていいのだろうか。カップルかと言われて否定し
なかったということは、それを肯定するということなのだろうか。いや、そうではないだ
ろう。嫌いではないと好きの間の溝は、碇家におけるユイの影響力くらいに大きなものの
はずだ。

 だとすると結局は……?

(はあ、やっぱり、分からないよな……)

 内心でつく溜息。堂々巡りする思考と、出るはずもない結論。考えつづけても埒があか
ないので、シンジはそこで思考を止めてしまうことにした。結局のところ、その答えを導
き出すには本人に直接聞くしかないのだが、それが出来れば苦労はしないのである。

(そういうこと考えるのはやめにしよう。それに、今日は余計なこと考えないで楽しもう
って決めたじゃないか)

 自分はそれから逃げているだけなのかもしれない。でも、それはそれでいいのではない
だろうか。シンジはそう思った。そうして半ば無理矢理に自分の中で区切りを付けると、
自らの迷いと未練を断ち切るかのように声を張り上げる。

「ねえ、レイちゃん」

「ん? 何?」

「折角ここに来たんだからさ。ちょっと並ぶかもしれないけど、あれに乗ってみない?」

 そういってシンジが指差した方向からは、ちょうど絹を引き裂くような悲鳴と絶叫が聞
こえてくるところだった。

 自分の中のもやもやしたものを、絶叫することにより外に吐き出してしまおうとでもい
うのだろうか。シンジが話題にしたのは、その長さは日本で二番目、高低差に関しては日
本一という、このテーマパークの最大の売りの一つである巨大ジェットコースターである。

「……あ、ジェ、ジェットコースター……?」

 シンジの視線の向こうのものを見つめ、そんなことを呟くレイ。いつも元気いっぱいの
この少女にしては珍しく、その整った顔はややひきつり、元から白い肌は更に少し血色を
失ったように見えた。

「え、え〜と、私そういう心臓によくなさそうなのはちょっと……」

「ぷ。そっか、怖いんだね」

「あ、ああ〜、何よそれ〜。ち〜が〜い〜ま〜す〜」

 む〜、と頬を膨らませ、口を尖らせながら抗議の声をあげるレイ。だがそんな子供っぽ
い仕草も、今のシンジにしてみれば笑いの導火線に火をつけるものでしかない。

「あはは。じゃあ、いいじゃない、乗ろうよ。僕、ああいうの好きなんだ」

「う……。わ、私は、ああいうのは、えと、ダメなの……」

 少し怯えた様子で俯き、ゴニョゴニョと呟くレイ。そんな弱々しげな様子が不思議な可
愛らしさを醸し出し、それを見つめるシンジの顔には自然と微笑みが浮かぶ。

 二人が出会ってからずっと、からかうレイにからかわれるシンジという役回りは不動の
ものだったが、どうやら少年にも反撃のチャンスが訪れたようである。この、ある意味で
絶好の機会をシンジが両手で掴み取ろうとしたのは誰にも責められないだろう。

「ふふ。しょうがないなあ、やっぱり怖いんでしょ? 別にいいんだよ? 無理に隠さな
くてもさ」

「ち、違うもん! 
……私だって、本当はシンちゃんとああいうの乗ってみたいのに……

「え? 何か言った?」

「う、ううん! それよかさ、観覧車乗ろうよ、観覧車。それともシンちゃん、高いとこ
ろは苦手かなあ?」

 どうにか態勢を立てなおし、せめてもの反撃を試みるレイだったが、今回ばかりは分が
悪いようだ。シンジはクスクスと笑い出すと、少しすました様子でその攻撃を軽く受け流
す。

「まさか。怖くてジェットコースターに乗れないレイちゃんとは違うもんね」

「あ、ひっど〜い」

 笑いながらシンジの胸を小突くような仕草をするレイ。そんなレイに対し照れたような
笑みを浮かべながら逃げる振りをするシンジ。ぎこちなく始まった二人の関係だが、どう
やらそんなリラックスした雰囲気を生み出すほどには成熟してきたようである。シンジは
それが少し嬉しかった。

(そうだよ、こんな感じも悪くはないよね)

 共に観覧車の行列へと歩みだすレイを横目に見ながら、シンジは思う。

 そう、何も、焦る必要は全くない。今日を最後にレイと会えなくなるというわけでもな
いのだし、もしそれを望むのならば、これから少しずつでも絆を作り上げていけばいいで
はないか。その先に何があるのかは、シンジならずとも見通すことなど出来ないが、今日
という日は確かに未来への礎となりうるはずなのだから。





「うっわ〜、すごいねぇ、高いねえ。私、こんなに高い所にきたの初めて」

 乗りこんだ観覧車が最も高い地点に到達しようかというところで、レイが思わず感嘆の
声を上げた。

「この観覧車って、日本で一番大きいらしいよ」

 その向かいに腰掛けるシンジが、先程パンフレットから仕入れた知識を披露する。

「そうなんだぁ。でも、本当にすごいなあ、街が全部見渡せるもんねぇ。あ、ねえ、シン
ちゃんの家はどの辺?」

「え〜と、あっちの方かな」

「ふ〜ん、じゃあ、私たちはあの辺からここまで来たのかぁ」

「そうだね。レイちゃんの家はどの辺なの?」

 何気なくそんなことを口にして、すぐにシンジは少し後悔した。あまりレイのことは詮
索すまいと決めていたのに、つい気が緩んで無意識の内に尋ねてしまった自分。もしこれ
があまり嬉しくない問いだったら、答えにくいことだったらどうしよう。そんな不安が不
吉な色をした雲となり、心の地平線にその姿を表す。

「……あ……えっと、私は……あの辺かな。山の麓の辺り」

 シンジの問いにおずおずと指差し答えるレイ。幸運なことに、その地域はシンジにとっ
ても多少なりとも縁がある場所だったから、それを足がかりに少し話題を変えることがで
きそうだった。

「あ、あの辺かあ。実はさ、僕の父さんと母さんがあの辺で働いてるんだ」

「あ、そうなんだ……。そういえばシンちゃんの家は共働きなんだよね。だから家でも家
事をしてるんでしょ? やっぱり、結構お料理には自信あったりするの?」

「……えっと、自信っていうか。まあ、一通りのものは作れるけど」

「そっかあ、すごいねえ。私なんか料理はからっきしだからなあ。あ、それじゃあさ、今
度シンちゃんの手料理食べさせてくれる?」

「うん、僕は別に構わないけど……」

「ん、言ったね、約束したね。えへへ、それじゃ楽しみにしてるね」

「あ、うん、そうだね。父さんも母さんもレイちゃんのことは気にいっているみたいだし、
今度家に遊びにくるのもいいかもね。もしそうなったら、僕も歓迎するからさ」

 うまく切り替わった話題にホッとしつつ、笑顔と共にシンジは答えたのだが、その言葉
を受けてレイの顔に浮かんだ表情は、単純に少年の好意を感謝する種類のそれではなかっ
た。

「うん、ありがとう……。そうだね……いつか、きっと行くから……」

 やや途切れがちにそう呟くレイは確かに微笑んでいるのだが、その紅い瞳はどこか寂し
げで、その奥に揺らめく光は少女の心の奥深くに存在する抑えきれない不安を象徴してい
るかのようだった。

 シンジの座るところからは、手を伸ばせばすぐに触れることのできるはずの少女。だが、
その魂はここではないどこか遠い場所を彷徨い、その瞳には、シンジが見ているのとは少
し違った光景が映し出されているのかもしれない。

 今その心を満たしているものは何なのか、神ならぬ身のシンジに分かるはずもなく、彼
もまた、そんなレイの様子に何か漠然とした不安のようなものを感じるのだった。





 なんとなく途切れてしまった会話の後、結局二人はそれ以上何も話をすることなく観覧
車を降りてしまう。そのせいで、チラチラと相手を横目で伺うようなどこか不自然な空気
が漂いかけたのだが、シンジにとっては幸運なことに、それからはレイも物憂げな表情を
見せることはなかった。逆に、少し暗くなってしまった雰囲気を吹き飛ばすかのような元
気さで、それまで以上に今日という時間を楽しみ始めたのである。

 反乱軍の戦闘艇に乗りこみ悪の帝国艦隊と戦う、といった設定の、非常にベタな、それ
でいてハイクオリティなシューティングゲームに挑む二人。二人一組になって宇宙船を模
したボックスに乗り込み、バーチャルリアティ上の世界で敵を撃墜していくのだが、そう
したゲームは初めてだというにもかかわらず、抜群の反射神経で撃墜王の称号を手にした
のはレイの方だった。“シンちゃん援護よろしくね〜”と言われたからでもないだろうが、
シンジときたら、次々と敵を墜としていくレイの後ろをふらふらと頼りなく飛んでいくば
かりで、時折レイの射程距離から逃れてきた敵機を倒すだけ。これではどちらがナイトで
どちらがプリンセスなのか全く分からない。おかげでシンジは、その日のハイスコアを記
録したレイに散々からかわれる羽目になってしまうのだった。
 
 それからも、コーヒーカップに乗ってはしゃぎすぎたレイが回転を急なものにしすぎた
ため、降りた後で二人揃って気分を悪くしてしまったり。お化け屋敷に行くのを渋るレイ
をシンジがここぞとばかりにからかってしまい、拗ねてしまったレイを宥めるのに冷や汗
をかいていると、実は演技をしていただけのレイが計算し尽くされたタイミングで反撃を
開始するということもあった。

 その日出会ったばかりのシンジとレイだったが、同じ場所で同じ時間を過ごすにつれて、
まるでずっと昔からお互いを知っていたかのような自然な雰囲気が、二人の間に徐々に生
まれてきたのである。

 だが、どんなことにも始めがあれば終わりがあり、その中でも特に、楽しい時間という
のは終わりが来るのが早く感じられるものだ。

 笑顔溢れる幸せな時間を過ごしたその場所。しかし、そこを離れなければならない瞬間
はゆっくりと、だが確実に迫りつつあったのである。

「はあ……はあ……。ねえシンちゃ〜ん。歩くの速いよ〜」

「あ、ゴ、ゴメン」

「も〜う。一緒に歩く女の子に歩調を合わせるのは、男の子として常識だよ〜」

「うん、ゴメン……」

 そろそろ夕暮れが訪れようという時間帯。シンジたちがテーマパークにやってきてかな
りの時間が経過していた。それは言いかえれば、レイと共にいられる時間も残り少なくな
ってきているということでもある。だが、シンジとしてはまだこの夢のような時間から抜
け出したくなかったし、レイと一緒に行ってみたいアトラクションも、まだまだたくさん
ある。そんな思いが焦りとなり、無意識のうちにシンジの歩みを速めていたのだった。

「あの、じゃあさ、ちょっとその辺で休憩しようよ」

 ふと目に入ったベンチを指差し、シンジがそんなことを申し出る。レイをその場に座ら
せると、せめてもの罪滅ぼしをするかのように、駆け足ですぐ近くにあった売店に向かい
温かい飲み物を二人分買いこむ。

「お待たせ、レイちゃん。はい、これ」

 そう言って、戻ってきたシンジがレイに差し出したのは、白い湯気と甘い香りを紙コッ
プの中から発しているココアだった。礼を言うレイに、熱いから気をつけて、と声をかけ
た後、シンジもベンチに腰を下ろし一息つく。

「ふぅ、なんか段々寒くなってきたね……」

「そだねぇ……」

 シンジにはそうした意図はないのだろうが、穿った見方をすれば、寒くなってきた、と
いう言葉は、二人に残された時間が少なくなってきたということを暗に示唆しているよう
にも取れる。それを感じとったのかどうか、紙コップを両手で口に運ぶレイの表情も、ど
こかそれまでの輝きを失っているように見えるのだった。

 会話の空白。そしてチクチクと痛い沈黙が二人のいる空間を包み込み、辺りの喧騒も自
分たちとは関係のないどこか別の世界のことのような、そんな錯覚を覚え始める。レイは
何となく横目でシンジの様子を伺い、その視線を意識するシンジは、どうしていいのか分
からず熱いココアをチビチビと喉に流しこむ。

 そんな、相手が自分のことを意識しているのを意識しないふりをする、というのは何と
も居心地が悪いものである。そのまま何の会話もなく数分の時間が経過したころ、さすが
にそんな雰囲気を嫌ったのか、あるいは何か話すことを見つけたのか、シンジの口が何度
か開閉される。しかし決心がつかないのか、何かきっかけを探すようにレイの方をチラチ
ラ伺っていると、先に口を開いたのはレイの方だった。

「……ねえ、シンちゃん」

「……あ、な、何?」

「シンちゃんってさ、今まで女の子と付き合ったことある?」

「……な、何でそんなこと聞くの?」

「ん? なんかさあ、さっきの様子なんかみてると、ちょっと不器用だなあって思ってさ」

「ゴ、ゴメン……」

「ううん、別に責めてるんじゃないんだよ。そうじゃなくてさ、そういうところ見てると
単純に、シンちゃんって今まで女の子とデートとかしたことないのかなあ、って思ってさ」

「べ、別にいいじゃない、そんな話は……」

「あ、誤魔化すってことは、やっぱしそういう経験ないってことかな?」

「わ、悪かったね、どうせ僕は女の子に持てないよ」

「あ、それって僻み?」

「べ、別に何だっていいじゃないか」

「でもシンちゃんは結構かっこいい顔してるし、それに優しいしさぁ。そんな男の子を好
きになる女の子は絶対どこかにいると思うけどな……」

 白い息を吐き出しながら、どこか遠い目をするレイ。そしてその言葉に少し複雑な気持
ちになるシンジ。まるで他人事のようなその物言いから判断すると、やはり目の前の少女
にとって自分はそうした対象外なのだろうか。紙コップを口に運ぶレイを横目で見るシン
ジの中では、抑えつけていたはずのあの疑問が再び鎌首をもたげ始める。

「そ、そっかな……」

「うん、私はそう思うよ……」

「あの、ありがと……」

「……や、やだなあ、シンちゃんったら。そんなにしおらしくなっちゃって。大丈夫だっ
て。シンちゃんならきっと素敵な彼女ができるって」

「はは、そうだといいけどね……」

「うん、きっと大丈夫だよ……。シンちゃんのよさを分かる人は絶対いるはずだから……。
私ね、シンちゃんの横を歩ける女の子はすっごく幸せだと思うな……」

 しみじみとそう呟くレイの横顔は、どこか憂いを帯びており、それが吐き出す白い息に
包まれて少し幻想的な雰囲気を漂わせていたので、シンジは思わずその顔を見つめてしま
った。

(綺麗、だよな……)

 明るい笑顔を浮かべるレイも当然魅力的ではあるが、時折見せるこうした一面もまた、
綾波レイという少女の素顔なのだろう。

「ん? シンちゃん、どしたの?」

「あ、い、いや、何でもないんだ」

「んん〜? なんかさ〜、今私に見惚れてなかった〜?」

「べ、別にそんなことないよ……」

「嘘だ。今絶対に私のこと見てた。嫌だなあ、もう。私ったら、シンちゃんに惚れられち
ゃったかなあ。まいったなあ、どうしよう」

 妙に鋭い勘でそう断定すると、次の瞬間てへへと照れたような笑みを浮かべるレイ。さ
らに、少しわざとらしい仕草で頬を両手で包み、いやいやをするようにその身を捩る。そ
んな様子はひどく愛らしいのだが、その口から発せられている言葉はかなり核心を突いた
ものであり、それだけにシンジを激しくうろたえさせるのだった。

「な、べ、別に惚れたとか、そんなんじゃないって」

「まったまたぁ。シンちゃんったら照れちゃってさぁ」

「ホ、ホントだって。信じてよ」

「……あり、違うの?」

「違う、違う、絶対違うよ! そんなことあるわけないじゃない!」

 これもまた女の子の扱いに慣れていない悲しさか。内心では全く別の気持ちがあるにも
かかわらず、図星をさされたのが照れくさいから、ついムキになって否定してしまうシン
ジ。すると、きょとんとしてシンジを見つめていたレイは、まるで、空気が抜けあっとい
う間に萎んでいく風船のように、急激に元気をなくしシュンとしてしまう。 

「……そんなに……強く否定しなくてもいいのに……」

「あ……。ゴ、ゴメン」

 今日ずっとそうだったように、レイは何か明るい冗談で切り返してくるだろう。そんな
期待がどこかにあったから、沈み込むレイの様子に気付いたシンジの狼狽は激しかった。
確かに自分が言ったこととはいえ、本心とは全く反対の言葉で相手を傷つけてしまったら、
きっと悔やんでも悔やみきれない。とにかく謝らなければと、その顔を覗き込もうとする
のだが、拗ねたようにプイっとそっぽを向いてしまうレイ。

「あ、あ、レイちゃん、ゴメン……。あの、怒った?」

「ひどいよ、シンちゃん……。私だって、女の子なんだからさ。そんなこと言われると傷
ついちゃうよ……」

「……ゴメン、ホントにゴメン。あの、僕あんまりこういうのって慣れてないから、それ
で、つい、その……」

「……」

「あ、あの、本当にゴメン。でもあれは、別に本心じゃなくて。その、確かにレイちゃん
の方は見てたんだけど。でも、なんとなく視線がさ、その、勝手にそっちの方に行っちゃ
うっていうか……。だって、レイちゃんは、すごく、何ていうかな、あの、綺麗、だと、
思ったから、その、つい、ジッと見ちゃったていうか。あの、ホントに。べ、別に変な意
味じゃなくて、えと、客観的、そう、客観的に見てそうだなっていうわけで……」

 その口から発せられる言葉は支離滅裂なことこの上ないのだが、第三者から見ればそれ
はもう涙ぐましいくらい必死になって弁解をする。その中には普段のシンジなら絶対に言
わないようなことも混じっているのだが、それに気付いていない事実こそ、少年の激しい
狼狽振りを雄弁に示しているといえよう。

 だが、そんな必死の努力も虚しく、シンジはレイの肩がプルプルと震えているのに気が
ついた。

(……あ、な、泣かせちゃった?)

 最悪のシナリオがその脳裏に描かれ、ここまでどうにかうまくやってきた一日の積み重
ねが、音を立てて崩壊していく感覚を覚えるシンジ。

「……あ……レ、レイちゃん……僕……」

 そのシンジの言葉に反応しゆっくりと振り向くレイは、顔を真っ赤にしていた。

「……ぷ、あはははは。シンちゃんったら面白いんだからあ、もう」

「……お、面白い?」

「もう、ほんの冗談だったのにさぁ、そんな風に真面目な返事なんかしちゃって〜。シン
ちゃんのそういうところって、ホント可愛いよねえ」

「じょ、冗談?」

「そうだよ〜」

「そんな、ひ、ひどいよ」

「ゴメンね〜。シンちゃんの様子を見てたら、つい私も悪ノリしちゃってさ」

「悪ノりって……。何だよ、それ、あんまりだよ……」

 突然ケラケラと笑いだしたレイの様子に、シンジが少し恨めしい気持ちになってしまっ
たのも、仕方のないことだろう。

(僕は僕なりに、ほ、本心を言ったっていうのに、それはないよ……)

 冷静になって考えれば、自分の言ったことはかなりの赤面モノなのだが、その内容は決
して嘘ではない。いや、それどころか、心から感じていることを無意識にではあるが素直
に口にしたのである。それをこうも軽く流されてしまっては、シンジならずとも重い気分
になってしまうというものだ。

 そんなシンジの内心を知ってか知らずか、笑顔を浮かべたままレイが続ける。

「でも、そっかあ。シンちゃんは私のこと綺麗だって思ってるんだ……」

「きゃ、客観的に見て……ってことだよ」

「えへへ、でもそれって同じことだよ」

「……う」

 レイのツッコミに効果的な反論が思い浮かばず、また照れ隠しの意味もあって、紙コッ
プの中に残っていたものを一気に喉に流し込む。そんなシンジを横目で見つめると、追い
討ちをかけるかのように、レイはさらっとした口調でとんでもないことを尋ねた。

「……ねえ、シンちゃんはさぁ、キスしたことある?」

「ぶはっ!」

 それはまるで、教室で仲の良い友達に昨日の宿題をやってきたか尋ねるかのような、そ
んな口調だった。それ故、一瞬その言葉の意味を理解し損ねるシンジ。だが、自分が予想
もしていなかった不意打ちを受けていることに気付くのと、胃へと続く道を伝い落ちかけ
ていたココアが、自然の流れに逆らい逆流してくるのは同時だった。当然の結果として激
しくむせこむシンジだが、そんな様子をいたずらっぽい目で眺めるばかりのレイ。

「な、ごほ、何言いだすんだよ、突然!」

「あるの? ないの?」

「そ、そんなこと……どうでもいいじゃないか」

「あ、ないんだ〜?」

「や、ぼ、僕は……けほ……」

「そっかぁ、シンちゃんは女の子と付き合ったこともないんだもんね。キスしたことなん
てあるはずないよねぇ」

「べ、別にいいじゃないか。キスなんかしなくたって生きていけるよ」

「まあねぇ、そうだけどねぇ」

「そうさ……」

 会話に間を作り出し、自分にとって形成不利な話題からどうにか逃れようと、取り出し
たハンカチで口元を拭い始めるシンジ。その結果として二人の間には沈黙が漂い、シンジ
の狙いは達成されたかに見えたのだが……。少年の考えは甘かった。むしろ、状況の深刻
さは益々エスカレートしていたのである。

「……じゃあさ…………キス、してみる?」

「はぁ!?」

「……キ、キスしてみる……って言ったの……」

「な、な、何言ってるんだよ!」

「私とじゃ、嫌……?」

「い、嫌とか、そういうことじゃなくて……」

「じゃ、してみない、キス? クリスマスの日に女の子とキスするのは嫌? 別にお母さ
んは見てないよ」

 そういって少し姿勢を変えるとシンジの方に向き直り、ジッとその顔を見つめるレイ。

 その紅い瞳をそんな至近距離から、しかも真正面から見るのは初めてのことだった。初
めて会った時のそれに似た、少し不安げな瞳。そして、それが寒さのためなのかそれ以外
の理由からなのかシンジには分からなかったが、その頬はやや上気しているようにも見え
る。

「いや、ぼ、僕は……」

「……僕は?」

「……僕は……その……」

「……」

「……」

「……」

「……そ、そうか、分かった!」

「……え?」

「こ、これも冗談なんでしょ?」

「……冗談?」

「そ、そうだよ。そんなこと言ってさ、僕の事からかってるんでしょ? また僕がうろた
えるだろうってさ」

「…………あ、や、やっぱし分かっちゃった?」

「どうせ、そんなことだろうと思ったんだよ……」

 それが安堵からきたものなのかそれ以外の感情からなのかは定かではないが、大きな溜
息をつくシンジ。緊張しきっていた心の糸がプツンと切れてしまったのか、疲れきったか
のようにガックリと肩を落とすその様子は些か哀れでもある。

「……はあぁ」

「あ、あの、シンちゃん?」

「……」

「シ、シンちゃ〜ん? もしも〜し?」

「……レイちゃん」

「は、はい……」

 シンジのやや低い声に思わず襟を正してしまうレイ。

「ねえ、レイちゃん。女の子がそんなに簡単にキスしようとか、そんなこと言っちゃダメ
だよ。これが僕だからいいようなものの、相手が本当にその気になっちゃったらどうする
んだよ」

「う、うん……」

「どうしてそんなこと言うんだよ。もっと自分を大事にしなきゃだめだよ」

 やや責めるようなシンジの口調に、少しシュンとしてしまうレイだったが、その口が少
し不満そうに尖らされる。

「……だってさ……」

「え?」

 本来それを口にする意図はなかったのに、つい無意識の内にそれを漏らしてしまったの
だろうか。きょとんと自分の方を見つめているシンジに気付き、“しまった”という表情
を浮かべ、軽く眉を顰めるレイ。

「だって……何?」

「……」

「……レイちゃん?」

 度重なるシンジの問いかけにも、その胸の内にあるものを吐き出してもいいものかどう
か、レイは迷っているように見えた。相変わらず眉根を寄せたまま俯くその表情に、観覧
車のときと同じ、言いようもない不安を感じたシンジは、ほんの少しレイの方に身体を寄
せると、再び問いかける。

「レイちゃん、どうしたの? 何か言いたいことがあるんじゃないの?」

「……」

「ねえ、レイちゃん。お願い、話してよ。一体どうしたの?」

「……」

「……」

「……」

「……」

 シンジの必死の呼びかけにも、俯き考え込むレイ。決して短くない沈黙がその空間を支
配した後、ついに、レイがポツリと呟いた。

「…………私、あまり時間がないかもしれないから……」

「時間がない……?」

「……」

「……」

「あの、ね……」

「うん……」

「…………私…………病気なんだ……」

「……え?」

「ちょっと、難しい病気でね。来年手術を受けることになってるんだけど、でも、それが
成功するっていう保証はどこにもないの。逆に、それが命に関わることもありうるらしく
て……。だから、私、ひょっとしたらそんなに長くないかもしれないの。来年のクリスマ
スもこうして過ごせる保証なんて全然ないの……」

「そんな……」

「だから、今日は何か素敵な思い出が作れればなって……」

「レイちゃん……嘘でしょ……」

 そうであってほしいという願いの込められたシンジの呟きにも、レイは力なく微笑むだ
けだった。観覧車に乗ったときを除いては、一度も見ることのなかった微笑み。だが、何
故だかシンジは、その微笑みこそが、レイの素直な感情から生まれた本当の微笑みなので
はないかと感じた。

「……ゴメンね。だからって、いきなりキスとかそんなこと言われても困っちゃうよね。
気を悪くしちゃったらゴメン。……今日はさ、それ以外にもいろいろとシンちゃんに迷惑
かけちゃったよね。……でも、私、こうやってクリスマスの一日をシンちゃんと過ごせて
いるってことが、すごく嬉しくて……」

「レイちゃん……」

「将来何があっても、きっと、忘れないと思う……」

 今日二人で過ごした夢のような時間を思い返しているのか、その紅い目が優しそうに細
められる。そんなレイの様子に、シンジの内からは、一度は抑えつけたはずの感情が急速
な勢いと共に再びこみ上げつつあった。

(ああ、やっぱり……)

 自分はこの娘のことが好きだ。切なげに虚空を見つめるレイの横顔を見つめると、その
想いが今までにないくらいの強い波動と共に、自らの中から浮かび上がってくるのをシン
ジは感じていた。

 初めて出会った時のあの衝撃はまだ自分の中で鮮明に残っているし、綾波レイという少
女に恋に落ちた瞬間を挙げろ、と言われたなら、きっとあの時がそうだと答えるだろう。
だが今は、あの時以上に目の前の少女に惹かれている。シンジはそれをはっきりと意識し
ていたのである。

 周りの雰囲気まで明るくしてしまうその性格、屈託のない笑顔、拗ねる様子、邪気のな
いからかい、そして、ふとした折に見せる不安げで弱々しそうな一面。そういえば始めて
その姿をみたときもそうだったではないか。そんなレイはひどく心細げで、守ってあげた
い、包み込んであげたいという気持ちにさせられる。

 たった半日という短い時間だが、少女のそうした様々な側面に見るにつれ、シンジはま
るで、あてもなく野原を彷徨っていた蝶が甘い香りを発する美しい花に吸い寄せられるか
のように、レイという存在が放つ魅力に強く惹きこまれていたのである。

 レイの告白はシンジにとってひどく衝撃的なものだったが、それは少年の中で今まで感
じたことのない強い思いを生み出すきっかけでもあった。もしレイが難しい病気だという
のなら、近い将来、そしてこれから過ごす時間にも、きっと命を賭けた辛い戦いが待って
いるのだろう。それならば、自分はその支えに少しでもなれないだろうか。

 シンジの中で、ある強い決意が生まれようとしていた。

「そんな、そんなこと言わないでよ……」

「……え?」

「思い出なんかには……したくないよ……」

「……?」

「僕……僕は……」

「……シン……ちゃん?」

「僕は、レイちゃんのこと……」

 レイに向き合い、その紅い瞳を正面からしっかりと見据える。自らの中に、何かカッと
熱く迸るものがある。シンジにとってはとても大事なその想いを、今まで生きてきた中で
一番勇気のいる言葉にして目の前の少女に伝えようとしたその直前、レイの表情に微かな
怯えの色が走る。だがそれは一瞬にして消えると、意志の力で無理に浮かべられたかのよ
うな笑顔がそれに取って代わり、レイはその表情と共に口を開いた。

「な、な〜んちってね」

「…………え?」

「あの、ひょっとして、今の信じた?」

「……信じたって。……どういう……こと?」

「い、嫌だなあ、シンちゃんったら。冗談よ、冗談。こ〜んなに元気印いっぱいの私がさ、
重い病気にかかっているなんて、そんなわけないじゃん。だからさ、そんな悲しい顔しな
いでよ」

「……冗談?」

「そ、そうよ、冗談。だってシンちゃんたらさ、会ったときからずっと、面白いくらいに
私の冗談に反応してくれるんだもん。ついつい私も調子に乗っちゃってさ。ちょっと出血
大サービスしてみちゃいました。……あ、でもさ、私の演技も中々のもんでしょ? 将来
は女優なんかいいと思わない? あはは」

 ニコニコしながらシンジの肩をポンポンと叩くレイ。あまりにも劇的に変化したその様
子にやや茫然としていたシンジだったが、段々と状況が飲みこめてくるに連れ、その心の
奥底から何か暗くて冷たいものが沸き起こり、自分の中で迸っていた熱いものを一気に押
し流していく感覚を覚えた。

(……なん……だよ……それ……)

 自分の心からの想いを、その無垢で残酷な笑顔に踏みにじられたような気がした。結局、
自分がどれだけ彼女のことを想っても、その想いがレイに届くことなどありえない。なぜ
なら目の前の少女は自分のことなど歯牙にもかけていやしないのだから。それを、これ以
上ないくらいの明らかな形で目の前に付きつけられたようなものだった。

(……そうか、僕は……)

 自分は相手にとってはただのからかい相手、ストレス発散のための道具。もともとそう
した対象としては見てもらえていなかったのだろう。だからこんな風に、軽い言葉で相手
が傷つくようなことも言えるのだ。

 結局、自分は体よく遊ばれていただけなのだ。なのにそれに気付かない、或いは気付き
たくなかった自分ときたら、身の程に余る大それた期待などを持ち、挙句の果てには自分
の想いを告白しようとまでしていたのだ。

(ピエロじゃないか……)

 目の前ではまだレイがいたずらっぽい笑みを浮かべている。普段なら可愛らしいと感じ
ることのできたであろうその表情も、今のシンジにとっては、自分の哀れさ、愚かさを嘲
るようなものにしか見えない。

 だから、次の言葉も自然と出てきた。

「……いいかげんに……してよ……」

「ほえ?」

「……いいかげんにしてって……言ってるんだよ……」

 クシャリと音を立て、シンジの手の中で紙コップがひしゃげた。もう片方の拳も、白と
赤のコントラストがはっきりと浮き出るくらいに固く握り締める。押し殺すような低いト
ーン、しかしその裏には沸騰する激情が見え隠れするシンジの声色。今日初めて聞く種の
声に驚いたレイが、少し慌てた様子でシンジの表情を伺う。

「あ、あれ? シンちゃん?」

「……そんなに……人のことからかうのは楽しい? ……そんなに……僕の様子を見てい
るのは面白い?」

「……あ、シンちゃん、あの……」

「シンちゃんなんて、やめてよ!」

「っ!!」

「なんで、そんなこと言うんだよ。なんで、そういうことを冗談にするんだよ。そういう
の、最低だよ……」

 怒り、悔恨、そして悲しみが入り混じり、固く緊張したシンジの表情は、次の瞬間ふっ
と緩むと、ひどく自嘲的で寂しげな笑みへと変わっていく。

「でも、それも当たり前か……。そうだよね、レイちゃんにしてみれば、所詮僕なんて今
日初めて会ったばかりの他人だもんね。どうでもいいよね。知ったこっちゃないよね。何
を言ったって構わないよね」

「……ち、ちが……」

 朝、レイが自分に向けた言葉を使うシンジ。自分たちの間に、何か取り返しのつかない
大きな亀裂が発生しつつあることに気が付いたレイは、その溝を必死で埋めようと、シン
ジの手に自分のそれを添えようとする。だが、少年は無言でその手を引っ込めると静かに
立ちあがった。

「そうさ、別に僕じゃなくてもいいんだよね……。今日という日を楽しく過ごせるなら、
別に誰でも良かったんだよね……。バカだよね……そんなことにも気付かなかったんだか
ら。……でも……でも……僕はさ……」

 唇を噛みしめ、その先の言葉を必死になって飲みこむシンジ。その頬は紅潮し、目尻に
は潤んだものが急速に集まりつつあった。

「……もう……いい……。もう……たくさん……だよ……」

「……ぁ……い、碇君、ごめんなさい。あの……私……」

 慌てて立ちあがり謝罪の言葉を続けようとするレイだったが、シンジがその言葉を遮る。

「……そうやって」

「え?」

「そうやって、謝るふりをして。僕が何か言ったら、またひっかかったって笑うんだろ?
でも、残念だったね。もうその手には乗らないよ」

「……ち、違う。私……」

「もう……いいんだ……。でも、一つだけ言っておくけどさ。君がそうやって他人のこと
を笑いものにして、その気持ちを踏みにじり続ける限り、きっと誰も、君なんかとクリス
マスを一緒に過ごしたいとは感じないと思うよ……」

「……いかり……く……」

「じゃ、さよなら。……綾波さん」

「……ぁ」

 ひどく悲しげな笑顔をレイに向けると、それっきり振り向きもせずその場を立ち去るシ
ンジ。たまらなく惨めだった。美しい光を発する希少な宝石よりもずっと大事なものに思
えた自分の想いは、相手にとっては安物のガラス玉ほどの価値もなかったのだ。

(本当にバカだよ、僕は……)

 目尻から零れ落ちようとするものを止められるほどには、シンジの意志は強くなかった。
だから遊園地の外れの、あまり人が来ないようなベンチの一角でうずくまり、他人に気付
かれないように声を押し殺して、シンジはひとしきり泣いた。

「……う……うっく……うぅ……」

 その頭上には、青空を覆い隠すようにしていつのまにか立ち込め始めた灰色の雲。その
光景は、まるでその日の少年の心の移り変わりを象徴するかのようだった。






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