あれから、もう十年が経つのね。
 暮れなずむ窓越しに、灯り始めた街の灯りを眺めていると、ふとそんな思いがレイの胸
をよぎるのだった。
 十年と、言葉にすればたったの一言だが、その一言の中になんとたくさんの事柄が凝縮
されていることか。
 嬉しいことがあった。心から幸せを感じることがあった。そしてその裏にひっそりと隠
れているのは、幾つかの辛いことや悲しい思い出たち。
 過ぎ去った時間の心のアルバムを開くと、まず思い起こすのは、いつも十四歳の夏のこ
とだった。未来の自分と出会い、新たな道を知り、生涯の伴侶を見つけた。
 今の自分は幸福だと、心から言うことができる。
 だがもしあの時、未来の自分に出会っていなかったら、夫と共に辿ってきた道はどう変
わっていたのだろう。
 今でも、鏡の前に立ち自分自身を見つめていると、愚にもつかぬ考えに捕らわれること
がある。今の生活は全て夢なのではないか。朝目を覚ましたら、あの剥き出しのコンクリ
ートが自分を待っているのではないか。そんな幻想だ。
 どうしてそんなことを思うのかと、心の中から不安を振り払おうとしても、一度生まれ
た疑念は容易に消えていこうとしない。
 そんな日は娘を誘い、夫と三人で同じ布団で眠るのが常だった。
 もう自分は一人ではない。
 そのことを確認するために。
 今自分が手にしている幸せを、胸一杯に吸い込むために。



Kimiの名は −Epilogue−



「レイ、そろそろ出発だよ」
「ええ、今行くわ」

 背後から聞こえたシンジの声に、自室の部屋の窓から目を放すと、レイは極力平静を装
って答えた。だが長く連れ添った夫が相手では、どうやら隠し事はできないらしい。深紅
の瞳の中に微かな憂いの色を見つけたのか、シンジはレイの元に歩み寄った。

「どうしたの?」
「何でもないの。ただ、少し昔のことを思い出していただけ」
「……あの頃のこと?」
「ええ。もしあの時、未来の自分に会っていなかったら、私はどうなったのかなって……」
「レイ……」
「私ね、キミを過去に置いてきてから、よく夢を見るの」
「どんな夢?」
「朝起きたら、私は十四歳に戻っていて、また一人ぼっちになっている。そんな夢」
「そんなこと、あるわけないよ……」
「そうね、自分でもそれは分かっているんだけど……。きっと十年前に戻ってから、少し
ナーバスになっているのね」

 そう言って無理に微笑んでみせるレイに、シンジは何も言葉を返さなかった。完全にと
は言わないまでも、妻の心境はよく分かるつもりだった。あの頃の思い出は、決して楽し
いものばかりではない。おそらく十年前に戻ったことにより、レイの中でその記憶が鮮明
に蘇ってしまったのだろう。
 シンジはレイを軽く引き寄せると、愛おしむ様にその蒼銀の髪に鼻を埋めた。

「レイを一人になんかしないよ」
「ありがとう、あなたのこと信じているわ」
「行こう、キミが向こうの世界で待っているよ」
「ええ。でも少しだけ、こうさせて」

 昔より少し厚みを増したシンジの胸に、レイはそっと体を預けた。

「ねえシンジ」
「何?」
「私、あの頃から変わったかしら?」
「そうだね……。うん、いろんなところが変わったと思う」
「どんなところが?」
「例えば、レイはすごく甘えたがりになった」
「そうかしら」
「自分では気づいてないだけだよ。あ、それから、最近はレイも、少しはTPOが分かっ
てきたかもね」
「どういうこと?」
「昔はさ、人前でも平気でこういうことしてきただろ? 今はさすがにそれはないけど」
「そんなこと……」

 硬くなりかけた雰囲気をほぐそうとでも言うのか、いたずらっぽく笑うシンジ。レイは
拗ねたような口調で反論しかけるが、夫の指摘は確かに尤もで、多分に思い当たる節もあ
る。軽い羞恥心に頬を染めたレイは、それを隠そうとするかのようにシンジの胸に顔を埋
めた。

「そういえば、もう一つ変わったところがあるかな」
「え?」
「昔より、何ていうか、その、ずっと綺麗になった」

 ぎこちなく自分を褒める夫の言葉に、レイは思わず噴き出した。
 さらりと言えればそれなりに格好のつく台詞なのに、軽く言葉に詰まるところがこの人
らしい。そう思ったら、込み上げた笑いが止まらなくなってしまったのだ。
 自分の胸の中で肩を震わせ笑うレイに、シンジは軽い抗議の声を上げた。

「そんなに笑わなくたっていいじゃないか」
「ごめんなさい。でもあなたの言い方がおかしくて」
「結構本気で言ったんだけどな……」
「ふふ、分かってるわ。シンジにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」
「本当にそう思ってる?」
「ええ、本当よ」

 やっと笑ってくれた妻のことが嬉しく、蒼銀の髪を梳きながら微笑むシンジ。
 レイは夫の手の心地よい感触に身を任せながら、うっとりと目を閉じた。

「ねえシンジ」
「ん?」
「キミは、元気でやっているかしら」
「不安?」
「不安とは少し違う気がする。でも心配なのは確か。シンジは?」
「そうだね。僕もレイと似たような気持ちだよ」

 既に十年前へと送り込んだ愛娘は、過去の世界で決して短くない時間を過ごしているは
ずだった。自分たちの時がそうだったように、今回も大きなトラブルはないと信じたい。
だが少女を受け入れる立場だった時と違い、親の側から考えると、様々な事が気にかかっ
て仕方がなかった。

「あの子、みんなに可愛がってもらっているかしら」
「僕たちの自慢の娘だからね。きっとうまくやってるよ」
「これで、十年前の私たちの未来も変わるといいわね」
「そうだね、そうだといいね」
「ねえシンジ、あの時、あなたが私に言ってくれた言葉を覚えている?」
「あの時?」
「あなたが、私の部屋に来た時のこと」
「ああ……」
「あの時シンジは言ってくれたわね。私に、ずっと隣にいてほしいって」
「そうだったね」
「今でも、それは変わってない?」
「当たり前じゃないか」

 労るように蒼銀の髪を撫でながら、シンジはレイの耳元で囁いた。

「どうしたの? 今日のレイは、いつもよりずっと甘えたがりだ」
「だって、キミが生まれてからは、こういう時間も減っていたから」
「そうだね、そうかもしれないね」
「ねえシンジ、私ね、過去に戻った後で、一つ思い出したことがあるの」
「どんなこと?」
「私は、あなたの愛情なしでは生きていけない、弱い存在なんだなって」
「レイ……」
「だからこんな風にして、時々シンジに甘えて。そうして、自分はあなたに愛してもらっ
てるんだって、確かめたくなるのね」
「さっきみたいなことでよければ、何度でも言ってあげるよ」
「今度はどもらないでね」
「もう、茶化さないでよ」
「ふふ、ごめんなさい」

 レイは楽しそうに微笑みながら、シンジの背中に両腕を回した。

「ねえシンジ、知っている?」
「何を?」
「私、今とっても幸せよ」

 言葉を止め、微笑みを交わし合うと、シンジとレイは相手の温もりを求め合った。触れ
合う部分から感じるのは、互いへの愛情と、その温かさ。
 やがて唇が離れると、レイは夫の広くて温かい胸に顔を埋め、甘えるように頬を擦り寄
せ始める。シンジはそんな妻を優しく受け止め、柔らかく包み込んでいくのだった。
 二人の傍らを、静かでゆったりとした時間が流れていく。
 ようやくレイがシンジの胸から顔を起こしたのは、窓越しに二人を照らしていた夕日が
沈み、夜の闇が夕焼けに取って代わろうとする頃だった。

「もういいの?」
「ええ」
「それじゃ、行こうか」

 そう言って、さりげなく右手を差し出すシンジ。
 そんな夫の姿は、レイの記憶の中のある光景を呼び覚ますのだった。

「どうしたの、急に?」
「何だか、僕も昔のことを思い出してさ」
「そう、そうね」

 あの時と同じように、シンジが差し出した手をしっかり握ると、レイはそっと夫の側に
寄り添った。妻の温もりを間近で感じるシンジは、何も言わず、ただレイに微笑みかける。
レイにはその微笑みが、遠い昔に見たそれと全く変わっていないように思えた。温かく、
柔らかく、そして優しく自分を包み込む彼の愛情は、かつては想像すらできなかった未来
を自分に与えてくれた。
 今の自分がそうだったように、これから出会う十年前の自分も、彼女だけの未来へ一歩
を踏み出すのだろう。
 願わくば、それが幸せな道でありますように。
 その先にあるはずの、笑顔と喜びに満ち溢れた未来を、彼女も手に入れられますように。
 繋いだ手の温かさを感じながら、レイは静かに祈るのだった。



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