人は、どうして誰かのために生きたいと思うのだろう?





































 机の上に無造作に積み上げられていた教科書、参考書、ノートの類を手に取る。これは、
いつも学校に持っていく鞄に入れていこう。学校に行く気になるとは思えないけれど、備
え有れば憂い無しというから……。

 英語、数学、現文、科学……。普段はあまり意識しないけれど、全部一気に持っていこ
うとすると、教科書って結構かさばるもんなんだな……と、鞄に入りきらない教科書に軽
い溜息をつく。しょうがない、残りは別のやつに入れよう。

 ベッドの下に放り出されていたスポーツバッグを開き、その中に適当にものを詰め込ん
でいく。下着、靴下、Tシャツ、ジーンズ。私服も全部は入りそうにない。……まあ、い
いさ。部屋ではTシャツとジーンズか何かで過ごして、それ以外には制服を着ていればい
いんだ。このバッグには下着なんかを優先的に詰め込んで、それで最後に少し残ったスペ
ースに、さっきの教科書とノートを入れてしまおう。

 そんなことを考えつつチョコレート色のポロシャツをたたんでいたとき、ふと、既視感
のようなものに襲われた。

 デジャヴ? いや、ちがう。

 そういえば、前にも似たような状況でこのバッグを使ったことがあった。確か、置手紙
だけを残して誰にも何も言わずにこの部屋を抜け出したんだ。……ずっと昔のことに思え
るな、あれも。あの時は、自分が何のためにここにいるのか分からず、行き先もわからな
いまま、ボクはただ現実から逃げだした……。

 じゃあ、今もそうなのだろうか?

 そうではないと思いたかった。ボクには帰りたいと思う場所がある。……あるはずだ。
だから、これは逃げ出すわけじゃない。いつか戻ってくるためには必要なことなんだ。逆
に今ここに留まることの方が甘えであって、よっぽど辛いことに目を向けずに逃げている
んだ。

 ……それとも、それも単なるボクの思いこみだろうか。自己欺瞞だろうか。ボクはそう
思い込むことによって嫌なことから逃げ出して……。

 軽く首を振る。

 ……もう、やめよう。ここ数日、何度も何度も陥っていた思考の迷路。それには一応の
出口を見つけたはずじゃないか。それが正しい出口なのかは分からないけれど、ボクはそ
こから外に出ようと決断したのだし、決断したからこそ、今こうしているんだから。

 休んでいた手を再び動かし始める。元々、私物はそれほど多いわけではない。それに必
要最低限のものだけ持ち出せればいいんだ。何か必要になったなら、どこかで買えばいい
だけの話。

 だから、それほど多くの時間がかかることもなく全ての準備を終えることができた。
 ただ一つのことを除いては……。

 深く息を吸い、そして吐き出す。

 後悔しない?
 
 ……分からないよ、そんなこと。

 でも、やらなかったら、後でもっと後悔するかもしれない。

 それに、今のままでは苦しすぎるんだ……。

 ボクはバッグのチャックを閉じると、立ちあがり部屋を出た。そして少しの間、向かい
の部屋の閉じられた襖を見つめる。ボクの話を聞いた後、彼女の瞳には一体どんな色が宿
るのだろうか?

 数秒間の逡巡の後、ボクはもう一度深呼吸をして、襖を囲む木の枠組を軽くノックし声
をかけた。

「綾波、入っていいかな?」

 ええ、という短い返事を確認してから、自分の肩幅ほどに襖をあけて、中を覗きこむ。
白いTシャツに黒のショートパンツというシンプルな格好の綾波は、いつもそうしていた
ようにパイプベッドの上に腹ばいになり、数日前に買った文庫本のページをめくろうとし
ていた。それは、イギリスの詩人が数百年前に書いた世界的に有名な物語。全編をきちん
と読んだことなど一度もなかった。でも、そんなボクでも物語の大筋は知っている。ある
男女の間の、現世では決してかなうことのない悲しい恋。綾波がそれを次の本に選んだの
は、何かの暗示なのだろうか?

 襖が開くのを待っていたのだろう、綾波の視線は既にこちらがわに向けられていた。ボ
クの姿を視界に入れると、本を読んでいたときの真剣な眼差しが、温かさと慈愛を含んだ
ものにほんの少しだけ変化する。表情が劇的に変わるわけじゃない。でも、ボクにはそれ
がはっきりと分かる。

 それが、辛かった。

「座って、いい?」

 返事を待たずにベッドに歩み寄り、自分の表情を隠すために、綾波に背を向け腰を下ろ
した。日中に取りこんでおいたシーツは、まだ少し太陽の匂いがする。それが微かに漂う
綾波の匂いと微妙に交じり合い、ボクの鼻腔を刺激した。

 綾波はベッドから身を起こすとボクの隣に位置を取り、その体を少し持たれかけ、ボク
の肩にその頭をそっと横たえた。いつからだろう、綾波がボクとのこうした触れ合いを、
積極的に求め始めるようになったのは……。

 感情という観点から見るのなら……。

 前に、少しからかう口調でリツコさんが言っていた。

 あの子、レイは幼児のようなものかもしれないわね。小さい子供が親に抱かれることを
望むように、一番近いところにいる人との身体的接触を無邪気に求める。そして大人には
羞恥心というものがあるけれど、子供にはあまりそれがないから一層素直になれる。時に
は、それが羨ましく思えるわね。

 その最後の一言に、ボクは心からの共感を覚えていた。綾波の純粋さに胸が高鳴り、照
れと羞恥心に顔を赤らめていた頃が、ひどく昔のことのように感じたからだ。そう、過ぎ
去ったのは柔らかな日々。傍らにいる人を、何も考えずにただ想えた日々。そうした日々
が、遠い昔のただの記憶のように思えてしょうがなかった。

 それは、綾波のせいではない。だから、綾波の顔を見ることができなかった。

「…どうしたの?」

 か細い声の問いかけ。チラリと覗きこむような視線。すぐ隣に感じる体温。全てが見え
ない圧力となり、ボクを苛む。

 ボクはどうすればいいんだろう。
 ボクはどう切り出せばいいんだろう。

 ここ数日、ボクの頭の中からその問題が消えることはなかった。
 消すことができなかった、という方が正確だろう。

 少しずつ自然にそういう話題に持っていく?
 自分の性格と不器用さでは、そんなことができるはずがない。
 単純に、要点だけをかいつまんで話す?
 それはさすがに……。
 じゃあ、そうなった事情を詳しく説明して……。
 それもダメだ。事情なんか話せるはずがない。
 そんなことができるのなら、始めから悩むこともない。
 なら、黙って出て行くのはどうだろう?
 何の意味もない。綾波とは嫌でも顔を合わせることになる。
 いつかどこかで話はしなければいけない。
 だとするなら、できれば二人だけの時にそれはやってしまいたい。

 でも、どうやって……。

 加持さんは、昔ミサトさんに何と言ったのだろうか? 何と言われたのだろうか? 
あの人なら、何かやり方を知っていただろうか? こんなことになるとは思っていなかっ
たけれど、もう少しいろいろな話を聞いておけばよかっただろうか……。

 この期に及んでも涌き出てくる意味のない考え。
 
 結局ボクは、まだその「答え」を見つけていなかった。
 
「……ボク、しばらくは本部で寝泊りしようと思うんだ」

「…本部で?」

「うん。だから、しばらくここには戻れないけど、綾波はもう十分家事ができるし、ミサ
トさんたちの面倒もみれると思う……」

「…テストがあるの?」

 少しだけ怪訝な顔をする綾波。

 そうしたテストのスケジュールは、前もってリツコさんやミサトさんから通達されるの
が常だった。でもここのところ、特別な指示や連絡事項は全くない。それに、最近シンク
ロ率が落ちているアスカならともかく、凍結中の初号機で、ボクだけが一人で特別な実験
をするというのは考えにくいことだった。

 否定の意をこめて静かに首を振る。

 その場しのぎのために、頷くこともできたかもしれない。でも、そんなことをしてどう
なるというんだろう。ばれるのは時間の問題だ。ミサトさんかリツコさんに聞けばボクの
ウソはすぐにばれてしまう。綾波にこれ以上ウソはつきたくない。

「…じゃあ、どうして?」

 綾波がボクの顔をじっと覗きこむ。

「……」

 どうにかごまかしてうやむやにしようという、作戦とも呼べないボクの考えは、あっと
いう間に挫折しようとしていた。

(いや、大したことじゃないんだけど、ちょっとね。大丈夫、心配しないで)

 本当なら、笑顔でそんなことを言ってすぐに立ち去る予定だった。

 でも、綾波の瞳には不思議な力があった。その無垢な瞳に自分の醜さが映し出されてい
るような、全てのウソを見透かされてしまうような、そんな気持ちにさせる力が。それと
も、それはボクに負い目があったからそう感じただけだろうか?

 いずれにせよ、発するはずの声はついに喉から出てはこず、不自然な間と吹き出てくる
汗に追い詰められたような気分が増してくる。今更考えていたセリフを言っても何の効果
もないのは分かっていた。こんな状態で「心配しないで」なんて言ったところで、誰が信
じてくれるだろう?

「……」

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。

 同じ言葉が、同じ記号が、同じ思考が、頭の中をグルグルと駆け巡る。そしてボクたち
の間に横たわる沈黙の息苦しさが加速度的に増していく。

 ダメだ、やっぱり、綾波の前でウソつけない。
 
 でも、じゃあ、どうするっていうんだ。

 ……言うしかないよ。
 ……本当のことを。

 本気なの?

 だって、それしかないじゃないか。
 こういうのをうまく切りぬけられるほどボクは器用じゃないんだ。
 そんなの自分が一番分かってるじゃないか。

 でも、それにしたって……。

 いや、ダメだ。
 言え、言うんだ。
 いつまでもごまかしてはおけない。
 いつかは、それを言わなければいけない。
 だったら、早いうちに言ったほうがいい。
 そのほうが、いいんだ、いいんだよ……。

 …………。

「……ち、違うんだ。そうじゃなくて……。あの……ボクたち……しばらく……距離を置
いた方が…い、いい……と思うんだ」

 時が凍りついたような感覚はボクだけのものだったろうか?

 綾波の身体は微動だにしない。でも、途切れ途切れの言葉は確かに綾波の心に浸透して
いったはずだ。では、一体どんな反応が返ってくるのだろう。ボクは心理学者ではないし、
それまでこうした経験があるわけでもない。だからそんなこと分かるはずもないし、綾波
の様子を詳しく観察するほど悪趣味でもない。ボクにできたのは、ただ視線を床に固定し
たままで動かさないことだった。……いや、動かせなかった。

 数秒後、ボクの耳に綾波の言葉が滑り込んでくる。

「…何…言ってるの?」

「…………ボクたち……しばらく……会わないほうが……いいのかもしれない……」

「…!! なぜ?」

「ダメ……なんだ。今のままじゃ……ボクは綾波に……向き合えないんだ」

 腹から絞り出し、喉から吐き出すように声を発した。

 言って……しまった。

 本当によかったのか?

 今更……何だよ。
 そんなの、分かる……もんか。

「…どう…して、どうして、そういうこと言うの?」

「……それに、その方が……綾波のためでもあると思うんだ。綾波は……ボクに頼ってば
かりじゃ、いけないと……思うんだ」

 噛み合わない会話。ボクは故意に話題を逸らしていた。

 卑怯な言い訳だ。分かっているんだ。自分の問題なのにそれを認めるのが怖いから、こ
んな戯言を並べてる。綾波のためなんて、善意を装った振りをして本当のことから逃げて
いる。

 あいつらの言う通りなんだ。結局ボクは、自分勝手で、ずるくて、汚くて……

「……綾波を、縛り付けたくないんだ。……綾波は、もっといろんなことに目を向けた方
がいい。綾波はボクがいなくてもやっていけるようにならないと……。綾波は、ボクの人
形じゃないもの……」

 ……そして臆病なやつだから、綾波の目を見ることもできず、そんなことをただブツブ
ツと呟くばかりで……。

 そうだよ。こんな人間と一緒にいることなんてないさ。むしろボクなんていないほうが
いいのさ。ボクはこのままずっと綾波の前から消えてしまった方がいいのかもしれない。
綾波に嫌われてしまった方がいいのかもしれない……。

 ……。

 ……分かってる。それも言い訳だ。欺瞞だ。そうやって、自分のしていることを正当化
しようとしている。

「…何、言ってるの?」

 喉の奥から絞り出されたであろう綾波の声は囁き以上のものにはならず、かろうじてボ
クの鼓膜を震わせた。ボクの言葉から何かを感じ取ったのだろう。微かにその身体が震え
ているのが分かった。

 ボクの頭の中で何かがグルグル回っている。何かがボクの心臓を掴んで握りつぶそうと
している。辛い、辛い、辛い。綾波のこんな様子は見ていたくない。この部屋から一秒で
も早く抜け出したい……。

 そして、そんな自分を見つめる奴がいる。そいつは開かれた襖の向こうから、嘲笑を浮
かべ、ボクの様子を冷ややかに見つめている。

 そう、そして君は逃げるんだ。
 辛いことからね。
 恥じることはないさ。
 いつだって君はそうだった。
 きっとこれからもそうさ。
 いいんだよ、逃げても。
 君はそういう人間なんだよ。
 最近は、そういうことから一時的に目を背けていただけさ。

 ……

 消え…てくれよ……!

 ボクの心の叫びにも、そいつはどこへも行かない。当たり前だ。そいつはボクだ。自分
自身だ。ボクはただ腕を組み、吐き気がするような嫌な笑みを浮かべながらボクの様子を
伺っている。そいつからも、綾波からも、全てから逃げたかった。そう、逃げたかった。

「ごめ……ん」

「…いかり、くん?」

「行かなきゃ……」

「…どうして、碇君、イヤ」

「……綾波……分かって。……お願いだから」

 ボクは綾波から身体を離し、ゆっくりと腰を上げる。

 ひどいことしている? そうかもしれない。でも、でも、こんな気持ちのまま綾波とい
る方が、よっぽどひどいことしてるんじゃないだろうか。いつかもっと深く傷つけてしま
うんじゃないだろうか。だったら、今は辛くても、少しの間一人だけの時間を持って、そ
して……。

 ああ、また言い訳だ。
 ボクはどうしたらいい?
 分からない。分からないんだ。
 逃げたい、ただ、ここから逃げたい。

 立ちあがり、綾波に視線を向けることなく自分の部屋へと戻りかける。

「…ダメ」

 綾波がボクの背中にしがみついた。両手をしっかりとボクの胸に回し、絶対に離れまい
と。その身体が、腕が、小刻みに震えている。

 泣きそうになった。綾波のそんなところが、ひどく辛かった。

「…………綾波、ダメだよ……。もう、決めたんだ……。申請も出したんだ。ボクだって、
こんなこと言うのは、すごく……辛いんだ。でも……ダメなんだ。今のボクは……綾波と
一緒に……いられないんだ。だから……お願い。その手を…………離して……」

 その体に大きな震えが走り、少しの間を置いて、その手から徐々に力が抜けていく。ボ
クは、自分の胸の前で組まれた腕を静かに解いた。さして抵抗することもなく離れていく、
切ないくらいに細く白い腕。背後で、綾波がペタンと床に膝をついたのが気配でわかった。

 早足で部屋を出て、着替えを詰め込んだバッグを手に取ると、綾波の様子を視界に入れ
ないようにして玄関に向かう。

 背後から微かな嗚咽が聞こえてきた。
 でも、ボクは足を止めなかった。
 振りかえったら、決心が鈍る。
 きっとボクは、綾波を抱きしめてしまう。
 だから、ダメだ。
 今は行かなきゃいけない。
 その方が、いいんだ……。
 自分のためにも、綾波のためにも、その方が、いいんだ。

 …。

 ……。

 ………。

 そうなの?
 それでいいの?
 それは綾波のためなの?
 それはボクのためなの?
 
 根本的なことが、どこか狂っているような感覚を覚えた。

 でも、ボクには分からなかった。
 分からない気がしていた。
 何が分からないのか、それすら分からなかった。
 でも、確かに何かが間違っている。

 ただ頭の中を駆け巡っていたこと。
 一度今までのことを考え直さなくてはいけない。
 でも、そのためには彼女の傍にいてはいけない。
 彼女の優しさに甘えていてはいけない。
 それだけが強迫観念のようにボクの心を苛んでいた。

 そうだよ。
 これは別れじゃない。
 また戻ってくるために、どうしても必要なことなんだ。
 だから、綾波、今は辛いかもしれないけど、待っててほしいんだ。
 ボクを信じていてほしいんだ。

 ああ、でも、確信もなしに、どうしてそんなことが言える?
 もしも、もしも、ここに戻ってこれなかったらどうなる?
 だから、言えないんだ。
 怖くて、言えないんだ。

 玄関に出て、靴紐を結ぼうとする。普段何度も何度もやっているはずの動作。でも内心
の混乱を象徴するかのように、ボクの手は中々思い通りに動いてくれなかった。急激にふ
やけていく視界も障害となり、焦れば焦るほど、無駄な時間だけが過ぎていく。

 そのとき、玄関からダイニングに抜ける短い廊下に気配を感じた。視覚以外のものが伝
える感覚。ダメだ、こんなところを見せてはいけない。ボクは結ばれてくれない靴紐をそ
のままに部屋を出た。

 ボクは走った。そうすることで、もう戻れない状況に自分を追いこむために。

 既に日の暮れた街を、何かを求めてさまよう。今まで何度も通ってきた道を、綾波と一
緒に歩いてきた坂を、ただひたすらに走りぬける。出口のない迷宮に迷いこんだように、
どこに行っていいのか分からない。誰かと話をしたいけれど、誰とも会いたくない。会う
のが怖い。

 ……!!

 突然何かにつまずいて、道に叩きつけられる。地面に這いつくばったままの態勢で苦痛
が通りすぎていくのを待った後、ボクはゆっくりと体を起こし、そのまま座りこんで、目
の前のものをしばらく見つめた。

 それは、ほつれた靴紐は、今のボクたちの象徴のような気がした。いつかそれを、ボク
たちの絆を、しっかりと結び直せる日が来るだろうか。それともそれすらも、絆だと信じ
ていたものすらも、偽りだったというのだろうか?そんなものは存在しなかったというの
だろうか?

 ボクにとって、彼女と過ごしたあの時間は一体なんだったのだろうか?

 夜の帳はあまりに深く、進んでいくべき道も、その先にあるものも、ボクには見通すこ
とができなかった。


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