夕刻の帰宅ラッシュも峠を越えたせいか、バスの中は乗客の姿もまばらだった。
 最寄り駅を始発とするそのバスは、時間が時間なら、会社帰りのサラリーマンやOLで
それなりに混む路線だった。だが夕日も暮れ夜空に星が出る頃になると、稀にバスを乗り
降りする人の姿があるくらいで、乗客の流れはさほど多くない。
 そんなオフピークの車内に、ネルフ帰りの碇シンジと綾波レイの姿があった。二人は運
転手の斜め後ろの席に陣取り、窓側にレイが、通路側にシンジが腰を下ろしている。
 この二人がネルフという組織に属しており、最前線で使徒と戦っている。そんな事実を
告げられても、事情を知らない者は容易に信じようとしないだろう。シンジとレイは――
レイの容姿を別にすれば――どこにでもいるような中学生二人だった。

「う……ん……」

 バスが加速と減速を繰り返す中、少年の口から声が漏れた。
 連日のハードな訓練のせいか、シンジはバスの中で眠りに落ちてしまい、隣に座るレイ
の肩に頭を預ける格好になっていた。
 傍目には、部活を終えて帰宅する微笑ましい中学生カップル、とでも見えただろうか。
だが見る人が見れば、二人の佇まいに――特にレイのそれには――驚きに目を見開いたに
違いない。
 透き通るように白い肌がほんのり桜色に染まり、きゅっと体を強ばらせているレイ。時
折シンジが身じろぎすると、レイはピクリと反応し、少年の様子をちらりと伺うのだった。

(この気持ち、不思議な気持ち……)

 触れあった部分の温かさを感じながら、レイは軽く顔を傾け、シンジの寝顔を見やった。
 二子山での共同作戦をきっかけに、少女の中に打ちこまれた碇シンジという名の楔。そ
の楔は、時が経つに連れて、徐々にレイの心の奥深くへと埋めこまれていった。そしてそ
れに同調して芽生え始めたのは、レイがそれまで経験したことのない感情だった。
 それはまだ、恋心というには未熟だったかもしれない。だがその感情は、同じエヴァに
乗る同僚や、単なるクラスメートに向けられるものとは異なっていた。
 学校に行くと、彼が登校してくるかどうか気になる。
 授業中ふと気が付くと、彼の仕草を無意識に目が追っている。
 何かの折に彼が笑顔を漏らすと、途端に胸の動悸を覚える。
 だが、レイが自らの想いを表に出すことはなく、周囲の人間でレイの変化に気づいた者
はいなかった。ましてや――アスカ曰く、鈍感バカの――シンジが、そうした気持ちに敏
感なはずもない。
 元々口数が少なく話題性にも乏しいため、レイがシンジと言葉を交わす機会はさほど多
くない。そのためレイは、相手のことを何となく意識しつつも、互いをよく理解するチャ
ンスに恵まれていなかったのだ。

(でも今日は、いろいろなことを話せた……)

 肩にもたれかかるシンジを見つめながら、レイはつい先程のことを思い出していた。
 偶然本部からの帰りが一緒になった二人は、地上へ出るリニアの中で、多少ぎこちない
ながらも言葉を交わすことが出来たのだ。
 学校のこと、家でのこと、日常の他愛のない出来事。
 言葉を選びながら、慎重にシンジが話を切り出すと、レイが短い相槌を打つ。
 特段会話が弾んだわけではないし、それほど長い間話をしたわけでもない。
 だが二人で過ごしたささやかな時間に、レイは小さくない満足感を覚えていた。

『よかったらさ、今度家に夕飯でも食べにおいでよ』

 そう言った彼の頬が赤く見えたのは、窓から差し込む夕日のせいだったろうか。
 それはただの社交辞令なのかもしれない。
 話の流れでそう言っただけかもしれない。
 だが例えそうだったとしても、レイの胸の内は、温かなもので満たされるのだった。



Kimiの名は −Prologue−



「あ……」

 少々ぼんやりしていたレイの口から、小さな声が漏れる。車内アナウンスが告げた次の
停留所は、シンジが降りるべき場所だった。レイは停車ボタンを押すと、よく眠っている
シンジを少し見つめた後で、その肩を軽く揺すった。

「碇くん……」
「う……ん……」
「碇くん、起きて」
「え……。あ、僕、寝ちゃってたんだ……って、あ!」

 相手に体を預けていることに気づくと、シンジは慌ててレイから離れた。

「ご、ごめん、綾波……」
「何が?」
「何がって……」

 真顔で尋ね返すレイに、シンジは具合が悪そうに視線を泳がせた。

「あ、えっと、何でもない……」
「そう。それよりここ、碇くんが降りる場所」
「あ、うん、ありがとう起こしてくれて。それじゃ僕、行くね」
「ええ」
「じゃあ綾波、また来週」

 バスを降りる間際、軽く手を上げたシンジにレイは小さく頷いた。
 窓越しに見ると、バスから降りたシンジがこちらへ手を振っている。それに手を振り返
そうかどうか考えていると、やがてバスが動き出し、シンジの姿がレイの視界から消えて
いった。
 ふうっと、その日何度目かの溜息をつくと、レイは自分の胸に手を当てた。

(また、来週……)

 別れ際のその言葉。

(胸が、変……。締め付けられる感じ……)

 このところ頻繁に感じるようになった、身体的異常。何となくではあるが、過去の経験
から、異常の原因は分かっていた。
 ここ数日タフな訓練が続いたせいか、今週末はエヴァのテストが入っていない。そのた
めパイロット同士が再び顔を合わせるのは、週明けの学校でということになる。ほんの数
日間のことではあるが、その間シンジと会う機会はないだろう。その事実が、レイの中で
喪失感を生み出しているのだ。
 バスの揺れに身をまかせながら、レイはぼんやりと外の光景を見つめた。
 ただ命令されるままエヴァに乗り、静かに定めの時を待つ。それがレイの全てのはずだ
った。それに強い不満を感じたことはなかったし、その日を待ち望んですらいる自分がい
た。だから迷うことなどなかった。
 何も変わらない日々。
 無へと帰るのを待つだけの日々。
 それなのに、二子山であの泣き笑いを目にして以来、シンジの存在がレイの中で日一日
と大きくなっていく。
 自らが背負っているものを考えれば、そんな感情は余計なものにすぎない。また、人な
らぬ身である自分が彼を求めるのも、どこか滑稽にすら思える。
 きっと、自分はそれを欲してはいけないのだ。
 レイの中にはそんな思いがあったし、理性ではその正しさを理解してもいる。
 だがそんな理屈などお構いなしに、レイの中では、シンジへの想いが少しずつ少しずつ
膨み続けるのだった。そしてレイには、その膨張がどうしたら止まってくれるのか、どの
ようにしてそれを止めたらいいのか、見当すらつかなかったのである。

「碇くん……」

 わけもなく呟いてみる。まだ肩に残る彼の感触。触れあった腕の温かさ。
 ぽっと、レイの心に灯りが灯る。けれどすぐに消えてしまうその灯り。
 碇くん。
 心の中で、もう一度彼の名を呼んでみる。残るのは、空しさともどかしさ。

(ついさっき、別れたばかりなのに……)

 窓越しに外を見やる少女は、切なげに溜息をつくばかりだった。



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