日曜日の朝。
 それはシンジにとって、布団の中でのんびりできる安らかな時間を意味していた。学校
がないため、早起きしてアスカの朝食を作ることもなく、仕事が大抵午後からなので、ミ
サトの食事を準備する必要もない。
 シンジは料理をするのが好きだったし、作る物を喜んで食べてもらえるのは、とても嬉
しいことだった。だが時には、ゆっくりベッドの中で過ごす時間も悪くない。この日はエ
ヴァのテストも入っていないため、シンジは休日の朝を思う存分楽しめるはずだった。
 はずだったのだが……。

「う〜ん、ダメだよ綾波ぃ。僕たち、まだそういうのは早いと思うんだ」

 ベッドの中でくねくねと身を捩らせ、何やら怪しげなセリフを漏らすシンジ。だが実際
にレイと事に及んでいるわけではなく、単に夢の中の光景が、寝言という形で漏れていた
に過ぎなかった。

「でも僕は、むにゃ、綾波さえよければ……。だから、あ、綾波ぃ!」

 現実の世界では、シンジは決して思いきりがいいとはいえない。だが、それが夢の世界
だったためか、今日は最後の一歩を踏み出す決心をしたらしい。軽く寝返りを打つと、シ
ンジは夢の中の少女をおもいきり抱きしめた。

「う〜」
「う〜って、綾波、子供みたいな声だね……」
「ん〜、パパぁ、いたいの〜」
「む〜、僕は綾波のパパじゃ……って……ん?」

 ひどく甘美な夢の世界と、かなり危ない妄想の世界。その境界線をふわふわと漂ってい
たシンジだが、ふと何かがおかしいと感じた。そして一旦そんな感覚を覚えると、意識が
急激に現実の世界へと浮かび上がっていく。

「あ、あれ……?」

 覚醒していく意識と共に、少しずつ蘇ってくる感覚。まず感じたのは、自分の腕の中に
ある何かぐにゃりと柔らかい感触。それは夢の中特有のふわふわした感じではなく、現実
味のある質感の伴った柔らかさだった。
 どうも自分は本当に何かを抱きしめているらしい。それに気づいたシンジは、自分の腕
の中にあるものをマジマジと見つめた。

「うにゅ〜」
「な……」

 シンジが思わず言葉を失ったのも無理はなかった。
 自分以外にここで寝る人間などいないはずなのに、そこには三、四才ぐらいと思しき小
さな女の子が、すやすやと寝息をたてていたのだ。

「う、うわあぁぁぁ!!」

 シンジは慌てて飛び起き、計らずもベッドを共にしている少女に悲鳴をあげた。
 ロリコン、淫行、幼児の敵。そんな言葉が頭の中をグルグルと駆け巡る。
 白ウサギの絵がプリントされた赤いオーバーブラウスと、シンプルなデニムパンツ。幼
児特有のぷくぷくした頬と、肩より少し短い蒼銀の髪。だがいくら記憶の糸を手繰り寄せ
ても、こんな年齢の女の子に知り合いがいた覚えはない。

「ど、ど、どうなってるの?」

 果たしてこれは夢の続きなのだろうか。それとも自分は、何か大事なことを忘れている
のだろうか。シンジがしばし茫然としていると、部屋の襖の向こうからドスドスという足
音が聞こえ、次の瞬間には、スパァンという激しい音が部屋中に響き渡っていた。

「うっさい、このバカシンジ! 朝から訳の分かんない声出すんじゃないわよ!!」

 どうやら惣流・アスカ・ラングレーは、シンジのあげた悲鳴に安眠を妨害されたらしい。
叩きつけるようにして襖を開き、部屋に乱入する少女は怒り心頭である。だが幸か不幸か、
シンジにはそんなことに構っている余裕はなかった。

「ア、アアアア、アスカ〜」
「あん!? 今度は何情けない声出してんのよ! ……って、アンタ、何よその子は?」
「それが、僕にもよく分からないんだ。さっき目が覚めたら、隣にこの子が寝てて……」

 すると、シンジとアスカのやりとりが目覚めのきっかけになったのか、少女が軽い呻き
声をあげた。そして二人が見守る中モゾモゾ体を動かすと、やがてムックリと起き上がる。

「あ、あの……」
「う?」
「あの、君、誰? こんなとこで何してるの?」

 眠そうな目をこすりながら、まだどこか夢見心地の女の子。だが自分を見つめるシンジ
に気が付くと、少女はにへら〜っとした笑みを浮かべ、そして言った。

「あ〜、おはよう、パパぁ」
「「パ、パパぁ???」」

 一瞬静まりかえったシンジの部屋に、間の抜けた声が二人分響き渡っていた。



Kimiの名は −第一話−



「で、朝起きてみたら、この子がシンちゃんの脇で眠ってたと。そういう訳?」
「はい、そうなんです……」
「って言われてもねえ、俄かには信じがたいというか……」

 既に三杯目になる“朝の一杯”を飲み干すと、葛城ミサトは訝しげな視線をシンジとア
スカに向けた。
 久しぶりの休暇だというのに、突然部屋に駆けこんできた同居人に、問答無用で叩き起
こされたミサト。それなのにリビングで話を聞いてみれば、その内容には現実味の欠片も
ないのである。ビールの一杯でも飲まなければ、やっていられない心境だった。

「でも、あの、本当なんです。昨日布団に入ったときは、絶対こんな子いなかったはずな
のに……」

 リビングに漂うパッとしない空気のせいか、シンジの言葉が尻切れトンボになってしま
う。その膝の上では、アスカに貰ったおやつ用のプリンを上手くすくうことができず、ス
プーンを片手に悪戦苦闘する少女の姿があった。

「う〜。ねえパパぁ、食べさせて」
「え? あ、うん……。じゃあ口を開けて」
「あ〜ん」

 状況に戸惑いつつも、生来の人のよさのせいか、リクエストに答えるシンジ。プリンを
美味しそうに頬張る少女は、そんなシンジによく懐いているようである。

「知らないっていう割には、妙に絵になってるわよね……」
「ミ、ミサトさん、変なこと言ってないで、どうしたらいいか一緒に考えてくださいよ」
「どうしたらいいかって言われてもねえ……。取りあえずこの子、どこの子なわけ?」

 まだ眠い目を擦りながらミサトが言うと、それまで黙っていたアスカがその疑問に答え
た。

「それがイマイチ分かんないのよね。シンジのことをパパって言ってるわけだからさ、シ
ンジの知り合いってのは間違いなさそうだけど」
「でも僕、本当に心当たりがないんです」
「ねえパパ、もっと〜」
「あ、うん」

 食べさせてもらったプリンが美味しかったのだろうか。自分に向けられる深刻な視線を
尻目に、少女は無邪気におねだりをした。

「ね〜え、あなたお名前は何ていうの? 今いくつ?」
「う? えっとね、あたしねぇ、こんど四歳になるんだよ。そいでね、おたんじょーびに
は、ママがお〜っきなケーキをつくってくれるの」

 プチウインナーのように可愛らしい指を四本立てると、えへへ、と嬉しそうに笑いなが
ら少女は答えた。

「そうなんだぁ。じゃあ、あなたのお名前は何ていうの?」
「なまえ? 碇キミだよ」
「碇? てことは、この子シンちゃんの親戚か何か?」
「いえ……。僕にこんな親戚がいるなんて、聞いたことないです」
「ふ〜む……。じゃあキミちゃん、キミちゃんはどこから来たのかなぁ?」
「うんとね、パパとママのお家から」
「それじゃあ、キミちゃんのパパとママのお家はどこにあるの?」
「えっとねぇ、あっちの方」
「う〜ん、てことはこの近くに住んでる子なのかしら……。ね、それじゃあ、あなたのパ
パとママはあっちのどこにいるのかな? お家の住所とか分からない?」
「パパ? パパはここにいるよ」

 どうしてそんな分かりきったことを聞くのだろう? ちょっと小首をかしげ、シンジを
真っ直ぐ指差すキミちゃんは、そう言いたげだった。躊躇いや迷いが欠片もないその仕草
に、ミサトとアスカの視線の温度が加速度的に下がっていく。

「シンちゃんったら、この年でパパだなんて……」
「バカシンジ、最低……」
「ちょ、ちょっと、二人とも変なこと言わないでよ。とにかく、今は警察に届けるとかそ
ういうことを考えないと」
「でもシンちゃん、そう簡単に言うけどねえ。どうやってこの状況を説明するつもりよ。
朝起きたら隣にこの子が眠っていました、だなんて誰も信じないわよ。逆にこっちがいろ
いろ取調べを受けて、下手したら誘拐犯にでもされかねないわ」
「それは、そうかもしれないですけど……」

 ミサトの言うことにも一理あると、シンジは言葉に詰まった。
 何しろ相手は幼児である。家の住所や電話番号を知っている様子はなく、携帯電話のよ
うな連絡ツールを持っている気配もない。かといって警察に届けるのも、ミサトの言う通
りリスクが高い。取りあえずは、この少女から出来る限り情報収集するのが賢明なようだ
った。

「ねえキミちゃん、それじゃあなたのママはどこにいるの?」
「ママ? う〜んとね、ママはね……。ねえパパ、ママはお出かけしてるの?」

 目的の人物が見つからなかったのだろうか。辺りをキョロキョロ見まわした後、シンジ
の洋服の袖を引っ張ってキミちゃんが尋ねた。

「そ、そんなこと僕に聞かれたって……」

 シンジが答えに詰まるのを横目に、ミサトは少女に再度問いかけた。

「じゃあ、あなたのママの名前は何ていうの?」
「ママの名前? 碇レイだよ」

 事も無げにそう言ってのける少女に、その場の緊張感が一瞬にして臨界点へと上り詰め
る。そして僅かな時間差の後に襲ってきたのは、N2爆弾級の衝撃だった。

「「……ぬぁ、ぬぁんですってえぇぇぇ!!??」」
「ねえパパぁ、もっとプリン〜」

 ポカンと口を開けたままシンジが石化し、ミサトとアスカの二人分の絶叫が部屋の壁を
ビリビリ震わせる。だが自らの発言の重要性に欠片も気づいていないキミちゃんは、大人
たちの反応もどこ吹く風で、再びプリンのおかわりをおねだりするのだった。





『だ、だから僕は本当に知らないんだって』
『何が知らないよ、このスカタン!! 大体この髪を見てみなさいよ!! アタシたちの周りでこんな髪の色
してるのは、あの優等生以外にいないじゃない!!!』
『で、でも何でそれが、僕がパパだって話になるんだよ〜』
『パパぁ、もういっこプリン〜』


 電話越しにまずレイの耳に飛び込んだのは、回線の奥から聞こえるシンジの情けない声
だった。そしてそれに続くのは、些か興奮気味のアスカの怒声、それに負けじと何かを訴
える謎の声だった。

『あ、あれ、これってもう回線繋がってる? もしも〜し、レイ、聞こえてる?!』
「……はい」
『え、何? よく聞こえないんだけど!? ちょっとシンちゃん、アスカ、今レイに電話
してんだから、少し静かにしなさい。……あ〜、もしもしレイ? 私よ、ミサト』
「……はい」
『あのね、レイ。ちょっちさ、あんたに確認したいことがあるのよ。それで朝早くから悪
いんだけど、あたしの部屋まで顔出してほしいのよね。あんた、今どこにいるの?』
「……自宅です」
『そう、これから何か予定はある?』
「……いえ」
『それじゃ朝早くから悪いんだけど、なるべく急いであたしの部屋まで来てくれないかし
ら。それで部屋に着いたらチャイム鳴らしてちょうだい。じゃ後でね!』

 そんなことを一気に捲くし立てられると、返事をする間もなく回線が切られてしまう。
 前触れもなく掛かってきた、訳の分からぬ電話。それによって眠りから覚めたレイは、
ベッドの中で軽く寝返りを打つと、パチパチと何度か瞬きをした。
 その整った顔に浮かぶ表情からは、何の感情の変化も読み取れない。だが携帯を耳に当
てたまま、しばらくぼうっとしていた様子を見ると、レイはレイなりに戸惑っていたのか
もしれない。
 シンジたちと同じく、その日エヴァのテストの予定はなかったし、休日ということもあ
り学校に行く必要もない。特に趣味を持たないレイにとっては、体を休める以外にするこ
ともなかったが、今の電話から判断するに、状況は大きく変わったようである。
 だが、何故自分がミサトに呼び出されるのだろうか?
 仕事以外ではミサトとの交流がないレイの中で、ふとそんな疑問が沸きあがる。
 エヴァに関することで、直接言い渡されることがあるのだろうか。それとも何か私的な
会合の誘いなのだろうか。あるいは以前そんなことがあったように、パイロット間での共
同訓練でもあるのだろうか。
 様々な仮説が心をよぎるが、数瞬の後には、そうした疑問はレイの中から綺麗に消え去
っていく。
 そんなことを考えたとしても何の意味もない。部屋に来るようにと言われたのなら、行
けばいい。エヴァに乗れと言われたなら、乗ればいい。自分はただ、下された命令に従っ
ていればいいのだから。

「八時半……」

 携帯に表示されているデジタル数字をふと口にしてみる。今からシャワーを浴び身支度
を整えることを考えれば、ミサトの家までは一時間程だろうか。だが急げば四十分程度で
済むかもしれない。レイは半身を起こすと、ベッドの脇の古びた椅子に携帯を置き、バス
ルームへと向かった。
 いつもより手早く髪と体を洗い、シャワーを止めた後は、鮮やかな蒼銀の髪を拭くのも
そこそこに、レイは下着と制服を身につけた。本人にそんな意識は欠片もないだろうが、
それはまるで、デートの時間に遅れそうな女の子が、慌てて身支度をする光景のようでも
ある。
 普段は淡白な少女が、今日に限って急ぐ理由。それは、ここ最近ずっと気になっている
あの少年であった。
 元々感情の起伏に乏しい少女ゆえに、鼻歌を漏らしたり、鏡の前で微笑んでみたり、な
どということはするはずもない。だがこの少女にしては珍しく、鏡の前に立ち髪など梳か
しているところをみると、レイはレイなりに気持ちが高揚していたのかもしれない。

「もう、行かなくては駄目……」

 携帯でもう一度時刻を確認すると、身支度もそこそこに、レイは小走りに部屋を出た。
 シンジのことを思い浮かべる度、沸きあがる不思議な想い。その先には一体何が待ちう
けているのか。それを見通すことなど出来ないが、今はこの想いに我が身を委ねてみよう。
レイはそう思っていた。
 少なくとも、そうしてはいけないという命令は誰からも受けていないのだから。





『あらレイ、思ったより早かったわね。ちょっと待ってて、今鍵開けるから』
「……はい」

 ミサトに出迎えられ玄関で靴を脱いでいる時、レイは何となしに違和感を覚えた。
 電話を受けた時とは違い、妙に静まりかえった奥のリビング。そして自分に向けられる
ミサトからの視線。その何れからも、ピリピリとした緊張感のようなものが感じられたの
だ。
 この雰囲気は零号機の再起動実験の時と似ている。レイはそんなことを思ったが、その
緊張感の源までは、さすがに予想することは出来なかった。

「さ、入ってちょうだい」
「……はい」

 先導するような形で前に立っていたミサトは、リビングの入り口で立ち止まると、わざ
わざ促してレイを先に部屋に入れた。

「あ〜、ママぁ」

 するとレイを迎えたのは、その姿に気づいたキミちゃんの嬉しそうな声だった。

「やっぱりそうなのね、シンちゃん……」
「このケダモノ、優等生みたいな世間知らずを……」

 レイに向けられるキミちゃんの視線とは対照的に、アスカとミサトがシンジに送るそれ
は、絶対零度の冷たさに満ち満ちている。すると、状況についていけないレイがその場に
佇むのを横目に、シンジが慌てて抗議の声を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってよ二人とも! こんなのどう考えても変だよ。だってこの子は三
才なんでしょ? もしそうなら、どうやって三年前に僕と綾波が、その、そういうことで
きるんだよ!」

 少ししどろもどろだが尤もな主張に、ミサトとアスカは思わず黙りこむ。だが、それで
シンジの疑惑が完全に晴れたわけではなかった。

「じゃあ、目の前にいるこの子は何なのよ。この子の存在自体が動かぬ証拠じゃない」
「そんなこと言われたって、僕だって分からないよ」
「まあまあ二人とも、ちょっと待ちなさいよ。折角来てくれたんだから、レイにも話を聞
くのが先よ」

 堂々巡りの議論を遮ると、ミサトは年長者らしい態度でその場の主導権を握った。促し
てレイをシンジの隣に座らせると、ミサトはその直属の上司のように、目の前で指を組み
尋ねた。

「レイ、今から私の聞くことに正直に答えること。これは命令。いいわね?」
「はい」
「よろしい。じゃあ聞くけど……あんたシンちゃんとはどこまでいってるの?」
「ミ、ミサトさん!!」

 何でそんな質問が出てくるのかと、思わず気色ばむシンジ。だが質問の意味が理解でき
ないらしいレイは、無表情のまま瞬きをするばかりだった。

「い〜から、シンちゃんはおだまんなさい。で、どうなのレイ?」
「……質問の意味が分かりません」
「あ〜、あんたそっち方面に疎そうだもんね。要するにさあ……」

 キスだとかHだとか舌だとか、そんな言葉を使いかけたミサトは、はたと口をつぐんだ。
おそらくその意味など理解できないだろうが、幼児の前でそんなことを口にするのは何と
なく憚られたのである。

「要するに、そうね……。ほら、よくABCとか言うでしょ。それでいくとどこまで進ん
でるわけ?」
「……よく分かりません」
「あ、そう……」

 話の取っ掛かりすらつけることができず、状況に行き詰まりを感じるミサト。すると、
その隣に座っていたアスカが軽い忍び笑いを漏らして言った。

「バッカね、ミサト。優等生がそういうことに詳しいわけないじゃん」
「う〜む、今時ABCなんて、ちょっち古かったかしら……」
「そりゃそうよ。だってそれってミサトが子供の頃の言葉でしょ。セカンドインパクト前
の言い方なんか、アタシたちが使うわけないじゃん」
「あら、そう言う割には妙に詳しいのね、アスカ」
「アタシ? も、もちろんアタシは知ってるわ。日本の文化研究は、ドイツでみっちりや
ってきたもの」

 と言いつつ、軽く胸を張るアスカ。実は文化研究などではなく、先日伊吹マヤから偶然
そのことについて聞いていただけなのである。だがそんな裏の事情は微塵も感じさせない
のが、この少女らしいところだった。

「じゃあアスカ、あんたその意味をレイに教えてあげてよ」
「はあ? なんでアタシが……」
「いいからいいから。こういうのをシンちゃんに頼んでも、照れちゃうだけでしょ。ほら、
子供の前じゃなんだから、レイの耳でも貸してもらいなさい」
「え〜、面倒くさいわね〜」

 責任ある地位を与えられ常に命令を出す立場にあるためか、ミサトの口調には不思議な
説得力がある。アスカは軽い不満の声をあげつつも、立ち上がりレイのすぐ脇まで歩を進
めた。

「……んじゃ、ちょっと耳貸しなさいよ」

 そしてレイの耳元で、アスカがゴニョゴニョと何かを耳打ちする。

「……そうなの?」
「アンタねえ、アタシが信用できないって〜の?」

 無表情のまま尋ねるレイに、アスカは自身満々で答えた。

「で? レイ、どうなの?」
「……Cまでなら」

 少し考え込んだ後で、やや顔を俯き加減にし、呟くようにして答えるレイ。その頬がご
く僅かではあるが、ほんのりと赤らんだのをミサトは見逃さなかった。

「マ、マジで……?」
「何よ、ミサト知らなかったの? その話だったらアタシも聞いたことあるわよ。確かヤ
シマ作戦の後のことでしょ?」

 アスカがそう尋ねると、レイがコクリと頷く。

「そ、そんな……」

 いくら作戦の後処理で忙しかったとはいえ、パイロット管理が業務に含まれる以上、こ
れはミサトの失態であろう。
 保護者失格。
 監督不行き届き。
 一年間の減法処分。
 不吉な言葉の数々がミサトの頭を浸食し始めるが、それならばまだいいのだ。

『葛城一尉、君には失望した』

 そんな言葉を耳元で囁かれたような気がして、ミサトは、ヒューっと首筋の辺りが涼し
くなるのを感じた。

「あ、悪夢だわ……」

 脳裏で展開される最悪のシナリオに、半分逝ってしまっているミサト。するとその傍ら
で、会話の内容についていけないシンジが疑問の声をあげた。

「あの、ミサトさん、Cってどういう意味ですか?」
「シンちゃん、Cってのはねえ……要するに……そういうことよ……」

 重い重い口調と共に、ミサトがチラリとキミちゃんを見やる。シンジは少しの間ポカン
としていたが、やがて言葉の意味を理解したらしい。その頬がまず真っ赤になったかと思
うと、次の瞬間には見る見るうちに青ざめていった。

「な……。ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ綾波。どうしてそんな嘘つくんだよ!」

 まるで身に覚えのない告発に、慌てて反論するシンジ。するとレイは、彼女にしては珍
しく、少しムッとした様子で言い返した。

「……嘘は言っていないわ」
「で、で、でも、僕たちがいつそういうことしたのさ」
「……碇くんは、忘れてしまったの?」

 視線を落としポツリと呟くその口調に、ほんの僅か失望の色が混ざる。

「わ、忘れたって言われたって……」

 そこで、しんと静まりかえる葛城家のリビング。だが、事があったのを否定する男と、
それを忘れたのかと主張する女では、どう贔屓目に見ても勝敗は明らかである。ミサトは
ジットリとした目でシンジを見つめると、やがてボソリと言った。

「シンジ君……。悪いこと言わないから、とぼけてないで責任取んなさい……」
「ほ、本当ですよ。僕そんなことしてないです。ねえ、綾波も何とか言ってよ」
「……」

 絶体絶命、四面楚歌。
 追い詰められたシンジは必死になって訴えるが、レイは視線を下げたまま何も答えない。
すると、場の微妙な雰囲気を敏感に感じ取ったのか、シンジの膝の上のキミちゃんが二人
の間に割って入った。

「パパ、ダメだよ。ママとけんかしちゃダメ!」

 それは場にぎこちない沈黙が漂いだした矢先、完璧なタイミングでの仲裁だった。だが
思いも寄らぬ疑惑に取り乱していたシンジは、幼児相手ということも忘れ、思わず声を荒
げてしまった。

「な、何だよ。大体、原因は全部君なんじゃないか。さっきからパパ、パパっていい加減
にしてよ! 僕は君のことなんか知らないし、君のパパなんかじゃないんだよ!!」

 積もりに積もったものがついに爆発したのか、思いの丈をぶちまけるシンジ。
 再び静まりかえったリビングの中、キミちゃんは驚いたようにシンジを見つめたが、や
がてその表情がクシャクシャになり、目尻からは光るものが零れだした。

「う……うぇ……うえぇぇぇぇん!」
「あ〜あ、泣かせちゃった」
「バカシンジ、最低」
「あ……。だ、だって、僕……」
「うえぇぇぇぇん、ママぁ」

 シンジに大声をあげられたのが、よほどショックだったのだろう。大きな声でワンワン
泣き出すと、レイの服の裾を掴むキミちゃん。
 だがそんな少女の様子を、レイは無感動に見つめるだけだった。自分には関係がないと
言わんばかりの、無関心な紅い瞳がキミちゃんを射すくめる。すると、さすがにそれを見
かねたのか、珍しくアスカが自分の方からレイに話しかけた。

「ちょっと、優等生」
「……何?」
「その子、抱っこしてあげなさいよ」
「……抱っこ?」
「ホントのとこは知らないけど、少なくともその子はさ、あんたのことママだと思ってる
んでしょ。だったら抱っこくらいしてやんなさいよ」
「うえ……ぇ……ママぁ」

 少女は頬を真っ赤に紅潮させ、ポロポロと涙を零しながら、レイに縋りつこうとしてい
る。それまで経験したことのない状況に、レイは少し戸惑った表情を浮かべたが、やがて
ゆっくり両手を伸ばすと、シンジの膝の上からキミちゃんを譲り受けた。

「う、うぇ、ぇ、ひっく、ぅ……」

 キミちゃんはギュッとレイの首に縋りつくと、肩を震わせ嗚咽を漏らし続けた。だが母
親だと信じる温もりに包まれ、安心したのだろうか。時が流れるに連れ、その泣き声が少
しずつ小さくなっていく。
 それを無言で見守る三人は、二人のそんな様子に、不思議な温かさのようなものを感じ
ていた。全く奇妙な話なのだが、それはまるで、本当の母親が愛する我が子を抱いている
ような、そんな光景のように思えて仕方がなかったのである。



<Prologue「Kimiの名は」目次Next>

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