“一生の頼みごと”などという言葉を聞いたのは、一体いつ以来のことだろう。碇シン ジはジョッキのビールを口にしながら、ふとそんなことを思った。 一生の頼みごととは、つまりは一生に一度だけのお願い、という意味であろう。そこま で言うからにはよほど重大なことのはずだが、今回の頼まれごとには、正直なところそこ までの切迫感が感じられなかった。 「シンジ、ホンマに頼む。こんなこと頼めるんはシンジだけなんや」 目の前で手を合わせ、居酒屋のテーブル越しに訴えかける親友の姿に、シンジは思わず 頭を掻いた。 「って言われても、僕だって困るよ」 「そないに殺生なこと言わんといてくれ。自分も結婚しとるんやから、ワシの言うこと分 かるやろ?」 「それは、分からないでもないけど……」 長年の念願がかない、新たに購入したマンションへ家族と共に引っ越すというトウジ。 ついては、新居内に自分だけの場所を確保するまで、シンジにあるものを預けたい。それ がトウジの言う、一生の頼みごとだった。 「あのさ、この際だから処分しちゃったらどうかな?」 「そらあかん。これはな、セカンドインパクト前のお宝やねん。簡単に捨てられるもんや ったら、シンジにこんなこと頼まへんわ」 「でも、こっちだって困るんだよ。万が一レイにそんなものが見つかったら、絶対まずい し……」 「それはよう分かっとる。せやから、来月の頭まででええんや。このとおり、ホンマに頼 む」 そう言ってもう一度手を合わせるトウジに、シンジは根負けを認めざるを得なかった。 この親友との付き合いはもう十年以上になるが、かつてのしがらみもあり、シンジの中 にはどこか負い目のようなものがある。相手の側には何のわだかまりもないのは分かって いるが、こうした感情はそう簡単に消せるものではない。 「分かったよ。でも来月にはちゃんと引き取ってよね」 「おお〜、さすがワシの心の友や。ほんま恩にきるで。ささ、今日はワシのおごりや。好 きなだけ飲んでくれ」 満面の笑みを浮かべ、少々大げさな言葉で礼を言うトウジ。押し切られた形のシンジは 苦笑いを浮かべたが、まあ仕方がないかと、憎めない親友からの酌を受けた。 モノがモノだけに、保管場所は慎重に選ばなければならないが、きっと大丈夫、何とか なる。それにそう長い間預かるわけでもないのだから、問題ないだろう。 そんな風にして気持ちを切り替えたシンジは、トウジと他愛のない雑談を始める。 だが、それがひどく楽観的な予測に過ぎず、近いうちに自分が窮地に陥ることなど、こ の時のシンジには予測できなかったのだった。 My Precious Little Home 前編その日、碇家には穏やかでのんびりした時間が流れていた。 昼食時を過ぎ、外はぽかぽかいい陽気である。リビングの窓からは心地よい風が吹き込 み、どこかから草花の匂いを運んでくる。空を見上げれば、吸い込まれそうな青色がいっ ぱいに広がり、燦々と輝く太陽が中天からやや南にかかっていた。 ソファで少しうとうとした後、庭に出てきたレイは、気持ちのいい空気を胸一杯に吸い 込もうと軽く伸びをした。 (いい気持ち) 横になる前に洗いものは済ませてしまったから、あとは家の掃除をして、幼稚園から帰 ってくる娘を迎えに行かなければ。その後は、小学校から帰ってくる上の娘も連れて、三 人で夕食の買い物に出かけよう。 寝起きだったためまだ少しぼんやりしていたが、レイは頭の中で手早く午後の計画を立 てた。 掃除、洗濯、料理、子供の送り迎え。 結婚してからもう何年も経ち、主婦としての姿もすっかり板に付いている。仕事もこな しながらの主婦業は、決して簡単なものではなかったが、それを苦と感じたことはなかっ た。 (今日の夕飯、何がいいかしら) リビングに掃除機をかけながら、その日の献立を考えるレイ。 結婚してからは、碇家の食事は基本的にレイが担当していた。シンジは、男子厨房に立 たずというタイプではないが、自分の作ったものをみんなに美味しく食べてもらうのは、 レイにとって小さくない喜びだったのだ。 ここ数日のメニューを思い返し、自分のレパートリーや食材の在庫と相談して、まずは その日の料理を決定する。方針が決まった後は、財布の中身を考えながら、買ってこなけ ればならないものを思い浮かべる。子供たちの好き嫌い解消のためには、みんなが好きな ものだけ作るわけにもいかないので、考慮すべきことは多い。 そんな事柄に思いを巡らせていると、時間が経つのもあっという間である。その日の夕 食メニューが決まる頃には、家の掃除もほとんどが終了していた。 (あとは、寝室だけね) かつてシンジに部屋の掃除をしてもらい、赤面してしまったのも今は昔。結婚してから のレイは、細かなところもきちんと掃除をする、しっかり者の奥さんへと変貌を遂げてい た。 それゆえこの日も、普段のように掃除機のホースをベッドの下へ差し込み、細かな埃を 吸い取ろうとしたのだが……。 (……?) 掃除機の隙間用ホースの先が何かにぶつかる感触に、レイは首をかしげた。ベッドと床 の間を覗き込んでみると、薄暗いスペースに平たい小包大の箱が置かれている。 (何かしら、あれ?) 記憶の糸をいくら手繰り寄せてみても、レイにはこんな箱に見覚えはない。少なくとも、 先日掃除をした時には確かにこんな物はなかったはずだ。自分の物ではない以上、これは シンジの持ち物に間違いないが、でも中身は一体何だろう。箱をベッドの下から引っ張り 出し、手にとって軽く振ってみると、中からカコカコという音がする。どうやら何か硬い ものが入っているようだ。 (開けてみよう) 夫婦の間には、隠しごとや分からないことがあってはいけない。そんな大義名分の元、 レイは箱のガムテープをびりびりと剥がしていく。テープは何重にも巻きつけられており、 解体には少し手間取ったが、ようやく戒めを解いたレイは中を覗き込んだ。 そして数秒間、レイの動きが止まる。 それは、パンドラの箱が開かれた瞬間だった。 同じ日の夕刻、碇家のキッチンは異様な緊張感に包まれていた。 グツグツグツと煮えたぎる鍋や、ダンダンダンと叩きつけるような包丁の音は、料理人 が醸し出す、緊張した空気を象徴しているかのようである。 キッチンの主であるレイは、無表情のまま、何か考え事をするかのように手を止めてみ たり、時折包丁を手に取ったまま、刃をじっと見つめてみたりと、どこか心ここにあらず の様子。 そして、明らかに挙動不審な母親の様子を、遠くから恐る恐る窺う少女が二人いた。 「おねえちゃん」 「何?」 「ママ、怒ってる」 「うん、怒ってるね」 「いっぱい怒ってる」 「うん、すっご〜く怒ってるね」 「おねえちゃん、悪い子した?」 「してない。ユリちゃんは?」 碇家の長女である碇キミ嬢がそう尋ねると、妹のユリちゃんはふるふると首を振った。 「て、ことは……」 「パパ、悪い子」 「絶対そうだよね」 普段のレイは物静かで、喜怒哀楽の感情を露骨に出すことは少ない。その数少ない例外 が夫に対する不満が高まった時なのだが、ここまであからさまなものは初めてである。し かもそれが怒りの感情となれば、キミちゃんとユリちゃんが怯えてしまうのも無理はなか った。 「パパ、なにしたのかな」 「う〜ん、また誰かからチョコもらったりしたのかな」 「でもママ、朝はおこってなかった」 「そうだよね。じゃあユリちゃんのお迎えに来た時は?」 「おこってた」 「てことは、今日のお昼に何かあったってことだよね」 「でもパパ、朝におしごと行っちゃってるよ」 「う〜ん、そうだよねえ」 などとひそひそ話に夢中の二人は、いつの間にかキッチンの音が止み、レイが目の前ま で来ていることに気づいていなかった。 「二人とも……」 「「ひゃっ!」」 「何、驚いているの?」 「え、あの、何でもないの」 「そう。夕飯、準備できたわ」 「う、うん」 今日の食事は野菜カレー。 二人ともニンジンがあまり好きではないため、ちょっとだけ食べ残しをしてごちそうさ まがしたいところである。だが今日に限っては、とてもとてもそんなことが言い出せる雰 囲気ではなかった。 普段のレイは、その日学校や幼稚園であった事など、二人にいろいろなことを聞いてく る。だがこの日は無言のまま食事を続け、そのせいで、カチャカチャと食器と皿の奏でる 音だけがダイニングに響いていた。 (おねえちゃん、ママこわい) (う〜、なんかやな感じだよ〜) 二人が目と目でそんな会話をしていると、不意に、リビングに聞きなれた電子音楽音が 鳴り渡った。 「あ……」 「パパだ」 碇家では、ユリちゃんを除いた三人が、それぞれ家の電子キーを持っている。そしてそ れぞれのキーは、誰が帰ってきたのかすぐ分かるように、スリットを通した際に固有の電 子音が鳴る仕組みになっていた。 そして今しがた流れた音楽は、聞きまごうことのないシンジのそれだった。 「ね、ねえママ」 「……何?」 「えっと、音楽、鳴ったんだけど」 「聞こえたわ」 「きっとパパだよ」 「そうね」 「じゃあさ、玄関に行かなくていいの?」 「行かないわ」 きっぱり言い切るレイを前に、キミちゃんとユリちゃんの背筋にぞぞっと悪寒が走る。 シンジが家に帰ってきた時は、レイや子供たちが玄関まで出て、おかえりなさいをみん なで言う。そんな暗黙の了解が碇家では存在していた。だがこの日に限っては、レイに席 を立つ気配は微塵もない。 「え、え〜と、じゃあ、あたし行ってこようかな」 「おねえちゃん、あたしも行く〜」 レイが発する強烈な圧迫感に耐えかね、二人はあたふたと玄関へ逃げ込んだ。 「ただいま〜。ふう、なんだかお腹すいちゃったな。今日のご飯は何?」 「ご飯は何、じゃないよ。パパ、ママに何したの?」 「へ? パパがママに、何だって?」 「パパ、早くママにごめんなさいして」 「ごめんなさい? えと、何のことか全然分からないんだけど」 「とにかく、こっち来て」 キミちゃんとユリちゃんに手を引かれ、シンジは訳の分からないままダイニングへと向 かった。 「レイ、ただい……」 ただいまと言いかけて、シンジの表情が引きつった。レイの様子を一瞥しただけで、シ ンジにはそのご機嫌模様が読めてしまったのである。控えめに表現したとしても、レイの 心の中では、大型で勢力の強い台風が猛威を奮っていた。そして、研ぎ澄まされた刃物を 思わせる鋭い視線が、シンジを真っ直ぐに貫く。 「シンジ」 「は、はい」 「あなたに聞きたいことがあるの」 「えと、何、かな?」 「一緒に来て」 完全に気圧されたシンジは、言われるままにレイの後に続いた。リビングから廊下を通 り、自分たちの寝室へ。歩を進めるにつれ、シンジの中で段々嫌な予感が湧きあがってく る。心当たりがないわけではない。むしろありすぎるだけに、それだけは勘弁してくれと 内心祈ったのだが、その願いが現実になることはなかった。 「あれは、何?」 「あ、いや、あれは、その……」 薄々予想はしていたが、大ピンチに変わりはない。レイが指差した先、ベッドの上に置 かれていたのは、まぎれもなくトウジから預かっている箱だった。その蓋は既に開かれて おり、そこからはあられもない女性の写真と、いかにもという扇情的なタイトルが覗き見 える。言い逃れのしようもないAVビデオである。動かぬ証拠を突きつけられ、呆然とす るシンジに、レイは冷たい言葉の刃を向けた。 「あなたは、私に隠れてああいうものを見ているのね」 「ち、違うんだよ、あれは……」 「何が違うの」 「や、だから、あれは僕のじゃなくて……」 「では誰のものなの」 「友達から、その、預かってて……」 「友達って、誰」 「そ、それは……」 逃げを許さないレイの追及に、シンジの声がだんだん小さくなっていく。 鈴原家の実質的支配者、つまりトウジの妻は、シンジとレイの共通の友人だった。それ だけにブツの出所が発覚した場合、かつて委員長と呼ばれたその女性により、鈴原家の乱 が興るのは必至なのである。生来のお人よしであるシンジには、碇家の乱勃発の危機を目 の前にしても、おいそれと親友を売り渡すことができなかった。 「レ、レイ、話を聞いて」 刺すような視線を正面から受け止めきれず、シンジはレイを引き寄せた。 「あの、僕が愛してるのはレイだけだよ」 「……そんなこと、聞いてない」 「そ、それと、僕はあんなビデオ、全然興味なんかないし、観てもいないからね」 「では、何故あんなものが家にあるの」 「それは、あの、事情があって……」 「事情って、何」 「ご、ごめん、それは言えないんだ……」 「……もういい」 怒りのオーラを立ち上らせたレイは、シンジの腕を振りほどいたかと思うと、くるりと 踵を返しダイニングへと戻っていった。 「キミ、ユリ」 「何ママ?」 「これからお出かけするから、用意しなさい」 「ちょ、レイ、こんな時間にどこに行くのさ」 「実家に帰るわ」 「実家って、どこのことだよ」 「あなたには関係ない」 冷たく言い放つと、レイは寝室に戻り、自分の身の回りの物をスーツケースに詰め始め た。 「ママぁ、今からどこに行くの? 何持っていけばいい?」 「今日からしばらくおじいちゃんとおばあちゃんのところに行くわ。だから大事なものと、 パジャマだけ持っていきなさい」 「おじいちゃんのとこ? やったぁ!」 「ママ、クマさんも持っていっていい?」 「いいわ。だから早く準備しなさい」 「ちょ、ちょっとレイ」 あれよあれよという間に娘たちを味方につけ、話を進めていくレイ。君が行こうとして いるのは“僕の”実家じゃないか、などとは口が裂けても言える雰囲気ではない。 状況の変化についていけないシンジがあたふたしている間に、レイはさっさと用意を済 ませると、娘たちと共に玄関へと向かってしまった。 「じゃ、さよなら」 「レイ、待ってよ」 必死の慰留もむなしく、レイは踵を返すと、あっという間に家を出ていく。その後ろに は、嬉々として母親についていく娘たち。 三人は碇家のマイカーに乗り込むと、ステアリングを握ったレイが、軽いホイルスピン を起こしながら車を発進させる。 こうしてシンジは、生まれて初めて、妻が子供を連れて実家に帰ってしまう、という情 けない状況を経験することになったのだった。 ゲンドウとユイは、レイたちの突然の来訪に驚いたようだったが、三人を温かく迎えて くれた。 夜遅い時間に、孫たちを連れてやってきた義理の娘。名探偵ならずとも、何か訳ありで あるのはすぐに分かるが、ユイとゲンドウはあえてそれに触れることなく、孫たちへ満面 の笑みを向けるのだった。 「いらっしゃい、ユリちゃん、キミちゃん。二人とも元気だったかしら?」 「うん、あたしもユリちゃんも元気だよ。ね、ユリちゃん?」 「げんき」 「ユリちゃんは、ちょっと見ない間にまた大きくなったわね。もう少ししたら、おばあち ゃんじゃ抱っこできなくなりそうね」 「だっこ、ダメなの?」 「ふふ、大丈夫よ。しばらくは、おじいちゃんがいっぱい抱っこしてくれるから。ねえあ なた?」 「ふ、問題ない。おまえたちは、今度はいつまでいられるのだ?」 「う? おねえちゃん分かる?」 「あのね、今日パパが悪いことしてママに怒られたの。それで、しばらくおじいちゃんと おばあちゃんのとこに行くよって、ママが言ってた」 「あらあら、そうだったの」 大人たちの気遣いを知ってか知らずか、キミちゃんがあっけらかんとそんなことを言う。 すると、隣で二人の会話を聞いていたレイが、申し訳なさそうに切り出した。 「あの、突然すみません。しばらくお世話になりたくて……」 「あら、遠慮しないでレイちゃん。家なら、いつでも大歓迎なんだから」 レイに無用の気遣いをさせないためにか、ユイが努めて明るく振舞ってみせる。その隣 に佇むゲンドウは、唇を不気味に歪めていたが、これは孫がやってきて嬉しい気持ちと、 表向きそれを見せまいという理性がせめぎあっている結果であった。 「それで、レイちゃん。シンジには家に来ていることは言っているの?」 「はっきり言ったわけでは……。でも、ここに来ていることは分かっているはずです」 「そう、それじゃシンジには、私から連絡しておくわ」 「ありがとうございます、あの……」 「大丈夫よ。シンジにはうまく言っておくから」 「すみません」 言葉に出さずとも分かってくれる、ユイの心遣いがレイにはありがたかった。 日頃から二人は親しく付き合っており、互いに電話をかけて雑談したり、連れ立って買 い物に出掛けるなど、良好な関係を保っている。嫁と姑の関係が、控えめに言っても微妙 という家も珍しくないが、碇家に限っていえばそんな心配は全くないのだった。 「ねえねえユイおばあちゃん」 「何かしら、キミちゃん?」 「あたし、今日はおばあちゃんと一緒に寝てもいい?」 「おねえちゃん、あたしもおばあちゃんと寝んねしたい」 「駄目だよ、あたしが先に言ったんだもん」 「やだぁ、あたしも」 「二人とも喧嘩しちゃだめよ。じゃあ、今日は三人で一緒に寝ましょうね」 「ほんと? あたしもいっしょに寝んねしていい?」 「ええ。それじゃ、二人とも家の中に入ったら、パジャマに着替えてきなさい。もう遅い から、歯を磨いた後で、みんなで一緒に布団を敷きましょうね」 「は〜い」 キミちゃんとユリちゃんは元気に返事をすると、洗面所へと駆け出していく。子供たち は久しぶりのお泊まりに大はしゃぎの様子で、二人を迎える側のゲンドウとユイも、孫の 来訪を喜んでいるようだった。 そんな子供たちの様子は微笑ましいものだったし、ゲンドウとユイの穏やかな顔を見る のも嬉しいことである。 だが、それを見つめるレイの心は晴れなかった。 本来ならここにいるべきもう一人の人物。彼がこの場にいないこと、そして彼が不在と なった理由が、喉の奥に刺さった小骨のように、チクチクと不快な痛みを送ってくる。 結局その夜レイは、子供たちとは対照的に、もやもやした気分が晴れないまま布団に入 ったのだった。 そして一夜が明けた。 ゲンドウの家は、シンジの家から車で三十分ほどであるため、日常生活に大きな支障が でるわけではない。強いて言えば、キミちゃんとユリちゃんが、それぞれ小学校と幼稚園 に行く際、車での送り迎えが必要なことくらいである。だがこの仕事はゲンドウが嬉々と して――といっても、それを表には出さないのだが――引き受けたため、全く問題にはな らなかった。 むしろゲンドウにしてみれば、自分のところに孫が滞在するというのは歓迎すべきこと である。そのためならば労苦は厭わないし、多少の障害ならばそれを取り除くことも辞さ ない。事実、翌日の仕事帰りに、レイを追いかけてシンジが実家にやってきた時も、ゲン ドウがレイの防波堤となったのだった。 「何の用だ」 「父さん、レイと子供たちが来てるだろ」 「それがどうした」 「三人を迎えに来たんだ」 「レイは、戻る気はないと言っている。帰れ」 「帰れって言われても、そう簡単に帰れるわけないだろ」 「しつこいぞシンジ。少しは大人になれ」 「とにかく、レイと話がしたいんだ。中に入れてもらうよ」 そう言い捨てて、シンジが強引に家の中に入ろうとすると、ゲンドウの目がサングラス 越しにギラリと光った。 「待て」 「何だよ」 「おまえを入れるわけにはいかんな」 「どうしてさ」 「ここは私の家だ。許可なく中に入ることは許さん」 「な、何だよそれ。父さんは僕とレイのどっちの味方なんだよ」 「ふ、分かり切ったことを聞くな」 にやりと唇を歪め、重々しく言い放つゲンドウに、シンジは軽く頬を引きつらせた。 昔からその気配はあったとはいえ、ゲンドウは、実の息子であるシンジよりも、レイの 味方をする気らしい。 「どうしても、入れない気なんだね」 「くどいぞ、何度も言わせるな」 「父さんは、レイが帰るとキミとユリもいなくなるから、僕の邪魔をするんだろ」 「む、つまらんことを言うな」 「つまらなくなんかないさ。どうせ図星なんだろ? いい年してみっともない」 「ふん、相手をするのも下らんな」 ゲンドウが吐き捨てるように言うと、険悪な雰囲気が二人の間にたちこめる。すると不 毛な議論を見かねたのか、ゲンドウを追って玄関に出てきたユイが、二人の会話に割って 入った。 「いいかげんにしなさい、二人とも。何ですか子供みたいなことを言って」 「母さん、母さんも何とか言ってよ。せめて中に入れてくれるくらい、いいじゃないか」 「そうしてあげたいところだけど、レイちゃんが、まだあなたとは話したくないって言っ ているの」 「本当に、レイがそう言っているの?」 「ええ、まだ気持ちの整理がついていないみたい」 「でも……」 「あなたの気持ちは分かるけれど、今日は一旦帰って日を改めた方がいいわ」 「……分かった」 少しの間考えた後、言葉を絞り出すようにしてシンジは言った。肩を落とし溜息をつく 息子の姿は哀れだったが、こればかりは仕方がない。ユイにできることといったら、シン ジにせめてもの助言を与えるくらいのことだった。 「シンジ」 「何?」 「レイちゃんのこと、大事にしてあげて。何があったのか知らないけれど、今度みたいな ことが続くと、いつか愛想をつかされてしまうわよ」 「分かってる……つもりだよ」 「それならいいけれど」 「ねえ母さん、僕がここに来たことくらいは、レイに伝えてほしいんだ。それと、また来 るからって」 「分かったわ」 意気消沈した様子で、じゃあよろしく、と力なく目で語るシンジ。とぼとぼとその場を 去る後ろ姿を見送った後、ゲンドウとユイは家の中に戻った。 「レイ、シンジは帰ったぞ」 「すみません、迷惑をかけて」 「む、レイが気にすることはない」 「そうよ、悪いのはシンジの方なんでしょう?」 二人がレイを慰めていると、三人の様子を窺っていたキミちゃんが、ゲンドウの元へ駆 け寄ってきた。 「おじいちゃん、パパ帰っちゃったの?」 「む、そうだ」 「パパごめんなさいって言ってた?」 「いや」 「え〜、パパ早くママに謝って、ちゅ〜してあげればいいのに」 そうすれば全て問題が解決するかのように、キミちゃんがさらりと言うと、レイが軽く それをたしなめた。 「キミ、あまり変なこと言わないで、もう着替えてきなさい」 「そうね。さ、ユリちゃんも、もうそろそろ寝る準備をしないとね」 「は〜い」 二人がパジャマに着替えに行くのを見届けると、ユイとゲンドウは居間のソファに腰を 下ろした。 「ねえレイちゃん、シンジとは何があったの? 話したくないなら、無理には聞かないけ れど」 ユイに無理強いする気がないのは明らかだったが、世話をかけている以上、事情も話さ ないというわけにもいかない。あまり思い出したくない出来事ではあったが、レイはポツ ポツと、昨日起こったことを話した。 「そう、そんなことがあったのね」 「つまらないことで、迷惑をかけてすみません」 「気にしないでいいのよ。悪いのはシンジなんだから。ねえあなた」 「うむ、手際の悪い奴だ」 何気ないゲンドウの一言に、ユイが眉をひそめる。 「あなた、手際の悪いというのはどういう意味です?」 「む?」 「手際良くやって、レイちゃんに見つからなければ問題ないと、そういうことですか?」 「む、いや、そういう意味ではない」 「この際ですから、あなたの書斎も徹底的に調べた方がいいかしら」 「む、それは……」 「言葉に詰まるということは、何かやましいものでもあるんですか?」 「いや、そんなことは……」 静かな口調ながら、ぐいぐいと迫ってくるユイ。こめかみの辺りに不快な汗が流れ、ゲ ンドウが思わぬ窮地に目を白黒させていると、その洋服の裾をくいくいと引っ張る小さな 手があった。 「おじいちゃん」 「む、なんだ」 「今日はいっしょに寝んねしよ?」 「うむ、そうだな。ユイ、私はもう休むぞ」 「あなた、逃げるんですか?」 「そうではない。私はユイとレイの味方だ。旗色を明らかにしたのだから、もういいでは ないか」 そう言い残してゲンドウはそそくさと席を立つ。 ユイとレイの連合軍が相手では、いかにゲンドウでも分が悪い。ユリちゃんが添い寝を おねだりしてきたのを幸いに、ゲンドウはその場から離脱することに成功したのだった。 |