レイが家を出てから数日が経ったが、未だに関係修復のきっかけは掴めないままだった。 携帯電話は着信拒否。実家に連絡を取ってみても、ユイもゲンドウもレイへの電話を取 り次いでくれない。 あるいはリツコやミサトの助けを借りようかとも考えたが、原因が原因だけに、それも 情けない話だと思いとどまった。 そんなわけで、折角の週末だというのに、シンジは家で一人暇を持て余していた。 (誰もいない家って、こんなに静かだったんだ……) 久しく感じていなかったその感覚。 普段であれば、子供たちがじゃれついてきたり、レイと何かしらの話をするのだが、今 日はそんな相手もいない。家族のいない家はがらんどうで、とても静かで、まだ独り暮ら しをしていたころを思い出すのだった。 (お腹すいたな) 昼食時を迎え、シンジはかつてそうしていたように、エプロンを身につけキッチンに入 った。何かあり合わせの材料で軽いものでも作れないか。そう思って冷蔵庫を開けてみた のだが、中に残されたもので目ぼしいものは、飲み物が少々と傷んでしまった野菜くらい のものだった。 (そうだよな、買い物なんて全然行ってなかったし) 結婚してからは、レイが家事をやりたがったこともあり、キッチンの中のことは全てま かせきりだった。おかげで、食材の在庫状況や、どの調理道具がどこにあるのかなど、ほ とんど手探り状態である。 結局その日の昼食は、店屋物で済ませるしかなさそうだった。 「はあ、参った……」 出前が来るまでの間、シンジはソファに体を横たえた。 身から出た錆とはいえ、やはりあれをレイに見つかったのはまずかった。シンジ自身に やましいことはないとはいえ、誤解されたとしても仕方のないことだろう。 「レイ、怒ってたな……」 自分を睨むレイの鋭い視線。あんなに怒った妻の姿を見るのは、もしかしたら初めてか もしれないとシンジは思った。 だがシンジ自身、レイの気持ちが分からないでもない。仮に自分の大事な人が他の男の ことを見ていたり、興味を示したりするのを目の当たりにしたら、自分だってとても不愉 快に感じるだろう。それを思えば、レイが怒りに震えるのも無理はないと思えた。 『今度みたいなことが続くと、いつか愛想をつかされてしまうわよ』 母の言葉が頭の中でよみがえる。 元々レイは、誰が見ても美人と言える外見をしているし、人との接し方を学び、周りを 惹きつける内面の優しさも身に付けていた。それに加えて、絵本作家としての実績と才能 を思えば、才色兼備という言葉を絵にしたような女性である。 実際、自分では彼女に不釣り合いなのではないか。そう感じることも一度や二度ではな かった。 自分はレイを愛しているし、彼女も自分のことを愛してくれている。そう思うのは、決 して勝手な思い込みではないだろう。二人の絆は長い年月を重ねてできたものだったし、 乗り越えてきたことを思えば、簡単に壊れるものでもない。 だがだからこそ、母の言うように、レイに愛想を尽かされないようにしなければ。後悔 の念と共に、シンジはそう思った。 長く時間を共にしていると、相手の存在がまるで家の調度の一部のように思えてきて、 そこにいるのが当然のような感覚になってくる。 だが、今ある幸せに感謝すること。それはとても大事なことなのだと、こんなことを通 じて再確認させられるのだった。 (レイに、会いたいな……) 最後にそんな風に感じたのは、一体いつのことだったろう。 いつも自分の隣にいるレイ。傍らで微笑んでいるレイ。けれどそれは、決して不変のも のではないのだと思い知らされる。 レイと一緒になってもう長い時間が経つが、もし彼女を失ったらという恐怖は、未だに シンジの中から消えていなかった。 ごくまれにではあるが、嫌な夢を見ることがある。 彼女が、自分の目の前で自爆してしまったあの光景。 レイを守れなかったという鈍い痛み、悔恨、悲しみ。そうした負の感情は、きっとこれ からも完全に消すことはできないのだろう。 そんな時には、無性に彼女のことを抱きしめたくなる。 隣で眠る彼女の頬を、そっと優しく撫でてあげたくなる。 (そうなんだよ……) 普段は頻繁に意識するわけではないが、ふと立ち止まって考えた時、自分にとってレイ や家族の存在がどれだけ大きいのかが分かる。 仕事が終わってぐったりして帰ってきた時でも、子供たちの顔を見ると、疲れもどこか に行ってしまう。少し辛いことや悲しいことがあった時でも、レイが微笑んでくれれば、 また明日から頑張ろうという気になれる。 どんなことがあったとしても、自分を待っていてくれる人。そして最後に自分が帰って こられる場所。 それが家族であり、自分の家なのだろう。 だからこれからも、レイや子供たちのことを守っていきたい。 自分たちの家が、みんな幸せでいられるような場所であってほしい。 綺麗事ではなく、心からそう思っていたはずだった。 (もう一度、レイに会いに行こう) 自分が手にしているものの大切さを、こんな形で思い知らされるのはもう十分だった。 明日もう一度実家を訪ね、レイにきちんと事情を説明して謝ろう。そして、家に帰って きてほしいとお願いしよう。もう今のシンジには、レイなしでの自分、家族なしでの生活 など耐えられないものだった。 たとえそれが、みっともないものでも構わない。変なプライドや外面は捨て、今の素直 な想いを彼女に伝えたい。そうすれば、きっと……。 入り混じる期待と不安を胸に、シンジはそう決意したのだった。 My Precious Little Home 後編同じ日の夜。布団にくるまっていたレイはなかなか寝付けず、居心地の悪い寝返りを繰 り返していた。 今が何時なのかはっきりとは分からないが、布団に入ってもう大分経つように思える。 二人の娘たちは、それぞれゲンドウとユイの隣で、素敵な夢を見ている頃だろう。それな のに快適な眠りの世界は、未だにレイから遠いところにあるようだった。 (眠れない……) ここ数日、快眠できない理由ははっきりしていた。 つい先日のシンジとのやり取り。その記憶が不快な粘着物のようにはりついて、レイの 中から消えないのだ。 自分に秘密であんなものを持っていたというのもショックだったし、何か隠し事をして いるかのような、煮え切らない態度も大いに不満だった。 結婚してもう八年。彼は既に自分に飽きて、自分以外の女性に関心を持っているのだろ うか。そんな不吉な考えが頭をよぎると、胸の奥を締めつける不安と、何かもやもやとし た怒りのようなものが湧きあがってくるのだった。 (でも……) そんな負の感情も、今はだいぶ落ち着いてきた。 そして冷静になった今、よくよく考えてみると疑問に感じる点がいくつかある。 例えば、寝室は普段からよく掃除をするが、少し前まであんな箱は絶対に存在しなかっ た。ではシンジは、以前は別の場所に隠していたものを移動させたのだろうか。 (多分、それはない) 可能性はゼロとは言い切れないが、ゼロに近いだろうと思う。 家の中のことを一番把握しているのは自分だが、あのような小包大の大きさの箱など、 これまで目にしたことがない。それに、これまで自分に見つからないくらい巧妙に隠して いたものを、わざわざベッドの下などに移すことはないだろう。 さらに、もう一つ大きな事実がある。 箱の中に入っていたのは、前世紀の遺物ともいうべきVHSだったが、碇家にはVHS を再生できる機器が存在しないのである。ということは、シンジが家の中であれを見たと いうのは考えられないし、他人から預かっただけというのも、あながち嘘ではないのかも と思えてくる。 (それとも……) どこか別の場所で、シンジはあれを鑑賞していたのだろうか。シンジは今まで自分のこ とを完璧にだましきっていたのだろうか。夫が嘘をついていたり、後ろめたいことがある 時は、それを見破る自信があるつもりだったが、それも自分の思い込みに過ぎないのだろ うか。 (よく、分からない……) 可能性の話を考えたらきりがない。 堂々巡りする思考の流れを断ち切り、レイは再び寝返りをうった。 (シンジの馬鹿……) 自分が今どんな気持ちでいるのか、彼は本当に分かっているのだろうか。そんな、軽い 不満が湧きあがるのをレイは抑えられなかった。 同じ屋根の下で暮らすようになってからも、シンジは自分のことを大事にしてくれるし、 幸せな時間を過ごしている。 だが、もしシンジに対して望むことがあるとしたら、もう少しだけ周りのことに敏感で あってほしいということ。 例えば、自分という存在が周りからどう見られているのか。 本人は気付いていないかもしれないが、シンジは女性から好意を寄せられやすい人だと レイは思う。背が高くて顔立ちは整っているし、物腰が柔らかくて誰に対しても優しいか ら、そんなところを好きになる女性が多いのだ。 実際、結婚する前も、シンジに好意を持っていた女性は少なからずいた。本人は口に出 さないが、学生時代、シンジの机の中に手紙が入っていたり、どこか人気のない場所に度 々呼び出されていたのをレイは知っていた。 夫が誰かと本当に浮気をしているとは思わないし、思いたくもない。けれど、他の女性 の影がちらつくと、レイはどうしても不安になるし、何よりも、率直に不快だった。 (そういう気持ち、シンジも分かるはずなのに……) つい先日、仕事の打ち合わせを街の喫茶店でしていた時のことだ。 その場には、いつも世話になっている出版社の、新しい編集長の姿があった。レイの隣 には、レイの担当であるヒカリもいたのだが、その場をたまたま見かけたシンジはそれに 気付かなかったらしい。その日家に帰ってきたシンジは、部屋着に着替えながら、レイに こんなことを聞いてきた。 「レイ、あのさ」 「何?」 「えっと、今日、どこか街に出かけたりした?」 「しているけど、それがどうかしたの?」 「いや、あの……」 何かもの言いたげに、レイを横目で見るシンジ。 「今日の昼過ぎに、喫茶店で誰かと一緒にいたよね。あの人、誰?」 「喫茶店?」 「上が青っぽいポロシャツで、眼鏡をかけていてさ……」 「ああ、あの人」 シンジは平静を装ってネクタイを外していたが、視界の隅ではレイの姿をしっかり捉え ている。不安げにきょろきょろ動く黒い瞳。そんな様子にピンとくるものがあったレイは、 少しだけ悪戯をすることにしたのだった。 「素敵な人だったわ。話題も豊富だし、女性への気遣いもできる人だし」 「そ、そう……」 「ああいう人が旦那さんだったら、きっと素敵でしょうね」 わざとそんなことを言うと、途端にシンジの様子が落ち着かなくなる。 そういうところはすごく分かりやすいと、レイは内心で微笑んだ。 「あの人、誰なのか気になる?」 「別に、気になるとか、そういうのはないけど……」 「嘘」 「う、嘘なんかじゃ……」 「あなたがたくさん瞬きをするときは、不安なことがあるとき。そのくらい分かるわ」 「う……」 「気になるんでしょう?」 「……うん、あの、正直すごく気になる」 完全に白旗をあげたシンジは、いつしか着替えの手も止まっている。 レイも、もう勿体ぶるのは終わりにすることにした。 「あの人、仕事先の新しい編集長さんなの。今日は挨拶をしていただけ」 「な、何だ、そうなんだ」 安心したらしいシンジが、緊張した表情を途端に緩める。そのギャップがおかしくて、 レイは軽く吹き出した。 「別に笑わなくてもいいじゃないか」 「だって、シンジすごく分かりやすいから」 「そ、そうかな?」 「ええ、私が浮気していると思った?」 「別に、そこまでは思ってないけど……」 「でも、心配だったでしょう?」 「そりゃあ、まあ、少しは」 「ふふ、何だか嬉しい」 「嬉しいって、どうしてさ?」 「教えてあげない」 「何だよ、もう」 いたずらっぽく微笑むレイに、シンジも苦笑気味に返す。 優しくされたり、抱きしめてもらったりするのもいいけれど、そんな形で相手からの愛 情を確認するのも時には悪くない。レイはそう思う。どんな形でも、相手に愛されている と実感できるのは、何よりも幸せなときだから。 (あの時のシンジ、可笑しかった) 記憶の中の夫の表情は、レイの顔に束の間の微笑みを運んでくる。だがささやかな笑い の波が過ぎ去ると、再びやってくるのは、独りでいることの孤独感や、シンジの温もりを 求める心の渇きだった。 (シンジの匂い、しない) 彼の匂いのしない布団で眠るのは、もう大分ご無沙汰のことだった。 先日、シンジが二週間ほど海外出張に行ってしまったときも、家のベッドの中には夫の 匂いが残っていたのに。 レイは軽い溜息をつき、ついこの間のことを思い出した。 シンジと出会って以来、そんなに長い間離れ離れになるのは初めてのことだった。最初 は特に問題ないと思っていたが、二、三日が経つ頃には気分が落ち込んできて、一週間が 経つ頃にはどうしようもなくストレスが溜まってきた。 シンジも気を使ってくれて、毎日のように電話をくれたが、やはりただの声と実物は違 う。彼の表情、仕草、温もり。電話で話した後は、余計にそういうことが恋しくなってし まい、眠れない夜がしばらく続いたのだった。 (そういえば、あの時は……) 仕事が思いのほか早く片付いたシンジは、レイを驚かそうと思ったらしく、予定を繰り 上げて一日早く家に帰ってきたのだった。 だがそんなこととは全く知らなかったレイは、シンジの顔を見た途端に緊張の糸がぷっ つり切れてしまい、嬉しい時にも涙は出るのだと、再確認をすることとなった。 予想外の反応に慌てたシンジは、懸命にレイをなだめようとしたが、夫の胸の中で包み 込まれる感覚に、レイの涙腺はどうにもならなくなっていた。 (私、もう家に帰りたいのかしら……) 本当は、レイにもよく分かっている。 今の自分が、とても恵まれた環境に置かれていることや、かつては望むべくもなかった 幸せな生活を送っているのだということが。 昔の自分を思えば、この幸せを当たり前のものと思ってはいけない。満ち足りた日々を 過ごしながらも、そんな意識がいつもレイの中にはあった。 今でも、時々昔の記憶が頭をよぎることがある。 剥き出しのコンクリート。 部屋に響く解体工事の音。 カーテンの隙間から覗く太陽の光。 そんな時、隣にいるシンジの笑顔を見つめていると、自分が今手にしているものの大切 さがよく分かる。そして、彼の存在が自分にとって、いかに大事なものなのかということ も。 (さっきから、シンジのことばかり……) 気がつけば、彼のことばかり考えている。 自分の家とは違う布団。独りその中にくるまって、様々なことに思いを巡らせていると、 どんどんシンジのことが恋しくなってくる。どんどん彼に会いたくなってくる。 子供たちや友達、それにやりがいのある仕事。今の自分にとって、大事なものはたくさ んある。それは優劣をつけるようなものではないが、だがシンジを失ってしまったら、他 の全ては色褪せたものになってしまう。 だからシンジは、シンジだけには、ずっと自分の傍にいてほしい。 そう、思っていたはずなのに。 (もう、家に帰ろう) レイはそう思い立った。 携帯の着信拒否も解除して、この次に電話があった時はきちんと話をしよう。もしシン ジがここを訪ねてきたら、顔を合わせて、わだかまりが解けるように努力しよう。原因が 原因だけに、事情をしっかり聞かなければいけないだろうが、もうこんなことは終わりに したい。 少しずつ薄れゆく意識の中、レイはそんな決断をするのだった。 シンジが自分の実家を訪れたのは、翌日の午前中のことだった。 門前払いを避けるために、事前の連絡はしていない。だがシンジの心配を裏腹に、この 日はあっさり家の中に入ることを認められ、レイとの対面を果たすことができた。 レイは居間のソファに腰をおろし、入ってくるシンジの顔を見つめていた。子供たちの 姿は見えない。おそらくはユイやゲンドウが相手をしていてくれるのだろう。二人のさり げない気遣いが、シンジにはありがたかった。 「あの、レイ」 「何?」 「隣、座ってもいい?」 「ええ」 恐る恐るシンジが切り出すと、レイは視線を落とし短く答えた。 まだ若干ぎこちなさの残るのは、気のせいではない。 「あの、今度のことなんだけど……。何ていうか、本当にごめん」 顔を上げたレイは、少し困ったような、それでいて悲しそうな、複雑な表情をしていた。 「あれは、あなたの物なの?」 「ううん、違うんだ。あの時も言ったけど、あれは、僕の友達から預かっていたものでさ」 「友達って、誰なの?」 「それは……」 シンジは一瞬言葉に詰まったが、ここで答えを拒否しては何も変わらない。 「あのさ、レイ。僕も本当のことを言うから、一つだけ約束してほしいんだ」 「何?」 「僕がこれから話すことは、僕たちだけのことにしてくれないかな」 「他の人には話すなということ?」 「うん」 「分かったわ」 レイから言質を取った後、シンジはかいつまんで事情を説明した。今回のことはトウジ から頼まれてのことだったこと。物自体は預かったが、中身を鑑賞したりはしていないこ と。 「……男の人って、みんなそういうものなの?」 レイが少し眉をひそめる。トウジが隠れてそういうものを持っているというのが、割り 切れないらしい。 「みんながみんなってわけじゃないと思うけど……」 「でも、そういうのは大事な人に対する裏切りだと思う」 「レイの言うことも分かるけど、トウジだって奥さんのことを愛してないわけじゃないし。 浮気っていうのとは、少し違う気もするけど」 「それは、男の人の勝手な言い分」 「まあ、そうかもしれないけど……」 レイの言うことにも一理あると、言葉に詰まるシンジ。すると、レイは少し不安げな表 情を浮かべながら尋ねた。 「……シンジも、そういうのに興味があるの?」 「いや、僕は……」 「怒らないから、正直に答えて」 「えと、全くないって言ったら、それは嘘になるけど……」 「そう……」 「でもどちらかといえば……」 「何?」 「何ていうか、僕たちも何か応用できないかなって、そういう興味の方が強いかも……」 場の雰囲気に流されて、本音をそのまま言葉にするシンジ。それは言っている本人も恥 ずかしくなるような内容だったが、レイもレイで頬を赤らめていた。 「……馬鹿」 「ご、ごめん」 「でも、ああいうのは見ないで」 「うん、約束する」 「……そういう研究なら、私がするから」 俯いたレイが上目遣いにそんなことを言うと、シンジもつられて赤面する。 それはまるで、まだ若く、慣れていないカップルが醸し出すような、くすぐったくも初 々しい雰囲気。 そのまま、しばし二人の会話は途切れたが、そこには数日前のような緊張感はない。た だなんとなく、どう言葉を繋げていいのか分からない、というだけのことだった。一つ確 かなのは、レイとシンジの冷戦もようやく雪解けを迎えたということ。 どうにか仲直りできそうなことに胸を撫でおろしながら、シンジはもう一つ、胸に抱い ていたプランを実行することにした。 「ところでさレイ、今度の週末なんだけど……」 「何?」 「二人で、温泉にでも行かない?」 突然の申し出に驚いたのか、ほんの僅か、レイの目が見開かれる。 「どうしたの、急に?」 「ちょっと考えたんだ。最近は、二人で旅行に行くこともなかったなって。だから、僕か らのお詫びってことで、どうかな?」 「それだけ?」 「え?」 「お詫び、温泉だけ?」 そう言って、レイがいたずらっぽく笑う。 「あ、いや、二人で買い物に行きたいなとも思ってたし、それから、え〜と……」 「私、見たい映画がある」 「じゃあ、二人で見に行こう」 「映画が終わったら、食事は?」 「もちろんどこかに食べに行こうよ」 「その後は?」 「その後は、そうだな、昔よく行った公園にでも行ってみない? 覚えてるでしょ、海岸 沿いの」 「ええ、もちろん」 二人で週末の予定を考え、それに胸を躍らせる。こんな感覚を覚えるのは、二人にとっ て久しぶりのことだった。独身時代には当たり前だったことも、結婚して子供が出来てか らは随分と御無沙汰だったのだ。 「何だか、昔に戻ったみたいだね」 「ええ、でもたまにはこういうのもいいわ」 「これからは、もう少しそういうことも考えようか」 「そうね、楽しみにしてるわ」 嬉しそうに笑うレイに、シンジの顔も自然とほころぶ。 とりあえずは、雨降って地固まるということなのかもしれない。数日に及んだ碇家の混 乱も、結果としては悪いことばかりではなかったとシンジは思った。普段のままだったな ら、見えていなかったかもしれない大事なこと。それに目が向けられたのは、良いことだ ったのかもしれない。 矢継ぎ早に要望を述べたところを見ると、レイもいろいろ溜まっていたものがあったの だろう。それに気付けなかったことに軽い罪悪感を覚えながらも、その埋め合わせに、今 度の週末はいっぱいサービスしようとシンジは誓うのだった。 金曜の夜の仕事帰りには、何ともいえない開放感がある。 仕事を終え家路に向かうシンジは、星が瞬く夜空を見上げながらそんなことを思った。 駅からバスに乗った時は、まだ窓の外から夕焼けが見えていたが、家から最寄りのバス 停に降りるころには、辺りはすっかり真っ暗になっていた。 近くの水田からはカエルたちの大合唱がこだまし、山の方から吹いてくる涼しい風が、 シンジの頬を心地よく撫でる。 切れかかった街灯の灯りと、頭上に輝く満月の光を頼りに帰りを急ぐ。バス停から歩い て数分、少し先に玄関灯の灯りが目に入る。我が家はもうすぐそこだ。 自然に囲まれた環境で、子供たちにのびのびと育ってほしい。そんな願いと共に、数年 前に思い切って購入した家。豪邸というには程遠いし、セカンドインパクト前に建てられ た中古物件だが、ささやかながら自分の城が持てた喜びは大きかった。それに大事なのは 家の大きさや価値ではなく、そこで自分を待つ家族だと、虚勢ではなく胸を張って言える。 スリットに電子キーを通し玄関を開くと、下足置場の灯りが自動的につき、奥の方で聞 きなれた電子音の音楽が鳴る。 シンジが帰ってきたのがすぐに分かるように、シンジ専用に設定された音楽。 それを聞きつけたのか、奥からパタパタという音がし、やがて二人の娘が姿を現した。 「パパおかえり〜」 「おかえりなさい」 出迎えてくれた娘たちにただいまを言うと、下の娘がシンジの持っていた鞄に手をかけ た。 「パパ、これ持つ」 「ユリが持ってくれるの? ありがとう」 「ユリちゃん、ちゃんと持てる?」 「だいじょぶ」 鞄をちょっと床に引きずり、少しだけよろよろしながら、ユリちゃんがシンジの部屋の 方へと歩いていく。ささやかな仕事ながら、パパの役に立ちたいということらしい。一方 キミちゃんは、いざとなったら妹のことを助けようというのか、後ろからユリちゃんのこ とを見守っている。そんな二人の背中を見送りつつ靴を脱いでいると、入れ替わるように してレイが現れた。 「おかえりなさい」 「ただいま。今日は何かいい匂いがするね」 「ええ、ヒカリさんに教えてもらったレシピで、シチューを作ってみたの」 「へえ、委員長から?」 「仕事の打ち合わせも兼ねて、今日一緒にお昼を食べたから」 「そうなんだ。委員長は相変わらず?」 「ええ、あなたにもよろしくって」 レイと雑談を交わしながら部屋に戻り、手早く普段着に着替えてリビングに戻ると、テ ーブルの上には既に夕食の準備が整っていた。 「パパ、はやくはやく。シチューが冷めちゃうよ」 「あ、キミが用意してくれたんだ。ありがとう」 「あたしだけじゃなくて、ユリちゃんもだよ。あたしたちね、ちゃんとママのお手伝いし てるの。お皿とかも洗ってるんだよ」 「そっか、偉いね」 蒼銀の髪を撫でキミちゃんを褒めてあげていると、ユリちゃんが傍に寄ってきて、何か 言いたげにシンジを見上げる。 「ユリもありがとうね」 そう言って、お姉ちゃんと同じように頭を撫でてやると、ユリちゃんは嬉しそうに目を 細めた。 「ねえねえパパ、明日はみんなでどこかに行こうよ」 「ごめん、パパとママは、明日から二人でお出かけしてくるんだ」 「そうなの? じゃあその次のお休みは?」 「う〜ん、その次なら大丈夫かな。キミはどこに行きたいの?」 「水族館! ラッコの赤ちゃんがこのあいだ生まれたって、学校の先生が言ってたの。あ たしそれが見たい」 「ユリは?」 「ラッコ、みたい」 「そっか、じゃあ来週はみんなで水族館に行こうか。レイも大丈夫だよね?」 「ええ、もちろん」 「やったぁ! 楽しみだねユリちゃん」 「たのしみ」 嬉しそうに子供たちがはしゃぎ、シンジとレイは微笑みながらそれを見つめた。 幸せに定まった形などないけれど、今の自分たちにとって、これ以上のものなど望みよ うがない。そう感じるような、満ち足りた雰囲気。 碇家の居間には温かな時間が流れ、そこにいる四人の顔に笑顔が溢れる。 こんな時間がこれからも続いていきますように。 いつまでも、いつまでも、ずっと。 そんな願いと共に、シンジは夕食に箸をつけるのだった。 |