空間を満たしていた太陽の光が退場を始め、夜の支配者たる闇への勢力交代が始まって
いた。既に薄暗くなり始めたテーマパーク内には照明が灯り、ライトアップされた観覧車
が、様々な色が散りばめられた巨大な円を空中に作りだし、見る者の目を楽しませる。

 人工の光。それはある意味では、闇を恐れる人が作り出した臆病な光とも言えるだろう。
だがその光は、辺りを覆わんとする暗闇を人々の視界から追い払うことは出来ても、悲し
みに引き裂かれた少年の心の闇を照らすことは出来ないのである。

 どれくらい泣いていたのか、時間の感覚も目尻から零れるものもなくなってしまった頃、
少年のポケットに入っていた携帯電話から、今となってはひどく場違いな、あるクリスマ
スソングのメロディーが流れ出した。

 とても電話に出る気分などではない。かといってこの曲は、今の自分にとって流れるま
まにしておくには辛すぎる。何もしたくないという虚脱感の中、マナーモードに切り替え
るためにのろのろと携帯を取り出したとき、ふとスクリーン上に表示された発信者の名前
が目に入った。

「……」

 少し迷ったが、軽く鼻をすすり、泣いていたのを悟られないように声が普通に戻るのを
待ってから、シンジは着信ボタンを押した。

『あ、シンちゃん? 母さんだけど』

「……うん……何か用?」

『あら、何か用、とはご挨拶ねえ。……あ、そっか。デートのお邪魔しちゃったから、シ
ンちゃんったらご機嫌ななめなのかしらぁ? ひょっとしていいところだった?』

「……何だよ、デートって。やめてよ、そういうの……」

『あらあ、だってクリスマスの日にとびっきり可愛い女の子と二人っきりで時間を過ごす
のだもの。これをデートと呼ばないなら、日本中の国語辞典は回収訂正の要ありよ。まあ
ねえ、母さんもちょっと野暮かなと思ったんだけどね、二人の様子が気になってねぇ』

 電話越しに聞く母親の明るい声に、シンジは、ささくれだっていた自分の心も少しだけ
ほぐれてきたような気がした。そう、あの子のことは忘れて、また前の生活に戻っていけ
ばいい。きっと今なら忘れられるはずだから。

『レイちゃんは? 今隣にいるんでしょう? よかったら夕食を一緒にどうかと思ったん
だけど、ちょっと代わってくれないかしら?』

 それが母だと気付いて以来、いつかは尋ねられるであろうと内心で予測していた言葉。
どう答えたらいいのかなんて分からない。ただシンジにできたのは、少し間を置き、でき
る限り平静を装って、その事実を簡潔にユイに告げることだけだった。

「……いないよ」

『……え?』

「……あの子となら、もう別れた……」

『……別れた……って。……ちょっとシンジ、何かあったの?』

「……何か、っていうか。……あの子、ずっと僕のことからかいっぱなしでさ。自分はも
う長く生きられないかもしれないとか、そういう、人の気持ちを弄ぶようなことばっかり
言うんだ……」

『……レイちゃんが、そんなことを言ったの?』

「うん……。でも、冗談なんだってさ。……結局、あの子は僕をからかって楽しんでただ
けなんだよね。きっとあの子はさ、他にクリスマスを過ごしたい人がいたんだよ。でもそ
れがダメになって、僕はその代わりなんだ。ただの憂さ晴らしの相手なんだよ。なんかさ、
そういうのってちょっと辛いから……」

『……』

「ゴメン、今回のことは父さんや母さんに頼まれたことだけどさ。僕は、もう降りるよ。
これから家に戻るから。じゃ、あとでね……」

『……待ちなさい、シンジ』

 突然変わったユイの声の調子に、電話を切ろうとしたシンジの指の動きが思わず止まり、
背筋が軽く震える。そんな母の声は、息子であるシンジですら滅多に聞くことがない質の
ものだった。

「な、何、どうしたんだよ、母さん」

『シンジ。今すぐ、レイちゃんのところに戻ってあげて』

「な、何だよ。嫌だよ。どうして僕がそんなこと……」

 更に拒絶の言葉を続けようとしたのをユイが遮る。

『あの子の言ったことは本当よ』

「……え?」

『……あの子、病気なの。レイちゃんは小さい頃からずっと、重い病気を患っているの』

「……ウソ……でしょ?」

『嘘じゃないわ。レイちゃんはね、年が明けてすぐに手術を受けるの。あの子の将来がか
かっている大きな手術。それも、成功する確率よりも失敗する確率のほうが高い、難しい
手術……』

 シンジの両親ゲンドウとユイは、その道の権威とはいかないまでも、外科のある分野に
関しては、かなり名の知れた医者だった。そして、そうした専門的事柄に精通するユイが
成功確率が半分以下だと告げるということは、レイが受ける手術がかなりの難手術だとい
うことを意味する。詳細は分からなくても、その位のことはシンジにも理解ができた。

「……あ、じゃあ、ひょっとしてあの子……?」

『ええ、私の担当患者よ……』

「……そんな」

 そのユイの言葉で、シンジの中ではそれまで断片的なものに過ぎなかった事実の欠片が、
ある一つの大きなイメージを急速に象り始める。

『レイちゃんはね、病気のせいで小さい頃から何度も手術を受けていて、そのせいで学校
にもほとんど行けなかったから、外の世界をあまり見たことがないの。こんなことは言い
たくないけれど、ひょっとしたら、見ないままであの子の儚い命は消えてしまうかもしれ
ない……。そういうこともありうるの……』

「レイちゃんが……」

『あの子は、小さい頃に両親を亡くしているから、家族の温もりも知らない。ある意味で
は、人としての喜びは何も知らないといっていいかもしれない。……でも、あの子、何も
言わないでしょう? いつも、笑っているでしょう? 自分の悲しみを、自分の辛さを、
軽い言葉に紛れさせて、他人には見せないように精一杯気丈に振舞っているのよ。あの子
のそんなところを、あの子の笑顔を見ていると、涙が出そうになってしょうがないの。あ
んまり不憫だし、何もしてあげられない自分が情けなくて……』

「……」

『でもね、あの子、この間ポツリと言ったの。外に出て、一度でいいから普通の女の子み
たいにクリスマスを過ごしてみたいって……』

「……」

『分かっているのよ、あの子も、周りのみんなも。そんな考えが、現実から一時的に目を
背けているだけだってことくらい。でもね、あの子が自分から何かをしてみたいって言う
なんて、初めてのことだったのよ。……ねえ、例えそれが辛いことから逃げているだけだ
としても、そんな我侭だったら、そんなささやかな願いだったら、それをかなえてあげた
いと思うのが人間ってものじゃない……』

「……」

『シンジには言っていなかったけれど、レイちゃんにはね、あなたの学校での写真を見せ
てあげたり、いろいろな話をしてあげたりしていたの。同年代の子がどういう生活をして
いるのか、そういうことを少しでも教えてあげたくて……。だからレイちゃんがクリスマ
スの話をした後、お父さんと私と二人で話し合ったの。シンジに協力してもらって、レイ
ちゃんに少しでも楽しい時間を過ごしてもらえればって……」

「……」

「ねえ、シンジ。レイちゃんは決して寂しそうな様子を見せようとしないし、そのことに
ついて口にすることもないけれど、あの子には、同年代の子で友達と呼べる人は一人もい
ないのかもしれない。レイちゃんを担当するようになって大分経つけれど、私は、同い年
くらいの子があの子のお見舞いに来ているのを、一度も見たことがないもの……」

「……」

「でもね、あの子、きっとシンジには親近感を…………ひょっとしたらそれ以上のものを
持っていたのかもしれない。レイちゃんはあなたの話を聞くのをいつも楽しみにしていた
し、今回のことを話したときも、あの子、それは嬉しそうな顔をしていたから……』

「……母さん……何で……そのことを……教えてくれなかったんだよ……」

『レイちゃんが、そうしてほしいって言ったの……。シンジには、同情心から自分に接し
てほしくない。何も知らないままで、自然な時間を過ごしてほしい。そしてもし手術が成
功したら、それからでもお互いのことをよく知り合うには遅くないって……。でも、それ
も言い訳かもしれないわね。結局、私やお父さんが、あなたを騙したことに変わりはない
ものね……。ごめんなさい、許してちょうだい、シンジ』

「そんな、僕のことなんかどうでもいいよ。あの娘……レイちゃんは……」

 それ以上は言葉にならず、身体中が小刻みに震え始める。

「すぐ、戻る。すぐ戻るから……」

『お願い』

 電話を切り、シンジは走った。つい先程とは違った意味での悔恨の念が胸の中に満ち溢
れる。自分は、一分でも一秒でも早くあの娘のところに戻らなければならない。

(そうか、母さんが言う不器用って、そういうことだったんだ)

 今更ながらに、その言葉の意味をシンジは理解した気がした。

『来年のクリスマスもこうして過ごせる保証なんて全然ないの』

『クリスマスの一日をシンちゃんと過ごせているってことが、すごく嬉しくて……』

『将来何があっても、きっと、忘れないと思う……』

 レイの言ったことは、全部本当のことだった。シンジはそれを確信した。

(でもレイちゃんは、自分の素直な思いを相手に伝えることも、誰かに想いを伝えられる
のも怖かったんだ。例えそこから何か大事なものを手に入れたとしても、それはすぐに失
われてしまうかもしれないから……)

(きっと、早くに両親を亡くしているレイちゃんは、あとに残される人の悲しみを、それ
を背負って生きていく苦しさを知っているんだ。だからレイちゃんは、もし僕に想いを伝
えられてもそれに答えるべきなのか分からなかった……)

(これ以上深い関係になっても、自分に残された時間は少ないかもしれない。どんなに自
分がそれを求めたとしても、万一自分に何かあったとき、傷つくのは残される相手だから、
それが辛いことだってレイちゃんは知っているから、だから冗談の中に逃げていたんだ。
そうすることで相手の心を守っていたつもりだったんだ……)

(でも、僕はそれを分かってあげられなかった。レイちゃんのあの目を見れば、言ってい
ることが本心からかどうか、分かってあげなきゃいけなかったんだ。それなのに……)

(それなのに、僕は、何てことを言ってしまったんだろう……)

 冷たい風が耳の周りをビュービューと音を立てて通りすぎ、必死に空気を求める肺が、
そして喉が、ズキズキと痛んでくる。でもあの娘は、自分などよりも、もっともっと痛く
て苦しい思いをしているはずだ。

(レイちゃん、お願いだから、まだあの場所にいて……)

 人ごみの中を縫うようにして走りぬけるシンジ。何度も人にぶつかりそうになり、抗議
の声をあげられたのも一度や二度ではなかったが、どちらもシンジにとっては大した問題
ではなかった。一緒に乗ったコーヒーカップや観覧車を横目に、ただひたすらに、あの悲
しいくらいに優しい少女の姿を求め、走りつづける。

「はあ、はあ、はあ……」

 もう二度と戻ることもないと思っていたその場所。ようやくそこへと辿り着いたシンジ
だったが、眼前に広がる光景に、咄嗟に声が出なかった。まるで杭でも打ちこまれたかの
ように心臓が激しく反応し、その黒い瞳は急激に悲しみの色で満たされていく。そして目
尻からは、もう出尽くしたと思っていたものが先刻以上の勢いでこみ上げつつあった。

 乱れた息もそのままに、シンジはふらふらとそこへ歩み寄る。

「……う……ぅ……っく……うぇぇ……」

 レイは、いた。俯き、しゃくりあげながら、零れる涙を拭うこともなく、つい先程まで
二人が座っていた場所に、一人ぽつんと腰掛けていた。今までずっと泣いていたのだろう。
その目の紅さは、元々がそういう色だというだけでは説明がつかないほどになっていた。

 シンジは喉からこみ上げてくるものを必死の思いで抑えこみ、その華奢な体を震わせて
いる少女に呼びかける。

「……レイちゃん」

「……っ……ぁ……」

 突然かけられた声に顔を上げたレイは、視界に入ってきた光景にもどう反応していいの
か分からない様子だった。自分の目の前には、そこにいるはずのないシンジの姿がある。
はっきりと別れの言葉を口にしたはずの少年。その優しい心を自分の無神経さで深く傷つ
けてしまったはずの少年。

 それなのに、シンジが自分の元に戻ってきている。その事実によろよろと立ちあがるレ
イだったが、どうしてもその口から言葉をうまく紡ぐことができなかった。言いたいこと
は、言わなければならないことはたくさんあるはずなのに、何度かその口が開け閉めされ
た後にようやく発されたのは、たった一言だけだった。

「……ぅ……いか……り……っく……くん……」

 だが、シンジにとってはそれだけで十分だった。その震える声が、涙に濡れる瞳が、レ
イの味わった深い悲しみと後悔を何よりもよく表していたのだから。

「……レイちゃん……どうして……あんな嘘ついたんだよ……」

「……ごめ……なさ……わた……し……ごめ……な……さい……」

 涙を止めることのできないレイの声は激しく震え、それ以上言葉を続けることも難しい
様子だった。その紅い瞳から流れ落ちる清流を拭いもせず、小刻みに肩を震わせ、ただし
ゃくりあげるばかりのレイ。そんな様子にたまらなく切ないものが沸きあがり、シンジは
レイを引き寄せると、大事なものを包み込むかのように、その身体をそっと抱きしめた。

「……ぁぅ」

「レイちゃんは……バカだよ……。そうやって自分の気持ちを隠して……。一人で辛いこ
とを全部背負いこもうとして……」

「……い……かり……く……」

「ねえ。僕は、そんなに人間ができていないし、頼りなく見えるだろうし、君の背負って
るものの辛さは分からないかもしれないよ。けど、そんな僕だってさ……っく……君の傍
に……いてあげるくらいのことは……できる……んだから……。いいじゃないか……もっ
と……自分勝手に……なったって……」

「……う……ふぇ……」

「ゴメ……ン……レイちゃん……ひどいこと……言って……ゴメン……」

「……う……いか……り……くん……ぅ……うぇ……ふぇぇぇぇ」

 その口から抑えきれずに漏れる泣き声が、冬の空にゆっくりと溶け出していく。だが、
シンジの胸の中で涙を零すレイは、つい先程までのように、失われてしまった大事なもの
の存在を求めて泣いているのではない。自分をしっかりと包み込んでくれる優しさの中、
心の底から感じる懺悔の思いと、それを受け入れてもらえたという安堵感に、その身を打
ち震わせているのだった。

「……レイちゃん……もう……大丈夫だから……」

 心からの愛しさを込めて蒼銀の髪を撫で梳くシンジに、堪えきれなくなったのか、レイ
の両腕がシンジの背中に回される。そして少女は、親の姿を見つけた迷子の子供が、再び
見つけたその温もりを二度と放すまいとするかのように、精一杯の力を込めて愛しい少年
の胸に縋りつくのだった。


White lie -C part-



「……っく……ぐす……」

 決して短くない時間が過ぎた後、寄りそう二人は再びあのベンチに腰掛けていた。シン
ジの胸の中でずっと泣きじゃくっていたレイだったが、優しく促され、つい先程までは悲
しい思い出しかなかったその場所へと移動したのだ。絶え間なく頬を伝い落ちていた涙も、
今はようやくその紅い瞳から溢れ出すのを止めている。そしてレイは、優しく自分を抱き
しめてくれるシンジの腕の中、その温かさを更に求めるようにして少年の胸に頬を摺り寄
せていた。

「……いかり……くん……」

「何、レイちゃん?」

「……ごめん……なさい……」

「……もういいんだよ。レイちゃんは何度も謝ったし、それに本当に謝らなきゃいけない
のは僕の方なんだから」

「……でも、わたし……」

「もう、いいんだ。だからさ、お願い、もう謝らないで」

「……っく……うん……」

 軽くしゃくりあげるレイの柔らかい身体をきゅっと抱きしめると、シンジは、いい匂い
のするその髪に鼻を埋める。するとレイもそれに応えるかのように、シンジの背中に回し
た腕に力を込め、その胸の中で少し鼻をすするのだった。

「……ありがとう……碇君……」

「そ、そんな、やめてよ……。なんか、その、照れちゃうよ……」

「……ぐしゅ……ふふ……」

「……あ、レイちゃん、やっと笑ってくれたね」

「……だって、碇君が、優しくしてくれるから……」

「…………あ、いや、あの、そんなこと言われても、僕、何て言ったらいいのか分からな
いよ……」

 そんなことを呟き本気で困っている様子のシンジに、レイは、少し前まで冷え切ってい
た自分の心に、柔かな木漏れ日が差し込んでくるのを感じていた。

 この純粋な心を持った少年は、いつも真っ直ぐな気持ちで自分に接してくる。照れたと
きも、怒ったときも、悲しみに震えたときも。

 もしそれが可能ならば、彼にはいつも微笑んでいてほしい、優しい顔をしていてほしい。
レイは心からそう思う。彼の笑顔は自分の心に不思議な安らぎをもたらし、そして、これ
から自分が歩む道に立ちはだかる困難に立ち向かっていくための、強い勇気を与えてくれ
る。そんな気がしたのだ。

(だから、私も笑っていよう……)

 自分が心からの微笑みを彼に向けるなら、きっと目の前の少年もそれに答えてくれるは
ずだから。

「……ふふ……碇君、照れてる」

「や、て、照れてるっていうか……。別に、僕は……」

 咄嗟に言葉が出てこなかったのか、何かを言いかけてそれを中断するシンジに、レイは
クスクス笑いが止まらなくなっていた。

「も、もう、そんなに笑わないでよ」

「ごめんなさい。ふふ、でも、そういうところって、すごく碇君らしいなって思ったから」

「い、碇君らしいって。……あ、レイちゃん、そういえばさ、その、僕のこと、シンちゃ
んって呼ばないの?」

「ううん、もういいの……」

「あの、もしさっきのこと気にしてるんだったら、別にいいんだよ?」

 自分の言ってしまったことを思いだしたのか、ひどく申し訳なさげな口調でそう言うと、
シンジは微かに眉根を寄せた。消えてしまった笑顔。こみ上げる不安。シンジの変化に気
付いたレイは軽く首を振り、自らの言葉で、硬くなってしまったその表情をもう一度解き
ほぐそうとする。

「……違う、碇君のせいじゃないの。私、ちょっと無理してたから……。ホントはね、私、
少し人見知りする方なの。でも今日は、折角碇君と一緒にいられるから。だから少しでも
雰囲気を盛り上げようと思って……」

「……そうなんだ」

「……うん。自分の中では結構勇気出したんだよ……」

 そのときの記憶が蘇ったのだろうか。ちらりとシンジを見上げるその頬が赤く染まる。
そしてそんな様子を見せるのが少し恥ずかしかったのか、自分を見つめる視線から表情を
隠すかのように、すぐにレイはシンジの胸に顔を埋めてしまった。

「レイちゃん、あの、さ……」

「……何?」

「僕は、僕のこと名前で呼んでほしいな、なんて思ってるんだけど……」

「……え?」

「だから……あの、僕は君のこと……レイちゃんって呼んでるのに、僕のことは、その、
シンジ君、とか、名前で呼んでくれないのかな、なんて……」

 朝方の自分のセリフに似たその言葉に、思わず顔を上げるレイだったが、真っ直ぐに視
線を合わせるのが照れくさいのか、あらぬ方向を向いて頬をポリポリと掻くシンジ。どこ
か初々しいその雰囲気に、レイの顔に柔かな笑顔が戻ってくる。

「……うん、分かった。……シンジ君」

 そう言ってレイは、それまで背中に回していた腕を一旦引き抜くと、今度はそれをシン
ジの首の周りに絡めた。

「わ、レ、レイちゃん?!」

「ふふ、な〜に、シンジ君?」

 レイの突然の行動にやや驚いた声をあげるシンジだったが、レイの目に宿るいたずらっ
ぽい光に、はにかむような微笑みが浮かんでくる。そしてその内では、少しの照れと若干
の戸惑いと心からの愛しさが、不思議な熱を伴って身体中を駆け巡っていた。

 そのまましばしお互いを見詰め合う二人。

 いつのまにか二人の顔からは笑みが消え、真剣な眼差しでお互いの瞳に宿る心の色を読
み取ろうとしていた。シンジはレイの紅い瞳にたまらなく沸きあがるものを感じ、レイは
自分を見つめるシンジの瞳に吸い込まれてしまいそうな感覚を覚える。

 そして、やや上気したレイの頬にシンジがそっと手を添える。縮まっていくその心の距
離に比例するかのように、シンジの唇がレイのそれへゆっくりと近づいていき、そして、
一つに重なった。

「……ん」

 甘い喘ぎがその口から漏れ、数秒間の永遠が二人を包み込む。自分たちの傍を歩みゆく
人たちも、どこかから流れてくる音楽も、遠くから聞こえてくる歓声も、今の二人の耳に
は届かない。ほんの僅かな時間ではあるが、この世界に存在したのはたった二人だけであ
り、その全ての感覚は、ただ相手を感じることに集中していたのである。

 そして、二人の周りで世界がゆっくりと動き出す。

「……はあ」

「……」

「……」

「……キス、しちゃったね」

「う、うん……あの……よかったよね……別に……」

 どこかボンヤリとした様子で、そんな無粋なことを尋ねるシンジの頬は、よく熟した桃
のような色に変化していた。だが、おそらくは自分も似たようなものだろうし、きっとそ
れは、二人の気持ちが通じ合った証といえるのではないだろうか。レイはそんなことを思
った。

 そして首に回した腕をそのままに、レイは自らの想いを心からの笑顔に乗せて答える。

「……うん、嬉しい……」

 だが、その笑顔を受けとめる側の少年は、ポーっとした様子でレイのことを見つめるば
かりで、まるで魂を抜かれてしまったかのように微動だにしなかった。

「……? シンジ君、どうしたの?」

「…………あ、いや、なんか、レイちゃん、すごく、その、綺麗だなって思って……」

「え? ……や……やだ……」

「あ、ゴ、ゴメン。急にこんなこと……」

「う、ううん、いいの。それに、あの、それも……嬉しい……から……」

 こうもストレートで、しかも心のこもった言われ方をされたことなど一度もなかったの
だろう。シンジのように少しどもりながら答えるレイは、頬を紅潮させながらどこかモジ
モジとし始める。

 その中では、今更ながらに、自分は目の前の男の子とキスをしたのだという事実が頭の
中に染み込み始めていた。一旦それを意識し始めると、その顔を真正面から見詰めること
などできるはずもない。慌てて絡めていた腕を外し、シンジの隣で恥ずかしそうに身を捩
るレイは、年相応の少女らしい清純な魅力と初々しさを醸し出していた。

 そしてそうした雰囲気というものは、自然と相手にも伝染していくものである。レイの
そんな反応を予想していなかったシンジが、少女が見せる何ともいえない可愛らしさに途
端にドギマギし始めたのも、全く不思議ではなかったと言えるだろう。

 その結果として、一瞬にして二人の間には、少し照れくさくて、少し恥ずかしい、くす
ぐったいような沈黙が漂いだす。

 そんな状況において、何らかの駆け引きを楽しんでみたり、何か気の利いたことを口に
できるほどに二人は大人ではない。だが、背伸びをする必要などどこにもないのだ。相手
のことを強く意識しているにもかかわらず、何を言ったらいいのか、何をしたらいいの分
からない。シンジとレイのそんな不器用さと初々しさは、将来それを思い起こしたとき、
きっと二人に微笑と郷愁の念を呼び起こすであろう温かな光景なのだから。





 どのくらいそうしていたのか。長く続いた沈黙の中、チラチラと自分を伺うレイの様子
に、シンジの照れくささは最高潮に達していた。そして遂にそれに耐えきれなくなったの
だろうか。口を何度か開閉させた後、まるで今それに気付いたというかのごとく、少しワ
ザとらしいくらいに大きな声を張り上げる。

「……そ、そうだ。そういえば今日はクリスマスなんだよね」

「……え? ええ」

「あの、レイちゃん、ちょっと待っててね」

 そう言ってレイをその場に残し、シンジは突然どこかへ駆け出していく。

「……ぁ」

 何かを言う間もなく自分を置いて立ち去ってしまうその後姿に、何が起こっているのか
一瞬分からないレイ。だが段々と小さくなっていくシンジの背中に、自らの内からどうし
ようもない心細さと寂しさが沸きあがってくる。

(シンジ君……)

 そして、シンジの姿があっという間に人ごみの中に消えていく。その光景に、つい先程
の出来事が一瞬脳裏に蘇りかけ、レイは軽く首を振った。今は何も心配することはないの
だと自分に言い聞かせ、必死にその悪夢を自分の中から追い払おうとするかのように。

(大丈夫だもの……。シンジ君は必ず戻ってくるもの……)

 それは頭では理解しているし、実際にそうなることは疑いの余地もないのだが、急に辺
りの気温が2〜3度下がってしまったかのように思えてしまうのはどうしてだろう。軽く
身震いをするレイは、心にポッカリと空いてしまった空白を埋め合わせようとするかのよ
うに、まだ少年の温もりが残るその部分――自分の唇――に指を押し当てた。

(……でも……なんだか……寒いよ……。それに……寂しいよ……)

 シンジが走り去った方向を見つめるレイの瞳は抑えきれない不安に満ち、その姿は、凍
てつくような冬の風の中、たった一枚だけ枝に残された葉っぱのように心細げだった。

「……ぅ……シンジ君……ぐしゅ……」

 頬がカッと火照りだし、目頭が少し熱くなる。つい数分ほど前までは、これ以上ないく
らいの幸福感に包まれていたというのに、寄り添う少年の姿が一時的に見えなくなってし
まっただけで、途端に怖れと不安でその心が満たされてしまう。今更ながらに、碇シンジ
という少年がいかに自分の中で大きな存在になっているか、レイは思い知らされていたの
である。

 駆け足で戻ってくるシンジの姿をレイが見つけたのは、十五分程の時間が経過してから
のことだった。たった十五分。だがレイにとっては、その十五分のなんと長かったことか。

 大好きな少年の姿を視界に捉えたレイの心の中が、不思議な温かさと安堵感で満たされ
ていき、そして内面から沸きあがるその感情が、柔らかな笑顔と目尻に溢れる潤んだもの
となって表に現れたのも当然のことと言えるかもしれない。

 そして、そんなレイの泣き笑いに気がついたシンジが、やや戸惑った口調で語りかける。

「はあ、はあ。……あ、あれ? どうしたの、レイちゃん? ……泣いてるの?」

「……だって、シンジ君が……ぐす……急に……どこかに行っちゃうから……」

「あ……。ゴ、ゴメン。あの、僕、そんなつもりじゃなくて……」

「……ぐしゅ……ううん……いいの」

「あ、あの、ゴメンね、レイちゃん。僕、レイちゃんにプレゼントしたいものがあったか
ら、それで向こうの店に行ってきて……」

「……プレゼント?」

「うん。これなんだけど、レイちゃんにって思って……」

 そう言ってシンジがレイに差し出したのは、丁寧なラッピングが施された長方形の箱の
ようなものだった。

「……シンジ君、これ?」

 状況が今一つ掴めず、やや怪訝な顔をするレイに、シンジは照れくさそうに頭を掻きな
がら答えた。

「あ、一応、その、僕からのクリスマスのプレゼントっていうか……」

「……あ」

「それ、写真立てなんだ。えっと、それでさ、よかったらそれ病室に置いてみたらどうか
な、なんて……。今日一緒に撮った写真なんか入れたりしてさ……」

「……あ……ありがとう……シンジ君……」

 物心付いてから今まで、想いを寄せる男の子にクリスマスプレゼントを貰うことなど一
度もなかったレイ。そんな少女にとって、シンジから送られたささやかな、だがそれだけ
に心のこもった贈り物は、何にも代えがたい宝物だった。

 大事そうにそれを胸の中に抱えると、心からの感謝の気持ちを込めてシンジを見つめる
レイ。そんな優しい気持ちに自分も何かの形でお返しをしたい。レイがそう考えたのも自
然なことだったが、ふとある事実に気が付くと、その視線が徐々に下がり急激にその表情
が曇っていく。

「レイちゃん? どうしたの? あの、やっぱり、あんまり……気に入って……もらえな
かったかな……」

「違う……違うの……」

「あの……じゃあ……?」

「……シンジ君」

「ん、何?」

「……ごめんなさい。私……あの……あんまり……お金……持って来てないの。……だか
ら……シンジ君に……何も……プレゼントできないの……」

 消え入りそうな声でそう告げたあと、俯き下唇を強く噛み締めるレイ。決して簡単に言
える言葉ではなかったし、シンジの自分に対する想いに何のお返しも出来ないという事実
には、心が引き裂かれる思いだった。

 だがシンジにとっては、そうした他人には告げにくい事実だからこそ、それを言ってく
れたということがとても嬉しかった。

 レイの内面で渦巻く感情を感じとり、それを少しでも和らげようと、シンジはできる限
りの優しい微笑みを浮かべ、その顔を覗きこむ。

「……ね、レイちゃん。僕さ、今、すごく欲しいものが一つあるんだ」

「でも……私……お金……」

「心配しないで。それはね、お金は一円もかからないものなんだ。ううん、逆にね、それ
はいくらお金を出しても手に入らないものなんだ」

「……お金で、買えないもの?」

「うん」

「……それ、何?」

「約束」

「……約束?」

「うん。レイちゃんの約束。来年の今日も、再来年の今日も、その次の年も、ずっとずっ
と、二人で一緒に12月25日を過ごそうねっていう約束」

「あ……」

「レイちゃんがそれを約束してくれれば、それが僕にとっては最高のクリスマスプレゼン
トなんだけどな」

「……シ、シンジ……く……」

「……あの、ダメかな?」

「……ぅ……ダメ……じゃない。ダメじゃ……ない」

 ふるふると首を振ると、再び目尻から溢れ出しそうになるものを隠そうとするかのよう
に、レイはシンジの胸の中に飛びこんだ。

 少年の目の前ではいつも笑っていようという決意は、あっさりと崩壊しつつあった。そ
れは自分の弱さだろうか。レイには分からなかった。ただ感じるのは、その温かさと、包
み込まれるような優しさ。

(そうなんだ、違うんだ……)

 いままでずっと、辛いときも悲しいときも涙を堪えてきた。けれど、シンジの前でなら、
きっといつも笑顔でいる必要などない。弱い自分を見せてもいいのだ。自分の気持ちに嘘
をついて涙をこらえるよりも、辛いときには素直にその胸の中に飛び込んでいってもいい
のだ。自分が今縋りついている少年は、そんな自分を優しく抱きしめてくれるはずなのだ
から。

(私、シンジ君の前では泣いていてもいいんだ)

 そう。自分の気持ちを隠すなというのは、シンジが自分にそうしてほしいと望んだこと
ではないか。

「あ、ちょ、ちょっと、レイちゃん……」

「ご、ごめ……ん……なさ……い。でも……っく……ふ……ぇ」

「ああ、え、えっと……」

「……う……ふぇ……ぇ……」

 シンジの胸の中で嗚咽を漏らし続けるレイ。うろたえるかのようなシンジの反応に、自
分はまた彼を困らせているのかもしれないという不安が内心をよぎりはしたが、心から溢
れだし、涙となって具現化されるその想いを止めることはどうしても出来なかった。

「……ありがとう……レイちゃん……」

 まるで、そんな内心の不安を見透かしたかのように、レイを優しく抱きしめるシンジ。
そこに戸惑った表情は既にない。少年は、ただ優しい微笑みを浮かべ、透き通るような蒼
銀の髪を愛おしげに撫でながら、その耳元で感謝の言葉をそっと呟くのだった。

「……う……ぅ……うぇぇ……」

 それに応える自分の想いは、どうしても言葉にすることはできなかった。だが、何も言
わずともそれはきっと相手の心に伝わっている。そんな確信がレイの中にはあった。きっ
と、言葉は気持ちを伝える一手段に過ぎないのだ。それが今はよく分かるから。

 既に闇に覆われた空からは、白い冬の結晶が、寄りそうシンジとレイに降り注ぎ始める。
それが二人の着るコートに色のコントラストを作り出した頃、シンジはその耳元でそっと
囁いた。

「ね、レイちゃん、これからさ、僕の家に行こう。家では母さんが張りきって料理を作っ
てるはずだからさ、みんなで一緒に夕飯を食べようよ。母さんはね、お医者さんじゃなく、
シェフになってたとしても一流だったろうって父さんがよく言うんだ。だから、レイちゃ
んもきっと母さんの料理は気にいると思うよ。……それにさ、約束したでしょ? いつか
僕の家に遊びに来るって。それが今日でもいいと思わない?」

「……うん……っく……うん……」

「うん、それじゃ、行こう」

 白い息を吐き出しながら、シンジがそっと手を差し伸べる。繋いだ手の平は頬擦りした
くなるほどに温かく、それが、少年が与えてくれる不思議な安心感を象徴しているような
気がした。自分が悲しみに震えているときは、その温かさで自分を包み込んでほしい。レ
イはシンジの手を大事そうに両手で握ると、ほんのりと頬を赤らめ、愛おしげに目を細め
ながら呟いた。

「えへへ……ぐしゅ……シンジ君の手、あったかいな……」

「そ、そうかな……」

「……うん」

「……あ、あの、じゃ、行こうか」

「……うん、いこ」

 そして二人は歩みだす。

 出場ゲートをくぐり、涙と笑い、喜びと悲しみの交じり合った時間を過ごした場所に別
れを告げる。一度だけ名残惜しげに振りかえる二人だったが、やがて、顔を見合わせると
幸せそうな微笑みと共にゆっくりと歩み始めた。この場所は始まりに過ぎない。目の前の
相手が共にいてくれるのなら、どんな場所でも夢の国になり得るはずなのだから。

 歩きながらシンジの方にそっと体を寄せると、優しく目を細め、ポツリとレイが言った。

「……ね、シンジ君。私、冬って大好きだな」

「え? どうして?」

「寒いから」

「寒い……から?」

「うん、寒いから」

「それって……」

「あのね、冬は寒いから、だから、人の温もりがよく分かる、その大事さがよく分かるん
だね。シンジ君に抱きしめられたとき、とっても温かかった。シンジ君に優しい言葉をか
けられたとき、身体も心も周りの寒さを忘れてしまった。きっと、一人ぼっちで寒さに震
えていたから、シンジ君の温かさが、シンジ君の優しい心が、より一層感じられたんだと
思う……」

「レイちゃん……」

「だから私ね、今日、冬が大好きになったんだ」

 レイはそう言って微笑むと、シンジの手を握るその華奢な手にほんの少しだけ力を加え
た。すると、自分の手から伝わってくるある感触に、柔かな天使の微笑みが涙の痕がまだ
残るその顔に舞い降りる。自らの手を通して伝えたメッセージは確かに相手に届いていた。
軽く握り返される自らの手にレイはそれを確信したのだ。

 繋いだ手の平。そこから伝わる相手の温もり。嘘から始まった関係。降り注ぐ真っ白い
雪のようなレイの嘘は、寄り添う二人の温もりで少しずつ解け始め、その中からは雪の結
晶よりもずっと繊細で美しい本当の想いが姿を表した。

 少年はそれをそっと取り出して大事に胸の中に仕舞い込み、少女の進む道に立ちふさが
る困難へ、共に立ち向かっていこうという強い決意を固める。

 少女は、自分は一人ではないのだという、少年が与えてくれた温かさと幸福感を胸に、
未来へと繋がる自らの想いを大事に育てていこうと心に誓う。






これから二人の歩んでいく道にどんな運命が待ちうけるのか。

それは誰にも分からない。

だが、今このとき感じる温もりは嘘ではないから。






だから、この瞬間だけは……。








メリークリスマス、レイちゃん

メリークリスマス、シンジくん














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