雨って冷たいんだな。

 空一杯にどんよりと立ち込める厚い灰色の雲と、そこから絶え間なく降り注ぐ雨の雫を
眺めながら、ふと、そんなことを思った。

 考えてみれば当然のことで、雨は空から降ってくる水のようなものなんだから、それを
冷たいと思うことは、できたてのシチューを熱いと感じるのと同じことだろうと思う。で
もそんな当たり前のことも、実際にそれを感じてみなければ案外気付かない、というか、
忘れてしまっているのかもしれない。

 目に見えること。目に見えないこと。目に見えていても忘れてしまっていること。世の
中いろんなことが組み合わさって出来ているんだな……。

(……なんて、現実逃避している場合じゃないよ)

 軽く首を振り、浮かんできた妙な考えを追い払う。どうもさっきから考えることが暗い。
さっきからやっていることが裏目裏目に出ているから、頭の中も今の天気と同じでどんよ
りとしてしまう。どうにか気分を変えられないかと、いろいろとしょうもないことに思い
を飛ばしたりもするけれど、それも結局は一時凌ぎに過ぎない。

「はぁ、カッコ悪いよね……」

 べつに聞いている人なんか誰もいないけれど、なんとなく口にしてみる。

 思えば、朝に天気予報をチェックできなかったのが最初のつまずきだった。

 明日は早出なんだけど、今目覚ましが壊れているから起こしに来てほしい。そんな風に
頼まれたから、ボクはその日、少しだけ早起きしてミサトさんの部屋に行った。ところが
そこで待っていたのは、声をかけようと屈みこんだボクの胸元への、寝ぼけたミサトさん
の強烈な足蹴だった。きっと目覚まし自体、壊れたのではなくて壊されたに違いないと思
う。

 散々苦労した後にミサトさんがやっと目覚めた頃には、あまり時間の余裕がなくなって
いた。けれど午前中から予定されていたテストに遅刻するわけにはいかない。何故って、
そういうときのリツコさんってちょっと怖いから……。だから急いで顔を洗って、歯を磨
いて、シャワーを浴びて、朝食を作って。そんなわけで、テレビの天気予報に注意を向け
る暇なんてなかった。そのおかげで、ということでもないだろうけど、どうにかテストは
時間通りに始めることが出来たのだけど。

「今、何時だろう……」

 持っていた携帯で確認すると、既に二十分以上も時間が経っていた。

『じゃ、すぐに戻るから待ってて』

 ついさっき自分で言ったその言葉を思い出す。

 実際そのつもりだった。こんなに時間がかかるとは思っていなかった。それなのに……。

 さっきから、髪を伝い顎の辺りから滴りおちる雫の感触が気持ち悪い。完全に体に張り
ついてしまった制服のYシャツ、ゴワゴワして足に纏わりつくズボンの感触もイヤだ。加
えて、歩くたびにゴポゴポ音を立てるスニーカーはそれに輪をかけて不快だ。まったく、
自分がさっきまでやっていたのは、水のシャワーを蛇口全開にして浴びているようなもの
だったと思う。悪いことに、服を脱がないままで。

「はあ……」

 と、もう一度溜息をつく。

 さっきまでボクたちがいたあの店はもう目の前だ。それと共に、逃げられない現実に向
き合う時が迫ってくる。だから、そろそろ腹をくくらなくてはいけないのだけれど……。

(ああ、もう、こんな所に突っ立っていたってしょうがないじゃないか。綾波はボクのこ
とを待っているんだから。男だろ、しっかりしろよな)

 無意識の内に沸き上がってきたその言葉に、ボクはまた溜息をつきたくなった。

(男だろ、か……)

 脳裏に浮かぶのは、あのときの会話、そしてあの青い空。

(そうなんだよなあ……。マヤさんたちとジオフロントを出たときには、あんなにいい天
気だったのに……)



I wish 7 -Be a man-



 シンジ君の環境適応能力ってとっても高いと思うわよ。

 それがいつのことだったか正確には覚えていないけれど、ミサトさんの車で本部から部
屋に帰る途中、そんなことを言われたことがある。右も左も分からない環境にいきなり放
り込まれて、エヴァに乗り使徒と戦い、数ヶ月前までは何の面識もなかったミサトさんと
一緒に暮らすようになって。それまで十四才の普通の中学生だったことを考えれば――そ
の過程は必ずしも平坦で真っ直ぐなものではなかったけれど――ボクは周りの状況によく
適応しているというのだ。

 どんな形でも自分のことを誉めてもらえるというのは嬉しいものだけど、正直なところ、
ボクはミサトさんの言葉に心から賛成することは出来なかった。例えば、多分これはミサ
トさんも薄々感じていることだろうと思うけれど、ボクは未だに、ミサトさんやリツコさ
んや父さん、そして第三新東京にやって来てから出会った人たちに対して、どうにも込み
上げてくるぎこちなさを感じることがあるのだ。

 何となく相手の顔色を伺ってしまう、その反応を気にしてしまう、自分が周りにどう思
われているのかというのが気になる。ボクの中にあるぎこちなさの原因の正体は、おそら
くそうしたことなのだけど、でもそれについて考えを巡らしてみると、それは何も第三新
東京に限ったことではないのだと気づく。何故ってそうした思いは、前にいた所でも常に
ボクの中にあったものなのだから。

 今までずっとそうだったのだし、きっとこれからもボクはそんな具合ではないのだろう
かと思う。だから、つい最近ボクの暮らしに起こった大きな変化とその原因に対して、ボ
クがそうした不安のようなものを感じていたのも全く不思議ではなかった。

 ボクの暮らしの大きな変化といえば、それはもちろん綾波がミサトさんの部屋にやって
きたことを言うわけで。綾波と一つ屋根の下で暮らすようになって数日が経ち、ボクは新
たな同居人がいる部屋の光景にもようやく慣れ始めていた。

 ただ、慣れ始めていたとはいうものの、新しいメンバーを加えたボクたちの生活には、
やはり最初はどうしてもぎこちないところがあり、例えば学校のことなどはその一つだっ
た。

 綾波とボクは同じ部屋に住んでいるのだから、当然学校に行くのも一緒ということにな
る。けれど学校までのけして短くない道程を、二人並んで歩いて行くというのがどうにも
できなかった。その結果として、毎朝家を出るボクの後ろを綾波が無言のまま付いてくる、
そんなことが続いていた。綾波と並んで教室に入りでもしたら、周りのクラスメートに何
を言われるか分からない。そんな恐れがボクにそうさせていたのだけど、そんな弱気な自
分に対して自己嫌悪を感じるのも事実だった。

 ただいくらそんな状況とはいっても、男子生徒と女子生徒がほぼ同じタイミングで教室
に入るということが数日も続けば、周りの目も段々と疑惑に満ちたものへと変わってくる
わけで。実際ボクの周りでも、トウジとケンスケが何となく訝しげな視線をボクへと向け
るようになっていた。

 だから週の真ん中の木曜日、一日だけポツンと孤立したかのような休日の日は、ボクに
とって、ほとぼりを冷ますという意味でありがたいものだった。

「あ! シンジ君、レイちゃん、二人ともこれから帰り?」

 午前中一杯と午後の2時間をかけて終了したシンクロテスト。

 その帰りに本部から地上に出るリニアを綾波と二人で待っていると、後ろからそんな風
に声をかけられた。声のした方を振り向くと、ニコニコしながらこちらに手を振るマヤさ
んと、ギターを肩にのせ、その後ろに従う青葉さんの姿が目に入る。

「あ、マヤさん、青葉さん。もう仕事は終わりなんですか?」

「うん、今日はあたし、もう上がりなんだ。だからこれから久しぶりに休日の午後を楽し
むってわけ。今からじゃあんまり時間はないんだけど、でも今日は地上はとってもいい天
気だったでしょ? あたしこういう日って、何だか外に出るだけで気分が弾んできちゃう
のよね。だから早く上に戻って、のんびりお買い物でもしたいな〜って思って」

 そう言って微笑むマヤさんは、横文字のロゴが入っただけのシンプルな白のTシャツに
青のスリムジーンズという格好で、背中には黒いリュックを背負い、右手には何かの紙袋
をぶらさげていた。そんなラフな格好と、トレードマークともいうべきショートカットの
せいだろうか、マヤさんにはボーイッシュという言葉が似合うよな、なんてことをふと思
ったりした。

「あ〜あ、マヤちゃんのそういうあっけらかんとしたところ、羨ましいよ。……やあ、シ
ンジ君、レイちゃん。テストお疲れ様」

 そんなことを言って、苦笑を浮かべつつマヤさんの方を見やる青葉さんは、黒いTシャ
ツの上にデニムシャツを羽織り、下はグレーっぽいズボンと薄茶系の革靴、そしてその肩
には黒いギターバッグが乗っている。そんな格好とよく似合う長髪のせいか、青葉さんは
隣のお兄さんという感じでとても若く見える。もっとも、本当の年が幾つかというのはよ
く知らないのだけど。

「あ〜、それってどういう意味ですか? それじゃなんだか、あたしが能天気なお気楽娘
みたいな言い方じゃないですか」

「あれ? それ以外に聞こえたかい?」

「あ、ひっど〜い。ねえシンジ君、今の聞いた? 青葉さんってひどいと思わない?」

「え? あ、はは、どう、でしょうね」

 軽口を飛ばす青葉さんと、む〜、という表情をしてボクを味方につけようとするマヤさ
ん。そんな二人の様子がなんだか可笑しくて新鮮だった。ミサトさんやリツコさんと比べ
れば、マヤさんや青葉さんとはそれほど話をする機会もなかったし、シンクロテストとか
戦闘シミュレーションという仕事を通じての二人は、いつも青葉二尉と伊吹二尉の顔と声
をしている。だから、ネルフ本部以外の場所でオペレーターの人たちと顔を合わせて話を
したり、こういう私服姿やいつもとは違った顔を見るというのは何だか不思議な感じがし
た。でもそれはきっと、一緒に暮らすまで綾波のことをよく知らなかったように、ネルフ
のスタッフの人たちにも、ボクの知らないいろいろな顔があるということなのだと思う。
普段は、それが見えないだけなんだ。

「もう、シンジ君ったら〜。こういうときは、嘘でも女性の味方をするものよ」

「す、すいません」

「いや、同じ男としてシンジ君は俺の味方をしてくれたんだよな」

「や、あの……」

「あ〜。じゃあ、いいもん。私はレイちゃんに味方してもらうから」

 そう言って、マヤさんは綾波の肩に腕を回し、自分のほうに少し引き寄せるようにする。
綾波はそんなマヤさんの仕草に、何となく困ったような様子でボクをチラリと見つめた。

「はは、ゴメンゴメン。まあ、ここは一つ停戦協定といこうよ。あっけらかんなのもマヤ
ちゃんのいいところってことでさ」

「もう。青葉さんって、いつもあんな風に私のことからかうのよ。失礼しちゃうわ」

「悪い、悪い。……お、いいところにリニアが来たぞ。続きは車内にしよう」

 そんな会話の後でリニアに乗りこむ。ほとんど人が乗っていない車内。四人がけの席に
二対二で向き合うような形でボクたちは腰掛けた。ボクと綾波が隣同士に座り、ボクの向
かいには青葉さん、そしてその隣にマヤさんという位置関係。四人ともそれぞれの位置に
収まりリニアが動き出すとほぼ同時に、マヤさんが会話の口火を切った。 

「ねえねえ、ところで聞いたわよ。シンジ君とレイちゃん一緒に暮らし始めたんだって?」

「や、一緒にっていうか……。ミサトさんもいるわけですし……」

「で、どうだい? 一緒に住んでみての感想は。葛城一尉やレイちゃんと同じ部屋で生活
するなんて、中々経験できることじゃないだろう?」

「はあ……。ミサトさんは、まあ、もう慣れましたから……」

 だらしないとことか、家事ができないとことか、他人をからかうのが好きだとか。口に
は出さないけれど、そんなことを思い浮かべる。

「じゃあ、レイちゃんとはどうなのかな?」

 弾むような口調でそう言って、楽しそうにボクに微笑みかけるマヤさん。青葉さんはマ
ヤさん程にストレートではないけれど、興味がないわけではなさそうだ。その顔には微か
な微笑みが浮かんでいる。

「あ、綾波は……」

 て、言われても、そういうことを本人の目の前で聞かれても困ってしまう。

「どうって……ねえ?」

 自分に向けられた好奇の視線と、何かを期待するような雰囲気を一時的にでも逸らせな
いだろうかと、助けを求めるように綾波に話しかける。それが自分に向けられた言葉だと
いうことに気付いたのか、綾波はチラリとボクに視線を向けたけれど、すぐにまた俯いて
しまった。

「……」

「……」

 一体この態度は何を意味するのだろう。胸の奥から込み上げてくる不安がハッキリとし
た形を取り始めた頃、マヤさんが再び沈黙を破った。

「じゃあレイちゃんから見てどう? 新しい部屋は気に入った? シンジ君とはうまくや
ってる?」

 さっきから本人の目の前でそういう質問を連発しなくてもいいのに。屈託なく綾波に声
をかけるマヤさんが、ほんの少しだけ恨めしい。ここでもしも、いいえ、なんて言われた
らどうすればいいんだろう。普通の人ならともかく、綾波の場合、グサッとくることをサ
ラっと言いかねないのに。

 綾波はマヤさんの問いかけにしばらく考え込むようにすると、やがて口を開いた。

「……これから、やります」

(へ?)

 ポツリと呟くような綾波の言葉に、その場の空気が少し固くなったように思えた。

(これからうまくやるって……。ひょっとして、今まではうまくやっていなかったってこ
と……?)

 思い当たることがあるとすれば、それはやはりついこの間のことだ。思わず変なことを
言ってしまったり、電車の中で持たれかかってしまったり。やっぱりあの時のことを怒っ
ていたのだろうか。ただそれが表には出ないだけで、本当は迷惑していたのだろうか。そ
れなのにボクは一人で浮かれていて……。

(うわ、そ、それって最悪だよ……)

 そんな風にボクが内心でグジグジやっている間にも、居心地の悪い気まずい沈黙がその
場を支配していた……かと思ったのだけど、そうはマヤさんが下ろさなかった。どうも、
固まっていたのはボクと青葉さんだけだったらしい。

「あ〜、そうよねぇ、その気持ち分かるなあ。うんうん、だってまだ引っ越したばっかり
だもんね。新しい環境に慣れるのって結構大変よね。でも、これから少しずつ慣れていけ
ばいいのよ。あたしもね、大学に入って一人暮し始めた時はそうだったなあ。何もかもが
新しいことばかりでさあ、戸惑いももちろんあるんだけど、なんていうのかなあ、孤独感
みたいなのをどうしても感じちゃうのよねえ。ここはあたしの場所なのかな、みたいな。
あ、でもね、あたしの場合そこで赤木先輩に会ったのが救われたかな。先輩って結構クー
ルそうに見えるけれど、ああ見えて世話好きなところもあってね……」

 時折身振り手振りを交えつつ、しばらくの間マヤさんが喋りつづける。

「……っていう感じで酔っ払っちゃったあたしを介抱してくれて、部屋に泊めてくれて、
一緒の布団で寝てくれて、次の朝は先輩が朝食を作ってくれてね〜。他人にそんなに優し
くしてもらうのって初めてだったから、あれはいろんな意味で嬉しくって、それに思い出
に残る一夜だったなあ。はあ、先輩……」

「「「……」」」

「あれ、みんなどうかしたの?」

「あ、いや、続けてよ、マヤちゃん……」

「……? 変なの。それはともかく、レイちゃんもそういう不安な時期なんだから、シン
ジ君がちゃんと支えてあげなきゃだめよ」

「あ、はあ……」

 自分の思い出話をしていたときのマヤさんは、伊吹二尉ではなくボクのよく知らない方
のマヤさん、普段着のマヤさんだった。でも、中途半端な返事を返すボクに向けられたそ
の表情は、一瞬だけど、伊吹二尉でも普段着のマヤさんでもないもの、ボクが今までに見
たことのないマヤさんになったように思えた。

 けれど、少しトーンの抑えられたその声が次の瞬間には一気に跳ねあがり、再び笑顔と
共に会話が始まる。

「……あ、そういえば先輩で思い出した。ねえ、先輩から聞いた話なんだけど、葛城一尉
のところではシンジ君が家事をやってるんだよね。どう、レイちゃん、シンジ君のお料理
は?」

「…問題ありません」

「美味しい?」

 無難な答えを返す綾波に、もう一歩つっこむマヤさん。

(いや、だから、本人のいるところであんまりそういうことは……)

 ずばりと切りこむその言葉に、ひょっとしたらこの人もミサトさんと同じ系統の人なの
だろうか、などと少し失礼なこと?を思ってしまう。

 問われた側の綾波は少し首を傾けてボクの方を見つめ、ほんの少し困ったような表情を
浮かべた。

「いや、あの、そこでボクを見られても……」

 ボクだって困ってしまう。なるほど、さっきの綾波もこんな心境だったのかもしれない。
そんな風に見られたって何と言っていいのか分からないってやつだ。

「もうシンジ君のお料理は食べたんでしょう?」

「…はい」

「どうだった?」

 堂々巡り。再びボクに向けられる視線。

「あの、あんまり美味しくなかったんなら、そう言ってくれていいよ……」

 マヤさんの疑問はボク自身知りたいと思っていたことだ。でも、正直それを聞くのはと
ても怖いことだから。だからそんな中途半端な物言いで、最悪の事態に少しでも自分の心
を備えさせようとする。それが自分のやり方。今までずっとそうしてきた。期待してしま
うと、裏切られたときに辛いから。

 でも少しの間ボクを見つめた後で、綾波は無言のまま僅かに首を振った。その仕草に、
最悪のシナリオはどうにか避けられたのだとホッと安堵の溜息をつく。

(よかった……。とりあえず口に合わないってわけじゃないみたいだ)

 口に合わないと美味しいの間には、嫌いじゃないと好きの間にあるのと同じ位の距離が
あるものだろうけれど、この際そこまでの幸せは望まない。

「ふ〜ん、じゃあさあ、今度シンジ君の家に行ってもいいかなあ?」

 ちょっと小首を傾げ、明るい微笑みを浮かべながら、途切れた会話を修復したのはやっ
ぱりマヤさんだった。

「へ? ボクの家に、ですか?」

「うん、前からね、一度シンジ君のお料理食べてみたいなあって思ってたのよね」

「ええ、あの、それは別に構いませんけど……」

 でも、ミサトさんの許可を取らないと……。と言う間もなく、マヤさんが軽い歓声をあ
げた。

「ホント? やったあ。じゃあ、今度先輩と一緒にお邪魔するね。実はね、技術部でちょ
っとした噂になってるの。シンジ君の料理はすごく美味しいらしいって。それでみんなで
ね、一度シンジ君の家にお呼ばれされてみたいなあって話してたの」

「ああ、日向さんともたまに話すんだけど、作戦部でも似たような噂があるらしいよ」

「へ〜、そうなんですかぁ」

「うん、それで今じゃ葛城一尉はほとんど家事をしていないって話なんだけど……。本当
なの、シンジ君?」

「あ、はい。前は当番表みたいなのがあったんですけど、いつの間にかどこかになくなっ
ちゃってました」

「ははは。じゃあ噂は本当だったんだ」

「そういえばさ、先輩がたまにぼやいてるんだけど、葛城一尉の料理って、何ていうか、
その、そんなに壮絶なの?」

「あ、え〜と、あんまり美味しいとは言えないかも……」

 苦笑いを浮かべながらそんな答えを返す一方、内心では深く頷く。葛城家名物「ペンギ
ン殺し」。あれは忘れられない。

「へ〜、そうなんだ。やっぱり葛城一尉も万能ってわけじゃないのね。……あ、シンジ君、
レイちゃん、あたしがこんなこと聞いたっていうのは、葛城一尉には内緒にしてね」

 いけないっというような表情で舌を出し、両手でボクを拝むような格好をするマヤさん。
すると今度は、青葉さんがその長髪のようにサラッとした口調で、突然爆弾を落とす。

「葛城一尉といえば、今回の件は、レイちゃんと一緒に住みたいって、シンジ君が葛城一
尉に頼みこんだんだって?」

「え?! だ、誰ですか、そんなこと言ってたの!?」

「誰……っていうか。なんか、そんな噂があるけど?」

「ち、違います、そんなんじゃないんです。今回のことは、そりゃ、あの、綾波が家にく
ることには賛成しましたけど、でも、頼みこんだとかそういうことじゃなくて、ボ、ボク
は、ただ……」 

「「ぷ……」」

「「あっはっはっはっは」」

 支離滅裂でしどろもどろなボクの言葉が途切れると、青葉さんとマヤさんが堪えきれな
くなったかのように声をあげて笑い出した。そんな二人の様子に少し呆気に取られるボク。
どうしたんだろう、二人とも。突然笑い出しちゃったりして。

「あ、あの、どうしたんですか?」

「っくっく。ああ、ゴメン、シンジ君。いや、でも、本当に葛城一尉の言う通りだなって
思ってね」

「ふふ、笑ったりしてゴメンね。でも、本当にその通りなんだもん」

 未だに状況が掴めず、少しポカンとしているボクの様子を見て、青葉さんが軽く目尻を
拭いながら説明してくれた。

「いやホント、ゴメンな、シンジ君。でも葛城一尉がさ、そういう風に言うとシンジ君が
すごくうろたえて、その様子を見ているのが楽しいっていうからさ」

 そんな青葉さんに調子を合わせるかのように、マヤさんもフォローを入れる。

「ゴメンなさいね、でも、私たちも葛城一尉も悪気はないのよ」

「はあ……」

 そう、今までそのことに気がつかなかったのは迂闊だった。ミサトさんのことだ。ボク
の家での行動はミサトさんを通じてネルフの人たちにも筒抜けなのかもしれない。

「……あの、ミサトさんって、ネルフでもそういう話をしたりするんですか?」

「そうねえ。あたしとは部署が違うから詳しくは知らないけれど、先輩とは結構そういう
話しているみたいよ」

「そういえば、葛城一尉が言ってたよ。この間は二人で出かけて、遅くなるまで帰ってこ
なかったんだって?」

「や、あ、あれは、違うんです。ボクたち電車の中で寝過ごしちゃっただけで……」

「ふふ、そうだったの? じゃ、今日はどうなのかな? 二人はひょっとしてこれからデ
ートにでも行っちゃうの?」

「そ、そんなことないですよ!」

「ははは、シンジ君。そんなにうろたえると、かえって怪しまれちゃうぞ」

「そうね、葛城一尉にまたからかわれちゃうわよ」

 二人にも、ではないのだろうか。楽しそうな微笑みを浮かべる二人に少し頬が赤くなる。

「ミサトさんって、いっつもそういうことでボクをからかうんですよ……」

「そうなんだ。でもね、シンジ君やレイちゃんのことを話す葛城一尉って、すごく楽しそ
うに見えるわよ。そんな様子をみていると、きっと葛城一尉も今の生活が気に入っている
んだろうなって、そんな風に感じるわ」

「そうだな。なんだか年の離れた弟と妹が出来たみたいで嬉しいって言っていたっけ」

 それまでの笑みは収めつつも、柔らかい表情のままでそう言う二人。すると、まるでそ
れが何かのスイッチだったかのように、ボクの中からは恥ずかしさや照れといった気持ち
が消えていき、そしてその言葉をとても嬉しく感じている自分がいた。

『それって家族ってことだろ』

 いつかケンスケがポツリと漏らした言葉がふと脳裏に蘇る。

 そう、ミサトさんはいつもふざけたり、からかったり、はしゃいでばかりだ。だから、
そんな表の顔に覆われて、それがよく見えなくなるときもある。けれどその裏では、きっ
とボクたちのことを考えてくれている、ボクたちのことを思ってくれている。でなければ、
ボクや綾波を引き取ったりするわけがないじゃないか。

 ミサトさんってそういう人だ。ボクたちの前でいつもそういうことを口にするわけでは
ないけれど、でも、どこの家族が、自分たちは家族なんだ、なんていつも言葉に出して確
認するというのだろう。

「でも、あれよね。葛城家では男の子はシンジ君だけなんだから、何かあったらシンジ君
がいろいろと頑張らないとね」

「そうだな。葛城一尉はともかく、レイちゃんに何かあったときには、シンジ君がしっか
り守ってあげないとな」

「レイちゃんも、何か困ったことがあったらシンジ君を頼るのよ」

「そうそう。男ってのはさ、女の子に頼ってもらうのって、結構嬉しいもんだからさ」

「…はい」

 一瞬息が止まる。

 すぐ隣に座る綾波の言葉を理解するのには、少し時間が必要だった。

 はい。承諾、了解の言葉。何を了解したんだろう、綾波は。……決まってる。何か困っ
たらボクを頼るってことだ。そうか、そうなんだ。何かあったら綾波はボクを頼るんだ。
なるほどね……。

(って、そうじゃないだろ!?)

 恐る恐る首を傾けて綾波の様子を伺うと、その視線に気がついたのか、綾波がボクをチ
ラリと横目で見つめる。

(綾波が、ボクに……?)

 そうしなさいと言われたから、ただ単に綾波はそれに返事を返しただけなのだろうか。
それとも綾波の言葉は、文字通りそのままの意味を持っているのだろうか。一瞬の交錯の
後、再び下に向けられたその視線からは、何の感情も読み取ることが出来なかった。それ
だけに何を考えているのか分からず、どこか不安になってしまう。

「ほらね、シンジ君。レイちゃんもシンジ君のことは頼りにしてるんだから、男の子とし
てしっかり支えてあげないとダメよ」

「いや、でも、ボ、ボクが他人を支えるなんて、そんなこと……無理ですよ……」

 そうだよ。だって、自分自身のことすらしっかりとできないボクに、どうして他人のこ
となんか支えられるっていうんだろう。今までそんなことは考えたことすらなかったし、
自分の中にそんな強さがあるなんて、冗談でも思えない。あまり口にはしたくないことだ
けれど、むしろ、誰かに支えてほしいのは自分のほうなんだ……。

「シンジ君」

 そんな風に自己嫌悪モードに入りかけたボクに対し、マヤさんが少し抑えたトーンの声
で語りかけた。

「別にね、そんなに難しく考えることはないと思うわ。レイちゃんが何か困っていたら助
けてあげる、何か自分にできることがあったらしてあげる。そういうことでいいんじゃな
いかしら。例えそれがちょっとしたことだとしても、でもそこに頼れる人がいるっていう
ことは、それだけでとても大きなことだと私は思うわ」

「はい……」

「でしょ? だからレイちゃんも、何かあったらシンジ君の好意に思いっきり甘えちゃい
なさいね。青葉さんのいう通り、誰かのためになれるって感じられるのは、とても嬉しい
ことだから」

 マヤさんが少し目を細め、優しい声で綾波に話しかける。

「…はい」

「ふふ。シンジ君しっかりね」

「で、でもマヤさん。甘える、なんて、そんな……」

「あ、やだ〜、照れちゃって〜。シンジ君可愛い〜」

 マヤさんがそんな声を上げ、ボクが少し赤面していると、リニアがゆっくりと減速を始
めた。どうやら地上が近いらしい。トンネルを抜けると、闇に包まれた窓の外の光景が一
瞬にして一面の青空に変わる。

「わ〜、やっぱりお日様の光っていいわよねえ」

「あんまり地中に篭りっきりなのも健康的じゃないよね。さ、て、じゃあ、そろそろ降り
る支度をしようか」

 ゆっくりとスピードを落とし、ホームに滑り込んでいくリニア。完全に停車したのを確
認した後、ボクたちはゆっくりと腰を上げた。

「じゃ、シンジ君、レイちゃん、バイバイ。また本部でね」

「うまくやれよ、お二人さん」

「あ、はあ、さよなら……」

「……」

 ホームでそんな言葉を交わした後、マヤさんと青葉さんの後ろ姿が遠ざかっていく。二
人ともここで環状線に乗り換えてどこかに行くらしい。その姿を見つめるボクの脳裏には、
さっきの会話の残像がまだユラユラと漂っていた。

(男として支えてあげる、か……。ボクはあんまりそういう柄じゃないと思うけど……)

 でも、もし、もしそういうチャンスがあったなら……。

(頑張ってみるのも……悪くないかもしれないよね……)

 そんな、決心と呼ぶには少し軽すぎる思いがボクの中で生まれ、それと同時に、心の片
隅でポッと小さな灯りが灯されたような、そんな気分になった。その微かな灯りは、臆病
なボクの心の中に、一筋の希望と不思議な温かさを生み出したような、そんな風に思えた。

 マヤさんと青葉さんの背中が駅の建物の陰に消えた後、ボクは振りかえり綾波に尋ねた。

「あの、これからどうしようか。綾波は何か予定でもある?」

「…別に」

「じゃあ、どうする? このまま夕飯の買い物して帰ろうか?」

 そして部屋に帰ったあとは、夕食までお互いの部屋でゴロゴロすることになるだろう。
そう思ったけれど、一応綾波にも聞いてみる。そんな何気ない問いかけに、綾波は少し俯
き視線を落とすと、すぐにまたボクの方を見つめた。

「…お茶」

「……え?」

「…街に出て、お茶を飲む」

 これは現実だとは分かっていても、それでも自分の耳を疑わずにはいられなかった。

「……お、お茶?」

「…ええ」

「あ、あの、お茶って、でも、どうして……」

「…赤木博士が、そう言っていたから」

 やっぱりこれって何かの間違いじゃないのだろうか。事情がさっぱり飲みこめず、その
場に茫然と立ちつくしていると、どこからか湿った風が吹きつけて、ボクの前髪をブワっ
とかきあげた。



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