ドアノブが回り、碇レイがその場に姿を現した時、シンジは、自分の心臓がドクンと音
を立てて跳ね上がったのを感じた。
 部屋の中では一体どんな会話が交わされたのか。綾波レイの様子はどんなものだったの
か。そして、自分はこれから何をすべきなのか。
 ぞくり、と首筋から生まれた震えが体中を駆け巡る。そして、緊張とも興奮ともつかな
い感情が、シンジの中一杯に広がっていくのだった。

「レイ、どうだった?」

 夫の問いかけに静かに微笑むと、レイは、不安げに自分を見つめるシンジの瞳を覗き込
んだ。

「彼女、あなたのこと待ってるわ」
「綾波が?」
「ええ、行ってあげてくれる?」
「は、はい」
「頑張ってね」

 レイの微笑みを背にしながら、シンジはドアノブに手を掛けた。緊張のせいか、手が軽
く震えるのを止められない。エヴァに初めて乗ったときですら、ここまで緊張しなかった
のではないか。心臓が喉から飛び出してきそうな錯覚に襲われながら、シンジは扉を開き
部屋の中へ足を踏み入れた。

(未来は、僕の手で……)

 シンジの手の平が、無意識に開いたり閉じたりを繰り返している。
 一歩一歩、胸の鼓動を感じながら前へ進むと、やがてレイの姿が視界に入った。

「綾波……」

 ベッドに腰を下ろしていたレイは、シンジの姿に気づくと顔を上げた。
 少し前まで泣いていたせいか、レイの目の下は赤く腫れぼったくなっており、その表情
からは何か思い詰めたような印象を受ける。そんなレイを目にするのは、シンジにとって
初めてのことだった。

「あの……」
「……」
「あの、綾波と、話がしたくて……」

 途切れ途切れに言った後、どう話を続けていいのか分からなくなり、シンジはその場に
立ちすくんだ。とにかくレイに会わなければという一心で、何も言葉を準備していなかっ
たのだ。こんな時なのにしっかりしろと自分を叱咤しても、焦れば焦るほど言葉が頭の中
から零れ落ちていく。何も言えないままぎこちない沈黙が続き、その息苦しさに、いつし
かシンジの手にはジットリしたものが浮かび上っていた。

「碇くん……」
「え?」
「私……」

 そう漏らしたきり、今度はレイが言葉を失い黙り込んだ。その目線は一点に落ち着かず、
時折何か言いたげにシンジの様子を窺う。よく見ると、何度かその口が開きかけるのが分
かったが、そこから言葉が紡ぎ出されることはなかった。

(綾波も、きっと僕と同じなんだ……)

 軽く眉根を寄せ、下唇を噛むレイの様子に、シンジはそれを悟った。
 相手への思いを言葉にできず、自分自身をもどかしく感じているのは、レイもまた同じ
なのだ。伝えたいことがあるのは、自分だけではない。レイはレイなりに、未来への一歩
を踏み出そうとしている。
 それに気づいたことが、シンジの心を強くした。

(逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ……)

 初めてエヴァに乗ったとき、呪文のように繰り返した言葉。それを三度心の中で唱える
と、シンジは顔を上げた。
 気の利いた言葉などなくてもいい。自分の中のまっさらな思いを、そのまま彼女へと伝
えればいい。シンジの眼差しから当惑の色が消え、強い決意の光がそれに取って代わった。

「未来は、自分で作るんだって言われたんだ……」
「……」
「自分がこれからどうなるかなんて、僕には分からないけど、でも……」

 言葉が途切れ、体がかっと熱くなる。
 ありったけの勇気を自分の中からかき集め、シンジは喉から言葉を絞り出した。

「でも僕は、綾波に、ずっと僕の隣にいてほしいんだ」

 大きく息をつく。今の自分に言える精一杯の言葉。
 体から急激に力が抜けていく気がした。
 彼女は何と言うだろう。
 俯いた前髪に隠れ、その表情は窺いしれない。
 シンジの心の中で期待と不安が同時に膨らみ始めたとき、レイは微かに顎を上げ、かろ
うじて聞き取れるくらいの声で言った。

「私も……碇君の隣にいたい……」

 その一言だけで、二人には十分だった。

「行こう」

 シンジが差し出した手を、ベッドから立ち上がったレイが握り返す。
 柔らかな感触を愛おしむように、そっとレイの手を包み込むシンジ。
 それは、二人が新しい未来への一歩を踏み出した瞬間だった。



Kimiの名は −最終話−



 喜びと高揚感で体が熱くなっていたせいか、ドアを開くと、思いの外ひんやりとした風
がシンジとレイの頬を撫でた。そして、部屋の前で二人を待っていた未来からの客人は、
手を繋いだかつての自分たちを見て、優しく微笑むのだった。

「良かった、うまくいったみたいだね」
「はい、何ていうか、あの……」

 二人の笑顔がどうにもくすぐったく、照れくさそうに身じろぎするシンジ。レイはと言
えば、どこかポ〜っとしながらその場に佇んでいる。どうやらこの少女は、シンジと繋い
だ手の方が余程気になるらしく、時折そこに視線を送っては、ほうっと軽い吐息を漏らす
のだった。
 十年前には、自分もあんな風だったのだろうか。
 未来から来たレイには、かつての自分の姿が微笑ましく思えて仕方がなかった。

「良かったわね。碇くんにプロポーズしてもらえたみたいで」
「プロポーズ?」
「ずっと隣にいてほしいって言われたんでしょう?」
「ええ」
「あ、あの、プロポーズって、僕は、別に、その……」
「あら、違うの? じゃあさっきの言葉は嘘?」
「う、嘘じゃないけど……」

 いたずらっぽく微笑む碇レイに、シンジはひどくうろたえた。あの時は夢中で考えもし
なかったが、今思えば、確かにあの一言はプロポーズと取られても仕方がない。
 横目で様子を伺うと、俯くレイの頬がほんのり赤く染まっている。
 どうやら彼女は、未来の自分の言葉を大分真に受けているようである。
 もしかしたら、自分はとんでもないことを言ったのかもしれない。そんな思いに、シン
ジは身を固くするのだった。決して後悔があるわけではないが、もう少し心の準備が欲し
いというのもまた、少年の本音である。

「レイ、あんまりからかっちゃ駄目だよ」
「そうね、ごめんなさい」

 とフォローを入れつつも、顔を見合わせ忍び笑いを漏らす二人。するとそれを不思議そ
うに見つめていたキミちゃんが、父親の服の襟をクイクイと引っ張った。

「ねえパパ、なんでそんなに笑ってるの?」
「え? ああ、ごめんごめん。あっちにいるパパとママが何だかおかしくてね」
「どうして? あたし全然おかしくないよ?」
「はは、キミにはまだ分からないかもしれないね」
「ね、パパ、あたしね、もういっこ不思議なことがあるの」
「なんだい?」
「あのね、こっちにもママがいて、あっちにもママがいて、ママが二人いるの」
「うん、そうだね。でもパパが二人いるのと同じで、こっちのママもあっちのママも、キ
ミのママなんだよ」
「そいじゃ、どっちのママもあたしのこと好き?」
「うん、大好きだよ。ね、レイ?」
「ええ、もちろん」
「えへへ」

 キミちゃんはにっこり微笑むと、嬉しそうに父親の首にしがみつく。その仕草がひどく
可愛らしく、シンジの頬は自然と緩んでいくのだった。

「その子と、すごく仲がいいんですね」
「おかげさまでね。でもこの子がこんなになついてくれるのも、今のうちかもしれないな」
「あの、その子のことで少し聞いていいですか?」
「何だい?」
「その子は、二人の子供なんですよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、その子を僕たちの所に連れてきたのは……」
「うん、僕とレイだよ」
「でもどうやってそんなこと……」

 シンジが軽く首を傾げると、未来から来たシンジはすぐにその疑問に答えた。

「ここに来た時に、駐車場に車が一台止めてあるのを見なかった?」
「駐車場? あ、そういえば……」
「あれに乗って、僕たちはここに来たんだ」
「車に乗って、ですか?」
「詳しい原理は僕もよく分からないんだけど。でもあの車に乗って、時間を超えてきたっ
て考えればいいと思う」
「それって、タイムマシーンみたいなものですか?」
「そうだね、そういうことになるのかな」
「でも、そんな夢みたいなものをどうやって……」
「あれはリツコさんが中心になって、ネルフ技術部が開発したものなんだ。リツコさんに
言わせれば、古い映画にインスピレーションを受けたらしいよ。実際に使う車種にまで拘
ってたみたいだから」
「そんなものを作るなんて、リツコさんってすごい人だったんですね……」
「正確には、リツコさんともう一人が中心になったんだけどね」
「もう一人? それって、マヤさんか誰かですか?」
「ふふ、それは内緒にしておくよ。それより、君に一つ頼みたいことがあるんだ。レイ、
あれ持ってきてるよね?」
「ええ、もちろん」

 やや唐突に話題が変わったかと思うと、レイはバッグの中からごくありふれた封筒を一
通取り出した。

「これを父さんに渡してくれないかな」
「父さんに?」
「もし直接渡すのが難しいなら、ミサトさんやリツコさんを通じてでも構わない。でもと
ても大事なことだから、必ず父さんの手に渡るようにしてほしいんだ」
「分かりました。でも、中身は何ですか?」
「それも秘密にしておくよ。きっと君たちも、僕たちの年になったら分かると思うから」
「はあ……」

 いたずらっぽく笑う未来の自分に、シンジは冴えない返事を返した。

「あの、もう一つ聞きたいんですけど」
「何だい?」
「その子を僕たちの世界に置いてきて、心配じゃなかったですか?」

 そう尋ねると、シンジ夫婦は互いに顔を見合わせた。

「全然不安がなかったって言えば、それは嘘になるよ、正直ね。でもレイとよく話し合っ
て、最後は自分たちを信じようって決めたんだ」
「そうですか」
「実際キミの様子を見てると、それは間違ってなかったって思うよ。ねえキミ、キミはこ
っちのパパとママと一緒で楽しかった?」
「うん、とっても楽しかったよ」

 ほらね、とばかりにウインクしてみせると、未来のシンジは更に続けた。

「実はね、今日はこの子の誕生日なんだ」
「今日が、ですか?」
「うん、だから未来に戻ったら、この子の誕生日をみんなで祝ってあげようと思ってね」

 すると誕生日という言葉に、シンジの腕の中のキミちゃんが敏感に反応した。

「パパ、きょうはあたしのおたんじょーびなの?」
「そうだよ。キミはもう四歳になったんだよ」
「じゃあみんなで、おたんじょーかいする?」
「うん、みんな家でキミのこと待ってるよ」
「ほんと? お〜っきなケーキもある?」
「もちろん。ママが焼いた美味しいケーキがキミのこと待ってるよ。だから夕御飯の後は、
みんなでケーキを食べようね」
「やったあ!」

 余程楽しみにしていたのだろう。大きな声を上げると、父親の腕の中で盛んにはしゃぐ
キミちゃん。そしてそんな愛娘の姿を、未来のシンジとレイは目を細めながら見つめるの
だった。
 端から見れば、キミちゃん親子の仲の良い姿は、とても微笑ましい光景だったに違いな
い。だが、三人を見つめる綾波レイの心中は複雑だった。

「その子、連れていくの?」
「うん、そうなるね……」
「そう……」
「キミのこと可愛がってくれたんだね、ありがとう。でも、この子はこの世界にいたまま
ではいけない子だから」

 理性では、それが正しいことはよく分かっていた。あの子は目の前にいる二人の子供な
のだから、本来いるべき場所に戻らなくてはならないのだ。
 だが感情と理性が必ずしも一致しないことを、今のレイは知っていた。

「あまり悲しまないで。今のあなたは、もう一人ではないのだから」
「……」
「一人が寂しい時は、碇くんのところに行きなさい。彼も、それを望んでいるはずだから」
「ええ」

 二人のレイに見つめられ、やや緊張した面持ちで頷くシンジ。その迷いのない眼差しは、
少年の中に宿る強い意志を映し出しているようだった。
 彼と一緒ならば、この世界のレイもきっと明るい未来を築くことが出来るだろう。
 確信に近い思いと共に、レイは愛する夫のかつての姿を眩しい思いで見つめた。

「私をよろしくね、碇くん」

 淡い香水の匂いが鼻をくすぐる。そして気が付いたときには、シンジは未来のレイの腕
の中に包み込まれていた。

「あ、あの、頑張ります」
「ありがとう」

 それは軽い抱擁以上のものではなかったが、シンジを虜にするには十分だったらしい。
優しく微笑むレイにすっかり魅入られたシンジは、解放された後も、熟し切ったリンゴの
ように頬を赤く染めたままだった。

「あ、え、えっと、レイ……」
「何、あなた?」
「あの、彼女、睨んでるよ……」
「睨んでる?」

 未来のシンジは、何か気まずそうな表情で、妻に対して目配せをしていた。レイがその
視線を追うと、その先には、厳しい表情で自分を睨む綾波レイの姿があった。

「そうね、ごめんなさい。彼はあなたの碇くんなのよね」

 焼きもちを焼いているかつての自分に対し、碇レイは軽く目を細めると、未だぼ〜っと
しているシンジに語りかけた。

「知っていた? 私はね、こう見えて少し焼きもち焼きなの。だから彼女にも、他の女の
子と仲良くしているところを見せては駄目よ」
「は、はい……」

 どもり気味にシンジが応じると、レイは微笑みをそのままに、まだ厳しい表情を崩さな
い少女に声を掛けた。

「あなたも、もし彼が浮気したら、お尻をつねってあげるといいわ」
「浮気?」
「ええ。あなたにはライバルも多いはずだから、油断しては駄目」
「そう……」
「レイ、あんまり変なこと言わないでよ。それじゃ僕が浮気っぽいみたいじゃないか」
「あら、じゃあこの間、私に内緒でマナさんとお茶をしていたのは誰?」
「い、いや、だから言ったじゃないか。あれは、本当に街で偶然会っただけで……」
「どうかしら」
「し、信じてよ、僕は断ったんだけど彼女が強引に……」

 と、反論しかけてシンジは口をつぐんだ。自分が慌てる様子を見て、レイがクスクスと
笑いだしたからだ。

「な、何だよもう、本当は分かってるくせにさ」
「さあ、どうかしら」

 いたずらっぽく笑いながら、わざとらしく、ぷいっと横を向いてみせるレイ。すると、
母親のそんな仕草に興味を引かれたのか、キミちゃんがシンジの肩を叩きながら尋ねた。

「ねえパパ、うわきって、な〜に?」
「キ、キミはまだそういうことは知らなくていいの」
「う〜、パパずるい。あたしにも教えて」
「だ〜め、キミにはまだ早いよ」
「じゃあいいもん、あたしママに聞くもん。ねえママ、うわきって何?」
「浮気っていうのはね、パパがママ以外の人を好きになることよ」

 などとレイが一方的なことを言うと、それを真に受けたらしいキミちゃんは、驚いたよ
うに言った。

「う? パパ、ママじゃない人が好きなの?」
「さあ、どうなのかしら。じゃあパパに、一番好きな人は誰か聞いてみたら?」
「ちょ、ちょっとレイ……」
「う〜。パパ、パパは誰がいちばん好きなの?」

 ママ以外の人が好きだったら許さない。そう言わんばかりの勢いで、キミちゃんはシン
ジに迫った。

「や、今ここでそんなこと言わなくても……」
「だめ、今ちゃんと言うの」

 真剣な瞳でキミちゃんがそう言うと、未来のシンジは困ったように頭をかいた。おそら
くは、かつての自分たちの前で、そんなことを口にするのが照れくさいのだろう。だが、
すぐ脇にいる妻からのプレッシャーもあってか、やがて青年は、頬を赤くしながらも答え
るのだった。

「えっと、パパは、ママのことが好きだよ」
「どのくらい? いちばん好き?」
「うん、一番好きだよ」
「ママ、パパね、ママのことが一番好きだって。よかったね〜」
「ふふ、そうね。これもキミが聞いてくれたおかげね。ありがとうキミ」
「えへへ〜」

 キミちゃんとレイが微笑みあう一方で、未来のシンジは少々居心地が悪そうだった。妻
の尻にしかれているのを昔の自分に見せるのは、決して格好がいいものではない。シンジ
にしてみれば、これでは立場がないと思っているのかもしれなかった。
 だがそんな未来の自分を目の当たりにしても、十四歳のシンジは不思議と罰の悪さを感
じなかった。むしろ逆に、こんな自分の姿もまた、自分らしいかもしれないなどと思うの
だった。
 大事なのは、未来の自分たちが幸せなこと。家族全員が、お互いのことが大好きだとい
うことではないか。そして自分も、いつかこんな家族を持つことができたら、それはどん
なに素敵なことだろう。
 そんな思いと共に、シンジは眩しげに、未来の自分たち家族のことを見つめるのだった。





 レイの部屋を出たときの興奮が冷め、気持ちが落ち着きを取り戻すと、シンジの中では
むくむくと好奇心が顔をもたげてきた。
 折角未来の自分がいるからには、聞きたいことはたくさんあった。未来の自分はどんな
仕事をしているのか。父との関係はどのようなものになっているのか。友人たちはどんな
道に進んでいったのか。
 だがそれらの疑問に、もう一人のシンジは首を振り言うのだった。
 君には君の未来があるのだから、答えは自分でみつけるのだと。
 何かうまくはぐらかされたような気もしたが、それはそれでいいのかもしれないとシン
ジは思い直した。自分の将来を全て知ってしまうよりも、まだ見ぬ道を自分の足で進んで
いく方が良いことのように思えたからだ。
 その後も四人は、時折キミちゃんを交えながら雑談を続けた。だがやがて話題もつき始
め、会話も途切れ途切れになってくると、未来のシンジとレイは思わせぶりな視線を交わ
すようになった。そこに言葉はなく、二人は目と目だけで会話をしていたが、シンジには
その内容が分かる気がした。
 おそらくは、もう別れの時間が迫っているのだろう。キミちゃんを含めた三人は、彼ら
が住むという未来に帰っていくに違いない。
 それを思うと、何とも言えない切なさがシンジの心を覆う。だがそれは、決して避けて
は通れない道なのだ。

「もう、行くんですか?」

 そう静かに尋ねると、未来から来たシンジは僅かに頷いた。

「うん、もうそろそろ行くよ」
「あの、ありがとうございました」
「僕は何もしていないよ。これから何かをしていくのは、君自身なんだ」
「あの、僕、頑張ります」
「うん。綾波のこと、幸せにしてあげるんだよ」
「はい」

 精一杯の決意を込めてそう言うと、微かに微笑む未来のシンジ。そしてその脇では、二
人のレイが別れの挨拶を交わしていた。

「あなたも頑張ってね」
「ええ」
「もう、彼の手を離しては駄目よ」
「大丈夫」

 先程出あったばかりなのに、シンジには、目の前の二人がずっと昔からの知り合いのよ
うに思えた。最も彼らが未来の自分だというなら、そんな親近感を感じるのも不思議では
ないのかもしれない。
 だが考えてみれば、それも妙な話だとシンジは思った。
 何時の間にか、未来の自分などという非現実的な存在を受け入れている。
 或いはそれは、それを受け入れたいという自分の願望のせいだろうか。自分は、自分に
も目の前の三人のような将来があると信じたいのかもしれない。
 仲の良い家族三人の姿を見ていると、シンジにはそう思えてくるのだった。

「さあキミ、もう家に帰る時間だよ」
「う? もう帰るの?」
「うん、みんな家でキミにプレゼントを用意して待ってるんだよ。だからもう帰らなきゃ」
「ほんと? ジ〜ジもユイバ〜バもいる?」
「そうだよ」
「リツコバ〜バも、ミサトおばちゃんも、アスカお姉ちゃんも?」
「うん、みんなキミのこと待ってるよ」
「そいじゃ早くかえろう」

 そう言ってキミちゃんは嬉しそうに笑ったが、その無邪気な表情とは裏腹に、大人たち
の心中は複雑だった。
 誰かが彼女に伝えなければならない。こちらの世界には、もう戻ってくることはないの
だと。そしてそれは、こちらの世界のシンジとレイとは永遠のお別れなのだということを。
それが辛い役目になるのは、火を見るより明らかだった。

「ねえキミ」
「う? な〜にパパ?」
「あのね、キミはこっちのパパとママとはもうお別れをしなきゃいけないんだ。だから、
二人にちゃんとさよならを言いなさい」
「どして? あっちのパパとママは一緒にお家に帰らないの?」
「ううん、あの二人はね、別の家に帰らなきゃいけないんだ」
「でも、あっちのパパとママも一緒に帰ったほうがいいよ。だってそのほうが楽しいもん」
「キミ、それはできないんだ」
「でもあたし、そっちのほうがいいもん」
「キミはよくても、あの二人はキミとは一緒に行けないんだよ」
「そんなことないよ。あっちのパパとママも一緒にきてくれるもん。ね、パパ?」

 無垢な少女の一言に、シンジの表情が辛そうに歪む。

「ごめん、僕たちは一緒に行けないんだ……」

 思いがけない拒絶の言葉に、キミちゃんは驚いたように瞬きをした。

「なんで? パパとママも一緒に行こうよ……」
「ごめん……」

 いつだって自分のお願いを聞いてくれた、優しいパパ。それなのに今日に限って駄目だ
と言うなんて、何かの間違いに違いない。キミちゃんは、おねだりするときの目でもう一
度お願いしてみたが、シンジは無言で首を振るだけだった。

「……じゃ、またパパとママのとこに遊びに来てもいいでしょ?」
「それも、ダメなんだ」
「う〜」

 と悲しそうに呻いて、キミちゃんは物言いたげな視線で両親を見上げた。そうすれば彼
らが何か素敵な魔法を使い、自分の望みをかなえてくれるかのように。だが少女のささや
かな願いが現実になることはなかった。

「さ、二人にさようならを言いなさい」
「やだもん……」
「キミ……」
「やだもん……言わないもん……」
「キミ、あまりパパとママを困らせないで」
「だって……。う、ひっく、うぇ、うえぇぇん……」

 キミちゃんは口をへの字にし、意固地になってさよならを言うのを拒絶していた。だが
そうするうちに、自分がどんなに頑張っても、状況は変わらないと悟ったらしい。やがて
涙をこらえきれなくなった少女は、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
 それはキミちゃんにとって、別れを自分に納得させるための儀式だったのかもしれない。
 そんな娘を、髪を撫でながらあやすシンジ。
 横から少女の顔を覗き込み、優しく諭すように言葉をかけるレイ。
 ひとしきり泣いた後、キミちゃんは顔を上げると、まだ軽くしゃくりあげながら言った。

「ひっく、パパ……」
「なんだい?」
「あたし、あっちのパパとママにもう一回抱っこしてもらっていい?」
「うん、じゃあ行っておいで」

 父親の腕の中から降りると、キミちゃんはシンジとレイの前へ駆け寄った。

「パパ、ママ……」
「……僕たちは、違うよ。君の本当のパパとママはあっちだよ」
「ううん……」

 キミちゃんは首をふるふると横に振ると、シンジとレイを見上げて言った。

「パパとママも、あたしのパパとママだもん」

 そのクリクリとした黒い瞳には、再びキラリと光る物が溜まり始めていた。だがキミち
ゃんはそれをグッと堪えると、シンジに向かって両手を差し出した。

「パパ……」
「うん」

 シンジは精一杯の愛しさを込めて、キミちゃんの小さな体を抱きしめた。

「君がいて、とっても楽しかったよ」
「うん、あたしも楽しかった」
「何回か、大きな声で怒ったりしてごめんね」
「ううん、いいの。だってパパ、あたしのこと好きでしょ?」
「うん、大好きだよ」
「えへへ」
「向こうでも元気でね。風邪ひかないでね」
「うん、パパも元気でね」
「それと、あんまり好き嫌いしちゃ駄目だよ」
「だいじょぶ。あたし頑張ってニンジン食べれるようになるね」
「じゃ、さよならだね」
「うん……。パパ、ばいばい」

 シンジとの別れが済むと、キミちゃんは隣にいたレイに手を伸ばした。

「ママ、だっこ」

 シンジからキミちゃんを受け取ると、今度は抱き上げられたキミちゃんの方が、レイの
首にしっかりと抱きついた。

「ママ、プール一緒に行けないね」
「ごめんなさい」
「いいの、だってママといっぱい遊べたもん」
「そう……」
「ねえママ、あたしの代わりに金魚に餌あげてくれる?」
「分かったわ」
「あたし、がんばってニンジン食べるから、ママもちゃんとお肉食べてね」
「そうね」
「ママ、あたしのこと忘れないでね?」
「ええ……」
「あたしもママのこと忘れないからね」
「そう……」
「ねえママ、あたしママだいすきだよ」
「……」
「だからママ、泣いちゃダメ……」

 レイがすすり泣く微かな音が、夜の闇に溶け込んでいく。
 未来から来たシンジは沈痛な面持ちでそれを見守り、碇レイはそっと目尻を拭った。
 やがて別れが済むとキミちゃんは両親の元に戻り、母親の腕の中からシンジとレイに向
かって手を振った。

「パパ、ママ、ばいばい。またね……」

 またね。
 キミちゃんの最後の言葉は、静かに波紋を立てながら、シンジの心の中へと沈んでいっ
た。これから進んでいく道の、そのずっと先で、またあの子に会えることがあるのだろう
か。そこへ自分たちは辿り着くことができるのだろうか。
 両親と共に車に乗り込んでからも、キミちゃんは懸命に手を振り、別れを告げていた。
 やがてエンジンに火が入り、三人を乗せた車が表通りへと動き出す。
 シンジとレイが見守る中、車は徐々にスピードを上げていき、その周囲を火花のような
ものが包み始めた。そして次の瞬間辺りを閃光が被ったかと思うと、もう三人が乗った車
は跡形もなく消えていた。

「行っちゃったね……」

 微かな光の残滓が消えていき、周囲が再び闇で覆われる。
 目の前からキミちゃんがいなくなって、改めて現実が心の中に染み込んできた気がした。
 みんなに微笑みを運んでくるあの無邪気さや、周囲の空気を明るくする天真爛漫さも、
今は思い出の世界のものでしかない。もうあの子を抱きあげることはなく、一緒に遊びに
出かけたり、絵本を読んであげることもないのだ。
 喉の奥から込み上げてくるものを堪えると、シンジは無理に明るい声を作り、背後のレ
イに語りかけた。

「何か、夢みたいだよね。未来の自分と、自分の子供に会うなんてさ」

 こんなこと、ミサトさんやアスカにはどう話したらいいと思う? きっとすぐには信じ
てもらえないよね。他の皆にも、どうやって説明したらいいんだろう。
 そう続けようとして、振り返ったシンジの表情が曇った。

「綾波……」

 レイはまだ涙を零していた。目尻から流れ落ちるものを時折拭い、肩を震わせながらそ
の場に佇んでいる少女。その姿にたまらない愛おしさが込み上げ、シンジはレイの傍らへ
と歩み寄った。

「きっと、また会えるよ……」

 シンジはそっとレイの肩を抱くと、自分の方へと引き寄せた。
 普段ならとても言えないようなクサイ台詞と行動だが、不思議と照れや羞恥心といった
感情はなかった。レイにそうしてあげられるのは、そうしてあげなければいけないのは、
自分しかいない。それが分かっていたからだろうか。
 腕の中のレイを感じながら、シンジは改めて決意した。
 自分がこれから進んでいこうとする道。その向こうに何があるのか、今は見通すことは
出来ないが、レイと一緒にその道を歩んでいこう。
 その先にある未来へ、そこへ繋がる希望と共に。
 その向こうでは、きっとあの子も待っているに違いない。

「だから、一緒に行こう」

 シンジの背中にレイの両手が回され、少しだけ力が加わる。
 頭上からは、二人の新たな出発を祝福するかのように、月の光が優しく降り注いでいた。



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